「十分考えました」夕月の眼差しは揺るがない。「今さら入園を認めると仰っても、あなたこそがこの園の癌です。私の娘を、あなたの下には置けません」大勢の報道陣の前で、容赦のない言葉を投げかける夕月。園長の顔が青ざめ、次には朱に染まり、息遣いも荒くなっていく。震える指を夕月に向け、記者たちに向かって声を張り上げた。「皆さんご覧の通りです。藤宮さんご本人が退園を望まれた。私から追い出したわけではない。誤った報道だけは、ご遠慮願います」校門前は送迎の車や報道陣の車で溢れ、新たに到着した数台の公用車も目立たなかった。車内で我に返った石田局長は、窓の外の荘厳な校門を目にして目を見開いた。「どうしてここに?」慌てて運転手に問いかける。石田局長は後ろを振り返り、各部署の車が自分の後に続いているのを見て、さらに焦りが増した。運転手はかえって局長の質問に戸惑った様子で、「桐嶋様からここまでとお聞きしておりましたが……」石田局長は目を見開き、隣席の桐嶋を見つめた。スーツ姿の桐嶋は落ち着き払っていた。朝の光が車窓から差し込み、その横顔に朧げな金色の輪郭を描いている。彼は物憂げに顔を向け、局長の苛立った眼差しと視線を合わせた。教養ある石田局長は罵声こそ上げなかったものの、「到着したから、降りたまえ」と言い放った。「降りるのはあなたですよ」桐嶋は静かに告げた。「冗談はよしてくれ」局長は焦りを隠せない。「規律監察部の面々まで、こんなところへ連れてくるとは」石田局長は後悔していた。市役所で桐嶋を見かけ、検察庁行きと聞いて送ると申し出たのが運の尽き。車中で桜井園長の資料を取り出し、意見を仰ごうとしたのだ。数キロの道中で、一流弁護士の無料相談を得られると思ったのに、まさか学校まで来てしまうとは。後続の車には規律監察部の職員たち。先導と思い込んで、何も知らずについてきてしまった。桐嶋は自分のスマートフォンを局長に差し出した。「ALIコンテストの予選順位が発表されました」局長は聞く耳を持たず、運転手に指示を出す。「すぐに検察庁へ向かってくれ!」「藤宮夕月が首位です」桐嶋は淡々と続けた。石田局長の目に微かな波が立った。角張った顔には感情を押し殺したような固さが残る。桐嶋の視線は局長の横を通り過ぎ、窓の外へと向かう
「桐井、君の書類を持ってきた」低い男声が静寂を破った。一斉に振り向く人々。石田局長が大勢の職員を引き連れて現れた瞬間、園長の体が震えた。今回の態勢は尋常ではない。その異様な雰囲気に気づいた園長は、震える足を必死に動かして前に出た。「石、石田局長!まさかこんな所にご足労いただくとは……」園長が慌てて握手を求めたが、石田局長は代わりに茶封筒を差し出した。封筒には園長の名前が記されていた。「石田局長、これは……?」石田局長は冷厳な声で命じた。「書類を持って、桜井から出ていけ」園長の手が震え、封筒が地面に落ちる。膝が折れそうになり、まともに立っていられない。「局長……私が何を……」夕月の方をちらりと見た園長は、慌てて言い訳を始めた。「橘美優ちゃんの退園の件でしたら、すべて誤解です!むしろ私から丁重に、彼女の再入園をお願いしたところで……」石田局長は顎を上げ、「自分で開いて、中身を確認してみろ」と命じた。園長は震える手で紐を解き、中の書類を取り出した。細めていた目が一瞬で見開かれる。一番上の用紙には、昨夜の橘大奥様との通話記録が印刷されていた。会話の一言一句が克明に記録されている。その時、一枚の小切手がひらりと舞い落ちた。園長はその小切手を目にした瞬間、膝から崩れ落ちるように地面に座り込んだ。校門前に集まった記者たちは、鋭い取材勘で石田局長の来訪が尋常ではないことを直感的に悟った。数台のカメラが、床に散らばった書類に向けられる。「桐井園長の通話が盗聴されていた?不正の疑いがあるということでしょうか」「桐井」石田局長の声が冷たく響く。「よく見るんだ。長年に渡るキックバックの証拠が、そこにある。橘大奥様と結託して他の理事を締め出し、彼女の意のままに生徒を退学させた。私が今日来たのは、お前を解雇するだけじゃない。規律監察部の者たちに、教育現場を蝕む害虫の巣窟を示すためだ」地面に崩れ落ちたまま起き上がれない園長は、夕月に必死の面持ちで言い訳を始めた。「若葉社長からの指示だったんです。彼女には世話になっていて、私はただその言葉に従っただけで……」「娘に謝罪なさい」夕月の声は冷徹だった。園長は地面に這いつくばり、瑛優と夕月に向かって何度も頭を下げた。「申し訳ございません!若葉社
夕月が花橋大学に入学した当時、石田局長はまだ同大学の行政部門で書記を務めていた。石田の目に留まった彼女は、わずか14歳。養父母の負担を少しでも減らそうと、年齢を偽って放課後にアルバイトを探し回っていた。「そんな生活を続けていては、君の才能が潰れてしまう」石田は彼女を呼び止めると、諭すように言葉を続けた。「今は勉強に打ち込みなさい。君の持つ才能があれば、きっと今の君には想像もつかないような未来が待っているはずだ」そして夕月が桜都大学の博士課程への進学を決めた年、石田も昇進の知らせを受けていた。花橋大学の門前で、彼は夕月に手を振った。「天野夕月、ここまでだ。お前はきっと、私の届かない高みまで登っていくだろう。山々を見下ろす頂上に立った時、私が下から声援を送っているのが見えるはずだ」六年の歳月が流れ、再会した時には、石田局長は多くの随行員を引き連れ、学校視察という形で彼女の前に現れていた。夕月は子供たちを幼稚園に送った後、急ぎ足でショッピングモールへと向かった。今夜の冬真のパーティー用に、スーツを受け取らねばならない。それに合わせるネクタイとタイピンの選択も彼女の仕事だった。家政婦から今日の食材リストが送られてきて、夕月は一つ一つ細かく確認していく。今夜は義父母が食事に来るため、ふさわしい食器や装飾品も準備しなければならない。車の中でサンドイッチとコーヒーを口にしながら、シェフとの打ち合わせの電話をする。そんな時、ふと思い出した。今朝、校門前で六年ぶりに再会した石田書記のことを。かつて卒業する時、石田書記から贈られた言葉を、今では振り返る勇気すらない。その後も偶然出会うことはあったが、声をかける気力さえ持てなかった。あの頃、大きな期待を寄せられた天野夕月は、もういない。今の彼女は橘家の奥様であり、二人の子供の母親だ。石田局長との師弟関係は、すでに過去のものとなっていた。我に返ると、石田局長が穏やかな笑みを向けていた。「ALI数学コンテストで一位を取ったそうだね」「予選だけですから」夕月は謙遜して答えた。「おめでとう」石田局長は真摯な表情で告げた。橘家の奥様としてだけでなく、自分の人生を歩もうとする夕月の小さな一歩に、深い感慨を覚えているようだった。そして、集まった記者たちに向き直ると、「夕月のことを知
夕月は娘に優しく問いかけた。「瑛優、まだ桜井で学びたい?」瑛優は人だかりの中から、自分を切なげに見つめる古望時雨と橘望月の姿を探した。二人はすでに校内に入っていたはずなのに。しかし、校門前での騒動、園長の連行、そして規律監察部の捜査開始で状況は一変していた。主任や教師たちが次々と事情聴取に呼ばれている。特に園児たちは落ち着かない様子で、授業どころではなかった。何が起きているのか理解できないながらも、首を伸ばして校門の様子を覗き込み、珍しそうに騒ぎを見守っている。瑛優は先ほどの保護者たちを見据えて言った。「私とママにちゃんと謝ってくれたら、桜井に戻ってもいい」まだ五歳とは思えない凛とした態度。藤宮瑛優になってから、園の先生たち、友達、そして保護者たちがどれほど冷たい目を向けてきたか、痛いほど分かっていた。この保護者たちが園長に同調して、自分を追い出そうとした時の悲しみを、瑛優は忘れていなかった。何も悪いことはしていないのに。なぜ藤宮瑛優になることが、この人たちの目には、そんなに軽蔑すべきことなのだろう。「美優ちゃん」保護者たちは柔らかい声を装った。「私は藤宮瑛優です」保護者たちは口をすぼめ、毅然とした態度で娘を支持する夕月の姿を窺った。一人の保護者が小言を言いかけたような表情を浮かべたが、他の保護者たちに慌てて制止された。にこやかな笑顔を作り、深々と頭を下げる。「瑛優ちゃん、瑛優ママ、先ほどは申し訳ありませんでした。本当にごめんなさい!」「瑛優ちゃんには是非このまま桜井に残ってほしいの。うちの子も瑛優ちゃんの大切なお友達でしょう?別々になるのは寂しいわよね?」瑛優が一番心残りなのは、桜井で出会った大切な友達たちだった。「ママ」瑛優は夕月を見上げた。「どうしたら、皆が自分の間違いに気づいて、本当の気持ちで謝ってくれるの?」夕月は少し考えてから答えた。「そうね。皆さんSNSのアカウントをお持ちですよね。瑛優が今後、園で差別を受けないためにも、ご自身のアカウントで瑛優へのいじめの経緯と謝罪を投稿していただけませんか」すると、一人の母親が顔を強ばらせた。「私のSNSは数十万人のフォロワーが……」言い終わる前に、横から肘で突っつかれ、言葉を飲み込んだ。馬鹿じゃないの!サブアカウントを作って謝罪す
瑛優は両腕に望月と時雨を抱え込むと、くるくると回り始めた。「橘美優!!何してるの!早く私の娘を降ろしなさい!」橘京花の悲鳴のような声が響いた。しかし返ってきたのは、三人の女の子たちの弾けるような笑い声だけ。まるでハンマー投げのように二人を放り投げてしまわないか――そんな心配を抱きながら、夕月は優しく瑛優の背中を叩いた。「さあ、教室に行きましょう」瑛優が二人を下ろすと、望月と時雨の額には汗が浮かんでいたが、瑛優は息一つ乱れておらず、頬も上気していない。丸い黒い瞳が、夕月の手にある書類に注がれた。「私の学籍書類、もう取り出されちゃったけど、戻せるの?」「改名したでしょう?ママが来たのは、新しい名前で書類を書き直してもらうためよ」夕月は説明した。夕月はしゃがみ込んで、真剣な表情で娘に語りかけた。「瑛優、お友達と離れたくないという気持ち、ママは理解したわ。他のお母さんたちも少しは反省したでしょうけど、悠斗くんと同じクラスで……」「逃げないよ、ママ!」瑛優の瞳には強い決意が宿っていた。「悠斗くんに教えてあげる。私のこと、藤宮瑛優のことを、バカにしたり、いじめたりしちゃダメだって!」春の風のように優しい笑みを浮かべながら、夕月は「そう」と頷いた。これは娘が自分で選んだ道。夕月は娘に自由を与え、思う存分羽ばたかせてあげようと決めていた。瑛優は左手に望月を、右手に時雨を繋ぎ、三人の幼い姿が弾むように園内へと消えていった。夕月が振り返ると、そこには悠斗の姿があった。じっと自分を見つめる息子の瞳に気付く。母親の視線を感じ取るや否や、悠斗は素っ気なく顔を背けた。「ふん!」ママが仲直りしたがってるのは分かってるけど、僕だってそう簡単には許さないもん!「楓兄貴、バイバーイ!」悠斗は藤宮楓に向かって手を振った。「じゃあね、悠斗くん!お迎えは私とパパで来るからね」悠斗の表情が途端に明るくなる。やっぱり楓兄貴は最高だ!パパを説得して幼稚園までお迎えに来させられる人こそ、世界で一番すごい人なんだから!夕月はすでに息子から目を逸らしていた。「先生、お送りいたします」石田局長の後ろについて、公用車へと向かう。局長の口元に何やら意味深な笑みが浮かんだ。桐嶋のやつ、まるで隠せてないな、その想い!夕月に対してどのように
その声に社員たちの注目が一斉に集まった。「マジで?見せて!」「この専業主婦の下には、プリンストン大学やスタンフォード大学、カリフォルニア工科大の学生が並んでるぞ!」エレベーター内に驚愕の吐息が響き渡った。冬真の秘書も社員たちの話題に興味を引かれたが、より冷静な態度を保っていた。「きっと運営側のデータ入力ミスでしょう」秘書は冬真に向かって笑みを浮かべながら言った。「これまでALIの金賞受賞者と言えば、欧米帰りのエリートか、国内トップ校の著名な研究者ばかり。専業主婦が一位なんて、ALIの看板に傷をつけることになりますよ」その言葉が終わらないうちに、ある社員がスマートフォンの画面を覗き込みながら読み上げた。「予選一位は……藤宮夕月さん、27歳。花橋大学卒業後、七年間専業主婦として……」これはALI公式サイトで誰でも確認できる参加者情報だった。この注目度の高い数学コンテストは、大手企業への就職や一流大学院への進学の足がかりとなる。そのため、参加者は自身の経歴を公開し、企業や大学からのアプローチを待っているのだ。上位100名の中で、学部卒は藤宮夕月だけだった。他の参加者たちは毎年のように輝かしい受賞歴を持ち、留学経験や華々しい職歴を誇るなか、藤宮夕月の履歴だけが空白に近かった。七年の月日は「専業主婦」の四文字に集約されていた。秘書の頭の中が真っ白になった。「え、一位の名前は?」「藤宮夕月さんです。清水さん、こちらをご覧ください」社員が差し出したスマートフォンを、清水秘書は目を見開いて凝視した。まるで画面に穴が開くほどの勢いだ。「はは……」不自然な笑みを浮かべながら、「なんとも……興味深い偶然ですね」戦々恐々とした様子で冬真の方を窺う。冬真は記憶を辿った。夕月は確かに花橋大の出身で、その後七年間専業主婦として過ごしている。まさか本当に彼女なのか?「ありえない」その思いが頭をよぎった瞬間、冬真は即座にその可能性を否定した。十年前の夕月が人並み外れた知能を持つ天才少女だったことは認める。だが、数学から七年も遠ざかっていれば、記憶は確実に薄れているはずだ。今となっては高校数学さえ怪しいだろう。仮に今回のALI数学コンテストの予選首位が本当に夕月だとしたら、それは明らかに運営側の採点ミスとしか考えら
「もし先輩が博士課程を修了され、研究の道を選んでいたら……」高橋は深いため息をつく。「今頃は私などはるかに超える成果を上げていたはずです」「なんて恋愛脳なんでしょう!」「履歴書に『純愛貫徹七年』って書いた方が正確かもね」「天与の才能を持ちながら、それを家庭に捧げるなんて……」「でも、なぜ今になって数学コンテストに?」高橋も首を傾げながら、「いつか先輩と一緒に仕事ができる日が来ることを願っています」エレベーターを降りる高橋の背中を、社員たちの私語が追いかける。「急に数学コンテストって、きっと結婚生活に問題でも……」「旦那さんが応援してるんじゃないの?」「応援する気があったら、大学院まで行かせてたはずよ」「はぁ……男に尽くすだけじゃダメね。学も愛も手に入らず、結局自分で這い上がるしかないなんて」エレベーターを出た社員たちが呟く。「今日のエアコン効きすぎじゃない?」残されたのは冬真と清水秘書だけ。清水は恐る恐る上司の様子を窺っていた。やっぱり奥様だったんだ……清水は冷や汗を流しながら考えた。社員たちの命知らずな噂話、全部聞かれてたのに……冬真はスーツのポケットに片手を入れたまま、エレベーターを出て会議室へと足を向けた。待ち構えていた株主たちが、彼の姿を認めるや否や、一斉に歩み寄ってきた。「社長、おめでとうございます!奥様がALIコンテストで首位に立たれたそうですね!」「マスコミが大騒ぎですよ。桜国放送局の取材班がすでに動いているとか」「冬真君、他所に取られる前に、すぐにも会社に迎え入れるべきだ。まさか彼女がこれほどの数学の才能を秘めていたとは!開発部門に配属すれば、IBMの社長も我が社への信頼を一層深めてくれる。研究開発に1200億円の追加投資を約束してくれているんだ!」冬真が顔を上げると、会議室の大画面には時差を越えてM国の投資会社社長が映し出されていた。「冬真君、君の奥様が私が高給で雇った技術顧問を予選で打ち負かしたということで、重ねて祝福させてもらいたい」スクリーン越しでさえ、M国側の社長の態度が一変したことが見て取れた。周囲から祝福と期待の声が溢れる中、冬真の表情は相変わらず深い氷河のように冷たく、その胸中を読み取ることは誰にもできなかった。「予選に過ぎません」男は謙虚
インタビューが続く中、会議室は凍りついたような静寂に包まれた。その後のインタビューで、夕月は橘グループのことも、冬真の名前も、一言も口にしなかった。大画面の向こうで、IBMの社長が慣用句辞典を取り出した。彼は目当ての言葉を探し出す。「『言及に値しない』……ふむ、『取るに足らない』『論ずるに及ばない』という意味ですね。つまり、相手のことを完全に軽視する表現というわけか」「つまり、冬真君」IBMの社長は感嘆の声を上げた。「君は彼女にとって、もはや重要な存在ではないということだ」彼は両手を広げ、画面越しに会議室に立つ冬真を見つめた。「数学コンテスト首位の君の奥様が、『元夫』と呼ぶあなたと……本当に離婚されたのですか?」会議室の空気が一変した。他の株主たちも平静を失っていく。「社長、まさか本当に離婚を?」「全国放送で『元夫』と言われましたよ!本当に離婚したんですか?」「確か単なる離婚騒動だとおっしゃっていましたよね?これは……開発部門への採用の可能性は?」冬真の周りに冷気が漂い始めた。彼が何か言いかけた時、清水秘書が慌てて自分のスマートフォンを差し出した。「社長!奥様が……SNSで離婚を公表されました!」清水秘書の額に冷や汗が滲む様子にも気付かず、冬真は携帯の画面に映る夕月のSNSの投稿を凝視していた。一瞬にして男の顎先が鋼のように締まり、眉間に漂う気配は一層鋭利なものとなった。自分のスマートフォンを取り出した途端、はっとする。自分のアカウントでは夕月の投稿など見られるはずもない。とうの昔にブロックされているのだから。その時、冬真のアカウントには未読メッセージが溢れかえっていた。大半は妻のコンテスト優勝を祝う言葉。しかし、一部では夕月の離婚宣言を目にした人々からの問い合わせだった。本当に離婚したのかと。まるで見えない力に引き裂かれるような感覚が全身を包み込む。夕月の投稿のスクリーンショットを開くと、離婚証明書と共に一言が踊っていた。『人生最高の喜び』その一言が幾千もの針となって冬真の目を突き刺し、毛細血管を破り、生々しい痛みとなって全身を貫いた。クラシック・ローズ・ガーデン。桜都の名門夫人たちが集う優雅なアフタヌーンティーの会が開かれていた。今回の主催は橘大奥様ではなかっ
冬真がドアに手をかけ、夕月を引きずり出そうとした瞬間。スタッフ数人が駆け寄り、彼とコロナの間に割って入った。「橘社長!レースが始まります!」「橘社長、Lunaの集中の妨げになります」「あれは藤宮夕月だ!」冬真は声を荒らげた。「彼女がLunaのはずがない!」その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。コロナのドアが閉まり、夕月はコースへと向かった。「邪魔するな!」冬真の身のこなしは素早かった。スタッフを押しのけ、コースの端まで走り寄った。ウォームアップを終えても、夕月はコロナから降りる気配を見せなかった。コロナがみんなの視界に入った瞬間、観客席から歓声が沸き起がった。「Luna!Luna!」ファンたちは最も忠実な信者のように、コロナがスタートラインに向かう姿を見つめ、思わず涙を流す者も数多くいた。なぜまだ夕月はコロナから降りてこない?冬真は周囲を見回した。本物のLunaはどこにいる?レース開始が迫っているのに、なぜLunaは姿を現さない?一方、マシンの中の楓は、コース脇に立つ冬真の姿を見つけ、思わずウィンドウを下ろそうとした。VIPルームで観戦できるはずなのに、わざわざコースまで来てくれた。これは自分に関心を持ってくれている証拠だわ。楓は内心で得意げに思った。窓を下ろし、楓は興奮した様子で冬真に手を振った。「冬真!」ヘルメット越しの声は籠もって聞こえた。だが冬真は、楓のマシンには一瞥もくれなかった。「何してるんだ藤宮楓!窓を開けるな!レースが始まるぞ!」管制台に立つヴィンセントは、楓が突然窓を開けるのを見て、血圧が急上昇した。無線を握りしめ、M国語で罵声を浴びせかける。M国語の分からない楓は、逆に不満気な声を上げた。「何よ、そんな怒鳴って!」通訳が慌てて無線を取り、息を切らしながら叫んだ。「窓を閉めてください!集中してください!」楓の通訳を担当している若い男性も、酸素マスクが必要なほどの疲労感を覚えていた。エキシビションとはいえ、楓のこの態度は到底理解できなかった。そのとき、レース開始を告げるホーンが鳴り響いた。三度目のホーンと共に、スタートラインに並ぶマシンたちが、弦を放たれた矢のように飛び出した。最も出遅れた楓の姿を見て、
小さな丸みを帯びた顎に、整った卵型の顔立ち。その唇は誘うような桜色を湛え、筋の通った鼻筋と柔らかな目元が印象的だった。漆黒の髪を後ろで纏め上げ、耳元には繊細な毛束が風に揺れていた。冬真にとって、あまりにも見覚えのある顔立ちだった。その場に凍りついたように、冬真は目を見開いたまま夕月を凝視していた。頭の中が真っ白になった。なぜLunaが夕月の顔を持っているのか?これは笑い話としか思えない。まるで、あの荒唐無稽な夢の中にいるかのようだった。観客席からの歓声が押し寄せる波のように、冬真を包み込んだ。彼は震えながら我に返った。夕月は彼の存在など無いかのように、そのまま横を通り過ぎようとした。冬真は咄嗟に振り返り、夕月の腕を掴んだ。「なぜここにいる?」男の眼差しには疑惑と困惑が入り混じっていた。「なぜそんな格好を?」彼は夕月の手にしたヘルメットを見下ろした。確かにそれはLuna専用のものだ。何か言おうとして言葉に詰まり、喉に紙を詰め込まれたような感覚に襲われた。「Lunaのボランティアスタッフか?」自分でも信じられないような声が漏れた。きっとそうに違いない!彼はその考えに必死にしがみついた。Lunaの出場が発表された途端、国際レースのボランティア募集は熱狂的なファンで埋め尽くされた。仕事を投げ出し、給料カットも厭わず、ボランティアに志願する者も少なくなかった。ただLunaのレースを間近で見たい一心で。憧れの女神の素顔を一目見られる機会を求めて。冬真の問いに、夕月は笑みを浮かべた。「こんな馬鹿げた質問をするなんて、どれだけ頭が悪いの?」レーシングスーツを着て、ヘルメットを手に持って目の前に立っているのに、この男は未だに彼女をLunaと結びつけようとしない。バカなの?心の底から彼女を見下しているのね。若く血気盛んだった頃、夕月は純粋に冬真を愛していた。なのに結局、この男には「本当の藤宮夕月」と向き合う勇気すらないというわけ。「Lunaの車のウォームアップでもするつもりか?そもそもレースライセンスは持ってるのか?」高圧的な目線で夕月を見下ろしながら冷たく言い放った。「コロナを壊すなよ」もし壊したら、Lunaへの弁償なんて絶対にしてやらないと言わんばかり
足音を聞いて振り返った冬真の目に、レーシングスーツ姿の女性が歩み寄る姿が映った。冬真の背後から差し込む澄んだ日差しが、その肩の輪郭を縫うように流れていく。彼女が手にしているヘルメットは見覚えがあった。濃紺の地に金色の月が星々に囲まれた模様が描かれた、あのLuna専用のものだ。女性の上半身は、深い影に覆われていた。彼女が暗がりから一歩踏み出した瞬間、冬真は思わず息を呑んだ。Lunaはヘルメットを被っていない――つまり、ついに素顔のLunaと向き合うことになる。夕月も意外だった。冬真がわざわざ自分を待っていたとは。彼女は影の中で足を止めた。男は彼女に向き直り、スラックスのポケットに片手を入れたまま立っていた。オーダーメイドのスーツに包まれた背筋の伸びた佇まい、幅の広い肩から腰にかけての優美なラインは、まるで彫刻のように完璧だった。「Lunaともあろう人が約束を破るとは思わなかったぞ。指定の時間にガレージに来なかったから、お前が気に入っていたスポーツカーたちは、もう新しいオーナーの手に渡ってしまった」二度目の対面だというのに、冬真は自分の中に湧き上がる悪意に気付いていた。彼女を壊してしまいたい衝動。からかって、恥じらわせて、赤面させて、自分の前で膝を屈させたい――そんな欲望が抑えきれなかった。男はさりげない立ち姿ながらも、その佇まいから放たれるオーラは鋭く冷たかった。その冷徹な眼差しは矢のように彼女に向けられ、Lunaを包む影を打ち払おうとするかのようだった。「最後のチャンスだ。年俸2億円で藤宮楓のコーチを引き受けてもらいたい。正直、彼女の実力は並以下だ。トップに立つ必要もない。ただ三年以内に国内で名の知れた選手になってくれれば、それでいい」これは橘汐が叶えられなかった夢。冬真は楓にその夢を託そうとしていた。「引退して五年、突然復帰を決めたのは金のためだろう」嘲笑うように冬真は言った。「だが、もうお前は全盛期を過ぎている。月光レーシングのように高額な契約を結んでくれるクラブはもうない。これは今のLunaが市場で得られる最高の条件だぞ」言葉が途切れぬうちに、夕月は影から一歩前に出た。まるで映画のスローモーションのように。影が彼女の首筋から肩へと、ゆっくりと剥がれていく。冬真の瞳が大き
夕月は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ憂いの色が浮かんだ。この五年間、必死に悠斗の性格を正そうとしてきた。でも橘家の面々は、長男で跡取りである悠斗の言動は全て正しいと言い聞かせ続けてきた。一度母親への偏見が芽生えてしまえば、二人の間には越えられない壁が築かれてしまう。夕月は棚に向かい、ヘルメットを手に取ると、「スマホのライトを点けてくれる?」と鹿谷に声をかけた。「どうしたの?」鹿谷はライトを点けながら近寄った。夕月が鹿谷のスマホの光をヘルメットの中に当てると、砂粒よりも小さな虫が数匹、パッと飛び出した。明るいLEDの光に照らされて、やっとその姿が確認できる。「なんで中に虫が?」鹿谷は困惑気味に呟いた。桜都の乾燥した寒い気候では、虫なんて発生しないはず。しかも、このスペアヘルメットは新品で、たった30分前に出してきたばかり。どうして虫が入り込むことができたのか?「唯一ヘルメットに触れたのは、あの照明スタッフね」夕月は静かに言った。「まさか、細工でもしたのか!?」鹿谷は思わず声を上げた。そして、急に閃いたように、「楓の差し金に決まってる!」と断定的な口調で告げた。夕月は冷静な面持ちで携帯を取り出し、涼に電話をかけた。「桐嶋さん、申し訳ないけど、全出場者のヘルメットに細工がされていないか、至急確認していただけない?」続けて付け加えた。「できるだけ人目を避けてお願いします」今回の国際レースで、高い権限を持つのは涼だった。月光レーシングクラブは解散したものの、彼は依然として国際レースの主催者側のオーナーだった。「分かった、すぐに調べさせる」低く渋い声が受話器から響いた。なぜそんな調査が必要なのか、彼は問わなかった。夕月の判断を完全に信頼していた。「お願いします」夕月が電話を切ろうとした時、彼の声が再び聞こえた。「ちょうどいい。面白い映像が見つかったんだ。共有したいことがある」すぐに監視カメラの映像が送られてきた。鹿谷は夕月の隣に寄り、二人で映像を見つめた。整備室で撮影された映像だった。メカニックの一人が、コロナのボンネット内側で何かをいじっている。明らかに人目を避けようとしている様子で、ボンネットの留め具をいじりながら、周囲を警戒するように目を光らせていた。映像は3分前に撮
「私が誰だか分かってるの?」楓は参加者証を作業員たちに突きつけた。よく見るようにと迫るその態度に、作業員たちは参加者証を確認すると、何とも言えない表情を浮かべた。今大会で楓の名前は、確かに話題を呼んでいた。「ええ、存じ上げてますとも。レーシングライセンスすら持っていないアマチュアドライバーの藤宮楓様。初めての国際レース参加とのことで、基本的なマナーをご説明させていただきましょうか」作業員は言葉に力を込める。「他のレーサーの控室に無断で入るのは厳禁です!」周囲を見回してから、「誰の許可で入室したんです?」照明スタッフやカメラマンたちは、思わず楓の顔を見た。「私の部下よ!」楓は威勢よく叫んだ。「レース開始直前にこれだけの人数を連れて来るなんて、Lunaの邪魔をする気でしょう!」作業員は怒りを含んだ声で言い放った。その瞬間、「ガチャン!」という音と共に、棚に置かれていたヘルメットが床に転がり落ちた。照明スタッフの一人が真っ赤な顔で慌ててヘルメットを拾い上げ、元の位置に戻す。夕月の目が、そのスタッフの手にある細い管状の物に釘付けになる。パッと見は撮影用の道具にも見えるが。スタッフは慌てて、その細い管をズボンのポケットに押し込んだ。もし本当に撮影用の道具なら、なぜ急いで隠す必要があったのか。楓のスタッフがヘルメットを落としたことで、作業員の怒りは頂点に達した。「これはLunaのヘルメットですよ!さあ、全員出て行ってください!さもないと警察を呼びますからね!」作業員たちは鳥を追い払うように手を振りながら、楓たちを外へ追い出そうとする。「僕、Lunaを待つんだ!」悠斗が抵抗すると、作業員は彼の腕を掴んで小さな体を持ち上げた。悠斗は必死に足をバタつかせ、作業員の太腿を蹴ろうとする。「僕は橘グループの御曹司だぞ!」悠斗は怒りに任せて叫び、ムチムチした頬を膨らませた。「たとえ橘社長でも、Lunaの控室に無断で入って、試合前の邪魔をする権利はありません!」「離せよ!下ろせ!!」作業員は悠斗を控室の外まで運び出してから、やっと地面に降ろした。暴れる間に帽子とサングラスが床に落ちる。悠斗は不機嫌な顔で、わざとサングラスを踏みつけた。「フン!パパに全員クビにしてもらうからな!」
その言葉が夕月の心を刺すことを、悠斗は分かっていた。その棘で、夕月を傷つけてやりたかったのだ。悠斗は勝ち誇ったような目で夕月を見つめ、彼女が苦痛に歪む表情を見せるのを待った。最も近しい存在だからこそ、最も深い傷を与えることができる。田舎育ちで、レースのことなんて何も分からないような女が、橘家の御曹司のママなんて務まるはずがない!「悠斗くん、もし私が一位を取ったらどうする?」楓は目を細め、冷たい笑みを隠しきれない。悠斗の言葉が明らかに楓の癇に障った。これまで悠斗に尽くしてきた心遣いが、全て無駄になったような気がした。Lunaの名前を聞いた途端、楓を新しいママにすると約束したことなど、すっかり忘れてしまったようだ。雲上牧場の斜面での一件以来、悠斗の目には、楓の強くて何でもできるイメージは完全に崩れ去っていた。強い人が親に尻を叩かれるなんてありえない!自分だって手のひらを十回叩かれただけなのに。楓があんなに泣き叫んで、よだれを垂らしながら謝る姿なんて、見ているのも辛かった。しかも翌朝、楓は気を失ってしまった。蚊に刺されて豚のような顔になり、提灯のように目が腫れ上がった楓が、冬真の部下に斜面から引きずり上げられる姿を見て、悠斗は楓との知り合いだということすら認めたくなくなった。早く、強くて凄いママを見つけなければ。楓の視線を避けながら、悠斗の声は小さくなっていく。「楓兄貴が一位取れたら……考えないこともない……」最後の言葉は、はっきりとしない呟きになっていった。楓の表情が途端に得意げになる。「夕月姉さん、早く出てった方がいいわよ。関係者以外がLunaの控室に入ってたって知れたら、追い出されるわ。みっともないことになるんじゃない?」夕月の視線が楓の太腿に注がれる。「感心するわ。厚顔無恥な人間は、皮も分厚いのね」その言葉に、楓の太腿と尻がズキズキと疼きだす。厚く塗ったファンデーションの下には、蚊に刺された跡がまだ赤く残っている。スモーキーなアイメイクも、まだ腫れぼったい目を隠すためのものだった。先週、夕月の通報で警察に連行され、拘留時間を減らすため、冬真を通じて夕月に連絡を取った。ところが夕月は警察に意地の悪い提案をし、SNSで謝罪動画を投稿して999いいねを集めなけ
「Luna!会えて嬉しい!」悠斗の澄んだ声が響いたが、控室に座る人物を見た途端、その場に凍りついた。更衣室に向かおうとしていた夕月と悠斗の視線が絡む。悠斗の弾けるような表情が一瞬にして固まり、眉を寄せたまま夕月を見つめていた。「なんでここにいるの!?」楓と悠斗の後ろには黒山のような人だかりができていた。カメラマンのレンズが夕月と鹿谷に向けられる。ドア前に群がる人々を見て、鹿谷は思わず身を縮めた。夕月の傍らにそっと寄り添う。「夕月、なぜLunaの控室に!?」楓の声が驚きのあまり裏返った。悠斗は目を丸くして鹿谷を見つめ、「君がLunaなの?」そう言って首を傾げる。ガンメタルのルーズなジャージ姿の鹿谷は、すらりとした体格に凛とした顔立ち、さらにベリーショートの髪型で、誰もが一目で性別を見誤るほどだった。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。鹿谷は夕月の袖をつかみながら、首を振った。「僕はLunaじゃないよ」楓は夕月にぴったりと寄り添う鹿谷を眦を吊り上げながら観察した。どこかで見た顔だと思ったら、七年前のあの「男」だった!夕月が実の姉だと分かってから、楓は何度も尾行し、私立探偵まで雇って調べ上げた。その時、夕月には幼馴染がいて、その「男」は間もなくLunaのコ・ドライバーという大役を掴んだのだ。鹿谷が有名になるや否や、夕月を置き去りにして海外に飛び立った。楓はその事実を内心で喜んでいた。後に冬真から鹿谷を自分の教官として迎えると聞いた時も、夕月のこの身分の低い「幼馴染」に対して、軽蔑と好奇心が入り混じった感情を抱いていた。腕を組んで、夕月と鹿谷の間を意地の悪い視線で行き来させる。「夕月姉さん、酷くない?ここはLunaの控室よ!Lunaのコ・ドライバーと密会なんて、レースの邪魔になるでしょう?」その言葉に、後ろのカメラクルーは名家の醜聞の匂いを嗅ぎ取った。橘家の奥様で、つい先日社長と離婚騒動を起こした夕月が、レーサーの控室でコ・ドライバーと密会。しかも実の息子に見つかるとは!楓の後ろに控える男たちの顔に、冷ややかな笑みが浮かんだ。悠斗は部屋を見回し、Lunaの姿が見当たらないことに気づくと、夕月の存在がますます目障りにな
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN