和也はその場で数秒呆然とし、トイレに駆け寄って唯の背中をそっと叩いた。「唯、君……妊娠してるのか?」抑えきれないほどの喜びを込めた声に、唯は苦々しく唇の端を上げた。吐き気が収まるのを待ち、荒い息を整えながら体を起こす。「忘れたの?私、妊娠できない体だって医者に言われたでしょう」それでも和也の興奮は冷めやらず、「明日、病院に行こう。もしもの可能性だってあるかも」スマホで診察の予約を済ませる彼を、唯は黙って見つめるだけだった。翌朝、二人はしっかりと身を固めて病院へ向かった。私立の病院。折原の知り合いの医師が淡々と告げる。「米山さんの子宮は重度の損傷を受けています。検査結果から見て、妊娠の可能性はほぼゼロです」期待していなかったとはいえ、医師の残念そうな口調に唯の胸が締め付けられた。三年前、あの攻略任務を成功させて元の世界に戻っていれば、健康な体を手に入れられたはずだ。だが彼女は戻ることを拒んだ。今さら脱出申請を出しても、この傷だらけの体のまましか帰れない。それでも、離れられるだけで満足だ。唯は冷めた視線で、がっかりした様子の和也を一瞥した。和也は一瞬落ち込んだが、すぐに唯を抱きしめた。「大丈夫だよ、唯。子供が欲しくなったら、里子をもらえばいい。二人で育てよう」唯はそっと彼の腕を外す。「子供なんて、いなくてもいいわ」和也は腕を絡めてきた。「そうだな、二人ずっと一緒にいられればそれでいい」唯は俯きながら心で呟いた。――それも無理なのに。医師によれば、昨夜の吐き気は鬱症状や過度のストレスが原因で、特に異常はないという。病院を出ると、和也はクジラ湾へ気分転換に行こうと提案した。唯は拒まなかった。あの海をもう一度見ておきたかった。この世界に来て最初に見た場所。和也が過去に飛び込み自殺を図り、長くトラウマを抱えていた海。唯が少しずつ彼を癒し、再び海を愛せるようにしたあの場所。だが今、彼女の心境はすでに昔とは違っていた。人気のない湾。十月の海風が二人を包む。唯はコートの襟を立てた。寒がりなのだ。和也はすぐに自分の上着を彼女に掛け、後ろから抱き寄せた。「これで寒くないだろ?」すれ違った老夫婦が手を繋ぎながら笑う。「まあ、若いのたちは仲良しだねえ」「ふん、俺たちみた
唯はクジラ湾から最も近い病院に運ばれた。子宮のダメージにより、生理が来るたびに死ぬほどの痛みに襲われる体だった。初めの頃は生理が近づく数日前から不安に駆られ、和也はどんなに忙しくても仕事を放り出し、彼女に付きっきりでお腹を温め、黒糖入りの生姜と棗の茶を煮てくれた。彼がいるおかげで、次第に米山は気にしなくなり、毎回和也に促されて初めて自分の生理が近いことを知るようになっていた。だが今回は、彼も忘れていた。痛み止めを飲み干した唯は病床に身を預け、システムを呼び出した。「和也の現在地を特定して」「承知しました」電子音が頭の中で鳴り、脳裏に位置情報の地図が浮かび上がる。和也は霞ヶ東町に滞在した後、約三分ほど経ってから路傍の御々苑13号へ移動していた。藤村茜が住むマンションだ。唯は動画アプリを開き、彼女のアカウントを検索してライブ配信に潜り込んだ。「新しく来てくれた子、ようこそ!」茜が腕時計をちらりと見て、「でも彼氏が来るから、そろそろ配信終わりますね」と甘えた声で告げた。柔らかく穏やかな話し方は、聞く者をくつろがせる音色だった。彼女がそう言い終わると同時にドアが開く音がし、顔中に喜びの笑みが広がる。マイクを切り、上目遣いで横を仰ぎ見る瞳は、飼い主の寵愛を待つ子犬のように煌めいていた。次の瞬間、首筋に腕が回り、待ちきれないほど急いだように顔を近づけられた彼女は熱烈なキスを交わした。相手の顔は見えなくとも、配信画面は即座に沸騰した。【きゃ——!甘々すぎ!もっと見たい!】【配信中でキスするなんて!この甘いカップルめ!】【目の前でキスとかズルい!でも大好き!!】……ファンたちの興奮とは対照的に、唯は頭から氷水を浴びせられたような感覚に襲われた。心底から湧き上がる寒気が全身を震わせる。相手は紛れもない和也だった。画面に半分映り込んだシャツの袖は、彼が着ていたものと一致する。一時間前までこの服が自分にかけられていたと思うと、吐き気が込み上げてきた。ほぼ一分間も続く接吻シーンに、唯は携帯を伏せた。しばらくしてマイクが再び繋がり、茜は照れくさそうに笑いながら甘えた。「ごめんねみんな、彼氏来ちゃったから今日はここまで。また明日!」配信終了間際、画面を埋め尽くすコメントが唯の
和也は廊下を抜け、産婦人科へ向かい、階段室に入った。階段室の扉は一枚だけ閉まっていた。唯はその扉の前に立ち、自分の角度からちょうど見える、小柄で清楚な顔立ちの女性を目にした。それは藤村茜だった。和也は彼女の姿に軽く眉をひそめた。「どうしてここに?」茜は唇を尖らせて俯きながらも、上目遣いで彼を見上げ、うらめしげな表情を浮かべた。「今朝、夜も明けきらないうちに目が覚めたら、あなたがいなくなってたの。怖かったわ……」そう言うと、目元に涙を溜め始めた。和也は胸を締めつけられる思いで、そっと彼女を抱き寄せた。「何を怖がってるんだ。俺が消えるわけないだろう」茜は彼の胸に頬をすり寄せた。「怖いだけじゃないの。会いたくてたまらなかったのよ」和也は甘える彼女の頭を優しく撫でた。「ずいぶん甘えん坊になったな」茜は答えず、子犬のように彼を見上げた。瞳には溢れんばかりの慕情が滲んでいた。そんな眼差しは、男の心を容易にかき乱す。昔の唯が彼を見つめる目と、そっくりだった。「和也、私のこと愛してる?」その言葉を聞いた瞬間、唯は無意識に息を殺し、心が宙づりになった。和也の目が翳り、唇を噛んだまま沈黙する。代わりに、突然彼女を壁に押し付け、荒々しく唇を奪った。それでも足りないかのように、首筋へと移り、軽く吸い付く。赤い痕を刻みつける。唯の目が鋭く疼き、心臓が引き千切られるような痛みに呼吸が乱れた。これは和也が情熱を抑えきれない時の仕草だ。昔、自分が同じように彼を見つめた時、彼もこうして自制を失った。唯は深く息を吸い込み、踵を返そうとした。しかし藤村の次の言葉で、足が釘付けになった。「和也、私……妊娠したの。責任、取ってよね」唯は反射的に折原の反応を見た。彼の動作が止まり、驚きの後、目に喜びの色が濃く浮かび、やがて苦悩に眉を寄せた。彼がずっと望んでいたこと――自分の子供が欲しいと。それ以上聞く気力もなく、唯は病室へ戻った。二十分後、折原も戻ってきた。手には卵入り粥が二つ持っている。「体調、良くなったか?」粥をテーブルに置き、額にキスしようと身を屈めた。唯は顔を背け、避けた。和也は固まったまま、戸惑いの表情を浮かべた。「お腹空いた。食べよう」しばらくして、和也はゆっくりと体
離婚届はとっくに印刷されていたが、和也がここ数日家にいたため、唯は余計な波風を立てまいと取りに行くのを控えていた。ようやく書類を受け取った彼女は車で帰路についた。システムの冷たい音声が脳内に響く。「今夜を過ぎれば、この世界を去るまで残り7日。離脱経路は50%まで開通しました。残された期間で後始末を完了してください」アナウンスが終わるとシステムは消え、唯は無表情のままハンドルを握り続けた。その時、前方の路肩で焼肉店に向かう藤村茜の姿が視界に飛び込んできた。一瞬ためらった後、彼女は車を停めた。昼食時に聞きかじった和也の通話内容が頭をよぎる。「打ち上げ」「彼女」という単語が断片的に耳に残っていた。まるで操り人形のように、彼女は茜の後を追って個室へ向かった。茜が入ると、中から野次が湧き上がった。「おお、大歌手の恋人さん来たぞ!」茜は礼儀正しく会釈した。「ごきげんよう」「さぁ座って!何か注文したら?和也に怒られる前にサービスしなきゃな」笑いが広がる中、和也は咳払いして茜を隣に引き寄せた。「結構だ。茜は最近脂っこいものは控えてる」茜が頬を染めて俯く。張り詰めた空気を、誰かが切り裂いた。「控えてるって……まさか妊娠?」茜は和也の方へ体を寄せ、顔をさらに伏せた。一同は瞬時に状況を飲み込んだ。「……これは奥さんにバレないようにな」和也の顔が青ざめ、茜が不安げに彼を見上げる。個室外の唯は目を細め、足元から這い上がる冷気が怒りに変わるのを感じた。脳裏で何かが弾ける音がした。和也の友人たちは皆、彼女の存在を知っているはずだった。あの出会いの日も、苦楽を共にした日々も、共有したはずの物語も。だが今や、茜の存在もまた共有財産になっているらしい。深く息を吸い込んだ唯は、上品な微笑みを浮かべて猛然と扉を押し開けた。「ごきげんよう。偶然通りかかったので、お邪魔しますわ」10秒の沈黙が部屋を支配した。扉が開いた瞬間、和也と友人たちの表情が一斉に凍りつくのが見て取れた。唯はゆっくりと一人一人を見渡しながら唇を歪めた。「お邪魔でしょうか?」ようやく我に返った一同が慌てる。「とんでもない!奥さんどうぞ――」しかし和也の隣には茜が座っており、空席がない。発言した男は干からびた笑みを浮かべ
