「はい、あーん」 ……もぐもぐもぐもぐ。「ねえ、おいしい?」「いや、めちゃくちゃ甘いんだって。僕が甘いものは苦手だと知っていて、どうしてななせは僕をこうやって連れまわすんだよ」「え、だって……ここのずんだあんって、めちゃくちゃおいしいんだよ。甘いのに、結構しっかり目に塩も効いてるでしょ、それが絶妙なわけ。かといってさ、定番のつぶあんを食べないわけにもいかないじゃない? だけどさ、さすがにふたつも食べちゃうとあれでしょ? アタシ、思春期の乙女だよ」「だから、僕に半分食べさせるというわけだね」「そうよ、いつも言ってるでしょ」「時に僕は思うんだが、」「なあに?」「それならば、39アイスのスノーマンズキャンペーンに行くというのはどうなんだろう? ただでさえ、ボリュームが倍になっているというのに、何も僕を連れて四倍で食べる必要はないんじゃないのか?」「え、何言ってんの? だって倍だよ? おとくじゃん」「うーん、だからさ……」 ななせは僕の言葉になど耳を傾けず、僕がひとくち齧った残りのずんだたい焼きを胃の中に収める。僕は少しあきれ顔でそんなななせを見ていた。続いて今度はつぶあんたい焼きを取り出す。「ねえ、マコトはたい焼きを食べるときはあたまから? それともしっぽから?」「そうだな、どちらかと言えば頭からかな。なんでかっていうと、頭のほうがあんこの――」「アタシはしっぽからだな」人の話は全然聞かない。続けて、「じゃあ、こういうのはどうかな。このたい焼き、マコトがあたまからで、アタシがしっぽから。ポッキーゲームみたいにさ―― あは、何紅くなってんのよ。エロいの想像しすぎ!」 なんて言いながら、つぶあんたい焼きを一匹丸々食べつくした。結局のところ、僕が一口齧っただけで実質ななせが二つ食べているようなものだ。これで、本人がダイエット的なものを気にしているというのだから驚きだ。「じゃあ、そろそろ帰ろうか」 僕が立ち上がろうとすると、「あ、ちょっと待って、アタシ、ちょっとお手洗いに行っておきたいの」「そうか」 僕は再びベンチに腰掛ける。が、ななせも座ったままでトイレのほうへと移動する気配がない。まさか、トイレに行きたいなんてのは嘘で、ただもう少し僕と一緒にいたいだけではないか……というようなバカげた妄想を僕はしない。「トイレ、行かないのか?」「うん、ちょっと待ってる」「待ってるって、なに
ななせが風邪をこじらせてしまったらしく、今日は学校を休むとのLINEが来た。昼休みになり、ひとりで学食へ向かおうとしているときに着信があった。『もしもし、わたし麻里です。今、旧校舎にいるのですが……その……今から一緒にお昼をどうかと……思いまして……』 今まで、上田と昼食を一緒に取ったというようなことはないし、そんな誘いは正直意外だった。しかし……「今日、学校来てるのか? 調子、少しはよくなった?」『いや、少しも何も全快ですよ。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした』「そうか、それはよかった。でも、昼飯のことはすまない。僕は、あいにく弁当派ではなく学食派なんだよ。そっちに行っても、食べるものを持っていない」『あ、いや、そのことなんですけど……た、高野君の分もあるのです』「え、僕の分?」『あ、いや、その……ですね。今日は少したくさん作りすぎてしまいまして……どうにも食べきれないんですよね。ほら、残してしまっても荷物が重くなるだけというか、衛生的のことも考えると……あ、そうだ、そうです。フードロスですよ。そういうの、SDGS的にも気を付けなくてはいけないので……』 まったくもって意見がまとまっていないようだ。しかし、今日の僕は一人だし、小遣い的なことも考えると節約できるものは節約したほうがいいのだし、その、なんと言おうか、断る理由が見当たらないのだ。 しいて言うならば、このことをななせが知ったら、なんと思うだろうかということだ。 無論。ななせは僕の恋人というわけではないし、そのことでとやかく言われる心配もないと言えばないのだけれども……「ああ、それじゃあ、今からそっちに行くよ」『はい、待っています』 昼休みの旧校舎は、放課後のそれよりもさらに静かだ。二階の黒魔術研究部の部室を覗いたが、誰もいなかった。 おかしいな、上田は確かに今部室にいると言っていたはずなのに…… 不意に、後ろに誰かの視線を感じて振り返る。「高野、お前クロ研の部室で何してんだ?」 長髪で丸眼鏡のキザな男、ギターの天野がそこにいた。鞄を抱え、ひとり軽音楽部の部室に入ろうとしているところだった。 もしかすると今、僕は誰もいないクロ研の部室に侵入しようとしている不審者に見えていたのかもしれない。「あ、いや、違うんだ。その、上田を探してて」「そのうち来るんじゃないのか? 昼食はいつも部室で一人で食べて
放課後の旧校舎、僕はゆっくりと読書をしようと考えていた。 ななせが風邪をひいてしまって、軽音楽部の部活動はしばらく休みだと聞いていた。それに、上田の姿も見当たらない。鞄から読みかけの文庫を取り出して読書を開始する。昨晩読んでいて遭遇した密室について、僕なりの予想は立てている。さあ、答え合わせの時間だ。 ――と、思っていたのだが、文芸部の部室の前の古い板張りの廊下をギイギイと音を立てて歩いていく一行がある。軽音楽部のメンバーだ。 教室の窓をそっと開け、ベースの河本と目が合った。「あれ、部活、休みじゃなかったの?」「ああ、今日伏見さん休みでしょ。それで」「それで?」 意味がよくわからなかった僕に、ギターの天野が説明をしてくれる。「本当はみんな、ちゃんと練習はしたかったんだ。だけど、昨日は伏見が喉を傷めていたみたいだから、みんなで休むことにしたんだ。彼女、もし俺たちが練習していたなら、きっと無理してでも自分も参加しようとするだろ?」「ああ、なるほど」「まあ、そういうわけで、迷惑かける」 ――自分たちの練習が迷惑をかけているとわかっているのなら……いや、こんなことを言うのはやめておこうか。彼らだって、悪気があってやっているわけではない。 本を閉じて湯沸かしポットにスイッチを入れる。男四人が古い階段を上がり、真上の教室の中を歩き回る音がはっきりと聞こえる。 やがて、演奏が始まり、騒音の中でそんな足音さえも聞きとおせるような静寂はなくなり、僕は放課後の読書をあきらめた。 スマホをいじりながら、上田から連絡が来ないだろうかと考えている自分に気づく。最近すっかり放課後に読書ができなくなり、そんな持て余した時間をなんだかんだ言いながら上田が埋めてくれていたことに気づく。 上田は、今どこにいるのだろうか…… そんなことを考えている最中、ゴトンと大きな音が上のほうから聞こえた。おそらく真上の軽音楽部の部室よりもさらに上のほう。しかし、二階から階段を上って存在するのはこの旧校舎の止まってしまったままの時計台の機械室だけだ。そしてその機械室には常に鍵がかかっており、その鍵を管理しているのは僕。いつも財布と一緒に持ち歩いている。 その音を不審に思ったのは僕だけじゃないようだった。軽音楽部は演奏をやめ、何やら話し合っているようだった。 少しして、誰かがギイギイと音を立てて二階から階段を下り
旧校舎に戻った僕は借りてきた鍵を嗅ぎ穴に差し込み、半回転させる。カチリ。という音と共に扉が開かれる。やはり職員室の鍵はずっと前から本物だったようだ。鍵を閉めた人間は、職員室の鍵を使ったわけではなく、機械室に閉じ込められている河本がもっている僕の鍵とはさらに別の鍵を使って鍵を閉めたことになる。しかし、僕は自分の管理しているこの鍵を、誰かに貸してスペアキーを作られたかもしれないというような記憶もない。と、なるとやはり考えられるのは……中から憔悴しきってぐったりとした河本が出てくる。その手には、汗でべっとりとした機械室の鍵が握りしめられていた。 旧校舎機械室の中を覗き込むと、部屋の中央には茶色い何かが転がっている。そして床一面には赤い何かが……「おい、嘘だろ……」 つぶやきながら僕はそれに近づく。 毛足の短い、茶色い四足歩行の胴体。 僕がそんな言葉を使ったのは、その胴体には頭部がついていないからだ。 おそらく柴犬か何かの首なし死体。無残に切り取られた頭部があったであろう断面には凄惨な肉の断面と、赤黒い血が垂れ流され、小さな溜まりを形成している。 そこにいる誰もが戦々恐々としているのだが、井上の表情が、その場の誰よりもこわばっているということは言うまでもない。血の気が引いて、いまにも倒れてしまいそうなほどだ。 その胴体は、明らかに昨日井上が見せてくれた、事故にあって死んでしまったという犬の姿そっくりだ。 本当は僕だって声を上げて逃げ出したい気分だ。だけどそこはあえて気をしっかりと持ち、冷静にあたりを見渡す。周囲に血しぶきが飛び散っている様子はない。かといって、それなりに血の溜まりができているにもかかわらず、見渡す限りその場所以外に血の痕跡は見られないということは、おそらくここで生きた犬の首を切ったわけではないだろう。どこかで殺し、死体をここへ運んでから首を切り落としたのだ。そしてその切り落とされた首は見当たらず、首から滴り落ちるであろう血の跡もないことから、切り落とされた首をビニール袋か何かに入れられて持ち出されたのだろうと僕は推測する。犬の死体を触ってみる。まだ、あたたかい。おそらく、首を切られてまだそれほど時間は経っていないのだろう。「どうしよう。警察か、保健所に連絡したほうがいいか?」 長髪の丸眼鏡、ギターの天野が僕に訪ねる。「いや、首輪もないし、おそらくこの辺り
僕は文芸部の部室に戻り、一人きりになった。天井裏からは軽音楽部の演奏は聞こえなかった。さっきの事件があり、井上はすっかり委縮してしまったし、河本だって平常を装っては見せていたものの心中穏やかではなかったはずだ。他の二人にしても、それなりに思うこともあり、何事もなく練習をするという雰囲気にもならなかったのだろう。 せっかくの静かな放課後、本当なら読書に打ち込みたいところではあるが、やはり僕としてもなかなか読書をするという気持ちにはなれなかった。オセロ盤を机に引っ張り出し、湯沸かしポットにはコーヒー二杯分の水を沸かした。 すぐに、上田がやってくるものだろうと考えていたのだが、いつまでたっても上田はやってこない。 仕方なく、ダラダラとスマホをいじりながら時間をつぶすことにした。 僕は、ひそかに『カクヨム』というネットの小説投稿サイトを利用している。自分のいつかは小説家になりたいと考えていて、こっそりと書いてみた小説をサイトにあげてみたりもしている。 しかし、なかなかどうして、そう簡単に僕の書いた小説なんて誰も読んではくれないものだ。 なにせ、数えきれないほどの数の小説が日々サイト上に投稿されている。そこで、全く無名の新人である僕の小説なんかが誰かの目に留まるということもなかなかに考えにくい事象で、日々そこに頭を悩ませている。 そういえばどこかで、エッセイなんかのタグだとあまり競合がないから比較的読んでもらいやすくて、そこから小説のほうへ読者を引っ張るなんて方法があると聞いた。 物は試しにやってみようと、ちょとした記事を書いてみることにした。『岡山のとある山にまつわる都市伝説について、情報がある方は教えてください』 というタイトルで記事を書いてみた。 自分の通う学校名は伏せ、その学校にあるという学園七不思議の一部情報と、その学校のある金山という小さな山に関する巫女のの伝説。上田とななせから聞いた話を簡単にまとめ、その真相を探るために何か情報があれば教えてほしいという記事だ。 我ながらに、うまく書けたと思う。 満足げに二杯目のコーヒーをすすりながら、適当に暇をつぶしていると、地元の駅前にあるストリートピアノを弾く天才美少女の動画を見つけた。小柄で、黒いワンピースを着た子。黒髪ロングの美少女が男さながらに激しくピアノジャズを弾き語る姿に多くのギャラリーが集まっている。その
いずれにせよ、上田は僕の助けを求めているようだった。面倒くさいとは思いながらも、旧校舎の裏手に回り、稲荷の祠の裏から山奥へと入って行く。 道は、以前通った時よりもだいぶ歩きやすくなっていた。一度目の登頂は木々が生い茂っていて大変だったが、それから上田を背負って降り、今日また上田が一人で登ったせいで脇の木々は少なくなり、地面もそれなりに踏みしめられて難なく道を上がることができた。 こうしてみると、初めての時はそれなりに距離があると思っていた山道だったが、その距離は意外と短かった。 山頂の開けたその場所にしゃがみ込んでいる上田。その手には土にまみれた頭蓋骨のようなものをいとおしそうに眺めている。 僕の姿を見つけるなり立ち上がり、手に持った髑髏を突き出して小走りに駆け寄ってくる。「これ! これです! すごくないですか!」 すごいかどうかと言われれば確かにすごい。思わず目をそらしたくなる光景だ。にもかかわらず、それを嬉しそうに素手で抱えている女子校生という絵柄が一番すごいと思う。「これ、見てください」 差し出されたのはあきらかに人間の頭蓋骨。全体的に土にまみれており、眼窩には土がぎっしりと詰まっている。顎の部分はなく、頭骨だけだ。上田は僕から見やすいようにそれを180度回転させ、後頭部をこちらに向ける。抱える上田の手元から中にたまった土がぼろぼろと落ちてくる。 そこには、正面に比べると少し小さめの二つの眼窩と、折れてしまってぽっかりと開いた鼻腔が存在する。つまり、一つの頭部に二つの顔があるということだ。「これ、リョウメンスクナですよね!」 うれしそうに笑う上田に、「そうだな」と僕はつぶやく。 しかし、僕の正直な感想は、まさかそれが本物のはずがないだろうということだ。二日前にここに来た時にどこにもなかったそんな特級呪物が、何の予告もなく突然こんなところに現れるわけがないのだ。それにもし、そんなものを見つけて普通に喜んでいられるイカレた女子高生もまた、存在しないと考えている。 ――たぶん、上田が自分で用意したレプリカだろう。「どうしたんだ、それ?」 僕のはなった言葉の意味は、『どうしてそんなものを用意したんだ?』だった。しかし彼女はあくまで知らんぷりを決め込み、「あの子犬がですね、持ってきたんですよ!」と言った。「子犬?」「ほら、あの片脚をけがしていた子犬ですよ! やっぱり
僕たちは山を下り、旧校舎へと向かう。 上田は嬉しそうに旧校舎の入り口前にある手洗い場に走り、水道の蛇口をひねってスクナの頭蓋骨をジャブジャブと水で洗う。「上田さあ、祟りとか、呪いとか、そういうの怖くないの?」「え、そりゃあ怖いですよ。なにせ特級呪物ですからね。でも、だからこそワクワクするんです。こんなもの普通出会えませんよ」「そりゃ、普通はね」「それにもし、呪いがあるにしてもですよ。道理としてきれいに洗ってあげているわたしを呪いにはかけないですよ。大災害があったとして、きっとわたしだけが助かりますよね」「呪いに道理を求めるなよ」「そういう高野君こそ、怖くないんですか? 呪い?」「あいにく僕はそういうの信じてないんでね」「信じるも何も、今こうして目の前にスクナの髑髏があるのが何よりの証拠じゃないですか!」 ――本物なわけないだろう。 そんな言葉を言いかけた時、「あ、おつかれさまー」という声が聞こえた。部活動を終えた軽音楽部の男子四人が旧校舎から出てきたのだ。「あっ!」 と言いながら、上田はまだ水に濡れたままのスクナの頭蓋骨を後ろ手に隠す。「ん? 今何か隠した?」「い、いいえ! な、なにもかくしてい、いませんよお!」 天野の言葉に、上ずった声でごまかそうとする上田。 まったく。見え透いた下手な演技だ。本当は皆に見せたくて仕方がないのだろうけれど、なまじ警察のことを持ち出したために堂々と見せることをためらったのだろう。僕からも、あまり人に見せてはいけないと言ったばかりだ。「みんなには見せてもいいんじゃないのか? どうせ、いつまでも隠しているわけにもいかないだろう」「な、なにがあるんです?」「こ、これは……」 上田が僕のほうを見る。僕は黙って頷いた。「だ、誰にも言わないでくださいよ。とっても大事な秘密です」 そう言って、スクナの骸骨を皆の前に差し出す。 突然に目の前に差し出されたそれが、ただの人骨であっても十分に恐ろしく感じるだろう。それがまさか、一つの頭部に顔が二つ付いているリョウメンスクナの骸骨であるとわかったとき、その場にいた誰もが息を飲み込み、言葉を失った。「い、犬が……持ってきたんです。まるで、わたしにプレゼントするみたいに……」「犬、だって?」「はい、足をひきずった子犬です」 その言葉に、皆が反応した。無理もない。今の彼らにとって犬と言えば、ついさっき地
上田のアパートの部屋の前、上田はわざとらしく部屋の鍵を取り出し、指先でくるくると回転させた。いい加減茶番に付き合うのも飽きてきたころ合いなので、僕は鞄から鍵を取り出した。旧校舎三階機械室というタグのついたあの鍵だ。上田のアパートの部屋の扉にある鍵穴にそれを差し込み、サムターンを回す。ガタンという鈍い金属音が鳴り響く。「ど、どうしてわたしの部屋の鍵を!」「どうしてと言われてもな。いつでも夜這いを掛けられるようにこっそり作っておいたんだけど?」「た、高野君。いくらなんでもそれはヤバいんじゃないですか?」「そうだな。それじゃあこの鍵は返しておくから、その鍵と交換しようか?」 ひとまず上田の部屋に入り、僕はキーホルダーから上田の部屋の鍵をはずし上田の持っている鍵と交換した。「悪いが、僕にはすべてお見通しだぞ」「うーん、そうなのですかあ。でも、このことは全部黙っていてくれるんですよね?」「ああ、もちろんだ。僕には犯人を見つけ、皆にその正体を暴くことに何のメリットもない。むしろ、この作戦が全部うまくいくほうが都合いいからね」 上田から受け取った二つの鍵を並べると、どちらも同じメーカーの、古くてシンプルな鍵だ。しかし、その二つはやはり凹凸の違う別の鍵。 以前上田が熱を出して家まで送ったときに、その部屋の鍵に妙な愛着がわいた。それは、古いシンプルな、よくあるメーカーの鍵で、僕が管理している時計塔の鍵と同じメーカーのものだった。 はっきり言って鍵なんて、同じメーカーのものであれは一見違いなんて誰にも分らない。もしそれが、すり替えられていたとしても僕は気づきもしないだろう。おそらく今日の昼休み、上田に旧校舎に呼び出されたときに鍵をすり替えられてしまったのだろう。放課後に誰よりも早く旧校舎に向かい、僕の鍵で三階時計塔の機械室に入り込み、犬の首なし死体を置いた。わざと大きな音を立て、誰かが様子を見に来るように仕掛けた彼女は、おそらく機械室のドアの裏にでも隠れていて、河本が入るのと入れ替わりに外に出て、持っていた鍵で外側から施錠した。河本は薄暗い機械室の電気をつけることであの犬の死体を発見して、叫び声をあげた。皆が駆けつける。おそらくその間に上田は二階の女子トイレにでも隠れていたのだろう。あの場所にいたのは男子生徒ばかりで、たとえその可能性に誰かが気づいたところで、女子トイレの中まで探しに
土曜日。まだ、夜も明けきらないうちに訪問者があった。「ごめん。起こしちゃったかな?」「いえ、大丈夫です。今日は朝早くから予定があったので、早く起きていました」「そう、マコトとデートだものね」「伏見さん、知っていたんですか?」「うん、マコトから聞いたの!」「あ、あの……もしかして……怒ってます?」「怒る? なんで? ああ……そういうこと? ううん、気にしなくていいわ。それよりこれ」 伏見さんが渡してくれたものは、今日予定している河童捜索に持って行くお弁当だった。「そんな、そこまでしてもらうなんていくらなんでも……」「ううん、気にしないで、好きでやってるだけだから!」 それは、言ってみれば強者ならではの余裕のようにも感じた。『好きでやっているだけ』という言葉の意味は、たぶん高野君のことが好きだからやっているだけ。わたしのほうが、おまけなのだと言っているのかもしれない。所詮わたしなんかが高野君と出かけたところで、気にするほどのことでもないと言っているのかもしれない。 伏見さんからお弁当を受け取り、昨日のカラになった二人分のお弁当箱を渡す。 ――たぶん事実そうなのだろう。高野君はいつだって、伏見さんのことしか見ていない。だからわたしは決めたのだ。 この日の河童池の捜索を、最後の思い出にしようって…… そして、この日はいろいろあった。その中で、、一番大事だったこと。 それは、高野君がサンドイッチをおいしいと言ってくれたことだった。 たぶん、これが最初で最後かもしれない。 高野君と伏見さんが相思相愛で、わたしなんかじゃどうにもならないことを知っている。 伏見さんは料理上手で、きっと彼女の作ったお弁当はとてもおいしいのだろう。 でも、これは最後の戦いだった。 わたしは下手なりに頑張って早起きをして、今日のこの日のためにサンドイッチを手作りしたのだ。伏見さんがお弁当を持ってきてくれたけれど、それは家に置いてきた。 だけど、高野君はわたしの作ったサンドイッチをちゃんとおいしいと言ってくれたのだ。 その瞬間に、思わず涙があふれてしまった。――最後に、ちゃんといい思い出が作れたんだと。 伏見さんがわたしのアパートに訪れたのは夕方になってからのことだ。伏見さんの体調もすっかり良くなっているらしく、マスクもしていない。今日一日あったいろいろなことを話したくて、部屋に上がってもらい、
上田麻里の一週間 あきらめないことにした。 希望なんてものもあまりなく、敵はあまりにも強大だ。わたしなんかには到底太刀打ちできないような相手なのだとこの一週間で思い知らされもしたが、それでももう少しだけあがいてみようとは思う。 月曜日の朝。いつもよりも少し早くに目を覚まし、髪を黒く染めなおして、色付きのコンタクトレンズを入れる。黒いレースの眼帯はポケットに忍ばせる。流石にまだすべてをさらけ出すのには勇気が足りないけれど、そのうちいつかは…… 鏡の中の自分を見つめながら、もしかすると、眼鏡をかけたほうがかわいいのかもしれないと考えたりもする。彼が文学的少女に属性を持っている可能性も十分にある。考えてみてもいいかもしれない。 鞄に自分で作ったお弁当を入れる。コンビニで買った総菜パンですますのはもうやめだ。きっと彼は料理上手な女の子のほうが好みだ。 玄関を開け、冷たい空気を胸いっぱいに詰め込み、ゆっくりと吐き出して深呼吸をする。 今日からが本当の戦いだ。 学校へと向かう金山の坂道を歩きながら、はるか前方に高野君の姿を見つけた。その隣には強力なライバルが寄り添う。歩む足を速め、少しでもはやく二人に追いつきたいと思いながら、この一週間を振り返る。 先週の火曜日、高野君が部室でホラー小説を読んでいるのを見かけた。少しうれしい気持ちと反面驚きもあった。高野君もオカルトとかに興味があるというのはチャンスかもしれない。 『学園七不思議を一緒に調べよう!』なんてイベントを思いついたのはその時だ。本当は七不思議なんてあるのかどうかも知らないのだけれど、要するに話をするきっかけがほしかっただけ。旧校舎の裏に稲荷の祠があってそこに油揚げをお供えすると願いが叶うという噂を耳にして、今日はそれを実行しようと油揚げを用意していたからちょうどいい。 少しだけれど、ふたりきりで話も出来たし、今日は自分をよく頑張ったとほめてあげたかった。 でも、ライバルはとても強い。 高野君と二人で39アイスを食べに行くのだと耳にした。わたしは負けじと39アイスに先回りした。甘いものは苦手だけれど、せっかくのスノーマンキャンペーンだからと、二段重ねを注文、しかしそれを食べ終わっても高野君はまだ来ない。食べ終わったのにずっとここにいるのは不自然かと思い、さらに追加で食べることにした。それから少ししてようやく高
眠りに落ちる前に、僕はパソコンを開き、インターネットに接続する。 『カクヨム』という小説投稿サイトに寄稿した記事に目を通してみることに。 先日投稿した『岡山のとある山にまつわる都市伝説について、情報がある方は教えてください』というエッセイのPVはかなり伸びており、多くの都市伝説の情報が寄せられていた。 まったく。僕が頭を悩ませながら必死で推敲した小説のほうはなかなか読んでもらえないのにこういうのばかりが数字が伸びるというのもなかなかに悩ましいものではある。 寄せられたコメントのいくつかは、とるに足らないようなコメントであったが、興味をそそるようなものもいくつかあった。それらをまとめると次のようになる。 ・どうやらあの、河童伝説の神田池のほとりにある家、あそこに住む家族の名前は神田と書き、読み方は「カンダ」ではなく、「カミダ」と読むのだそうだ。 ・神田家は代々あの金山を見守る巫女を世話する役割を与えられていて、人里離れたあの山奥で住んでいたそうだ。・神田家は呪われた一族であり、若くして髪の毛が真っ白な子が時折生まれたという。 ・山の上の巫女は、処女であり続けることが義務付けられており、そのため子孫はなく、新しい巫女は神田家のものがどこからか連れてくるのだという。 ・江戸の末期、最後となったカナヤマの巫女は、左右にそれぞれ赤と黒の違う色の瞳を持った美しい巫女だったという。しかし、世話役の神田家の息子と恋仲になってしまい、ふたりは山のお堂に火をつけて心中してしまったという。これを最後にカナヤマの巫女、と神田家の家は途絶えたのだという。 それともうひとつ、僕は一見別のものに思えるこの書き込みも、一連のエピソードではないかと考える。 ・明治に入り、金山の北のはずれに非常に当たると噂のまじない師が現れた。そのまじない師は若くして白髪、左右に赤と黒の二種の瞳を持つ美しい女性だったという。 これより先は、まったくもって僕の単なる考察に過ぎない。これらのうわさ話が、あくまですべて真実だと仮定し、そのうえでつなぎ合わせた、それはある種の創作とでも思ってくれていい。 江戸の末期、この辺り一帯で大規模な飢饉があった。食べるものさえままならない人々は口減らしのためにカナヤマの山中に子を捨てた。 あるいは、栄養不足などで遺伝子異常の子が生まれ、その子を不憫に思ったり、悪魔の所
「なあ、天野。なんで僕がこんなことをしたのか、わかっているのか?」「それは、ライバルを蹴落とすためだろう」「ライバル……か」「そうだ。高野が伏見のことを好きなことぐらいはわかっている。だけど、伏見は俺たちの軽音楽部に入部して、高野といる時間は少なくなった。伏見は誰の目から見ても美人で、軽音部の皆が彼女のことを好きになりかけているということも見れば誰にだってわかることだ。それが面白くない高野は、俺達軽音部をつぶそうと画策した。違うか? だけど、そんなことを心配する必要がどこにある。井上や河本が、いくら伏見のことを好きになったところで、お前相手に勝てるようには思えない。杞憂というものだ」「いや、まあこんなことを僕が自分で言うのは鼻につく言い方かもしれないけれど、僕だって井上や河本になんて負けるなんて思ってなんかいないよ。天野、なんで自分だけをそこから除外したんだ? 悔しいけれど、ルックス的にも才能的に見ても、一番手ごわそうなライバルは天野なんじゃないのか?」「俺のことは無視してかまわない。俺は伏見のようなしたたかすぎるオンナは苦手でな」「おまえとは相いれないな。ななせは、したたかすぎるからこそ魅力的なんだ」「だったらお前ら、早く付き合えよ。言わせてもらえば、俺としても高野が一番手ごわいライバルなんだよ」 ――なるほど、そういうことだったのか。言ってしまえば天野も、自分が見たい世界を見ようとしていたにすぎないのだ。だけどそれとこれとは、根本的に話が違うのだ。 天野は天野で自分の想いを伝えるために、昼休みや放課後に窓を開けてわざと大きな音であの歯の浮くようなバラードを上田に聞かせていたのだろう。しかしそれがかえって僕たちの気分を害してしまうきっかけとなった。「なあ、天野。恥ずかしい告白をさせてからこんなことを言い出すのもアレなんだが、僕の目的は静かな放課後を取り戻したいだけだったんだよ」「静かな放課後?」「読書に快適な、静かな旧校舎でのひと時」「……」「軽音部が旧校舎にやってきて、初めのウチは演奏の音がそれほど気になってはいなかったんだけど、日に日に少し様子が変わってきた。アンプの音量はどんどん大きくなるし、窓を開けたりして、まるでわざと周りに音を聞かせているようにも感じた。 僕としては、それが少々不愉快だったところもあるんだ」「そう……だったのか、それは悪かったな。
最近になってよく耳にする妖怪に『アマビエ』というやつがいる。 長い髪にとがった口、キラキラした目にうろこの体、そして三本の足。 そのイラストは今や知らない人は誰もいないと言われるほどで、ことの発端は世界的に流行した病に対し、そのアマビエのイラストを貼っておくと病が収まると言われたことだ。 そのつぶらな瞳に人々はかわいいと感じ、しばしば長い髪から連想されやすい女性のイラストとして登場することもある。 しかし、騙されてはいけない。アマビエはおそらくオスである。アマビエの正体は『アマビコ』(阿磨比己)である。 アマビコという妖怪はいわゆる予言獣で、猿のような毛むくじゃらな体に三本の足。海から上がってきて人に予言をするのだ。『間もなくこの国に疫病が蔓延する。我を書いた絵を貼っておけばその難から逃れられる』 このことを受け、巷で多くの民がこのアマビコの絵を買い求め、家に貼った。 おかげで多くの瓦版屋の懐が潤ったことだろう。 それは京都の瓦版屋も例外ではない。 都である京都の多くの民がこのアマビコの絵を掲載された瓦版を買い求め、家に貼るというのは他と同じである。 しかし、その瓦版に書かれていた〝コ〟の文字が〝ヱ〟と紛らわしかったのだ。京都の町で多くの民が手に取ったその瓦版に描かれていた絵というのが有名なあの『アマビエ』の絵であり、京都の町では『アマビヱ』として伝わった。 まあ、名前なんてどうでもいいことだ。アマビコだろうがアマビエだろうが、皆の間に流行ってしまった病を治めてくれるというのならば、それにすがることに異はない。 日曜日だ。明日からはまた学校が始まる。 思えばこの一週間はいろいろあった。 そしていまだ、それらのすべてが解決したわけでもなく、それを抱えたままで明日から過ごすというのは難儀なことである。 いや、そもそもこんなことになってしまったのは、僕にだって責任があるのだ。 だからと言って僕がすべてを解決することのできるような優れた人間ではないということは言うまでもないし、だからそう。 この状況を誰かが何とかしてくれないかなと甘えたことを考える日曜日の朝に、僕のところにめずらしい相手から連絡がきた。『少し話したいことがある。今日、少し時間を作れるか?』 軽音楽部の部長、天野からだ。 長髪で丸眼鏡、少し気取った態度のナルシストタイプの天野が、実は少し苦手ではあ
