夕月は軽やかな笑みを浮かべた。「まさか、私との離婚が惜しいんですか?」「離婚後もお前に纏わりつかれる方が面倒だ」冬真は冷ややかに言い返した。「杞憂ね」夕月は彼と同じような冷めた口調で返した。係員が二人に離婚証明書を手渡す。夕月は離婚証明書の自分の写真を見て、満面の笑みを浮かべた。その表情には明らかな満足感が滲んでいた。冬真は証明書を受け取ると、一瞥もせずに立ち上がった。「橘さん、少々お待ちください」夕月の声に、男の足が止まる。スーツのポケットに片手を入れたまま振り向き、冷笑を浮かべる。「もう後悔したのか?」「美優の改姓の書類にサインをお願いします。私の姓に変わりますので」夕月は淡々と告げた。男の整った顔から笑みが凍りつくように消えた。夕月が応接室を出ると、天野が美優と共にロビーで待っていた。天野は冬真の姿を見て、笑みを押し殺すのに苦労した。百悦モールとスターモールの物件も、また法外な値段で買い取られたばかりだったから。「ママ!」美優は椅子から飛び降り、小走りで夕月の元へ。彼女は冬真を見上げ、「おじさん」と呼びかけた。まだ離婚という言葉の意味は分からなくても、今日から呼び方を変えなければならないことは理解していた。冬真の胸中は複雑な感情が渦巻いていた。喉に紙を詰められたような、どうしようもない違和感。「18歳になったら、自分で決められるようになる。その時、また姓を戻すチャンスはある」彼は美優に告げた。美優は首を振った。「ママが考えてくれた新しい名前、気に入ってるの」冬真の表情が変わった。「美優じゃないのか?」「うん。『藤宮瑛優(ふじみや えいゆ)』になるの。瑛は『輝く玉』という意味で、優しさと共に光り輝く強さを表すんだって。漢字は難しいけど、ママが選んでくれた意味が大好き」「美優……それも良い名前じゃないか」冬真は呟くように言った。双子の名前は、父が早くから決めていた。橘悠斗という名前には、深い意味が込められていた。家系を継ぎ、幾多の困難を越えて、誇り高く帰還せよという願いが。「悠」には遥かな道のり、「斗」には戦いを制する力強さが表されていた。男子には野心を持って道を切り開くことが求められ、一方、女子は「美優」という名の通り、ただ穏やかに頼れる男性を見つければ良
「皆さん、この方をお祝いしましょう!やっと重荷から解放されて、独身貴族に返り咲き!離婚おめでとう!」楓の号令で仲間たちが横断幕を掲げ、クラクションを鳴らし、紙吹雪を撒き散らした。「ママ、楓おばさま、何してるの?」美優は首を傾げた。「橘おじさんと一緒に恥を晒してるのよ」夕月は美優の手を引き、遠回りして立ち去った。夕月が尻尾を巻いて逃げていくのを見て、楓は勝ち誇ったように冷笑を浮かべた。渋々と楓に近づく冬真。「何をしているんだ?」楓はつま先立ちで冬真の肩に腕を回した。「冬真の離婚祝いに決まってるじゃない!」「声が大きい。恥ずかしくないのか」冬真は眉をしかめた。だが楓は気にする様子もない。冬真が夕月と離婚したことが、この上なく嬉しかった。「さあさあ!お店も押さえてあるわよ。めでたい日なんだから、お祝いしないとね!」その夜――個室ラウンジで楓がグラスを高々と掲げた。「冬真の独身復帰を祝して!これからは家庭の束縛から解放されて、可愛い子との出会いも、お酒も思う存分楽しめる!かんぱーい!独身最高!」「冬真さん、離婚おめでとうございます!」周りも声を合わせて祝いの言葉を投げかける。楓は肩を揺らしながら、まるでゴリラのような奇声を上げていた。冬真はソファに座ったまま、払いのけようのない暗い影に包まれていた。黙々とグラスを口に運び、表情は闇に沈んでいる。何故だろう。胸が締め付けられるような感覚。七年の結婚生活で、一度も夕月を好きになることはなかった。離婚証明書を手に去っていったのだから、晴れ晴れとしているはずなのに。強い酒が喉を焼き、心を灼く。楓がウイスキーのボトルを手に、ぴったりと寄り添うように座った。「独身祝いに、いい子たち呼んであるのよ。この私が太鼓判を押す極上の逸材たちだから!」「楓兄貴!俺たちにも紹介してよ!」誰かが声を上げる。「お父さんって呼んでくれたら、考えてあげる!」楓が叫び返す。からかうような野次が飛び交う中、ドアが開き、派手なメイクをした女性たちが入ってきた。「ほら冬真、見てよ!気に入った子がいたら、そばに置いておくわよ」楓は上機嫌だ。「この子なんて、すごいボリューム!まるでボール二つ詰め込んだみたい!」一人の女性を指差しながら。「ねぇ、ちょっと
あの白いワンピースは、当時の夕月が着ていける最上の服だったのだ。「お姉さん~こっちおいで、一緒に飲もうよ」楓は豪快な声を上げた。女性は恐れおののいた様子で慌てて首を振る。「わ、私お酒は飲めません……」楓は喉の奥で冷笑を押し殺しながら、周りの男たちに問いかけた。「こういうタイプが好みなの?か弱くて無害そうな感じ。私までも同情しちゃうわ」「こんな子羊みたいな娘、確かに可愛いよな!」「冬真さんが気に入ったなら、俺たちは手出ししねえよ」楓の口元の笑みが深くなる。「お姉さん、怖がらないで。私の隣に座って?いじめたりしないから」女性は楓に対して警戒を解き、彼女の方へ歩み寄った。楓はグラスを女性の手に押し付ける。「はい、橘様に献杯してあげて~」楓は女性の背中を押し、強引に冬真の前まで連れていく。無愛想な横顔を見つめながら、震える声で「た、橘様……」女性がグラスを差し出す。その顔を見た瞬間、冬真の胸の内の怒りが一気に燃え上がった。違う!白いワンピースを見た時、一体何を期待していたというのか?! 「出て行け!」冬真が叩き落としたグラスの中身が、女性の顔面に飛び散る。女性は悲鳴を上げた。部屋の中は凍りついたように静まり返る。誰一人として助けの手を差し伸べようとせず、女性は小さく嗚咽を漏らす。楓は立ち上がり、優しく女性の背中を撫でた。「あら、泣かないで。私まで切なくなっちゃう。外まで送ってあげるわ」楓は女性を連れて部屋を出た。トイレに向かう途中、女性は少しずつ落ち着きを取り戻していった。「助けてくれてありがとう。あの方が怖くて、どうしていいか分からなかった。私、霧島葵(きりしま あおい)っていいます。あなたのお名前は?」女性は楓を見る目に、親しみの色を宿らせていた。薄暗い廊下の照明が、楓の目に宿る狂気を帳のように覆い隠していた。「へぇ、私と友達になりたいの?」霧島が頷く。「あなたは良い人だと思います……」言葉が途切れた瞬間、楓の平手が霧島の頬を打ち据えた。突然の衝撃に霧島は茫然と立ち尽くし、耳鳴りの中で楓の冷たい声が響く。「分不相応も甚だしいわね」トイレの前まで来るのを待っていたかのように、楓は霧島を強く押し込んだ。ハイヒールを履いた霧島はバランスを崩し、トイレ
楓の言葉に、霧島は弓から放たれた矢のように震え上がった。その反応に楓は満足げな表情を浮かべる。十数分後、楓が去ったトイレから、痛みで体を丸めた霧島が、まるで生ける屍のように這うように出てきた。ドアの外には、スーツ姿の桐嶋涼が無表情で立っていた。霧島葵はメモリーカードを桐嶋に差し出した。「私のことは気付かれませんでした」腫れ上がった顔で笑みを作る。「お願いです。あの女を地獄に落としてください。汐ちゃんの仇を!」桐嶋は無言でカードを受け取り、背を向けた。「待ってください」霧島が呼び止める。「なぜ急に協力してくれる気になったんですか?何度お願いしても見向きもしなかったのに」メモリーカードを指先で弄びながら、桐嶋は答えた。「ある女性の心を掴みたくてね」黒いマイバッハが橘家の車庫に滑り込む。楓は冬真の腕を肩に回そうとする。意識を取り戻した冬真は、反射的に腕を引き離した。「冬真、支えてあげる」「いい」嗄れた声で答え、冬真は自分側のドアを開けて降りる。「あ、気を付けて!そんなに飲んだのに!」楓は慌てて後を追う。手を掴もうとしたが、冬真の足取りは意外にも確かだった。家に入ると、ソファに腰を下ろした冬真が、こめかみを押さえる。久しぶりの二日酔いの予感だった。「レモン水を……」虚空に向かって呟いた言葉が、静寂に溶けていく。楓が部屋に入ってきて、「え?何か言った?」冬真の瞳が僅かに開く。何かが欠けている感覚が胸の奥に広がる。夕月が去って一ヶ月。まだ彼女のいない屋敷に慣れない。使用人たちも落ち着かない様子で、大奥様も悠斗も、不満の声が日に日に大きくなっていく。突然、腹部に鋭い痛みが走る。冬真は眉を顰め、苦しげに呻いた。「冬真!どうしたの?」楓が心配そうに駆け寄る。歯を食いしばりながら痛みを堪える冬真。「夕月に電話して、胃薬を持ってこさせろ」楓の表情が一変する。できるだけ嫌味に聞こえないよう努めながら、「私たちの番号なんて、とっくにブロックよ。あの人ったら、本当に冷たいんだから!」冬真はスマートフォンを取り出した。こんな状態なら、夕月も無視はできないはずだ。めまいを押さえながら、夕月が泊まっているホテルのフロント番号を探し出す。受話器を手に取り、番号を押す。「少々お待ち