「どうぞ召し上がって。私はもう済ませましたので、家の用事があるから失礼します」彼女は口元を緩めると、皆の緊張をよそに個室を出て行った。元々の目的は彼らを不快にさせることだけだった。大成功だ。誰もが土を噛んだような顔で食事をしていた。和也は我慢できず、席を蹴って追いかけた。「唯、話があるんだ……」唯は訝しげに振り返った。「え?何か?歓迎会でしょう?お友達をお一人にしていいの?」和也は真っ直ぐに彼女を見つめ、探るように訊ねた。「怒ってないのか?」前を向きながら歩き続ける唯は笑った。「別に怒ることなんてないじゃない」和也が慌てて並んだ。「あの……藤村茜が隣に座ったのは本当に偶然で……俺は君だけを愛してる。浮気なんてしない」唯は涼しい顔で答えた。「知ってるわ。彼女の隣にも別の男性が座ってたもの」「信じている」五文字を噛みしめるように言うと、彼女の顔に掴み所のない笑みが浮かんだ。和也は急に彼女が遠く感じられ、この違和感の正体が分からずもどかしくなった。暫く躊躇ってから小声で確認した。「本当に?」「本当よ」安堵と同時に理由のわからない焦燥が胸を締めつける。「じゃあ待ってて。皆に挨拶してから一緒に帰るから」断る隙を与えず、彼は個室へ戻っていった。唯はその隙に車内の離婚届を隠した。その後、和也は二日間家でべったりしていたが、唯はうんざりと思った。幸い三日目に新作アルバムのレコード会社から連絡が入り、彼はスタジオへ向かった。二時間後、携帯が鳴った。「唯、スタジオのテーブルに契約書を忘れた。届けてくれないか?」唯は車で書類を届け、契約が済むのを見届けた。関係者が帰ると、和也は赤らめた耳を隠すようにスマホを確認し、やがて唯の腰に手を回した。「悪いな、でも録り直しがあるから……一緒に帰れない」惜しむような口調に、唯はさりげなく距離を取った。「構わないわ。一人で帰るから」「じゃあ唯の好きなクッキーとドリアンケーキを宅配させよう」額にキスしようとする手前で、唯は灰を払うふりをして身をかがめた。スタジオを出た途端、藤村茜が降りてくる車を目撃した。茜は唯を認めても挨拴さえせず、コートの前合わせを緩めながら真っ直ぐ中へ入って行った。唯が眉を上げると、風に翻るコートの隙間
和也が家に戻ったのは、夜の八時を回っていた。唯に持ち帰った牛丼を差し出すと、彼女はちらりと視線を走らせた。「晩ご飯は済ませたから、今はお腹空いてないわ」「なら置いとけ」和也は唯の隣に腰を下ろし、彼女の手を握りながら言った。「唯、明日から五日ほど海川市に行く用事ができて……」「いいわよ。帰りを待ってる」明るく即答する妻の声に、和也は眉を寄せた。「……何の用事か、聞かないのか?」「別に。あなたを疑ってるわけじゃないもの」和也はしばらく唯の顔を見つめ、やがて申し訳なさそうに肩を抱き寄せた。「今回の仕事が終わったら、必ずゆっくり付き合うからな」唯の唇に薄い嘲笑が浮かんだ。もう必要ない。あと三日で彼女はこの世界を去るのだ。最初は六年間過ごした場所への未練もあった。思い出が詰まりすぎていたから。けれど今は胸が軽い。まるで古い殻を脱ぎ捨て、新しい生命に生まれ変わるような解放感。離脱チャンネルの起動に15日かかる仕様さえ有難く思えた。元の世界に戻っても、もう依存症のような苦しみは味わわずに済むのだ。翌朝、スーツケースをまとめた和也が出かける際、「外出は控えて、ちゃんと待っててくれ」と念を押した。ドアが閉まる音と共に、唯は溜め込んだ品々を処分し始めた。捨てるもの、焼くもの、寄付するもの。三年前から暮らした部屋はみるみる空虚になり、かつての生活の痕跡は薄れていった。これでいい。和也が帰宅時の光景を想像すると、見えないのが残念だと思った。離脱当日、唯は早朝に目を覚ました。システムの声が脳内に響く。「宿主様、チャンネルはクジラ湾で正午に開きます。遅刻なきよう」「クジラ湾か……」この世界に降り立った場所と同じと知り、妙に納得した。始まりと終わりが同じなら、綺麗に線が引ける。離婚届をリビングのテーブルに置き、車で海岸へ向かう途中、スマホが振動した。友達申請を許可すると、即座に写真が送られてくる。ベッドで上半身裸の和也に抱かれる藤村茜。【スタジオ前で私たちの声、聞いてたでしょ?私には赤ちゃんができたの。和也さんは私のものよ】【海川市の仕事なんて嘘。私と旅行に来てるの。ほら、幸せそうでしょう?あなたはもう要らないってことよ】続けて送られてくるツーショットに、唯はくすりと笑った。【おめでとう、
和也は枕元の携帯が連続して振動する音で目を覚ました。茜が彼の目覚めを察すると、恥じらうようにその胸に飛びついた。「和也さん、昨日の夜は疲れたでしょう?もうすぐ12時よ」「今日の旅行の予定、忘れてない?」以前なら彼女のそんな姿を見れば、折原はきっと彼女を押し倒してもう一度抱いただろう。だが今回は違った。理由のない不安が胸を掻き毟り、眉をひそめたまま黙って茜を押しのけ、枕の下から携帯を引きずり出した。米山唯からの未読メッセージが四件。一分前に届いたものだ。鼓動が喉元まで上がってくる。指先が震えながら画面を開くと、最初に飛び込んできたのは【さよなら、和也。永遠に】という一文だった。瞳孔が収縮し、耳朶で鈍い轟音が鳴る。さよなら?永遠に?慌てて上にスクロールさせると、彼女とクジラ湾のセルフィーが映った。ふたりのSNSには似た構図の写真が何枚もある。だがその笑顔が——かつての心底からの幸福感ではなく、全てを受け入れた諦念に変わっていた。