僕が子犬に近づこうすると、子犬は自分のくわえているそれを奪われるとでも思ったのか、小走りで逃げ出し、脇にあった入口とは別の小さな横穴に入って行った。その場を追いかけてみたけれど、流石に横穴は小さすぎて人間では入れない。横穴にスマホを差し込みライトを照らしてみると、どうやら上のほうに続く縦穴になっているようだ。 その先が、どこにつながっているのか? それは意外にも簡単に想像がついた。子犬が走って逃げたと入れ違いに滑り落ちてきた筒状の金属。僕はそれに見覚えがある。 安物ではあるけれど、災害時などに持っていると便利だろうと買っておいたLED式の懐中電灯だ。 昨日、上田と旧校舎の裏山に行き、その時に井戸らしき場所に落としてしまったライト。それがここにあるということは、おそらくこの場所はちょうどあの井戸の底だということだ。いや、そもそもここは井戸なんかではなかったのかもしれない。この神田池から巫女の住む社へと続く通路。神田池で汲まれた水をこの通路を使って持ってあがっていたのかもしれない。長い年月使用されずにそのほとんどは土で埋まってしまっているが、まだわずかな隙間があり、あの子犬が通路として使っていたのだろう。おそらく子犬はこのボロイ廃屋に住み着いていて、この通路を通って、あの裏山の広場や旧校舎の稲荷のあたりまで餌を探してさまよっているのだろう。 LEDの懐中電灯を拾い上げスイッチを押すとスマホよりもだいぶ明るい光が手に入った。 昨日落した時にはついていたはずの照明が消えていたのでてっきり壊れているかと思ったが、どうやらここまで落下してくる間にどこかでスイッチが押されてしまっただけのようだ。「どうしたんですかそれ?」「昨日あの井戸に落としたライトだよ。ここに落ちていた」「それってつまり……」 上田が何かを言いかけたとき、僕は懐中電灯をさっき子犬が土を掘り返していたあたりを照らす。「ひいぃ!」 オカルト好きのはずの上田もさすがにこれには声を上げずにはいられなかった。 僕は先ほど犬が何か白いものをくわえているのを見たときに、あれは骨だったのではないかと感じたので、それなりの心構えはあった。 だけど、まさかこんなにもヒドイと思っていなかったのでさすがに息をのむ。 小犬が掘り返していたあたり一面、土の中にぎっしりと敷き詰められた人骨。いったい、何人分のものだろう? 多すぎてとても
入山して約一時間ほどしたところで僕たちは山間にひっそりとたたずむ小さな池にたどり着いた。 まかり間違っても、絶景とは言い難い。さほど大きくもなく、水も緑色に濁っていて、その水面の三分の一ほどは落葉に埋め尽くされてしまっている。 その昔、河童が住んでいたというのだからもう少しきれいな水質を予想していたのだが、これでは河童どころか魚もそれほど住んでいるとは思い難い。あるいは昔はもっと、山水の流入が多く水質もきれいだったのかもしれない。「あ、でもこの水中が不透明なところだとか、もしかしたら謎の巨大生物とかいたりする可能性を感じませんか」 オカルト好きな上田は相変わらず夢見ごころなことを言いながら池のほとりに座り込んだ。 散々歩き通して疲れていただろう。僕も横に座り、ペットボトルの水を飲みながらくだらない蘊蓄を垂れる。「残念だけど、この池に巨大生物はいないよ。それに河童にしたって無理だ。もっと流動のある川の様な所なら住んでいてもおかしくないけれど、何しろここは山に降った雨水が集まってできた大きな水たまりみたいなものだ。もちろん、下流で川ともつながっているだろうし、魚が昇ってきて住んでいたっておかしくはないけれど、巨大生物や河童が餌を確保できるほどにはいないだろうね。 ほら、イギリスのネス湖に有名なネッシ―という巨大生物の伝説があるだろう? ネッシーの伝説自体は六世紀ごろから伝えられてはいるけれど、なんといっても有名なのはあの、いわゆる外科医の写真だ。あれはもともとエイプリルフールネタとして作られたおもちゃの潜水艦の写真だったということが公表された今でも多くの人々がネッシーの存在を今でも信じている。 だけど、規模としてはかなり大きいけれど泥炭が流れ込むことで水の透明度の低いネス湖は同時に食物連鎖の底辺となる植物プランクトンも極めて少ないと言える。そのプランクトン量で生存可能な水棲小動物があり、それを餌とする中型水棲動物、それを餌にする大型という風に計算すると、ネス湖はあれだけの大きさがあっても、せいぜいワニが10匹生存できるかどうか程度らしい。で、あれば、古代よりネッシーのような超大型動物が繁殖を行い今日に至るために常に二匹以上のネッシーが存在し続けたということは、どう考えても無理なんじゃないかな」 僕はまた、くだらないことを言ってしまったと思う。悪い癖だ。 隣で、炭酸
