ツアー公演を目前に控えたその時、ダンスグループは突然、私のヒロイン資格を取り下げた。納得なんてできるはずもない。私は真相を聞くために劇場へ向かおうとしたが、焦りと混乱で足を踏み外し、階段から転げ落ちた。全身が痛みに悲鳴を上げる中、必死でスマホを取り出し、119番をダイヤルしようとしたその瞬間――通知が一件、目に飛び込んできた。【紅原ダンスグループ::新ヒロイン@成瀬奈緒(なりせ なお)、そしてパトロン@北条和真(ほくじょう かずま)様、ようこそ♡】そこに並ぶのは、満面の笑みを浮かべた二人の写真。写っていたのは、七年間、誰にも明かさずに結婚していた私の夫、そして、その腕に大事そうに抱かれているのは、彼が甘やかしている愛人――成瀬奈緒の姿だった。和真は奈緒の腰を引き寄せ、彼女の頬に軽くキスを落としていた。奈緒は和真の首に腕を絡めて、頬を赤らめながら、まるで「勝者」のような笑顔を浮かべていた。私は唇の端から流れた血を拭い、無言で結婚証明書の写真をコメント欄に投稿した。【貴団の新作タイトルは 「下劣な裏切り者たち」ですか?】ほどなくして、和真から電話がかかってきた。「千夏、何やってるんだ。何度言えば分かる?俺と奈緒は、ただの演出だって」私は鼻をすすりながら訊いた。「和真、どうして私のプリマ資格を奪ったの?」少し沈黙があって、彼が呟くように言った。「お前、紅原にいるのか?」そのあと、まるで他人事のように――「奈緒がね、このツアーの主演を誕生日プレゼントに欲しいって言っててさ。まさか、それがお前の役だったとは思わなかったよ。とりあえずネットで説明してくれ。証明書は合成だって言えば済む」……笑えてきた。私がどこで働いてるかも覚えてないのに、成瀬さんの「欲しいもの」だけはちゃんと覚えてるんだ。「それで?なんで私が結婚証明書を偽造したなんて言わなきゃいけないの?」「俺のファンってことにすればいい」「和真、私のこと何だと思ってるの?」電話の向こうで、彼は深くため息をついた。「千夏、俺たちもう結婚して七年だ。もう夫婦って感じじゃないか。奈緒はまだ若いんだし、ムキになるなよ」……彼は忘れているらしい。私が大学を卒業する前に彼と結婚したことを。たしかに七年経ったけど、私は奈緒より「
ひとつのマスクが投げられた。「彼女の口を塞げ、騒がせるな」私の手首は強く掴まれ、足は痛みで動けず、口は無理やり塞がれて、涙を流すことしかできなかった。ただ、私は目の前で和真が私の携帯を手に取り、私のアカウントにログインして、謝罪と弁明のメッセージを発信しているのを見守るしかなかった。「パスワードは変えた。認証用の電話番号も俺のにした。しばらくはおとなしくしてろ、面倒を起こすな」和真は顔を上げ、私の顔を見て少し驚いたように、近づいてきてボディーガードを押しのけ、少し怒ったように彼に睨んだ。「そんな力入れなくていいだろ」そして、私の手首を揉みながら言った。「痛いか?素直にしてればよかったのに」私は携帯を取り戻し、震える手でツイッターを開いた。【ダンサー千夏:すみません、@紅原ダンスグループのコメント欄での発言についてお詫び申し上げます。和真さんと結婚したわけではなく、彼のファンとしてちょっとした私心を抱いていました。また、@成瀬奈緒さん、@北条和真さんにご迷惑をおかけしたことをお詫びします】指が震え、コメント欄を開ける気力もなかった。【@ダンサー千夏、恥を知れ】【@ダンサー千夏、画面から愛人願望が滲み出てるわ】【@ダンサー千夏、ダンサーの名を汚したクズ、ダンス界から消えろ!】……再び和真が私の携帯を取り上げた。「見んな」私は唇を震わせながら、やっとのことで声を絞り出した。「和真、これがあなたの望んでいた結果なの?」彼は顔をそらし、少し不満げな口調で言った。「ネット民の記憶なんてすぐ消える。そのうちこっちで世論誘導させるから、お前はその間、携帯を見なきゃいい」私はゆっくりと首を振った。視線は虚ろで焦点も合わない。「和真、あなたのせいで、私はめちゃくちゃになったのよ」彼の表情は見えなかった。ただ、少し苛立った声が聞こえた。「だから言っただろ、処理はしてやるから。何を騒ぐんだよ?お前が勝手なことしなけりゃ、こんな面倒になることなかったのに。自分でまいた種だぞ?俺がわざとお前を炎上させたとしても、全部自業自得なんだよ!」私の耳がひどく鳴り響き、ただ必死に苦笑を浮かべるしかなかった。「和真、離婚しよう」彼は一瞬笑った気がした。優しげで、どこか呆れたような声で答えた。「今は感情的
夜の九時、和真が果物の袋を手に持ってやってきた。「千夏、チェリーを買ってきたよ、今食べるか?」私は携帯を彼の前に投げて、画面には奈緒の新しい投稿が表示されていた。【酸っぱくて甘いさくらんぼが食べたいって言ったのに、彼ったらチェリーを買ってきたの。笑える】「奈緒がいらないなら、私に施してくれるってわけ?」和真は眉をひそめて言った。「そんなこと言わないで……」彼は近づき、優しく私の腰に腕を回して言った。「久しぶりにやらなかったから、怒ってるの?」私は力いっぱい彼を押し返し、その場で何度もえずいてみせた。和真の顔が一気に険しくなった。「千夏、いい加減にしろ、調子に乗るなよ」「調子に乗るって?」私は胸を押さえ、ぽろぽろ涙を流しながら言った。「あなた、私がどれだけ罵倒の電話を受けたか、知ってる?私がどれだけ多くのダンスグループから除名されたか、わかってる?私のキャリアはこれで終わりよ!和真、私は一体何を間違えたっていうのよ?」私は元々、おっとりした性格だった。はっきり言えば、都合よく扱われやすいタイプ。和真は何度も私の耳たぶを指でつまみながら、甘い声でこう言っていた。「千夏、お前はこんなに優しくて、もし俺がいなかったらどうするんだ?」私は一度も和真が私を捨てるとは思わなかった。あの頃、両親が罪を着せられ自殺し、私は周囲から疎まれていた。泥沼のような現実から救い上げてくれたのは和真だった。彼は私のために家族と喧嘩をし、雨の中で長く膝をついていた姿、今でも覚えている。私を連れて、辛い過去から離れ、新しい街で一からのスタートを切ってくれた。あんな惨めで卑屈な私を、和真は決して見捨てなかった。一番苦しい時期を一緒に乗り越えてきたのに、ようやく楽になった今になって、彼の心は変わってしまった。「離婚しよう」私は目を閉じて言った。「私に少しだけでも体面を残して」「……千夏」彼は眉間を揉みながら、少し疲れた様子で言った。「今さら罵られたぐらいで、何をそんなに大げさに」私は突然目を見開き、信じられない様子で彼を見つめた。「何て言ったの?」和真は唇をかみしめて、陰鬱な顔で言った。「お前の両親が自殺したときなんて、全国中が叩いてたじゃん……」「出ていけ!」私はソファに置いてあったクッションを
その人の言葉は少し意味不明だったが、少なくとも態度を示していた。私はホッと一息ついた。その後数日、私は荷物をまとめながら、必要な書類を手配していた。私の持ち物はほとんどなく、せいぜいスーツケース一つに収まる程度だ。和真が買ったものには一切手を付けなかった。それは私が高潔なわけでも、彼に未練があるわけでもない。彼は浮気をして、私をひどく傷つけた。でも、私が家族を失い、社会から孤立されて、死んだ両親の代わりに無実の子どもたちの命を奪った罪で償うように迫られたとき、和真だけが私を助けてくれた。彼がどうやって父親を説得したのかはわからないが、あの雨の夜に長時間膝をついて頼んだ後、彼は家から追い出され、同時にネット上で私への非難も消えた。彼は私に改名を勧め、新しい人生を与えてくれた。彼は確かに、落ち込んでいる私を受け止め、最も苦しい時期を一緒に乗り越えてくれた。これだけのことがあって、私は彼を恨むことができない。今、私はただ、良い形で関係を終わらせたいだけだ。冷戦が三日続いた後、和真がまた家にやって来た。「冷静になって、気持ちの整理ができたか?」私はうなずいて、非常に落ち着いて答えた。「ええ、できたよ」和真は私の言葉を誤解したようで、眉を吊り上げて高慢な表情を浮かべた。「それならよかった、自分の立場をわきまえろ。大人しくしてれば、ずっと養ってやるつもりだ。もし俺に反抗するようなら、お前から何もかも奪うぞ」和真は脅しの言葉を並べたが、私は反応を示さなかったため、彼の目に一瞬の戸惑いが浮かんだ。「言いたいことは済んだか?」私は離婚協議書をテーブルに置き、冷静に言った。「済んだなら、サインして」和真はその紙をじっと見つめ、黒い瞳が徐々に冷たくなった。「千夏、お前は最初から俺と奈緒の関係を知っていただろう、なぜあの時のように、何もなかったような振る舞いをしないんだ?知らないふりをして、安心して北条和真の妻として安寧に暮らしていればよかっただろう?彼女が持っているものはお前にも与えるし、彼女が持っていないものだって、お前に与えられる。お前がそんなにも欲深い女だなんて、本当がっかりだ」私は呆然と和真を見つめ、その言葉が彼の口から出てきたことに驚き、信じられなかった。今でも覚えて
