華やかな舞台の上で、何も知らない奈緒は白いドレスに身を包み、自信満々に踊り続けていた。その裏で、舞台裏の監視室では和真が別のライブ配信をじっと見つめていた。モニターに映る真紅のシルエットは、ライトも豪華な舞台装置も必要とせず、彼女自身の存在だけで舞踊の美しさを体現していた。番組の公式ライブ配信の視聴者数は、みるみるうちに減っていく。和真だけでなく、観客の視線もすべて、あの個人配信のほうに吸い寄せられていた。コメント欄は、真っ赤なシルエットへの熱狂で埋め尽くされていた。【言葉が出ない。ただただ「すごい」としか言えない】【圧巻!柊木さんのダンス見た後だと、成瀬さんのはただのコピーにしか見えない】【成瀬さんが突然「盗作認めろ」とか言ってた理由、あれもう犯人の自白だよね】【気づいた人いる?柊木さん、ずっと片足に力を集中させてる。まるで本当に怪我してるみたい】【もし怪我が嘘なら、あのリアルな動きからして彼女の実力は本物だし、本当に怪我してるなら、片足であれだけの難易度の動きなんて信じられない】【本当でも嘘でも、柊木さんがずっと過小評価されてたのは間違いない】やがて番組の審査員が不安そうに和真を見ながら、そっと尋ねた。「北条さん……この状況で、点数はどうすれば……?」和真はモニターから視線を外しながら短く答えた。「予定通りにやれ」「でも……観客の反応が――」「君たちは専門家だろ?」和真は苛立ちを隠さず言い捨てた。「どう評価するかなんて、君たち自身で決めればいいだろ」……一曲を踊り終えた私は、胸に溜まっていた息を深く吐き出し、更衣室に向かって服を着替えた。着替えを終えてから番組のライブ配信を確認すると、ちょうどあの買収された審査員たちが奈緒をべた褒めし、私を酷評している場面だった。「成瀬さんの舞踊こそが本物のダンスです。その技術力と感情表現の豊かさに比べて……柊木さんのは、ただの古臭い見せかけでしかありません」私は口元を少し引きつらせた。でも、そんな言葉に胸が痛むことはなかった。こういう高慢な「芸術家」たちは、いつも自分だけが正しいと信じて、大衆を見下し、騙せると思い込んでいる。でも私が言ったように、たとえ舞踊に詳しくなくても、美しさを感じ取る力は誰にでもある。私と奈緒、ど
和真の笑顔が一瞬で固まった。「千夏、心から祝ってるのに、そんな刺々しい言い方しなくてもいいだろ」「結構よ。あなたの祝福なんて、受け取る気ないから」「……」和真は珍しく怒鳴り返してこなかった。ただ静かに言った。「これは空輸してもらった『ルイ14世』のバラだよ。前に欲しいって言ってたろ?」思わず息をのんだ。たしかに昔、和真にそんな話をしたことがあった。あのとき私は奈緒と同じステージで主役を務めていたのに、終演後、誰かが豪華な『ルイ14世』を奈緒に贈って、注目は全部あの子に集まった。あの頃は、まだ奈緒が和真の愛人だなんて知らなかった。悔しくて家で愚痴った私に、和真は「嫉妬深い女だな」って不機嫌になったっけ。後になって、その『ルイ14世』が和真の仕込みだったと知ったときの、あの衝撃――「そうね」私は苦笑いを浮かべた。「あなたの愛をずっと信じて待ってたあのバカ女、本当におめでたいわ」周囲の視線を気にしながら、和真は困ったような表情を浮かべた。「千夏、もう謝っただろ?まだ何が不満なんだ?素直になれないのか?」そう言いながら、無理やりバラを押し付けてくる。「持ってろよ。メディアが来たら、笑って立ってるだけでいいんだから」「私が、あんたの言いなりになってインタビュー受けるとでも思ってるの?」私は和真を真っ直ぐに見据え、挑むような視線を向けた。和真はわざとらしく寛大な態度を見せた。「千夏、くだらないマネはやめろ。お前が自分で痛い目見なきゃ気が済まない性格なの、わかってるよ。だから今まで見て見ぬふりしてたんだ。でも見てみろ。篠原なんて、お前をただの遊び相手としか思ってない。あいつが本当にお前のこと大事にしてたら、今回の騒動で黙ってるわけないだろ?俺、前から言ってただろ?男はみんな浮気するもんだって。それが現実なんだよ。慣れるしかないさ。それに、お前の過去を全部受け入れてやれるのなんて、この世で俺だけだぞ?」「ふうん」私は眉を上げ、和真の背後を見た。「ねえ、隼人お兄ちゃん。今日のダンス、どうだった?」「この世のものとは思えなかったよ。腐った人間には理解できないだろうけどね」隼人は、超高価な『ジュリエットローズ』の花束を抱えて、注目を集めながら近づいてきた。よく見ると、花束の中心には大きなダイ
隼人が柱の陰から姿を現した。結局、彼は心配で帰らずに、ずっと近くにいてくれたのだ。私と一緒に和真の車が遠ざかるのを見送り、二人同時に深いため息をついた。私は冗談めかして言った。「隼人お兄ちゃん、なんだか楽しそうに見えますけど?」隼人はそっと私の腰に手を回し、微笑んだ。「もちろん。やっと咲良ちゃんの隣が空いたんだから」「身分証と戸籍、持ってきてるけど……今ここでプロポーズしてもいい?」あっけにとられて、口を開いたまま固まる私。「はぁ?」隼人の手がぎゅっと私の腰を掴んだ。そのシャープな顎のラインが一層冷たく見えたけど、私にはわかっていた。彼がただ、緊張してるだけだって。「咲良ちゃん、僕と結婚してくれる?」そう言って、ポケットから手品みたいにダイヤの指輪を取り出した。真剣な眼差しの中に、ちょっとだけ照れたような表情。「アクセサリーには詳しくないけど、もし気に入らなかったら、一緒に選びに行こう」見慣れたブランドとデザインに目を落とすと、心の奥がじんわりと温かくなる。数日前、突然宝石雑誌を持ってきて「どれがいいと思う?」なんて何気なく話しかけてきたっけ。あの時はただの雑談かと思ってた。でも、あの頃からもう、準備してくれてたんだ。「咲良ちゃん?」隼人が少し不安そうに私の顔を覗き込んだ。「準備がちゃんとできてなくてごめん。やっぱり、いきなりすぎたよね……」「隼人お兄ちゃん」私は彼の言葉を遮り、自分からそっと彼の手を握った。「……一緒に、婚姻届、出しに行こう」役所で、職員が私たちの写真を撮るとき、なんとも言えない表情を浮かべていた。こんな短期間で離婚して再婚するなんて、新人職員ならなおさら見たことないだろう。何度か話しかけようとしては戸惑って、結局黙っていた。そして結婚証明書を受け取ったその瞬間、隼人がいきなりいくつものご祝儀袋を取り出し、職員たちに配り始めた。その途端、周囲の空気がガラッと変わった。「お似合いですね!きっと幸せになりますよ!」「本当に理想の夫婦って感じ。末永くお幸せに!」祝福と賞賛の声が飛び交う中で、隼人の固かった表情も少しずつ緩んでいく。私を見る目が何度もやさしく細められ、あふれる愛情がそこにあった。半山の別荘へ戻る途中、もう一度結婚証明書を手
過去は、心に刺さった刃みたいなもので、触れるたびに、鋭く痛む。父と母は、生物医薬の分野で知られた専門家だった。当時の稲葉グループは業界のトップ企業で、両親の名前はニュースで何度も取り上げられていた。今でも覚えている。あの頃、世間から贈られていた称号――「生物医薬の光」。私が17歳のとき、両親は遺伝子疾患向けの新薬を開発した。最初の段階では順調で、業界中の注目を集めていた。でも、第三相試験を終えて臨床使用が始まった途端、最初に治療を受けた患者たちが、全員薬物中毒で命を落とした。そのあと、次々と両親に不利な証拠が出てきた。巨額の金に目がくらんで薬をすり替えただの、狂気じみた人体実験をしただの、果ては外国勢力に買収されていたとか──両親は罪を恐れて自殺した。その訃報が届いたとき、私は学校の運動会に参加していた。だから、最期を見送ることもできなかった。世間の噂なんて、一つも信じてなかった。ただ医療ミスがあって、それを悔やみきれず、自ら命を絶ったんだと……ずっと、そう思っていた。でも、隼人は教えてくれた。両親の死は、最初から仕組まれていた陰謀だったって。両親は研究に没頭していて、会社の経営にはあまり関わっていなかった。ビジネスの多くは、当時の隣人だった和真のお父さんに任せていた。私の記憶の中の北条おじさんは、いつも優しくて穏やかだった。おばさんも、よく美味しいごはんを作ってくれてた。ある時期なんて、一日三食を北条家で食べて、何キロも太ったくらい。和真はそんな私を「ぽちゃ咲良」なんて、親しげに呼んでくれてた。あの日々は、思い出の中で甘く光ってる。たとえ、あとでうちが没落して、北条夫婦の態度が一変して、和真にまで私と縁を切るように迫ったとしても──恨む気にはなれなかった。あのとき、北条家と稲葉家はビジネスパートナーだった。あの状況なら、自己保身に走るのも仕方ないって、思えた。今では和真とすれ違う関係になってしまったけど、それでもどこかで、いずれ北条夫婦の老後を支えたいって……そう思っていた。だから、隼人からあの事件に北条家が関わっていたと聞かされたとき、まず頭に浮かんだのは、否定だった。「そんなはずない……おじさんたちがそんなことするわけない。あの人たち、父さんと母さんと本当に仲良しだったんだ
隼人はそっと私の額に触れながら、静かに語り始めた。「稲葉グループの事件は、本当に突然だった。おじさんも、ほとんど対応する間もなかったんだ。彼が最後に送ってきたメールは、亡くなる30分前のものだったよ。その知らせを受けて、急いで帰国の準備を始めたんだけど……運悪く、当時の稲葉家の後継者が偶然にも僕の存在を突き止めてね。自分の地位が危うくなるのを恐れて、僕を妨害するよう人を差し向けてきたんだ。そのせいで、僕は重傷を負ったんだ……」隼人の目に一瞬、暗い影が差した。言葉を詰まらせ、沈黙が落ちた。私は恐る恐る尋ねた。「……怪我、ひどかったの?」「頭をやられてね。目が覚めた時には、知能が5歳児並みにまで落ちてたんだ」隼人は苦笑いを浮かべた。「信じられないよね。バカみたいだろ?」私は彼の目をじっと見つめた。その深く漆黒の瞳の奥には、揺るぎない真剣さがはっきりと宿っていた。その瞬間、少年時代の背中と、あの日の約束が鮮明によみがえる。数秒間の沈黙のあと、私はそっと彼の手を取った。「隼人お兄ちゃん……戻ってきてくれて、本当にありがとう」隼人は驚いたように目を見開き、黒い瞳に複雑な感情が浮かんだ。「咲良ちゃん……」言葉にしなくても、想いはちゃんと伝わっていた。そのあと、隼人は父が彼に送った最後のメールの中で、「咲良ちゃんの秘密の花園」について触れていたことを話してくれた。「最後の果実は、花園の隅の秘密に育っている。長い時間をかけて調査して、おじさんが当時、重要な証拠を一部持っていたことはほぼ確実だとわかった。でも、その状況では公表なんてできなかった。だから、安全な場所に隠す必要があったんだ。咲良ちゃん、花園の隅って、どこか心当たりはある?」もちろんある。父と一緒に一から作り上げた、あの場所。知らないはずがない。私は隼人を連れて急いで実家に向かい、荒れ果てた庭の隅を掘り返して、USBメモリを見つけ出した。その中に記録されていたのは、信じられないような内容だった。名を連ねていたのは、当時の政財界の重鎮ばかり。だからこそ、父があの不正の全責任を背負った理由が、ようやく明らかになった。そして、北条家の名前が、堂々とそこに記されていた。怒りで体が震えた。涙と同時に、笑いすらこみ上げてきた。「やっ
その後の数日間、私は静かにネットの動きを見守っていた。予想どおり、いくつかのメディアが稲葉グループの汚職事件を取り上げ始めた。インフルエンサーの後押しもあって、この古い事件が突如表舞台に引っ張り出され、しばらくのあいだ各プラットフォームのトップニュースを独占することになった。和真から脅しのメッセージは来なかった。たぶん、私が彼の意図をちゃんとわかっていると思ってるんだろう。きっとあいかわらず、上から目線で私が屈して謝罪するのを待っているつもりなんだ。でも今回は、あえてその期待を裏切って、結婚式当日まで一切連絡を取らないことにした。もちろん、和真が諦めるはずがなかった。なんと奈緒を連れて、堂々と私たちの結婚式に姿を現したのだ。隼人が険しい表情で言った。「北条さん、僕の招待リストにあなたの名前はなかったはずですが?」和真は薄く笑って答えた。「元妻の結婚式に、元夫として祝福を届けに来ただけだ。なにか問題でも?」口では隼人に話しかけながらも、目は一瞬たりとも私から離さなかった。その視線の意味は、私にはよくわかっていた。驚き、強い執着、そしてほんのわずかな後悔。私たちは事実婚だった。式も挙げていなければ、ウェディングドレスも着ていない。だから、私がウェディングドレスを着るのを目にするのは、彼にとって今日が初めてなのだ。私は頬にかかった髪を耳にかけて言った。「せっかくいらしてくださったのですから、お客様です。北条さん、どうぞお入りください」和真は私をじっと見つめたまま、なかなか動こうとしなかった。奈緒が青ざめた顔で彼の腕をぐいっと引っ張って、ようやく渋々席についた。隼人がその背中を睨みつけ、目には鋭い光が宿っていた。私は慌てて手を振ってその視線を遮った。「そんな顔しないで。子どもが怖がるよ」隼人は一瞬で表情を切り替えた。「アイツの目玉、くり抜いてやりたい」私は腕を組んだまま賓客たちに微笑みつつ、小声で言った。「我慢して。台無しにしないでね」和真がなにか仕掛けてくることは、最初からわかっていた。ちょうどいい、こっちもそれに見合う一撃を用意していたところ。だからこそ、あえて彼らを最前列に座らせたし、奈緒がライブ配信するのも止めなかった。ただ、まさか和真が奈緒を囮に使う
私の目的は、最初からはっきりしていた。両親を死に追いやった連中に、世間から唾棄される痛みを味あわせること。稲葉グループの事件からこれだけ時間が経った今、覚えている人なんてほんの一握り。いきなり証拠映像を出しても、話題になる前に潰される可能性が高い。でも、和真は私を屈服させようとして、わざと世論を操って事件を再燃させた。私の希望を根こそぎ叩き潰すために、あらかじめ世論操作の準備までしていたのだ。だから私は、その力を逆手に取った。注目が最高潮に達したその瞬間に、最大の一撃を加えた。隼人の素早い判断と実行力のおかげで、結婚式はあの小さなハプニングに邪魔されることなく、無事に続行された。一方、和真と奈緒は警備員に退場を促され、その後押し寄せた記者たちに完全に囲まれていた。和真は呆然とマイクの前に立ち、しばらくしてから震える声でつぶやいた。「もう……後戻りはできないのか……」世論の力は想像以上に強かった。怒りに燃える大衆の声、私の手元にある証拠、そして隼人の力が合わさり、ついに真実が世に明らかになった。それからわずか一ヶ月足らずで、関係者たちは次々に逮捕され、責任を追及された。北条家は真っ先に破産宣告を受け、和真の両親も刑務所送りに。残りの人生を塀の中で過ごすことになる。ネットでは、私の両親のことを悼む声があふれ、過去の善行が次々と掘り起こされた。人々が自発的に追悼集会を開いてくれる中、ようやく私と隼人は両親の遺骨をきちんと改葬することができた。墓地を後にしようとしたその時、突然、人影が車の前に飛び出してきた。……和真だった。たった一ヶ月会わなかっただけなのに、もはや別人のように変わり果てていた。どう表現すればいいのだろう。伸び放題の髭、目の下の濃いクマ、青白くやつれた顔、ボサボサの髪、しわだらけの服。和真は、常に身なりに気を使う男だった。あの頃、私と「駆け落ち」して生活が苦しかった時ですら、こんなに落ちぶれた姿は一度も見せなかった。彼はボンネットを叩きながら懇願した。「千夏、頼む。降りてくれ。話があるんだ」隼人が真剣な表情で聞いた。「降りるか?」私は首を横に振り、窓を開けた。「ここで話して」和真は一瞬も迷わず私のそばに回ってきた。「千夏、俺が間違ってた。本当に、全部間違っ
ツアー公演を目前に控えたその時、ダンスグループは突然、私のヒロイン資格を取り下げた。納得なんてできるはずもない。私は真相を聞くために劇場へ向かおうとしたが、焦りと混乱で足を踏み外し、階段から転げ落ちた。全身が痛みに悲鳴を上げる中、必死でスマホを取り出し、119番をダイヤルしようとしたその瞬間――通知が一件、目に飛び込んできた。【紅原ダンスグループ::新ヒロイン@成瀬奈緒(なりせ なお)、そしてパトロン@北条和真(ほくじょう かずま)様、ようこそ♡】そこに並ぶのは、満面の笑みを浮かべた二人の写真。写っていたのは、七年間、誰にも明かさずに結婚していた私の夫、そして、その腕に大事そうに抱かれているのは、彼が甘やかしている愛人――成瀬奈緒の姿だった。和真は奈緒の腰を引き寄せ、彼女の頬に軽くキスを落としていた。奈緒は和真の首に腕を絡めて、頬を赤らめながら、まるで「勝者」のような笑顔を浮かべていた。私は唇の端から流れた血を拭い、無言で結婚証明書の写真をコメント欄に投稿した。【貴団の新作タイトルは 「下劣な裏切り者たち」ですか?】ほどなくして、和真から電話がかかってきた。「千夏、何やってるんだ。何度言えば分かる?俺と奈緒は、ただの演出だって」私は鼻をすすりながら訊いた。「和真、どうして私のプリマ資格を奪ったの?」少し沈黙があって、彼が呟くように言った。「お前、紅原にいるのか?」そのあと、まるで他人事のように――「奈緒がね、このツアーの主演を誕生日プレゼントに欲しいって言っててさ。まさか、それがお前の役だったとは思わなかったよ。とりあえずネットで説明してくれ。証明書は合成だって言えば済む」……笑えてきた。私がどこで働いてるかも覚えてないのに、成瀬さんの「欲しいもの」だけはちゃんと覚えてるんだ。「それで?なんで私が結婚証明書を偽造したなんて言わなきゃいけないの?」「俺のファンってことにすればいい」「和真、私のこと何だと思ってるの?」電話の向こうで、彼は深くため息をついた。「千夏、俺たちもう結婚して七年だ。もう夫婦って感じじゃないか。奈緒はまだ若いんだし、ムキになるなよ」……彼は忘れているらしい。私が大学を卒業する前に彼と結婚したことを。たしかに七年経ったけど、私は奈緒より「
私の目的は、最初からはっきりしていた。両親を死に追いやった連中に、世間から唾棄される痛みを味あわせること。稲葉グループの事件からこれだけ時間が経った今、覚えている人なんてほんの一握り。いきなり証拠映像を出しても、話題になる前に潰される可能性が高い。でも、和真は私を屈服させようとして、わざと世論を操って事件を再燃させた。私の希望を根こそぎ叩き潰すために、あらかじめ世論操作の準備までしていたのだ。だから私は、その力を逆手に取った。注目が最高潮に達したその瞬間に、最大の一撃を加えた。隼人の素早い判断と実行力のおかげで、結婚式はあの小さなハプニングに邪魔されることなく、無事に続行された。一方、和真と奈緒は警備員に退場を促され、その後押し寄せた記者たちに完全に囲まれていた。和真は呆然とマイクの前に立ち、しばらくしてから震える声でつぶやいた。「もう……後戻りはできないのか……」世論の力は想像以上に強かった。怒りに燃える大衆の声、私の手元にある証拠、そして隼人の力が合わさり、ついに真実が世に明らかになった。それからわずか一ヶ月足らずで、関係者たちは次々に逮捕され、責任を追及された。北条家は真っ先に破産宣告を受け、和真の両親も刑務所送りに。残りの人生を塀の中で過ごすことになる。ネットでは、私の両親のことを悼む声があふれ、過去の善行が次々と掘り起こされた。人々が自発的に追悼集会を開いてくれる中、ようやく私と隼人は両親の遺骨をきちんと改葬することができた。墓地を後にしようとしたその時、突然、人影が車の前に飛び出してきた。……和真だった。たった一ヶ月会わなかっただけなのに、もはや別人のように変わり果てていた。どう表現すればいいのだろう。伸び放題の髭、目の下の濃いクマ、青白くやつれた顔、ボサボサの髪、しわだらけの服。和真は、常に身なりに気を使う男だった。あの頃、私と「駆け落ち」して生活が苦しかった時ですら、こんなに落ちぶれた姿は一度も見せなかった。彼はボンネットを叩きながら懇願した。「千夏、頼む。降りてくれ。話があるんだ」隼人が真剣な表情で聞いた。「降りるか?」私は首を横に振り、窓を開けた。「ここで話して」和真は一瞬も迷わず私のそばに回ってきた。「千夏、俺が間違ってた。本当に、全部間違っ
その後の数日間、私は静かにネットの動きを見守っていた。予想どおり、いくつかのメディアが稲葉グループの汚職事件を取り上げ始めた。インフルエンサーの後押しもあって、この古い事件が突如表舞台に引っ張り出され、しばらくのあいだ各プラットフォームのトップニュースを独占することになった。和真から脅しのメッセージは来なかった。たぶん、私が彼の意図をちゃんとわかっていると思ってるんだろう。きっとあいかわらず、上から目線で私が屈して謝罪するのを待っているつもりなんだ。でも今回は、あえてその期待を裏切って、結婚式当日まで一切連絡を取らないことにした。もちろん、和真が諦めるはずがなかった。なんと奈緒を連れて、堂々と私たちの結婚式に姿を現したのだ。隼人が険しい表情で言った。「北条さん、僕の招待リストにあなたの名前はなかったはずですが?」和真は薄く笑って答えた。「元妻の結婚式に、元夫として祝福を届けに来ただけだ。なにか問題でも?」口では隼人に話しかけながらも、目は一瞬たりとも私から離さなかった。その視線の意味は、私にはよくわかっていた。驚き、強い執着、そしてほんのわずかな後悔。私たちは事実婚だった。式も挙げていなければ、ウェディングドレスも着ていない。だから、私がウェディングドレスを着るのを目にするのは、彼にとって今日が初めてなのだ。私は頬にかかった髪を耳にかけて言った。「せっかくいらしてくださったのですから、お客様です。北条さん、どうぞお入りください」和真は私をじっと見つめたまま、なかなか動こうとしなかった。奈緒が青ざめた顔で彼の腕をぐいっと引っ張って、ようやく渋々席についた。隼人がその背中を睨みつけ、目には鋭い光が宿っていた。私は慌てて手を振ってその視線を遮った。「そんな顔しないで。子どもが怖がるよ」隼人は一瞬で表情を切り替えた。「アイツの目玉、くり抜いてやりたい」私は腕を組んだまま賓客たちに微笑みつつ、小声で言った。「我慢して。台無しにしないでね」和真がなにか仕掛けてくることは、最初からわかっていた。ちょうどいい、こっちもそれに見合う一撃を用意していたところ。だからこそ、あえて彼らを最前列に座らせたし、奈緒がライブ配信するのも止めなかった。ただ、まさか和真が奈緒を囮に使う
隼人はそっと私の額に触れながら、静かに語り始めた。「稲葉グループの事件は、本当に突然だった。おじさんも、ほとんど対応する間もなかったんだ。彼が最後に送ってきたメールは、亡くなる30分前のものだったよ。その知らせを受けて、急いで帰国の準備を始めたんだけど……運悪く、当時の稲葉家の後継者が偶然にも僕の存在を突き止めてね。自分の地位が危うくなるのを恐れて、僕を妨害するよう人を差し向けてきたんだ。そのせいで、僕は重傷を負ったんだ……」隼人の目に一瞬、暗い影が差した。言葉を詰まらせ、沈黙が落ちた。私は恐る恐る尋ねた。「……怪我、ひどかったの?」「頭をやられてね。目が覚めた時には、知能が5歳児並みにまで落ちてたんだ」隼人は苦笑いを浮かべた。「信じられないよね。バカみたいだろ?」私は彼の目をじっと見つめた。その深く漆黒の瞳の奥には、揺るぎない真剣さがはっきりと宿っていた。その瞬間、少年時代の背中と、あの日の約束が鮮明によみがえる。数秒間の沈黙のあと、私はそっと彼の手を取った。「隼人お兄ちゃん……戻ってきてくれて、本当にありがとう」隼人は驚いたように目を見開き、黒い瞳に複雑な感情が浮かんだ。「咲良ちゃん……」言葉にしなくても、想いはちゃんと伝わっていた。そのあと、隼人は父が彼に送った最後のメールの中で、「咲良ちゃんの秘密の花園」について触れていたことを話してくれた。「最後の果実は、花園の隅の秘密に育っている。長い時間をかけて調査して、おじさんが当時、重要な証拠を一部持っていたことはほぼ確実だとわかった。でも、その状況では公表なんてできなかった。だから、安全な場所に隠す必要があったんだ。咲良ちゃん、花園の隅って、どこか心当たりはある?」もちろんある。父と一緒に一から作り上げた、あの場所。知らないはずがない。私は隼人を連れて急いで実家に向かい、荒れ果てた庭の隅を掘り返して、USBメモリを見つけ出した。その中に記録されていたのは、信じられないような内容だった。名を連ねていたのは、当時の政財界の重鎮ばかり。だからこそ、父があの不正の全責任を背負った理由が、ようやく明らかになった。そして、北条家の名前が、堂々とそこに記されていた。怒りで体が震えた。涙と同時に、笑いすらこみ上げてきた。「やっ
過去は、心に刺さった刃みたいなもので、触れるたびに、鋭く痛む。父と母は、生物医薬の分野で知られた専門家だった。当時の稲葉グループは業界のトップ企業で、両親の名前はニュースで何度も取り上げられていた。今でも覚えている。あの頃、世間から贈られていた称号――「生物医薬の光」。私が17歳のとき、両親は遺伝子疾患向けの新薬を開発した。最初の段階では順調で、業界中の注目を集めていた。でも、第三相試験を終えて臨床使用が始まった途端、最初に治療を受けた患者たちが、全員薬物中毒で命を落とした。そのあと、次々と両親に不利な証拠が出てきた。巨額の金に目がくらんで薬をすり替えただの、狂気じみた人体実験をしただの、果ては外国勢力に買収されていたとか──両親は罪を恐れて自殺した。その訃報が届いたとき、私は学校の運動会に参加していた。だから、最期を見送ることもできなかった。世間の噂なんて、一つも信じてなかった。ただ医療ミスがあって、それを悔やみきれず、自ら命を絶ったんだと……ずっと、そう思っていた。でも、隼人は教えてくれた。両親の死は、最初から仕組まれていた陰謀だったって。両親は研究に没頭していて、会社の経営にはあまり関わっていなかった。ビジネスの多くは、当時の隣人だった和真のお父さんに任せていた。私の記憶の中の北条おじさんは、いつも優しくて穏やかだった。おばさんも、よく美味しいごはんを作ってくれてた。ある時期なんて、一日三食を北条家で食べて、何キロも太ったくらい。和真はそんな私を「ぽちゃ咲良」なんて、親しげに呼んでくれてた。あの日々は、思い出の中で甘く光ってる。たとえ、あとでうちが没落して、北条夫婦の態度が一変して、和真にまで私と縁を切るように迫ったとしても──恨む気にはなれなかった。あのとき、北条家と稲葉家はビジネスパートナーだった。あの状況なら、自己保身に走るのも仕方ないって、思えた。今では和真とすれ違う関係になってしまったけど、それでもどこかで、いずれ北条夫婦の老後を支えたいって……そう思っていた。だから、隼人からあの事件に北条家が関わっていたと聞かされたとき、まず頭に浮かんだのは、否定だった。「そんなはずない……おじさんたちがそんなことするわけない。あの人たち、父さんと母さんと本当に仲良しだったんだ
隼人が柱の陰から姿を現した。結局、彼は心配で帰らずに、ずっと近くにいてくれたのだ。私と一緒に和真の車が遠ざかるのを見送り、二人同時に深いため息をついた。私は冗談めかして言った。「隼人お兄ちゃん、なんだか楽しそうに見えますけど?」隼人はそっと私の腰に手を回し、微笑んだ。「もちろん。やっと咲良ちゃんの隣が空いたんだから」「身分証と戸籍、持ってきてるけど……今ここでプロポーズしてもいい?」あっけにとられて、口を開いたまま固まる私。「はぁ?」隼人の手がぎゅっと私の腰を掴んだ。そのシャープな顎のラインが一層冷たく見えたけど、私にはわかっていた。彼がただ、緊張してるだけだって。「咲良ちゃん、僕と結婚してくれる?」そう言って、ポケットから手品みたいにダイヤの指輪を取り出した。真剣な眼差しの中に、ちょっとだけ照れたような表情。「アクセサリーには詳しくないけど、もし気に入らなかったら、一緒に選びに行こう」見慣れたブランドとデザインに目を落とすと、心の奥がじんわりと温かくなる。数日前、突然宝石雑誌を持ってきて「どれがいいと思う?」なんて何気なく話しかけてきたっけ。あの時はただの雑談かと思ってた。でも、あの頃からもう、準備してくれてたんだ。「咲良ちゃん?」隼人が少し不安そうに私の顔を覗き込んだ。「準備がちゃんとできてなくてごめん。やっぱり、いきなりすぎたよね……」「隼人お兄ちゃん」私は彼の言葉を遮り、自分からそっと彼の手を握った。「……一緒に、婚姻届、出しに行こう」役所で、職員が私たちの写真を撮るとき、なんとも言えない表情を浮かべていた。こんな短期間で離婚して再婚するなんて、新人職員ならなおさら見たことないだろう。何度か話しかけようとしては戸惑って、結局黙っていた。そして結婚証明書を受け取ったその瞬間、隼人がいきなりいくつものご祝儀袋を取り出し、職員たちに配り始めた。その途端、周囲の空気がガラッと変わった。「お似合いですね!きっと幸せになりますよ!」「本当に理想の夫婦って感じ。末永くお幸せに!」祝福と賞賛の声が飛び交う中で、隼人の固かった表情も少しずつ緩んでいく。私を見る目が何度もやさしく細められ、あふれる愛情がそこにあった。半山の別荘へ戻る途中、もう一度結婚証明書を手
和真の笑顔が一瞬で固まった。「千夏、心から祝ってるのに、そんな刺々しい言い方しなくてもいいだろ」「結構よ。あなたの祝福なんて、受け取る気ないから」「……」和真は珍しく怒鳴り返してこなかった。ただ静かに言った。「これは空輸してもらった『ルイ14世』のバラだよ。前に欲しいって言ってたろ?」思わず息をのんだ。たしかに昔、和真にそんな話をしたことがあった。あのとき私は奈緒と同じステージで主役を務めていたのに、終演後、誰かが豪華な『ルイ14世』を奈緒に贈って、注目は全部あの子に集まった。あの頃は、まだ奈緒が和真の愛人だなんて知らなかった。悔しくて家で愚痴った私に、和真は「嫉妬深い女だな」って不機嫌になったっけ。後になって、その『ルイ14世』が和真の仕込みだったと知ったときの、あの衝撃――「そうね」私は苦笑いを浮かべた。「あなたの愛をずっと信じて待ってたあのバカ女、本当におめでたいわ」周囲の視線を気にしながら、和真は困ったような表情を浮かべた。「千夏、もう謝っただろ?まだ何が不満なんだ?素直になれないのか?」そう言いながら、無理やりバラを押し付けてくる。「持ってろよ。メディアが来たら、笑って立ってるだけでいいんだから」「私が、あんたの言いなりになってインタビュー受けるとでも思ってるの?」私は和真を真っ直ぐに見据え、挑むような視線を向けた。和真はわざとらしく寛大な態度を見せた。「千夏、くだらないマネはやめろ。お前が自分で痛い目見なきゃ気が済まない性格なの、わかってるよ。だから今まで見て見ぬふりしてたんだ。でも見てみろ。篠原なんて、お前をただの遊び相手としか思ってない。あいつが本当にお前のこと大事にしてたら、今回の騒動で黙ってるわけないだろ?俺、前から言ってただろ?男はみんな浮気するもんだって。それが現実なんだよ。慣れるしかないさ。それに、お前の過去を全部受け入れてやれるのなんて、この世で俺だけだぞ?」「ふうん」私は眉を上げ、和真の背後を見た。「ねえ、隼人お兄ちゃん。今日のダンス、どうだった?」「この世のものとは思えなかったよ。腐った人間には理解できないだろうけどね」隼人は、超高価な『ジュリエットローズ』の花束を抱えて、注目を集めながら近づいてきた。よく見ると、花束の中心には大きなダイ
華やかな舞台の上で、何も知らない奈緒は白いドレスに身を包み、自信満々に踊り続けていた。その裏で、舞台裏の監視室では和真が別のライブ配信をじっと見つめていた。モニターに映る真紅のシルエットは、ライトも豪華な舞台装置も必要とせず、彼女自身の存在だけで舞踊の美しさを体現していた。番組の公式ライブ配信の視聴者数は、みるみるうちに減っていく。和真だけでなく、観客の視線もすべて、あの個人配信のほうに吸い寄せられていた。コメント欄は、真っ赤なシルエットへの熱狂で埋め尽くされていた。【言葉が出ない。ただただ「すごい」としか言えない】【圧巻!柊木さんのダンス見た後だと、成瀬さんのはただのコピーにしか見えない】【成瀬さんが突然「盗作認めろ」とか言ってた理由、あれもう犯人の自白だよね】【気づいた人いる?柊木さん、ずっと片足に力を集中させてる。まるで本当に怪我してるみたい】【もし怪我が嘘なら、あのリアルな動きからして彼女の実力は本物だし、本当に怪我してるなら、片足であれだけの難易度の動きなんて信じられない】【本当でも嘘でも、柊木さんがずっと過小評価されてたのは間違いない】やがて番組の審査員が不安そうに和真を見ながら、そっと尋ねた。「北条さん……この状況で、点数はどうすれば……?」和真はモニターから視線を外しながら短く答えた。「予定通りにやれ」「でも……観客の反応が――」「君たちは専門家だろ?」和真は苛立ちを隠さず言い捨てた。「どう評価するかなんて、君たち自身で決めればいいだろ」……一曲を踊り終えた私は、胸に溜まっていた息を深く吐き出し、更衣室に向かって服を着替えた。着替えを終えてから番組のライブ配信を確認すると、ちょうどあの買収された審査員たちが奈緒をべた褒めし、私を酷評している場面だった。「成瀬さんの舞踊こそが本物のダンスです。その技術力と感情表現の豊かさに比べて……柊木さんのは、ただの古臭い見せかけでしかありません」私は口元を少し引きつらせた。でも、そんな言葉に胸が痛むことはなかった。こういう高慢な「芸術家」たちは、いつも自分だけが正しいと信じて、大衆を見下し、騙せると思い込んでいる。でも私が言ったように、たとえ舞踊に詳しくなくても、美しさを感じ取る力は誰にでもある。私と奈緒、ど