十一月の午前七時はまだ薄暗い。 東日本に住んでいる人間からすれば疑問の声も上がるかもしれないが、西日本では実際そうなのである。日本国内ではどこに行っても一つの標準時刻で生活しているが、なにせ日本列島は全長3000キロメートルもあるのだ。その東西では経度の関係上、実質二時間近くの差があるため、統一された一つの時間で語っても、その感じ方は生活の環境次第で違ったものになる。 僕らは皆、そういう世界で生きているのだ。 まだ外は薄暗いにもかかわらず、今日が土曜日だというにもかかわらず、運動部に所属している学生たちはすでにユニフォーム姿のままで登校し、部活動の朝練へと出発しているものも少なくない。実にご苦労なことだ。くだらないことでほとんど眠れなかったと愚痴をこぼしている自分がまるでヒドイ怠け者のように感じてしまう。 電車に乗り上田の住むアパートに到着するころにはしっかりと陽の光も上がってきている。 ドアチャイムを鳴らし、しばらくすると玄関が開き、パジャマ姿で眠そうな上田が出迎えてくれる。「ふああ、すいません。まだ準備ができていなくて……すぐに用意するので少しだけ待っていてください……どうしたんです? 外じゃ寒いので、中に入ってください」「あ、ああ……それにしても上田……お前、寝るときもカラコン、つけたままなのか?」「ふぇ? からこん?」 上田本人も、気づいていなかったようだ。さも寝起き間もないという風体にもかかわらず、上田の左目はいつものような漆黒の瞳。にもかかわらず、たいして右目は真紅の瞳孔だ。「は! はわわわわわわ!」 上田は右てのひらで慌てて赤い目を覆い隠し、部屋の奥へと走って行った。 帰ってくると、いつもの見慣れた黒いレースの眼帯で右目を覆っている。 上田が普段放課後に黒い眼帯をつけていて、しかもその目には赤いカラコンをつけているというのは割と有名なうわさだが、実際に赤い瞳を見ることはあまりない。確かコンタクトレンズを入れたまま眠ると目が腫れるというような話を聞いたこともあるが、ソフトだとかハードだとかそういうのがあるらしくて実際どうなのかはよく知らない。僕は、視力だけはやたらと良いので眼鏡だとかコンタクトレンズだとかそういうものの知識がほとんどない。 上田の部屋に上がり、隅のほうに腰を据える。たとえ上田が一人暮らしだと知っていても、これが通算三度目ともなると僕
「正直に言うとね、僕は河童の正体はカワウソじゃないかと思ってるんだよ」「カワウソ……ですか? それじゃあなんですか? あの名作ギャグマンガのコンビ、かっぱ君とかわうそ君は同族だったとでも?」「まあ、そのギャグ漫画がどうであるかはさておき、今ではほぼ絶滅したと言われている二ホンカワウソだけど、水辺なんがでは割と二足で立ち上がったりするんだよね。身長90センチくらいで水かきもある。頭のてっぺんは平べったくて、水からあがった際にはそこに残った水が太陽の光に反射してお皿のように見えたんじゃないのかって思うわけだ」「それはまあ、確かにそういう事例なんかもあるかもしれないですけれど、だからと言って探さなくてもいいという理由にはなりませんよ? それに、そもそも河童を目撃したその人は、なんで、カワウソを発見したって言わなかったんですか? だってそのほうが普通じゃないですか? それなのにわざわざ河童を見たと証言するのは、それがとてもカワウソには見えなかったからじゃないんですか?」「でもさ、初めから河童とかわうそと両方を知っている人からすればどうだろう?」「そりゃあ、カワウソならカワウソを見た。そうでないものを見たなら河童を見たというの言うのでは?」「僕が思うに、その見たものがどうであれ、河童を見たいと思っている人は河童を見たといい、カワウソを見たいと思っている人ならカワウソを見たと証言するんじゃないかな? 人はどうしても見たい世界を見ようとする癖がある。だから、それを見たときに自分にとって都合の良いところだけを観察して、都合の悪いところは見ても見ぬふりをするんじゃないだろうか?」「うーん……そういう穿った見方をするのは好きじゃないです。ともかく、とりあえずそいつを捕まえればわかることです。つかまえてから、じっくりと河童なのかカワウソなのか判断すればいいんじゃないですか?」「ま、まあ、そうだね……もしかしてこの調査は、河童を捕まえるまで続いたり……しないよね?」「でも、わたしが納得するまでは終わりませんよ。わたし、そう簡単にはあきらめたりしないタイプなので、それが嫌ならなるべく早くに捕まえることをお勧めします」「そう、なのか……まいったなあ」「さあ、話がそれました。本題に戻りましょう。ここ、高野君、わかります? ここじゃないかと思うんです」 僕が手に持ったスマホの航空図とにらめっこを