和真がなぜこんなことをするのか、その目的が全く分からなかった。でも、彼に応じる以外、他に選択肢はなかった。彼が送ってくれたドレスに着替え、運転手に送られてディナー会場に到着したとき、私はまだ彼の冷徹さを甘く見ていたことに気づいた。これ、全然プライベートなディナーじゃない!各メディアの記者たちが赤絨毯の両側を埋め尽くし、花束と横断幕を持った追っかけの女の子たちが、アイドルの名前を叫びながら群がっていた。ぼんやりしている間に、すでに私を見つけた人がいた。「見て!あれ、偽装結婚女じゃない?」和真に強制的に謝罪文を投稿されたあの日から、私は「偽装結婚女」というとして世間に叩かれ続けていた。画面いっぱいに並ぶ罵詈雑言は見慣れていたけれど、こうして耳元で直接囁かれる嘲笑の方が、何倍も刺さった。「柊木千夏!よくこんな顔して出てこれるわね?」「見て、彼女のドレス!奈緒ちゃんが白着てるの見て、自分も白?超あざとくない?」「奈緒ちゃんと同じ土俵に立つつもり?鏡見ろっての!」「そうよ、美人の奈緒ちゃんが着てるのは次季のハイブランド、でも彼女のドレス、二年前の型じゃん」悪意に満ちた嘲笑がどんどん私の耳に入ってくる。思わず背を向けて逃げ出そうとしたが、隣にいた「スタッフ」に腕を掴まれた。顔を上げると、その人物は和真のボディガードの剛志だった。彼はにっこりと笑い、目に殺気を浮かべて言った。「柊木さん、北条様からのご命令です。必ず中に入っていただきます」彼は奈緒の親戚で、先日病院で私の腕を強く引っ張り、その結果私の腕には大きなあざが残った。和真はそれを見ていたのに、ただ軽く注意しただけで済ませた。そして今日、またこの男を私に当てた。かつて私を大切に扱ってくれていた和真は、もうどこにもいない。私は心の中で切なくて苦しい気持ちになりながらも、どうすることもできず、半ば引きずられるように進んだ。「見て、柊木の歩き方、まるで足が不自由な老いぼれのロバみたいじゃない?」「レッドカーペットに乗っかろうとして、警備員に止められてやんの」「柊木千夏、ゴミ!業界の毒!」鋭い罵声とともに、突然ペットボトルが飛んできた。避けようとしたが、剛志はわざと私の前に立ちはだかり、さらにはペットボトルの方向に押しやった。「き
「おやおや、これはこれは、ダンススターの柊木千夏さんじゃないですか。せっかくお越しになったんですし、一曲踊ってから帰ったらいかがです?」目の前の男には見覚えがない。でも、誰が仕組んだことかなんて、考えるまでもない。どうせ和真が、私を辱めるために呼んだんだろう。「どいて」私は顔をしかめ、冷え切った声で言った。「おっと、気が強いねぇ」男はまるで商品でも値踏みするような目で私をじろじろと見てきた。「まさか、まだ自分がバレエ界の新星だとでも思ってるの?業界から干されてるって話、聞いてないの?」息が止まり、背筋が凍るような感覚に襲われた。「和真……彼の言ってること、ほんとなの?」和真は手にしたワイングラスを指先で回しながら、まるで他人を見るような冷たい目を向けてきた。「これは、お前がやったことへの罰だ」「私は……何をしたっていうの?あんたが私の将来を潰してまで罰するほどのことって何?答えてよ、和真!」思わず声を荒げて問い詰めた。和真は唇を強く引き結び、不快そうに言い放った。「自分のしたこと、心当たりくらいあるだろ」そのとき、甲高い笑い声が横から響いた。「千夏先輩、私、今夜ステージに立つの。最近あんまり評判よくないんでしょ?せっかくだから、先輩も一曲どうなの?ここには業界のお偉いさんたちもたくさん来てるし、もしかしたら気に入ってもらえるかもよ?」私は無言で奈緒をじっと見つめた。その視線に、彼女の笑顔は徐々に引きつっていった。「和真さん……千夏先輩、なんかこわいよぉ……」奈緒は和真の後ろに身を隠すようにしながら、甘えるような声を出した。和真は軽く彼女の手を叩きながら、私をまっすぐに見据えた。「千夏。お前、大物に取り入ろうとしてるんだろ?今夜は大手の芸能事務所の社長が何人も来てるんだ。こんなチャンス、逃してどうする?」私は思わず息を呑んだ。目の前の和真が、知らない人のように見えた。……いや、もうとっくに知らない人になっていたのかもしれない。彼が起業したばかりの頃は、実家が貧しくてどうしようもなかった。資金が足りず、このままではチャンスを逃してしまうと焦っていた。だから私は、彼に内緒でナイトクラブで踊ってお金を稼いでいた。あれは手っ取り早くて、確実な方法だった。それを知った和真は、自分
私は和真と三歩の距離を置いて立っていた。彼は近づこうとせず、私もまた踏み出す気にはなれなかった。私は分かっていた。彼は私が折れるのを待っている。これまで何度も言い争ってきたが、最初に屈したのはいつも私だった。それは彼が正しいからではない。ただ、私はあの暗闇の中で彼に救われたことを忘れられず、自然と彼の前では一段低い立場に立ってしまっていた。だから、彼の八つ当たりさえも受け入れてきた。彼が奈緒と何度も不倫を続け、ついには彼女のために家まで買って囲った時でさえ、私はしばらくの間、見て見ぬふりをした。でも今日だけは、もう黙っていられなかった。私は再び問い詰めた。「酒を飲んで謝れって……それ、あなたの意思なの?」和真は私の謝罪を待ち続けたが、それが聞けなかったことで怒りを露わにした。「その通りだ」私は苦笑して、ウイスキーの入ったグラスを見つめながら、少しぼんやりとした。彼が、私がアルコールにアレルギーがあることを知っていながらも、奈緒のために私に酒を無理やり飲ませようとしていた。あの頃、私が少しでも傷つくことを許さなかった少年は、もうどこにもいなかった。その時、何かが壊れる音が聞こえたような気がした。それは、私と和真の十年間、積み重ねたすべてが壊れた音だった。私はふと「覆水盆に返らず」という言葉を思い浮かべた。「分かった」私はグラスを持ち上げ、和真が何か言いかけるその瞬間に、それを一気に飲み干した。辛いアルコールが喉を焼くように通り、私は咳き込んで顔が真っ赤になった。「すごい酒量だな!もう一杯どうだ?」誰かがまた酒を注ごうとしたのを、和真が「もういい」と一喝して制した。彼は私に一歩近づこうとしたが、奈緒が彼の腕を引き寄せて、彼を阻止した。「和真さん、千夏先輩がすでに誠意を見せてくれていると思うけど、もう十分じゃない?それなら、あとで私がステージに上がる時、一緒に上がってもらうのはどうかな?」奈緒は私のことを気遣ってるふりをして、無邪気な笑みを向けてきた。「ただ、千夏先輩にはちょっと苦しい思いをさせるかもしれないけど、私のバックダンサーをしてくれないかな?」「必要ない」アルコールがまだ胃の中で燃えていた。皮膚が熱を持ち始めているのがはっきりわかった。「成瀬さん、その
離婚協議書があちこちに散らばる中、誰かがそれを拾い上げて目を通した。「これ、よくできてるな、北条社長、まさか本物じゃないでしょうね?」和真は淡々とした口調で言った。「ただの古臭い手段に過ぎない」彼はずっと私がただのわがままだと思っていた。どうせ離れていくはずがないと、絶対の自信を持っていた。私のすべての反抗や必死の訴えは、和真にとってはただのわがままでしかなかった。そして今、こちらを見るその目にも、隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。「千夏、いい加減にしろよ、みっともない真似はやめとけ」心の底から疲れが押し寄せた。身体も、心も、限界だった。花は一度散れば、それで終わりだ。たとえもう一度咲いたとしても、それはもう同じ花ではない。人間も同じだ。私は振り返り、立ち去ろうとした。カシャン――和真が持っていた酒杯が地面に落ちて、床に叩きつけられた。「千夏、よく考えろ。ここを出て、お前を受け入れてくれる奴なんていると思ってるのか?お前を欲しがる男なんて、どこにいる?」自分の顔がどんな表情をしているのかはわからなかったが、きっとひどい顔をしていたのだろう。騒がしかった周囲の人々が、いつの間にか静まり返っていた。視界がかすみ、目の前の和真の顔が歪み、まるで悪魔のように揺らめいた。魂がまた、深く沈んでいくのを感じた。前回は和真が私を受け止めてくれた。けれど、今回は彼自身が私を突き落とした。私は唇を強く噛み締め、血の味が口いっぱいに広がった。「和真さん、見て、これって千夏先輩が使ったグラスよね?でもお酒の匂いがしないんだけど?」酒は和真の部下が彼の目の前で注いだもので、奈緒の告発は最初から稚拙な嘘だった。それなのに、和真はあっさり信じ込んだ。まるで言い訳を見つけたかのように、彼は歩み寄って私の手首を掴んだ。「......千夏、お前には本当に失望した。奈緒ちゃんに謝れ」和真の声は冷たく、そしてひどくうんざりした響きだった。アルコールの副作用が私の免疫系を激しく蝕み、目の前には何重もの残像が浮かび始めていた。必死に足を動かし、逃げ出すことしか考えられなかった。しかし、和真は容赦なく腕を強く引いた。腕に痛みが走り、私の力では到底抗えなかった。痛みに思わず声を上げた瞬間、和真
私の目的は、最初からはっきりしていた。両親を死に追いやった連中に、世間から唾棄される痛みを味あわせること。稲葉グループの事件からこれだけ時間が経った今、覚えている人なんてほんの一握り。いきなり証拠映像を出しても、話題になる前に潰される可能性が高い。でも、和真は私を屈服させようとして、わざと世論を操って事件を再燃させた。私の希望を根こそぎ叩き潰すために、あらかじめ世論操作の準備までしていたのだ。だから私は、その力を逆手に取った。注目が最高潮に達したその瞬間に、最大の一撃を加えた。隼人の素早い判断と実行力のおかげで、結婚式はあの小さなハプニングに邪魔されることなく、無事に続行された。一方、和真と奈緒は警備員に退場を促され、その後押し寄せた記者たちに完全に囲まれていた。和真は呆然とマイクの前に立ち、しばらくしてから震える声でつぶやいた。「もう……後戻りはできないのか……」世論の力は想像以上に強かった。怒りに燃える大衆の声、私の手元にある証拠、そして隼人の力が合わさり、ついに真実が世に明らかになった。それからわずか一ヶ月足らずで、関係者たちは次々に逮捕され、責任を追及された。北条家は真っ先に破産宣告を受け、和真の両親も刑務所送りに。残りの人生を塀の中で過ごすことになる。ネットでは、私の両親のことを悼む声があふれ、過去の善行が次々と掘り起こされた。人々が自発的に追悼集会を開いてくれる中、ようやく私と隼人は両親の遺骨をきちんと改葬することができた。墓地を後にしようとしたその時、突然、人影が車の前に飛び出してきた。……和真だった。たった一ヶ月会わなかっただけなのに、もはや別人のように変わり果てていた。どう表現すればいいのだろう。伸び放題の髭、目の下の濃いクマ、青白くやつれた顔、ボサボサの髪、しわだらけの服。和真は、常に身なりに気を使う男だった。あの頃、私と「駆け落ち」して生活が苦しかった時ですら、こんなに落ちぶれた姿は一度も見せなかった。彼はボンネットを叩きながら懇願した。「千夏、頼む。降りてくれ。話があるんだ」隼人が真剣な表情で聞いた。「降りるか?」私は首を横に振り、窓を開けた。「ここで話して」和真は一瞬も迷わず私のそばに回ってきた。「千夏、俺が間違ってた。本当に、全部間違っ
その後の数日間、私は静かにネットの動きを見守っていた。予想どおり、いくつかのメディアが稲葉グループの汚職事件を取り上げ始めた。インフルエンサーの後押しもあって、この古い事件が突如表舞台に引っ張り出され、しばらくのあいだ各プラットフォームのトップニュースを独占することになった。和真から脅しのメッセージは来なかった。たぶん、私が彼の意図をちゃんとわかっていると思ってるんだろう。きっとあいかわらず、上から目線で私が屈して謝罪するのを待っているつもりなんだ。でも今回は、あえてその期待を裏切って、結婚式当日まで一切連絡を取らないことにした。もちろん、和真が諦めるはずがなかった。なんと奈緒を連れて、堂々と私たちの結婚式に姿を現したのだ。隼人が険しい表情で言った。「北条さん、僕の招待リストにあなたの名前はなかったはずですが?」和真は薄く笑って答えた。「元妻の結婚式に、元夫として祝福を届けに来ただけだ。なにか問題でも?」口では隼人に話しかけながらも、目は一瞬たりとも私から離さなかった。その視線の意味は、私にはよくわかっていた。驚き、強い執着、そしてほんのわずかな後悔。私たちは事実婚だった。式も挙げていなければ、ウェディングドレスも着ていない。だから、私がウェディングドレスを着るのを目にするのは、彼にとって今日が初めてなのだ。私は頬にかかった髪を耳にかけて言った。「せっかくいらしてくださったのですから、お客様です。北条さん、どうぞお入りください」和真は私をじっと見つめたまま、なかなか動こうとしなかった。奈緒が青ざめた顔で彼の腕をぐいっと引っ張って、ようやく渋々席についた。隼人がその背中を睨みつけ、目には鋭い光が宿っていた。私は慌てて手を振ってその視線を遮った。「そんな顔しないで。子どもが怖がるよ」隼人は一瞬で表情を切り替えた。「アイツの目玉、くり抜いてやりたい」私は腕を組んだまま賓客たちに微笑みつつ、小声で言った。「我慢して。台無しにしないでね」和真がなにか仕掛けてくることは、最初からわかっていた。ちょうどいい、こっちもそれに見合う一撃を用意していたところ。だからこそ、あえて彼らを最前列に座らせたし、奈緒がライブ配信するのも止めなかった。ただ、まさか和真が奈緒を囮に使う
隼人はそっと私の額に触れながら、静かに語り始めた。「稲葉グループの事件は、本当に突然だった。おじさんも、ほとんど対応する間もなかったんだ。彼が最後に送ってきたメールは、亡くなる30分前のものだったよ。その知らせを受けて、急いで帰国の準備を始めたんだけど……運悪く、当時の稲葉家の後継者が偶然にも僕の存在を突き止めてね。自分の地位が危うくなるのを恐れて、僕を妨害するよう人を差し向けてきたんだ。そのせいで、僕は重傷を負ったんだ……」隼人の目に一瞬、暗い影が差した。言葉を詰まらせ、沈黙が落ちた。私は恐る恐る尋ねた。「……怪我、ひどかったの?」「頭をやられてね。目が覚めた時には、知能が5歳児並みにまで落ちてたんだ」隼人は苦笑いを浮かべた。「信じられないよね。バカみたいだろ?」私は彼の目をじっと見つめた。その深く漆黒の瞳の奥には、揺るぎない真剣さがはっきりと宿っていた。その瞬間、少年時代の背中と、あの日の約束が鮮明によみがえる。数秒間の沈黙のあと、私はそっと彼の手を取った。「隼人お兄ちゃん……戻ってきてくれて、本当にありがとう」隼人は驚いたように目を見開き、黒い瞳に複雑な感情が浮かんだ。「咲良ちゃん……」言葉にしなくても、想いはちゃんと伝わっていた。そのあと、隼人は父が彼に送った最後のメールの中で、「咲良ちゃんの秘密の花園」について触れていたことを話してくれた。「最後の果実は、花園の隅の秘密に育っている。長い時間をかけて調査して、おじさんが当時、重要な証拠を一部持っていたことはほぼ確実だとわかった。でも、その状況では公表なんてできなかった。だから、安全な場所に隠す必要があったんだ。咲良ちゃん、花園の隅って、どこか心当たりはある?」もちろんある。父と一緒に一から作り上げた、あの場所。知らないはずがない。私は隼人を連れて急いで実家に向かい、荒れ果てた庭の隅を掘り返して、USBメモリを見つけ出した。その中に記録されていたのは、信じられないような内容だった。名を連ねていたのは、当時の政財界の重鎮ばかり。だからこそ、父があの不正の全責任を背負った理由が、ようやく明らかになった。そして、北条家の名前が、堂々とそこに記されていた。怒りで体が震えた。涙と同時に、笑いすらこみ上げてきた。「やっ
過去は、心に刺さった刃みたいなもので、触れるたびに、鋭く痛む。父と母は、生物医薬の分野で知られた専門家だった。当時の稲葉グループは業界のトップ企業で、両親の名前はニュースで何度も取り上げられていた。今でも覚えている。あの頃、世間から贈られていた称号――「生物医薬の光」。私が17歳のとき、両親は遺伝子疾患向けの新薬を開発した。最初の段階では順調で、業界中の注目を集めていた。でも、第三相試験を終えて臨床使用が始まった途端、最初に治療を受けた患者たちが、全員薬物中毒で命を落とした。そのあと、次々と両親に不利な証拠が出てきた。巨額の金に目がくらんで薬をすり替えただの、狂気じみた人体実験をしただの、果ては外国勢力に買収されていたとか──両親は罪を恐れて自殺した。その訃報が届いたとき、私は学校の運動会に参加していた。だから、最期を見送ることもできなかった。世間の噂なんて、一つも信じてなかった。ただ医療ミスがあって、それを悔やみきれず、自ら命を絶ったんだと……ずっと、そう思っていた。でも、隼人は教えてくれた。両親の死は、最初から仕組まれていた陰謀だったって。両親は研究に没頭していて、会社の経営にはあまり関わっていなかった。ビジネスの多くは、当時の隣人だった和真のお父さんに任せていた。私の記憶の中の北条おじさんは、いつも優しくて穏やかだった。おばさんも、よく美味しいごはんを作ってくれてた。ある時期なんて、一日三食を北条家で食べて、何キロも太ったくらい。和真はそんな私を「ぽちゃ咲良」なんて、親しげに呼んでくれてた。あの日々は、思い出の中で甘く光ってる。たとえ、あとでうちが没落して、北条夫婦の態度が一変して、和真にまで私と縁を切るように迫ったとしても──恨む気にはなれなかった。あのとき、北条家と稲葉家はビジネスパートナーだった。あの状況なら、自己保身に走るのも仕方ないって、思えた。今では和真とすれ違う関係になってしまったけど、それでもどこかで、いずれ北条夫婦の老後を支えたいって……そう思っていた。だから、隼人からあの事件に北条家が関わっていたと聞かされたとき、まず頭に浮かんだのは、否定だった。「そんなはずない……おじさんたちがそんなことするわけない。あの人たち、父さんと母さんと本当に仲良しだったんだ
隼人が柱の陰から姿を現した。結局、彼は心配で帰らずに、ずっと近くにいてくれたのだ。私と一緒に和真の車が遠ざかるのを見送り、二人同時に深いため息をついた。私は冗談めかして言った。「隼人お兄ちゃん、なんだか楽しそうに見えますけど?」隼人はそっと私の腰に手を回し、微笑んだ。「もちろん。やっと咲良ちゃんの隣が空いたんだから」「身分証と戸籍、持ってきてるけど……今ここでプロポーズしてもいい?」あっけにとられて、口を開いたまま固まる私。「はぁ?」隼人の手がぎゅっと私の腰を掴んだ。そのシャープな顎のラインが一層冷たく見えたけど、私にはわかっていた。彼がただ、緊張してるだけだって。「咲良ちゃん、僕と結婚してくれる?」そう言って、ポケットから手品みたいにダイヤの指輪を取り出した。真剣な眼差しの中に、ちょっとだけ照れたような表情。「アクセサリーには詳しくないけど、もし気に入らなかったら、一緒に選びに行こう」見慣れたブランドとデザインに目を落とすと、心の奥がじんわりと温かくなる。数日前、突然宝石雑誌を持ってきて「どれがいいと思う?」なんて何気なく話しかけてきたっけ。あの時はただの雑談かと思ってた。でも、あの頃からもう、準備してくれてたんだ。「咲良ちゃん?」隼人が少し不安そうに私の顔を覗き込んだ。「準備がちゃんとできてなくてごめん。やっぱり、いきなりすぎたよね……」「隼人お兄ちゃん」私は彼の言葉を遮り、自分からそっと彼の手を握った。「……一緒に、婚姻届、出しに行こう」役所で、職員が私たちの写真を撮るとき、なんとも言えない表情を浮かべていた。こんな短期間で離婚して再婚するなんて、新人職員ならなおさら見たことないだろう。何度か話しかけようとしては戸惑って、結局黙っていた。そして結婚証明書を受け取ったその瞬間、隼人がいきなりいくつものご祝儀袋を取り出し、職員たちに配り始めた。その途端、周囲の空気がガラッと変わった。「お似合いですね!きっと幸せになりますよ!」「本当に理想の夫婦って感じ。末永くお幸せに!」祝福と賞賛の声が飛び交う中で、隼人の固かった表情も少しずつ緩んでいく。私を見る目が何度もやさしく細められ、あふれる愛情がそこにあった。半山の別荘へ戻る途中、もう一度結婚証明書を手
和真の笑顔が一瞬で固まった。「千夏、心から祝ってるのに、そんな刺々しい言い方しなくてもいいだろ」「結構よ。あなたの祝福なんて、受け取る気ないから」「……」和真は珍しく怒鳴り返してこなかった。ただ静かに言った。「これは空輸してもらった『ルイ14世』のバラだよ。前に欲しいって言ってたろ?」思わず息をのんだ。たしかに昔、和真にそんな話をしたことがあった。あのとき私は奈緒と同じステージで主役を務めていたのに、終演後、誰かが豪華な『ルイ14世』を奈緒に贈って、注目は全部あの子に集まった。あの頃は、まだ奈緒が和真の愛人だなんて知らなかった。悔しくて家で愚痴った私に、和真は「嫉妬深い女だな」って不機嫌になったっけ。後になって、その『ルイ14世』が和真の仕込みだったと知ったときの、あの衝撃――「そうね」私は苦笑いを浮かべた。「あなたの愛をずっと信じて待ってたあのバカ女、本当におめでたいわ」周囲の視線を気にしながら、和真は困ったような表情を浮かべた。「千夏、もう謝っただろ?まだ何が不満なんだ?素直になれないのか?」そう言いながら、無理やりバラを押し付けてくる。「持ってろよ。メディアが来たら、笑って立ってるだけでいいんだから」「私が、あんたの言いなりになってインタビュー受けるとでも思ってるの?」私は和真を真っ直ぐに見据え、挑むような視線を向けた。和真はわざとらしく寛大な態度を見せた。「千夏、くだらないマネはやめろ。お前が自分で痛い目見なきゃ気が済まない性格なの、わかってるよ。だから今まで見て見ぬふりしてたんだ。でも見てみろ。篠原なんて、お前をただの遊び相手としか思ってない。あいつが本当にお前のこと大事にしてたら、今回の騒動で黙ってるわけないだろ?俺、前から言ってただろ?男はみんな浮気するもんだって。それが現実なんだよ。慣れるしかないさ。それに、お前の過去を全部受け入れてやれるのなんて、この世で俺だけだぞ?」「ふうん」私は眉を上げ、和真の背後を見た。「ねえ、隼人お兄ちゃん。今日のダンス、どうだった?」「この世のものとは思えなかったよ。腐った人間には理解できないだろうけどね」隼人は、超高価な『ジュリエットローズ』の花束を抱えて、注目を集めながら近づいてきた。よく見ると、花束の中心には大きなダイ
華やかな舞台の上で、何も知らない奈緒は白いドレスに身を包み、自信満々に踊り続けていた。その裏で、舞台裏の監視室では和真が別のライブ配信をじっと見つめていた。モニターに映る真紅のシルエットは、ライトも豪華な舞台装置も必要とせず、彼女自身の存在だけで舞踊の美しさを体現していた。番組の公式ライブ配信の視聴者数は、みるみるうちに減っていく。和真だけでなく、観客の視線もすべて、あの個人配信のほうに吸い寄せられていた。コメント欄は、真っ赤なシルエットへの熱狂で埋め尽くされていた。【言葉が出ない。ただただ「すごい」としか言えない】【圧巻!柊木さんのダンス見た後だと、成瀬さんのはただのコピーにしか見えない】【成瀬さんが突然「盗作認めろ」とか言ってた理由、あれもう犯人の自白だよね】【気づいた人いる?柊木さん、ずっと片足に力を集中させてる。まるで本当に怪我してるみたい】【もし怪我が嘘なら、あのリアルな動きからして彼女の実力は本物だし、本当に怪我してるなら、片足であれだけの難易度の動きなんて信じられない】【本当でも嘘でも、柊木さんがずっと過小評価されてたのは間違いない】やがて番組の審査員が不安そうに和真を見ながら、そっと尋ねた。「北条さん……この状況で、点数はどうすれば……?」和真はモニターから視線を外しながら短く答えた。「予定通りにやれ」「でも……観客の反応が――」「君たちは専門家だろ?」和真は苛立ちを隠さず言い捨てた。「どう評価するかなんて、君たち自身で決めればいいだろ」……一曲を踊り終えた私は、胸に溜まっていた息を深く吐き出し、更衣室に向かって服を着替えた。着替えを終えてから番組のライブ配信を確認すると、ちょうどあの買収された審査員たちが奈緒をべた褒めし、私を酷評している場面だった。「成瀬さんの舞踊こそが本物のダンスです。その技術力と感情表現の豊かさに比べて……柊木さんのは、ただの古臭い見せかけでしかありません」私は口元を少し引きつらせた。でも、そんな言葉に胸が痛むことはなかった。こういう高慢な「芸術家」たちは、いつも自分だけが正しいと信じて、大衆を見下し、騙せると思い込んでいる。でも私が言ったように、たとえ舞踊に詳しくなくても、美しさを感じ取る力は誰にでもある。私と奈緒、ど
番組の生放送当日、私は隼人にテレビ局まで送ってもらうのを断った。タクシーから降りたところで、和真が露骨に嘲ってきた。「千夏、隼人は落とせなかったの?それともただの遊び相手だった?」無視して通り過ぎようとすると、和真が腕を広げて前に立ちはだかった。「足の怪我、まだ治ってないだろ?今日のダンス、勝てるわけない」私は冷たく睨み返して言った。「彼女に勝つくらい、片足でも十分よ」和真は鼻で笑った。「ここ数年、俺が甘やかしすぎたんだな。調子に乗りやがって。昔のことを思い出させてやろうか?誰もがお前を避けてた時期、お前は俺の足元に跪いて『行かないで』って泣いて、水を買うのにすら俺の許可を求めてた……全部忘れたのか?」私は感情を抑えて静かに答えた。「和真、私がどれだけ真剣に、全身全霊であなたを愛してたか、あなたには見えなかったし、もう覚えてもいないのね。覚えてるのは、私の惨めさと……あなたが私を『救ってやった』ってことだけ」和真は一瞬、眉をひそめて言い返そうとしたが、私は言葉を続けた。「借りは全部返した。少しでも良心が残ってるなら、私と成瀬さんのことに口を出さないで」「奈緒は俺の女だぞ」和真はだらしない声で言った。「自分の女を守るのがそんなに悪いか?」私は静かに頷いた。「ええ、正論ね」和真の目に、ふっと光が差した。「わかってるだろ?俺は昔から身内には甘い。お前が今でも『俺の女』だったら、助けてやれたのにな」「どうやって?成瀬さんが盗人だって世間に言うの?」和真は唇を噛みしめ、少し沈黙したあとで言った。「今すぐ自主的に番組を降りれば、あとでちゃんと仕事のチャンスを回してやる。ネットの評判だって、俺がなんとかしてやる」私は彼の手を振り払った。「……最低ね」「千夏!これが最後のチャンスだぞ!」振り返らずにエレベーターに乗り、扉が閉まると同時に、和真の声も遮断された。和真が本気で、今度こそ私を潰そうとしているのは分かっていた。ステージ美術、音響、バックダンサー――すべて国際的に有名なチームを揃え、さらに『ダンサーショー』のディレクターや審査員まで金で動かしていた。「柊木さん、こちらがあなたのステージになります」馴染みのある中村プロデューサーが、長年使われていなかった旧スタジオに案内してきた。「舞
奈緒は、完全にわざとやっている。私の足の怪我がまだ治りきっていないのを知ったうえで、あえてその場での対決を提案してきた。先に手を打って、優位に立とうというつもりなのだろう。今の私がどれだけ事実を語ったとしても、ネットの人たちは信じてくれない。その状況で、彼女が少しでも話を誘導すれば、私は「仕返し目的で動いた」と簡単に解釈されてしまう。奈緒はすべて計算済みだった。でも、私が自分を証明できる映像を持っているなんて、思いもしなかったようだ。文案の編集を終え、指を送信ボタンの上に置く。軽く押すだけで、真実が世に出る。……けれど、ふと気が変わった。こんなに簡単に彼女を暴くのは、なんだか物足りない。成瀬奈緒という名前も、彼女自身も、きっちりと恥辱の柱に縛りつけてやりたい。秋のバッタのように、目の前でピョンピョンと跳ね回る姿は、見ていて苛立つ。送信をキャンセルし、三文字だけ打ち込んだ。【ステージで会いましょう】『ダンサーショー』は、今や私と奈緒の対決が注目の的となり、最も話題を集めているバラエティ番組になっていた。番組ディレクターが私に連絡してきて、契約の細かい内容やステージ演出について丁寧に話してくれた。ディレクターの態度は誠実そのもので、舞台演出の要求も非常に的確だった。何度か会ううちに、会話もスムーズに弾むようになっていった。ディレクターは「ステージの手配は僕に任せてください」と自ら名乗りを上げ、私は自分のステージデザインの構想をすべて彼に伝えた。ディレクターは自信満々にこう言った。「全部任せてください。絶対にご満足いただけます!」ところが、生放送の前日。奈緒のSNSに、完成したステージ装飾の写真がアップされた。そこに写っていたのは、紛れもなく、私が考えたあの舞台だった。厚かましくも彼女は、その写真にこんなコメントを添えていた。【これは私の戦いの舞台です】コメント欄は賞賛の声で溢れていた。【うわー、すごい!国内ステージ演出の新境地じゃない?】【要素盛りだくさん!細部のこだわりが半端ない。特に中央の白いバラ、最高!】【奈緒ちゃん、恋愛では不運でも、仕事はトップクラス。文句のつけようがないね】『ダンサーショー』のルールでは、ステージのアイデアは出演者自身が考えるこ