楓は、橘冬真から漂う殺気に思わず身震いした。彼の表情は、まるで人を殺せと言わんばかりの形相だった。「どうしたの?夕月姉さんが何か言ったの?」冬真は奥歯を噛みしめながら、四文字を絞り出した。「き、り、し、ま!」楓は凍りついたように立ち尽くした。「ああ」深夜の静寂を破るように、桐嶋の嘲笑うような声が冬真の鼓膜を突き刺した。「お前、夕月の部屋にいるのか!?」冬真の声は、怒りで一段と低く冷たくなっていた。楓は衝撃を受けたように冬真を見つめ、顎が外れんばかりに開いたまま、言葉を失った。「私と夕月の離婚が成立したばかりだというのに、こんなに早く彼女とホテルで一夜を過ごすつもりか?」今の冬真は、怒り狂った獅子そのものだった。対して桐嶋の声は、悠然としていた。「夕月さんは僕のホテルに宿泊されている。深夜にお客様が邪魔されるのを放っておくわけにはいかないでしょう。それに……」桐嶋は一瞬間を置いて、「離婚したからって、あなたのために三年も喪に服す必要はないでしょう?」冬真の整った顔に浮かぶ笑みは、より一層冷たさを増していった。太腿の上に置いた拳は青筋が浮き出るほど強く握り締められていた。「桐嶋、お前、ずっと夕月のことを狙っていたんだな?先日の子供の誕生日の時も、海外から十二時間もフライトに乗って駆けつけたのは、夕月に会いたかったからか?」冬真は桐嶋との出会いを思い返した。そこには必ず夕月の姿があった。なるほど、桐嶋家の御曹司は自分と親しくなりたかったわけではない。招待を利用して、夕月に会うためだったのだ。冬真の胸の内で怒りが渦巻いた。「人の妻に目を付けるとは、随分と下品な趣味だな」桐嶋は嘲笑うように言った。「橘さん、一体どんな立場でそんなことを言えるんですか?」「夕月は私の妻だった!!」「ふぅん……でも、人の真心を踏みにじった者には、それなりの報いがあるものですよ」冬真は凍りついた。まるで無形の手が胃を掴み、爪を立てて深く抉るような痛みが走った。額に冷や汗が浮かぶ。「橘さん、因果応報ってやつです。夕月さんをゆっくり休ませてあげましょう」桐嶋は一方的に電話を切った。冬真が携帯を置くと、楓が我慢できないように口を開いた。「桐嶋さん、今夜夕月姉さんと同じ部屋にいるの?」冬真の返事を待た
冬真は軽蔑するように鼻で笑うと、ベッドから身を起こした。体の調子は随分良くなっていた。シャワーを浴びた後、バスローブ姿でバスルームを出ると、目の前に意外な光景が広がっていた。眠そうな目をこすりながら、楓が引き戸に寄りかかっていた。彼女は猫のように優雅に伸びをして、白い肌の腹部にうっすらと筋肉の陰影が浮かぶ。「冬真、随分早起きね」冬真は凍りついた。手に持っていたタオルが音もなく床に落ちる。スリッパの水滴も気にせず、二、三歩で夕月の寝室に駆け込んだ。ベッドの布団を乱暴にめくり、部屋中を見回す。まるで夕月がどこかに隠れているとでも言うように。「シャッ」という音と共に開かれたクローゼット。中にはオートクチュールの洋服が所狭しと並んでいた。夕月が瑛優を連れて家を出た時、持って行ったのはスーツケース一つだけ。それも殆どが瑛優の服だった。橘家の誰もが、この七年間夕月を粗末には扱っていないと思っていた。これだけの高級オーダーメイドの服、ブランドバッグ、高価な宝飾品。だがこれらは全て橘家の名義で購入され、冬真か大奥様の名義で登録されている。夕月が勝手に持ち出せば、窃盗になってしまう。結局、夕月自身も橘家が多額の金をかけて、家の体面を保つために購入した「装飾品」の一つに過ぎなかったのだ。楓は冬真の様子を不思議そうに見つめ、「冬真、どうしたの?」と声をかけた。クローゼットの前に立っていた冬真は急に振り返り、夕月のパジャマを着た楓を見つめた。全てが分かった。「お前、夕月の部屋で一晩過ごしたのか?」まだ夕月さんの名前を呼び続けるなんて――楓は心の中で毒づきながら、表向きは明るく答えた。「そうよ。あなたの胃の調子が悪かったから、放っておけなかったの。夕月姉さんの部屋が空いてたから、そこで寝たの。そうすれば、すぐに様子を見られるでしょう?」冬真の表情が、まるで薄氷が張るように凍てついた。楓はふと何かに気付いたように、声がかすれた。「まさか……夕月姉さんが戻ってきたと思ったの?」切迫した様子で追及する。「冬真、離婚したこと後悔してるの?」「馬鹿なことを!」冬真は即座に否定し、そっけなく言い放った。「次からはゲストルームを使え」「私があなたにとってただの客?私は親友でしょう!もう夕月姉さんと離
クラスメイトたちは皆、羨ましそうな目で見つめていたものだ。中華料理店の福来軒にて。瑛優は小籠包を一籠完食すると、豆乳の入った椀を両手で持ち、ごくごくと飲み干した。その美味しそうな食べっぷりに、前の席に座る赤いスカーフを巻いた小学生たちも、思わず黒糖まんじゅうを一つ余計に口に運んでいた。朝食を終えた瑛優に、夕月はウェットティッシュを渡して手を拭かせた。「さあ、学校に行きましょう」「学校」という言葉を聞いた途端、瑛優の輝いていた目が曇っていく。夕月は娘の様子の変化を敏感に察知した。「どうしたの?」「ママ、もう学校に行くのはあんまり好きじゃない」夕月は心配そうに尋ねた。「学校で何かあったの?」瑛優は小さく首を振った。最近、周りの子たちが自分と遊ばなくなったことを感じていた。でも、ママを心配させたくない。「大丈夫!学校はあんまり好きじゃなくなったけど、仲良しのお友達がいるの。毎日一緒にいるの、すっごく楽しいよ!」娘は理由を話さなかったが、夕月には何かを察することができた。桜井幼稚園は名門校だ。両親の影響を受けやすい子供たちが、瑛優に対して態度を変えてしまうのも無理はない。夕月は瑛優とタクシーに乗り込んだ。すると、携帯が鳴った。電話に出る。「藤宮夕月様でしょうか?」「はい、そうです」「ALI数学コンテスト実行委員会から失礼いたします。予選で見事一位の成績を収められましたので、ご連絡差し上げました」夕月は驚きで固まった。「一位、ですか?」まさか実行委員会が間違えているのでは?担当者は興奮した様子で続けた。「はい!藤宮様の得点は89点でした!」意図的に点数を抑えたつもりだったのに。89点で予選一位?このコンテストの参加者たち、まともな実力者は一人もいないのだろうか。「藤宮様、ご提出いただいた資料によりますと、花橋大学をご卒業後、七年間専業主婦をされていたとのこと。そのような経歴でこのような高得点を取られたことに、実行委員会としても大変興味を持っております。また、桜国放送局の記者の方々もこのニュースを知り、取材を希望されているのですが、いかがでしょうか?」夕月は答えた。「今、娘を学校に送る途中なんです」担当者は興味深そうに尋ねた。「お嬢様はどちらの学校に?」
悠斗は冷たい表情で取り巻きたちに警告した。「誰も橘美優と遊んじゃダメだぞ」子供たちは一列に並び、一斉に悠斗に敬礼。「イエッサー!」夕月は瑛優が校門を見つめる表情が曇っていくのを察知した。「瑛優?」母親が優しく声をかける。瑛優はカバンの肩紐をぎゅっと握り締め、明るく振る舞おうと努めた。「ママ、学校行ってくるね!バイバイ!」いつもの遊び友達を見つけた瑛優は、嬉しそうに駆け寄っていく。「時雨ちゃん!」古望時雨(こもう しぐれ)は瑛優をちらりと見ると、俯いて足早に立ち去ろうとした。瑛優は追いかけながら、興奮気味に話しかけた。「時雨ちゃん、聞いて!私、名前が変わったの!もう橘美優じゃなくて、藤宮瑛優になったの。ママと同じ苗字!」「話しかけないで」椿は横に避けて、瑛優との距離を取った。瑛優はその場に立ち尽くし、衝撃を受けていた。「時雨ちゃん、どうしたの?」時雨は足を止め、少し後ろめたそうに言った。「悠斗くんが言ってたの。瑛優と遊ぶ子は、みんなの敵になるって……」瑛優は震え上がった。夕月はその場を離れず、少し離れたところから娘の後ろ姿を見守っていた。娘の心配事は、母親である自分には隠しきれない。「夕月さん!」声をかけられ、振り向くと、橘京花(たちばな きょうか)が娘の橘望月(たちばな みづき)の手を引いていたのを見た。京花は冬真の従姉で、平凡な家庭出身の夫が橘家に入った。エルメスのバッグを腕に掛け、賢しらな笑みを浮かべながら尋ねた。「本当に冬真さんと離婚したの?」「ええ、しました」夕月の視線が望月に向けられ、眉間に皺が寄った。瑛優と同い年の望月は、年少組の女の子たちと同じくらいの小柄な体つきをしていた。京花が育てた完全菜食児で、生まれてからずっと肉類を口にしたことがない。そのせいか、望月の体は紙のように薄く、顔色は灰白だった。夕月は橘家にいた頃、こっそり望月に肉を食べさせていたが、今はもうそれもできない。「仕事は見つかった?」京花が急かすように尋ねた。「まだです」夕月は正直に答えた。京花の目に、見え透いた優越感が浮かぶ。「理解できないわ。冬真さんの奥様として豪邸に住んで高級車に乗れていたのに、ご覧なさい。今じゃタクシーで送り迎え?どうしてそこまで惨めな暮らし
冬真がドアに手をかけ、夕月を引きずり出そうとした瞬間。スタッフ数人が駆け寄り、彼とコロナの間に割って入った。「橘社長!レースが始まります!」「橘社長、Lunaの集中の妨げになります」「あれは藤宮夕月だ!」冬真は声を荒らげた。「彼女がLunaのはずがない!」その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。コロナのドアが閉まり、夕月はコースへと向かった。「邪魔するな!」冬真の身のこなしは素早かった。スタッフを押しのけ、コースの端まで走り寄った。ウォームアップを終えても、夕月はコロナから降りる気配を見せなかった。コロナがみんなの視界に入った瞬間、観客席から歓声が沸き起がった。「Luna!Luna!」ファンたちは最も忠実な信者のように、コロナがスタートラインに向かう姿を見つめ、思わず涙を流す者も数多くいた。なぜまだ夕月はコロナから降りてこない?冬真は周囲を見回した。本物のLunaはどこにいる?レース開始が迫っているのに、なぜLunaは姿を現さない?一方、マシンの中の楓は、コース脇に立つ冬真の姿を見つけ、思わずウィンドウを下ろそうとした。VIPルームで観戦できるはずなのに、わざわざコースまで来てくれた。これは自分に関心を持ってくれている証拠だわ。楓は内心で得意げに思った。窓を下ろし、楓は興奮した様子で冬真に手を振った。「冬真!」ヘルメット越しの声は籠もって聞こえた。だが冬真は、楓のマシンには一瞥もくれなかった。「何してるんだ藤宮楓!窓を開けるな!レースが始まるぞ!」管制台に立つヴィンセントは、楓が突然窓を開けるのを見て、血圧が急上昇した。無線を握りしめ、M国語で罵声を浴びせかける。M国語の分からない楓は、逆に不満気な声を上げた。「何よ、そんな怒鳴って!」通訳が慌てて無線を取り、息を切らしながら叫んだ。「窓を閉めてください!集中してください!」楓の通訳を担当している若い男性も、酸素マスクが必要なほどの疲労感を覚えていた。エキシビションとはいえ、楓のこの態度は到底理解できなかった。そのとき、レース開始を告げるホーンが鳴り響いた。三度目のホーンと共に、スタートラインに並ぶマシンたちが、弦を放たれた矢のように飛び出した。最も出遅れた楓の姿を見て、
小さな丸みを帯びた顎に、整った卵型の顔立ち。その唇は誘うような桜色を湛え、筋の通った鼻筋と柔らかな目元が印象的だった。漆黒の髪を後ろで纏め上げ、耳元には繊細な毛束が風に揺れていた。冬真にとって、あまりにも見覚えのある顔立ちだった。その場に凍りついたように、冬真は目を見開いたまま夕月を凝視していた。頭の中が真っ白になった。なぜLunaが夕月の顔を持っているのか?これは笑い話としか思えない。まるで、あの荒唐無稽な夢の中にいるかのようだった。観客席からの歓声が押し寄せる波のように、冬真を包み込んだ。彼は震えながら我に返った。夕月は彼の存在など無いかのように、そのまま横を通り過ぎようとした。冬真は咄嗟に振り返り、夕月の腕を掴んだ。「なぜここにいる?」男の眼差しには疑惑と困惑が入り混じっていた。「なぜそんな格好を?」彼は夕月の手にしたヘルメットを見下ろした。確かにそれはLuna専用のものだ。何か言おうとして言葉に詰まり、喉に紙を詰め込まれたような感覚に襲われた。「Lunaのボランティアスタッフか?」自分でも信じられないような声が漏れた。きっとそうに違いない!彼はその考えに必死にしがみついた。Lunaの出場が発表された途端、国際レースのボランティア募集は熱狂的なファンで埋め尽くされた。仕事を投げ出し、給料カットも厭わず、ボランティアに志願する者も少なくなかった。ただLunaのレースを間近で見たい一心で。憧れの女神の素顔を一目見られる機会を求めて。冬真の問いに、夕月は笑みを浮かべた。「こんな馬鹿げた質問をするなんて、どれだけ頭が悪いの?」レーシングスーツを着て、ヘルメットを手に持って目の前に立っているのに、この男は未だに彼女をLunaと結びつけようとしない。バカなの?心の底から彼女を見下しているのね。若く血気盛んだった頃、夕月は純粋に冬真を愛していた。なのに結局、この男には「本当の藤宮夕月」と向き合う勇気すらないというわけ。「Lunaの車のウォームアップでもするつもりか?そもそもレースライセンスは持ってるのか?」高圧的な目線で夕月を見下ろしながら冷たく言い放った。「コロナを壊すなよ」もし壊したら、Lunaへの弁償なんて絶対にしてやらないと言わんばかり
足音を聞いて振り返った冬真の目に、レーシングスーツ姿の女性が歩み寄る姿が映った。冬真の背後から差し込む澄んだ日差しが、その肩の輪郭を縫うように流れていく。彼女が手にしているヘルメットは見覚えがあった。濃紺の地に金色の月が星々に囲まれた模様が描かれた、あのLuna専用のものだ。女性の上半身は、深い影に覆われていた。彼女が暗がりから一歩踏み出した瞬間、冬真は思わず息を呑んだ。Lunaはヘルメットを被っていない――つまり、ついに素顔のLunaと向き合うことになる。夕月も意外だった。冬真がわざわざ自分を待っていたとは。彼女は影の中で足を止めた。男は彼女に向き直り、スラックスのポケットに片手を入れたまま立っていた。オーダーメイドのスーツに包まれた背筋の伸びた佇まい、幅の広い肩から腰にかけての優美なラインは、まるで彫刻のように完璧だった。「Lunaともあろう人が約束を破るとは思わなかったぞ。指定の時間にガレージに来なかったから、お前が気に入っていたスポーツカーたちは、もう新しいオーナーの手に渡ってしまった」二度目の対面だというのに、冬真は自分の中に湧き上がる悪意に気付いていた。彼女を壊してしまいたい衝動。からかって、恥じらわせて、赤面させて、自分の前で膝を屈させたい――そんな欲望が抑えきれなかった。男はさりげない立ち姿ながらも、その佇まいから放たれるオーラは鋭く冷たかった。その冷徹な眼差しは矢のように彼女に向けられ、Lunaを包む影を打ち払おうとするかのようだった。「最後のチャンスだ。年俸2億円で藤宮楓のコーチを引き受けてもらいたい。正直、彼女の実力は並以下だ。トップに立つ必要もない。ただ三年以内に国内で名の知れた選手になってくれれば、それでいい」これは橘汐が叶えられなかった夢。冬真は楓にその夢を託そうとしていた。「引退して五年、突然復帰を決めたのは金のためだろう」嘲笑うように冬真は言った。「だが、もうお前は全盛期を過ぎている。月光レーシングのように高額な契約を結んでくれるクラブはもうない。これは今のLunaが市場で得られる最高の条件だぞ」言葉が途切れぬうちに、夕月は影から一歩前に出た。まるで映画のスローモーションのように。影が彼女の首筋から肩へと、ゆっくりと剥がれていく。冬真の瞳が大き
夕月は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ憂いの色が浮かんだ。この五年間、必死に悠斗の性格を正そうとしてきた。でも橘家の面々は、長男で跡取りである悠斗の言動は全て正しいと言い聞かせ続けてきた。一度母親への偏見が芽生えてしまえば、二人の間には越えられない壁が築かれてしまう。夕月は棚に向かい、ヘルメットを手に取ると、「スマホのライトを点けてくれる?」と鹿谷に声をかけた。「どうしたの?」鹿谷はライトを点けながら近寄った。夕月が鹿谷のスマホの光をヘルメットの中に当てると、砂粒よりも小さな虫が数匹、パッと飛び出した。明るいLEDの光に照らされて、やっとその姿が確認できる。「なんで中に虫が?」鹿谷は困惑気味に呟いた。桜都の乾燥した寒い気候では、虫なんて発生しないはず。しかも、このスペアヘルメットは新品で、たった30分前に出してきたばかり。どうして虫が入り込むことができたのか?「唯一ヘルメットに触れたのは、あの照明スタッフね」夕月は静かに言った。「まさか、細工でもしたのか!?」鹿谷は思わず声を上げた。そして、急に閃いたように、「楓の差し金に決まってる!」と断定的な口調で告げた。夕月は冷静な面持ちで携帯を取り出し、涼に電話をかけた。「桐嶋さん、申し訳ないけど、全出場者のヘルメットに細工がされていないか、至急確認していただけない?」続けて付け加えた。「できるだけ人目を避けてお願いします」今回の国際レースで、高い権限を持つのは涼だった。月光レーシングクラブは解散したものの、彼は依然として国際レースの主催者側のオーナーだった。「分かった、すぐに調べさせる」低く渋い声が受話器から響いた。なぜそんな調査が必要なのか、彼は問わなかった。夕月の判断を完全に信頼していた。「お願いします」夕月が電話を切ろうとした時、彼の声が再び聞こえた。「ちょうどいい。面白い映像が見つかったんだ。共有したいことがある」すぐに監視カメラの映像が送られてきた。鹿谷は夕月の隣に寄り、二人で映像を見つめた。整備室で撮影された映像だった。メカニックの一人が、コロナのボンネット内側で何かをいじっている。明らかに人目を避けようとしている様子で、ボンネットの留め具をいじりながら、周囲を警戒するように目を光らせていた。映像は3分前に撮
「私が誰だか分かってるの?」楓は参加者証を作業員たちに突きつけた。よく見るようにと迫るその態度に、作業員たちは参加者証を確認すると、何とも言えない表情を浮かべた。今大会で楓の名前は、確かに話題を呼んでいた。「ええ、存じ上げてますとも。レーシングライセンスすら持っていないアマチュアドライバーの藤宮楓様。初めての国際レース参加とのことで、基本的なマナーをご説明させていただきましょうか」作業員は言葉に力を込める。「他のレーサーの控室に無断で入るのは厳禁です!」周囲を見回してから、「誰の許可で入室したんです?」照明スタッフやカメラマンたちは、思わず楓の顔を見た。「私の部下よ!」楓は威勢よく叫んだ。「レース開始直前にこれだけの人数を連れて来るなんて、Lunaの邪魔をする気でしょう!」作業員は怒りを含んだ声で言い放った。その瞬間、「ガチャン!」という音と共に、棚に置かれていたヘルメットが床に転がり落ちた。照明スタッフの一人が真っ赤な顔で慌ててヘルメットを拾い上げ、元の位置に戻す。夕月の目が、そのスタッフの手にある細い管状の物に釘付けになる。パッと見は撮影用の道具にも見えるが。スタッフは慌てて、その細い管をズボンのポケットに押し込んだ。もし本当に撮影用の道具なら、なぜ急いで隠す必要があったのか。楓のスタッフがヘルメットを落としたことで、作業員の怒りは頂点に達した。「これはLunaのヘルメットですよ!さあ、全員出て行ってください!さもないと警察を呼びますからね!」作業員たちは鳥を追い払うように手を振りながら、楓たちを外へ追い出そうとする。「僕、Lunaを待つんだ!」悠斗が抵抗すると、作業員は彼の腕を掴んで小さな体を持ち上げた。悠斗は必死に足をバタつかせ、作業員の太腿を蹴ろうとする。「僕は橘グループの御曹司だぞ!」悠斗は怒りに任せて叫び、ムチムチした頬を膨らませた。「たとえ橘社長でも、Lunaの控室に無断で入って、試合前の邪魔をする権利はありません!」「離せよ!下ろせ!!」作業員は悠斗を控室の外まで運び出してから、やっと地面に降ろした。暴れる間に帽子とサングラスが床に落ちる。悠斗は不機嫌な顔で、わざとサングラスを踏みつけた。「フン!パパに全員クビにしてもらうからな!」
その言葉が夕月の心を刺すことを、悠斗は分かっていた。その棘で、夕月を傷つけてやりたかったのだ。悠斗は勝ち誇ったような目で夕月を見つめ、彼女が苦痛に歪む表情を見せるのを待った。最も近しい存在だからこそ、最も深い傷を与えることができる。田舎育ちで、レースのことなんて何も分からないような女が、橘家の御曹司のママなんて務まるはずがない!「悠斗くん、もし私が一位を取ったらどうする?」楓は目を細め、冷たい笑みを隠しきれない。悠斗の言葉が明らかに楓の癇に障った。これまで悠斗に尽くしてきた心遣いが、全て無駄になったような気がした。Lunaの名前を聞いた途端、楓を新しいママにすると約束したことなど、すっかり忘れてしまったようだ。雲上牧場の斜面での一件以来、悠斗の目には、楓の強くて何でもできるイメージは完全に崩れ去っていた。強い人が親に尻を叩かれるなんてありえない!自分だって手のひらを十回叩かれただけなのに。楓があんなに泣き叫んで、よだれを垂らしながら謝る姿なんて、見ているのも辛かった。しかも翌朝、楓は気を失ってしまった。蚊に刺されて豚のような顔になり、提灯のように目が腫れ上がった楓が、冬真の部下に斜面から引きずり上げられる姿を見て、悠斗は楓との知り合いだということすら認めたくなくなった。早く、強くて凄いママを見つけなければ。楓の視線を避けながら、悠斗の声は小さくなっていく。「楓兄貴が一位取れたら……考えないこともない……」最後の言葉は、はっきりとしない呟きになっていった。楓の表情が途端に得意げになる。「夕月姉さん、早く出てった方がいいわよ。関係者以外がLunaの控室に入ってたって知れたら、追い出されるわ。みっともないことになるんじゃない?」夕月の視線が楓の太腿に注がれる。「感心するわ。厚顔無恥な人間は、皮も分厚いのね」その言葉に、楓の太腿と尻がズキズキと疼きだす。厚く塗ったファンデーションの下には、蚊に刺された跡がまだ赤く残っている。スモーキーなアイメイクも、まだ腫れぼったい目を隠すためのものだった。先週、夕月の通報で警察に連行され、拘留時間を減らすため、冬真を通じて夕月に連絡を取った。ところが夕月は警察に意地の悪い提案をし、SNSで謝罪動画を投稿して999いいねを集めなけ
「Luna!会えて嬉しい!」悠斗の澄んだ声が響いたが、控室に座る人物を見た途端、その場に凍りついた。更衣室に向かおうとしていた夕月と悠斗の視線が絡む。悠斗の弾けるような表情が一瞬にして固まり、眉を寄せたまま夕月を見つめていた。「なんでここにいるの!?」楓と悠斗の後ろには黒山のような人だかりができていた。カメラマンのレンズが夕月と鹿谷に向けられる。ドア前に群がる人々を見て、鹿谷は思わず身を縮めた。夕月の傍らにそっと寄り添う。「夕月、なぜLunaの控室に!?」楓の声が驚きのあまり裏返った。悠斗は目を丸くして鹿谷を見つめ、「君がLunaなの?」そう言って首を傾げる。ガンメタルのルーズなジャージ姿の鹿谷は、すらりとした体格に凛とした顔立ち、さらにベリーショートの髪型で、誰もが一目で性別を見誤るほどだった。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。鹿谷は夕月の袖をつかみながら、首を振った。「僕はLunaじゃないよ」楓は夕月にぴったりと寄り添う鹿谷を眦を吊り上げながら観察した。どこかで見た顔だと思ったら、七年前のあの「男」だった!夕月が実の姉だと分かってから、楓は何度も尾行し、私立探偵まで雇って調べ上げた。その時、夕月には幼馴染がいて、その「男」は間もなくLunaのコ・ドライバーという大役を掴んだのだ。鹿谷が有名になるや否や、夕月を置き去りにして海外に飛び立った。楓はその事実を内心で喜んでいた。後に冬真から鹿谷を自分の教官として迎えると聞いた時も、夕月のこの身分の低い「幼馴染」に対して、軽蔑と好奇心が入り混じった感情を抱いていた。腕を組んで、夕月と鹿谷の間を意地の悪い視線で行き来させる。「夕月姉さん、酷くない?ここはLunaの控室よ!Lunaのコ・ドライバーと密会なんて、レースの邪魔になるでしょう?」その言葉に、後ろのカメラクルーは名家の醜聞の匂いを嗅ぎ取った。橘家の奥様で、つい先日社長と離婚騒動を起こした夕月が、レーサーの控室でコ・ドライバーと密会。しかも実の息子に見つかるとは!楓の後ろに控える男たちの顔に、冷ややかな笑みが浮かんだ。悠斗は部屋を見回し、Lunaの姿が見当たらないことに気づくと、夕月の存在がますます目障りにな
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN