「おばあさん......」 花は悲しそうに呟いた。 「じゃあ、お母さんは今、とても辛い思いをしているんですね?」 弥生は、深いため息をついた。 「辛いどころじゃないわよ......」 彼女は静かに続ける。 「今日の午前中、お母さんが泣いているのを見たの。彼女は本当は、あんたのお父さんと離婚したくなかった。でも......お父さんが......」 弥生は花の手をぎゅっと握りしめた。 「花、悪く思わないでほしいけど......おばあさんはね、あんたのお父さんに他の女がいると思っているのよ。それで、お母さんと離婚したんじゃないかって」 「えっ......?」 花は驚きのあまり、目を見開いた。 「おばあさん、それは本当なんですか?」 「実はずっと前からそんな話はあったの。あんたのお父さんがまだ若かった頃、恋人がいたって話を聞いたことがあるの。でも、私たちの娘―つまりあんたのお母さんと結婚するために、その恋人と別れたのよ。だから、当時はそれ以上追及しなかったわ。最近、彼が電話で昔の初恋の相手と話しているのを聞いた人がいるのよ。私はね、きっとまたその女性とよりを戻したんじゃないかって思ってるの。じゃなきゃ、結婚して三十年も経ってるのに、どうして今になって急に離婚するの?」 「そんな......」 花の胸がざわついた。 「おばあさん、私、お父さんに聞いてみます!」 彼女は立ち上がろうとした。 しかし― 「ダメよ!」 弥生がすぐに手を掴み、花の動きを止めた。 「こんなことを彼に聞いたって、素直に答えるわけないでしょう?」 「......でも、もし本当にそうだとしたら……あまりにもひどすぎます!!」彼女にとって、どちらも大切な家族だ。片方は母、もう片方は父。二人が離婚するだけでも、彼女にとっては十分に辛いことだった。もし本当に父が悪いのなら、彼女が母の味方につくのは当然のことだろう。 「あんたも見てきたでしょう?ここ何年もの間、彼女がどんな生活をしてきたか。 衣食住に困ることはなかった。でも、心の支えはあったの? 夫からの愛情もなく、ただ形だけの夫婦関係を続けてきた...... でも、彼女は、あんたを大事に育ててきたでしょう?お父さんより、お母さんのほうが、ずっとあ
「おばあさん、安心してください。お父さんには絶対に気づかれません」 「いい子ね、やっぱり大事に育てた甲斐があったわ。調べがついたら、すぐに私に知らせなさい。お母さんがあんなに悲しんでいるのを見ると、胸が痛くてたまらないのよ......」 そう言いながら、弥生の目には涙が浮かび、そのまま頬を伝い落ちた。 「私の大事な娘が、どうしてこんな目に遭わなきゃならないの......」 「おばあさん、泣かないでください。大丈夫です、私が必ず真相を突き止めます。 もしお父さんが本当にそんなことをしていたのなら、私だって許しません」 弥生は花の手を優しく叩きながら、静かに言った。 「花、あんたは遠藤家の誇りよ」 ...... 紀子が階段を下りると、ちょうど花が家を出るところだった。 「あっ......」 彼女は呼び止めようとしたが、花は足早に去ってしまった。 少し戸惑いながら、弥生の元へ歩み寄る。 「お母さん、花が来てたんですね。どうして呼んでくれなかったんですか?」 弥生は落ち着いた口調で答えた。 「あんたは部屋で休んでいたでしょう?邪魔したくなかったのよ」 「お母さん......もしかして、花を呼んだのは、何か話したいことがあったからですか?」 その疑いを感じ取ったのか、弥生は隠そうともせず、静かに答えた。 「ええ、そうよ」 彼女は穏やかな表情のまま、率直に話を続けた。 「私は花に聞いたのよ。あんたが離婚した本当の理由をね。高峯が外に女を作ったんじゃないかって」 その言葉に、紀子の表情が変わった。 「お母さん、この話はもう何度もしましたよね」 彼女は母の隣に腰を下ろし、必死に説明する。 「離婚は私が決めたことです。誰のせいでもありません。もう彼とは一緒にいたくなかった、それだけなんです」 「なによ、そんなに真剣な顔して」 弥生は微笑みながらも、目は鋭かった。 「花は、何も知らないと言っていたわよ」 「もうこの話はやめましょう、お母さん」 紀子は焦ったように、少し強めの口調で言った。 「私はもう、高峯と離婚したんです。何が理由であれ、もう終わったことなんです。過去を追いかけても、余計に辛いだけじゃないですか......」 「あんた、今、幸せなの?当初、あんたは
夕暮れ時、柔らかな陽光が別荘の窓から差し込み、部屋の中に温かな金色の光を映し出していた。 室内は静寂に包まれ、空気にはほのかに花の香りが漂っている。まるで時間が、この瞬間で止まったかのようだった。 微かな風がカーテンを揺らし、そっと囁くように流れていく。 高峯は、光莉の背後に寄り添い、指先で彼女の肩をそっとなぞった。 そして、抑えきれない衝動のまま、軽く唇を落とした。 光莉は疲れ切った目を開けた。その瞳には、ただひたすらな嫌悪と苛立ちが滲んでいる。 彼女はわずかに体を動かし、彼の唇を避けようとした。だが、力が入らず、まるで自分の体が鉛のように重く感じた。 ―もう何時間、ここに閉じ込められているのだろうか。 二十年以上前、彼らはかつて最も親密な関係にあった。 だが今や、すべては変わり果てた。 光莉の中に残っているのは、ただの憎しみと嫌悪、そして軽蔑だけだった。 高峯は満足そうに、彼女を強く抱きしめたまま、そばに横たわる。 「光莉......もうすぐ三十年になるな。こうして、ようやくまたお前を手に入れた。俺たちはもう若くはないが、それでも、お前に触れれば、あの頃の気持ちは変わらない」 彼はずっと健康管理に気を遣い、日々鍛錬を怠らなかった。 体の管理には人一倍厳しく、すでに五十歳近い年齢にもかかわらず、三十代の男ですら敵わないほどの体力を持っていた。 見た目も四十代前半にしか見えず、成熟した魅力と落ち着きが滲み出ている。 若者にはない、時間に磨かれた男の色気があった。 そんな彼の自信に満ちた声を聞きながら、光莉はわずかに唇を上げ、冷たく嘲笑を浮かべた。 その目には、軽蔑の色がはっきりと浮かんでいる。 「あんたが言うその感じが何を指してるのか分からないけど......」 彼女は皮肉げに言う。 「もし気持ち悪いという意味なら、大正解ね。ええ、とっても気持ち悪いわ」 高峯の笑みが、わずかに引きつる。 一瞬で、彼の表情は冷ややかに変わった。 「......気持ち悪い?」 彼は低く問いかける。 「それが、今のお前の俺に対する気持ちなのか?」 「違うわ」 光莉は、静かに、そしてはっきりと言った。 「今じゃなくて、二十年以上前からよ」 彼女は冷たく微笑みながら、続ける
「どうした?本当のことを言ったけど。まさか傷ついた?プライドが高いのは分かるけど、私があんたに気があるとでも思ったの?その自信、どこからくるのか不思議で仕方ないんだけど。 もしかして、他の女の子たちが媚びへつらって、あんたをちやほやしてくれたから、女は簡単に満足するとでも思ってる?......可哀想に」 「黙れ」 高峯は苛立ちに任せて彼女の唇を塞いだ。 「わざと俺を煽ってるつもりだろ?お前が強がってるのは分かってる」 言い終わるや否や、彼は布団を跳ねのけ、彼女の体を乱暴にひっくり返した。うつ伏せになった彼女の後頭部を掴み、無理やり顔を上げさせる。耳元で低く囁いた。 「言っておくが、強がりには代償がある。今夜、お前を逃がさない」 怒りがすべてを支配する。まるで獣が獲物を貪るように―だが、その奥底には深い傷ついたプライドがあった。 それを認めたくなくて、狂ったように彼女を追い詰める。 彼女は枕を握りしめ、乾いた笑い声を漏らした。 ―泣けない。 もう半生を生きた。何を経験してきたかなんて数え切れない。今さら泣くほどのことじゃない。 だから、笑うしかなかった。 高峯は有言実行だった。 まるで理性をなくしたかのように、彼女が折れるまで執拗に責め立てた。 首を掴み、髪を引き、無理やり謝らせようとする。 「ほら、俺が正しいって認めろ」 だが、彼女はそのたびに冷たく笑って言った。 「......あんたなんか、曜にすら及ばない」 その一言が、彼の理性をさらに崩壊させた。 夜が更けても、この狂気の時間は終わらなかった。 枕元のスマホが何度も鳴っていたが、高峯は完全に無視した。 ―すべてが終わったのは、彼自身が動けなくなったときだった。 荒い息をつきながら、彼女の顎を掴み、無理やりこちらへ向ける。満足げに笑いながら言い放った。 「お前、どれだけ強がっても、体は正直だったな」 彼女は微動だにせず、目を開ける力すら残っていなかった。もはや皮肉を返す気力もない。 高峯はようやくスマホを手に取り、画面を確認する。 ―花からの着信だった。 隣で眠る彼女に視線を落とし、通話ボタンを押す。 「もしもし」 「お父さん、どうされたんですか?何度もお電話したのに、全然出てくれなくて....
花は手に北京ダックの袋を持ち、高峯の別荘に到着した。 ちょうどリビングに入ったところで、使用人がすぐに駆け寄ってきた。 「お嬢様、お待ちしておりました」 「お父さんはどこにいるの?」 使用人はにこやかに答えた。 「理事長様は二階におられます。まだ少しお仕事が残っているので、終わるまでこちらでお待ちくださいませ」 花は手に持っていた北京ダックを執事に渡しながら言う。 「お父さんのために買ってきた。でも、ちょっと冷めてしまったかもしれない。温めてもらえる?」 「かしこまりました。お嬢様はどうぞお掛けになってお待ちください」 「いいの。私、お父さんのところに行ってくる。何をしているのか気になるし」 そう言いながら、花は階段へと向かう。 すると、使用人が慌てて前に立ちはだかった。 「お嬢様、お待ちください!」 「......どうした?どうして止めるの?」 「理事長様はお仕事に集中しておられますので、邪魔しないようにと仰せです。もう少ししたら降りてこられますので、それまでお待ちいただけませんか?」 「邪魔なんてしないから。ただ様子を見て、そばにいるだけ」 花は譲らず、再び階段を上ろうとした。 使用人は困ったように一歩後ずさる。 「ですが......理事長様はお邪魔されるのをお嫌いになりますので」 「お父さんの仕事を見守るくらい、何が問題なの?大げさよ、どいて」 執事の態度があまりに必死だったせいか、花の中に妙な違和感が生まれた。 そこまでして二階に行かせたくない理由とは何なのか。 家族なのに、何をそんなに隠そうとしているのだろう? 使用人が返答に困っていると、ちょうどそのとき、高峯が階段を降りてきた。 彼はシンプルなグレーのルームウェアを身にまとい、身なりは整っており、清潔感にあふれていた。 すれ違いざまにほのかに香るボディソープの匂いから察するに、どうやら今しがたシャワーを浴びたばかりのようだ。 そのせいか、普段よりも少し若々しく見えた。 「お父さん、今お風呂に入っていたのですか?」 花は彼の近くで立ち止まり、漂う香りに気づいた。 「ああ。少し疲れて汗をかいたからな」 「そんなに長時間お仕事されていたんですか?顔色もあまり良くないですよ」 高峯は軽く笑
「お父さん、つまり......私とお兄ちゃんが大人になるのを待って、ずっと離婚のタイミングを見計らっていたんですか?」 高峯は何も答えなかった。 だが、その沈黙がすべてを物語っていた。 花は小さく息を吐く。 「もしそうなら、そもそもどうしてお母さんと結婚したんですか?お父さんは、最初はお母さんを愛していたんですか? もし愛していたなら、なぜ途中で冷めたんですか?もし愛していなかったなら、なぜ結婚なんてしたんです?」 矢継ぎ早に投げかけられる問いに、高峯はすぐに答えられなかった。 子供たちには話したことがなかった。 自分が紀子と結婚した、本当の理由を― 父の沈黙を見て、花は確信した。 祖母の言っていたことは、やはり本当だったのだ。 お父さんはお母さんを愛して結婚したわけではない。ただの打算だった。 母の家柄を利用して、自分の立場を盤石にするための結婚。 だからこそ、ずっと母を愛する夫のようには扱わなかったのだ。 そして今、もう何も恐れるものがないから、ためらいもなく離婚を選んだ― 「花、それはお前が口を出すことではない」 高峯は静かに言う。 「お前ももう大人だ。そのうち、色々と分かる時が来る」 「分かる?何をですか?人を利用して、価値がなくなったら捨てる......そういうことですか?」 花の言葉に、彼の眉間がぴくりと動く。 「......誰かに何か吹き込まれたのか?まさか、紀子が何か言ったのか?」 紀子が離婚のことで恨み言を言っているのか? いや、そんなはずはない。 彼女は昔からそういうことをする人間ではなかった。 もし未練があるなら、最初から離婚などしない。 離婚しておいて、後から悪口を吹き込むなんて、中途半端なことをする女ではないはずだ。 「お母さんは何も言ってません」 花は拳を握りしめ、悔しそうに言う。 「お父さんも分かってるでしょ?お母さんはずっと何も言いませんでした。何もかも我慢してきました。でも、私は見てました。お母さんは、本当にお父さんを愛してたんです!お父さんのことを一番に考えて......なのに、どうして......」 「花」 高峯は娘の言葉を遮る。 低い声が、わずかに怒気を帯びていた。 「これ以上、言うな」 その目が
高峯の先ほどまでの厳しい表情は、今ではすっかり慈愛に満ちた父親の顔へと変わっていた。 父の言葉に、ほんの少しだけ心が慰められる。 「はい、分かりました」 「分かればいい。今夜、お前が一緒に食事してくれるだけで、父さんはとても嬉しいよ。お前の好きな料理も用意させた」 彼は、花に光莉の存在を知られたくなかった。しかし、光莉は彼に散々弄ばれたせいで完全に力を失っており、今や雷が落ちても目を覚ますことはないだろう。 花が食事を終えて帰れば、また部屋に戻り、光莉と一緒に眠るつもりだった。 「ありがとう、お父さん」 花は微笑む。 「どんなことがあっても、私たちは家族です。私は永遠にお父さんの娘です。お母さんと離婚してしまいましたが、きっと一緒に暮らすのが難しくなったからですよね。それなら、私はお二人の決断を尊重します。ただ、お父さんには幸せでいてほしい。もし、いつかお父さんが本当に愛せる女性に出会ったら、ちゃんと教えてくださいね。私は全力で応援しますから」 高峯は満足そうに微笑んだ。 「なんていい娘なんだ。分かったよ、もしそんな日が来たら、お前にちゃんと報告する。だが、どうなろうと、お前の母さんが俺にとって大切な人であることに変わりはない」 それは、愛とは無関係な「大切さ」だった。 高峯の心に、愛する女性はただ一人だけ。 最初から最後まで、それは変わらなかった。 紀子に対して抱く感情は、ただの「罪悪感」だった。 自分は冷酷で、利己的で、非情な男だ。 しかし、それでも人の心というものは、どこかに情を宿している。 彼女は長年、彼のために尽くし、多くのことを隠し通してくれた。 たとえ離婚しても、それを世間に暴露することなく、黙って立ち去った。 そのことに対する、ほんのわずかな感謝と負い目は、確かにあった。 だが、そんなものだけでは、一緒に暮らし続ける理由にはならない。 紀子が欲しかったのは「愛」だった。 それだけは、どうしても与えることができなかった。 彼女が「耐えられない」と言って、離婚を望んだとき、彼は素直にそれを受け入れた。 ―ただ、それだけのことだった。 だが、これらの話を花に説明することはできない。 彼女に話せる単純な話ではなかった。 夕食の間、高峯と花は穏やかに会話
花は何事もなかったかのように振る舞いながら、再びダイニングに戻り、父と酒を酌み交わした。 食事が終わると、そろそろ帰る時間だった。 花は試しに聞いてみる。 「お父さん、今夜ここに泊まってもいいですか?明日の朝に帰ろうかなって」 「お前なあ......前は家になんてほとんど帰らずに、遊び回ってばかりだったくせに、今さら泊まりたいなんて言い出すとはな。やっぱりお前は、今まで通り好きに遊んでるほうが性に合ってるだろう」 ここは父の私邸であり、普段、花や西也はここには住んでいない。 「ちょっと、それって私のこと邪魔だって言ってるのです?」 「そうだな」 「ひどい、お父さん!私はあなたの実の娘ですよ?どうしてそんなに邪険にするの?」 花は口をとがらせ、わざと拗ねたように言う。 高峯はくすりと笑い、彼女の頭を軽く撫でた。 「冗談だ。お前のことを嫌うはずないだろう。さあ、もう遅いし、お前も西也のところへ行ってやれ。あいつも色々と大変なんだ。嫁さんの世話でな」 父が自分に帰るよう促しているのが、花にははっきりと分かった。 まあ、当然だろう。 この家には、隠している女がいるのだから。 娘に泊まられでもしたら、バレる可能性が高くなる。 今は無理に食い下がらず、様子を見るほうが賢明だ。 「分かりました。それじゃ、帰りますね。おやすみなさい、お父さん」 酒を飲んでいたため、高峯は運転手を手配し、彼女を送り出すことにした。 どこへ向かおうが構わない。 病院でも、自宅でも、またナイトクラブに繰り出そうとも― ただ、ここにはいなければ、それでいい。 彼は、これから光莉との時間を楽しむつもりなのだから。 花が去った後、高峯は寝室へ戻った。 ベッドに腰を下ろし、光莉の隣に座る。 彼女はまだ深い眠りの中にいた。 無理もない。 散々弄んだのだから、体力の欠片も残っていないだろう。 彼はそっと毛布を引き上げ、肩を覆うようにかける。 小さく息を吐きながら、彼女の体を抱き寄せた。 すると、光莉はわずかに身じろぎした後、不機嫌そうに身をよじった。 彼から距離を取ろうとするように。 それも当然だろう。 体のあちこちが痛み、骨の一本一本が軋むような感覚があるはずだ。 「光莉、娘はも
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった
「それで......あんたと山田さんは、うまくやっているの?」 光莉の問いかけには、どこか探るような調子が混ざっていた。 「......」 修は黙ったまま、答えなかった。 少しして、光莉がもう一度静かに尋ねた。 「修?どうかしたの?」 「......母さんは、俺が侑子とうまくやってほしいって、思ってるんだろ?本音を聞かせてくれ」 数秒の沈黙のあと、光莉は正直に口を開いた。 「ええ。私は、彼女があんたに合ってると思ってるの。若子との関係が終わったのなら、新しい恋に踏み出してもいいじゃない」 新しい恋―その言葉に、修はかすかに笑った。 それは皮肉と哀しみが入り混じった笑みだった。 「母さんさ、俺が雅子と付き合ってたとき、そんなふうに勧めたことあった?一度でも応援してくれた?」 「山田さんは桜井さんとは違うわ。それに......あの頃は、まだ若子との関係に望みがあると思っていたの。でも今は違う。若子はもう西也と結婚したのよ。あんたには......もう彼女を選ぶ理由がないわ」 ―また、西也か。 その名前を聞くだけで、修の心は抉られるように痛んだ。 「なあ、ひとつだけ聞かせてくれ」 修の声は低く、抑えていた怒りがにじんでいた。 「......母さんは、若子が妊娠してたこと、知ってたんじゃないか?」 その瞬間、光莉の心臓が跳ね上がった。 「修......それ......知ってしまったのね?若子に会ったの?」 修の手が、ぎゅっとシーツを握りしめる。 その手の甲には、浮き上がった血管が脈打っていた。 「やっぱり......知ってたんだな。どうして俺に黙ってた?なぜ、何も教えてくれなかったんだ!」 「ごめんなさい......修。私だって伝えたかった。でもあの時、若子が......もう言う必要ないって。彼女がそう言ったの」 ついに、その瞬間が来た。 修は真実を知った。若子が自分の子を産んでいたという、残酷な事実を。 光莉の心は重く沈んだ。 修が今どれほど苦しんでいるか、想像に難くない。 母として、彼女の胸には後悔があった。 だが、ここまで来たら、もう「運命」としか言いようがなかった。 「......そうか、言う必要がなかったんだな」 「若子はあいつの子どもを妊娠し
「暁―忘れるなよ。『藤沢修』、その名前を覚えておけ。あいつは、おまえの仇だ」 ...... 夜が降りた。 病院は静まり返り、あたり一面が闇に包まれていた。 窓の外には星が点々と浮かび、真珠のように建物の屋根を彩っていた。 やわらかな月光が屋上からゆっくりと差し込み、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせる。 白い病室。 修は、真っ白なシーツに身を包まれてベッドに横たわっていた。 消毒液の匂いが、空気を支配している。 ベッドの脇には点滴が吊るされ、透明な液体が少しずつ彼の身体へと流れ込んでいた。 穏やかな灯りが、彼の青ざめた顔に落ちる。 その表情には、深い疲労と痛みがにじんでいた。 修は、目を開いた。 視線をさまよわせ、室内を確認する。 ゆっくりと身を起こし、点滴に目をやると、まだ半分ほど残っていた。 そのとき―病室のドアが開いた。 ひとりの外国人の男が入ってくる。 「藤沢さん、目が覚めたか」 「......見つかったか?」 修の声には焦りがにじんでいた。 男は首を振った。 「いや、まだだ。他の場所も順番に探してる」 修の瞳から、いつもの鋭さは失われ、暗く沈んでいた。 眉間には深い皺が刻まれ、重たい悔恨が彼の表情を支配していた。 彼は視線を落とし、口元に力なく笑みを浮かべる。 ―なぜあのとき、追いかけなかったのか。 若子を、あんなふうにひとりで行かせるべきじゃなかった。 夜の道を、彼女ひとりで運転させるなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。 どんな理由があろうと、あのとき引き止めて、一緒に行くべきだった。 侑子が怪我をしたからって、あそこで立ち止まるべきじゃなかったんだ。 すぐに追いかければ、若子に何か起きることもなかったかもしれない。 彼は、若子を恨んでいた。 あの瞬間、彼女が選んだのは自分ではなく、西也だったから。 でも今― 彼が選んだのは、侑子だった。そして、その選択が若子を傷つけた。 あのとき、彼にとっては難しい決断ではなかった。 もしすぐに若子を追いかけていれば、侑子に危険は及ばなかったはずなのに。 修は、自分が彼女を追わなかったことを、心の底から憎んだ。 その瞳には、痛みの波が渦を巻いていた。 まるで深い夜の湖
西也の心は―まるでとろけるようだった。 「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」 声が震えていた。 嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。 暁が笑ったのは、これが初めてだった。 しかも、それが自分に向けられた笑顔。 初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。 これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても― 心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。 この子は、自分の子ではない。 修の血を引いている子だ。 若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。 そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。 けれど、今― 暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。 ―愛してる。 たとえ血の繋がりがなくても。 たとえこの子が修の子でも。 そんなことは、どうでもよくなった。 ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。 暁は再び笑った。 その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。 笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。 その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。 その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。 「暁......俺の可愛い息子」 西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。 まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。 「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな...... ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」 暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。 まるで幸せのリズムを刻むように。 「......パパの顔、触りたいのか?」 西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。 暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。 その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。 まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。 恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。 その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
もしかすると―驚かせてしまったのかもしれない。 暁は、さらに激しく泣き始めた。 口を大きく開けて、嗚咽のように大声で泣いている。 「泣かないでくれよ、な?暁、パパが抱っこしてるじゃないか。 いつもはママが抱っこすると泣くくせに、パパが抱いたら泣き止んでたじゃないか。これまでずっとパパが面倒見てたんだぞ?そんなに悪かったか?なんで泣くんだよ...... ......まさか、藤沢のこと考えてるのか?」 その瞬間、西也の目が、獣のように鋭くなった。 「教えてくれ、そうなのか?あいつのことを想ってるのか?奴が......おまえの本当の父親だから? 違う......違うんだ、暁。俺が、おまえの父親だ。ずっと、ずっとおまえとママのそばにいたのは、この俺なんだ。あいつは、おまえの存在すら知らなかったくせに......女たちと好き勝手してたんだ。 暁、おまえが大きくなったら、絶対に俺だけを父親だと思うよな? 藤沢なんて、父親の資格ないんだ......そんなやつが、おまえの父親であってたまるか。 父親は俺だ!俺しかいないんだ! 暁、目を開けて、よく見ろ......この俺が、おまえの父親なんだよ! 泣くなよ......な?頼むから、泣かないで」 けれど、どれだけあやしても―暁の涙は止まらなかった。 「やめろって言ってんだろ!!」 西也はついに怒鳴りつけた。 「これ以上泣いたら......おまえを、生き埋めにしてやるからな!」 狂気をはらんだ眼差しで睨みつけた。 その瞬間― 暁の泣き声が、ぴたりと止まった。 黒く潤んだ瞳が、大きく見開かれたまま、まるで魂が抜けたように無表情になる。 動かない。 光が消えたようなその瞳を見て、西也ははっとした。 「......暁、どうした?パパだよ、わかる?」 西也はその小さな頬に手を添え、そっと撫でた。 「ごめんな、怖がらせたよな。パパ、怒ってたんじゃないんだ。ちょっと......ほんの少し、気が立ってただけなんだ」 西也は涙混じりに頬へ口づける。 「ごめん、本当にごめん。パパ、もう怒らないから。だから、お願いだから......怒らせるようなこと、しないでくれよな?」 子どもは、もう泣いていなかった。 ぐずりもせず、ただ黙っていた。