詩織は一足先に家に戻り、自分の荷物をまとめた。キッチンで食材を準備し、今日の食事を作った。食事ができあがる頃、亮太も帰ってきた。彼は黙って食卓につき、キッチンで忙しく立ち働く詩織を見ていた。湯気の立つシンプルな汁そばを彼の前に出すと、彼は詩織の目の前で、まるで子供のように夢中でそれをかき込んだその一挙一動が、詩織の作ったうどんをとても気に入ってくれたことを物語っていた。「詩織、安心して。君があれほど嫌がってた奴らは、もう二度と君を煩わせることはないから」亮太はうどんを食べながら、まるで日常の出来事を話すかのように言った。詩織がなかなか返事をしないので、彼は顔を上げて彼女を見た。「これ、実は、私たちのお別れの食事でもあるの」詩織は平然と彼を見つめ、彼が一口食べるごとに微笑みかけた。「詩織、何を馬鹿なことを。もし、もしよければだけど…… その……君さえよければ、僕のこと、考えてくれてもいいんだ」「じゃあ、あなたの好きな人は?もう追いかけないの?」詩織は探るような目で亮太を見つめ続けた。彼もまっすぐに詩織を見返していた。「もし最初にああ言わなかったら、君はきっと、僕をこんなに近くにいさせてはくれなかっただろうから」男が忠誠を誓う時の姿は、驚くほど似ていた。「亮太さん、あなたの好きな人は、最初から私じゃなかったんでしょう。 あなたは、あなたの姉さん――優子――を手伝って、私を監視しに来たのね」亮太の笑顔がこわばり、その目には信じられないという思いと疑問が浮かんだ。「あなたがずっと私を調べていたのなら、私があなたを『調べ返す』ことができないとでも思ったの?」実は、亮太と優子の姉弟関係は、詩織ずっと前から知っていた。彼をあえてそばに置いていたのは、彼らが一体何を企んでいるのか、その尻尾を掴みたかったからだ。優子が陽介を手に入れられないからといって、簡単に諦めるような女でないことは分かっていた。でも、その弟がわざわざ詩織に接触し、人懐っこさを装って近づいてきたからには、彼らが最終的に私から何を得ようとしているのか、どうしても知りたかった。「どうして……いや、それよりも、君は他に、いったい何を知っているんだ?」亮太は箸を置き、口を拭うと、椅子に深くもたれて詩織の答えを待った。
予期せぬ流産に打ちのめされた小林詩織(こばやし しおり)は、一人病室を出て夫・高遠陽介(たかとお ようすけ)を探した。医局の外で彼を見つけ、ドアをノックしようと手を上げたその時、漏れ聞こえてきたのは、信じがたい言葉だった。「妻の子宮を切除してくれ。もう彼女に子供は必要ない」陽介は隣にいた女を医者の前に引き寄せ、彼女のお腹を慈しむようにゆっくりと撫でていた。「だが、彼女のお腹の子は絶対に守ってくれ。これは俺の唯一の血筋だ」その女の正体は、詩織があまりにもよく知っている人物——陽介に三年仕えている秘書の桜井優子(さくらい ゆうこ)だった。彼は真剣に、そして異様な緊張感を漂わせながら繰り返し医師に念を押す。「必ず最高の薬を使うように!万が一のことも絶対に許さない!」詩織は伸ばしかけた手を引っ込め、全身の血の気が引くような衝撃を受けた。まさか、かつてあれほど愛し合ったはずの夫が、子供を失ったばかりの詩織に対してこんな非道なことができるなんて……ただ一途に彼を信じていた心は、その裏切りによって粉々に砕かれ、深く傷つけられた。愛ゆえに、愛する人を手放す——それもまた、一つの愛の形なのかもしれない。茫然自失とした様子で、詩織は病室へとぼとぼと戻っていった。 その道すがら、彼女の頭の中では二つの光景が繰り返し蘇っていた。 一つは高遠陽介の手が桜井優子のお腹に触れていた光景。 もう一つは、詩織自身の妊娠を知った彼が、おそるおそる彼女のお腹に耳を当てていた光景だった。 対照的なその二つの光景が脳裏で繰り返され、詩織の心を何度も引き裂くのだった。 彼が子供好きなのは知っていた。そして、詩織のことも愛してくれていると信じていた。 だが今は、彼の愛情などひどく偽善的で安っぽいものにしか思えなかった。 フロア中の看護師たちは、噂しきりといった様子で、羨望の眼差しを詩織に向けていた。「奥さんのために産婦人科フロアを丸ごと貸し切るなんて、本当にすごい旦那さんよね。私、あんなの初めて見たわ」「しかもね、付き添いの人を12人も頼んで、24時間体制で見守らせているそうだ」「あなたは見てないかもしれないけど、あのご主人、奥さんが流産されたって聞いた時、手術室の前で、もう息もできないほど泣きじゃくってたそうよ」も
詩織が口を開きかけた時。病室のドアが静かに開き、優子が大きな花束を抱え、お見舞いの品らしき箱を持って目の前に現れた。「高遠社長、奥様、失礼いたします。会社の者を代表して、奥様のお見舞いに上がりました」優子は陽介のもとで働き始めて三年になる。陽介は彼女に言及するたび、いつも褒めちぎっていた。スタイル抜群で、頭も切れるし、とても気が利く、と。会社の取引の多くは彼女がまとめてきたものだ。だから、会社に利益をもたらしてくれる人間として、陽介も詩織も彼女を気に入っていた。陽介は優子を一瞥すると、冷ややかに頷いただけだった。それが優子への返事の代わりらしかったが、彼の視線は片時も詩織から離れなかった。だが、この状況――優子の殊勝な態度も、陽介の詩織だけを気遣う素振りも――すべて彼らが自分に見せているだけの芝居に過ぎないことを、詩織はとうに見抜いている。「ありがとう。でも、もう休みたいの」拒絶の言葉だったが、声はか細く震えていたかもしれない。詩織は彼らに背を向けた。優子はこれで察して出ていくだろうと思ったのに、彼女はこともあろうに椅子を持ってきて、陽介のすぐ隣に陣取るように腰を下ろした。陽介があくまで詩織の背中を労わるようにマッサージしているその傍らで、優子はなんと、すっくと立ち上がり陽介の肩を揉み始めた。三人の奇妙な構図に、病室のガラス越しに多くの看護師たちが訝しげな視線を送っていた。陽介は優子の馴れ馴れしい仕草を咎めもせず、むしろ、どこか満更でもなさそうな表情さえ浮かべていた。病室にいた介護士や看護師たちはいつの間にかそっと部屋を出ていった。考えるまでもなく、部屋の外では好奇と非難の入り混じった様々な憶測が飛び交っていることだろう。優子の手は次第に大胆になり、肩からゆっくりと下腹部へと滑り降り、意味ありげに一瞬その動きを止めた。陽介は苦虫を噛み潰したように眉をひそめて優子を睨んだが、優子はそれを「続けろ」という合図と受け取ったかのように、挑発するかのように、さらにあからさまな動きを見せた。優子の手が彼のシャツのボタンの隙間からねじ込まれ、そのなまめかしい指先が、彼の熱い素肌に直接触れる感触が伝わってくるかのようだ。途端に、詩織の背中を揉んでいた陽介の手に、ぐっと力がこもった。詩織は固く目を閉じ、身動き一つ
「奥様、どうなさいましたか?どこかお怪我でもありますか?」いつの間にか、詩織の周りには数人の看護師が集まっていた。彼女たちは互いに顔を見合わせ、一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに詩織を囲んで慰め始めた。ああ、この人たちも、夫が自分を裏切ったこと、そして子供を産む権利さえ無情にも奪い去ったことまで、すべて知っているんだ……そう思って、一度堰を切った悲しみは、もう抑えきれなかった。詩織は病室のベッドに突っ伏し、声を上げて長いこと泣き続けた。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。ふと目が覚めると、ベッドの傍らには優子が一人、足を組んで座っており、あからさまに嘲るような笑みを浮かべていた。「……あら、やっぱり全部知っちゃったみたい。今、私のお腹には陽介さんの子供がいるの。彼にとって、待望の、たった一人の子供、ね」 優子はそばにあったみかんを一つ手に取って口に運び、これみよがしに自分のお腹をゆっくり撫でながら詩織を見た。「……あなた、たち……いつ、から……?」詩織は思わず拳を強く握りしめていた。爪が肉に深く食い込み、じわりと血が滲む。その鋭い痛みでさえ、心臓を直接鷲掴みにされるような息苦しいほどの苦しさを紛らわせることはできなかった。優子は鼻で笑うと、見せつけるように指を三本立てた。「三年前。私が高遠グループの秘書になってすぐよ。陽介さんがあなたを置いてけぼりにしてパーティーに出た時、私が彼の隣でかいがいしく付き添って、ずいぶんお酒を肩代わりしてあげたの。……その夜に、ね。彼は流石にあなたを裏切って後ろめたかったんでしょうね、後日、私に大金を渡して手切れ金にしようとしたわ。でも、私は彼を愛してる、見返りなんていらないって言った。そして自分から秘書として会社に残りたいって健気にお願いしたら、彼も受け入れてくれたの。なのに、あの人は突然全財産をあなたに残すなんて言い出して、本当、救いようのないバカじゃない? 何度か彼を思いとどまらせようとしたけど結局無駄で、私に内緒でこっそりあなた名義にお金を移したのよ」 次第に狂気を帯びていく優子の顔を見ながら、詩織は彼女を殴りつけたい衝動を必死にこらえた。「あなたと彼の関係って、本当、笑っちゃうわよね。まさか、全財産をあなたにあげれば罪
優子の上辺だけの言葉は、表向きはお世辞のようでも、詩織の耳にはただの皮肉と、そして見せつけにしか聞こえなかった。詩織は顔を背け、手で追い払うような仕草をした。それでも陽介は、これではまだ誠意が伝わらないとでも思ったのか、なおも詩織の手を取り、必死に忠誠心を示し始めた。「詩織、俺が生涯妻にするのは君だけだ。愛しているのは本当に君だけなんだ」彼の空々しい偽善に付き合うのも億劫で、詩織はただ「ええ」とだけ、蚊の鳴くような声で返した。陽介は一瞬口を結び、何かを決心したように一つ深く息を吸い込むと、努めてゆっくりと口を開いた。「詩織、実は今週、会社で重要な会議があって、どうしても出なければならないんだ。本当は今日だったんだが、君が気絶したから心配で付き添いたくて、急遽明日に延期したんだ。今度こそ、必ず連絡がつくようにしておくから。君が目を覚ましたらいつでもかけてきてくれ、どんな状況でも必ず出るから!」彼は詩織の些細な表情の変化、僅かな心の動きさえも見逃すまいと、食い入るように詩織の一挙手一投足を見つめていた。明日の彼の本当の目的――あの忌まわしい結婚式――を知られることを恐れているのか、それとも、今度こそ本当に詩織を完全に失うことを恐れているのか、詩織にはわからなかった。詩織は込み上げる怒りと失望を喉の奥に押し殺し、小さく頷いた。「仕事、頑張って。私は病院にいるから、心配いらないわ」陽介は安堵したように詩織の手を引き寄せ、彼のざらついた顔を詩織の手のひらにぐりぐりと強く押し当てた。無精髭が当たって、痒いような、ぞっとするほど気持ち悪いような感覚。他の女の唾液の痕跡がついたであろう彼の肌に、生理的な嫌悪感を覚えた。「詩織、君の体が回復したら、すぐに養子を迎えよう。 一人じゃ足りないなら二人だ。すべて君の好きなように選んでいいんだ!子供たちが大きくなったら、会社は彼らに任せて、俺たち二人きりで世界一周旅行をしよう。いいね?」もし彼が明日、他の女と結婚することを知らなかったなら、詩織はまた彼の空虚な甘い言葉に絡め取られていたかもしれない。陽介は詩織がやはり疲れているように見えるのを口実に、そそくさと病室を後にした。詩織がどれほどの時間を要したか、気持ちの整理をつけ、静かに病院を出て、かつて愛を育んだ
陽介は病院中を探し回っても詩織の姿はなく、今度は車を飛ばして二人が暮らした家に戻り、捜索を続けた。だが、もぬけの殻となった家にも詩織の痕跡など残っているはずもなかった。陽介はなおも焦って電話をかけ、メッセージを立て続けに送ってきたが、詩織はとっくに彼をブロックし、連絡先も着信拒否も設定済みだった。彼はわなわなと震える手で、憤慨してテーブルに残された離婚届を粉々に引き裂き、何度も鳴る優子からの着信も今は無視した。「詩織、この俺からどこに隠れようと、必ずお前を見つけ出してやる!」一方、詩織はようやく、いつも暖かな陽光が降り注ぐ場所――オーストラリアにたどり着いた。毎日、柔らかい陽射しを浴び、心地よい潮風に吹かれ、過去の何のしがらみもなく、見知らぬ人混みの中をそぞろ歩く。そうして数日、波の音だけを聞きながら心身を休めた後、意を決して現地の病院で全身検査を受けた。検査結果は、残酷なほどに明確だった。詩織の体にもう、子宮はなかった。医師は詩織の痛ましげで悲しそうな様子を見て、しきりに励ますように慰めてくれたが、詩織は笑顔で「大丈夫です」と答えるしかなかった。悲しくないわけがない。あの子を、詩織は五年も待ち望んでいたのだ。子供の頃、詩織は家で両親から愛されていなかった。なぜ両親に愛されないのか、その理由をずっと探し続けていた。詩織が最も途方に暮れ、不安だった時、陽介が彼女の世界に現れた。彼は詩織にありったけの愛をくれ、喜びと、愛されるという感覚を再び教えてくれた。子供時代の経験から、すべての親が自分の子供を愛するわけではないと知っていた。けれど陽介は、詩織に「家庭」というものへの憧れを再び抱かせてくれた。彼との家庭に、二人の子を授かることを切望していた。けれど結婚生活が始まっても、子宝にはなかなか恵まれなかった。陽介は「焦るな」と言うばかりだったが、詩織は諦めきれずにあらゆる手立てを尽くした。だが、それでも願いは叶わなかった。万策尽きて諦めきっていた、まさにその時、あの子は奇跡のように詩織のお腹に宿ってくれたのだ。今、妊娠を告げた時の陽介の、どこか上の空だった表情を思い出すと、胸に鈍い痛みが疼く。結局、あの子の誕生を心から待ち望んでいたのは、詩織だけだったのだろう。まさか陽介が、
「詩織!やっと……やっと見つけた!頼むから、一緒に家に帰ろう!」陽介の声はひどくしわがれ、目は赤く充血していた。いつもの自信に溢れた様子は見る影もなく、この数日でひどくやつれていた。彼は詩織の腕を鷲掴みにし、逃がさないとばかりに強く掴んだ。まるで、指の間からすり抜けていく砂のように、一度放したらまたいなくなってしまうと恐れるかのようだ。「俺はただ会社の会議に行っていただけなんだ。どうして連絡もなしに、黙って病院からいなくなったりしたんだ? なあ、俺が何か君を傷つけたのか?それとも、もう俺を愛していないというのか?」自分の裏切りには一言も触れず、逆に詩織のせいにするかのような身勝手な口ぶりに、詩織はこみ上げてくる強い吐き気を懸命に覚えた。詩織が冷たく黙り込んでいるのを見て、陽介の声はさらに苦しげになった。「詩織、お願いだ、もう一度だけチャンスをくれないか? 約束する、今度こそは嘘じゃない。君のためなら会社だって売る。君が望む人生を、この先ずっと、そばで一緒に過ごさせてくれないか?」「会社を売るって?! どうせ優子と『あなたの子』に渡すんでしょう!」陽介は虚を突かれ、雷に打たれたかのように詩織を見つめ、わななく手で掴んでいた詩織の腕を思わず緩めた。「子供?……何を言っているんだ、詩織。君は何か、とんでもない誤解をしているんじゃないか?」詩織は冷たい表情でスマートフォンを取り出し、あの日、優子が勝ち誇って詩織を脅した時の動画を、陽介の目の前で再生して見せた。陽介の顔はみるみるうちに真っ青になり、指先から手は抑えきれずにカタカタと震え始めた。「詩織、ちが……信じてくれ、今度こそ……」「信じて? よくそんなことが言えるわね!あなたが仕事で忙しい、会議や残業が多いと言った時、私は健気に信じたわ。優子とは何の関係もないと白々しく言った時も、信じた。 私が流産したあの日だってそう。あなたが電話に出なくても、会社にいるという真っ赤な嘘を、私はそれでも愚かにも信じたのよ。 それで、どの口が! あなたは私の信頼に応えてくれたって言うの!?」陽介は崩れるようにその場に跪き、もはやみっともなく必死に詩織の手にすがりついた。 「詩織、頼む! 本当に君なしでは生きていられないんだ! もう二度と、神
いつの間にか、詩織の隣人の部屋には、斎藤亮太(さいとう りょうた)という人懐っこそうな若い男性が住むようになっていた。彼が引っ越してきてから、詩織の部屋には、以前よりずっと多くの歓声と笑い声が響くようになった。詩織と亮太は、よく一緒に映画を見たり、食事をしたり、時には旅行に出かけたりした。まるでずっと昔からの友達のように、自然で、親しみやすい付き合いだった。特に生理の時期になると、彼はいつもさりげなく気を利かせて、詩織に体を温める飲み物を作ってあげた。その穏やかさに触れるたび、詩織は心のどこかで安らぎを感じると同時に、ふと、陽介の面影を重ねてしまうことがあった。でも、心の奥では分かっている。二人は全く違う人間だ。亮太は思いやりがあって温かく、決して周りの人に感情的に怒ったりしない。彼に好きな人がいる、と前に打ち明けてくれたことも覚えている。ある日、詩織のアパートが上の階からの水漏れで水浸しになり、修理が終わるまでやむを得ず亮太と同じ屋根の下で一時的に暮らすことになった。夕食後の、寛いだ雰囲気での映画鑑賞は、なぜか決まって詩織が一番涙もろくなる時間だった。「夕飯、今日のしょっぱすぎたかな?水、たくさん飲んでたみたいだけど。 最近、毎晩のようにご飯のあと、ずいぶんひどく泣いてるじゃないか」亮太は、「これでも食べて元気出して」とでも言うばかりに、フルーツサラダを詩織の手にそっと持たせながら、明るいコメディ映画にチャンネルを変えてくれた。彼は詩織が過去に何があったのか根掘り葉掘り尋ねたりはせず、ただ「無理しないで、少しずつ前を向けばいい」と、いつも励ましてくれた。そう言われても、自分でもよく分かっている。ただ時々、本当に些細なことがきっかけで、無意識に昔のことをフラッシュバックのように思い出してしまうのだ。あのオーストラリアでの悪夢の再会以来、陽介は詩織の世界から完全に消えて、すでに三十三日が過ぎていた。感情とは本当に不思議なものだ。完全に断ち切ったつもりでも、ふとした瞬間に亡霊のように忍び寄って現れて、無意識にその影を追って思い返してしまう。今さらあの男とよりを戻す気など毛頭ない。けれど、深く傷ついた心を完全に癒すのは、やはりそう簡単なことではなかった。亮太は何度か、「新しい恋をして、辛い記憶を乗
詩織は一足先に家に戻り、自分の荷物をまとめた。キッチンで食材を準備し、今日の食事を作った。食事ができあがる頃、亮太も帰ってきた。彼は黙って食卓につき、キッチンで忙しく立ち働く詩織を見ていた。湯気の立つシンプルな汁そばを彼の前に出すと、彼は詩織の目の前で、まるで子供のように夢中でそれをかき込んだその一挙一動が、詩織の作ったうどんをとても気に入ってくれたことを物語っていた。「詩織、安心して。君があれほど嫌がってた奴らは、もう二度と君を煩わせることはないから」亮太はうどんを食べながら、まるで日常の出来事を話すかのように言った。詩織がなかなか返事をしないので、彼は顔を上げて彼女を見た。「これ、実は、私たちのお別れの食事でもあるの」詩織は平然と彼を見つめ、彼が一口食べるごとに微笑みかけた。「詩織、何を馬鹿なことを。もし、もしよければだけど…… その……君さえよければ、僕のこと、考えてくれてもいいんだ」「じゃあ、あなたの好きな人は?もう追いかけないの?」詩織は探るような目で亮太を見つめ続けた。彼もまっすぐに詩織を見返していた。「もし最初にああ言わなかったら、君はきっと、僕をこんなに近くにいさせてはくれなかっただろうから」男が忠誠を誓う時の姿は、驚くほど似ていた。「亮太さん、あなたの好きな人は、最初から私じゃなかったんでしょう。 あなたは、あなたの姉さん――優子――を手伝って、私を監視しに来たのね」亮太の笑顔がこわばり、その目には信じられないという思いと疑問が浮かんだ。「あなたがずっと私を調べていたのなら、私があなたを『調べ返す』ことができないとでも思ったの?」実は、亮太と優子の姉弟関係は、詩織ずっと前から知っていた。彼をあえてそばに置いていたのは、彼らが一体何を企んでいるのか、その尻尾を掴みたかったからだ。優子が陽介を手に入れられないからといって、簡単に諦めるような女でないことは分かっていた。でも、その弟がわざわざ詩織に接触し、人懐っこさを装って近づいてきたからには、彼らが最終的に私から何を得ようとしているのか、どうしても知りたかった。「どうして……いや、それよりも、君は他に、いったい何を知っているんだ?」亮太は箸を置き、口を拭うと、椅子に深くもたれて詩織の答えを待った。
一週間後、詩織はショッピングモールで、児童養護施設のためのお金を募るチャリティイベントのアルバイトをしていた。そこで、優子に思いがけず遭遇した。彼女は少し離れた場所に立ち、泣き腫らしたのか赤く腫れた目で、じっと詩織を見つめていた。詩織が気づかないふりで無視し続けていると、優子は意を決したように、ようやく詩織の前までやってきた。「本当に、あっさりと彼のことを諦めてしまったの?彼はあなたのためにあんなに心を砕いて尽くしたのに……あの診断書を見ても、まだすべて彼が悪いと思うの?あの書類だって、彼が、破れたのを一枚一枚、夜なべして丁寧に貼り合わせて直したのよ。あなたが病気だと知ってから、彼は陰でそれを見るたびに泣いていたわ……」詩織は優子が見えていないふり、彼女の声が聞こえないふりをして、俯いて黙々とテーブルを片付け続けた。「詩織さん、陽介はあなたを必要としているの。お願いだから、彼が私を会社から追い出すのを、あなたから言って止めさせて。子会社でも、別の部署に異動するから、どこへでも行くから!このお給料がないと、私一人ではとても子供を養っていけないの……」「あなたたちのことに、もう私を巻き込まないで。繰り返すけど、私は彼とも、あなたとも、もう何の関係もないの」詩織があくまで淡々と言うと、優子はその場で言葉を失い、呆然としていた。詩織にとって、陽介に対する失望は、もうたくさんだ。体に刻まれた傷跡のように、この苦しみも怒りも、決してすべてを忘れられるはずがない。 たとえ昔、彼が詩織にほんの少しでも愛情を持っていた時期があったとしても、そんな過去の感傷など、今は少しも欲しくない。むしろ、邪魔なだけだ。優子は突然、詩織の目の前で跪き、詩織の足に抱きついて懇願し始めた。周囲にはあっという間に人だかりができて、どんどん膨らんでいく。「お願い、お願いだから、私と子供を助けて! もう一度考え直して、陽介さんとよりを戻して。 そうすれば、もう二度とあなたたちの前に現れないって約束するから!」聞く耳を持たない彼女の様子に、詩織は苛立ちを覚えた。事情を知らない野次馬たちの注目を集めたくなかったし、彼女の無茶な振る舞いでチャリティイベントに迷惑をかけたくもなかった。せめて彼女を地面から立たせよう
陽介はまさに暴れ馬のように、亮太を荒々しく突き飛ばし、詩織の目の前に立ちはだかるように飛び込んできた。「浮気はしていないとあれほど言っておきながら、そいつは誰だ?!」俺が必死になってお前を探しているこの時に、お前はこいつと同居していたのか! 詩織、少しは恥を知れ!」亮太は険しい顔で、打ち付けた腕の痛みも顧みず、再び詩織の前に立ちはだかった。「彼女が何をしようと彼女の自由だ。あなたのような男に干渉する権利はない!すぐに僕の家から出ていけ!」亮太の声は、静かだが揺るぎない怒りに満ちていた。陽介が逆上し、拳を振り上げて亮太に殴りかかろうとしたが、亮太は冷静にその拳をがっしりと掴んで受け止めた。「陽介! そうやって私にすべての罪を着せれば、あなたは過去を忘れて後ろめたさなく生きていけるとでも思っているの?!甘いわ!私はあなたに三年間も、ただ一途に信じて騙され続けた。その間、あなたは一瞬たりとも、心の底から私に対して本当に申し訳ないなんて思っていなかった!ただ、世間体ばかり気にして、人に知られて非難されるのが怖くて、自分の心さえ偽って行動を正当化し続けていただけ。高遠陽介、あなたはただの臆病者!根っからの、救いようのない臆病者だ!」「詩織、俺から離れたら、お前は一生、俺以上の男を見つけることなんてできないぞ!三日だけ、猶予をくれてやる。三日経ったら、お前の前に現れない!それでいいんだな!?」 陽介は診断書らしき書類を詩織の傍らに投げ捨てると、何も言わずに亮太は彼にぴったりとついていき、陽介が部屋から完全にいなくなるまで、その背中を見届けた。詩織は糸が切れたように床にへたり込み、涙が止めどなく流れた。彼にそんな権利がどこにあるというの?昔、彼が詩織にあれほど良くしてくれたことは認める。でも、だからといって、詩織にしたこの仕打ちを、なぜああもことさらに否定できるの。詩織が両親に愛されず、彼以外に選択肢がないと高を括っているから?じわりと、後悔の念が胸に広がり始めた。どうして昔、彼に子供の頃の、あの辛い話をしてしまったのだろう、と。ただ打ち明けることで心が少し軽くなり、二人の関係がもっと親密になって、お互いに隠し事がなくなればいいと、ただそう願っていただけなのに。まさか時を経て、それは彼が詩
いつの間にか、詩織の隣人の部屋には、斎藤亮太(さいとう りょうた)という人懐っこそうな若い男性が住むようになっていた。彼が引っ越してきてから、詩織の部屋には、以前よりずっと多くの歓声と笑い声が響くようになった。詩織と亮太は、よく一緒に映画を見たり、食事をしたり、時には旅行に出かけたりした。まるでずっと昔からの友達のように、自然で、親しみやすい付き合いだった。特に生理の時期になると、彼はいつもさりげなく気を利かせて、詩織に体を温める飲み物を作ってあげた。その穏やかさに触れるたび、詩織は心のどこかで安らぎを感じると同時に、ふと、陽介の面影を重ねてしまうことがあった。でも、心の奥では分かっている。二人は全く違う人間だ。亮太は思いやりがあって温かく、決して周りの人に感情的に怒ったりしない。彼に好きな人がいる、と前に打ち明けてくれたことも覚えている。ある日、詩織のアパートが上の階からの水漏れで水浸しになり、修理が終わるまでやむを得ず亮太と同じ屋根の下で一時的に暮らすことになった。夕食後の、寛いだ雰囲気での映画鑑賞は、なぜか決まって詩織が一番涙もろくなる時間だった。「夕飯、今日のしょっぱすぎたかな?水、たくさん飲んでたみたいだけど。 最近、毎晩のようにご飯のあと、ずいぶんひどく泣いてるじゃないか」亮太は、「これでも食べて元気出して」とでも言うばかりに、フルーツサラダを詩織の手にそっと持たせながら、明るいコメディ映画にチャンネルを変えてくれた。彼は詩織が過去に何があったのか根掘り葉掘り尋ねたりはせず、ただ「無理しないで、少しずつ前を向けばいい」と、いつも励ましてくれた。そう言われても、自分でもよく分かっている。ただ時々、本当に些細なことがきっかけで、無意識に昔のことをフラッシュバックのように思い出してしまうのだ。あのオーストラリアでの悪夢の再会以来、陽介は詩織の世界から完全に消えて、すでに三十三日が過ぎていた。感情とは本当に不思議なものだ。完全に断ち切ったつもりでも、ふとした瞬間に亡霊のように忍び寄って現れて、無意識にその影を追って思い返してしまう。今さらあの男とよりを戻す気など毛頭ない。けれど、深く傷ついた心を完全に癒すのは、やはりそう簡単なことではなかった。亮太は何度か、「新しい恋をして、辛い記憶を乗
「詩織!やっと……やっと見つけた!頼むから、一緒に家に帰ろう!」陽介の声はひどくしわがれ、目は赤く充血していた。いつもの自信に溢れた様子は見る影もなく、この数日でひどくやつれていた。彼は詩織の腕を鷲掴みにし、逃がさないとばかりに強く掴んだ。まるで、指の間からすり抜けていく砂のように、一度放したらまたいなくなってしまうと恐れるかのようだ。「俺はただ会社の会議に行っていただけなんだ。どうして連絡もなしに、黙って病院からいなくなったりしたんだ? なあ、俺が何か君を傷つけたのか?それとも、もう俺を愛していないというのか?」自分の裏切りには一言も触れず、逆に詩織のせいにするかのような身勝手な口ぶりに、詩織はこみ上げてくる強い吐き気を懸命に覚えた。詩織が冷たく黙り込んでいるのを見て、陽介の声はさらに苦しげになった。「詩織、お願いだ、もう一度だけチャンスをくれないか? 約束する、今度こそは嘘じゃない。君のためなら会社だって売る。君が望む人生を、この先ずっと、そばで一緒に過ごさせてくれないか?」「会社を売るって?! どうせ優子と『あなたの子』に渡すんでしょう!」陽介は虚を突かれ、雷に打たれたかのように詩織を見つめ、わななく手で掴んでいた詩織の腕を思わず緩めた。「子供?……何を言っているんだ、詩織。君は何か、とんでもない誤解をしているんじゃないか?」詩織は冷たい表情でスマートフォンを取り出し、あの日、優子が勝ち誇って詩織を脅した時の動画を、陽介の目の前で再生して見せた。陽介の顔はみるみるうちに真っ青になり、指先から手は抑えきれずにカタカタと震え始めた。「詩織、ちが……信じてくれ、今度こそ……」「信じて? よくそんなことが言えるわね!あなたが仕事で忙しい、会議や残業が多いと言った時、私は健気に信じたわ。優子とは何の関係もないと白々しく言った時も、信じた。 私が流産したあの日だってそう。あなたが電話に出なくても、会社にいるという真っ赤な嘘を、私はそれでも愚かにも信じたのよ。 それで、どの口が! あなたは私の信頼に応えてくれたって言うの!?」陽介は崩れるようにその場に跪き、もはやみっともなく必死に詩織の手にすがりついた。 「詩織、頼む! 本当に君なしでは生きていられないんだ! もう二度と、神
陽介は病院中を探し回っても詩織の姿はなく、今度は車を飛ばして二人が暮らした家に戻り、捜索を続けた。だが、もぬけの殻となった家にも詩織の痕跡など残っているはずもなかった。陽介はなおも焦って電話をかけ、メッセージを立て続けに送ってきたが、詩織はとっくに彼をブロックし、連絡先も着信拒否も設定済みだった。彼はわなわなと震える手で、憤慨してテーブルに残された離婚届を粉々に引き裂き、何度も鳴る優子からの着信も今は無視した。「詩織、この俺からどこに隠れようと、必ずお前を見つけ出してやる!」一方、詩織はようやく、いつも暖かな陽光が降り注ぐ場所――オーストラリアにたどり着いた。毎日、柔らかい陽射しを浴び、心地よい潮風に吹かれ、過去の何のしがらみもなく、見知らぬ人混みの中をそぞろ歩く。そうして数日、波の音だけを聞きながら心身を休めた後、意を決して現地の病院で全身検査を受けた。検査結果は、残酷なほどに明確だった。詩織の体にもう、子宮はなかった。医師は詩織の痛ましげで悲しそうな様子を見て、しきりに励ますように慰めてくれたが、詩織は笑顔で「大丈夫です」と答えるしかなかった。悲しくないわけがない。あの子を、詩織は五年も待ち望んでいたのだ。子供の頃、詩織は家で両親から愛されていなかった。なぜ両親に愛されないのか、その理由をずっと探し続けていた。詩織が最も途方に暮れ、不安だった時、陽介が彼女の世界に現れた。彼は詩織にありったけの愛をくれ、喜びと、愛されるという感覚を再び教えてくれた。子供時代の経験から、すべての親が自分の子供を愛するわけではないと知っていた。けれど陽介は、詩織に「家庭」というものへの憧れを再び抱かせてくれた。彼との家庭に、二人の子を授かることを切望していた。けれど結婚生活が始まっても、子宝にはなかなか恵まれなかった。陽介は「焦るな」と言うばかりだったが、詩織は諦めきれずにあらゆる手立てを尽くした。だが、それでも願いは叶わなかった。万策尽きて諦めきっていた、まさにその時、あの子は奇跡のように詩織のお腹に宿ってくれたのだ。今、妊娠を告げた時の陽介の、どこか上の空だった表情を思い出すと、胸に鈍い痛みが疼く。結局、あの子の誕生を心から待ち望んでいたのは、詩織だけだったのだろう。まさか陽介が、
優子の上辺だけの言葉は、表向きはお世辞のようでも、詩織の耳にはただの皮肉と、そして見せつけにしか聞こえなかった。詩織は顔を背け、手で追い払うような仕草をした。それでも陽介は、これではまだ誠意が伝わらないとでも思ったのか、なおも詩織の手を取り、必死に忠誠心を示し始めた。「詩織、俺が生涯妻にするのは君だけだ。愛しているのは本当に君だけなんだ」彼の空々しい偽善に付き合うのも億劫で、詩織はただ「ええ」とだけ、蚊の鳴くような声で返した。陽介は一瞬口を結び、何かを決心したように一つ深く息を吸い込むと、努めてゆっくりと口を開いた。「詩織、実は今週、会社で重要な会議があって、どうしても出なければならないんだ。本当は今日だったんだが、君が気絶したから心配で付き添いたくて、急遽明日に延期したんだ。今度こそ、必ず連絡がつくようにしておくから。君が目を覚ましたらいつでもかけてきてくれ、どんな状況でも必ず出るから!」彼は詩織の些細な表情の変化、僅かな心の動きさえも見逃すまいと、食い入るように詩織の一挙手一投足を見つめていた。明日の彼の本当の目的――あの忌まわしい結婚式――を知られることを恐れているのか、それとも、今度こそ本当に詩織を完全に失うことを恐れているのか、詩織にはわからなかった。詩織は込み上げる怒りと失望を喉の奥に押し殺し、小さく頷いた。「仕事、頑張って。私は病院にいるから、心配いらないわ」陽介は安堵したように詩織の手を引き寄せ、彼のざらついた顔を詩織の手のひらにぐりぐりと強く押し当てた。無精髭が当たって、痒いような、ぞっとするほど気持ち悪いような感覚。他の女の唾液の痕跡がついたであろう彼の肌に、生理的な嫌悪感を覚えた。「詩織、君の体が回復したら、すぐに養子を迎えよう。 一人じゃ足りないなら二人だ。すべて君の好きなように選んでいいんだ!子供たちが大きくなったら、会社は彼らに任せて、俺たち二人きりで世界一周旅行をしよう。いいね?」もし彼が明日、他の女と結婚することを知らなかったなら、詩織はまた彼の空虚な甘い言葉に絡め取られていたかもしれない。陽介は詩織がやはり疲れているように見えるのを口実に、そそくさと病室を後にした。詩織がどれほどの時間を要したか、気持ちの整理をつけ、静かに病院を出て、かつて愛を育んだ
「奥様、どうなさいましたか?どこかお怪我でもありますか?」いつの間にか、詩織の周りには数人の看護師が集まっていた。彼女たちは互いに顔を見合わせ、一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに詩織を囲んで慰め始めた。ああ、この人たちも、夫が自分を裏切ったこと、そして子供を産む権利さえ無情にも奪い去ったことまで、すべて知っているんだ……そう思って、一度堰を切った悲しみは、もう抑えきれなかった。詩織は病室のベッドに突っ伏し、声を上げて長いこと泣き続けた。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。ふと目が覚めると、ベッドの傍らには優子が一人、足を組んで座っており、あからさまに嘲るような笑みを浮かべていた。「……あら、やっぱり全部知っちゃったみたい。今、私のお腹には陽介さんの子供がいるの。彼にとって、待望の、たった一人の子供、ね」 優子はそばにあったみかんを一つ手に取って口に運び、これみよがしに自分のお腹をゆっくり撫でながら詩織を見た。「……あなた、たち……いつ、から……?」詩織は思わず拳を強く握りしめていた。爪が肉に深く食い込み、じわりと血が滲む。その鋭い痛みでさえ、心臓を直接鷲掴みにされるような息苦しいほどの苦しさを紛らわせることはできなかった。優子は鼻で笑うと、見せつけるように指を三本立てた。「三年前。私が高遠グループの秘書になってすぐよ。陽介さんがあなたを置いてけぼりにしてパーティーに出た時、私が彼の隣でかいがいしく付き添って、ずいぶんお酒を肩代わりしてあげたの。……その夜に、ね。彼は流石にあなたを裏切って後ろめたかったんでしょうね、後日、私に大金を渡して手切れ金にしようとしたわ。でも、私は彼を愛してる、見返りなんていらないって言った。そして自分から秘書として会社に残りたいって健気にお願いしたら、彼も受け入れてくれたの。なのに、あの人は突然全財産をあなたに残すなんて言い出して、本当、救いようのないバカじゃない? 何度か彼を思いとどまらせようとしたけど結局無駄で、私に内緒でこっそりあなた名義にお金を移したのよ」 次第に狂気を帯びていく優子の顔を見ながら、詩織は彼女を殴りつけたい衝動を必死にこらえた。「あなたと彼の関係って、本当、笑っちゃうわよね。まさか、全財産をあなたにあげれば罪
詩織が口を開きかけた時。病室のドアが静かに開き、優子が大きな花束を抱え、お見舞いの品らしき箱を持って目の前に現れた。「高遠社長、奥様、失礼いたします。会社の者を代表して、奥様のお見舞いに上がりました」優子は陽介のもとで働き始めて三年になる。陽介は彼女に言及するたび、いつも褒めちぎっていた。スタイル抜群で、頭も切れるし、とても気が利く、と。会社の取引の多くは彼女がまとめてきたものだ。だから、会社に利益をもたらしてくれる人間として、陽介も詩織も彼女を気に入っていた。陽介は優子を一瞥すると、冷ややかに頷いただけだった。それが優子への返事の代わりらしかったが、彼の視線は片時も詩織から離れなかった。だが、この状況――優子の殊勝な態度も、陽介の詩織だけを気遣う素振りも――すべて彼らが自分に見せているだけの芝居に過ぎないことを、詩織はとうに見抜いている。「ありがとう。でも、もう休みたいの」拒絶の言葉だったが、声はか細く震えていたかもしれない。詩織は彼らに背を向けた。優子はこれで察して出ていくだろうと思ったのに、彼女はこともあろうに椅子を持ってきて、陽介のすぐ隣に陣取るように腰を下ろした。陽介があくまで詩織の背中を労わるようにマッサージしているその傍らで、優子はなんと、すっくと立ち上がり陽介の肩を揉み始めた。三人の奇妙な構図に、病室のガラス越しに多くの看護師たちが訝しげな視線を送っていた。陽介は優子の馴れ馴れしい仕草を咎めもせず、むしろ、どこか満更でもなさそうな表情さえ浮かべていた。病室にいた介護士や看護師たちはいつの間にかそっと部屋を出ていった。考えるまでもなく、部屋の外では好奇と非難の入り混じった様々な憶測が飛び交っていることだろう。優子の手は次第に大胆になり、肩からゆっくりと下腹部へと滑り降り、意味ありげに一瞬その動きを止めた。陽介は苦虫を噛み潰したように眉をひそめて優子を睨んだが、優子はそれを「続けろ」という合図と受け取ったかのように、挑発するかのように、さらにあからさまな動きを見せた。優子の手が彼のシャツのボタンの隙間からねじ込まれ、そのなまめかしい指先が、彼の熱い素肌に直接触れる感触が伝わってくるかのようだ。途端に、詩織の背中を揉んでいた陽介の手に、ぐっと力がこもった。詩織は固く目を閉じ、身動き一つ