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第9話

Penulis: 眠眠(みんみん)
颯真の動きが、ふっと止まった。彼は、長い間、静かにその痩せ細った体を見つめていた。

まるで、そこに立ち尽くす彫像のように。

遠くで、救助員たちが重い足取りで、担架に乗せた詩穂の遺体を運んできた。

やがて、彼の目の前にそっと担架を下ろした。

「神崎さん、ご愁傷様です」

雨脚が次第に強くなり、颯真の視界はぼやけていく。

その中で、彼は崩れるように地面に膝をついた。その瞳は、真っ赤に腫れ上がっていた。

震える手を何度伸ばしたが、うまく彼女の体を抱き上げることができなかった。

ようやく救助員の手を借りて、彼は彼女の遺体をしっかりと抱き締めることができた。

つい半日前まで、詩穂は彼の助手席に座り、微笑みながら明るい目で彼に「好きなんだ」と言ってくれていた。

けれど今、彼女は静かに彼の腕の中で眠っている。

その冷たい体温が彼の全身に伝わり、心臓まで氷に包まれたような気がした。

「詩穂、もう冗談はやめてくれよ。起きてくれ、な?」

何度も何度も、胸に抱く彼女の名を呼んだが、彼女はまるで拗ねているように、ひと言も返さなかった。

それでも彼は、まるでかつて彼女に甘えるように、そっと自分の顔を彼女の頬に寄せた。

彼女の顔についた血と煤が自分の顔を汚しても、颯真は眉ひとつ動かさなかった。

颯真の脳裏に、いろんな記憶がよみがえる。

これまで、彼は詩穂に色々な秘密を隠してきた。

その中でも最も古い秘密は、彼が彼女に気づいていたのが、彼女が自分を好きになるよりも、ずっと前だったということ。

あの日、新入生歓迎会。舞台の上で踊る詩穂の姿に、一瞬で心を奪われた。

軽やかなステップ、ひらりと舞うスカート、そして太陽のような笑顔。

今でもその光景を鮮明に覚えている。

彼が見惚れているのに気づいたのか、隣のルームメイトが興奮気味に彼女のことを話してくれた。

たくさんの言葉の中で、颯真の心に残ったのは、たった一つ。彼女の名前――七瀬詩穂。

なんて美しく、清らかな響きだろう。彼はその名を、何度も口の中で繰り返してみた。

ついには自分の名前と並べて呟いてみたりして。

七瀬詩穂、神崎颯真。

なんだか、とてもお似合いに思えた。

だけど、すぐに首を振った。

ダメだ、自分が好きなのは緋月だ。将来の結婚相手は彼女だけのはず。

けれど、視線だけは、いつも詩穂を追い
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    目の前の狂っている颯真を見て、詩穂はただただ皮肉を感じるばかりだった。「あんた、口では愛してるって言うけど――じゃあ、なぜ緋月が私を陥れたとき、真相を確かめようとしなかったの?なぜ彼女の復讐計画に賛成したの?なぜ真実を私に隠したの?」言い訳なんていらない。私……あのとき、ちゃんとチャンスをあげたの。あの火事の夜、私は聞いたの。戻ってくるの?って、もし、あのときあなたが振り返って私を引っ張り出してくれたら、私は全部、許してあげるつもりだったのに!なのに、あなたはどうしたの?」長く、深い問いかけ。だが返ってきたのは、颯真の沈黙だけだった。あの火事の夜のことは、もう遠い過去だ。颯真ですら、あの夜のことを忘れかけていた。けれど、あの時、彼は、答えなかった。ほんの少し躊躇って、そのまま背を向けて立ち去ったのだ。「炎の中で、私を置いて行ったあなたが……今さら、私があなたのために残るって、本気で思ってるの?」その言葉を最後に、詩穂は彼の横をすり抜けようとした。しかし今度は、颯真がすぐに動いた。「止めろ!」詩穂は、信じられないという目で彼を睨みつけた。「来ないで!」まだ、彼に少しでも罪悪感が残っていると思っていた。なのに、彼は、彼女の逃げ道を断った。颯真はゆっくりと歩み寄り、とうとう彼女の頬に手を伸ばした。「詩穂、今までのこと、全部俺が悪かった。責任も罪も、ちゃんと背負ってきた。だから、もう一度、やり直さないか?まだ俺に怒っているのも分かってる。だから、これから、少しずつでも償わせてほしい」「無理よ」詩穂は勢いよく顔を背け、彼の手をかわした。極度の失望からか、声がかすかに震える。「もう一度、私を壊す気なの?私が死ぬまで追い詰めないと、気が済まないの?」颯真の目に一瞬苦しみがよぎる。だが、すぐに固い決意へと変わった。「詩穂、もう二度と君を死なせたりしない」その日から、詩穂は、颯真に強引に側へと留め置かれることになった。彼女の存在を世間に納得させるために、颯真は記者会見まで開いた。大勢の記者を前に、彼は「詩穂は死んでいなかった。ただ少し喧嘩して家出しただけ」と説明し、こうして彼女が戻ってきたのは、自分が一年以上かけて誠意を尽くしたからだと語った。記者たちは感動の涙を浮かべ、フラッシュが一斉に焚かれた

  • 忘却の風に身を任せ   第19話

    颯真は、頬に受けた一撃の痛みにしばし呆然としていた。やっとのことで手を上げて、自分の腫れた頬をそっと撫でる。「……夢じゃないのか?」詩穂は、冷たい笑みを浮かべて言い放つ。「夢?ええ、夢よ。最低の悪夢だけどね」そう言って彼女は背を向けて、スタスタと階段を下り始めた。「詩穂!」ようやく正気を取り戻した颯真が慌てて追いかけ、二人がもみ合ううちに、詩穂の足元がふいに滑って、階段から転げ落ちてしまう。「危ない!」颯真は思わず手を伸ばすが、間に合わず、ただ彼女を抱きかかえるようにして共に階下へ落ちた。「ドン!」鈍い音が響き、二人は床に激しく叩きつけられる。颯真が彼女を庇ったおかげで、詩穂は頭が少しクラクラするだけで、大きな怪我はなかった。だが、颯真は床に倒れたまま、後頭部から血がじわりと滲んでいた。「ご主人様!」別荘の中は一気に騒然となり、執事が大慌てで二人を病院へ運び込んだ。これでまた数日が過ぎた。颯真が入院している間に、詩穂は静かに別荘を抜け出そうとした。だが、玄関にたどり着いた瞬間、使用人たちに行く手を塞がれる。詩穂の表情は一気に冷え込む。「……どういうつもり?」二人の使用人は困ったように顔を見合わせる。「七瀬さん、申し訳ありません。ご主人様の許可がなければ、お出になれません」まるで悪い冗談でも聞いたかのように、詩穂は鼻で笑う。「私を閉じ込めるつもり?」返事を待つまでもなく、彼女は二人の手を振り払って外へ出ようとした。とはいえ、ご主人様が愛している相手に無理やり手を出すわけにもいかず、使用人たちはただ追いすがりながら声をかけるしかできない。「七瀬さん、どうかご理解を……!」その声が逆効果になったのか、詩穂の足取りはますます速くなる。そのとき、一台のマイバッハが静かに目の前に停まった。中から現れたのは、顔色の悪い颯真だった。「詩穂」「その名前で呼ばないで。気持ち悪い!」帰国したときから、詩穂は颯真との再会を覚悟していた。自分が神崎家には敵わない。だからこそ、波風を立てないようにと努めてきた。できる限り距離を置き、必要以上に関わらないように――そう決めていた。何かあっても、決して衝突しない。そのほうが自分の身のためだと、何度も自分に言い聞かせてきた。だが

  • 忘却の風に身を任せ   第18話

    それからの半月、詩穂は公演に追われ、颯真のことを気にする余裕などはなかった。そして、ついに公演が終わり、ようやく待望の休みが訪れる。詩穂はレンタカーを借りてひとり旅に出かけようと準備していたが、そんなとき、颯真の秘書から電話がかかってきた。「社長が大変なことになりました。どうか神崎家に一度いらしていただけませんか」と繰り返して懇願した。颯真の性格を知り尽くしている詩穂は、「またあの人の仕掛ける復讐だろう」と冷めた目で受け流した。けれど、わざわざ問い詰める気も起きなかった。「私は医者じゃないし、彼に何もしてあげられません」それだけを言い残し、返事も待たずに電話を切ってしまった。さらに、もう二度と邪魔されないようにと、相手の番号をさっさと着信拒否リストに入れてしまった。スマホを放り投げると、詩穂はさっさとタクシーを呼び、レンタカー屋へ向かうことにした。タクシーの後部座席で目的地を伝えると、詩穂はそのまま目を閉じ、しばし仮眠をとる。どれほど時間が経っただろうか。運転手に「お客さん、着きましたよ」と声をかけられ、詩穂はぼんやりと目を覚ました。特に疑うこともなく料金を払い、ふらふらと車を降りた――が、目の前の建物を見て、ようやく自分が神崎家の別荘に連れてこられたことに気付く。「運転手さん、道間違えたでしょ!」怒りとも呆れともつかぬ笑いが漏れる中、彼女はスマホを取り出し、再度タクシーを呼ぼうとした。そのとき、豪奢な別荘の門が開き、神崎家の執事が大勢の人を引き連れて出てきた。彼女を見つけると、執事は驚きと喜びの入り混じった声を上げる。「奥さま……いえ、七瀬さん!やっとお越しいただきました!」そのまま、彼女を別荘の中へと招き入れた。久々に踏み入れた神崎家の別荘。一瞬、彼女の心が揺らいだ。あの日、慌ただしくこの家を出て行った。何も持たず、何も振り返らず。屋敷の中はあの頃のまま、まるで時間が止まったように残っている。思わず「自分は本当に離れていたのか?」と錯覚しそうになるほどだった。執事はやけに丁寧にお茶を淹れたり水を持ってきたりしながら、経緯を説明し始める。「ご主人様は、復讐なんてしていません」「あの日、七瀬さんと別れてから彼は別人のようになり、部屋にこもって酒に溺れ、眠っては七瀬さんの名を呼び続

  • 忘却の風に身を任せ   第17話

    詩穂が踵を返した、ちょうどその瞬間だった。ドサッと重い何かが床に落ちるような音が、彼女の前に響いた。無意識にその音の方へ視線を向けると、そこには青ざめた颯真の秘書が立っていた。「お、奥様……?」結局、詩穂はその場を去ることができなかった。秘書が必死になって、彼女の行く手を塞いだのだ。「奥様、お願いです。行かないでください!社長が今までどんな思いで生きてきたか、ご存じないでしょう。過去のことはもういいですから、せめて今回社長が奥様を救ったことで、そばにいてあげてください!」詩穂は長く息を吐いた。「まず、奥様なんて呼ばないで。私は彼と、恋人ですらない。それに、手術が終わるまで付き添ってもいいけど、済んだら、私はやっぱり帰る。もう、彼とこれ以上関わりたくないの」詩穂が一言口にするたび、秘書の顔色はどんどん気まずくなっていく。最後には、秘書も折れるしかなかった。詩穂の全ての条件を呑むしかなかったのだ。二人は手術室の外のベンチに静かに腰掛け、ただ待ち続けた。詩穂が二十一回目、スマホの画面を点けて時刻を確認したとき、手術室の扉が開いた。頭を包帯でぐるぐる巻きにされた颯真が運ばれてきた。思いがけず、彼の意識ははっきりしていた。焦点の定まらなかった彼の目が、彼女を見つけた瞬間ぱっと輝いた。「詩穂!」VIP病室の中で、颯真は自分の怪我も顧みず、詩穂を強く抱きしめた。その声には、狂おしいほどの歓喜と安堵、そして恐怖が入り混じっていた。「よかった!生きていてくれてよかった!夢かと思ったよ。手術室を出たら、また君がいなくなってるんじゃないかと……本当によかった!」だが、詩穂の声は驚くほど冷静だった。「私は、全然よかったなんて思ってない」「詩穂?」彼の腕が、ピタリと止まるのが分かった。彼女はその腕を引きはがすと、距離を取って口を開いた。「私にとってよかったっていうのは、颯真に二度と会わないことよ。だって、誰が自分の一番信じていた、愛していた人に、99回も裏切られて、平気で一緒にいられると思う?」その言葉は、まるで何本もの縄で彼の心臓をきつく締め上げるようで、颯真は息が詰まり、苦しさに顔を歪めた。彼は傷も顧みず、慌ててベッドから飛び降りる。頭の中はぐちゃぐちゃで、なんで詩穂が全てを知っている

  • 忘却の風に身を任せ   第16話

    詩穂はナイフとフォークをそっと置いて、横にあったスマホを手に取ると、数文字を素早く打ち込んだ。「ずっと私のこと見ていて、どうしたの?」颯真は彼女をじっと見つめていた。目の前の女性が、あまりにも詩穂に似ていると、思わず口をついて出た。「君は、俺の昔馴染みに……よく似ている」昔馴染み?「誰?」今度はスマホではなく、詩穂は店員に頼んで、紙とペンを借りて直接問いかけた。颯真は拳をきつく握りしめ、最後には苦い笑みを浮かべて言った。「俺の妻だ」目の前の人が、あまりにも詩穂に似ているからだろうか。颯真の警戒心は完全に消えていた。彼はこの一年間、心の奥底に隠していた痛みを、目の前の彼女に全て打ち明けた。「俺は、妻のことを心から愛していたんだ。でも、他人のたわごとを信じてしまって、取り返しのつかないことをした。そのせいで結局、妻は炎の中で命を落とした。あの日から、毎晩、夢に彼女が出てくる。炎の中で、俺が手を伸ばせば届く距離にいるのに――なぜか、彼女は必ずその手を振り払って、火の中へ消えてしまうんだ。それに、彼女の遺灰があの敵の女に撒き散らされてからは、一度も夢に出てこなかった。この一年、いろんな寺を回った。祈って、すがって……でも、どの住職も同じことを言った。彼女は、もうあなたに会いたがっていないって」何年も押し殺してきた感情が、ついにこの瞬間、溢れ出した。いつもは冷酷な男が、見知らぬ女の前で顔を覆い、子どものように泣き崩れたのだ。もし、詩穂がただの他人だったなら――彼の愛の深さに心を動かされ、そっとハンカチを差し出していたかもしれない。だが、残念ながら彼女こそが、颯真の語る物語のヒロインだった。しかも、彼の言葉の中に、どれだけ多くの真実が隠されているのか、彼女はすべて知っている。だが、もう暴く気も起きなかった。かつて彼を命よりも愛していた詩穂は、あの炎の中でとうに死んだ。今の詩穂は、どんな身分にもなれるが、もう二度と颯真とは何の関わりもない。詩穂の長い沈黙が、ようやく颯真を現実に引き戻した。慌てて涙をぬぐい、姿勢を正すと、丁寧に頭を下げた。「失礼だった。ホテルまで送らせよう」だが、その時だった。突然の出来事が彼らを襲う。暴走した車が猛スピードで彼らに向かって突っ込んできた。眩しいヘッドライトに照

  • 忘却の風に身を任せ   第15話

    さっきまでステージを一枚隔てた距離だったのに、今はこんなにも近く――颯真は相手の香水の香りまではっきりと感じ取れ、心臓の鼓動すらも耳に届くほどだった。この人、どこかで見たことがある気がする。そんな感覚が、どんどん強まっていく。絶対にありえないと思っていた予感が、ふと脳裏をよぎった。そして、彼女が沈黙を守るその様子が、なぜか彼に妙な確信を与えた。彼はゆっくりと、震える手を顔の前に伸ばす。仮面に近づけば近づくほど、心臓は激しく跳ね、呼吸も浅くなる。詩穂は、まさか颯真が本当に手を伸ばしてくるなんて思っていなかった。彼女が知る限りの颯真なら、他の女が彼の問いにすぐ答えなければ、不機嫌そうにその場を去ってしまうはずだ。だからこそ、詩穂は一か八かの賭けに出たのだ。まさか彼がこんな行動に出るとは思ってもいなかった。彼の手がどんどん自分の仮面に近づいてきて、詩穂は体を固くし、心まで締めつけられる。颯真の手が仮面に触れようとするその瞬間、「リン、リンッ!」と急にスマホが鳴った。颯真は瞬我に返ると、素早く手を引っ込め、スマホを取り出して電話に出る。「もしもし」電話の相手が何を言ったのかはわからないが、颯真の顔色は見る見るうちに険しくなった。そして、目の前の女を気にする余裕もなく、足早にその場を立ち去った。彼の姿が完全に視界から消えた時、ようやく詩穂の背中から緊張が抜けていく。そっと、握りしめていた手を開くと、そこにはうっすらと汗が浮かんでいた。夜になると、舞踊団の仲間たちは夜の京市を見物するために、夜遊びへと向かっていた。だが、幼い頃から京市で育った詩穂は、そんなものには興味がなかった。だから仲間たちに別れを告げ、ホテルに戻る車に乗った。けれど、ホテルに着いて車を降りた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、大勢に囲まれてホテルから出てくる颯真の姿だった。詩穂は直ちに背を向けようとした――その時、背後から颯真の声が響いた。「待って!」詩穂の表情が変わり、慌ててカバンから仮面を取り出してつけた。再び振り向くと、颯真はすでに目の前まで来ていた。まだ仮面をつけている彼女に、颯真は不思議そうに問いかける。「もう仕事は終わったのに、なんでまだ仮面をつけてるんだ?」詩穂は、今度ばかりはもう逃げられないと悟ったが

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