息を止めた。手元の携帯がガタガタと震える。さらに上へ。音声ファイルが表示された。再生ボタンを押すと、控え室での自分と茜の会話が流れ出した。「こんな格好で来るなんて……」「だって、私の写真を見て奥さんを追い出したんでしょ?」「和也さん……優しくして……お腹の子が……」「ああ……分かってる……」肋骨の裏側で何かが軋んだ。机のきしむ音と喘ぎ声が、剥き出しの針のように鼓膜を刺す。あの日……彼女はドアの外にいたのか。さらにスクロールすると録画動画。茜と唯のLINE履歴が映し出される。接触した日付、挑発的な言葉、わざとらしく送りつけた写真の数々——和也は眩暈を覚え、掌で額を押さえた。ふと茜の方を見やると、その視線の鋭さに彼女が身震いした。「和也さん、どうかしたの……?」深く息を吸い込んだ和也は、突然彼女の頬を殴りつけた。ベッドから転がり落ちた茜が瞼をぱちくりさせた。「和也さんっ!」「黙れ」冷たい声で遮り、再び携帯に目を落とした。唯に電話をかける。怒りが不安に塗り替わった。応答なし。SNSを全て確認したが、すべてブロックされていた。11時59分が12時に変わる瞬間、脳裏で何かがぶち切れる音がした。世界から色が抜けていくような感覚。「和也さん、どうして
和也は何が待ち受けているか察し、心臓が激しく鼓動した。しかし、近づいて【離婚届】という文字を目にした瞬間、全身が震えた。唯は……本当に彼を見捨てたのだ。震える手で離婚届をめくり、ページを重ねるごとに速度を増し、やがて最後のページで静止した。署名日は十二日前。そんなに早くから、彼と藤村茜のことを知り、離婚を決めていたのか?それなのに、何も知らないふりをし、弁解する隙さえ与えなかった。ソファに座り、髪をかきむしりながら和也は苛立ちを募らせた。あの年、ネット中傷に耐えきれず鯨湾から飛び込もうとした時──紫のセーターを着た女性が必死に海から引き上げてくれた。十二月の海水は刺すように冷たかったが、彼女は自分のコートを彼に羽織らせた。「死んでも傷つける人たちが喜ぶだけ。生きてこそ報いられるのよ」白い肌に、濡れた黒髪が貼りついていた。惨めな姿なのに、なぜか美しく見えた。「米山唯です」と名乗った彼女は、礼を言う彼に微笑んだ。「お礼ならいいわ。私があなたのために来たと思って」六年という月日が全てを変えた。熱かった愛情は薄れ、彼女が輝く瞳で見上げても、かつての胸の高鳴りは戻らなかった。懸命に昔を呼び戻そうとした。手作りスイーツ、朝の挨拶、そして彼女への楽曲『唯(ゆい)』──大ヒット曲で愛を世界に宣言すれば十分だと思った。その矢先、藤村茜に出会った。よく似た顔立ちで、同じように見上げてくる。違うのは、茜が若く、唯が歳を重ねたことだけだった。「バレなきゃ問題ないだろ?」酔った勢いで友人に愚痴ると、そう言われた。確かに、唯は彼から離れられないと思っていた。だが彼女は知り、躊躇なく去った。後悔と自責、恐怖が山のようにのしかかり、和也は窒息しそうになった。彼女なしではまた、あの海辺で震えていた頃の自分に戻る。「唯を探さないと」クジラ湾に車を走らせた時、夕陽が礁岩を赤く染めていた。砂浜も日落崖も人影はない。潮風に吹かれながらベンチに腰を下ろすと、気付けば二十二時を回っていた。あの生活感溢れたのに今は冷え切った家に帰る勇気などない。業界の知り合いに頼んで消息を探るも、「どうしたんだ?奥さんがいなくなったって?」と訝しげに聞かれるばかり。唇を噛んで答えられない和也の背中に、友人たちの困惑
和也の瞳に焦点が徐々に定まり、顔に生気が戻ってきた。「彼はどう言っていた?」「明朝九時にカフェで詳しく話すよう申し付けました」酔いが残る体で一夜を過ごした折原は浅い眠りに苛まれ、七時には目を覚ました。身繕いを済ませると、そのまま指定されたカフェへ向かった。約束の九時、相手は現れた。流暢な日本語を話すロシア人――アルという名の男だ。礼儀正しく握手を交わすと、すぐに本題に入った。「妻を探せるというのは本当か?」「ええ。ただし、まずはお二人が出会った経緯と、彼女が失踪した経緯を詳細に話していただきたい」和也は唯との出会いから別れまで、些細な情景まで語り尽くした。アルはしばし沈黙し、口を開いた。「奥様は『外部からの攻略者』です。システムを携え、この世界で任務を遂行し、あなたが攻略対象だった」「任務完了後、この世界に残ることを選んだが、あなたの裏切りを知って去った」詳細な説明に、和也はまるで霧の中に放り込まれたような表情で聞き入っていた。長い間咀嚼してから問う。「どうして断言できる?そんな人々が存在する証拠は?」「私自身が同じ経験をしたからです」「では……どうすればいい?」「資金援助を頂き、一ヶ月あれば研究を完成させます」和也は男の顔をじっと見つめ、低い声で答えた。「返事は明朝だ」その夜、ベッドの中で何度も寝返りを打つ。『システムを伴う転移』など聞いたこともない荒唐無稽な話だ。以前なら「茶番劇か?」と嘲笑っていただろう。だが唯が痕跡もなく消えた事実だけは紛れもない。もし彼女に会えるなら――非現実などどうでもよかった。夜明けを待たず、和也はアルに連絡した。【信じる。毎日資金を振り込む。ただし一ヶ月以内に結果を出せ】協力を始めて二十六日目、研究が突破口を迎えた。和也はすぐさまアルの研究所へ駆けつけた。「奥様が消えた場所へ向かってください」ためらわずクジラ湾へ向かう途中、アルの声に躊躇が混じった。「海辺が転移地点なら……海中に飛び込む必要があるかもしれません」「もちろん信じるかは――」「飛ぶ」和也が遮り、断言した。冷たい海水が全身を包み込む。彼は賭けに出た。真実なら唯を探せる。偽りなら海の底へ沈むだけだ。耳孔に塩水が流れ込み、呼吸が阻まれる。もがく手を掴む者は
和也はクジラ湾の砂浜に座り、目の前には紺碧の海が広がり、脇には空の酒瓶が無造作に転がっていた。クジラ湾の隅にある古びた観光案内所のガラスは曇りきっていたが、中からは流行りの『唯(ゆい)』のメロディが漏れ聞こえる。和也はリズムに合わせて口ずさみかけたが、ふと我に返り、自嘲気味に笑って酒瓶を傾けた。背後を通り過ぎた若いカップル。女性がポーズを決めていたかと思うと、折原の顔を見るなり恋人の腕を掴み、ひそひそ声で——「あれ、折原和也じゃない?最近不倫騒動で話題のあの人よ!」男性は一瞬呆然とした後、「ああ、前に話してたやつか。俺が浮気したら殴るってやつだな」と呟いた。女性は高笑いしながら、「よく覚えてるわね」と言い、急に真顔になって「でもまさかここで会うなんて……ほら、あんなに飲んでる。後悔してるのかしら」と視線を泳がせた。男性はちらりと瞥み、「過ちに気付いてから泣いても遅いんだよ。構ってらんない、あっちで写真撮ろう」と促した。「待ってよ、生の有名人なんて珍しいんだから」女性はスマホを向け、足早に去りながらSNSへ投稿した。和也は泥酔状態で、自分が撮影されたことなど露知らぬ。30分後、ハイヒールを鳴らしシルクのスリップドレスをまとった女性が砂の上を歩み寄り、彼の肩を叩いた。和也が振り向いた瞬間、目がかすんだ。あまりにも米山唯に似ていたからだ。ゆっくりと酒瓶を砂に置き、嗄れた声で「唯……君か?」女性は頬を染めて彼の胸に寄りかかった。「和也さん、もう何ヶ月も探してるんでしょ?私を見て——」言葉が終わらぬうち、折原は猛然と彼女を押しのけた。砂に倒れた女性に向かい、「唯じゃない!俺が愛してるのは唯だけだ!」怒声が波音に掻き消される。「似てるだけで媚びるなんて……誰が許した!」思い出した。この女は芸能界で三流と呼ばれる役者だ。唯が一年前、「私に似た子がいる」と苦笑まじりに話していたあの顔だった。「この顔で俺を誘うなんて……ふざけるな!」逆上した和也が空き瓶を振り上げた瞬間、駆けつけたマネージャーの小南(こみなみ)が腕を掴んだ。「和也さん、落ち着いてください!」深呼吸を繰り返し、ようやく和也は砂浜に崩れ落ちた。小南は素早く女を追い払い、ため息を零す。「小南……唯が飛び込んだのはな、俺が昔飛び込んだのと同じ
唯は混沌とした虚無から目覚めると、砂浜に仰向けに横たわっていた。まぶたを細めながら光に慣れるのを待ち、ゆっくりと上半身を起こして周囲を見回した。クジラ湾?いや、ここは元の世界の貝々島海水浴場だ。あの世界へ旅立つ直前、最後に訪れた場所。立ち上がって果てしなく続く海岸線を眺めながら、彼女はふと現実感を失いかけた。どちらも海なのに、確かに違う。その時、頭の中で「チン」と音が鳴り、システムの声が響いた。「親愛なる宿主様、本来の世界へご帰還されました。こちらの世界では、攻略成功時にご希望の願望を既に実現済みです」「即刻より攻略の旅は終了いたします。縁あればまたーー」唯の視界を白い光が覆い、こめかみに鋭い痛みが走ると、頭が軽くなりシステムの気配が消えた。彼女は棒立ちになったまま暫く呆然とし、ようやく自分が叶えた願いを思い出した。あの世界で過ごした六年。戻ってきたこの場所は、まるで隔世の感があった。最初にタクシーで向かったのは城西区のひまわり児童養護施設だ。鉄柵の隙間から中を覗くと、芝生で何かを楽しそうに遊ぶ二つの慣れ親しんだ顔が目に入った。六年の時を経て、五歳だった子供たちは等身大の少年へと成長していた。そのうちの一人がふと門の方へ視線を移し、唯を見つけると表情が固まった。ゆっくりと歩み寄ってくる。「唯姉さん……ですか?」彼女が涙ぐんで頷くと、もう一人の少年は慌てて建物へ駆け込み、院長を呼んできた。「唯ちゃん!?」院長は柵を開けると彼女を強く抱きしめた。「この人情知らずめ!六年も経ってようやく顔を見せてくれたのね?」唯は逆らうようにその腕にしがみつき、嗚咽を零した。彼女は幼い頃に両親を交通事故で亡くし、冷たい親戚たちにこの施設へ預けられた。十数年をここで過ごし、養子の話も何度かあったが全て断っていた。高校時代に自立し、アルバイトで学費を稼ぎながらも、院長がこっそり生活費を送ってくれたり、休みの日には子供たちの面倒を見に戻ったりしていた。大学三年の時、初めて借りたアパートに院長と面倒を見ていた子供たちを招いた日のこと。リビングで遊ぶ子供たちを見守りながら台所で料理をしていると、調味料が足りないことに気付き買い出しに出かけた。戻ってきた時、階下から見上げた自室の窓から黒煙が渦巻いていた。消防車が
「彼女を愛しているのは本当です。演技など一切なく、彼女は人生の全てそのもの。失いたくない……『唯』は彼女だけのものなのに……」和也の声が震え、深い呼吸を繰り返してようやく落ち着きを取り戻した。「それなのに……彼女を裏切ってしまいました。六年の交際、三年の結婚生活。平凡さに耐えきれず、MVのヒロイン、藤村茜と不正関係を持った。彼女が妻の若い頃にそっくりだったからだ」「『奥様を愛する姿に憧れます』『ご主人のような方が側にいて羨ましい』……彼女は露骨に好意を示し、暗示を繰り返した」「改めて謝罪します。深く反省し、二度と同じ過ちは繰り返しません。皆さんの監視を求めます。そして……妻を探す手伝いを……彼女は海に身を投げたかもしれない。行方不明なのです」聴衆は二秒の沈黙の後、ざわめきに包まれた。米山唯が海に身を投げたことなど誰も予想していなかった。これまで徹底的にプライベートを守られ、素顔すら知られていなかった女性の、それも海での生存率の低さが現実味を帯びる。「道徳や法律に反しない範囲で、どんなことでもお約束します。ただ……彼女を見つけてください」カメラに向かって涙ぐむ和也。「唯、間違いに気付いた。この会見を見ていたら……帰ってきてほしい。許してくれなくても構わない。ただ生きていてほしい」事務所の指示でスクリーンに米山唯の写真が映し出される。長い髪をなびかせ、穏やかに微笑む女性の背後には果てしない海が広がっていた。一年前、クジラ湾で二人で撮影したものだ。「あれ?この間この人見かけたような……」和也は二拍遅れてその発言に反応し、勢いよく男性の肩を掴んだ。「どこで……どこで見たと言うんですか!?」男性は首を傾げた。「クジラ湾です。地元なのでよく通るんですよ」和也の目が輝く。「その後どうされました?本当に海に……?」「砂浜で写真を撮って、ずっと携帯を見てましたね。私はそのまま通り過ぎたので」その瞬間、和也の瞳が再び翳った。警察の調査結果と符合するだけで、決定的な証拠にはならなかった。記者たちの質問に機械的に答える和也は会見終了後、事務所スタッフに声をかけられるまで棒立ちのままだった。社長は憔悴した彼を見て深いため息をついた。会社の利益を優先すべき立場ながら、彼が米山唯を心から愛していたことを知る者として複雑な表情を浮
「だがお前は本当に図々しい。唯に挑むなんて……子供を堕ろした上に、苦しみも味わわせずに済むと思うのか!」そう言い放つと、和也は彼女の顎を乱暴に払いのけ、ハンカチで指を拭うようにして、茜の泣き叫ぶ声を背に、病院を後にした。車に乗り込んだ途端、事務所の社長から着信が入った。「和也、不倫騒動はどうなってんだ?お前、正気か?そんなミスを犯して、自らバラすなんて」深く息を吸い込んだ和也の声は渇いていた。「不倫は確かに僕の過ちです。他人に暴かれるより、自分で告白した方が被害は少ないと思いまして」電話の向こうで沈黙が続き、やがてため息が漏れた。「……まあいい。とりあえず会社に来い。挽回策を考える」切れた通話を握りしめ、和也は眉間を揉んだ。鉛のような疲労が骨髄に染み込んでいく。唯が海に消えてからというもの、彼の内側から滲む倦怠感は日増しに濃くなっていた。それでも崩れるわけにはいかない。犯した罪の代償を払い、唯を探し続けなければ——もしも、本当に悔い改めたと知ってくれたら、彼女は戻ってくるだろうか。事務所の方針に従うことも、唯を探すための代償の一つだ。覚悟を定め、和也はハンドルを切った。「悪影響を減らすには……本人が謝罪するのが一番だろう。確かに、素直に過ちを認める姿勢を見せるべきだ」社長の指先がデスクを叩く。「ただしな、全部自分で被る必要はない。藤村茜に転嫁できる部分はそっちへ流せ」午後四時からの記者会見が決まった。原稿は用意しなかった。喉の奥に澱のように溜まった言葉——本心からの後悔が、そのまま形になるはずだった。#歌手折原和也 愛妻家偽装 不倫相手は『唯』MV主演かつて「妻を守る男性」として称賛された彼の転落は、トレンド一位を爆上げした。ファンの悲鳴がSNSを埋め尽くす。【嘘でしょ?『家の奥さん』ってVlogで笑ってたあの表情、全部演技?】【『唯』は妻へのラブソングなのに、まさかMVの相手と不倫だなんて……皮肉すぎる】【もう愛情なんて信じられない】スマホの光に顔をさらしながら、和也は胸の空洞に掌を当てた。唯への愛は決して偽りではなかった。それなのに——なぜ誘惑に負けたのか。後悔の棘が心臓を串刺しにする。窓を開け放ち、冷気を肺に詰め込んでようやく息が整った。会場に足を踏み入れた瞬間、カメラの閃光が洪水のよ
「出てこないの?自分で悪いことばかりしてきたから、怖くなったんでしょ?」「彼氏に裏切られたなんて嘘ついて、子供を守ろうだなんて、よくそんな恥ずかしい言葉が言えたわね!天罰が当たらないのが不思議だわ」「そうよ、私たちをここまで信じさせておいて、結局は道具にしたのね!」興奮したファンたちの声が次第にヒートアップし、ついにファンの一人が拳を振り上げた。きっかけができると、他の者たちも雪崩を打って襲いかかる。和也は壁際で冷ややかにこの光景を眺めていたが、誰かが彼に気付くと、いきなり頬を殴りつけた。「お前も同類だ!理想の夫ぶってたクセに、実は最低な野郎じゃないか!」頬に鈍い痛みを感じても、彼は抵抗せず、自分を責めるように微動だにしなかった。彼らが言う通りーー自分は救いようのない人間なのだ。混乱は五分ほど続いた後、茜の腹部を激しい痛みが襲い、床に血溜まりが広がったことでようやく収束した。「助けて……お願い……子供が……」青ざめた面々が救急車を呼ぶ中、パトカーのサイレンも近づいてきた。警官は血痕の残る部屋と脂汗を浮かべる茜を睨み、眉をひそめた。「集団暴行の通報だ。手を出した者は全員同行してもらう」救急隊に搬送された茜とは対照的に、和也とファン数名は警察署へ連行された。暴行には加わっていない和也も事情聴取の末、一晩拘留されることになった。留置場の硬いベンチに座ったまま、彼は夜明けまで微睡むことすらなく、壁を見つめ続けた。翌朝、ひげ面で目の下に隈を作った和也が最初に向かったのは病院だった。「医師さん……藤村茜の子供は……?」ため息混じりに首を振る白衣の男。「手遅れでした」その言葉に、和也の肩の力がふっと抜けた。意識を取り戻した茜は、下腹部に鈍い疼きを感じながら、枕を涙で濡らしていた。「これが……望んでいた結末?」ドア枠にもたれる和也の目が冷たい刃のように光る。「間違いだった。存在すべきじゃない命だ」「お前はまだいい。失ったのは子供だけだ」背筋が凍りつくような憎悪が一瞬、彼の瞳をよぎった。茜は震える手でシーツを握りしめ、泣き叫んだ。「米山唯がそんなに大事なの?あの人のためなら……私の子供も平気で捨てる?ずっと側にいた私の気持ちは、ゴミみたいなもの?」和也がベッドに近づくと、術後の体を顧み
「藤村茜が不倫を働き、正妻を挑発した結果……」和也は顔面蒼白となり、瞳に苦痛が掠めたが、それ以上続けることはなかった。ファンたちは彼のスマートフォン画面を凝視した。スクリーンショットに写っていた男は、まさに目の前の折原和也ではないか?和也に家庭があり、妻を溺愛する「愛妻家」として知られている事実も、彼らは承知していた。一瞬、誰も言葉を失った。数年追いかけたブロガーと、業界内外で称賛される「妻想い」の男が織りなす衝撃的真実に、全員が飲み込まれているようだった。長い沈黙の後、ようやく一人が震える声で問いかけた。「つまり……あなたが奥さんを裏切って不倫した。で、相手が藤村茜ってこと?」和也は顔を歪め、歯を食いしばって頷いた。「そうだ。認める。だがみんな全員は藤村に利用されてる」「彼女の言ってる『浮気された』『子供を堕ろさせられた』なんて全部嘘だ。あの子は最初から過ちで……存在すべきじゃなかった」再び張り詰めた空気が流れる。やがて怒号が炸裂した。「マジかよ!お前らがクソ野郎と恥知らず女だったのか!」和也は深々と頭を下げた。「すまない。罵ってくれても構わない」「だが藤村だけは許せない。自分の過ちを誤魔化し、被害者面して……他人を騙し続けたんだ」ファンたちはようやく彼の言葉を信じた。自らの社会的立場を危険に晒す嘘など、つくはずがないからだ。しかし茜への怒りは収まらない。数年も応援し、配信で多額の投げ銭をしてきた「清楚で可憐」な彼女が、実は醜悪な嘘つきだったのか。更に、信じ込ませたファンを利用し、自分を守るために集団で騒ぎを起こさせた。「藤村茜!降りてきて説明しろ!」「今すぐ謝罪しろ!」「人間失格だ!こんな騙し方ありか!」怒りに駆られた彼らは次々と叫び始めた。先陣を切った一人がベランダに向かって「藤村茜!出て来い!」と喚き散らすと、他の者も雪崩を打って同調した。降りて来て釈明しなければ、直接踏み込んで制裁を加えるという殺気だった。一方、楼上ではファンの庇護を盾に安泰と思い込んでいた茜が、テレビの前でくつろいでいた。突然、窓の外から怒涛のように自らの名前を罵る声が迫ってくる。 胸騒ぎがした彼女がベランダに駆け出すと、ファンの中央に囲まれるのは和也の姿。ファンたちが皆、血走った目で上階を睨みつけている。
投稿してから一分も経たないうちに、大量のファンから「いいね」やコメントが殺到した。【どうしたの、茜ちゃん?何かあったの?】【誰かにいじめられたの?教えてよ!私たちが守ってあげる!】【怖がらないで、ずっと応援してるから!】……心配と励ましの言葉が並ぶ画面を見て、藤村茜はようやく少し落ち着きを取り戻した。最悪の事態にはまだなっていない。彼女には百万人のファンがいるのだ。茜は数人のコメントに散らばりながら返信を打った。【彼氏が浮気して……その女に命を脅かされて別れさせられたの】【彼氏の子供を妊娠したのに、あの女に迫られて中絶しろって……】【今はこの子が私の全て。同じ血が流れてるのに、彼は冷たいけど、私は……この子を失いたくない】【どうしよう……本当に怖くて……】事実を捻じ曲げた泣き落としも、茜は平然と綴っていた。ファンたちは怒りに震え、彼女を慰めながら「最低な男」と罵倒し始める。元々ネットで人気を博し、MVのヒロインとしてブレイクした彼女のファン層には、経済力のある者も少なくなかった。あるお金持ちの恋愛脳ファンが即座にコメントした。【ちょうど今日橋寧区に行く予定だった。俺が守るから、誰も茜ちゃんに手出しさせない】その下には【私も行く!俺も加わる!】と賛同の声が次々と並んだ。ほどなくして、茜のマンションの下が騒がしくなる。ベランダから身を乗り出して見下ろせば、黒山の人だかりができていた。ファンの一人が彼女の姿を見つけ、手を振る。次の瞬間、彼女のスマホが震えた。金持ちファンからのDMが届いている。【家でゆっくりしてて。外は俺たちが張り込んでるから安心しろ。ストレスで体に障ったら元も子もないだろ】その文面と、入口を塞ぎきった人混みを見比べながら、茜は満足げに唇を緩めた。【ありがとう。茜、みんなを頼りにしてるから……】返信を送ってから三十分も経たないうちに、マンション前の路上にマイバッハが停車した。和也がエンジンを切り降り立つと、この騒動を嘲笑うように薄く笑った。茜のSNSでの道化芝居は把握していたが、ここまで思考停止のファンが集まるとは予想外だった。険しい表情で人垣を掻き分けようとした瞬間、二人のファンに遮られた。「折原さん……『唯』歌ってた折原和也さん?」片
彼の心臓は高鳴りを止めず、辺りを探し回って唯の姿を探した。しかし、どこにもいない。和也の瞳が翳り、再び戻って彼女の車を運転し、警察署へ向かった。警察はドライブレコーダーとクジラ湾周辺の広範囲な防犯カメラを確認した。記録によれば、唯は十一時五十三分に車を降り、自撮りをした後、携帯を数回操作してポケットにしまった。その後、海辺へ向かい、監視カメラの死角に入ったきり、他のカメラにも映っていない。交通機関の利用記録も、ホテルの宿泊履歴も、送金記録もない。「米山さんが海に飛び込んだ可能性が高いです」「この海域は水深が深いし暗礁も多いため、万が一の場合、生存の見込みは……ほぼありません」その言葉を聞いた瞬間、和也の胸が締め付けられた。巨大な恐怖が沸き上がり、全身が震えを止められない。一晩中、瞼を閉じることすらできず、瞳は血走り、顔色は土気色に変わっていた。唯の車に座ると、車内には彼女が愛用する消臭剤とシャンプー、ボディソープの混ざった匂いが充満している。ふと、底知れぬ闇に吸い込まれるような感覚に襲われた。突然の着信音に驚き、眉を寄せて画面を見る。藤村茜からの電話だ「和也さん、私を海川市に一人きりにしたなんて……昨夜ずっと怖くて……」「今朝慌てて飛行機で戻ってきたの。転びそうになったのに、赤ちゃんは無事で良かった……」一晩溜め込んだ不安と焦燥が怒りに転じ、和也の声は氷のように冷たく軋んだ。「唯が海に飛び込んだ。藤村茜、いつまで演じるつもりだ?」「分をわきまえていれば欲しいものは手に入ると、言ったはずだ」「『従順な振り』が気に入ったからこそ目を瞑ってやった。唯にメッセージを送るとは」「誰が許した……唯を挑発するような真似を?」片手で携帯を握り、ハンドルに額を押し付ける。怒りで肩が荒く上下し、理性が崩れかかっていた。茜は「海に飛び込んだ」という言葉で完全に凍り付いた。しばらくしてようやく恐怖が遅れて襲い、声が震える。「和也さん……本当に悪気はなかったんです……米山さんがそんな……」「海」という単語が喉に引っかかり、吐き出せない。「もう遅い」和也は冷笑し、感情の欠片すらない声で言い放った。「身の程知らずの代償は払わせる」「唯が見つからなければ、お前も同じだ」茜が反論する隙も与