番組の生放送当日、私は隼人にテレビ局まで送ってもらうのを断った。タクシーから降りたところで、和真が露骨に嘲ってきた。「千夏、隼人は落とせなかったの?それともただの遊び相手だった?」無視して通り過ぎようとすると、和真が腕を広げて前に立ちはだかった。「足の怪我、まだ治ってないだろ?今日のダンス、勝てるわけない」私は冷たく睨み返して言った。「彼女に勝つくらい、片足でも十分よ」和真は鼻で笑った。「ここ数年、俺が甘やかしすぎたんだな。調子に乗りやがって。昔のことを思い出させてやろうか?誰もがお前を避けてた時期、お前は俺の足元に跪いて『行かないで』って泣いて、水を買うのにすら俺の許可を求めてた……全部忘れたのか?」私は感情を抑えて静かに答えた。「和真、私がどれだけ真剣に、全身全霊であなたを愛してたか、あなたには見えなかったし、もう覚えてもいないのね。覚えてるのは、私の惨めさと……あなたが私を『救ってやった』ってことだけ」和真は一瞬、眉をひそめて言い返そうとしたが、私は言葉を続けた。「借りは全部返した。少しでも良心が残ってるなら、私と成瀬さんのことに口を出さないで」「奈緒は俺の女だぞ」和真はだらしない声で言った。「自分の女を守るのがそんなに悪いか?」私は静かに頷いた。「ええ、正論ね」和真の目に、ふっと光が差した。「わかってるだろ?俺は昔から身内には甘い。お前が今でも『俺の女』だったら、助けてやれたのにな」「どうやって?成瀬さんが盗人だって世間に言うの?」和真は唇を噛みしめ、少し沈黙したあとで言った。「今すぐ自主的に番組を降りれば、あとでちゃんと仕事のチャンスを回してやる。ネットの評判だって、俺がなんとかしてやる」私は彼の手を振り払った。「……最低ね」「千夏!これが最後のチャンスだぞ!」振り返らずにエレベーターに乗り、扉が閉まると同時に、和真の声も遮断された。和真が本気で、今度こそ私を潰そうとしているのは分かっていた。ステージ美術、音響、バックダンサー――すべて国際的に有名なチームを揃え、さらに『ダンサーショー』のディレクターや審査員まで金で動かしていた。「柊木さん、こちらがあなたのステージになります」馴染みのある中村プロデューサーが、長年使われていなかった旧スタジオに案内してきた。「舞
奈緒は、完全にわざとやっている。私の足の怪我がまだ治りきっていないのを知ったうえで、あえてその場での対決を提案してきた。先に手を打って、優位に立とうというつもりなのだろう。今の私がどれだけ事実を語ったとしても、ネットの人たちは信じてくれない。その状況で、彼女が少しでも話を誘導すれば、私は「仕返し目的で動いた」と簡単に解釈されてしまう。奈緒はすべて計算済みだった。でも、私が自分を証明できる映像を持っているなんて、思いもしなかったようだ。文案の編集を終え、指を送信ボタンの上に置く。軽く押すだけで、真実が世に出る。……けれど、ふと気が変わった。こんなに簡単に彼女を暴くのは、なんだか物足りない。成瀬奈緒という名前も、彼女自身も、きっちりと恥辱の柱に縛りつけてやりたい。秋のバッタのように、目の前でピョンピョンと跳ね回る姿は、見ていて苛立つ。送信をキャンセルし、三文字だけ打ち込んだ。【ステージで会いましょう】『ダンサーショー』は、今や私と奈緒の対決が注目の的となり、最も話題を集めているバラエティ番組になっていた。番組ディレクターが私に連絡してきて、契約の細かい内容やステージ演出について丁寧に話してくれた。ディレクターの態度は誠実そのもので、舞台演出の要求も非常に的確だった。何度か会ううちに、会話もスムーズに弾むようになっていった。ディレクターは「ステージの手配は僕に任せてください」と自ら名乗りを上げ、私は自分のステージデザインの構想をすべて彼に伝えた。ディレクターは自信満々にこう言った。「全部任せてください。絶対にご満足いただけます!」ところが、生放送の前日。奈緒のSNSに、完成したステージ装飾の写真がアップされた。そこに写っていたのは、紛れもなく、私が考えたあの舞台だった。厚かましくも彼女は、その写真にこんなコメントを添えていた。【これは私の戦いの舞台です】コメント欄は賞賛の声で溢れていた。【うわー、すごい!国内ステージ演出の新境地じゃない?】【要素盛りだくさん!細部のこだわりが半端ない。特に中央の白いバラ、最高!】【奈緒ちゃん、恋愛では不運でも、仕事はトップクラス。文句のつけようがないね】『ダンサーショー』のルールでは、ステージのアイデアは出演者自身が考えるこ