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第7話

Author: 夜野小宝
奥さんからの電話だ!

絵理の表情が一瞬こわばった。

彼女は素早く薬の入ったビニール袋を掴み、ドアを押し開けて車から降りた。だが、不意に足がドアにぶつかった。

「痛っ!」

鋭い痛みが走り、思わず声を上げてしまった。

声を出した瞬間、絵理はハッと気づき、とっさに口を手で塞いだ。そして、驚いたように純也の方を見た。

しまった!

今の声、奥さんに聞こえただろうか。

「あなた、女と一緒にいるの?」案の定、次の瞬間、車内に冷たい女の声が響いた。

ここで説明しても、余計にややこしくなるだけだ。

絵理は申し訳なさそうに純也を見つめると、すぐさま車を降り、逃げるようにその場を去った。

足を引きずりながら歩き出したが、バランスを崩して転びそうになり、なんとか踏みとどまる。そして痛みに耐えながら、再び前へ進んだ。

淡い街灯が彼女の華奢なシルエットを照らした。その揺れる腰つきは柳の枝のようにか弱く、思わず抱き寄せたくなるほど儚げだった。

「ねえ、どうして黙ってるの?一体どこの女と一緒にいるの?」

絵理の小さな姿がマンションの入り口で消えていった。

純也はゆっくりと視線を戻し、冷ややかに言い放った。「百合子、お前、頭おかしいのか?」

電話の向こうで、女はくすっと笑った。「別に邪魔するつもりはなかったのに、そんなに怒らなくてもいいでしょ?ねえ、さっきの女、新しい恋人?」

「用がないなら切るぞ」

「待って待って、ちゃんとした用事があるの」

彼が決めたことに口出しはできないと分かっている安間百合子(あんま ゆりこ)は、すぐに冗談をやめた。「真面目な話よ。来月帰国するの。空港まで迎えに来てくれる?」

純也は冷笑し、「百合子、俺たちは契約結婚の関係だって、もう一度思い出させてやろうか?お前の私事に付き合う義理はない」

そう言い捨てると、彼は相手に反論の隙を与えず、一方的に電話を切った。

遠くのマンションの一室に、暖かみのある灯りがともった。カーテンが閉められていて、中の様子は見えない。

純也はしばらくその窓を見つめていた。

やがて黙って視線を外し、エンジンをかけた。車は静かに走り出し、深い夜の闇へと溶けていった。

……

絵理が部屋に入るなり、親友の清水音葉(しみず おとは)が興奮気味に駆け寄り、勢いよく抱きついてきた。

「絵理ちゃん、さっき送ってくれたの、新しい彼氏?すごいじゃん、あの人、マイバッハに乗ってたよね!めちゃくちゃお金持ちじゃない!」

絵理は顔を歪めて言った。「足、痛めてるの。まず座らせて」

「えっ?どうしたの?ちょっと、支えるよ」

二人はソファに腰を下ろし、絵理は足を痛めた経緯を簡単に説明した。音葉を心配させたくなくて、「階段で転んだだけ」と軽くごまかした。

少し間を置いて、彼女は尋ねた。「それより、新しいドラマの話はどう?本当に四番手の役はもらえたの?」

音葉は一気に表情を曇らせ、「聞かないでよ。コネ持ってる子が入ってきて、あたし、降ろされたの」とため息混じりに答えた。

絵理と音葉は大学時代の同級生で、卒業後にこの部屋を一緒に借りて暮らしている。音葉は芸能界で頑張っているものの、コネも資金もなく、なかなかチャンスに恵まれなかった。

絵理はそっと彼女を抱きしめ、「落ち込まないで。次はきっと、いい役が回ってくるよ」と慰めた。

「もう慣れたけどね」音葉は苦笑しながら、「まあ、あたしのことはいいよ。それより、新しい彼氏の話しようよ。いつ出会ったの?」

「彼は彼氏じゃないよ。うちの会社の社長で、それに既婚者」

「結婚してるの?」

音葉の顔色が一変し、苛立ったように言った。「既婚者なのに家まで送ってくるなんて、そういう男って絶対に若い子を騙すのが好きなのよ!絵理ちゃん、絶対引っかかっちゃダメ!いっそ会社辞めて、あのクズ男から離れなよ!」

絵理は首を横に振った。「安間グループの給料はいいから、今は辞められないよ。でも大丈夫、私はちゃんと分かってるから」

純也は別に彼女を騙しているわけではない。ただ、彼女が遠ざかるべき相手なのは確かだった。

でも今夜、ちゃんと線引きをした。純也もこれ以上関わってこないだろう。

音葉は彼女をじっと見つめ、複雑そうな表情で言った。「絵理ちゃん、まだ宮崎のやつを待ってるの?」

その名前を聞いた瞬間、絵理は一瞬動きを止め、目の奥に複雑な感情がよぎった。

音葉はその表情を見て、切なそうに彼女の肩を叩いた。「絵理ちゃん、彼がこんなにも長い間連絡してこないのは、わざと姿を消したってことよ。もうキミとは終わりにしたいんだって。目を覚まして、前を向かなきゃ」

宮崎文哉(みやざき ふみや)は、絵理が2年間付き合っていた恋人だった。しかし、2か月前に突然姿を消し、彼女はあらゆる手を尽くしたものの、彼の行方は依然わからない。

時々、絵理はまるで文哉という人間を最初から知らなかったかのような錯覚さえ覚えることがあった。

……

その後の二日間は週末だった。絵理は家で休み、月曜日には足の痛みもほとんど引いていた。

会社に着くとすぐに、絵理は給湯室で噂話をしていた数人の女性社員が解雇されたという話を耳にした。

純也が彼女たちを解雇するとは思わなかったが、よく考えれば当然だった。彼が噂のことを知っていたなら、怒って当然だし、関係者を切るのも当然のことだった。

絵理とアンナが揉めた上に、噂を流していた社員たちもいなくなったことで、社内ではもう彼女と純也についての話は誰も口にしなくなった。

だが、アンナは完全に絵理を恨んでいるようで、仕事を口実にして彼女に大量の資料整理やデータ処理を押し付けてきた。

正当な理由がある以上、絵理は何も言わず、一日中忙しく動き回る羽目になった。

退勤時間が近づいた頃、絵理は社長室の前に立った。

純也に借りを作りたくなかった。だから、治療費を返すつもりだった。

社長室のドアは半開きになっていた。絵理がノックしようとした瞬間、中から女の甘ったるい笑い声が聞こえてきた。

「社長、すごくいい温泉があるんです。今日も一日お疲れでしょう?場所を予約しますから、一緒に行きませんか?」

アンナの声だった。

絵理は目を細めた。

ドアの隙間から、彼女の位置から見えるのは黒とグレーのスラックスを穿いた男の脚、そして赤いハイヒールを履いた女の素足だった。細い足首が男の脚に絡みつくように触れており、なんとも艶めかしい光景だった。

純也は何も言わなかったが、アンナの艶めかしい誘惑を避けようともしなかった。まるでアンナの挑発を楽しんでいるかのようだった。

大人の遊びなんて、言わずとも分かることだ。

絵理はそっと視線を外し、その場を離れた。

まさか純也とアンナがあんな風にいちゃついているところを目にするとは思わなかった。

既婚者でありながら、他の女と平然といちゃつくなんて、純也は妻の気持ちなんて少しも考えていないのだろうか?

きっと気にしていないのだろう。でなければ、あの夜、バーレットで彼女と……

金を持つ男には遊ぶ余裕がある。誠実な者など、ほんの一握りだ。

だが、所詮これは他人の問題だ。彼女が口を挟む権利なんてない。

会社を出た絵理は、バスに乗り、バーレットへ向かった。

大学3年生の頃から、彼女はここでバーテンダーのアルバイトをして生計を立てていた。

「ねえ、本当に考え直さない?嘘じゃないわよ。あんたみたいな美人なら、たった半月で店のナンバーワンにしてあげる。そうなれば、この先一生お金に困ることなんてないわよ」

バーのオーナーである茜(あかね)は、赤いキャミソールドレスを身にまとい、美しく絵理に向かって煙を吐き出しながら言った。

絵理は首を横に振った。「茜さん、あれは一度きりです。これからは普通に働いて、お金を稼ぎたいんです」

茜は特にしつこくはせず、「そう。まあ、もし気が変わったら、いつでも来な」と軽く流した。

少し間を置いてから、茜はクスッと笑いながら冗談めかして言った。「で?あの夜はどうだったの?あのお坊ちゃま、腕は良かった?」

絵理の顔が一気に真っ赤になった。「茜さん……」

「あら、こりゃ相当良かったみたいね」

茜は意味ありげな笑みを浮かべながら、少しからかって、それから客の対応に向かった。

絵理の顔は火照ったまま。どれだけ意識して振り払おうとしても、あの夜の情景がどうしても頭の中に蘇ってしまう。

実は、今でも少し痛みが残っている。

純也は上手いどころの話じゃない。あまりにも圧倒的だった。

ちょっと待って、私ってば何を考えてるの!

絵理は小さく頭を振り、そんな雑念を振り払うと、気を引き締めてバーの制服に着替え、仕事に取り掛かった。

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    純也は上機嫌で眉をわずかに上げ、片腕で彼女の腰を抱き寄せながら、携帯を取り出し雑賀に電話をかけた。署長を病院に連れてこいと命じた。雑賀の動きは素早く、30分後には署長を連れてきた。雑賀が病室に入った時、純也は絵理を膝の上に乗せたまま、経済ニュースに目を通していた。絵理の方は携帯でドラマを見ながら時間を潰していた。絵理は最初、こんな風に抱えられるのが嫌で何度か拒んだが、全く聞き入れてもらえなかった。ノックの音が聞こえると、彼女は慌てて膝から降りようとした。だが、腰に回された腕が急に強くなり、純也が冷ややかな目で見下ろした。「どこへ行く?」「安間社長、早く離してください。誰か来ましたよ」絵理は恥ずかしそうに言った。「だから何だ?じっとしてろ!」純也は涼しげな表情のままだったが、その口調はどこまでも強引だった。絵理は黙り込んだ。「……」こんな姿を見られるのは気が引けたが、純也が全く手を離す気配を見せないため、仕方なくそのまま動かずにいた。「入れ」許可を得ると、雑賀がドアを開けて入ってきた。ソファに並んで座る二人の姿を見て、一瞬驚いたような表情を浮かべ、その後、意味深げな視線を絵理に向けた。本来なら今日の朝、空港へ向かう予定だった。だが、昨日の未明に純也が予定を変更すると聞いた時、雑賀は「きっと立花が理由だろう」と察していた。そして、それは間違いではなかったようだ。純也さんは常に公私を分け、何よりも仕事を優先する男だ。それなのに、たかが一人の秘書のためにスケジュールを変更するなんて、どうやら立花にとって本当に特別扱いらしいな!雑賀のからかうような視線に気づき、絵理の顔が赤くなった。何も言わず、そっと視線を落とした。「社長、こちらが警察署長の黒瀬さんです」雑賀の後ろには、黒い制服に身を包んだずんぐりとした中年男が立っていた。純也は淡々とした表情で、「黒瀬署長、お会いできて光栄だ。どうぞ座れ」と言った。黒瀬署長は恐縮したような表情を浮かべ、慌てて応じた。「安間様、ご無沙汰しております。以前、霧島様の家宴でお会いしましたね、はは、またお目にかかれて光栄です」彼はソファに腰を下ろし、少し間を置いてから口を開いた。「安間様、ご安心ください。昨夜の交差点での件ですが、すでに全て処理しました。あなたと関係があると知る

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    しばらくして、純也が洗面を終えて部屋から出てきた。シャツのボタンを留め直しながら現れた彼は、まだ皺の残る服を着ていたが、それでも先ほどより整った印象を与え、どこか厳格な雰囲気と距離感が増していた。男は彼女の正面に腰を下ろし、テーブルの上の食事を一瞥すると、遠慮もなく彼女の前にあったワンタンスープの器を手に取った。絵理は一瞬呆気にとられ、「それ、私のなんですけど」と口を開いた。卵スープを飲み終えたら食べようと思っていたのに!純也は冷ややかに目を上げた。「金を払ったのは誰だ?」男の傲慢で冷徹な声には圧迫感があり、「取れるものなら取ってみろ」とでも言いたげだった。「……」絵理は何も言えず、未練がましくワンタンスープを見つめた。VIP病棟の入院費は自分では到底払えない。彼が出した金なのだから、仕方ない、譲るしかない。純也は別にワンタンが食べたかったわけではなかった。ただ、彼女が名残惜しそうに見つめる姿がやけに目につき、意地悪な気持ちが湧いてきた。そうなると、余計に食べたくなるものだ。スプーンを手に取り、ワンタンを一つすくって口に運ぶ。強引に奪ったからか、それとも彼女の悔しそうな顔のせいか、純也は妙にこの味が悪くないと感じた。静かで、どこか奇妙な空気が漂う中、食事は終わった。絵理はコップに水を注ぎ、それを純也の前にそっと置いた。にこりと笑いながら、「安間社長、お水どうぞ」と言った。純也は軽く眉を上げた。「何のつもりだ?」絵理は口元をわずかに上げて言った。「昨日の約束、加奈惠さんを助けてくれるって言いましたよね?」加奈惠は心臓病を抱えている。刑務所にいる時間が長引くほど、危険も増す。一刻も早く救い出さなければならない。澄んだ瞳がキラキラと輝きながら彼を見つめてくる。純也はどこかおかしくなり、面白そうに片眉を上げた。「立花、お前は一杯の水で男に頼みごとができるとでも思ってるのか?」水を一杯出すだけで頼みを聞いてもらえるなんて、まるで子供の発想だ。せっかくの美しい顔が台無しだな。「昨日、約束したでしょう?」まさか、ここにきて話を反故にするつもりか?澄んだ瞳はあまりにも美しく、純也の視線は無意識のうちに彼女の薄紅色の唇へと落ちた。柔らかな色彩と完璧な形が、妙に艶めかしく映る。口の中が乾いたような感覚を

  • 未熟な秘書、商界の大物に愛されて   第28話

    「夏川さん」「絵理、昨夜安間さんのところへ行ったの?彼と一緒にいたの?」知美は焦った声で問い詰めた。絵理は一瞬固まった。彼女の短い沈黙が、夏川夫人には絵理が約束を破ったように映ったのか、声を荒げた。「絵理!昨日、あなたわたしに何て言ったの?ちゃんと約束したじゃない!嘘つく気!?わたしたちは何年もあなたを支えてきたのよ!それなのに、わたしたちを見殺しにする気!?恩を仇で返すつもりなの?」この言葉は昨夜も何度も聞いた。絵理は静かに息を吸い込み、「夏川さん、安間社長とは話をつけました。彼が助けてくれるって」と答えた。「本当に?嘘じゃないでしょうね?」夏川夫人の声には疑念が混じっていた。「本当です」「じゃあ今日、加奈惠に会えるのね!」夏川夫人は待ちきれない様子だった。絵理は唇を噛み、言った。「今日中に助けてもらえるように頼んでみます。何か分かったらすぐ連絡します」「絵理!絶対に今日中に安間さんに助けてもらって!加奈惠はもう待てないの!お願いだからちゃんと安間さんと話しつけて!今日中にどうにか加奈惠を助けて!」電話を切ると、純也はまだ眠っていた。絵理は軽く洗面を済ませると、病室を出て看護師に食事があるか尋ねた。昨夜、何も食べられずに嘔吐したせいで、今や空腹が極限に達していた。院長から「立花さんを手厚く世話するように」と直々に指示が出ていたため、この階の医師も看護師も彼女に対して特別な対応をしていた。すぐに食事を用意すると約束した。ほどなくして朝食が運ばれてきた。消化に優しいお粥、ふわふわの卵蒸し、小さなミルクケーキ、栄養価の高い漬物、ワンタンスープ……所狭しと並べられた朝食の品々が、テーブルを彩った。絵理は空腹のあまり、スプーンで卵蒸しをすくい、口に運んだ。ふわりとした舌触りに、思わず「ん、美味しい」と呟いた。長時間何も食べていなかったせいか、いつも以上に美味しく感じられ、次から次へと口へ運んだ。その時、微かな物音が聞こえ、絵理は顔を上げた。純也が静かに部屋から出てきた。昨夜のままのシャツを身に着けており、彼女が外した三つのボタンの隙間から、鍛え上げられた胸筋が覗いている。高級なシャツは肩に無造作にかかり、黒髪は寝癖で少し乱れていたが、それでも彼の冷たく圧倒的な雰囲気を損なうどころか、むしろ色気を帯びた無

  • 未熟な秘書、商界の大物に愛されて   第27話

    絵理は少し暑さを感じ、そっと体をずらして距離を取ろうとした。その時、突然胃に激しい不快感が襲い、思わず唇を押さえた。もう片方の手で布団をめくろうとする。しかし、純也の腕があまりにも強く抱きしめていたため、彼女の動きはまるで男に甘えるような仕草に見えた。純也は彼女の無意識な動きに刺激され、下腹部に熱がこもるのを感じた。眉をひそめて目を開け、危険な視線を向ける。「立花、お前ほんとに壊されたいのか?」これ以上動けば、もう理性を保てる自信がなかった。今夜は手を出すつもりはなかったが、もし彼女が望むなら、それに応じてやるのも悪くない。絵理はたまらず眉を寄せ、かすれた声で言った。「安間社長、私……吐きそう……」……バスルームの中、絵理は便器の縁を必死に掴みながら激しく嘔吐した。まるで内臓まで吐き出してしまいそうなほどだった。ようやく吐き終わると、彼女はトイレの傍らにぐったりと座り込んだ。顔色は紙のように真っ白だった。純也は眉をひそめながら彼女を抱き上げ、洗面台のそばに座らせた。タオルを手に取り、彼女の唇をそっと拭いた。絵理は申し訳なさそうに言った。「安間社長、ごめんなさい。休ませてあげられなくて」「少しはマシになったか?」純也は眉間にしわを寄せて尋ねた。「はい……吐いたら、少し楽になっりました……」「我慢しろ、医者を呼ぶ」「大丈夫です、先生が言ってました。脳震盪のせいで吐き気がするのは普通らしいですから」絵理は小さな手で純也の袖をそっと掴んだ。純也は一瞬彼女を見たが、何も言わずにタオルを投げ捨て、コップに水を注いで彼女に差し出した。「ありがとうございます」絵理は水を口に含み、静かに口をすすいだ。ふと鏡を見ると、そこには冷たい美貌を持つ男の姿が映っていた。彼女の瞳に、言いようのない複雑な感情が宿る。最初は純也が冷酷なだけの人間かと思っていた。でも毒舌で皮肉屋な一面もあって、そして今、こうして細やかに世話を焼く姿を見てしまった……安間という男は、一体何者なのか?「何見てるんだ?」隣から冷たい声が響いた。絵理はハッと我に返り、いつの間にか純也をじっと見つめていたことに気づいた。気まずそうに首を振り、誤魔化した。「ん、なんでもないです。ただちょっと、くらっとしただけで」「ざまあないな!道路を渡る

  • 未熟な秘書、商界の大物に愛されて   第26話

    疲れたのか?あの連中と駆け引きしながら、あの女が必死に媚びを売り、演技をするのを眺める……純也は疲れなど感じていなかった。こんな場面には、とうの昔に慣れ切っていたからだ。だがなぜか、目の前の女の澄んだ瞳を見つめていると、不意に疲れを覚えた。純也は目を細めると、突然手を伸ばし、絵理の手首を掴んで自分の胸に引き寄せた。負傷した部分を避け、決して痛めつけることはなかった。男は大きな体をベッドに横たえ、逞しい腕で彼女の細い腰をしっかりと抱き寄せた。「少し疲れた。添い寝しろ」VIP病室のベッドはダブルサイズで、二人が横になっても窮屈にはならない。絵理は純也の胸に抱かれながら、目の前に広がる彼の逞しい胸板を見つめた。鼓動の音が規則正しく響き、彼女の瞳に複雑な感情が揺らいだ。純也が戻ってきて、こうして自分を抱きしめている。つまり、この取引に応じたということなのか?「お前の望みは叶えてやる。立花、俺は一度、お前に考え直す機会をやった。だが今回は違う。自分から俺の前に来たんだ。途中でやめたいと言っても、もう無理だ」頭上から、低く響く男の声が降ってきた。純也はまるで、彼女の心を読んでいるかのようだった。一度だけなら許してやる。それが俺の最大限の譲歩だった。だが二度目はない。実際、絵理に後悔するつもりはなかった。彼女の目が揺れ、少し落ち着かない様子で口を開いた。「安間社長、じゃあ加奈惠さんは……」「どこの刑務所が、夜中に囚人を釈放するんだ?」純也は淡々と答えた。絵理は唇を噛み、黙り込んだ。数秒の逡巡の後、彼女はそっと手を伸ばし、彼のシャツのボタンに指をかけた。この取引を受け入れた以上、もう躊躇する理由などないはずだった。決意は固めたはずなのに、いざ実行しようとすると、彼女の手は無意識に震えてしまった。彼女の柔らかな指先がシャツ越しにそっと滑る。その感触に、純也の体がわずかにこわばり、静かに目を開いた。深い瞳が腕の中の女をじっと見つめる。三つ目のボタンを外しかけた瞬間、彼の冷たい手が彼女の手首をしっかりと掴んだ。絵理の胸がぎゅっと縮まる。顔を上げると、純也の瞳に浮かぶ揶揄の色とぶつかった。「そんなに急いで身を捧げるつもりか?」「……」絵理は絶句した。ただ契約を果たそうとしただけなのに、まるで

  • 未熟な秘書、商界の大物に愛されて   第25話

    絵理はしばらく考え込んだが、答えは見つからず、頭もぼんやりとしてきたので、もう考えるのをやめた。「立花さん、こちらの病衣に着替えたほうが楽になりますよ」看護師がゆったりとした病衣を手渡しながら、微笑んで言った。「お手伝いしましょうか?」絵理はこの病院の人たちが、どこか彼女に対してへりくだった態度を取っているように感じた。おそらく、純也の影響だろう。「ありがとうございます。大丈夫です。自分で着替えられますから」絵理は誰かに着替えを手伝われるのが苦手だったので、丁寧に断った。「わかりました。何かあったら呼んでくださいね」「はい」……看護師が出て行った後、絵理はしばらくベッドの上でぼんやりした後、汚れたTシャツを脱ぎ、病衣に着替えようとした。体のあちこちに傷があるせいで、動作はどうしてもゆっくりになる。一方の腕をそっと袖から抜き、もう片方の袖に手をかけた……純也が病室に戻ったとき、目の前に広がっていたのは、まさにそんな光景だった――ベッドの上に座る絵理のTシャツがめくれ、ほっそりとした白い腹部があらわになっていた。程よく丸みを帯びたラインが覗き、白磁のように滑らかな肌が、視線を引きつけて離さなかった。だが、その美しさは無数の痛々しい傷跡によって無惨に損なわれていた。擦り傷に塗られた紫色の消毒液が、白い肌の上にまだら模様を作り、痛々しいながらもどこか滑稽に見えた――純也の頭に浮かんだのは、ダルメシアンだった。傷が痛むせいで、絵理はできるだけ患部に触れないように気をつけながらズボンを履いた。そのとき、何かの視線を感じた。その視線に、妙な不快感を覚えた。思わず振り向くと、ドアの前に立つ男の姿が目に入り、絵理はとっさに悲鳴を上げた。「な、な、なんで人の着替えを覗いてるんですか?」絵理は慌てて布団を引き寄せ、体を覆った。しかし、その勢いで足の傷に擦れてしまい、鋭い痛みが走る。顔をしかめながら、怒りに満ちた瞳で純也を睨みつけた。あの女と一緒に帰ったはずじゃないか、いつ戻ってきたのよ!純也は、大きく見開かれた黒い瞳をじっと見つめた。元々ダルメシアンのようだと思っていたが、今はさらにそれっぽくなっていた。純也は長い脚を悠然と動かし、何の躊躇もなく部屋へ入ってきた。そして、堂々とした仕草でベッドの端に腰を下ろした。

  • 未熟な秘書、商界の大物に愛されて   第24話

    絵理の全身が一瞬こわばり、茫然と顔を上げた。視線の先には、純也の骨ばった指先がティッシュを持ち、彼女の額の血を拭おうとしていた。絵理の瞳が一瞬揺れ、無意識に顔をそらした。「安間社長、自分でやります」小さくそう呟く。彼の隣には女が座っていた。その視線を感じると、絵理はどうしても落ち着かず、唇を噛みながら痛みをこらえ、体をずらして隣の席に移ろうとした。「じっとしてろ」純也が眉をひそめて叱るように言い、絵理の腰に回した腕を緩めることなく、そのままティッシュで傷を拭った。傷口に触れると鋭い痛みが走り、絵理は思わず眉を寄せ、低くうめき声を漏らした。「痛むか?」純也が眉を上げて尋ねた。「はい」これだけの傷を負って、痛くないわけがない。「自業自得だ」「……」「道路を渡る時に車も見ないとはな。頭でも打ったのか?」純也は不機嫌そうに言い放った。絵理は呆れて何も言えなかった。助けてくれたことへの感謝の言葉が喉まで出かかったが、結局飲み込んだ。純也の口調は強く、絵理はまだ頭がぼんやりしていて、反論する気力もなかった。ただ黙って、何も言わずにいた。純也は冷たい視線を彼女の青ざめた顔に落とすと、もう一度傷を拭い始めた。表情こそ冷ややかだったが、その手の動きは先ほどよりも幾分優しかった。隣にいた女は、驚愕の表情を浮かべながら絵理を見つめ、信じられないといった様子だった。その瞳には、嫉妬の色が滲んでいた。運転席の雑賀はバックミラー越しにそっと後部座席を盗み見し、内心驚いていた。純也さんは、わずかな汚れすら許せないほどの潔癖症だったはずだ。それなのに、泥まみれの秘書を抱えたままでいるなんて。ちっ、あの潔癖はどこ行ったんだ?……ぼんやりとした意識のまま、絵理は病院のVIP病室へ運ばれた。道中、ずっと純也の腕の中にいた。最初、絵理は申し訳なく思っていたが、次第に頭がぼんやりしてきて、それどころではなくなった。雑賀が事前に病院へ連絡を入れていたため、専門医や教授たちが病室の前で待ち構えていた。純也が絵理をベッドに横たえると、医師たちがすぐに駆け寄り、手際よく診察を始めた。しばらくして、医師たちは絵理の傷口を丁寧に消毒し、一通りの処置を終えた。絵理の額の傷は生え際にあり、幸いにもそれほど深くなかった。縫う必要も

  • 未熟な秘書、商界の大物に愛されて   第23話

    「安間さ~~ん」女の甘ったるい声が、静寂な夜の空気を切り裂くように響いた。絵理の体がびくりと震え、驚いたように振り返ると、赤いドレスを纏った若く美しい女性が車から降り、微笑みを浮かべながら優雅な足取りでこちらへ向かってきた。絵理は思わず固まった。まさか純也が誰かと一緒に来ていたなんて!さっき自分が言った言葉を思い出し、絵理の顔が一気に熱を帯びた。彼女はこの女性を純也の妻だと思っていたが、その薬指に指輪がないことに気づき、ようやく理解した。ただの親しい女性の一人なのだろう、と。「安間さん、この方が秘書の立花さんですね?かなり怪我がひどそうですし、病院に連れて行きましょう」女は純也のそばへ歩み寄り、にこやかな笑顔を浮かべながら絵理を見つめた。その表情はあたかも絵里を気遣っているように見えたが、目の奥にはひそかな警戒の色が滲んでいた。さっき車の中では、絵理の顔は見えず、ただスタイルの良い若い女性だと思っていた。それなら特に気にする必要もない、と。しかし、今こうして彼女の顔を見て、彼女は驚愕した。たとえ怪我を負っていても、この顔は女としての嫉妬心を刺激するほど美しかった。無愛想な純也が自ら助けた理由も、これなら納得できる。絵理の表情がこわばり、気まずそうに純也の腕から手を離した。純也の周りには、女が溢れるほどいる。わざわざ女に困ることなんてないはずだ。なら、この取引は成立しない。「社長、もう片付きました」雑賀が歩み寄ってきた。乱れたスーツには血の跡が滲み、いつもは知的な雰囲気の彼に、荒々しさが加わっていた。「殺したんですか?」絵理は雑賀の後ろを見やると、地面には広がる血の跡。その上に運転手が倒れたまま動かなかった。雑賀は気楽そうに笑った。「立花さん、こいつは死んじゃいないです。ただ打たれ弱いだけです。片足と片腕が折れただけで気を失ってます。でも、こんなクズは死んでも文句は言えないですよね?安心してください。半年は病院から出られないです」絵理は小さく頷き、何か言おうとしたが、ふと足を動かした瞬間、傷口が擦れて鋭い痛みが走った。思わず身体が震え、強く唇を噛みしめた。その時、純也が突然絵理を抱き上げ、大股でマイバッハの後部座席へ向かった。冷たく短く言い放つ。「病院へ行くぞ」絵理は驚いて目を見開き、

  • 未熟な秘書、商界の大物に愛されて   第22話

    どうして彼がここに?文哉じゃない、騎士でもない、彼女を救ったのは、まさか――安間純也!純也は険しく眉をひそめた。遠目では分からなかったが、近づいて初めて気づいた。絵理の全身は傷だらけで、額から血が流れ、顔色はまるで白紙のように蒼白だった。男の瞳が鋭く光り、その場の空気が一瞬で張り詰めた。元々冷え冷えとした雰囲気を纏っていた彼の周囲に、さらに凍り付くような殺気が漂い始める。絵理が何も言わないため、彼女の傷の具合が分からない。純也は迷うことなく、彼女の体を横抱きにし、そのまま大股で路肩に停めたマイバッハへと向かった。その頃、運転手もよろめきながら立ち上がり、凶悪な表情で純也に怒鳴りつけた。「てめぇ、余計なことに首突っ込んでんじゃねぇよ!死にてぇのか?大人しくその女を渡せ!さもねぇと殺すぞ!」純也はそちらに目を向けることもなく、まるで何も聞こえていないかのように無視した。鋭い殺気を纏った顔のまま、雑賀のそばを通りながら低く言い放つ。「潰せ」「了解です。社長」雑賀は少し離れた場所にいる運転手に視線を向け、穏やかな顔のまま、冷酷な笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと一歩を踏み出す。「な、何する気だ?てめぇ、やめろ!俺を舐めると……ぎゃあああ!!!!」言葉の途中で、運転手の口から豚のような悲鳴が響き渡る。凄惨な暴力が繰り広げられた。最初こそ運転手も抵抗しようとしたが、数発の攻撃を受けた瞬間に戦意を失い、後はただ悲鳴を上げるしかなかった。夜明け前の静かな街に、その叫び声だけが響き続ける。純也は険しい顔で眉を寄せたまま、腕の中の絵理をしっかりと支えながら車へ向かい、そのまま彼女をボンネットの上にそっと降ろした。男の高い背が夜の闇に映え、その黒曜石のような瞳が静かに彼女を見下ろしていた。「骨までやられてるのか?」街灯の下、絵理の体は小刻みに震えていた。全身傷だらけで、髪は乱れ、服は汚れ、まるで地に打ち捨てられたかのように無残な姿だった。呆然としたまま、彼女は目の前の男の冷たい顔を見つめた。純也の瞳が鋭く細められ、声に一層の厳しさが加わる。「言え!どこが痛む?」絵理はじっと彼を見つめた。彼は、彼女のことを心配してる?彼女が沈黙を続けるのを見て、純也は怪我が深刻なのだと判断したのか、その瞳にさらに冷たい影を落と

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