「あんた!いい加減にして!」陽菜が青ざめた顔で、オフィスから飛び出してきた。冷ややかな視線で周囲を一掃すると、誰も彼女と目を合わせようとせず、皆一斉に自分の席に戻っていく。だが、その視線がほんの一瞬こちらで止まった気がして、俺も慌てて自分の席に戻った。陽菜は初老の男をオフィスに引き戻し、ドアを閉めたが、中からは怒鳴り声や何かがぶつかる音が響き渡る。「もう、どうしろっていうのよ!何年も私を放りっぱなしにしておいて、今さら何様のつもりよ!」数分後、顔に青あざを作った陽菜がオフィスから飛び出してきた。その後を、鉄パイプを手にした小次郎が、すさまじい怒りの形相で追いかけてくる。「この......覚悟しろよ!」その姿に背筋が凍りつく。もしもこのまま殴りかかられたら、本当に命に関わる。陽菜がこちらに向かってくるのが見えた瞬間、俺は迷いつつも決意して立ち上がり、小次郎の前に立ちはだかった。「邪魔だ、クソガキが!」小次郎が凶暴な目で俺を睨む。俺は唾を飲み込み、「......やめてください。これ以上やれば、本当に警察沙汰になります」と静かに言い返した。「お前なんかが、何を仕切ってんだ?」と小次郎は俺を力任せに突き飛ばし、よろめいた俺はなんとか体勢を立て直した。眉をひそめつつも、俺は再び彼の前に立ち、「やめないなら、警察を呼びますよ」すると小次郎は目を剥き、冷たい視線で俺を睨みつけた。「てめえ、あの女を庇うってことは―まさかあれは、お前の子か?」その言葉に、俺は完全に固まってしまった。待てよ、子ども?......妊娠?そういえば......二ヶ月ほど前、陽菜がマッサージ館に来た時、確か何の対策もしてなかったような......?いや、まさかそんな偶然はないだろう。きっと陽菜も事後にちゃんと何か対策しているはずだし、まさか盲人マッサージ師の子どもなんてあり得ないだろう。自分にそう言い聞かせ、深呼吸して落ち着く。「何を言っているのか知りませんが、陽菜さんは僕たちの上司です。見て見ぬふりであなたに殴らせるわけにはいきません」そして周りに向かって叫んだ。「おい、何をボーッとしてるんだ?俺たちを食わせてくれている人を忘れたのか?」その言葉に周囲の同僚たちは顔を見合わせながらも、ようやく立ち上がり、みんなで小次郎を囲み始
そっと首を向けると、そこには陽菜が座っていて、ベッドの脇でリンゴをむいていた。「部長......」俺は慌てて体を起こそうとしたが、陽菜が俺を押し戻し「寝てなさい、しっかり休んで」と言ってくれた。「部長が病院に連れてきてくれたんですか?」俺が尋ねると、陽菜は頷いた。「仕事を終えて帰る時に、駐車場で倒れているのを見かけて」「ありがとうございます、本当に......」俺は感謝の気持ちを込めて彼女を見たが、陽菜は手をひらひらと振り、じっと俺の顔を見つめてきた。「佐藤く......おえっ......!」陽菜が言葉を発しかけた瞬間、突然顔を手で覆ってゴミ箱に身を屈めた。大丈夫だろうかと心配になり、「部長、体調悪いんですか?」と声をかけると、陽菜はしばらく吐き気をこらえた後、こちらをじっと見つめたまま口を拭った。その視線に俺はなんとも言えない居心地の悪さを感じたが、陽菜が口を開いた。「......私、妊娠したの」陽菜が突然そう言った。一瞬、何を言われたのか理解できず、困惑したまま彼女を見つめる。小次郎のあの騒ぎで、社内の誰もが彼女の妊娠について知っているのは確かだ。「あなたの子よ」「そうですか......え......えっ、ええ?!」最初は何気なく頷いたが、その意味がわかった瞬間、思わず目を見開いて陽菜を凝視した。「俺の......?そんな......まさか!」信じられない。絶対に何かの冗談か言い間違いだと思いたかったが、陽菜は真剣なまなざしを向けたまま、無言で俺を見つめているだけだった。しばらくして俺は耐えきれず、沈黙を破った。「あの......あの後、薬を飲まなかったんですか?」陽菜は静かに首を横に振る。「まさか......なんで......なんで薬を飲まなかったんですか!」俺が驚きの声を上げると、陽菜はただ無言で、じっとこちらを見ている。俺は言葉に詰まって、ため息をつき、頭を抱えた。「お願い......一つだけ手伝ってくれたら、私たちの関係もこれで終わりにするわ」陽菜の声は淡々としていた。俺は眉をひそめ、陽菜をじっと見つめた。陽菜も静かに俺の視線を受け止め、やがてこう言った。「助けてほしいことがあるの」「何を?」何があろうと、妻と子どもを捨てるなんてできない。
「動くな!」警官たちは俺に何の説明もなく、すぐに俺を地面に押さえつけてきた。頭が真っ白になり、何が起こっているのかわからないまま、気がつくと俺は警察署へ連行されていた。―くそ、完全に陽菜にハメられた!「警察官さん!俺は無実です!小次郎を殺したのは俺じゃありません!」必死に訴えたが、警官は冷静に答えた。「昨日の夕方、小次郎に手下を連れて襲われたのは事実だな?」「それは......」「高坂小次郎は頸動脈を切られ、失血死している。凶器には君の指紋がべったり付着していて、全身に彼の血がついていた。さらに、家の監視カメラも破壊されている。これだけの状況証拠が揃っていれば、君が報復で彼を殺したと考えるのが妥当だ」その説明を聞くたび、俺の顔はどんどん青ざめていった。「違う、俺じゃない!陽菜が俺を家に呼び出して、薬を盛って、彼を殺したんだ!」必死に叫んでみたが、警官はただ静かに俺を見つめているだけだった。その後も警官による取り調べが続き、俺は質問に正直に答えていった。すると、別の警官が「隊長、小次郎の家ですが、指紋があまりにもきれいすぎます。小次郎と佐藤の以外には一つも出てきていません」と報告する声が聞こえてきた。「現場が処理された痕跡がある、ということか?」隊長の声が低く響いた。「そうかもしれません」「そうです!俺は無実なんです!絶対に信じてください!」思わぬ展開に俺は希望を見出し、必死に訴えた。隊長は俺を一瞥し、無言で部屋を出て行った。その夜、取り調べ室の片隅で眠れないまま朝を迎え、翌朝早く、隊長が再び現れた。「......無事だよ、真犯人を捕まえた」その一言が耳に入った瞬間、まるで天の声が聞こえたかのような気分だった。「それって......部長ですか?」俺は怒りを込めて尋ねた。隊長は頷いた。俺は悔しさに歯を食いしばり、憤りに満ちた目で隊長に詰め寄った。陽菜がなぜそんなことをしたのか尋ねると、隊長はざっと事情を説明してくれた。実は、あの時マッサージ館で小次郎が陽菜に怒鳴り込んだ際、彼はすでに彼女の浮気を疑っていたらしい。そこから小次郎の怒りはさらにエスカレートし、陽菜を殴る蹴るで一度は彼女を病院送りにまでしていたという。そんな地獄から抜け出すため、陽菜はあらゆる方法で小次郎か
俺の名前は佐藤悠斗、製品販売員だ。数年前から続くコロナ禍で会社の業績はガタ落ち、おかげでこの仕事を失わずに済んでいるだけでもありがたいくらいで、歩合なんておこぼれもなかった。でも、嫁と子どもを養うためにはどうしても稼がなきゃならない。だから本業のかたわら、昔学んだ技術を思い出し、マッサージ師の副業を始めたんだ。俺は大学に進学せず、高校を出るとすぐ専門技術の学校に進み、漢方医学のツボ押しマッサージを学んだ。それでも、この技術にはどこか劣等感を抱いていて、卒業してすぐ営業の仕事に就いた。正直、今みたいにどうにもならなくなってなきゃ、またこの仕事をやるなんて考えなかっただろうな。副業を探しているとき、どうやら「盲人マッサージ師」は普通のマッサージ師よりも稼げると知って、俺は「盲人」に扮することにした。サングラスをかけて目が見えないふりをして、盲人マッサージ館に面接に行ったら、なんと大成功。手技の腕は良いと評判も上々で、すんなり副業が決まったのだ。それから、昼間は営業マンとして働き、夜になると盲人のふりをしてマッサージをするという生活を続けていた。盲人マッサージの収入も家計の足しにはなっていて、これで家族を支えられるだろうと思っていた矢先のことだ。ある日、仕事を始めて半月ほど経った頃、店のオーナーが俺の肩をポンと叩いてきた。「佐藤くん、もううちで働いて半月くらいになるよな?」オーナーはにっこり笑う。「はい、そうですね。何か、まずいところがあったでしょうか?」と、俺は緊張して尋ねた。オーナーは手を振りながら、「いやいや、すごくいいよ。君にマッサージしてもらったお客さんはみんな満足してくれてる」とにこやかに答える。俺はほっと胸をなでおろした。オーナーは続けて、「実はね、君に特別なチャンスを与えようと思ってさ。どうだい、もっと稼ぎたいだろう?」と、にやりと笑う。「ええ、もちろんです!」俺は慌てて頷いた。オーナーも満足そうに頷く。俺は興奮していたが、次の瞬間、彼の目が鋭く俺を見据え、突然手を俺の目に向かって突き出してきたのだ。思わず身がすくみ、反射的に避けそうになる。しかし......俺はぐっと堪えた。今、俺は「盲人」のはずだ。ここで動いたら、バレてしまう!オーナーの指が俺の目のすぐ前で止まる。俺はびくともせずじっとしてい
心の中で「冷静に、絶対に隙を見せるな」と何度も自分に言い聞かせながら、俺はマッサージを始めた。陽菜さんの肌は、想像以上に柔らかくて滑らかだ。手のひらに心地良い感触が伝わってきて、正直、集中力が少し揺らぐくらいだ。いつも通りの手法で進めていたが、しばらくすると彼女が少し不満げに口を開いた。「何してるの?ちゃんと、オーナーからやり方を教わってきたのよね?」突然の言葉に一瞬動きが止まってしまう俺。すると、陽菜は俺の手をつかむと、しなやかに引っ張って自分のヒップの方へと導いた。ゴクリと唾を飲み込み、少し震える両手で彼女のヒップに触れながら、再びマッサージを開始する。昨日、オーナーから聞いた時点で、なんとなく「特別サービス」の内容は予想していたものの、いざこうして始まると......思った以上に心臓がバクバクして落ち着かない。俺の手の動きに合わせて、陽菜は次第に息を漏らし始めた。その唇を少し噛んでいる姿は艶っぽくて、こっちまで気持ちが高ぶってしまい、思わず襲いかかりそうになるのを必死にこらえた。そして全力を注いでツボを攻め続けた結果、陽菜の体は何度も痙攣し、ついにマッサージが終わった。しばらくの間、彼女はベッドで息を整えていたが、落ち着くと煙草に火をつけて、「......悪くないじゃない、上手だったわ」と一言。俺はできるだけ冷静に見えるよう、彼女の横で恭しく立っていた。陽菜は煙をくゆらせながらバッグから厚めの札束を取り出し、それをベッドに置くと俺に向かってちらりと視線を向けた。俺はそのお金を見ずに、視線をそらして反応しないように気をつける。もしかして、彼女が俺を試しているのかもしれないからだ。案の定、陽菜さんは俺の反応を観察していた。俺が無反応なのを見て、彼女は満足そうに微笑むと、札束を手に取って俺に手渡しながら言った。「これ、チップよ。また来るわ。その時も頼むわね」そう言いながら札束を俺の手に押し付けてきた。まったく、慎重な人だ......俺は心の中で安堵しながら、感激したフリをしつつ札束の厚みを確かめてみせ、「ありがとうございます!」とお礼を言った。陽菜が手を振って「もういいわ」と促してくれたので、俺はその場を離れた。部屋を出て一人になった瞬間、手に握られた札束に目をやる。ざっと見積もって十万円くらい
今度は俺も抵抗しなかった。というのも、まず提示された額がデカすぎる。いや、それに加えて、正直に言うと陽菜への抗えない気持ちもあった。彼女にたっぷり三十分はしごかれた後、腰はもうギリギリ限界寸前だった。陽菜は黙ってベッドに横たわり、女性用の細いタバコを一服。俺は疲れ切った体をさすりながら、心の中であれこれと考えていた。高坂陽菜って既婚者だったはずだよな......?なのにまるで飢えた狼みたいだったぞ......もしや、旦那のほうが役に立たないのか?そんなことをぼんやりと想像していた、その時だった。「佐藤!佐藤!」と、俺の制服にかけてあった無線機から呼びかけが。一瞬で現実に戻り、慌てて無線を手に取った。「九条さん、どうしました?」「急げ!今すぐお客さんを隠し通路に連れて行け!上に誰か来たぞ!」その瞬間、背中に冷や汗が流れた。このマッサージ館の最上階には各部屋に隠し通路があり、トラブルが起きた際にはVIPのお客さんを迅速に退避させる仕組みになっている。考える余裕もなく、俺は壁際に駆け寄ると、ある場所の隠しボタンを押した。すると、壁の絵がスライドし、暗い通路が現れたのだ。「早く!」俺は裸の陽菜を引っ張り、暗闇の通路に飛び込んだ。陽菜は目を細め、じっと俺を見つめている。......その瞬間、やっと気づいた。そうだ!俺は盲人って設定だったんだ!盲人がこんな正確に暗門の場所を知っているわけがないし、目もきょろきょろ動いてしまっている!やべえ、これは完全にバレた!だけど、もうどうしようもなかった。廊下の外から、怒鳴り声が響いてきたのだから。「おい!陽菜!そこにいるんだろ、出てこい!」俺は急いで暗門を閉じ、陽菜と狭い通路の中で身を寄せたまま固まっていた。「......クソ!どこに隠れやがった!陽菜!ここにいるのはわかってんだぞ!くそったれが!」男は執拗に外で叫び続けている。俺は緊張で思わず陽菜の手をぎゅっと握りしめていたが、気がついても放すことができなかった。陽菜も無言のまま、じっと男が去るのを待っている。やがてようやく男が立ち去り、陽菜は冷たく言った。「......あんた、盲目じゃないわね」「そ、それは......」言い訳しようとした次の瞬間、陽菜の平手が俺の顔に飛んできた。「こ
「動くな!」警官たちは俺に何の説明もなく、すぐに俺を地面に押さえつけてきた。頭が真っ白になり、何が起こっているのかわからないまま、気がつくと俺は警察署へ連行されていた。―くそ、完全に陽菜にハメられた!「警察官さん!俺は無実です!小次郎を殺したのは俺じゃありません!」必死に訴えたが、警官は冷静に答えた。「昨日の夕方、小次郎に手下を連れて襲われたのは事実だな?」「それは......」「高坂小次郎は頸動脈を切られ、失血死している。凶器には君の指紋がべったり付着していて、全身に彼の血がついていた。さらに、家の監視カメラも破壊されている。これだけの状況証拠が揃っていれば、君が報復で彼を殺したと考えるのが妥当だ」その説明を聞くたび、俺の顔はどんどん青ざめていった。「違う、俺じゃない!陽菜が俺を家に呼び出して、薬を盛って、彼を殺したんだ!」必死に叫んでみたが、警官はただ静かに俺を見つめているだけだった。その後も警官による取り調べが続き、俺は質問に正直に答えていった。すると、別の警官が「隊長、小次郎の家ですが、指紋があまりにもきれいすぎます。