数ヶ月前まで、夕月は冬真の裾に付いた米粒のような存在でしかなかった。邪魔だと思えば、払い落とせばよかった。離婚に際して財産分与など一切認めなかった。庇護を失った夕月と瑛優が、どれほど苦しむことになるか、それを見たかった。外で遊び疲れた野良犬が、泥まみれになって戻ってくるように。夕月もいずれ尻尾を振って、餌をねだりに戻ってくると、そう確信していた。それがたった数ヶ月で。自分に交渉する資格がないだなんて?冬真は失笑を漏らした。自分は橘グループの社長であり、桜都の頂点に君臨する存在なのだ。夕月の言葉など、所詮は強がりに過ぎない——だが次の瞬間、夕月の穏やかな声が場内に響き渡った。「皆様、私と冬真さんはもう他人です。無関係な個人同士。私は橘グループとは一切関わりません。むしろ、挑戦状を叩きつけたい。冬真社長が私との平和共存を望まないのなら、競争相手となりましょう。東風が西風を制するか、西風が東風を押さえ込むか——勝負です」冬真の呼吸が乱れる。長年、寄生虫のように見下してきた元妻が、まさか自分を打ち倒すと宣言するとは。胸の内で何かが燃え上がる。永劫の氷河の下から突如として噴き出すマグマのように、理性と誇り高い自制心が、内側から崩れ始めていた。夕月は冬真から視線を外し、差し出される名刺を丁重に受け取っていく。「今宵の月は、一段と輝いているようだね」背後から響く涼の声に、冬真は身を翻した。夕月の前で演技を打つ、この狡猾な男を警戒の眼差しで睨み付ける。涼の薄い唇の中央に、深紅の液体が染みついている。まるで血を啜った杜鹃の花のように。その艶めかしい赤が、元から完璧な容姿に妖艶な色気を加えていた。「こんなに彼女が輝くとは思わなかっただろう?あなたのために全ての光を封じ込め、影として生きることを受け入れた彼女を、ただのガラス玉のように扱った」涼は再び夕月に視線を向けた。「月は今まさに昇りつつある。天空に輝くと決めた月を、もう誰も引きずり落とすことはできない。あなたは、ただ月を見上げる野良犬でしかないんだよ」その時、ウェイトレスがガラスの破片と血痕を片付けていた。全員の視線が夕月に集中する中、楓と怪我をしたウェイトレスが会場からいなくなっていることに、誰も気付いていない。葵はバルコニーまで息
突然、横から伸びてきた大きな手が葵の腕を掴み、バルコニーの手すりから引き離した。楓が全力で突き出した両手は空を切り、バランスを崩して前のめりに倒れ込んでいった。「きゃあっ!」悲鳴を上げる間もなく、楓は腰の高さの手すりを越えて転落し、下の生垣に姿を消した。バルコニー下の庭園は暗闇に包まれている。楓の悲痛な叫び声が暗闇から響き上がる。藤宮北斗は下を一瞥すると、冷ややかな笑みを浮かべながら呟いた。「死にはしないさ」北斗は楓のことは気にも留めず、しゃがみ込んだ。その素振りに、すでに震え上がっていた葵は再び身を竦ませた。スマートフォンのライトを点け、北斗は躊躇なく葵の膝に突き刺さったガラス片を次々と抜き取っていく。破片が肉から引き抜かれる度に、葵の全身が震えた。その痛みで、脚に力が入らない。北斗の手際は素早く、抜き取ったガラス片がタイルに落ちる度に、か細い音が響いた。次の瞬間、布地が裂ける音が響いた。北斗は自身のワイシャツの裾を掴み、片端を歯で咥えながら、布地を細長く裂いていく。その布切れで葵の膝の傷を簡単に固定する。開放創の汚染を防ぐための応急処置だった。「誰か!誰か来て!」「携帯はどこ!?誰か助けて!」生け垣に横たわったまま、楓は転落のショックから徐々に意識を取り戻していた。だが生け垣に落ちた衝撃で全身が強張り、少しでも動こうものなら激痛が走る。楓は必死に助けを求めたが、辺りは静まり返っており、応える者は誰もいなかった。彼女にはまだ分かっていなかった。葵が身を翻したのは自分から避けたのではなく、誰かに引き寄せられたということを。広大なバルコニーの影で、煙草を燻らせていた人物の存在に、楓は全く気付いていなかった。葵は驚きに目を見開いた。北斗は楓を助け出す気配すら見せない。それどころか、彼の関心は明らかに自分に向けられていた。血の付いた指が葵の顎を掴み、長身の男が圧し掛かるように近づき、彼女を手すりに押し付けた。北斗は興味深そうに葵を見つめていた。まるで新しい玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心に満ちた眼差しで。胸元を押さえつけられ、葵は不安げに身を捩る。何か言おうとした瞬間、握り締めていた拳を北斗に掴まれた。葵の心臓が激しく脈打つ。長く整った指が、抗いようのな
その世間知らずな眼差しに、北斗は意地の悪い笑みを浮かべる。「俺たちの世界じゃ、恋愛なんて生ぬるい言葉は使わない。支配下に置くってことさ」葵は首を傾げた。「じゃあ、今は誰も支配下にいないんですか?」「……」北斗は言葉を飲み込んだ。怪我をしていない方の手を握り締めながら、葵は心の中で計算していた。これは絶好のチャンスかもしれない。楓の兄を利用すれば、彼女の正体を暴くのは容易いはず。怯えたような目で北斗を見上げ、無邪気な表情を装う。「じゃあ、給料はいくらくれるの?週休二日?社会保険も?条件次第では、あなたの望み通りになってあげるかも?」北斗は奥歯を噛みしめた。「そういう話じゃないんだ」無害な花のように、葵は艶やかな唇を噛んで「私が初めてなの?あなたの……支配下の」北斗は片方の唇を上げ、鋭い犬歯を覗かせる。「自分が特別だとでも思ってるのか?」葵は聖女のような純真な瞳で見つめ、溜め息をつく。「ずっと独りぼっちだったの?かわいそう……寂しかったでしょう?」「……」楓は腰を押さえながら、足を引きずるように宴会場へと戻った。人混みの中を目を凝らして探すも、冬真の姿は見当たらない。大奥様の姿も消えていた。まさか、レセプションパーティーを途中で切り上げたのだろうか。携帯を取り出して冬真に電話をかけようとしたが、画面には蜘蛛の巣状のひびが入っていた。手の甲には木の枝で付けられた無数の傷跡が残る。漆黒の画面に映る自分の姿——乱れた髪、頬に付いた擦り傷——を目にして、楓の胸の内が更に暗く沈んでいく。やっとの思いで生け垣から這い出し、お尻を突き出しながら必死で携帯を探し当てた。バルコニーに戻った時には、そこには既に誰もおらず、床に散らばるガラスの破片だけが、先ほどまでの出来事を物語っていた。こんなみすぼらしい姿で宴会場に戻ったのは、冬真の気遣いと優しさを期待してのことだったのに。なのに冬真は一体どこへ?ふと気付けば、宴会客たちが幾重にも輪を作って誰かを取り囲んでいる。中心にいる人物は見えないが、これほどの注目を集めるなら、業界で最も話題の新星に違いない。楓も興味を引かれ、近づいてみた。するとその時、人垣が両側に分かれ、中心の人物のために道が開かれた。「失礼いたします」群衆の中から現れたのは夕月だった
夕月と涼は声のする方を振り向いた。涼は自分の演技を暴かれても動じず、むしろ夕月に更に近寄り、図々しく顔を寄せた。「よく嗅いでみて。血の匂い?それともワイン?」近づく涼に、夕月は思わず息を止めた。慎重に呼吸を整えながら確かめると、そこにあったのは紛れもないワインの芳醇な香り。さっき涼が殴られた時、夕月はワイングラスを手に持っていた。彼女はてっきり、香りの源は自分のグラスのワインだと思っていた。けれど今では、そのワインは全て冬真の顔にかかってしまっている。それなのに涼に近づくと、まだ芳醇なワインの香りが漂ってくる。涼の唇をよく見ると、確かに血の固まった色とは少し違う色をしていた。それに、実に綺麗な形の唇だった。不意に夕月の頭に、ある言葉が浮かんだ。