詩穂の隣で、颯真は異様なほど緊張していた。まさか、自分が詩穂と結婚する日が来るなんて、夢にも思わなかった。あの日、詩穂が「死んだ」と聞かされたときでさえ、彼は遺骨を抱いてでも式を挙げたいとさえ思ったこともあった。だが、神崎家の人々が命をかけて止めたことで、、彼はその思いを胸に秘めるしかなかった。そして今、長年自分を愛してくれた彼女を、そして自分も愛している彼女を、ようやく妻として迎えられる。これからは、必ず彼女を大切にし、決して裏切ることはしないと心に誓った。式が進む中、司会者の合図で二人は誓いの言葉を交わすことになった。本来なら詩穂が先に話す予定だったが、彼女はそっとマイクを颯真の方へ差し出した。颯真はこれまで人前で何度もスピーチしてきたが、これほど緊張したことはなかった。事前に何度も原稿を練り直してきたはずなのに、いざその瞬間になると、口から出てきたのはたった一言だけだった。「詩穂、俺は君を愛してる。一生愛している」その一言だけで、詩穂の目には一瞬で涙が溢れた。彼女は止めどなく泣き続けた。颯真は慌ててハンカチを取り出し、涙をぬぐおうとしたが、なぜか彼女の瞳に深い悲しみを見てしまった。そう、詩穂はただただ悲しかったのだ。もし、過去の復讐などなければ――彼女は本当に颯真の花嫁となり、彼と永遠を誓い合ったかもしれない。だが、全ては確かに起きてしまった。思い出せば胸が締め付けられ、夜も眠れぬほどの痛みとなって。詩穂は深く息を吸い、颯真の手からマイクを受け取った。「颯真、今ここでサプライズがあるの」その言葉に颯真は驚きと喜びの色を浮かべたが、彼はまだ知らなかった。これから自分が地獄に落ちることを。スタッフが壇上に上がり、詩穂から手渡されたUSBをパソコンに差し込む。やがて、会場中央の大きなスクリーンに、颯真があの三年間詩穂に対して行った数々の悪事の映像が映し出された。彼がどれだけ冷酷非情な行動を繰り返し、人命を顧みなかったのか、そのすべてが暴かれていく。その後の出来事は、詩穂にとって夢の中のようだった。彼女は、会場のゲストたちが最初は驚き、やがてざわめき出すのを見た。記者たちが最初こそ戸惑い、次の瞬間にはシャッターを切り始めていたのを見た。そして何より、颯真がまずは呆然
神崎颯真(かんざき そうま)が事故で大怪我を負った。それを聞いた七瀬詩穂(ななせ しほ)は急いで病院へ駆けつけ、大量出血の彼に1000ccもの血を提供した。彼の仲間たちが「早く帰って休んだほうがいい」と口々に言うものだから、詩穂は仕方なく病室を後にしたのだが、出口まで来たところで、どうしても心配が募り、また引き返してしまった。しかし、戻った彼女の目に飛び込んできたのは、看護師が自分の血液が詰まった五袋もの輸血パックをゴミ箱に捨てている光景だった。その直後、隣の病室から天井が抜けそうなほどの笑い声が響き渡っている。「はははっ、あのバカ、また騙されたぞ!」呆然としながら半開きの病室の扉を覗き込むと、人だかりの中に、病衣を着たあの男の姿が見えた。颯真はベッドにだらしなくもたれかかり、スマホをいじっている。少しばかり誰かの背で顔が隠れているものの、しっかりした鼻筋と、彫りの深い眉骨ははっきりと見て取れる。どこが重傷なんだ?詩穂は目を瞬かせ、自分が悲しみのあまり幻覚を見たのではないかと思った。「なあ、みんな、今回で何回目の復讐か数えてみようぜ?」「最初はな、兄貴が贈る予定だったネックレスをなくしたって嘘をついて、あいつが大雪の中を一晩中探し回ったときだな。結果、40度の高熱を出しても諦めなかったっけ」「二度目は、兄貴が意識不明になったって騙して、あいつは999段の階段を夜通し登ってお守りを手に入れてきた。でも、そのお守りは兄貴がとっくに捨てちまったけどなあ」「三度目はカンニングをでっち上げて、あいつの卒業を潰した。必死に無実を証明しようとしている姿、今思い出しても笑いが止まらないぜ」「今回の献血の件で、たしか九十六回目だろ?あと三回でゲーム終了だ。いやぁ、兄貴もよく我慢したもんだ」「だってさ、あいつ昔、緋月のダンス大会の優勝を奪ったんだから。一晩中泣きじゃくった緋月の姿を見て、兄貴が許すはずないじゃん。だからこそ兄貴はあいつと付き合って、99回復讐するって決めたんだよ。でも、復讐終わったら、あいつはポイだな。ちょっと寂しくなるけど、まあ仕方ないか」……耳の奥がジンジンする。まるで雷が頭上で炸裂したかのような衝撃だった。詩穂は心がまるで刃物で切り裂かれるように痛み、胸を押さえながら大きく息を吸い込む。苦しくて呼
電話越しに、母の喜びに満ちた声が弾けた。「本当によかったわ!じゃあ、すぐに手続きするからね。手続きが終わったら、もう後戻りはできないからね」スマホを握る指先は微かに震えていたが、それでも彼女の声は揺るぎなく響いた。「大丈夫、私は後悔なんてしない」母が電話を切ろうとした時、ふと思い出したように尋ねてきた。「そういえば、詩穂の彼氏はどうするの?あれだけ長く追いかけて、すごく好きだったんじゃないの?」「彼氏」という言葉が、鋭い針のように胸に突き刺さる。脳裏に蘇るのは、あの病室の嘲笑、颯真がベッドにもたれスマホをいじる姿、彼の仲間たちの悪意に満ちた笑顔、そして緋月のために三年もの歳月を費やして自分に復讐した彼の冷酷さ。心臓がぎゅっと縮み上がり、息が詰まりそうになる。「もう好きじゃない」自分の口から出たその声は、掠れていたけれど、どこか静かで冷え切っていた。「もう二度と、好きにはならない」電話を切った後、詩穂は道端に立ち尽くしたまま、冷たい風に髪を乱されていた。灰色の空を見上げ、深く息を吸い込み、「家」へと向かった。ドアを開けた瞬間、懐かしい匂いが全身を包み込む。玄関に立ち尽くし、見慣れたリビングの光景を眺める。ここは颯真が、告白を受け入れたその日に渡してくれた鍵で入るようになった家。あの日、彼はドアに寄りかかり、気だるそうに言ったのだ。「同棲しよう」その時の自分は、恥ずかしくて、でも嬉しくて――これが二人の恋の始まりだと、本気で信じていた。この家でいつか結婚して、子どもが生まれて、幸せな日々を過ごす。そんな未来まで、密かに夢見ていた。けれど今となっては、すべてが滑稽に思える。同棲?ただ復讐をやりやすくするための口実だったのだろう。彼がどれほど緋月を愛していたのか。三年もの歳月をかけて、同じ家で暮らし、あんなに何度も自分と……セックスした。すべては、自分に「愛されている」と信じ込ませるためだった。その後の三日間、詩穂は一度も颯真を見舞うことなく、ひたすら家にこもっていた。彼に関するものを、ひとつひとつ整理し始めた。片想い時代につけていた日記帳を取り出し、ページをめくる。「今日も図書館で彼に会えた。彼の白いシャツ姿、本当に素敵!」「今日は彼が私に話しかけてくれた。ただの頼みごとでも、一日中幸せだ
詩穂が断る暇もなく、颯真は彼女の手を引いて車へ連れていった。車が高級クラブの前に停まると、颯真は車から降り、回り込んで彼女のドアを開けてくれた。詩穂は黙ったまま車を降り、そのまま会場へ。クラブに入ったその瞬間、彼女の視線は一つの馴染み深い人影に吸い寄せられた。白石緋月。白いワンピースに、長い髪をふわりと垂らし、優しい微笑みを浮かべながら友人たちと談笑している。緋月は颯真の幼なじみだ。幼い頃から一緒に育った二人だが、詩穂が颯真と付き合っているこの三年間、二人が接点を持つことは一度もなかった。まさか、颯真が緋月を好きだなんて、考えたことはなかった。緋月が二人の手が繋がれたまま会場に入ってくるのを目にしたそのとき、彼女の笑みは微妙に変わり、まるで全てを知っているかのような含み笑いを浮かべていた。その「99回の復讐」についても、彼女が知っているということを……詩穂は急に息苦しさを覚えた。颯真も緋月の存在に気づいたのか、彼女の手を握る指が一瞬強ばり、そしてそっと手を離した。「ちょっと電話してくる。先に楽しんでて、すぐ戻るから」と彼は詩穂に言った。詩穂はその場に立ち尽くし、彼の背中が遠ざかるのを見ていた。胸の奥が冷え切っていくのを感じる。何かを言おうとする間もなく、緋月がおとなしく颯真の後を追っていった。二人の背中が、会場の角を曲がって消えていった。詩穂は二人がどこで何をしているのか気にする余裕もなく、すぐに颯真の仲間たちに囲まれた。「お義姉さん、飲もうよ」彼らはニヤニヤしながら彼女に酒を差し出した。「私、お酒はちょっと……」「いいじゃん、一杯だけ」そう言って、彼らは詩穂の手に無理やりグラスを押し付け、彼女を前へ押しやった。詩穂は振りほどいて逃げようとしたが、誰かの強い力で、背中を突き飛ばされた。「きゃっ――!」驚きの声を上げた瞬間、彼女の体はバランスを崩し、隣のプールに真っ逆さまに落ちていった。冷たい水が一気に全身を包み込む。詩穂は泳げない。必死に手足を動かすが、どんどん深みに沈んでいく。口と鼻に水が入り、息ができない。意識がどんどん遠ざかっていく。目の前が暗くなり、ついに、何も感じなくなった。……再び目を覚ました時、詩穂は見覚えのある部屋のベッドに横たわっていた。
送られてきたメッセージは、すぐに次々と取り消された。まるで何事もなかったかのように。詩穂は手にしたスマホを握りしめ、その手が微かに震えていた。心の奥底まで冷たい水に浸されたように、息すら苦しくなる。結局、プールに落とされたのも、熱を出したのも、薬を飲まされたのも、全部彼らが仕組んだ復讐の一部だったのか。そして、颯真が与えた「薬」すら、彼女をより苦しめるためのものだった。ほどなくして、颯真から電話がかかってきた。「お前どこにいる?なんで家にいないんだ?」低くてどこか焦ったような声だった。詩穂は深く息を吸い込み、どうにか平静を装って答えた。「熱がひどくて、病院に来てるの」電話越しに一瞬の沈黙が流れた後、颯真の声が再び聞こえてきた。「今行くから」「来なくていいよ」と彼女は断った。「点滴が終わったら一日入院して、それで帰るから。最近忙しいでしょ、そっちの仕事を優先して」颯真は数秒沈黙した後、不意に問いかけてきた。「スマホ、見たか?」そうか、彼が電話をかけてきたのは、彼女があのメッセージを見たのではないかと恐れたからだ。詩穂はさりげなく嘘をついた。「ううん。お医者さんに危なかったって言われて……スマホを見る余裕もなかった」また沈黙。颯真の声は、どこか複雑な色を帯びていた。「俺がいるから、お前は絶対に大丈夫だ」詩穂はスマホを握る手にさらに力を込めた。俺がいるって。でも、すべての苦しみを与えたのは、この「俺」だったじゃないの。退院したその日、詩穂はタクシーを拾おうと病院を出た瞬間、後ろから何人かが突然現れて、口と鼻を塞がれた。抵抗する間もなく、意識が失ってしまった。次に目覚めたとき、詩穂は薄暗いホテルの一室に横たわっていた。手足はきつく縛られ、周囲には数人のチンピラが、いやらしい笑みを浮かべて取り囲んでいた。「目が覚めたか?安心しろ、兄さんたちが優しくしてやるさ」その中の一人が手を伸ばし、彼女の服を引き裂こうとした。「やめて!誰なの、放して!」詩穂は必死に抵抗した。だが、熱で弱った体では彼らに太刀打ちできるはずもない。物を投げ、蹴りつけ、声を振り絞って叫んだものの、助けを求める声は届かない。服を引き剥がされそうになる絶望の中、涙が止めどなく溢れた。その時、バタンとドアが蹴り破られた。「
病室の中は、空気が凍りついたように静寂に包まれていた。先ほどまで怒りに燃えていた颯真は一瞬、全身が固まった。頭の中には、たった一つの言葉だけが何度も繰り返されている――「まさか、あの女を好きになったなんて言わないよな?」「あの女を?そんなはずがあるか!」颯真は即座に否定した。そう必死に自分に言い聞かせるように否定を繰り返すことで、胸の奥に湧き上がる奇妙な感情を消し去ろうとした。彼が好きなのは、ずっと緋月だけだ。詩穂なんて、復讐のための存在にすぎない。けれど、もし本当に彼女に何の感情もないのなら、どうして、あのチンピラたちが彼女に覆いかぶさっていた時、あんなに怒りが抑えられなかった?緋月が誰かに言い寄られたときですら、あれほどまでに衝動的になったことはなかったのに。颯真の言葉が途切れると、再び部屋には沈黙が訪れた。仲間たちはほっとしたように肩をなで下ろした。その中の一人が、彼の肩を軽く叩きながら笑った。「なんだよ、早く言えよ。兄貴が好きになったんじゃないかって、マジで肝を冷やしたぜ。遊びの復讐で自分まで巻き込まれるとか、笑い話にもならねーだろ。もし緋月が知ったら、泣くどころじゃすまないからなあ」颯真は何も言わず、ただ胸の奥で燻る感情を必死に押し殺そうとしながら、冷たく言い放った。「俺があの女を好きになることなんて、一生ない」仲間たちは安心したように笑い、「そうだろう。まあ、あいつもそろそろ起きるし、俺たち先に帰るわ」と病室を出て行った。みんなが出て行った後、颯真はゆっくりとベッドのそばに歩み寄り、眠る詩穂を見下ろした。その顔は青白く、眉をひそめ、苦しそうな寝息を立てている。彼は無意識に手を伸ばし、彼女の頬に触れようとした。だが、指先が彼女の肌に触れる直前、まるで火傷でもするかのように慌てて引っ込めた。彼は窓際へ向かい、煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。煙で心のざわめきを誤魔化そうとするかのように。詩穂が目覚めた時、病室には颯真だけがいた。彼はベッドの横に座り、水を手にしていた。「具合はどうだ?まだ辛いか?」詩穂は何も答えず、ただ顔を横に向けて彼の視線を避けた。それから数日間、颯真は病院に付き添い、彼女の世話をしていた。時折、電話がかかってくると外に出ていく。戻ってきた時の彼の表情には
若い医者は颯真の威圧感に押され、慌てて謝ると、病室を出ていった。颯真は不機嫌そうに詩穂のそばに進み寄り、少し苛立った口調で言い放った。「こういう時は、彼氏がいるってちゃんと言えよ。それくらいの一言がそんなに難しいのか?」詩穂は、彼を見つめながら、心の中でただ呆れるばかりだった。自分を好きになることは一生ないと言ったのに、この突然の独占欲は何なのだろう?退院後しばらくして、颯真が突然詩穂を同窓会に連れて行くと言い出した。彼は元々こういった集まりに顔を出すのを嫌っていた。それなのに、今回は自ら提案してきた。何か裏があるのは明らかだった。やっぱり、会場に着くと、すぐに緋月の姿が目に入った。颯真は表向きには緋月と距離を置いているように見せていたが、好きな気持ちは隠しきれない。同窓会が進む中、詩穂は途中でトイレへと向かった。戻ってきた時、みんなは「王様ゲーム」をやってて、ちょうど緋月が負けて罰ゲームを受ける番だった。彼女が恥ずかしそうに口を開きかけたその時、颯真がカードを奪い取った。「俺が代わりに答える」カードの質問は、「あなたの性的な妄想の対象は誰?名前のイニシャルで答えなさい」その場が一瞬静まり返った後、周囲の人々がざわざわと騒ぎ始めた。「えー!簡単な質問でしょ?だって彼女いるんだし、絶対彼女の名前だよね!」彼は少し黙り込んだ後、淡々と口を開いた。「H.S.」詩穂の心が一瞬で冷え切り、指先が微かに震えた。H.S.――白石緋月。それ以上その場にいることは耐えられなかった。会場を抜け出し、颯真に「具合悪いから先に帰る」とだけメッセージを送って外に出た。タクシーを拾おうとした時、「詩穂!」と背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。振り返ると、颯真が駆け寄ってきた。「どうして出てきたの?」彼女が問いかけた。彼は少し眉をひそめ、どこか焦ったような表情で答えた。「お前が具合悪いって言うからだ。どこが悪い?病院に行こう?」詩穂は彼を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が渦巻くのを感じた。彼女は首を横に振り、平静を装った声で答えた。「大丈夫。ただ少しめまいがしただけ。……それより、もう戻らなくていいの?」「お前は俺の彼女だろう?彼女が体調悪いってのに、俺が遊び続けるわけないだろ」そう言って、彼女の額に
「なんでダメなの?早くこの復讐ゲームを終わらせたいって言ってたじゃないか?人が死ぬようなことには絶対しないから!あいつが限界ギリギリまで追い詰められたタイミングで、ちゃんとドアは開けるからさ」颯真の声は、相変わらず冷たくて硬かった。「ダメだ、リスクが高すぎる。彼女に何かあったら困る」電話の向こう側から、不満げな声が返ってきた。「マジで言ってんの?兄貴が緋月ちゃんを置いて、あの女を追いかけてたから、緋月ちゃんが一晩中泣いてたじゃん。兄貴がどれだけ時間かけて慰めたのか。緋月ちゃんに変な勘繰りさせないために、こうして第99回目の復讐計画を練ってるんじゃなかったの?それなのに、こっちダメ、あっちもダメって、どういうつもり?本当に好きな人、誰だったか忘れたわけじゃないよな?さっさとあの女とは縁切って、緋月ちゃんの元に戻ってよ。それがずっと望んでいたことじゃないのか?」颯真の呼吸が突然、荒くなった。何か言い返そうとしたようだったが、ちょうどその時、電話の向こうから、緋月の声が聞こえてきた。「颯真、さっきの話、全部聞いてたよ。今、一つだけ聞く。あの女への復讐、どうしてもこの方法じゃなきゃダメなの。颯真は賛成するの?それとも反対?」颯真は黙り込んだ。緋月の声は、涙声に変わった。「颯真、言ったよね。私のためなら何でもするって!」彼はやっと口を開いた。かすれた声で、「分かったよ、君の言う通りにする」緋月は涙まじりに笑い、仲間たちも興奮した声を上げた。「やったな!本当にその日が楽しみだぜ!」颯真は何度も念を押した。「絶対に、事故を起こすなよ」陰の中で、詩穂は心臓を誰かにぎゅっと掴まれたかのような痛みを感じて、息すらまともにできなかった。彼女は静かに部屋へ戻り、スマホを手に取ると、メッセージを送った。……記念日当日。颯真は計画通り、詩穂に言った。「詩穂、今日はサプライズがあるんだ。目を閉じて、連れて行きたい場所がある」詩穂はじっと彼を見つめ、抵抗せずに目を閉じた。颯真は微かに笑い、リボンで彼女の目を覆い、手を引いて車に乗せた。車が止まると、颯真は彼女を別荘の中へと案内した。「ここで少し待っててくれ。プレゼントを取ってくる。すぐ戻るから」詩穂はその場に立ち、颯真の足音が遠ざかるのを聞いていた。ちょうど彼がドア
詩穂の隣で、颯真は異様なほど緊張していた。まさか、自分が詩穂と結婚する日が来るなんて、夢にも思わなかった。あの日、詩穂が「死んだ」と聞かされたときでさえ、彼は遺骨を抱いてでも式を挙げたいとさえ思ったこともあった。だが、神崎家の人々が命をかけて止めたことで、、彼はその思いを胸に秘めるしかなかった。そして今、長年自分を愛してくれた彼女を、そして自分も愛している彼女を、ようやく妻として迎えられる。これからは、必ず彼女を大切にし、決して裏切ることはしないと心に誓った。式が進む中、司会者の合図で二人は誓いの言葉を交わすことになった。本来なら詩穂が先に話す予定だったが、彼女はそっとマイクを颯真の方へ差し出した。颯真はこれまで人前で何度もスピーチしてきたが、これほど緊張したことはなかった。事前に何度も原稿を練り直してきたはずなのに、いざその瞬間になると、口から出てきたのはたった一言だけだった。「詩穂、俺は君を愛してる。一生愛している」その一言だけで、詩穂の目には一瞬で涙が溢れた。彼女は止めどなく泣き続けた。颯真は慌ててハンカチを取り出し、涙をぬぐおうとしたが、なぜか彼女の瞳に深い悲しみを見てしまった。そう、詩穂はただただ悲しかったのだ。もし、過去の復讐などなければ――彼女は本当に颯真の花嫁となり、彼と永遠を誓い合ったかもしれない。だが、全ては確かに起きてしまった。思い出せば胸が締め付けられ、夜も眠れぬほどの痛みとなって。詩穂は深く息を吸い、颯真の手からマイクを受け取った。「颯真、今ここでサプライズがあるの」その言葉に颯真は驚きと喜びの色を浮かべたが、彼はまだ知らなかった。これから自分が地獄に落ちることを。スタッフが壇上に上がり、詩穂から手渡されたUSBをパソコンに差し込む。やがて、会場中央の大きなスクリーンに、颯真があの三年間詩穂に対して行った数々の悪事の映像が映し出された。彼がどれだけ冷酷非情な行動を繰り返し、人命を顧みなかったのか、そのすべてが暴かれていく。その後の出来事は、詩穂にとって夢の中のようだった。彼女は、会場のゲストたちが最初は驚き、やがてざわめき出すのを見た。記者たちが最初こそ戸惑い、次の瞬間にはシャッターを切り始めていたのを見た。そして何より、颯真がまずは呆然
白石家には、双子の令嬢がいる。姉の緋月は傲慢で我がまま、常に強者として弱者を圧倒するような性格だった。そして妹の緋咲は、冷静沈着で感情を表に出さず、他人の手を借りて自分の目的を達成するタイプだった。もともと白石家の人々は、家族の希望をすべて姉の緋月に託していた。だが、誰も予想していなかった――緋月が颯真に夢中な恋愛体質で、彼のために何度も命を懸けて大騒ぎを起こすような人間だったのだ。仕方なく、白石家は家族の未来を妹の緋咲に託すことにした。16歳の時、家族は彼女をアメリカへ送り出し、エリート教育を受けさせた。目標は30歳までに白石家のすべての事業を引き継ぐこと。一日も早く家を継ぐため、緋咲はそれ以来一度も帰国しなかった。だからこそ、詩穂は彼女の存在を全く知らなかったのだ。しかし今回、姉の緋月が颯真の手によって刑務所送りになり、白石家も神崎家からの報復で窮地に追い込まれたことで、緋咲はやっと帰国し家族の事業を引き継ぐことを決意した。たった一週間足らずで、緋咲は自分の家族がここまで追い詰められた原因を全て突き止めた。彼女は、緋月がこのゲームで犯した罪を否定はしなかった。姉が刑務所に入っても、特に気にも留めなかった。彼女が本当に納得できないのは、本当の罪人がいまだに何の罰も受けず、しかも幸福を手に入れようとしていることだった。ゲームを始めたのは確かに緋月だったが、実際に何度も手を下したのは颯真だった。彼の何十回にも及ぶ復讐で、詩穂は何度も命を落としかけた。本来なら、これらの罪を全て合わせれば、、颯真は一生刑務所から出られないはずだ。だというのに、彼は何の罰も受けていない。緋咲はその不条理に納得できなかった。だが、彼の罪を暴くチャンスはなかった。今や神崎家は絶頂期にあり、誰も颯真を敵に回したくなかったのだ。チャンスをじっと待ち続けた緋咲の前に、ついに絶好の人物とタイミングが現れた。「このUSBには、神崎がこれまで犯してきた全ての証拠が入ってるわ。君たちの結婚式当日は多くの財界人やメディアが集まる。もし式の最中に、このUSBの内容を公開すれば、彼は必ず刑務所送りになるわ。安心して、詩穂さんの安全は私が手配する。公開した瞬間に警察が突入して彼を逮捕するようにもしてある。しかも、最愛の人の手で刑務所
この一ヶ月、詩穂は逃げることを考えなかったわけではない。だが、颯真はまるでGPSでも付いているかのように、彼女がどこへ行っても、必ず見つけ出してしまうのだった。その上、彼は彼女に「教訓」を与えるために、彼女の舞踊団での仕事まで止めさせてしまった。もちろん、団長に伝えた理由は、以前ほど理不尽なものではなかった。「久しぶりの再会だから、もっと二人きりの時間を過ごしたい」と言い訳したのだ。そしてこうも付け加えた。「結婚したら、彼女はまた戻るから」と。そう、結婚。あの日の記者会見で、颯真は詩穂の偽の死を公表しただけでなく、一ヶ月後に結婚するとまで世間に発表してしまったのだった。もちろん、そんなこと彼女は何一つ知らされていなかった。だからこそ、会見の後、詩穂は颯真と激しく言い争った。しかし、どれだけ怒りをぶつけたところで、彼との結婚という事実を変えることはできなかった。今日、颯真が彼女を高級ブランド店に連れてきたのも、結婚式で使う品を選ぶためだった。ウェディングドレスに関しては、彼がすでに夜を徹して特注を手配済みだという。支払いを済ませた颯真が控室に戻ってきて彼女の手を取り、優しく微笑んだ。「行こうか」詩穂は何も言わず、ただ彼に手を引かれるまま高級ブランド店を出て車に乗り込んだ。車窓の外の景色が猛スピードで後ろに流れていく。それでも、彼女の瞳に宿る哀しみの色は消えなかった。彼女は颯真と結婚するなんて、望んでもいないし、したくもなかった。しかし、彼から逃れる道は何一つなかった。このまま、愛してもいない男と結婚するしかないのだろうか?膝の上で固く組んだ手は、自然と力が入り、白く浮き上がった指の関節が痛々しいほどだった。結婚式の日が近づくにつれ、詩穂の心はどんどん不安に飲み込まれていく。颯真は、彼女が結婚式に緊張していると思い、気晴らしに連れ出すことにした。だが途中で、彼は会社からの緊急の電話が入ってきた。仕方なく、彼女を先にレストランへ送って、「用事が済んだらすぐに行く」と伝えた。車を降りる時、颯真は無意識に彼女に別れのキスをしようとした。しかし、彼女は慌てて顔を背けてしまい、その唇は彼女の頬に触れるだけだった。颯真は一瞬止まったが、すぐに笑って車を降りて行った。ドアが閉まった瞬間
目の前の狂っている颯真を見て、詩穂はただただ皮肉を感じるばかりだった。「あんた、口では愛してるって言うけど――じゃあ、なぜ緋月が私を陥れたとき、真相を確かめようとしなかったの?なぜ彼女の復讐計画に賛成したの?なぜ真実を私に隠したの?」言い訳なんていらない。私……あのとき、ちゃんとチャンスをあげたの。あの火事の夜、私は聞いたの。戻ってくるの?って、もし、あのときあなたが振り返って私を引っ張り出してくれたら、私は全部、許してあげるつもりだったのに!なのに、あなたはどうしたの?」長く、深い問いかけ。だが返ってきたのは、颯真の沈黙だけだった。あの火事の夜のことは、もう遠い過去だ。颯真ですら、あの夜のことを忘れかけていた。けれど、あの時、彼は、答えなかった。ほんの少し躊躇って、そのまま背を向けて立ち去ったのだ。「炎の中で、私を置いて行ったあなたが……今さら、私があなたのために残るって、本気で思ってるの?」その言葉を最後に、詩穂は彼の横をすり抜けようとした。しかし今度は、颯真がすぐに動いた。「止めろ!」詩穂は、信じられないという目で彼を睨みつけた。「来ないで!」まだ、彼に少しでも罪悪感が残っていると思っていた。なのに、彼は、彼女の逃げ道を断った。颯真はゆっくりと歩み寄り、とうとう彼女の頬に手を伸ばした。「詩穂、今までのこと、全部俺が悪かった。責任も罪も、ちゃんと背負ってきた。だから、もう一度、やり直さないか?まだ俺に怒っているのも分かってる。だから、これから、少しずつでも償わせてほしい」「無理よ」詩穂は勢いよく顔を背け、彼の手をかわした。極度の失望からか、声がかすかに震える。「もう一度、私を壊す気なの?私が死ぬまで追い詰めないと、気が済まないの?」颯真の目に一瞬苦しみがよぎる。だが、すぐに固い決意へと変わった。「詩穂、もう二度と君を死なせたりしない」その日から、詩穂は、颯真に強引に側へと留め置かれることになった。彼女の存在を世間に納得させるために、颯真は記者会見まで開いた。大勢の記者を前に、彼は「詩穂は死んでいなかった。ただ少し喧嘩して家出しただけ」と説明し、こうして彼女が戻ってきたのは、自分が一年以上かけて誠意を尽くしたからだと語った。記者たちは感動の涙を浮かべ、フラッシュが一斉に焚かれた
颯真は、頬に受けた一撃の痛みにしばし呆然としていた。やっとのことで手を上げて、自分の腫れた頬をそっと撫でる。「……夢じゃないのか?」詩穂は、冷たい笑みを浮かべて言い放つ。「夢?ええ、夢よ。最低の悪夢だけどね」そう言って彼女は背を向けて、スタスタと階段を下り始めた。「詩穂!」ようやく正気を取り戻した颯真が慌てて追いかけ、二人がもみ合ううちに、詩穂の足元がふいに滑って、階段から転げ落ちてしまう。「危ない!」颯真は思わず手を伸ばすが、間に合わず、ただ彼女を抱きかかえるようにして共に階下へ落ちた。「ドン!」鈍い音が響き、二人は床に激しく叩きつけられる。颯真が彼女を庇ったおかげで、詩穂は頭が少しクラクラするだけで、大きな怪我はなかった。だが、颯真は床に倒れたまま、後頭部から血がじわりと滲んでいた。「ご主人様!」別荘の中は一気に騒然となり、執事が大慌てで二人を病院へ運び込んだ。これでまた数日が過ぎた。颯真が入院している間に、詩穂は静かに別荘を抜け出そうとした。だが、玄関にたどり着いた瞬間、使用人たちに行く手を塞がれる。詩穂の表情は一気に冷え込む。「……どういうつもり?」二人の使用人は困ったように顔を見合わせる。「七瀬さん、申し訳ありません。ご主人様の許可がなければ、お出になれません」まるで悪い冗談でも聞いたかのように、詩穂は鼻で笑う。「私を閉じ込めるつもり?」返事を待つまでもなく、彼女は二人の手を振り払って外へ出ようとした。とはいえ、ご主人様が愛している相手に無理やり手を出すわけにもいかず、使用人たちはただ追いすがりながら声をかけるしかできない。「七瀬さん、どうかご理解を……!」その声が逆効果になったのか、詩穂の足取りはますます速くなる。そのとき、一台のマイバッハが静かに目の前に停まった。中から現れたのは、顔色の悪い颯真だった。「詩穂」「その名前で呼ばないで。気持ち悪い!」帰国したときから、詩穂は颯真との再会を覚悟していた。自分が神崎家には敵わない。だからこそ、波風を立てないようにと努めてきた。できる限り距離を置き、必要以上に関わらないように――そう決めていた。何かあっても、決して衝突しない。そのほうが自分の身のためだと、何度も自分に言い聞かせてきた。だが
それからの半月、詩穂は公演に追われ、颯真のことを気にする余裕などはなかった。そして、ついに公演が終わり、ようやく待望の休みが訪れる。詩穂はレンタカーを借りてひとり旅に出かけようと準備していたが、そんなとき、颯真の秘書から電話がかかってきた。「社長が大変なことになりました。どうか神崎家に一度いらしていただけませんか」と繰り返して懇願した。颯真の性格を知り尽くしている詩穂は、「またあの人の仕掛ける復讐だろう」と冷めた目で受け流した。けれど、わざわざ問い詰める気も起きなかった。「私は医者じゃないし、彼に何もしてあげられません」それだけを言い残し、返事も待たずに電話を切ってしまった。さらに、もう二度と邪魔されないようにと、相手の番号をさっさと着信拒否リストに入れてしまった。スマホを放り投げると、詩穂はさっさとタクシーを呼び、レンタカー屋へ向かうことにした。タクシーの後部座席で目的地を伝えると、詩穂はそのまま目を閉じ、しばし仮眠をとる。どれほど時間が経っただろうか。運転手に「お客さん、着きましたよ」と声をかけられ、詩穂はぼんやりと目を覚ました。特に疑うこともなく料金を払い、ふらふらと車を降りた――が、目の前の建物を見て、ようやく自分が神崎家の別荘に連れてこられたことに気付く。「運転手さん、道間違えたでしょ!」怒りとも呆れともつかぬ笑いが漏れる中、彼女はスマホを取り出し、再度タクシーを呼ぼうとした。そのとき、豪奢な別荘の門が開き、神崎家の執事が大勢の人を引き連れて出てきた。彼女を見つけると、執事は驚きと喜びの入り混じった声を上げる。「奥さま……いえ、七瀬さん!やっとお越しいただきました!」そのまま、彼女を別荘の中へと招き入れた。久々に踏み入れた神崎家の別荘。一瞬、彼女の心が揺らいだ。あの日、慌ただしくこの家を出て行った。何も持たず、何も振り返らず。屋敷の中はあの頃のまま、まるで時間が止まったように残っている。思わず「自分は本当に離れていたのか?」と錯覚しそうになるほどだった。執事はやけに丁寧にお茶を淹れたり水を持ってきたりしながら、経緯を説明し始める。「ご主人様は、復讐なんてしていません」「あの日、七瀬さんと別れてから彼は別人のようになり、部屋にこもって酒に溺れ、眠っては七瀬さんの名を呼び続
詩穂が踵を返した、ちょうどその瞬間だった。ドサッと重い何かが床に落ちるような音が、彼女の前に響いた。無意識にその音の方へ視線を向けると、そこには青ざめた颯真の秘書が立っていた。「お、奥様……?」結局、詩穂はその場を去ることができなかった。秘書が必死になって、彼女の行く手を塞いだのだ。「奥様、お願いです。行かないでください!社長が今までどんな思いで生きてきたか、ご存じないでしょう。過去のことはもういいですから、せめて今回社長が奥様を救ったことで、そばにいてあげてください!」詩穂は長く息を吐いた。「まず、奥様なんて呼ばないで。私は彼と、恋人ですらない。それに、手術が終わるまで付き添ってもいいけど、済んだら、私はやっぱり帰る。もう、彼とこれ以上関わりたくないの」詩穂が一言口にするたび、秘書の顔色はどんどん気まずくなっていく。最後には、秘書も折れるしかなかった。詩穂の全ての条件を呑むしかなかったのだ。二人は手術室の外のベンチに静かに腰掛け、ただ待ち続けた。詩穂が二十一回目、スマホの画面を点けて時刻を確認したとき、手術室の扉が開いた。頭を包帯でぐるぐる巻きにされた颯真が運ばれてきた。思いがけず、彼の意識ははっきりしていた。焦点の定まらなかった彼の目が、彼女を見つけた瞬間ぱっと輝いた。「詩穂!」VIP病室の中で、颯真は自分の怪我も顧みず、詩穂を強く抱きしめた。その声には、狂おしいほどの歓喜と安堵、そして恐怖が入り混じっていた。「よかった!生きていてくれてよかった!夢かと思ったよ。手術室を出たら、また君がいなくなってるんじゃないかと……本当によかった!」だが、詩穂の声は驚くほど冷静だった。「私は、全然よかったなんて思ってない」「詩穂?」彼の腕が、ピタリと止まるのが分かった。彼女はその腕を引きはがすと、距離を取って口を開いた。「私にとってよかったっていうのは、颯真に二度と会わないことよ。だって、誰が自分の一番信じていた、愛していた人に、99回も裏切られて、平気で一緒にいられると思う?」その言葉は、まるで何本もの縄で彼の心臓をきつく締め上げるようで、颯真は息が詰まり、苦しさに顔を歪めた。彼は傷も顧みず、慌ててベッドから飛び降りる。頭の中はぐちゃぐちゃで、なんで詩穂が全てを知っている
詩穂はナイフとフォークをそっと置いて、横にあったスマホを手に取ると、数文字を素早く打ち込んだ。「ずっと私のこと見ていて、どうしたの?」颯真は彼女をじっと見つめていた。目の前の女性が、あまりにも詩穂に似ていると、思わず口をついて出た。「君は、俺の昔馴染みに……よく似ている」昔馴染み?「誰?」今度はスマホではなく、詩穂は店員に頼んで、紙とペンを借りて直接問いかけた。颯真は拳をきつく握りしめ、最後には苦い笑みを浮かべて言った。「俺の妻だ」目の前の人が、あまりにも詩穂に似ているからだろうか。颯真の警戒心は完全に消えていた。彼はこの一年間、心の奥底に隠していた痛みを、目の前の彼女に全て打ち明けた。「俺は、妻のことを心から愛していたんだ。でも、他人のたわごとを信じてしまって、取り返しのつかないことをした。そのせいで結局、妻は炎の中で命を落とした。あの日から、毎晩、夢に彼女が出てくる。炎の中で、俺が手を伸ばせば届く距離にいるのに――なぜか、彼女は必ずその手を振り払って、火の中へ消えてしまうんだ。それに、彼女の遺灰があの敵の女に撒き散らされてからは、一度も夢に出てこなかった。この一年、いろんな寺を回った。祈って、すがって……でも、どの住職も同じことを言った。彼女は、もうあなたに会いたがっていないって」何年も押し殺してきた感情が、ついにこの瞬間、溢れ出した。いつもは冷酷な男が、見知らぬ女の前で顔を覆い、子どものように泣き崩れたのだ。もし、詩穂がただの他人だったなら――彼の愛の深さに心を動かされ、そっとハンカチを差し出していたかもしれない。だが、残念ながら彼女こそが、颯真の語る物語のヒロインだった。しかも、彼の言葉の中に、どれだけ多くの真実が隠されているのか、彼女はすべて知っている。だが、もう暴く気も起きなかった。かつて彼を命よりも愛していた詩穂は、あの炎の中でとうに死んだ。今の詩穂は、どんな身分にもなれるが、もう二度と颯真とは何の関わりもない。詩穂の長い沈黙が、ようやく颯真を現実に引き戻した。慌てて涙をぬぐい、姿勢を正すと、丁寧に頭を下げた。「失礼だった。ホテルまで送らせよう」だが、その時だった。突然の出来事が彼らを襲う。暴走した車が猛スピードで彼らに向かって突っ込んできた。眩しいヘッドライトに照
さっきまでステージを一枚隔てた距離だったのに、今はこんなにも近く――颯真は相手の香水の香りまではっきりと感じ取れ、心臓の鼓動すらも耳に届くほどだった。この人、どこかで見たことがある気がする。そんな感覚が、どんどん強まっていく。絶対にありえないと思っていた予感が、ふと脳裏をよぎった。そして、彼女が沈黙を守るその様子が、なぜか彼に妙な確信を与えた。彼はゆっくりと、震える手を顔の前に伸ばす。仮面に近づけば近づくほど、心臓は激しく跳ね、呼吸も浅くなる。詩穂は、まさか颯真が本当に手を伸ばしてくるなんて思っていなかった。彼女が知る限りの颯真なら、他の女が彼の問いにすぐ答えなければ、不機嫌そうにその場を去ってしまうはずだ。だからこそ、詩穂は一か八かの賭けに出たのだ。まさか彼がこんな行動に出るとは思ってもいなかった。彼の手がどんどん自分の仮面に近づいてきて、詩穂は体を固くし、心まで締めつけられる。颯真の手が仮面に触れようとするその瞬間、「リン、リンッ!」と急にスマホが鳴った。颯真は瞬我に返ると、素早く手を引っ込め、スマホを取り出して電話に出る。「もしもし」電話の相手が何を言ったのかはわからないが、颯真の顔色は見る見るうちに険しくなった。そして、目の前の女を気にする余裕もなく、足早にその場を立ち去った。彼の姿が完全に視界から消えた時、ようやく詩穂の背中から緊張が抜けていく。そっと、握りしめていた手を開くと、そこにはうっすらと汗が浮かんでいた。夜になると、舞踊団の仲間たちは夜の京市を見物するために、夜遊びへと向かっていた。だが、幼い頃から京市で育った詩穂は、そんなものには興味がなかった。だから仲間たちに別れを告げ、ホテルに戻る車に乗った。けれど、ホテルに着いて車を降りた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、大勢に囲まれてホテルから出てくる颯真の姿だった。詩穂は直ちに背を向けようとした――その時、背後から颯真の声が響いた。「待って!」詩穂の表情が変わり、慌ててカバンから仮面を取り出してつけた。再び振り向くと、颯真はすでに目の前まで来ていた。まだ仮面をつけている彼女に、颯真は不思議そうに問いかける。「もう仕事は終わったのに、なんでまだ仮面をつけてるんだ?」詩穂は、今度ばかりはもう逃げられないと悟ったが