やっとの思いで彼の体から離れた若子は、両手で衣服の胸元をぎゅっと握りしめ、どうしていいかわからず戸惑っていた。 ヴィンセントは無言で部屋の一つを指さす。「そこに行って、何か着るものを探せ」 若子は指示された方向へ向かい、部屋の中に入った。 そこには大きなクローゼットがあり、扉を開けると、中にはずらりと男物の服ばかりが並んでいた。どれも彼にはちょうどいいのだろうが、若子にはすべて大きすぎる。 仕方なく、彼の白いシャツを一枚取り出し、今の服を脱いで着替えた。 袖は長すぎるし、全体的にぶかぶかで、まるで子どもが大人の服を借りて着ているようだった。 着替えを終えてリビングに戻ると、ヴィンセントがソファに座ったまま、じっと彼女を見つめていた。その視線は長く、どこか遠いものを見るような、複雑な感情が滲んでいた。 あの子も、昔、自分の服を着たことがあった― 「服、ありがとう」 若子がシャツの裾を見ながらそう言うと、ヴィンセントはふっと視線を逸らした。その目元には、かすかな悲しみがよぎった。 「傷はどうするの?医者に診てもらわないと」 若子は不安げに言った。これはただの怪我じゃない。銃創だ。処置を誤れば、命に関わる。 だが、ヴィンセントは冷たく言い放つだけだった。 「君はもう帰っていい。あのSUVを使え。その後、車は処分しろ」 そう言って、彼は引き出しから拳銃を取り出し、それを若子に投げ渡した。 若子は反射的に受け取るが、それはまるで熱した鉄のように感じられた。 「な、何でこんなものを渡すの?」 「安全に帰りたいなら、持っていけ。余計なことは考えるな」 夜道を一人で帰る女にとって、銃は最強の護身具だ。何なら服を着ていなくても、銃さえあれば誰も手を出せないだろう。 若子は震える手で銃をそっと脇に置いた。「私、銃なんて使えない。それに......私が帰ったら、あなたは一人なの?誰か、あなたの面倒を見に来る人は?」 ヴィンセントは眉を寄せ、苛立ちを露わにした。 「余計なお世話だ」 若子は不安げに立ったまま、うつむきながら小さな声で言った。 「......ここで死んでしまわないか心配なのよ」 ヴィンセントは思わず鼻で笑った。「君、面白いな。俺を怖がらないのか?」 「あなたは私を助けてくれた」
男の呼吸はどんどん荒く、重くなっていった。 若子は意を決して彼の傷口を正面から見つめた。ヴィンセントはピンセットを使い、自分の胸から弾丸を無理やり引き抜くと、それを横の皿の上に投げ捨てた。 彼は仰向けになり、長く息を吐き出す。 続けて、傷口に残る破片をピンセットで丁寧に取り除いていった。 その後、過酸化水素水を取り出し、自分で傷を洗おうとするが― 手が、震えている。 「私がやるね」 若子は消毒液の瓶を受け取り、落ち着いた声でそう言った。ヴィンセントは何も言わず、手を横に下ろしたまま、抵抗しなかった。 若子は丁寧に、彼の傷を洗い始めた。 少しでも痛みを和らげようと、消毒しながらそっと息を吹きかける。 その様子を見ていたヴィンセントの目に、一瞬だけ茶目っ気のある笑みが浮かぶ。 消毒が終わると、生理食塩水で残りの液を洗い流し、次にヨード液で殺菌。包帯を使って傷口を丁寧に巻いていく。 しかし、彼の肩甲骨の裏側にもまだ一発、弾丸が残っていた。 ―背中のそれは、自分ではどうにもできない。 やるしかないのは、若子だ。 彼女の手が微かに震えていた。 ピンセットを握って傷口に近づこうとしても、どうしても制御できない。 「......っ」 親指に思い切り噛みついて、痛みで心を落ち着けようとする。 もし自分の震えで、彼の傷を悪化させてしまったら―それは取り返しのつかない失敗だ。 「僕が怖くないって言ってるのに、君は何を怖がってるんだ?早く取り出せ」 ヴィンセントの声は冷たく突き放すようだった。 若子は自分の手の甲をパチンと叩いて、深呼吸。そして、ぐっと歯を食いしばり、ピンセットを傷口へ差し込んだ。 その瞬間、彼の身体がぴくりと反応して緊張し、呼吸はどんどん荒くなっていった。 少しでも苦しむ時間を短くするために、若子はさらに深くまでピンセットを差し入れた。けれど何度挟んでも、弾は出てこない。 初めてのことで経験なんてない。 それでも、彼は黙って耐えていた。一言も発せずに。 血がにじむ傷を見ていると、心まで震えてくる。 「ごめん......すごく痛いよね?」 痛いに決まってる。傷口の中で何度も突かれているのだから。 ヴィンセントが顔をこちらに向けて言った。 「十秒数える
若子は、やっとの思いでヴィンセントを部屋のベッドへ運び、そっと寝かせた。 「......君、名前は?」 彼は息も絶え絶えに問いかける。 「私は......松本若子」 「......松本......若子......」 ヴィンセントはその名を繰り返しながら、次第に息遣いが弱くなり、そのまま静かに目を閉じた。 眠ったのを確認し、若子はそっと手を伸ばし、彼の額の熱を確かめる。 視線を巡らせると、部屋の隅にバスルームがあるのが見えた。 音を立てないように歩き、そっと中へ入る。 しばらくして、彼女は温水を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。 タオルをしっかり絞り、ヴィンセントの体についた血を拭っていく。 彼の体には無数の傷跡があった。 深いもの、浅いもの、長いもの、短いもの―そして、明らかに銃創と思われるものも。 ......この人、一体どんな人生を歩んできたの? もしかして、裏社会の人間......? でも、あの無機質な目は、どこかあの連中とは違う気がする。 タオルをすすぎながら考え込んでいると、盆の水はあっという間に赤く染まった。 彼女は水を捨て、新しく汲み直す。 結局、四回も水を替えた末、ようやくヴィンセントの上半身を綺麗に拭き終え、布団を掛けた。 これで、少しは楽に眠れるはず。 その時― ポケットの中で、携帯が震えた。 画面を確認すると、西也からの電話だ。 若子はすぐに携帯を手に取り、部屋を出てリビングへ向かう。 「もしもし、西也」 「若子、もう帰ってる?」 電話口の向こうから、心配そうな声が聞こえた。西也はもう三時間も彼女を待っていたのだ。 「西也、心配しないで。私は無事だよ。でも、帰るのは少し遅くなりそう」 そういえば、彼に連絡するのをすっかり忘れていた。 「どこにいるんだ?」 「......私は今安全な場所にいる。ただ、少し一人になりたくて......」 少なくとも、ヴィンセントが目を覚ますまではここを離れるわけにはいかない。 「......お前、本当に一人なのか?若子、正直に言ってくれ......もしかして、藤沢に会いに行ったのか?」 「......」 沈黙が返事になってしまう。 「やっぱり......」 西也の声に
電話を切った後、若子は改めてこの家の中を見渡した。 この家は二階建ての一軒家で、外から見るとガラス越しに中の様子はまったく見えない。 だけど、中からは外がはっきりと見えるようになっている。 試しにガラスをコンコンと叩いてみると、普通のものとは違う感触がした。 アメリカの住宅は、窓が大きくて簡単に割れそうな家も多くて、なんだか無防備に思えることがある。 もちろん、アメリカでは私有財産の保護が厳しく、不法侵入は重罪だ。 それでも、思い切ったことをするやつがいないとは限らない。 だけど、この家は違う。 どうやら特別な設計がされているようで、ガラスの手触りが独特だった。 透明なのに、普通のガラスとは違う強度を感じる。 もしかすると―銃弾すら通らない防弾ガラスかもしれない。 家の内装はすっきりしていて、ミニマルなデザイン。 清潔感もあって、余計な装飾がほとんどない。 ......そう思ったのも束の間。 ふとキッチンのシンクに目をやると、洗われていない皿が二枚。 たったそれだけのことなのに、さっきまでの整然とした印象が一気に崩れた。 気になって仕方ない。 若子はため息をついて、袖をまくると、さっさと皿を洗い、乾燥ラックに並べた。 ついでに冷蔵庫を開けてみると、中には水とビール、そしてシワシワになった果物がいくつか。 ......これ、いつのだろう? この人、普段何を食べてるの? リビングをひと通り見回すと、ソファのそばに、血のついたハンカチが落ちていた。 若子は拾い上げる。 これは―さっき、彼の傷を押さえるのに使ったものだ。 重傷を負った体で、わざわざこれを拾ったってこと? なんでそこまでして...... 首を傾げながら、ハンカチを持って洗面所へ向かう。 冷たい水で丁寧に血を洗い流し、ラックにかけて乾かした。 その時だった。 「......う......っ」 寝室から微かな声が聞こえる。 若子はすぐに部屋へ駆け込んだ。 ベッドの上では、ヴィンセントが苦しそうに身をよじらせ、うなされている。 額には汗が滲み、眉間には深い皺。 「痛いの......?それとも悪夢......?」 どちらにしても、相当辛そうだった。 若子はそっと耳を澄ます。
朝の柔らかな陽光が窓を通して部屋に差し込み、やさしくヴィンセントの蒼白な顔に降り注いでいた。 彼は昏睡から目を覚まし、ゆっくりと目を開ける。意識が少しずつ戻ってくる。 顔を横に向けると、若子が椅子に座っていた。華奢な体を小さく丸め、眠っている。 一晩中、彼のそばにいてくれたらしい。鼻先がほんのり赤く、朝の光に包まれて、まるで夢の中の景色のようだった。 ヴィンセントは何か声をかけようと口を開いたが、そのまま言葉を飲み込む。 彼女の長い髪が肩に落ち、黒い羽のようにふわりと揺れる。陽の光がその肌を優しく撫で、まるで金色のヴェールが彼女を包んでいるかのようだった。 眉間に少しだけ皺を寄せていて、何か困った夢でも見ているのかもしれない。睫毛の隙間からこぼれる光が、小さな光の粒になってキラキラと輝いていた。 ......そういえば、昨夜意識を失う前に、彼女の名前を聞いた。 松本若子。 その名前にも「松」という文字が入っていた。 彼はゆっくりと体を起こし、背をベッドヘッドに預けながら自分の体を見下ろす。 傷口のまわりは綺麗に拭かれ、血も乾いていた。 ......彼女がやってくれたのか。 この女、意外と優しい。いや―相当、優しい。 「松本」 その声に、彼女がぱちりと目を開けた。 ヴィンセントが起き上がっているのを見て、彼女の目がぱっと見開かれる。 「起きたの?体の具合は......大丈夫?」 彼が目を覚まさないかもしれないと思っていたから、こうして意識が戻っただけでも嬉しかった。 ずっと彼のそばにいた。時々息を確かめながら、夜が明けるまで椅子に身を預け、ほんの少しだけうたた寝していたのだ。 「君、ずっとここに?」 ヴィンセントの視線が、彼女の疲れた顔に向けられる。徹夜したのは一目瞭然だった。 若子は小さく笑って肩をすくめる。 「無事なら、それでいいの」 「隣の部屋、空いてる。ちょっと寝てこい」 「ううん、大丈夫。私......」 そう言いかけたところで、大きなあくびが出てしまい、とっさに口元を手で覆う。頬が赤くなり、気まずそうに視線を逸らした。 ヴィンセントは淡々と口を開く。 「松本、無理するな。眠いなら寝ろ。変な意地張ってどうすんだ。疲れるだけだろ」 そのストレート
「......若子、赤ちゃん......?」 その文字を見た瞬間、ヴィンセントは微かに眉をひそめた。 この女―既婚者なのか?しかも、子どもまで? 見たところ、二十歳そこそこにしか見えない。 あの若さで、もう結婚してて子どもがいるなんて。 なんだろう、この胸の中の、ほんの小さな違和感。 ......だけどすぐに、自分の思考に苦笑する。 なにを勘違いしてるんだ、俺。 そもそも彼女とは、たいして関わりもないのに。 ヴィンセントはもう少し彼女を寝かせてやりたかったが、あの「西也」という男、様子からしてかなり心配しているようだ。 返信がなければ、通報されるかもしれない。 彼は若子のスマホを手に取り、そのままメッセージを打ち込む。 【昨夜よく眠れなくて、まだちょっと寝てたい。後で連絡するね】 するとすぐに返信が届いた。 【わかった。ゆっくり休んで。連絡待ってる】 その文章を見つめながら、ヴィンセントの心に何とも言えないもやが広がる。 ...... 若子が目を覚ましたのは、すでに昼過ぎだった。 彼女はベッドの上でぱっと体を起こし、目元をこすりながら辺りを見回す。 時計を見ると、もう正午。 「やばっ......」 寝すぎたことに気づき、急いで身支度を整える。 洗面を終えて部屋を出ようとしたその時、ちょうど廊下の向こうからヴィンセントがやってきた。 「起きたの?ごめんね、私、寝ちゃって......体の調子はどう?」 「死にはしねえ......飯、作れるか?」 「え?」 彼女は一瞬、ぽかんとした顔になる。 「腹が減った」 その一言で、すべてを察する。 「うん、作れるよ。何が食べたい?作ってあげる」 「なんでもいい。君に任せる」 「じゃあ......この近くにスーパーってある?冷蔵庫の中、食べられそうなのなかったし」 ヴィンセントは無言で指をさす。 「......今はある」 若子が冷蔵庫の扉を開けると、中にはたっぷりの野菜や果物、肉までぎっしり。 「......さっきの空っぽはどこいったの......」 呆れつつも笑いながら、彼女は食材を選び始めた。 「好きに作ってくれ」 そう言い残し、ヴィンセントはソファに腰を下ろしてビールを手に取る。
「西也、本当にありがとう。赤ちゃんのこと、面倒見てくれて......どう感謝していいか......」 「礼なんていらないよ。俺は、この子の父親なんだから」 その一言に、若子の笑顔がすこしだけ固まった。 若子の沈黙に、西也が静かに言葉を続ける。 「......まだ、藤沢のこと考えてるのか?まだあいつを、子どもの父親にしたいなんて思ってる?」 「......西也、私と修はもう終わったの。心配しないで。私、あなたに約束したことはちゃんと守るから。離婚とか、あんなこと言ったのは......ただ私、傷ついてたから。もう言わない」 「いいんだ、若子。俺は怒ってない。気持ちは、わかるよ」 「......じゃあ、今日はこのへんで。帰ったらまた話そう。切るね」 「うん。無理すんなよ」 通話が切れる。 その会話の間、ヴィンセントは黙ってビールを飲んでいたが、ふと視線を横に向けた。 キッチンのカウンターに手をついて、若子がぼんやりと立ち尽くしている。 彼はソファに身を預けたまま、片眉をあげる。 「さっきの電話、妙に礼儀正しかったな。子どもの面倒見るのが当然じゃない?......その子、旦那の子じゃないとか?」 その言葉に、若子の動きが一瞬止まる。 ヴィンセントの目は鋭い。そういうところ、見逃さない。 「......子どもは、前夫の子」 「へえ。で、今何ヶ月?」 「もうすぐ三ヶ月」 その答えに、ヴィンセントの眉が微かに動く。 「ってことは、妊娠中に前の旦那と離婚して、そのまま今の男と結婚したってことか?」 「......それ、私のプライベート」 若子の声が、少し冷たくなった。 彼女と西也の関係は、簡単に説明できるものじゃない。だから、いちいち他人に語るつもりもない。 この食事を作り終えたら、それで終わりにするつもりだった。 若子は包丁を手に取り、黙々と野菜を切り始める。 刃がまな板にぶつかる音が、台所に響く。 ヴィンセントはソファの上で指先を軽くトントンと弾きながら、ゆるく口を開いた。 「......前の旦那、何したんだ?妊娠中に離婚するくらいだから、よっぽどだな」 若子は無言。 「......暴力か?」 無反応。 「......浮気か?」 その言葉で、若子の
「昨日の夜、あなたは悪い夢を見てたよ、『マツ』って名前、何度も呼んでた」 若子の言葉に、ヴィンセントの手がピクリと動いた。 握った箸に力が入り、指の関節がうっすら浮かび上がる。 「......マツって、誰?」 若子には、マツが彼の恋人なのか、それとも別の存在なのか、わからなかった。 ただひとつだけはっきりしていたのは。 ただ、あの夜、苦しそうにその名前を呼んでいた。 まるで―その「マツ」という女性は、もうこの世にいないかのような哀しみを背負って。 ヴィンセントは特に表情を変えず、目を逸らしながら静かに呟いた。 「......次、俺が悪夢見たら。近づかなくていい。放っておけ」 「......うん、わかった」 若子はそう答えてから、ふと気づいた。 ―「次」なんて、あるのかな。 少しばかり気まずい笑みを浮かべながら、言った。 「とにかく......あなたが無事でよかった。食事が終わったら、私は帰るね。安心して、『次』なんてないから」 彼が助けてくれた。重傷まで負って、それでも助けてくれた。 だから彼女は一晩中、彼のそばにいた。 でも、彼がもう大丈夫なら、自分には戻るべき場所がある。 赤ちゃんが待っている。 「俺が助けたんだ......見返りくらい、もらってもいいだろ?」 ヴィンセントの気だるげな声は、どこか意味ありげだった。 若子は眉をひそめ、ふと、以前彼が「金のこと」に触れていたのを思い出す。 箸を置いて、まっすぐ彼を見つめる。 「......値段、言って。払える額なら、ちゃんと返す」 命に値段はつけられない。 でも、彼が命を救ってくれた以上、それに対して報いるのが礼儀だと思っていた。 「百億ドル」 「......は?」 一瞬、時が止まる。若子の顔がぴくりと引きつった。 「......ごめん、百億ドルなんて持ってない。もっと現実的な額にしてもらえる?」 「君、自分の命にそれだけの価値ないと思ってるのか?」 「命に値段なんてない。ただ、現実として、百億ドルは無理」 「旦那も金持ってないのか?」 その軽口に、からかわれている気がして、若子の表情が曇る。 「彼のお金は、彼のもの。私とは関係ない」 「でも夫婦だろ?俺が助けたのは、あいつが大
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった
「それで......あんたと山田さんは、うまくやっているの?」 光莉の問いかけには、どこか探るような調子が混ざっていた。 「......」 修は黙ったまま、答えなかった。 少しして、光莉がもう一度静かに尋ねた。 「修?どうかしたの?」 「......母さんは、俺が侑子とうまくやってほしいって、思ってるんだろ?本音を聞かせてくれ」 数秒の沈黙のあと、光莉は正直に口を開いた。 「ええ。私は、彼女があんたに合ってると思ってるの。若子との関係が終わったのなら、新しい恋に踏み出してもいいじゃない」 新しい恋―その言葉に、修はかすかに笑った。 それは皮肉と哀しみが入り混じった笑みだった。 「母さんさ、俺が雅子と付き合ってたとき、そんなふうに勧めたことあった?一度でも応援してくれた?」 「山田さんは桜井さんとは違うわ。それに......あの頃は、まだ若子との関係に望みがあると思っていたの。でも今は違う。若子はもう西也と結婚したのよ。あんたには......もう彼女を選ぶ理由がないわ」 ―また、西也か。 その名前を聞くだけで、修の心は抉られるように痛んだ。 「なあ、ひとつだけ聞かせてくれ」 修の声は低く、抑えていた怒りがにじんでいた。 「......母さんは、若子が妊娠してたこと、知ってたんじゃないか?」 その瞬間、光莉の心臓が跳ね上がった。 「修......それ......知ってしまったのね?若子に会ったの?」 修の手が、ぎゅっとシーツを握りしめる。 その手の甲には、浮き上がった血管が脈打っていた。 「やっぱり......知ってたんだな。どうして俺に黙ってた?なぜ、何も教えてくれなかったんだ!」 「ごめんなさい......修。私だって伝えたかった。でもあの時、若子が......もう言う必要ないって。彼女がそう言ったの」 ついに、その瞬間が来た。 修は真実を知った。若子が自分の子を産んでいたという、残酷な事実を。 光莉の心は重く沈んだ。 修が今どれほど苦しんでいるか、想像に難くない。 母として、彼女の胸には後悔があった。 だが、ここまで来たら、もう「運命」としか言いようがなかった。 「......そうか、言う必要がなかったんだな」 「若子はあいつの子どもを妊娠し
「暁―忘れるなよ。『藤沢修』、その名前を覚えておけ。あいつは、おまえの仇だ」 ...... 夜が降りた。 病院は静まり返り、あたり一面が闇に包まれていた。 窓の外には星が点々と浮かび、真珠のように建物の屋根を彩っていた。 やわらかな月光が屋上からゆっくりと差し込み、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせる。 白い病室。 修は、真っ白なシーツに身を包まれてベッドに横たわっていた。 消毒液の匂いが、空気を支配している。 ベッドの脇には点滴が吊るされ、透明な液体が少しずつ彼の身体へと流れ込んでいた。 穏やかな灯りが、彼の青ざめた顔に落ちる。 その表情には、深い疲労と痛みがにじんでいた。 修は、目を開いた。 視線をさまよわせ、室内を確認する。 ゆっくりと身を起こし、点滴に目をやると、まだ半分ほど残っていた。 そのとき―病室のドアが開いた。 ひとりの外国人の男が入ってくる。 「藤沢さん、目が覚めたか」 「......見つかったか?」 修の声には焦りがにじんでいた。 男は首を振った。 「いや、まだだ。他の場所も順番に探してる」 修の瞳から、いつもの鋭さは失われ、暗く沈んでいた。 眉間には深い皺が刻まれ、重たい悔恨が彼の表情を支配していた。 彼は視線を落とし、口元に力なく笑みを浮かべる。 ―なぜあのとき、追いかけなかったのか。 若子を、あんなふうにひとりで行かせるべきじゃなかった。 夜の道を、彼女ひとりで運転させるなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。 どんな理由があろうと、あのとき引き止めて、一緒に行くべきだった。 侑子が怪我をしたからって、あそこで立ち止まるべきじゃなかったんだ。 すぐに追いかければ、若子に何か起きることもなかったかもしれない。 彼は、若子を恨んでいた。 あの瞬間、彼女が選んだのは自分ではなく、西也だったから。 でも今― 彼が選んだのは、侑子だった。そして、その選択が若子を傷つけた。 あのとき、彼にとっては難しい決断ではなかった。 もしすぐに若子を追いかけていれば、侑子に危険は及ばなかったはずなのに。 修は、自分が彼女を追わなかったことを、心の底から憎んだ。 その瞳には、痛みの波が渦を巻いていた。 まるで深い夜の湖
西也の心は―まるでとろけるようだった。 「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」 声が震えていた。 嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。 暁が笑ったのは、これが初めてだった。 しかも、それが自分に向けられた笑顔。 初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。 これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても― 心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。 この子は、自分の子ではない。 修の血を引いている子だ。 若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。 そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。 けれど、今― 暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。 ―愛してる。 たとえ血の繋がりがなくても。 たとえこの子が修の子でも。 そんなことは、どうでもよくなった。 ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。 暁は再び笑った。 その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。 笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。 その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。 その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。 「暁......俺の可愛い息子」 西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。 まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。 「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな...... ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」 暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。 まるで幸せのリズムを刻むように。 「......パパの顔、触りたいのか?」 西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。 暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。 その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。 まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。 恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。 その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
もしかすると―驚かせてしまったのかもしれない。 暁は、さらに激しく泣き始めた。 口を大きく開けて、嗚咽のように大声で泣いている。 「泣かないでくれよ、な?暁、パパが抱っこしてるじゃないか。 いつもはママが抱っこすると泣くくせに、パパが抱いたら泣き止んでたじゃないか。これまでずっとパパが面倒見てたんだぞ?そんなに悪かったか?なんで泣くんだよ...... ......まさか、藤沢のこと考えてるのか?」 その瞬間、西也の目が、獣のように鋭くなった。 「教えてくれ、そうなのか?あいつのことを想ってるのか?奴が......おまえの本当の父親だから? 違う......違うんだ、暁。俺が、おまえの父親だ。ずっと、ずっとおまえとママのそばにいたのは、この俺なんだ。あいつは、おまえの存在すら知らなかったくせに......女たちと好き勝手してたんだ。 暁、おまえが大きくなったら、絶対に俺だけを父親だと思うよな? 藤沢なんて、父親の資格ないんだ......そんなやつが、おまえの父親であってたまるか。 父親は俺だ!俺しかいないんだ! 暁、目を開けて、よく見ろ......この俺が、おまえの父親なんだよ! 泣くなよ......な?頼むから、泣かないで」 けれど、どれだけあやしても―暁の涙は止まらなかった。 「やめろって言ってんだろ!!」 西也はついに怒鳴りつけた。 「これ以上泣いたら......おまえを、生き埋めにしてやるからな!」 狂気をはらんだ眼差しで睨みつけた。 その瞬間― 暁の泣き声が、ぴたりと止まった。 黒く潤んだ瞳が、大きく見開かれたまま、まるで魂が抜けたように無表情になる。 動かない。 光が消えたようなその瞳を見て、西也ははっとした。 「......暁、どうした?パパだよ、わかる?」 西也はその小さな頬に手を添え、そっと撫でた。 「ごめんな、怖がらせたよな。パパ、怒ってたんじゃないんだ。ちょっと......ほんの少し、気が立ってただけなんだ」 西也は涙混じりに頬へ口づける。 「ごめん、本当にごめん。パパ、もう怒らないから。だから、お願いだから......怒らせるようなこと、しないでくれよな?」 子どもは、もう泣いていなかった。 ぐずりもせず、ただ黙っていた。