「キスをするのに相応しい唇」そんな考えが脳裏を過ぎった瞬間、慌てて心の中で「いけない、いけない!」と叫んだ。「橘博士だ!!」「まさか!本物の橘博士を生で見れるなんて!」一階のゲストたちは、凌一が姿を現したことに驚嘆の声を上げた。毎年のレセプションパーティーに凌一が出席することは知っていても、この世俗を超越した天才が一般客の前に姿を現すことは決してなかった。今、神が俗世に降り立ち、人々は巡礼者のように熱狂的に彼の元へと駆け寄っていく。凌一の後ろにいたボディーガードたちが前に出ようとした時。凌一は軽く手を上げ、彼らの動きを制した。ボディーガードたちは困惑していた。人前に姿を見せることを好まない凌一が、エレベーターで降りてきたことは、二階の会議室にいた重鎮たちをも驚かせるほどの異例の出来事だった。あっという間に、凌一は数十人のゲストに取り囲まれてしまった。ボディーガードたちは我慢できず、現場の秩序維持に声を上げ始めた。夕月は騒がしくなった客たちの様子に目を向けた。車椅子に座った凌一の姿が、群衆の中に埋もれていく。こんな状況では、まともに呼吸すらままならないだろう。夕月は即座に前に出て、客たちを掻き分けた。「すみません、通してください!」夕月の声に、目の前の客たちが道を開けた。凌一は夕月が近づいてくるのを見て、目を伏せながらも、思わず口元が緩んだ。夕月は人混みを掻き分け、凌一の後ろに回る。スカートの裾が凌一の脛を掠め
「先生はそんな方じゃありません!」夕月の反論に、涼の胸が高鳴った。やはり橘凌一が本命か。となれば自分にもチャンスが……夕月は言い返した。「先生は氷雪のように清らかな方。傷つき、痛んでも、決して口にはなさらない」凌一が膝を擦っているのを見た夕月は、すぐに車椅子の後ろの小物入れから膝用の温熱シップを二枚取り出した。「貼らせていただきます」「すまない」凌一は淡々と応じた。夕月が膝元に屈んでシップを貼り始めると、凌一は彼女の頭上を深い眼差しで見つめ、次の瞬間、その視線を涼の顔へと移した。二人の男の鋭い視線が、エレベーター内で火花を散らすように交差する。夕月には気付かないその一瞬の睨み合いを、凌一のボディーガードたちは見逃さなかった。彼らの表情が一瞬、強張る。涼は口の動きだけで「狡猾な演技派」と凌一を罵りながら、声に出しては「おじさま、これからはお年も気になる年頃ですから、お膝のケアは欠かせませんよ」と言った。身分関係からすれば、涼は凌一をおじさまと呼ばなければならない立場だった。夕月は毛布を取り出し、凌一の膝にかけながら、尊敬する人を守るように言った。「先生とそんなに年は変わりませんよ」凌一は車椅子に座ったまま、横を向いて涼から目を逸らした。扇のように広がった睫毛の下には、才能を知り尽くした者特有の傲慢さが漂っていた。犬のIQが60、人間の平均が100、そして凌一は国際基準の満点である150。だからこそ凌一は、まるで人間が犬を見るような目で、周りの人間を見ていた。涼は凌一の口元に浮かぶ笑みを見逃さず、奥歯を噛みしめた。「あれ?」夕月が立ち上がった時、何かが落ちた。屈んで拾ってみると、国際レース大会・桜都ステージのVIPパス二枚だった。さっき凌一を助けようと群衆を掻き分けた時、誰かがポケットに滑り込ませたのだろうか。ビジネスマン特有の手の回し方だ。人前でチケットを渡せば断られかねないし、その行為自体が注目を集めてしまう。VIPシートに夕月が現れれば、チケットの主も姿を見せ、本来の目的を明かすというわけだ。もし夕月がレースを観戦しなければ、チケットの件は無かったことになる。夕月の指先がチケットを握り、微かに震えた。七年前、桜都ステージの出場資格を得ながら、レース直
「試してもいないのに、どうしてプロレーサーに戻れないって分かるんだ?」夕月は涼に優しい微笑みを向けた。レースに関しては、彼が一番自分のことを理解してくれている。招待状を見つめ直し、心に決意を固める。「まずはメールを送ってみる。返事が来たら……このレースに出てみようかな」涼にはすぐに察せた。夕月が連絡を取ろうとしているのは、かつてのナビゲーターだ。親友として共に走った仲間。五年前に別れを告げた相手。Lunaが引退して以来、二人は一度も連絡を取り合っていなかった。夕月はスマートフォンを取り出し、メールアカウントにログインした。メール以外に、もうあの人と連絡を取る手段があるのかどうかも分からない。送信先欄に、暗記している相手のアドレスを打ち込む。画面を見つめながら、言葉を選んでいく。あの日、涼がコロナを駆って現れ、夢は まだ持っているかと問うた時。真っ先に、親友の顔が浮かんだ。「もう一度Lunaになって、私たちの夢を叶えたい」送信ボタンを押した瞬間、胸が激しく鼓動を打つ。このメールを送った今、もう心は落ち着かない。数学コンテストの時でさえ、これほど緊張したことはなかった。慌ただしく画面をロックする。エレベーターのドアが開くと、涼が声をかけた。「送っていこうか」道中、国際レースの話ができる。きっと断られることはないはずだ、と涼は確信していた。「ママ!」幼い女の子の声が響く。夕月は瑛優の姿を素早く捉えた。ランドローバーの窓から身を乗り出し、瑛優が手を振っている。運転席の大柄な男性は、車内の影に身を潜めていた。夕月は涼に微笑みかけ「お兄さんが迎えに来てくれたみたい」涼が瑛優に挨拶しようと近づいた時、咳き込んだ。「涼おじさん、大丈夫?」瑛優は心配そうに尋ねた。涼は流れるような動きで車のドアを開け、後部座席に滑り込んだ。「さっき橘冬真と会ったんだけど……」その一言で瑛優の関心は一気に涼に向けられ、パーティーでの出来事に真剣な眼差しを向けた。夕月が凌一と別れを告げ、車に乗ろうとした時、涼は隣の席を軽く叩いた。その輝く瞳は「お嬢さん、こちらへどうぞ」と言わんばかりだった。「降りろ」天野昭太は容赦なく追い払った。涼は胸に手を当て「ゴホッ、ゴホッ」瑛優は慌てて
ジープが駐車場を出て行くと、冬真は凌一の傍らに立ち、恭しく声を掛けた。「叔父上」「面汚しが」凌一の一言に、冬真の顔が血の気を失った。凌一は冬真を見向きもせずに続けた。あの時、私が『才知に溢れた生徒を預かっている』と告げず、夕月の学業支援も黙認していなければ、全てが違っていたかもしれんな」冬真は凌一の膝に掛けられた毛布を見つめ、まつ毛を伏せて瞳の奥に渦巻く殺気を隠した。「叔父上、それはどういう……」嘲るような笑みを浮かべ「叔父上の判断に間違いはない。父上も祖父上も、あなたの言葉を絶対の真理として扱ってきた。まさか……後悔などなさっているのですか?」この瞬間、冬真は凌一が少し近い存在に感じられた。なんだ、この完璧な人物にも、誤った決断があったのか。冬真は顎を上げ、凌一の後頭部に視線を向けた。まるで狼のように、その目には反抗的な色が滲んでいた。「叔父上、私の元妻が気がかりなのですか?」あの時、凌一の口から夕月の名を初めて聞いた時から、冬真には分かっていた。夕月が凌一にとって特別な存在だということが。山寺の梵鐘のような、深く響く声が凌一から漏れた。「私は確信していた。彼女をお前に託せば、女性が望むものを全て手に入れられると。お前を買いかぶっていたようだ。所詮、彼女を手にする資格などなかったな」冬真は拳を握りしめ、すぐに力を抜いた。冷たい空気を胸に吸い込みながら、嘲るように笑う。「そんなに素晴らしい女性なら、なぜ叔父上自身が娶らなかったのです?何故、私に押し付けたのです?」「ママ、これ見て!」瑛優が一束の書類を夕月に差し出した。夕月が手に取ると、それは桜井幼稚園の恒例行事である親子野外活動のお知らせだった。園では園児と保護者が一緒になって野外活動に参加することで、親子の触れ合いの場を設け、さらには他の家族との交流を通じて様々な親子関係の在り方を学ぶ機会を提供するという。「ここに書いてあるんだけど」瑛優は真剣な表情で言った。「野外活動には両親の参加が必要で、どちらかが参加できない場合は欠席理由を書かなきゃいけないんだって」年少組の頃から、夕月は瑛優と悠斗の野外活動に付き添ってきた。冬真は当然のように仕事に追われ、一度も親子活動に顔を出したことはなかった。夕月は一人で双子の面倒を見ながらも、様
瑛優は真剣な表情で考え込み、涼と天野を交互に見つめた。本当に迷っている様子で「うーん……明日の朝、ママに教えるね!」帰り道、涼は瑛優を優しくあやして眠らせた。そっとイヤホンを取り出し、瑛優の耳に優しく置いた。スマホに入力した文字を音声で再生する。「今日、藤宮瑛優ちゃんは、ママと涼おじさんと一緒に親子活動に参加しました。瑛優ちゃん一家は、天下一の仲良し家族賞を獲得しました!」瑛優は夢の中で、幸せそうに微笑んだ。「一方、瑛優ちゃんがママと天野おじちゃんと参加した時は、おじちゃんの恐い顔に他のお友達が泣き出してしまい、瑛優ちゃん一家は最悪家族賞をもらってしまいました」瑛優の笑顔は一瞬にして消え、口元が下がった。「涼おじさんと瑛優ちゃんはどの競技でも優勝して、意地悪なパパは土下座して謝りました。でも天野おじちゃんとイベントに行くと、ルールが分からなくて失格になって、意地悪なパパは悠斗くんと一緒に瑛優ちゃんを笑いものにしました」その光景が瑛優の夢の中で再生され、不安げに体を縮める。無意識に指を口元へ持っていこうとする。ランドローバーが桐嶋家の門前で停まると、涼は車を降りながら、さも何気なく夕月に声をかけた。「週末、時間あるんだけど」運転席の天野の表情が一気に険しくなった。翌朝目を覚ました瑛優は、ぷっくりした指先で耳をほじった。昨夜見た予知夢のような夢。涼おじさんと行く親子活動は素敵な光景だったのに、天野おじさんだと子供たちが大泣きする悪夢だった。ベッドに座ったまま、しばし考え込む。自分で服を着て、布団を畳んで、子供部屋のドアを開けると、美味しそうな匂いに包まれた。ママがご飯作ってるのかな?わくわくしながら台所へ走っていく。すると身長190センチ近い屈強な体つきの天野昭太が、粉まみれの指でコンロの前に立っていた。「おじちゃん、何作ってるの?」天野は振り返って「小籠包だよ。もうすぐ一籠目が蒸し上がるんだ」瑛優は小籠包の香りに誘われ、思わず唾を飲み込んだ。「他にも何か美味しそうな匂いがするよ!」コンロの前に歩み寄ると、天野は土鍋の蓋を開けて見せた。黄金色の泡が立ち上る粥が姿を現した。「塩漬け卵黄と海老の土鍋粥だよ」「わぁ!!」瑛優の瞳が星のように輝いた。天野は土鍋
楓は一瞬固まった。「……父が?なぜここに?」「私どもから盛樹様に雲上牧場までお越しいただくようご連絡いたしました。悠斗お坊ちゃまも社長も父親から懲らしめを受けました。楓さんも当然、お父様からの指導を受けていただかねばなりません」部下は淡々と答えた。 会話の最中、藤宮盛樹が姿を現した。夕月も驚いていた。凌一の行動力は驚異的だった。事件発生からわずか三十分足らずで、星来の危機を把握し、即座に処罰を下したのだ。盛樹は息を切らして現場に駆けつけ、まさに冬真が竹刀で打たれる場面に遭遇した。竹刀に付着した血を目にした途端、全身が震えた。呼び出しを受けた道中で、凌一の部下から楓が星来を斜面から突き落としたと聞かされていた。その一報で、盛樹の顔から血の気が引いた。凌一の部下が近づいてくると、楓の姿が見当たらない盛樹は震える声で尋ねた。「私の……娘は、まだ生きているのでしょうか」部下は新しい竹刀を盛樹に差し出した。「楓様は夕月様と星来坊ちゃまを斜面から落とした首謀者です。盛樹様、楓様の平手を五十回、お願いいたします」斜面の下で這いつくばっていた楓は、その言葉に青ざめた。冬真の手のひらは三十回で血が滲むほどだった。五十回も打たれれば、自分の手は廃人同然になってしまう。「私の手はレースに使うんです!来週のレースに出場するのに……この手に何かあったら困ります!」国際レース大会・桜都ステージのスポンサーの一人である冬真の計らいで、楓はエキシビションマッチの出場枠を得ていたのだった。盛樹は自分の娘が勉強嫌いで、いつも男たちと兄弟のように付き合っていることを分かっていた。それでも、そんな生き方で少しばかりの成果を上げていた。どんな順位であれ、エキシビションマッチに出場すれば、楓は桜都で名が売れる。そう考えていた盛樹は、凌一の部下に向かって苦渋の表情を浮かべた。娘のレース人生を断つわけにはいかなかった。「手の平以外では……ダメでしょうか」「他の部位でも構いません」部下は即答した。盛樹は楓に向かって歩み寄った。「この馬鹿者!どこを打たれるか、自分で選べ!」楓は暫し考え込んだ後、不本意そうに自分の後ろを振り返った。「ズボン、厚いし……お尻なら」厚手のパンツを履いていることを確認しながら言った。凌一が出て
痛い!左手が痺れて感覚がなくなっていた。竹刀を握る冬真の手に力が入った。息子を打った手のひらが、自分も痛みを感じているかのように疼いた。だが凌一の前では、後継者としての威厳を示さねばならない。「星来くんを実の兄弟のように大切にするんだ。わかったか?二度と仲たがいをしているところを見たくない」返ってくるのは、悠斗の嗚咽だけだった。これで凌一の怒りも収まったはずだ——冬真がそう思った矢先。タブレットに目を向けると、凌一の声が響いた。「子を教えざるは親の過ち。冬真、三十発」「私が、ですか?」冬真は声を失った。深く息を吸い込んでから、冬真は部下に竹刀を差し出した。「叔父上、ご指示の通りに」恭しく頭を下げる。「待て。もうすぐ父上が到着する」凌一の声には焦りのかけらもない。冬真の表情が凍りついた。その場にいた全員が、予想だにしない展開に息を呑んだ。しばらくすると、先生の一人が林の向こうで何か光るものに気付いた。まるで誰かが鏡を掲げて歩いているかのような、まばゆい輝きだった。その光る物体が近づくにつれ、先生たちや救護班の面々は、スーツを着こなした坊主頭の男性であることが分かった。小走りでやって来たその中年の男性こそ、橘冬真の父、橘深遠だった。深遠の後ろには秘書、そして斎藤鳴を含む数人の保護者が続いていた。鳴は天野と冬真が戻って来ないことを不審に思い、他の保護者とともに様子を見に来たのだ。途中、林の中をぐるぐると歩き回り、明らかに道に迷っている様子の深遠と出くわした鳴は、何か重大な事態が起きているに違いないと直感した。他の保護者たちと共に、好奇心に駆られるままついて来たのだった。深遠はハンカチを取り出し、ピカピカの頭を拭うと、タブレットの前に立った。兄である立場ながら、弟の凌一に対して並々ならぬ敬意を示す。「凌一、来る途中で星来くんが危険な目に遭ったと聞いた。もし本当に悠斗くんが関わっているというのなら、あの小僧を決して許すわけにはいかん」悠斗は再び体を震わせた。左手を叩かれたばかりなのに、今度は右手まで叩かれるのだろうか。凌一が静かに告げた。「お前の孫は、既に息子が躾けた。今度は、お前が息子を躾ける番だ」凌一が言い終わると同時に、部下が竹刀を深遠の前に差し出した。「平手を三
