茜は手を伸ばし、それに気づいたホストが素早くタバコを差し出し、ライターで火をつけた。彼女は慣れた手つきでタバコを吸い、一息で煙を吐き出す。若子はその場の空気に圧倒され、居心地が悪そうにしていた。タバコと酒の匂いが充満しているのも耐えがたかったが、ここは茜たちが遊ぶ場所であり、自分が何かを言う立場ではないと思い、我慢することにした。「お酒もダメ、タバコもダメなら、どう?賭け事でもしてみない?チップなら私が出してあげるよ」茜はどこか飄々とした態度で言ったが、その仕草にはどこか迫力があった。「いえ、結構です」若子は断りながら、「賭け事もしません。ただ花に付き合ってきただけで、すぐに帰るつもりなんです」と付け加えた。その時、綺麗な女性が酒杯を片手にふらふらと近づいてきた。彼女は若子を見ると目を輝かせ、片手で若子を抱き寄せてきた。「ねえ、一人?初めて見たけど、可愛いじゃない」若子は慌てて体を引こうとしたが、「すみません、ちょっと......」と言いかけたところで、全身に衝撃が走った。「ちょ、何してるんですか!」「何って、見てわかるでしょ?」女性は挑発的な笑みを浮かべたまま言い返す。若子は怒りで顔が真っ赤になり、今にも声を荒げそうだったが、その時茜が声を上げた。「おいおい!」茜はその女性を指差しながら言った。「空気読めないにもほどがあるでしょ、どっか行って!」女性は唇を尖らせながら、不満げに「何よ、別にいいじゃない」とつぶやいて去っていった。若子は周囲を見渡しながら、また何かされるのではないかと怯えていた。茜は、真っ赤な顔をした若子をまるで子猫でも見るような目で眺め、楽しそうに笑った。「あの女のことは気にしないで。ただの酔っ払いの悪ふざけよ」若子はぎこちなく笑ってみせながら、「すみません、もう失礼します」と言った。この場所から一刻も早く立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。「そうしなさいよ」茜はあっけらかんと言った。「妊婦なんだからね。二次喫煙で何かあったら、私のせいにされても困るから」茜の態度には、何も気にしていないような無関心さが漂っていた。ただの投げやりでもなく、どこか達観したような雰囲気だ。若子は思った。茜は意外と悪い人ではない。ただ、豪快で遊び好きすぎるのだ。幼い頃から裕福な環境で育ち、何不自由
「分かった」と茜は手を差し出し、男は小さく折りたたまれた包みをその手にそっと置いた。若子は目を大きく見開き、茜が何をしようとしているのかに気づき、心の中がざわめいた。茜はその包みを器用に開き、中から白い粉状の物体を取り出した。それは細かく滑らかな粉で、明らかに普通のものではなかった。続けて、茜は男が手渡した金属製のスティックを使い、粉を少量すくい上げると、鼻に近づけて一気に吸い込んだ。その直後、彼女は口を軽く開き、頭を少し後ろに倒して目を閉じ、恍惚とした表情を浮かべた。「やっぱり、最高の品だわ」若子がゾワリとし、恐怖心が込み上げてきた。耐えきれず、振り返るとその場から走り出した。こんなに堂々とそんなものを吸うなんて、一体どういう神経をしているの?「若子、大丈夫?」その頃、花は近くで別の女性たちに捕まっていたが、何とか逃げ出し、若子を探しに来た。若子は震える声で言った。「ここから出たい......!」「分かった、すぐに行こう!」花は、若子がショックを受けていることに気づき、すぐにその場を離れることにした。二人は個室を出ると、若子はまだ落ち着かない様子で、顔が真っ赤に染まっていた。「花、見た?彼女、あの......吸ってたのよ......!」若子は震える手でスマホを取り出し、「警察に通報しなきゃ!」と慌てて画面を操作しようとした。「若子、待って!」花が彼女を制止する。「気持ちは分かるけど、もし通報なんかしたら、あの部屋にいた全員を敵に回すことになるわよ。あそこにいた人たちの親はみんな有力者で、裏の繋がりだって強い。下手したら、お兄ちゃんが守りたくても守りきれなくなるよ」花は優しく彼女のスマホを奪い取ると、落ち着いた声で続けた。「上流社会の人間ってね、外から見たら華やかだけど、中身はこういう汚れた部分だらけなの。今見たのはほんの一部。彼らがやっていることを親たちも知ってるわ。親だって手を尽くしているはずよ。でも、若子みたいな外部の人間が通報なんてして、その子たちを追い詰めたら......向こうの親が黙っているわけがない。それに、今は赤ちゃんがいるんだから、余計なトラブルに巻き込まれるべきじゃないよ」若子は言葉を失った。花はスマホを若子のポケットに戻しながら言った。「こんなことやってる連中、自分で代償を払う
若子は最後の一言を聞いた瞬間、すべてを悟った。頭に浮かんだ光景に耐えきれず、思わず体を震わせた。 「西也を助けなきゃ。お父さんは本気で気が狂ってるの?たとえ政略結婚させるにしても、普通の相手を選ぶべきでしょう!」「父さんはそんなこと気にしないの。彼にとって大事なのは、相手がどれだけ利益をもたらすかだけ。幸村家はただの豪門じゃなくて、裏で大きな勢力が支えている。父が目をつけているのは、その権力よ」「権力が息子よりも大事だなんて!」若子は怒りを露わにした。花は若子が少し息苦しそうにしているのを見て、彼女の肩に手を回した。「ひとまず外に出ようか。外の空気を吸ったら楽になるよ」花は若子を連れてクラブの外へ出た。外の空気は確かに清々しく、若子は深く息を吸い込む。中にいる間、息が詰まりそうだった。「ごめんね、若子。今日、こんな場所に連れてきたのが間違いだったわ。怖い思いをさせちゃったよね」「大丈夫。ここに連れてきてくれてありがとう。もし来なかったら、西也が結婚するのをただ見ているだけになるところだった」若子の言葉に、花は少し首を傾げる。「でもさ、どうやって止めるの?うちのお兄ちゃんも本当は結婚したくないみたいだけど......」花はため息をついた。「若子も知ってるでしょう?父さんは相手の気持ちなんてお構いなしだから」若子は以前、高峯に言われた言葉を思い出した。「お前なら、彼と結婚させるのも、考えられないことじゃない」「若子、大丈夫?」花はぼんやりしている若子を見て心配そうに声をかけた。彼女の腕をそっと引き寄せながら言う。「あんまり気にしないで。どんな形でも、西也の身分と地位は守られるの。それに、人生ってさ、未来と幸せのどっちかを選ばなきゃいけないものなんだよ。どちらかを捨てる覚悟が必要なの」「どうしてどちらかを捨てなきゃいけないの?」若子は真剣な目で花を見つめた。「本当はどっちも手に入るはずなのに、無理やりどちらかを選ばされる。そんな人生、理不尽すぎる」「仕方ないよ。人生なんて不公平なものだもの」花がまた淡々と言う。「だから現実を受け入れるしかない時もあるんだよ」「不公平だとわかっているなら、それを変える方法を考えなきゃいけない。もしみんながこの不公平を許してしまったら、世界はどうなっちゃうの?」若子の心に火がついた。
メッセージを送り終えた後、若子が尋ねた。「花、何て送ったの?」花はスマホを掲げ、メッセージを見せた。若子は画面を見て、眉をひそめた。「どうしてそんなこと送ったの?西也が読んだら心配するじゃない!」若子の言葉が終わるか否か、花のスマホが鳴り響いた。画面には「お兄ちゃん」の名前が表示されている。花は得意げにスマホを若子の目の前でひらひらさせ、「ほら見て、効果抜群でしょ?」という表情を浮かべた。その後、花は電話に出てスピーカーに切り替えた。「花、一体どうしたんだ!若子はどこにいるんだ?」まだ花が口を開く前に、西也の少し怒気を含んだ声が響いた。「お兄ちゃん、今どこ?どうして電話に出ないのよ?」「まず若子がどうなってるのか答えろ!」西也の声は焦りが滲んでいた。「若子、無事なのか?」「私ならここにいるわ」若子が口を開いた。その声を聞いた途端、西也はさらに心配そうに言った。「若子、本当に大丈夫なのか?何があったんだ?」「何もないわ。あなたが電話に出ないから、花があんなメッセージを送っただけよ」西也の声が一段冷たくなった。「花、お前ってやつは、そんな冗談を言っていいと思ってるのか?」「冗談なんかじゃないもん!」花はシュンとして頭を垂れた。「西也、花を責めないで。あなたが電話に出ないから心配したの。今どこにいるの?」「西也、花を責めないで。あなたが電話に出ないから心配したの。今どこにいるの?」若子の声に、西也のトーンが少し柔らかくなった。「俺のことは気にするな。ちゃんと自分のことは何とかする」「違うの。どうしても会って話したいことがあるの。重要な話なの」「何の話だ?ここで話せばいいだろう」「ダメよ、直接会わないといけないの」彼女は西也の顔を見ないと、安心できない。西也はため息をついて言った。「分かった。迎えに行く」「それはいいわ。花と一緒にそっちに行くから、場所を教えて」花が車で若子を西也のいる場所まで連れて行った。彼は自宅にはおらず、個人経営の小さなバーにいた。そのバーはとても小さく、ひっそりとした場所にありながら、内装は非常に洗練されていて、派手な照明も大音量の音楽もなかった。中にいる客は西也一人だけ。聞いてみると、このバーは西也が出資して作ったものだという。ただの憩いの場とし
花はカクテルを一口飲んでから目を大きく開き、自分の推しカプを見つめながら心の中で密かに応援していた。「頑張れよ!」そんな様子をよそに、西也は目の前で立ち尽くす若子に気づき、首をかしげた。 「なんだ?どうした、急に黙り込んで」 西也は軽く手を上げて、若子の目の前でひらひらと振ってみせる。 「ぼーっとしてるけど、何かあったのか?」若子は首を横に振り、真剣な表情で答えた。 「そうじゃないの。伝えたいことがあるの」「なんだ?」若子は少し緊張した様子で、自分の服の裾をぎゅっと握りしめる。そして意を決したように顔を上げて言った。 「あなた、前に言ってたじゃない?私たちが「仮に結婚」するって」西也の眉がわずかに寄った。 「その話を今さら持ち出してどうする?」「今すぐお父さんに会いに行こう。そして、私たちは付き合っているって伝えるの。結婚するとしたら、相手は私だって」若子は一気に言い切った。西也の顔に驚きの色が広がった。 「若子......お前、自分が何を言ってるかわかってるのか?」「わかってる」若子の声は少し強くなった。「私、本気で言ってる。さあ、今すぐ行こう!」若子は西也の手を掴むと、彼を連れ出そうとした。だが、西也はその場から一歩も動かなかった。振り返った若子が困惑した顔で尋ねる。 「どうしたの?行きたくないの?」西也はそっと手を引き抜き、首を横に振った。 「嫌だ」「どうして?」若子は訝しげに問い詰める。「これって、あなたが最初に言い出したことじゃない?」「確かに、俺が言った提案だった。でも......」西也は大きくため息をつきながら続けた。「それは、どうしようもないときの手段だろ。お前はそのとき断ったじゃないか」「でも、私は気が変わったの!」若子の声が少し上ずった。「幸村さんが吸ってたものを見た瞬間に、決めたの」「若子......」西也は心配そうな顔で彼女を見つめた。「無理するな。お前が俺のために犠牲になるなんて、そんなことさせられない」「犠牲なんかじゃないよ」若子は力強く答える。「私たちは友達でしょ?友達を助けるためにやってるだけ」若子はこれを犠牲だと思っていなかった。「でも、俺を助けるために結婚なんてして、後でお前はどうするんだ?」「私なら大丈夫」若子は毅然として言った。「どうせ仮の結婚だし
深夜。遠藤家の本家は、眩しいほどの灯りがともされていた。村崎紀子は整った服装のまま、化粧台の前で大きくあくびをした。 「夜更けにこんな準備、面倒だわ」紀子はぼんやりと鏡を見つめ、ため息をつく。付き添うメイドが彼女の髪を整えながら、小声で話しかける。 「こんな遅い時間にお疲れ様です」紀子は何かを不満そうに呟いているようだった。メイドは長年仕えてきた40代半ばの落ち着いた女性だ。腰をかがめ、耳元でそっと言う。「奥様、若様が初めて彼女を連れていらしたんです。急いでお二人にお目にかけたかったのではないかと」「お見合いの話が出るタイミングで彼女連れなんて、変わった子ね」そう言いながら、紀子は化粧台の上にあったダイヤの髪飾りを手に取り、頭に当ててみた。「これにしようかしら」準備を終えた紀子はメイドを伴って階下へ向かう。客間に入ると、家族全員がきちんとした姿勢で整然と座っていた。「紹介するよ」 高峯が目を上げ、淡々とした口調で言う。「こちらが松本若子だ」紀子は一歩前に進み、落ち着いた動きで若子を一瞥する。視線を受けた若子は少し緊張し、急いでソファから立ち上がった。「あ、初めまして。こんばんは」紀子は彼女をじっと見つめる。「あなたが西也の彼女なの?」若子は動揺しつつも笑顔を作り、うなずいた。「はい、そうです」それ以上何も言わず、紀子は部屋の隅にある自分の席に腰を下ろした。他の家族が輪になって座る中、彼女だけが距離を取るように一人きりだった。夫である高峯とは、言葉少なで冷え切った空気が漂っている。「どうぞ、座って」 高峯が若子にそう促す。「そんなに緊張しなくてもいい」若子がそっと腰を下ろすと、西也が彼女の手を取り、軽く手の甲を叩いた。驚いた若子は反射的に手を引っ込めそうになったが、思い直す。今の自分たちは「恋人」同士の設定だ。彼女は小さく微笑みを浮かべて西也を見上げた。その表情はまるで本当のカップルのようだった。高峯は目の前のやり取りを見て、薄く笑った。 「確か前に、お前たちはただの友達だって若子さんが言ってた気がするけど。どうしてこんな夜中に突然恋人だなんて話になった?」高峯の瞳は鋭く、まるで全てを見透かしているかのようだったが、その真意をあえて口にはしない。その余裕たっぷりな視線に、若子は冷静を装いながら答え
紀子の視線が若子に向けられる。その瞳には何とも言えない笑みが浮かび、若子はどこか居心地の悪さを覚えた。それでも、彼女は礼儀正しく微笑みを返す。この日が西也の母親と初めて顔を合わせる日だったからだ。紀子はとても若々しく見える。手入れが行き届いており、その美貌と気品は一目でわかるものだった。「西也がこんなに整った外見なのも、両親譲りなのだろう」と、若子は心の中で感嘆する。「悪くないわね」紀子が穏やかな声で口を開いた。「それで、あなたたち、いつ結婚するの?」結婚という言葉を耳にした瞬間、若子の心臓は跳ね上がった。彼女はぎこちなく笑みを浮かべながら答える。「ええと、西也と私は今、結婚のことをじっくり相談していて......」「相談?何をだ?」話の途中で高峯が遮る。若子は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに作り笑いを浮かべて続けた。「結婚というのは大きな決断ですから。もちろん慎重に話し合いをして、それから......」「だが、お前たちは本気で愛し合っているんだろう?」高峯が再び彼女の言葉を遮る。「本気ならば、こんな夜中にわざわざ説明に来る理由は、早く結婚したいからじゃないのか?」「父さん......」西也が不安そうに父親を見やりながら口を挟む。「若子の言いたいのは......」西也が不安そうに父親を見やりながら口を挟む。「若子の言いたいのは......」 「俺が話している最中だ。黙っていろ」高峯が眉をひそめると、その威圧感に西也は言葉をのみ込む。それでも何かを言おうとする西也に、若子がそっと袖を引き、首を横に振った。「お父さん、どうぞお話を続けてください」彼女の声は慎重で、相手に疑念を抱かせまいと気を張っていた。高峯は顎を少し上げ、堂々と告げる。 「これだけはっきりと説明してきたのだ。無駄な時間をかける必要はないだろう。明日の朝一番で結婚届を出して正式に夫婦となるのだ」「えっ......?」若子の頭の中が真っ白になる。「明日の朝......結婚届を?」若子は、話がこんなにも早く進むとは思ってもいなかった。少しは時間を稼げるはずだと思っていたのに。「そうだ」 高峯は威厳たっぷりに続ける。「お前たち、もう関係を認めたのだろう?ならば何を待つ必要がある?」「でも、父さん......」 西也が遮るように口を開く。「
洗面所に着くと、若子は急いで中に入り、吐き気に襲われた。その間、西也は心配そうにドアの外で待っている。しばらくして、若子が顔色を悪くして出てきた。「若子......俺が悪かった。本当に結婚したくないなら無理にしなくていいんだ。俺が父さんに本当のことを話す。大丈夫だ、お前は無理をしなくてもいい」「大丈夫よ」 若子は西也を安心させるように穏やかに言った。「ただのつわりだから、気にしないで。あなたのせいじゃないわ」彼を心配させないように、若子は優しく微笑みかけた。「平気だから、行きましょう。あまり待たせたくないし」二人は何本かの廊下を回り、ようやく客間に戻った。若子は西也に、少し離れた洗面所に連れて行ってほしいと頼んでいた。つわりの音が遠藤家の誰かに聞かれるのを避けるためだ。もし彼女が前夫の子供を妊娠していることが知られたら、結婚の話はさらに複雑な事態を招くだろう。彼らが本当の結婚ではないとはいえ、少なくとも本物に見せる必要があった。客間に戻ると、西也は若子にこれ以上の負担をかけたくないと思い、口を開いた。 「父さん、母さん。今日はもう遅いから、俺が若子を送っていくよ。二人とも休んでくれ」「こんな夜遅くに戻る必要はない」 高峯が立ち上がって言った。「ここに泊まれ。明日の朝、車を手配して結婚証明を取らせる」若子は慌てて口を挟む。「お父さん、私の戸籍謄本は家に置いてあるんです。取りに帰らないと......」高峯は少し考え込んでから、うなずいた。「それもそうだな。だが明日は私の秘書を市役所に向かわせる。彼が付き添うので、問題なく手続きを済ませてくれ。それが終わったらまたここに戻り、残りの話をする」若子は頷いた。「わかりました。それでお願いします」話がまとまると、部屋の空気が少し緩んだ。家族は解散し、若子と西也は車に乗り込む。車を運転するのは花だ。西也は酒を飲んでしまっていたからだ。花は、車の中で待機していた。家に入る勇気がなかったのだ。もし何かトラブルがあれば叱られるのは自分だと思い込んでおり、怯えたまま車内に隠れていた。しかし、父が話を信じたこと、そして計画が成功したことを知ると、花は興奮を抑えきれなかった。彼女は兄と一緒に若子を家まで送り届けた。時刻はすでに深夜。若子は家に着くと、ベッドに倒
花の言葉は、一見すると西也を咎めているようだった。 だが、実際には「もしノラくんが悪ふざけをしなければ、お兄ちゃんも手を出さなかったはず」と言っているのと同じだった。 西也はそんな短気な男ではない。 つまり、ここまで怒らせたノラにも、それ相応の原因があるはずだった。 西也はちらりと花を見て、軽くため息をつく。 そして、若子が口を開くよりも先に、静かに言った。 「......悪かった。俺の怒りっぽい性格のせいだ。手を出そうとしたのは、俺の落ち度だ。 だから、もう怒るな」 ノラは小さく唇を尖らせながら、ちらりと若子を見た。 そして、少し控えめな声で言う。 「お姉さん、お兄さんも謝ってくれましたし、許してあげたらどうですか?まぁ、めちゃくちゃ怖かったですけど......でも、お姉さんがすぐ来てくれたおかげで、怪我もしなかったですし」 ―その言葉は、一見すると「許す」というものだった。 だが、裏では「西也がどれほど恐ろしいか」「若子が間に合わなかったらどうなっていたか」を遠回しに強調していた。 若子は小さくため息をついた。 「......西也、ノラ。あなたたちはお互いに相性が悪いみたいね。 無理に会っても、また同じことになるだけだわ。 だから、もう『兄弟ごっこ』はやめましょう。これ以上、無駄に衝突するのは避けたいもの」 「若子、もう二度とこんなことはしないって誓うよ!」 西也はすぐに弁解しようとするが― 「もういいの」 若子の言葉は、どこか疲れ切っていた。 「正直、もう怒る気力もないわ」 彼女の目には、深い疲れが滲んでいた。 やっとの思いで修に会いに行ったのに、結局会えなかった。 そして病室に戻ればこの騒ぎ。 心が重くなるばかりだった。 「......もうベッドから降りていいわよ」 長い間ベッドに閉じ込めてしまったのは、若子自身だった。 二人がずっと従っていたのは、結局、彼女の気持ちを尊重していたからだ。 それを思うと、少しだけ怒りも和らいだ。 西也は安堵したように息を吐き、すぐにベッドを降りる。 ノラもゆっくりと体を伸ばしながら言った。 「お姉さん、どこへ行っていたんですか?もう戻ってこないのかと思いましたよ。 僕、今日はこのままここで寝よう
病室内― 西也は何度もあくびをしながら、天井を見つめた。 若子はどこへ行ったんだ?なんでこんなに帰りが遅い? 花のやつ、一体どこに連れて行ったんだ? 考えれば考えるほど、不安になってくる。 ―もしかして、藤沢に会いに行ったのか? もしそうなら、修は現場で起きたことを彼女に話したのだろうか? そして、若子はそれを信じるのか......? 胸の奥がざわざわと騒ぎ、心臓が無駄に速く鼓動する。 部屋の隅では、付き添いの介護士がうつらうつらと居眠りをしていた。 西也はソファの上にあるスマホに目を向ける。 ―電話をかけよう。 そう決意し、そっとベッドから降りようとした、その瞬間― 「お兄さん、動いちゃダメですよ?」 不意に腕を掴まれた。 西也が振り向くと、ノラがにこやかに微笑んでいた。 「僕、お姉さんに言いつけちゃいますよ?」 「このクソガキ......!」 西也は怒りを押し殺しながら、低く唸った。 その瞬間― バッ! ドアのそばでうたた寝していた介護士が、突然目を覚まし、警戒態勢に入った。 「はい、じゃあ離しますね」 ノラは素直に手を放す。 「でも、お兄さんがベッドから降りたら、お姉さんにすぐ報告しますよ?」 「......!」 「僕、お姉さんにとって一番大切な弟だから。もちろん、お姉さんの味方です」 ノラの頑固そうな表情を見て、西也は心底イライラした。 「......俺はただ、トイレに行きたいだけだ。お前もそろそろ行きたくなるだろ?」 「僕は大丈夫ですよ。水をあまり飲んでないので、まだ我慢できます」 ノラは大きくあくびをしながら、のんびりとした口調で言った。 「それより、そろそろ寝ましょう。誰かと同じベッドで寝ることなんて滅多にないですし、ましてや今日できたばかりの『新しいお兄さん』と一緒なんて、不思議な気分ですね」 そう言うと、彼は突然長い腕を伸ばし― 西也の体をぎゅっと抱きしめた。 「......っ!?」 西也の眉間にピキッと青筋が浮かぶ。 「おい、気持ち悪いぞ!離せ!」 「やだなぁ、お兄さんってば。こうしてると安心するんですよ」 ノラは意地悪そうにニヤリと笑いながら、さらに強く抱きついてくる。 ―こいつ、わざとやっ
若子と西也が従兄妹だという事実― それを、どうやって彼女に伝えればいいのか、花には分からなかった。 今、若子は藤沢家の人間として生きている。 だが、もし彼女が自分の本当の血筋を知ったら? 自分が村崎家の私生児であり、しかも従兄と結婚してしまったと知ったら―? そんな未来、花は想像したくもなかった。 「花?どうしたの?」 若子は不思議そうに尋ねた。 彼女が疑問に思うのも無理はない。 つい最近まで、花はむしろ二人を応援する立場だったのに― 今はまるで、彼女たちの結婚を否定するような態度を取っているのだから。 ―何があったの? 若子はそう思って当然だった。 「いや......ただ、もしお兄ちゃんが離婚しないって言い続けたら、本当にずっとこのままなの?いずれ、本当の夫婦になるつもり?」 花の声は、どこか硬かった。 考えれば考えるほど、気が遠くなりそうだ。 最初は、兄が若子を好きなことを微笑ましく見ていた。 彼が彼女を見つめる目には、愛が溢れていて、それが純粋に「尊い」と思っていた。 でも今は、兄妹になっちゃったせいで、もう見てられない...... 同じ出来事なのに、立場が変わるだけでこんなにも印象が違うなんて、なんかもうツラい。 「花......」 若子は少し考え込んだあと、小さく息を吐いた。 「もし私と西也が離婚したら、彼は傷つくわ。それなら、この結婚が彼を幸せにするなら......私はそれでいい。 ちゃんと話してあるの。彼は私の意思を尊重してくれるって。 それに、記憶が戻れば、彼も自分で答えを出すでしょう」 「......じゃあ、もし記憶が戻っても、彼が『お前と一緒にいたい』って言ったら?」 花の問いかけに、若子は驚いたように彼女を見つめた。 「花......あなた、本当に私と西也を別れさせたいの?」 「えっ......」 しまった― 花は自分の焦りが表に出てしまったことに気づき、すぐに誤魔化すように言う。 「別に......ただ、あなたが幸せじゃないんじゃないかって思って。だって、あなたはお兄ちゃんを愛していないでしょ?そんな人と結婚生活を続けても、苦しいだけじゃない?」 ―本当は、もっと別の理由があるのに。 でも、それを言うわけにはいか
雨は止んでいた。 それでも、車の中で若子はずっと泣き続けていた。 胸の奥から込み上げる悲しみは、いくら抑えようとしても止まらなかった。 花は何度も慰めようとしたが、彼女の涙は止まらない。 「もう泣かないで。お腹の子によくないわ」 「......分かってる。でも......どうしても止まらないの」 「若子、気持ちは分かる。でも、言うべきことは全部言ったでしょ?あとは彼がどう思うかだけよ。それはあなたがどうこうできる問題じゃない。 でも、あなた自身のことは、あなたが決められるわ。明日は手術なんだから、まず目の前のことをしっかり終わらせましょう。未来のことは、その後に考えればいい。今、一番大切なのはお腹の赤ちゃんよ」 若子は震える手で涙を拭い、深く息をついた。 「......分かった。ありがとう、花。本当に感謝してる。わざわざこんな遠くまで付き合ってくれて......正直、あなたが修を嫌ってると思ってたから、私が彼に会うのを反対するかと思ってた。でも、最後に助けてくれたのは、あなたなのね」 花は笑って肩をすくめた。 「だって、私たち友達でしょ?あなたがこんなに辛そうなのに、放っておけるわけないじゃない。それに、私は藤沢のことは好きじゃないけど、あなたのことは大好きだから」 「......ありがとう、花」 若子は心から感謝した。 まさか、この一番大事な瞬間を助けてくれたのが花だったなんて。 修に会えなかったのは残念だったけど― 少なくとも、彼に伝えるべきことは全部伝えた。 ただ一つ、修が何も返事をしてくれなかったことだけが、心に重くのしかかる。 「ねえ、若子。ちょっと聞いてもいい?」 「何?」 「あなたとお兄ちゃんは『偽装結婚』してるわよね?もしお兄ちゃんが記憶を取り戻して、あなたと離婚したら......藤沢とやり直すつもりはある?」 花は率直に尋ねた。 正直、今の若子を見ていると、簡単に「絶対にない」とは言い切れない気がしていた。 以前は、彼女が修と復縁するなんて考えもしなかった。 でも今の彼女を見ていると、その可能性もゼロではないと思えてしまう。 ―人の心は、いつだって変わるものだから。 若子は少しの間、沈黙した。 花は気を遣い、「答えたくないなら無理に言わなくて
「修......私はあなたを恨んだこともあるし、あなたに失望したこともある。でも、今はただ、あなたに会いたい。それだけでいいの。お願い、少しだけでも会って。せめて......この子に触れてほしいの」 若子は必死に訴えた。 しかし― 病室の中は、静まり返ったままだった。 若子の声が届いているはずなのに、修は何の反応も示さない。 その沈黙に、若子は焦りを覚えた。 彼女は思わず立ち上がろうとする。 「待って」 花がすぐに肩を押さえ、小さな声で制止した。 「座って。どんな話でも、座ったままでできるでしょう?」 若子は、花と約束していた―感情的にならず、彼女の言うことを聞くと。 仕方なく、彼女は再び車椅子に座り直した。 「修......お願い。会いたくないなら、それでもいい。だけど、一言だけでも返事をして。あなたはもう、お父さんなのよ。 あなたが今、これを知ってどれだけ怒っているか、想像できるよ。だって、あなたの子なのに、私はずっと隠してきたんだから......でも、今なら分かる。私は間違ってた。 修......お願い、声を聞かせて。どんなに私を恨んでもいい。でも、子どもには罪はないわ。 本当にごめんなさい。もっと早く言うべきだった。でも、約束する。子どもが生まれたら、最初にあなたが受け取るのよ。あなたはずっと、この子の父親よ。この事実は、誰にも変えられない。 私たちが離婚しても、子どもは二人で育てるわ。この子が『パパ』と呼ぶのは、あなたしかいない」 若子の涙が次々とこぼれ落ちる。 それを見た花は、すぐにバッグからティッシュを取り出し、そっと彼女の涙を拭った。 「若子、落ち着いて。約束したでしょ?深呼吸して」 花は彼女が泣き崩れることを心配していた。 このままでは、お腹の子にも影響が出てしまう。 それに、明日は手術だ。 花は、自分の判断で若子をここへ連れてきた。 もし彼女の体調が悪くなれば、その責任は自分にある。 若子はティッシュを受け取り、何度か深呼吸を繰り返した。 「......花、修はどうして何も言わないの?」 「たぶん......考えてるのよ。どう答えればいいのか、分からないのかもしれない」 「......」 「若子、今日は帰ろう?」 花は静かに提案
花は若子を乗せ、指定された住所へと車を走らせた。 そこは、高級なプライベート病院だった。 すでに面会時間は過ぎており、若子が修の病室に行こうとすると、看護師に止められてしまう。 仕方なく、若子は光莉に電話をかけた。 すると、光莉がすぐに病院へ連絡を入れ、若子が通れるように手配してくれた。 看護師は電話を受けた後、すぐに通行を許可する。 こうして、ようやく若子は修の病室の前までたどり着いた。 ―深呼吸。 彼の前に立つだけなのに、心臓が激しく鳴る。 そんな若子の緊張した様子を見て、花が言った。 「代わりにノックしようか?」 「いいえ、自分でやるわ」 若子は小さく息を吐き、花がそっと車椅子を押し出す。 そして、勇気を振り絞り、扉を軽くノックした。 ―修は、この扉の向こうにいる。 すぐそこに。 ドクン、ドクン、と胸が高鳴る。 しかし― 中から、何の反応もない。 彼はすでに眠っているのだろうか? 今、邪魔するべきではない? でも、ここまで来て、何もせずに帰るなんてできるわけがない。 「若子、大丈夫?無理しないで、やっぱり戻る?」 花が心配そうに問いかける。 「......ううん」 若子は首を振り、目を閉じて感情を整える。 そして、そっと口を開いた。 「修......私よ」 ―彼に、私の声が届くだろうか? 「入ってもいい?話したいことがあるの」 だが、部屋の中は沈黙を保ったまま。 やはり、彼は私に会いたくないのだろうか。 そうでなければ、こんなにも頑なに扉を閉ざすはずがない。 若子の胸に、不安が広がっていく。 私がここに来たこと、彼は怒ってる? 彼はもう私のことなんか見たくもない? 会うまでは、どんなに拒絶されても構わないと思っていた。 だけど、今、ほんの一枚の扉を隔てた距離になって、怖くなった。 心の中には、相反する二つの感情が渦巻いている。一つは、どうしても彼に会いたいという強い想い。もう一つは、彼の世界を乱してしまうのではないかという不安。 「修......私をどれだけ恨んでいても仕方ない。何も弁解しない。ただ......謝りたかった。 許してほしいなんて思ってない。でも、どうしても言わせてほしいの。 修...
花は車を走らせ、若子を乗せて病院へ向かっていた。 若子は何度も時間を確認し、焦りを募らせる。 「花、もう少しスピード出せない?」 「若子、気持ちは分かるけど、落ち着いて。ここ、制限速度があるの。もしスピード違反で警察に止められたら、もっと時間がかかるわよ?」 若子は深く息を吸い、無理やり気持ちを落ち着かせようとした。 もうすぐ修に会える。 それなのに、心がざわついて仕方ない。 そのとき― 「また雨が降ってきたわね」 花はフロントガラスに落ちる雨粒を見て、ワイパーを作動させた。 若子も窓の外を眺める。 雨粒が窓を伝う様子を見ていると、なぜか胸が締めつけられるような気分になった。 ―嫌な予感がする。 不安が、静かに胸を締めつける。 「若子、彼に会ったら、何を話すつもり?」 花がふと尋ねた。 若子は小さく首を振る。 「......分からない。ただ、今はとにかく彼に会いたいの。そのあとで、まず謝ろうと思う」 「でも、もし彼が許してくれなかったら?それどころか、会うことすら拒否されたら?」 「......」 若子は少しだけ考え込み、ぽつりと答えた。 「......それなら、扉の外からでも話すわ」 何があっても、彼に伝えなければならない。 彼女は妊娠していることを― どんな形でもいい。 修にこの事実を伝えるのは、彼女自身でなければならない。 もし誰か他の人から聞かされたら、修はどんな気持ちになるだろう? 怒り?失望?絶望? それなら、怒りをぶつける相手が目の前にいたほうがいい。 彼女が直接伝え、直接その怒りを受け止めるべきだ。 花はそれ以上何も言わず、車を走らせ続けた。 目的地までは、あと少し。 ナビの表示では、あと10分ほどで到着するはずだった。 ―だが、次の瞬間。 雨の中、突然人影が横切る。 「っ......!」 花はすぐさまブレーキを踏み込んだ。 キィィィィッ― 急ブレーキの衝撃で、若子の体がぐらりと揺れる。 だが、シートベルトのおかげで大事には至らなかった。 「何があったの?」 考え事をしていた若子は、状況が分からず花に尋ねる。 「若子、ここで待ってて。絶対に動かないで」 花はそう言うと、シートベルト
西也とノラはベッドに横たわったまま、ずっと若子の帰りを待っていた。 しかし、いくら待っても戻ってこない。 若子は一体どこに行ったんだ? 西也はスマホを手に取ろうとしたが、それはソファの上に置きっぱなしだった。 彼が起き上がろうとした瞬間― 「起きないでください」 付き添いの介護士が、厳しい口調で言い放った。 西也は眉をひそめる。 「......俺の給料で働いてるんだぞ。俺の言うことを聞け」 だが、介護士はまったく動じなかった。 「今は、奥さまが私に給料を払っています」 若子は出かける前に、すでに念押ししていたのだ。 西也は少し考え、交渉に切り替える。 「分かった。じゃあ、俺を起こしてくれ。ソファの上に財布がある。中の金、全部やる。若子には内緒だ、バレないように―」 「バレますよ」 ノラが布団をしっかり握りしめながら、真顔で言った。 「起き上がったら、お姉さんに報告します。介護士さんと共謀したら、それも報告します」 「お前......本気か?」 西也は信じられないという顔をする。 「このままずっとベッドに寝てるつもりか?」 ノラは唇を尖らせ、のんびりと言った。 「寝てるの、別に悪くないですよ?ベッドはふかふかだし、VIP病室って最高ですね。家のベッドより全然快適ですよ。それに、西也お兄さんも一緒ですし」 「お前......!」 西也は怒りで拳を握りしめた。 こいつ、本当にムカつく......! だが、若子の怒った顔を思い出し、ぐっとこらえるしかなかった。 彼女の本気度は冗談じゃない。 介護士は穏やかに言う。 「お二人とも、大人しく寝ていてくださいね」 西也は深いため息をつき、天井をじっと見つめた。 ノラはそんな彼を見て、ニヤリと笑う。 「やっぱり、お姉さんは先を読んでたんですね」 「何が嬉しいんだ?」 西也はイライラしながら言い返す。 「全部お前のせいだろ?余計なことをしたせいで、こんなことになってるんだぞ!」 「僕のせい?」ノラは無邪気な顔で首を傾げた。 「何もしてませんよ?」 「舌を噛んだのは誰だ?」 「......ああ、そのことですか」 ノラはあっさりと答える。 「でも、西也お兄さんだって頭痛の演技してた
「明日、手術を受けるの。お医者さんに、無理な移動はしないようにって言われたわ。お腹の子に影響があったら、大変だから......」 若子は心配そうに呟く。 本当なら、修に会いに行きたい。どんなことをしてでも、彼に会いたい。 でも、彼女のお腹には修の子どもがいる。 だからこそ、無謀な行動はできなかった。 「お兄ちゃんは、今日藤沢に会いに行こうとしていたことを知ってるの?」 花が問いかけると、若子は頷いた。 「知ってるわ。昨日の夜に話したの。でも、お医者さんに止められちゃって......」 「なるほどね......」 花はちらりと目を細め、何か考え込むように視線を動かした。 ......なんだか、ちょっと引っかかるな。 若子は考えれば考えるほど、気持ちが沈んでいく。 「明日の手術......無事に終わるといいけど......でも、それよりも修に会いたい......せめて、電話に出てくれれば......」 「若子、藤沢が今どこにいるか、分かるのよね?」 花の問いかけに、若子は反射的に頷いた。 「ええ、分かるわ」 「じゃあ、私が車を出して連れて行ってあげようか?」 「本当!?」 若子の顔が一瞬で輝く。 でも、すぐに冷静になり、心配そうにお腹を押さえた。 「でも、お腹の子どもが......お医者さんが―」 「それは、お医者さんが『万が一』を心配してるからでしょ?」 花は若子の言葉を遮り、説得するように言う。 「車椅子に乗せて、移動は私が全部やるから。車に乗るのも、降りるのも、私がちゃんとサポートするわ。あなたは一切動かないで、ただ座ってるだけでいいの。そうすれば、問題ないんじゃない?」 若子は花の言葉を聞いて、ぐらりと心が揺れた。 「......それなら、大丈夫かもしれない......」 でも、少し迷いが残る。 「念のため、お医者さんに確認したほうが......」 「お医者さんに聞いたら、『ダメ』って言われるに決まってるわよ。慎重な人たちなんだから。もし問題なくても、絶対に行かせてくれないわ」 花の言葉を聞いた瞬間、若子の心は決まった。 「......そうね。分かった、花、お願い。連れて行って」 ―ついに、会いに行く理由を見つけた。 もう迷わない。どん