小次郎と佐藤の以外には一つも出てきていません」と報告する声が聞こえてきた。「現場が処理された痕跡がある、ということか?」隊長の声が低く響いた。「そうかもしれません」「そうです!俺は無実なんです!絶対に信じてください!」思わぬ展開に俺は希望を見出し、必死に訴えた。隊長は俺を一瞥し、無言で部屋を出て行った。その夜、取り調べ室の片隅で眠れないまま朝を迎え、翌朝早く、隊長が再び現れた。「......無事だよ、真犯人を捕まえた」その一言が耳に入った瞬間、まるで天の声が聞こえたかのような気分だった。「それって......部長ですか?」俺は怒りを込めて尋ねた。隊長は頷いた。俺は悔しさに歯を食いしばり、憤りに満ちた目で隊長に詰め寄った。陽菜がなぜそんなことをしたのか尋ねると、隊長はざっと事情を説明してくれた。実は、あの時マッサージ館で小次郎が陽菜に怒鳴り込んだ際、彼はすでに彼女の浮気を疑っていたらしい。そこから小次郎の怒りはさらにエスカレートし、陽菜を殴る蹴るで一度は彼女を病院送りにまでしていたという。そんな地獄から抜け出すため、陽菜はあらゆる方法で小次郎か
そっと首を向けると、そこには陽菜が座っていて、ベッドの脇でリンゴをむいていた。「部長......」俺は慌てて体を起こそうとしたが、陽菜が俺を押し戻し「寝てなさい、しっかり休んで」と言ってくれた。「部長が病院に連れてきてくれたんですか?」俺が尋ねると、陽菜は頷いた。「仕事を終えて帰る時に、駐車場で倒れているのを見かけて」「ありがとうございます、本当に......」俺は感謝の気持ちを込めて彼女を見たが、陽菜は手をひらひらと振り、じっと俺の顔を見つめてきた。「佐藤く......おえっ......!」陽菜が言葉を発しかけた瞬間、突然顔を手で覆ってゴミ箱に身を屈めた。大丈夫だろうかと心配になり、「部長、体調悪いんですか?」と声をかけると、陽菜はしばらく吐き気をこらえた後、こちらをじっと見つめたまま口を拭った。その視線に俺はなんとも言えない居心地の悪さを感じたが、陽菜が口を開いた。「......私、妊娠したの」陽菜が突然そう言った。一瞬、何を言われたのか理解できず、困惑したまま彼女を見つめる。小次郎のあの騒ぎで、社内の誰もが彼女の妊娠について知っているのは確かだ。「あなたの子よ」「そうですか......え......えっ、ええ?!」最初は何気なく頷いたが、その意味がわかった瞬間、思わず目を見開いて陽菜を凝視した。「俺の......?そんな......まさか!」信じられない。絶対に何かの冗談か言い間違いだと思いたかったが、陽菜は真剣なまなざしを向けたまま、無言で俺を見つめているだけだった。しばらくして俺は耐えきれず、沈黙を破った。「あの......あの後、薬を飲まなかったんですか?」陽菜は静かに首を横に振る。「まさか......なんで......なんで薬を飲まなかったんですか!」俺が驚きの声を上げると、陽菜はただ無言で、じっとこちらを見ている。俺は言葉に詰まって、ため息をつき、頭を抱えた。「お願い......一つだけ手伝ってくれたら、私たちの関係もこれで終わりにするわ」陽菜の声は淡々としていた。俺は眉をひそめ、陽菜をじっと見つめた。陽菜も静かに俺の視線を受け止め、やがてこう言った。「助けてほしいことがあるの」「何を?」何があろうと、妻と子どもを捨てるなんてできない。
「あんた!いい加減にして!」陽菜が青ざめた顔で、オフィスから飛び出してきた。冷ややかな視線で周囲を一掃すると、誰も彼女と目を合わせようとせず、皆一斉に自分の席に戻っていく。だが、その視線がほんの一瞬こちらで止まった気がして、俺も慌てて自分の席に戻った。陽菜は初老の男をオフィスに引き戻し、ドアを閉めたが、中からは怒鳴り声や何かがぶつかる音が響き渡る。「もう、どうしろっていうのよ!何年も私を放りっぱなしにしておいて、今さら何様のつもりよ!」数分後、顔に青あざを作った陽菜がオフィスから飛び出してきた。その後を、鉄パイプを手にした小次郎が、すさまじい怒りの形相で追いかけてくる。「この......覚悟しろよ!」その姿に背筋が凍りつく。もしもこのまま殴りかかられたら、本当に命に関わる。陽菜がこちらに向かってくるのが見えた瞬間、俺は迷いつつも決意して立ち上がり、小次郎の前に立ちはだかった。「邪魔だ、クソガキが!」小次郎が凶暴な目で俺を睨む。俺は唾を飲み込み、「......やめてください。これ以上やれば、本当に警察沙汰になります」と静かに言い返した。「お前なんかが、何を仕切ってんだ?」と小次郎は俺を力任せに突き飛ばし、よろめいた俺はなんとか体勢を立て直した。眉をひそめつつも、俺は再び彼の前に立ち、「やめないなら、警察を呼びますよ」すると小次郎は目を剥き、冷たい視線で俺を睨みつけた。「てめえ、あの女を庇うってことは―まさかあれは、お前の子か?」その言葉に、俺は完全に固まってしまった。待てよ、子ども?......妊娠?そういえば......二ヶ月ほど前、陽菜がマッサージ館に来た時、確か何の対策もしてなかったような......?いや、まさかそんな偶然はないだろう。きっと陽菜も事後にちゃんと何か対策しているはずだし、まさか盲人マッサージ師の子どもなんてあり得ないだろう。自分にそう言い聞かせ、深呼吸して落ち着く。「何を言っているのか知りませんが、陽菜さんは僕たちの上司です。見て見ぬふりであなたに殴らせるわけにはいきません」そして周りに向かって叫んだ。「おい、何をボーッとしてるんだ?俺たちを食わせてくれている人を忘れたのか?」その言葉に周囲の同僚たちは顔を見合わせながらも、ようやく立ち上がり、みんなで小次郎を囲み始
俺は下を向いたまま、陽菜の目を一切見ようとしなかった。きっと彼女の目は今、俺を食い尽くすかのような怒りの視線を放っているに違いない。賞品授与の時間もひたすら沈黙を貫き、儀式が終わるやいなや、俺は全速力でステージから降りた。その日の夜、マッサージ館へ向かうと、入口でオーナーが険しい顔をして俺を待っていた。「佐藤、ちょっと来い」オーナーの冷たい視線に、俺は内心「ついに来たか......」と覚悟を決めた。「オーナー、どこに行くんですか?」と言いながら、盲人のフリをして壁を手探りしながら進もうとすると、オーナーは俺を小馬鹿にしたように一瞥し、淡々と言った。「もういい、やめとけ。お前が盲人じゃないこと、全部知ってる」その言葉に、俺の体が一瞬で固まった。やはり、陽菜が俺のことを暴露したんだ。今日あんな形で再会した以上、彼女が黙っているはずがない。俺は観念して壁を探るフリをやめ、正面からオーナーの視線を受け止めた。「ついて来い」オーナーは俺を連れてオフィスに向かい、椅子に腰を下ろすと改めて俺をじっくり見つめ、「まったく、お前の演技、かなりのもんだったな」と感心したように唸った。俺は気まずく笑いながら、答えた。「オーナー、本当にすみません......俺も盲人しか雇わないって聞いてたから......仕方なく」弁解しようとしたが、オーナーは手を振って俺の言葉を遮った。「佐藤、俺がなんで盲人マッサージ師しか雇わないかわかるか?」「それは......ここが盲人マッサージ館だからじゃ?」オーナーは笑いながら言った。「ただの看板だ。俺が盲人マッサージ師を求める理由はな、この最上階に来るVIP客のことだよ。彼女たちは全員身元が明かせない重要人物ばかりでね、盲人の方が安心して利用してもらえるんだ」俺は驚きつつも、黙って頷いた。「オーナー、それじゃ......」俺はしょんぼりと頭を下げ、解雇を覚悟した。だが意外なことに、オーナーは肩を叩きながら温かい口調で言った。「お前がうちに来てから、客が倍以上に増えて店の評判も良くなった。正直、俺としては目が見えていようがどうでもいいんだ。今後もずっと盲人として振る舞ってくれれば、これ以上のことは何も言わんよ」俺はその言葉に驚き、すぐに喜びが込み上げてきた。「わかりました!これからは
今度は俺も抵抗しなかった。というのも、まず提示された額がデカすぎる。いや、それに加えて、正直に言うと陽菜への抗えない気持ちもあった。彼女にたっぷり三十分はしごかれた後、腰はもうギリギリ限界寸前だった。陽菜は黙ってベッドに横たわり、女性用の細いタバコを一服。俺は疲れ切った体をさすりながら、心の中であれこれと考えていた。高坂陽菜って既婚者だったはずだよな......?なのにまるで飢えた狼みたいだったぞ......もしや、旦那のほうが役に立たないのか?そんなことをぼんやりと想像していた、その時だった。「佐藤!佐藤!」と、俺の制服にかけてあった無線機から呼びかけが。一瞬で現実に戻り、慌てて無線を手に取った。「九条さん、どうしました?」「急げ!今すぐお客さんを隠し通路に連れて行け!上に誰か来たぞ!」その瞬間、背中に冷や汗が流れた。このマッサージ館の最上階には各部屋に隠し通路があり、トラブルが起きた際にはVIPのお客さんを迅速に退避させる仕組みになっている。考える余裕もなく、俺は壁際に駆け寄ると、ある場所の隠しボタンを押した。すると、壁の絵がスライドし、暗い通路が現れたのだ。「早く!」俺は裸の陽菜を引っ張り、暗闇の通路に飛び込んだ。陽菜は目を細め、じっと俺を見つめている。......その瞬間、やっと気づいた。そうだ!俺は盲人って設定だったんだ!盲人がこんな正確に暗門の場所を知っているわけがないし、目もきょろきょろ動いてしまっている!やべえ、これは完全にバレた!だけど、もうどうしようもなかった。廊下の外から、怒鳴り声が響いてきたのだから。「おい!陽菜!そこにいるんだろ、出てこい!」俺は急いで暗門を閉じ、陽菜と狭い通路の中で身を寄せたまま固まっていた。「......クソ!どこに隠れやがった!陽菜!ここにいるのはわかってんだぞ!くそったれが!」男は執拗に外で叫び続けている。俺は緊張で思わず陽菜の手をぎゅっと握りしめていたが、気がついても放すことができなかった。陽菜も無言のまま、じっと男が去るのを待っている。やがてようやく男が立ち去り、陽菜は冷たく言った。「......あんた、盲目じゃないわね」「そ、それは......」言い訳しようとした次の瞬間、陽菜の平手が俺の顔に飛んできた。「こ
心の中で「冷静に、絶対に隙を見せるな」と何度も自分に言い聞かせながら、俺はマッサージを始めた。陽菜さんの肌は、想像以上に柔らかくて滑らかだ。手のひらに心地良い感触が伝わってきて、正直、集中力が少し揺らぐくらいだ。いつも通りの手法で進めていたが、しばらくすると彼女が少し不満げに口を開いた。「何してるの?ちゃんと、オーナーからやり方を教わってきたのよね?」突然の言葉に一瞬動きが止まってしまう俺。すると、陽菜は俺の手をつかむと、しなやかに引っ張って自分のヒップの方へと導いた。ゴクリと唾を飲み込み、少し震える両手で彼女のヒップに触れながら、再びマッサージを開始する。昨日、オーナーから聞いた時点で、なんとなく「特別サービス」の内容は予想していたものの、いざこうして始まると......思った以上に心臓がバクバクして落ち着かない。俺の手の動きに合わせて、陽菜は次第に息を漏らし始めた。その唇を少し噛んでいる姿は艶っぽくて、こっちまで気持ちが高ぶってしまい、思わず襲いかかりそうになるのを必死にこらえた。そして全力を注いでツボを攻め続けた結果、陽菜の体は何度も痙攣し、ついにマッサージが終わった。しばらくの間、彼女はベッドで息を整えていたが、落ち着くと煙草に火をつけて、「......悪くないじゃない、上手だったわ」と一言。俺はできるだけ冷静に見えるよう、彼女の横で恭しく立っていた。陽菜は煙をくゆらせながらバッグから厚めの札束を取り出し、それをベッドに置くと俺に向かってちらりと視線を向けた。俺はそのお金を見ずに、視線をそらして反応しないように気をつける。もしかして、彼女が俺を試しているのかもしれないからだ。案の定、陽菜さんは俺の反応を観察していた。俺が無反応なのを見て、彼女は満足そうに微笑むと、札束を手に取って俺に手渡しながら言った。「これ、チップよ。また来るわ。その時も頼むわね」そう言いながら札束を俺の手に押し付けてきた。まったく、慎重な人だ......俺は心の中で安堵しながら、感激したフリをしつつ札束の厚みを確かめてみせ、「ありがとうございます!」とお礼を言った。陽菜が手を振って「もういいわ」と促してくれたので、俺はその場を離れた。部屋を出て一人になった瞬間、手に握られた札束に目をやる。ざっと見積もって十万円くらい
俺の名前は佐藤悠斗、製品販売員だ。数年前から続くコロナ禍で会社の業績はガタ落ち、おかげでこの仕事を失わずに済んでいるだけでもありがたいくらいで、歩合なんておこぼれもなかった。でも、嫁と子どもを養うためにはどうしても稼がなきゃならない。だから本業のかたわら、昔学んだ技術を思い出し、マッサージ師の副業を始めたんだ。俺は大学に進学せず、高校を出るとすぐ専門技術の学校に進み、漢方医学のツボ押しマッサージを学んだ。それでも、この技術にはどこか劣等感を抱いていて、卒業してすぐ営業の仕事に就いた。正直、今みたいにどうにもならなくなってなきゃ、またこの仕事をやるなんて考えなかっただろうな。副業を探しているとき、どうやら「盲人マッサージ師」は普通のマッサージ師よりも稼げると知って、俺は「盲人」に扮することにした。サングラスをかけて目が見えないふりをして、盲人マッサージ館に面接に行ったら、なんと大成功。手技の腕は良いと評判も上々で、すんなり副業が決まったのだ。それから、昼間は営業マンとして働き、夜になると盲人のふりをしてマッサージをするという生活を続けていた。盲人マッサージの収入も家計の足しにはなっていて、これで家族を支えられるだろうと思っていた矢先のことだ。ある日、仕事を始めて半月ほど経った頃、店のオーナーが俺の肩をポンと叩いてきた。「佐藤くん、もううちで働いて半月くらいになるよな?」オーナーはにっこり笑う。「はい、そうですね。何か、まずいところがあったでしょうか?」と、俺は緊張して尋ねた。オーナーは手を振りながら、「いやいや、すごくいいよ。君にマッサージしてもらったお客さんはみんな満足してくれてる」とにこやかに答える。俺はほっと胸をなでおろした。オーナーは続けて、「実はね、君に特別なチャンスを与えようと思ってさ。どうだい、もっと稼ぎたいだろう?」と、にやりと笑う。「ええ、もちろんです!」俺は慌てて頷いた。オーナーも満足そうに頷く。俺は興奮していたが、次の瞬間、彼の目が鋭く俺を見据え、突然手を俺の目に向かって突き出してきたのだ。思わず身がすくみ、反射的に避けそうになる。しかし......俺はぐっと堪えた。今、俺は「盲人」のはずだ。ここで動いたら、バレてしまう!オーナーの指が俺の目のすぐ前で止まる。俺はびくともせずじっとしてい