「なんでダメなの?早くこの復讐ゲームを終わらせたいって言ってたじゃないか?人が死ぬようなことには絶対しないから!あいつが限界ギリギリまで追い詰められたタイミングで、ちゃんとドアは開けるからさ」颯真の声は、相変わらず冷たくて硬かった。「ダメだ、リスクが高すぎる。彼女に何かあったら困る」電話の向こう側から、不満げな声が返ってきた。「マジで言ってんの?兄貴が緋月ちゃんを置いて、あの女を追いかけてたから、緋月ちゃんが一晩中泣いてたじゃん。兄貴がどれだけ時間かけて慰めたのか。緋月ちゃんに変な勘繰りさせないために、こうして第99回目の復讐計画を練ってるんじゃなかったの?それなのに、こっちダメ、あっちもダメって、どういうつもり?本当に好きな人、誰だったか忘れたわけじゃないよな?さっさとあの女とは縁切って、緋月ちゃんの元に戻ってよ。それがずっと望んでいたことじゃないのか?」颯真の呼吸が突然、荒くなった。何か言い返そうとしたようだったが、ちょうどその時、電話の向こうから、緋月の声が聞こえてきた。「颯真、さっきの話、全部聞いてたよ。今、一つだけ聞く。あの女への復讐、どうしてもこの方法じゃなきゃダメなの。颯真は賛成するの?それとも反対?」颯真は黙り込んだ。緋月の声は、涙声に変わった。「颯真、言ったよね。私のためなら何でもするって!」彼はやっと口を開いた。かすれた声で、「分かったよ、君の言う通りにする」緋月は涙まじりに笑い、仲間たちも興奮した声を上げた。「やったな!本当にその日が楽しみだぜ!」颯真は何度も念を押した。「絶対に、事故を起こすなよ」陰の中で、詩穂は心臓を誰かにぎゅっと掴まれたかのような痛みを感じて、息すらまともにできなかった。彼女は静かに部屋へ戻り、スマホを手に取ると、メッセージを送った。……記念日当日。颯真は計画通り、詩穂に言った。「詩穂、今日はサプライズがあるんだ。目を閉じて、連れて行きたい場所がある」詩穂はじっと彼を見つめ、抵抗せずに目を閉じた。颯真は微かに笑い、リボンで彼女の目を覆い、手を引いて車に乗せた。車が止まると、颯真は彼女を別荘の中へと案内した。「ここで少し待っててくれ。プレゼントを取ってくる。すぐ戻るから」詩穂はその場に立ち、颯真の足音が遠ざかるのを聞いていた。ちょうど彼がドア
別荘の遠くでは、男たちが燃え盛る大火事を見上げて、狂ったように騒ぎ、写真を撮りまくっていた。「ハハハ、99回目の復讐、大成功!」「これで兄貴も、やっと恋愛体質のあの女から解放されるぞ!」「中に入ったら、あいつの泣き叫ぶ顔をバッチリ撮って、ネットに晒してやろうぜ」……暗赤色の炎が、彼らの狂気じみた顔を不気味に照らし出していた。その後ろで、颯真は彼らの話を聞きながら、なぜか初めて違和感を覚えていた。頭の中に、なぜか別れ際の詩穂の表情がふっと浮かんできた。……そういえば、今日はやけに詩穂が静かだった気がする。例年、記念日といえば彼女が誰よりも張り切っていた。会場の手配から物の準備まで、全て詩穂一人で取り仕切っていた。正直、記念日はほとんど彼女一人で作り上げていたようなものだった。颯真は最初から最後まで、ほとんど関わったことがなかった。むしろそれで満足していた。どうせ彼女のことなんて好きじゃなかったから。心の奥ではこうさえ思っていた──「緋月をいじめなきゃ、今この場にいるのはお前じゃなかった」と。だが、今年の記念日の詩穂は、あまりにも静かすぎた。別荘へ向かう車の中でも、彼女は助手席でじっと黙り込んでいた。「好きだった」なんて、どこか不自然な告白をしたきり、記念日のことも何も聞いてこなかった。まるで、自分が操り人形にでもなったように、なすがままだった。そして、彼がここまで長い間戻らなかったのに、あの大火事が起きても、詩穂から一本の電話すらなかった。おかしい。胸に広がる嫌な予感に突き動かされ、颯真はスマホを取り出し、震える手で何度も画面を更新した。何度も何度も、LINEの画面や通話履歴をリロードする。だが、どれだけリロードしても、新しいメッセージも、通話の着信も、一件も来ていない。心臓が激しく高鳴り、全身に悪い予感が広がっていく。颯真は顔を上げた。炎に包まれた別荘が、まるで悪夢のように燃え盛っている。もう我慢できず、彼は無我夢中で足を踏み出し、別荘に駆け出そうとした。「おいおい、兄貴、どこ行くんだよ!?」仲間たちが慌てて颯真を引き止めた。ちょうどその時――「ドンッ!」轟音が夜空を貫き、巨大なキノコ雲が別荘の上に立ち昇った。皆の顔色が一気に青ざめた。「や、やばい
颯真の動きが、ふっと止まった。彼は、長い間、静かにその痩せ細った体を見つめていた。まるで、そこに立ち尽くす彫像のように。遠くで、救助員たちが重い足取りで、担架に乗せた詩穂の遺体を運んできた。やがて、彼の目の前にそっと担架を下ろした。「神崎さん、ご愁傷様です」雨脚が次第に強くなり、颯真の視界はぼやけていく。その中で、彼は崩れるように地面に膝をついた。その瞳は、真っ赤に腫れ上がっていた。震える手を何度伸ばしたが、うまく彼女の体を抱き上げることができなかった。ようやく救助員の手を借りて、彼は彼女の遺体をしっかりと抱き締めることができた。つい半日前まで、詩穂は彼の助手席に座り、微笑みながら明るい目で彼に「好きなんだ」と言ってくれていた。けれど今、彼女は静かに彼の腕の中で眠っている。その冷たい体温が彼の全身に伝わり、心臓まで氷に包まれたような気がした。「詩穂、もう冗談はやめてくれよ。起きてくれ、な?」何度も何度も、胸に抱く彼女の名を呼んだが、彼女はまるで拗ねているように、ひと言も返さなかった。それでも彼は、まるでかつて彼女に甘えるように、そっと自分の顔を彼女の頬に寄せた。彼女の顔についた血と煤が自分の顔を汚しても、颯真は眉ひとつ動かさなかった。颯真の脳裏に、いろんな記憶がよみがえる。これまで、彼は詩穂に色々な秘密を隠してきた。その中でも最も古い秘密は、彼が彼女に気づいていたのが、彼女が自分を好きになるよりも、ずっと前だったということ。あの日、新入生歓迎会。舞台の上で踊る詩穂の姿に、一瞬で心を奪われた。軽やかなステップ、ひらりと舞うスカート、そして太陽のような笑顔。今でもその光景を鮮明に覚えている。彼が見惚れているのに気づいたのか、隣のルームメイトが興奮気味に彼女のことを話してくれた。たくさんの言葉の中で、颯真の心に残ったのは、たった一つ。彼女の名前――七瀬詩穂。なんて美しく、清らかな響きだろう。彼はその名を、何度も口の中で繰り返してみた。ついには自分の名前と並べて呟いてみたりして。七瀬詩穂、神崎颯真。なんだか、とてもお似合いに思えた。だけど、すぐに首を振った。ダメだ、自分が好きなのは緋月だ。将来の結婚相手は彼女だけのはず。けれど、視線だけは、いつも詩穂を追い
周りには、いつの間にか人が集まってきていた。驚きと後悔に顔を歪めた彼の仲間たち。嫉妬を隠しきれない緋月の目。そして、悲しみの面持ちでこちらを見つめる多くの視線。だが、颯真は誰のことも見ていないふりをした。あの火事は、一夜にして京市を大きく変えてしまった。無数の名家が神崎家の怒りによって、一晩で滅ぼされた。そして、その家々の後継者たちは、颯真に地下室へと閉じ込められ、容赦なく殴りつけられていた。颯真はまるで理性を失った獣のように、倒れた男たちに拳を振り下ろし続ける。「なぜあの別荘にガソリンなんてがあったんだ!」「なぜお前らだけ先に逃げた!」「なぜ助けなかった!なぜ彼女を死なせたんだよ!」彼らの元々の復讐計画では、詩穂を長く閉じ込めるつもりはなかった。万が一のために、見張りを中に配置し、火事になったらすぐ助け出せるようにしていた。なのに、なぜか中には大量のガソリンが持ち込まれていた。なぜか、彼らが雇った見張りたちは自分の命しか考えず、先に逃げてしまった。なぜか、誰も詩穂の存在を思い出さなくて、見捨ててしまった!倒れた男たちは、颯真の拳で血まみれになって、もはや声すら出せない。自分たちの過ちを痛感し、ただひたすら命乞いを繰り返すしかなかった。「あ、兄貴……俺たちが悪かった、本当に悪かった!」「ガソリンなんて、知らなかったんだ!知ってたら絶対に火なんてつけなかった!」「お願いだ、許して……!」十数人の血まみれの男たちが、颯真の前に跪き、何度も頭を叩きつけて謝り続けた。だが、颯真は彼らを一瞥すらせず、冷静すぎる声で凶暴な刃のように言い放った。「許す?だったら地獄で彼女に詫びろ!」絶望の悲鳴が響く中、地下室の扉は閉ざされた。やがて、颯真が全身血まみれで階上へ戻ってくると、ソファにいた緋月が慌てて立ち上がった。「颯真……」緋月は言葉をかけようとしたが、彼の全身についた血を見て、顔が青ざめていった。しかし、颯真は彼女には目もくれず、そばの執事にだけ声をかけた。「奥さんの墓地は、もう決まったか?」「奥さん?」緋月は驚愕の声をあげた。「颯真、それってどういう意味?颯真の未来の奥さんは私でしょ?私はまだここにいるのよ!」彼女は焦って颯真の腕を掴み、信じられないという顔で詰め寄っ
緋月は幼い頃から大切に育てられてきて、誰かに怒鳴られるなんてことは一度もなかった。大きな声で話しかけられたことすらなかった。だが、今や怒りが限界になって、彼女は鋭く伸びたネイルの爪を振り上げて颯真の顔を引っかこうとした!颯真は彼女の暴挙を許さず、突き飛ばして緋月を倒した。「誰か、白石さんを引き取れ!」「颯真!」重たい扉がバタンと閉まり、緋月の絶望的な叫び声も外に遮断された。詩穂の骨灰を納める日も、雨が降っていた。颯真は詩穂の骨壺をそっと胸に抱き、丁寧に墓に納めてから、そっと土をかぶせていく。全てが終わった後、背後からは多くの人のすすり泣きが聞こえてきた。詩穂は昔からみんなに好かれていた。詩穂の両親は娘を失った悲しみから海外に移住してしまったが、それ以外の、詩穂と関わったことのある者たち――ほんの一度しか会ったことがない人まで、みんな彼女を偲びに集まった。泣き声は雨の音と混ざり合い、はっきりとは聞こえない。けれど、その悲しみだけは、胸に染み入る。颯真はまるで彫像のように、詩穂の墓碑の前に跪いたまま、「我が妻 詩穂」と刻まれた墓の文字を何度も何度も手でなぞっていた。「詩穂……」名を呼ぼうとしたその瞬間、涙が言葉より先に零れ落ちた。雨がどれだけ降っていたのか分からない。颯真はずっと墓前で、雨に濡れ続けていた。その夜、颯真は高熱を出して倒れた。意識がぼんやりとする中、彼は一つの夢を見た。夢の中に、詩穂が現れた。彼女が亡くなってから、初めて夢に出てきた。夢の中も、あの火事の夜。ただし今回は、彼は決して彼女の手を離さず、彼女と共に炎の中を逃げていった。燃え盛る火の海の中、颯真はいつもよりも強く詩穂の手を握っていた。だが、もうすぐ外へ出られるという時、詩穂は突然立ち止まった。どれだけ強く引っ張っても、彼女は一歩も動かない。夢の中で火はガソリンの樽に向かって燃え広がっていく。「早く行こう!」と颯真は必死に叫んだが、それでも詩穂は、一指ずつそっと颯真の手を外し、毅然とした顔で火の中へと身を投じた。「詩穂!」爆発音とともに、詩穂の体は炎に飲み込まれた。「詩穂!」颯真は、夢の中で叫びながら目を覚ました。息が荒く、冷や汗が額を流れ、窓から入る冷たい風に身震いし
夜、ベッドに横たわったまま、詩穂はスマホでひたすら求人情報を漁り、いくつもの舞踊団に履歴書を送りまくっていた。海外の舞踊団の応募は国内とは全く違う。三か月も前からエントリーしなければならず、その間も数々の内部審査やオーディションが待っている。全ての審査をクリアして、ようやく舞踊団の一員になれるのだ。だから詩穂は、治りかけの足を気にする暇もなく、履歴書をばらまきつつ、家のダンスルームでダンスを練習し始めた。ここ数年、颯真からの執拗な報復により、舞踊団に入ることはできなかった。それでも、隙を見つけては基礎練習だけは欠かさず続けていたから、ダンスの腕は落ちていなかった。三か月後、ある有名舞踊団の最終審査で、詩穂はステージの上で優雅にダンスをした。空中で軽やかに一回転し、完璧に着地して、彼女の審査は終わった。その見事なパフォーマンスに、審査員たちは全員がA評価をつけた。最後に、ひとりの審査員が興味深そうに口を開いた。「七瀬さん、あなたの履歴書を読みました。あなたは本当にダンスが好きで、三歳からずっと続けてきたのに、大学三年の頃から突然、全くコンテストに出ていません。何か理由があったのでしょうか?」詩穂はマイクを握る手に力が入るのを感じたが、やがて静かに答えた。「ある男に、三年間騙されていましたから」審査員が驚いた顔をしたから、詩穂は微笑んで続けた。「でも、それはもう過去のことです。これからは、私の人生にはダンスだけ。恋なんて、もうありません」詩穂の面接はすぐに通り、彼女は暮光舞踊団で唯一のオールA合格者として入団した。入った当初から注目の的となり、わずか一年で先代の首席ダンサーからその座を受け継いだ。そして初公演で大成功を収め、舞踊団の名は一気に広まった。舞踊団の人気が高まるにつれ、国内の大手劇場からも次々と招待状が届くようになった。団長は分厚い招待状の束を前に、困った顔で詩穂を見つめる。団長は詩穂の過去をよく知っている。彼女が帰国を極端に避けていることも。だから国内巡演の話が出た時、団長は詩穂を巡演から外すつもりだった。だが、団長が何か言う前に、詩穂のほうからきっぱり言った。「団長、私もこの巡演に同行します。私一人の事情で、舞踊団全体に迷惑をかけるわけにはいきません」「でも……」団長の不安も分
あの協賛会社の末路を思い出すと、秘書は心の中でこっそり、今回チケットを贈ってきた担当者のために黙祷を捧げた。深呼吸し、いつでも神崎社長の怒りをぶつけられる覚悟を決める。だが意外にも、颯真はチケットを手に取り、じっとそれを見つめた。それは、大きめのサイズながら非常にシンプルなデザイン。必要最低限の情報だけが記されていて、余計な装飾は一切ない。なぜか、颯真はふいに昔の光景を思い出した。あの頃、詩穂はまだ舞踊団でインターンをしていて、チケットのデザインも担当していた。いつも夜遅く帰宅するたび、颯真は彼女の愚痴をよく聞かされた。特にチケットのデザインは不満の温床だった。詩穂はシンプルなデザインが好きで、自分の作るチケットも極力無駄を省く。だがどれだけ美しく仕上げても、上司には地味すぎると突き返される。愚痴を話す度に、詩穂は上司のモノマネをして颯真を笑わせた。「いつか自分が決められるようになったら、絶対一番シンプルなチケットを作るんだ」と彼女は密かに誓っていた。だがこの一年、シンプルなチケットなんて一度も目にしたことがなかった。今日まで。なぜだか分からない。それを見た瞬間、颯真の心に観に行きたいという想いが湧き上がった。彼はチケットを大事にしまい、「車を用意しろ」とそばの秘書に命じた。劇場は満席、人でごった返していた。颯真が最前列に座ると、次々と関係者たちが挨拶にやってきた。彼は相変わらず淡々と「うん」とだけ返し、誰もそれ以上は話しかけてこない。やがて、幕が上がる。スポットライトの下、ピンクの舞衣を纏った女性が団扇を手に、音楽に合わせて優雅に舞い始めた。黒い絹のような髪、扇のひと振り、指先の一つ一つまでが観客の心を惹きつける。ただ一つ残念なのは、その女性が最初から最後まで半分の仮面をつけていて、その素顔が見えないことだった。興味のなかった颯真すら、いつしか背筋を伸ばし、静かな目に複雑な色が宿っていく。理由は一つ。その女性の踊り方が、あまりにも見覚えがありすぎたからだ。記憶の中、ただ一人だけがこの踊り方を好んでいた。あの日の午後、詩穂が嬉しそうに颯真を練習室へ引っ張っていき、新しく振り付けたダンスを見せてくれた。その時の彼女の姿と、今ステージで踊っているピンク衣装の女性が
その言葉が響いた瞬間、若い女の子たちは一斉に興奮して歓声を上げた。神崎家の若き社長、しかも超絶金持ち男!彼の目に留まることができれば、自分の未来もきっと変わる。地位も、名声も、運命だって……!そんな思いが頭をよぎった女たちは、一斉に休憩室に駆け戻り、鏡の前でせっせと身だしなみを整え始めた。誰もが、最高の自分を颯真の前に見せたいと思っていた。ただ一人、詩穂だけは、その場に静かに立ち尽くし、頭の中は混乱でいっぱいだった。まったく……どうしてあの人がわざわざ舞台裏まで来るの?思い返せば、彼女を最も激しく追いかけていたあの年でさえ、颯真が舞台裏に現れたことは一度もなかった。せいぜい、秘書に花束を託けて届けさせる程度だったのに。詩穂は拳を強く握りしめ、爪が肉に食い込んでいるのに、痛みさえ感じなかった。「詩穂ちゃん」振り返ると、団長が少し心配そうに詩穂を覗き込んでいた。「団長、どうかしましたか?」「詩穂ちゃん、顔色がよくないみたいだけど……無理しないで、先にホテルに戻って休んでもいいのよ。神崎社長のことは私たちが対応するから」詩穂は唇を噛みしめ、何も言わなかった。心の中は、嵐のようにざわついていた。今の自分では、あの人に再び会ったらどうなるか、わからない。だから、彼女は小さくうなずいて団長の言葉に従うことにした。仮面を外すこともせず、そのまま足早に舞台裏を後にしようとした。その時、突然、目の前から足音が聞こえてきた。それに続いて、聞き慣れない声が丁寧に響く。「神崎社長、どうぞこちらへ」「本日我々の舞踊団にお越しいただき、誠に光栄です」そう言いながら、その人は詩穂の前の重たい厚い幕を持ち上げようとしていた。彼女の心臓が一瞬で高鳴り、くるりと身を翻して近くの隅に身を潜めた。その時、颯真が舞台裏へと足を踏み入れた。彼が入ってきた瞬間、舞踊団の少女たちは我先にと颯真の元へ押し寄せ、口々に挨拶をする。一瞬で、彼女たちの強い香水の匂いが颯真の鼻を突き、彼は思わず眉をひそめた。それでも我慢して、無言で目の前の少女たちを見回す。ふと、彼の視線が一つの隅に止まった。その瞬間、彼は確信した。「あの人が、君たちの首席だな?」その一言で、皆の視線が一斉に部屋の隅――詩穂に集まった。突然の注目に、詩穂の体はび
詩穂の隣で、颯真は異様なほど緊張していた。まさか、自分が詩穂と結婚する日が来るなんて、夢にも思わなかった。あの日、詩穂が「死んだ」と聞かされたときでさえ、彼は遺骨を抱いてでも式を挙げたいとさえ思ったこともあった。だが、神崎家の人々が命をかけて止めたことで、、彼はその思いを胸に秘めるしかなかった。そして今、長年自分を愛してくれた彼女を、そして自分も愛している彼女を、ようやく妻として迎えられる。これからは、必ず彼女を大切にし、決して裏切ることはしないと心に誓った。式が進む中、司会者の合図で二人は誓いの言葉を交わすことになった。本来なら詩穂が先に話す予定だったが、彼女はそっとマイクを颯真の方へ差し出した。颯真はこれまで人前で何度もスピーチしてきたが、これほど緊張したことはなかった。事前に何度も原稿を練り直してきたはずなのに、いざその瞬間になると、口から出てきたのはたった一言だけだった。「詩穂、俺は君を愛してる。一生愛している」その一言だけで、詩穂の目には一瞬で涙が溢れた。彼女は止めどなく泣き続けた。颯真は慌ててハンカチを取り出し、涙をぬぐおうとしたが、なぜか彼女の瞳に深い悲しみを見てしまった。そう、詩穂はただただ悲しかったのだ。もし、過去の復讐などなければ――彼女は本当に颯真の花嫁となり、彼と永遠を誓い合ったかもしれない。だが、全ては確かに起きてしまった。思い出せば胸が締め付けられ、夜も眠れぬほどの痛みとなって。詩穂は深く息を吸い、颯真の手からマイクを受け取った。「颯真、今ここでサプライズがあるの」その言葉に颯真は驚きと喜びの色を浮かべたが、彼はまだ知らなかった。これから自分が地獄に落ちることを。スタッフが壇上に上がり、詩穂から手渡されたUSBをパソコンに差し込む。やがて、会場中央の大きなスクリーンに、颯真があの三年間詩穂に対して行った数々の悪事の映像が映し出された。彼がどれだけ冷酷非情な行動を繰り返し、人命を顧みなかったのか、そのすべてが暴かれていく。その後の出来事は、詩穂にとって夢の中のようだった。彼女は、会場のゲストたちが最初は驚き、やがてざわめき出すのを見た。記者たちが最初こそ戸惑い、次の瞬間にはシャッターを切り始めていたのを見た。そして何より、颯真がまずは呆然
白石家には、双子の令嬢がいる。姉の緋月は傲慢で我がまま、常に強者として弱者を圧倒するような性格だった。そして妹の緋咲は、冷静沈着で感情を表に出さず、他人の手を借りて自分の目的を達成するタイプだった。もともと白石家の人々は、家族の希望をすべて姉の緋月に託していた。だが、誰も予想していなかった――緋月が颯真に夢中な恋愛体質で、彼のために何度も命を懸けて大騒ぎを起こすような人間だったのだ。仕方なく、白石家は家族の未来を妹の緋咲に託すことにした。16歳の時、家族は彼女をアメリカへ送り出し、エリート教育を受けさせた。目標は30歳までに白石家のすべての事業を引き継ぐこと。一日も早く家を継ぐため、緋咲はそれ以来一度も帰国しなかった。だからこそ、詩穂は彼女の存在を全く知らなかったのだ。しかし今回、姉の緋月が颯真の手によって刑務所送りになり、白石家も神崎家からの報復で窮地に追い込まれたことで、緋咲はやっと帰国し家族の事業を引き継ぐことを決意した。たった一週間足らずで、緋咲は自分の家族がここまで追い詰められた原因を全て突き止めた。彼女は、緋月がこのゲームで犯した罪を否定はしなかった。姉が刑務所に入っても、特に気にも留めなかった。彼女が本当に納得できないのは、本当の罪人がいまだに何の罰も受けず、しかも幸福を手に入れようとしていることだった。ゲームを始めたのは確かに緋月だったが、実際に何度も手を下したのは颯真だった。彼の何十回にも及ぶ復讐で、詩穂は何度も命を落としかけた。本来なら、これらの罪を全て合わせれば、、颯真は一生刑務所から出られないはずだ。だというのに、彼は何の罰も受けていない。緋咲はその不条理に納得できなかった。だが、彼の罪を暴くチャンスはなかった。今や神崎家は絶頂期にあり、誰も颯真を敵に回したくなかったのだ。チャンスをじっと待ち続けた緋咲の前に、ついに絶好の人物とタイミングが現れた。「このUSBには、神崎がこれまで犯してきた全ての証拠が入ってるわ。君たちの結婚式当日は多くの財界人やメディアが集まる。もし式の最中に、このUSBの内容を公開すれば、彼は必ず刑務所送りになるわ。安心して、詩穂さんの安全は私が手配する。公開した瞬間に警察が突入して彼を逮捕するようにもしてある。しかも、最愛の人の手で刑務所
この一ヶ月、詩穂は逃げることを考えなかったわけではない。だが、颯真はまるでGPSでも付いているかのように、彼女がどこへ行っても、必ず見つけ出してしまうのだった。その上、彼は彼女に「教訓」を与えるために、彼女の舞踊団での仕事まで止めさせてしまった。もちろん、団長に伝えた理由は、以前ほど理不尽なものではなかった。「久しぶりの再会だから、もっと二人きりの時間を過ごしたい」と言い訳したのだ。そしてこうも付け加えた。「結婚したら、彼女はまた戻るから」と。そう、結婚。あの日の記者会見で、颯真は詩穂の偽の死を公表しただけでなく、一ヶ月後に結婚するとまで世間に発表してしまったのだった。もちろん、そんなこと彼女は何一つ知らされていなかった。だからこそ、会見の後、詩穂は颯真と激しく言い争った。しかし、どれだけ怒りをぶつけたところで、彼との結婚という事実を変えることはできなかった。今日、颯真が彼女を高級ブランド店に連れてきたのも、結婚式で使う品を選ぶためだった。ウェディングドレスに関しては、彼がすでに夜を徹して特注を手配済みだという。支払いを済ませた颯真が控室に戻ってきて彼女の手を取り、優しく微笑んだ。「行こうか」詩穂は何も言わず、ただ彼に手を引かれるまま高級ブランド店を出て車に乗り込んだ。車窓の外の景色が猛スピードで後ろに流れていく。それでも、彼女の瞳に宿る哀しみの色は消えなかった。彼女は颯真と結婚するなんて、望んでもいないし、したくもなかった。しかし、彼から逃れる道は何一つなかった。このまま、愛してもいない男と結婚するしかないのだろうか?膝の上で固く組んだ手は、自然と力が入り、白く浮き上がった指の関節が痛々しいほどだった。結婚式の日が近づくにつれ、詩穂の心はどんどん不安に飲み込まれていく。颯真は、彼女が結婚式に緊張していると思い、気晴らしに連れ出すことにした。だが途中で、彼は会社からの緊急の電話が入ってきた。仕方なく、彼女を先にレストランへ送って、「用事が済んだらすぐに行く」と伝えた。車を降りる時、颯真は無意識に彼女に別れのキスをしようとした。しかし、彼女は慌てて顔を背けてしまい、その唇は彼女の頬に触れるだけだった。颯真は一瞬止まったが、すぐに笑って車を降りて行った。ドアが閉まった瞬間
目の前の狂っている颯真を見て、詩穂はただただ皮肉を感じるばかりだった。「あんた、口では愛してるって言うけど――じゃあ、なぜ緋月が私を陥れたとき、真相を確かめようとしなかったの?なぜ彼女の復讐計画に賛成したの?なぜ真実を私に隠したの?」言い訳なんていらない。私……あのとき、ちゃんとチャンスをあげたの。あの火事の夜、私は聞いたの。戻ってくるの?って、もし、あのときあなたが振り返って私を引っ張り出してくれたら、私は全部、許してあげるつもりだったのに!なのに、あなたはどうしたの?」長く、深い問いかけ。だが返ってきたのは、颯真の沈黙だけだった。あの火事の夜のことは、もう遠い過去だ。颯真ですら、あの夜のことを忘れかけていた。けれど、あの時、彼は、答えなかった。ほんの少し躊躇って、そのまま背を向けて立ち去ったのだ。「炎の中で、私を置いて行ったあなたが……今さら、私があなたのために残るって、本気で思ってるの?」その言葉を最後に、詩穂は彼の横をすり抜けようとした。しかし今度は、颯真がすぐに動いた。「止めろ!」詩穂は、信じられないという目で彼を睨みつけた。「来ないで!」まだ、彼に少しでも罪悪感が残っていると思っていた。なのに、彼は、彼女の逃げ道を断った。颯真はゆっくりと歩み寄り、とうとう彼女の頬に手を伸ばした。「詩穂、今までのこと、全部俺が悪かった。責任も罪も、ちゃんと背負ってきた。だから、もう一度、やり直さないか?まだ俺に怒っているのも分かってる。だから、これから、少しずつでも償わせてほしい」「無理よ」詩穂は勢いよく顔を背け、彼の手をかわした。極度の失望からか、声がかすかに震える。「もう一度、私を壊す気なの?私が死ぬまで追い詰めないと、気が済まないの?」颯真の目に一瞬苦しみがよぎる。だが、すぐに固い決意へと変わった。「詩穂、もう二度と君を死なせたりしない」その日から、詩穂は、颯真に強引に側へと留め置かれることになった。彼女の存在を世間に納得させるために、颯真は記者会見まで開いた。大勢の記者を前に、彼は「詩穂は死んでいなかった。ただ少し喧嘩して家出しただけ」と説明し、こうして彼女が戻ってきたのは、自分が一年以上かけて誠意を尽くしたからだと語った。記者たちは感動の涙を浮かべ、フラッシュが一斉に焚かれた
颯真は、頬に受けた一撃の痛みにしばし呆然としていた。やっとのことで手を上げて、自分の腫れた頬をそっと撫でる。「……夢じゃないのか?」詩穂は、冷たい笑みを浮かべて言い放つ。「夢?ええ、夢よ。最低の悪夢だけどね」そう言って彼女は背を向けて、スタスタと階段を下り始めた。「詩穂!」ようやく正気を取り戻した颯真が慌てて追いかけ、二人がもみ合ううちに、詩穂の足元がふいに滑って、階段から転げ落ちてしまう。「危ない!」颯真は思わず手を伸ばすが、間に合わず、ただ彼女を抱きかかえるようにして共に階下へ落ちた。「ドン!」鈍い音が響き、二人は床に激しく叩きつけられる。颯真が彼女を庇ったおかげで、詩穂は頭が少しクラクラするだけで、大きな怪我はなかった。だが、颯真は床に倒れたまま、後頭部から血がじわりと滲んでいた。「ご主人様!」別荘の中は一気に騒然となり、執事が大慌てで二人を病院へ運び込んだ。これでまた数日が過ぎた。颯真が入院している間に、詩穂は静かに別荘を抜け出そうとした。だが、玄関にたどり着いた瞬間、使用人たちに行く手を塞がれる。詩穂の表情は一気に冷え込む。「……どういうつもり?」二人の使用人は困ったように顔を見合わせる。「七瀬さん、申し訳ありません。ご主人様の許可がなければ、お出になれません」まるで悪い冗談でも聞いたかのように、詩穂は鼻で笑う。「私を閉じ込めるつもり?」返事を待つまでもなく、彼女は二人の手を振り払って外へ出ようとした。とはいえ、ご主人様が愛している相手に無理やり手を出すわけにもいかず、使用人たちはただ追いすがりながら声をかけるしかできない。「七瀬さん、どうかご理解を……!」その声が逆効果になったのか、詩穂の足取りはますます速くなる。そのとき、一台のマイバッハが静かに目の前に停まった。中から現れたのは、顔色の悪い颯真だった。「詩穂」「その名前で呼ばないで。気持ち悪い!」帰国したときから、詩穂は颯真との再会を覚悟していた。自分が神崎家には敵わない。だからこそ、波風を立てないようにと努めてきた。できる限り距離を置き、必要以上に関わらないように――そう決めていた。何かあっても、決して衝突しない。そのほうが自分の身のためだと、何度も自分に言い聞かせてきた。だが
それからの半月、詩穂は公演に追われ、颯真のことを気にする余裕などはなかった。そして、ついに公演が終わり、ようやく待望の休みが訪れる。詩穂はレンタカーを借りてひとり旅に出かけようと準備していたが、そんなとき、颯真の秘書から電話がかかってきた。「社長が大変なことになりました。どうか神崎家に一度いらしていただけませんか」と繰り返して懇願した。颯真の性格を知り尽くしている詩穂は、「またあの人の仕掛ける復讐だろう」と冷めた目で受け流した。けれど、わざわざ問い詰める気も起きなかった。「私は医者じゃないし、彼に何もしてあげられません」それだけを言い残し、返事も待たずに電話を切ってしまった。さらに、もう二度と邪魔されないようにと、相手の番号をさっさと着信拒否リストに入れてしまった。スマホを放り投げると、詩穂はさっさとタクシーを呼び、レンタカー屋へ向かうことにした。タクシーの後部座席で目的地を伝えると、詩穂はそのまま目を閉じ、しばし仮眠をとる。どれほど時間が経っただろうか。運転手に「お客さん、着きましたよ」と声をかけられ、詩穂はぼんやりと目を覚ました。特に疑うこともなく料金を払い、ふらふらと車を降りた――が、目の前の建物を見て、ようやく自分が神崎家の別荘に連れてこられたことに気付く。「運転手さん、道間違えたでしょ!」怒りとも呆れともつかぬ笑いが漏れる中、彼女はスマホを取り出し、再度タクシーを呼ぼうとした。そのとき、豪奢な別荘の門が開き、神崎家の執事が大勢の人を引き連れて出てきた。彼女を見つけると、執事は驚きと喜びの入り混じった声を上げる。「奥さま……いえ、七瀬さん!やっとお越しいただきました!」そのまま、彼女を別荘の中へと招き入れた。久々に踏み入れた神崎家の別荘。一瞬、彼女の心が揺らいだ。あの日、慌ただしくこの家を出て行った。何も持たず、何も振り返らず。屋敷の中はあの頃のまま、まるで時間が止まったように残っている。思わず「自分は本当に離れていたのか?」と錯覚しそうになるほどだった。執事はやけに丁寧にお茶を淹れたり水を持ってきたりしながら、経緯を説明し始める。「ご主人様は、復讐なんてしていません」「あの日、七瀬さんと別れてから彼は別人のようになり、部屋にこもって酒に溺れ、眠っては七瀬さんの名を呼び続
詩穂が踵を返した、ちょうどその瞬間だった。ドサッと重い何かが床に落ちるような音が、彼女の前に響いた。無意識にその音の方へ視線を向けると、そこには青ざめた颯真の秘書が立っていた。「お、奥様……?」結局、詩穂はその場を去ることができなかった。秘書が必死になって、彼女の行く手を塞いだのだ。「奥様、お願いです。行かないでください!社長が今までどんな思いで生きてきたか、ご存じないでしょう。過去のことはもういいですから、せめて今回社長が奥様を救ったことで、そばにいてあげてください!」詩穂は長く息を吐いた。「まず、奥様なんて呼ばないで。私は彼と、恋人ですらない。それに、手術が終わるまで付き添ってもいいけど、済んだら、私はやっぱり帰る。もう、彼とこれ以上関わりたくないの」詩穂が一言口にするたび、秘書の顔色はどんどん気まずくなっていく。最後には、秘書も折れるしかなかった。詩穂の全ての条件を呑むしかなかったのだ。二人は手術室の外のベンチに静かに腰掛け、ただ待ち続けた。詩穂が二十一回目、スマホの画面を点けて時刻を確認したとき、手術室の扉が開いた。頭を包帯でぐるぐる巻きにされた颯真が運ばれてきた。思いがけず、彼の意識ははっきりしていた。焦点の定まらなかった彼の目が、彼女を見つけた瞬間ぱっと輝いた。「詩穂!」VIP病室の中で、颯真は自分の怪我も顧みず、詩穂を強く抱きしめた。その声には、狂おしいほどの歓喜と安堵、そして恐怖が入り混じっていた。「よかった!生きていてくれてよかった!夢かと思ったよ。手術室を出たら、また君がいなくなってるんじゃないかと……本当によかった!」だが、詩穂の声は驚くほど冷静だった。「私は、全然よかったなんて思ってない」「詩穂?」彼の腕が、ピタリと止まるのが分かった。彼女はその腕を引きはがすと、距離を取って口を開いた。「私にとってよかったっていうのは、颯真に二度と会わないことよ。だって、誰が自分の一番信じていた、愛していた人に、99回も裏切られて、平気で一緒にいられると思う?」その言葉は、まるで何本もの縄で彼の心臓をきつく締め上げるようで、颯真は息が詰まり、苦しさに顔を歪めた。彼は傷も顧みず、慌ててベッドから飛び降りる。頭の中はぐちゃぐちゃで、なんで詩穂が全てを知っている
詩穂はナイフとフォークをそっと置いて、横にあったスマホを手に取ると、数文字を素早く打ち込んだ。「ずっと私のこと見ていて、どうしたの?」颯真は彼女をじっと見つめていた。目の前の女性が、あまりにも詩穂に似ていると、思わず口をついて出た。「君は、俺の昔馴染みに……よく似ている」昔馴染み?「誰?」今度はスマホではなく、詩穂は店員に頼んで、紙とペンを借りて直接問いかけた。颯真は拳をきつく握りしめ、最後には苦い笑みを浮かべて言った。「俺の妻だ」目の前の人が、あまりにも詩穂に似ているからだろうか。颯真の警戒心は完全に消えていた。彼はこの一年間、心の奥底に隠していた痛みを、目の前の彼女に全て打ち明けた。「俺は、妻のことを心から愛していたんだ。でも、他人のたわごとを信じてしまって、取り返しのつかないことをした。そのせいで結局、妻は炎の中で命を落とした。あの日から、毎晩、夢に彼女が出てくる。炎の中で、俺が手を伸ばせば届く距離にいるのに――なぜか、彼女は必ずその手を振り払って、火の中へ消えてしまうんだ。それに、彼女の遺灰があの敵の女に撒き散らされてからは、一度も夢に出てこなかった。この一年、いろんな寺を回った。祈って、すがって……でも、どの住職も同じことを言った。彼女は、もうあなたに会いたがっていないって」何年も押し殺してきた感情が、ついにこの瞬間、溢れ出した。いつもは冷酷な男が、見知らぬ女の前で顔を覆い、子どものように泣き崩れたのだ。もし、詩穂がただの他人だったなら――彼の愛の深さに心を動かされ、そっとハンカチを差し出していたかもしれない。だが、残念ながら彼女こそが、颯真の語る物語のヒロインだった。しかも、彼の言葉の中に、どれだけ多くの真実が隠されているのか、彼女はすべて知っている。だが、もう暴く気も起きなかった。かつて彼を命よりも愛していた詩穂は、あの炎の中でとうに死んだ。今の詩穂は、どんな身分にもなれるが、もう二度と颯真とは何の関わりもない。詩穂の長い沈黙が、ようやく颯真を現実に引き戻した。慌てて涙をぬぐい、姿勢を正すと、丁寧に頭を下げた。「失礼だった。ホテルまで送らせよう」だが、その時だった。突然の出来事が彼らを襲う。暴走した車が猛スピードで彼らに向かって突っ込んできた。眩しいヘッドライトに照
さっきまでステージを一枚隔てた距離だったのに、今はこんなにも近く――颯真は相手の香水の香りまではっきりと感じ取れ、心臓の鼓動すらも耳に届くほどだった。この人、どこかで見たことがある気がする。そんな感覚が、どんどん強まっていく。絶対にありえないと思っていた予感が、ふと脳裏をよぎった。そして、彼女が沈黙を守るその様子が、なぜか彼に妙な確信を与えた。彼はゆっくりと、震える手を顔の前に伸ばす。仮面に近づけば近づくほど、心臓は激しく跳ね、呼吸も浅くなる。詩穂は、まさか颯真が本当に手を伸ばしてくるなんて思っていなかった。彼女が知る限りの颯真なら、他の女が彼の問いにすぐ答えなければ、不機嫌そうにその場を去ってしまうはずだ。だからこそ、詩穂は一か八かの賭けに出たのだ。まさか彼がこんな行動に出るとは思ってもいなかった。彼の手がどんどん自分の仮面に近づいてきて、詩穂は体を固くし、心まで締めつけられる。颯真の手が仮面に触れようとするその瞬間、「リン、リンッ!」と急にスマホが鳴った。颯真は瞬我に返ると、素早く手を引っ込め、スマホを取り出して電話に出る。「もしもし」電話の相手が何を言ったのかはわからないが、颯真の顔色は見る見るうちに険しくなった。そして、目の前の女を気にする余裕もなく、足早にその場を立ち去った。彼の姿が完全に視界から消えた時、ようやく詩穂の背中から緊張が抜けていく。そっと、握りしめていた手を開くと、そこにはうっすらと汗が浮かんでいた。夜になると、舞踊団の仲間たちは夜の京市を見物するために、夜遊びへと向かっていた。だが、幼い頃から京市で育った詩穂は、そんなものには興味がなかった。だから仲間たちに別れを告げ、ホテルに戻る車に乗った。けれど、ホテルに着いて車を降りた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、大勢に囲まれてホテルから出てくる颯真の姿だった。詩穂は直ちに背を向けようとした――その時、背後から颯真の声が響いた。「待って!」詩穂の表情が変わり、慌ててカバンから仮面を取り出してつけた。再び振り向くと、颯真はすでに目の前まで来ていた。まだ仮面をつけている彼女に、颯真は不思議そうに問いかける。「もう仕事は終わったのに、なんでまだ仮面をつけてるんだ?」詩穂は、今度ばかりはもう逃げられないと悟ったが