楓は悲鳴を上げ、足で天野を蹴ろうとした。だが既に捻挫していた足が激痛を走らせる。「助けて!痴漢よ!きゃああ!離して!冬真、助けて!!」「離せ!」冬真が怒鳴った。天野は楓を掴んだまま斜面の端まで来ると、冬真の方を振り向いた。「ああ」と一言。そう言うと、天野は手を放した。楓は再び斜面を転がり落ちていった。「きゃあああ!!」楓は土埃を浴びながら、麻袋のように地面に叩きつけられた。斜面に這いつくばったまま、それほど転がり落ちてはいないものの、立ち上がる力も残っていなかった。天野は次に悠斗へと向かった。「お前が自分で降りるか?それとも私が放り投げるか?」悠斗は恐怖に目を見開き、後ずさりした。冬真の後ろに蹲って、「いやだ!!うわあああん!!」と泣き叫んだ。冬真は我が子を庇いながら、怒鳴った。「私の息子の躾に、お前が口を出すな!」「なら、私が躾をしてもいいかな?」突然響いた凌一の声に、冬真の体が強張った。周囲を見回すが、凌一の姿はどこにもない。私服警備員がタブレットを抱えて冬真の前に現れた。画面に映し出された凌一の端正な顔立ちは、まるで神々しささえ漂わせていた。冬真は息を呑んだ。まさか、警備員がこんなに早く凌一と連絡を取れるとは。タブレットごしであっても、凌一の視線には威圧感が満ちていた。猛虎のように気炎を上げていた冬真も、凌一の前では爪を隠さざるを得なかった。「叔父上、星来くんは無事です。ご心配なく」「私が心配なのは、お前の方だ」凌一の優しげな言葉の裏に、冬真は凍てつくような寒気を感じ取った。画面越しに凌一は嘲るように続けた。「わが養子を脅かす最大の危険が、甥の息子と、その親友だとはね」冬真の表情が凍りつくように固まった。「悠斗くん」「悠斗」凌一の声が響き、まるで最後の審判のように冷たく澄んでいた。冬真は息子に目配せし、タブレットの前に立つよう促した。画面越しでさえ、悠斗は凌一の顔を直視できず、俯いたままだった。「跪け」山間から吹き抜ける風のような冷気に、悠斗の両足が震え始めた。悠斗は恐怖に満ちた目で父親を見上げた。冬真の唇は一文字に結ばれ、整った顔立ちの輪郭が一層鋭く浮かび上がる。「跪くんだ!」悠斗の膝から力が抜け、地面に崩れ落ちた。
その後、養父が他界した時、冬真は夕月と共に墓園を訪れた。彼は夕月の手を自分のダウンジャケットのポケットに入れ、大きな手で包み込んだ。顔を上げると、お互いの肩に雪が積もっているのが見えた。あの時の夕月は、今日この雪の下で手を取り合えば、この先ずっと寄り添っていけると信じていた。冬真は確かに彼女の凍えた心を温めてくれた。でも結婚してから気づいたのは、冷徹さと薄情さこそが、この男の本質だということだった。「藤宮楓は何をしたんだ?」天野の声が響いた。彼は夕月に、その場で証言するよう促した。「私と星来くんを突き落としたの!」「そんなことしてない!」楓は即座に否定した。「うぅ!」星来が不満げな声を上げ、眉をひそめながら楓を指差した。手に持ったアンズタケを見せてから、今度は悠斗を指差す。「なんだよ!僕は関係ないでしょ!」悠斗が憤慨して叫んだ。星来は頬を膨らませると、スマートウォッチのボタンを押した。彼の安全のため、スマートウォッチには常に録音・録画機能が作動していたのだ。スマートウォッチから悠斗の声が流れ出した。「このアンズタケ、瑛優が大好きなんだよ。たくさん採ってあげたら、きっと喜ぶと思うな」「危ないわ。早く戻ってきて」夕月の声が響いた直後、二人が斜面を滑り落ちる音が続いた。次の瞬間、楓の悲鳴が録音から漏れ聞こえてきた。スマートウォッチの録音を聞いた楓と悠斗の顔色が一気に変わった。周囲の視線が二人に集中する。悠斗は落ち着かない様子で耳を掻きながら、どうしていいか分からずにいた。「なんでそんな目で見るのよ!たかがこんな録音で、私が突き落としたって証明になるわけ!?」楓が声を荒げた。楓は一転して、優しい声で星来に語りかけた。「私は星来くんと夕月姉さんが危ないのを見て、助けようとしただけ。でも夕月姉さんが突然私のマフラーを掴んで、引っ張り込まれちゃったの。ねえ星来くん、夕月姉さんに何か言われたの?だから私のこと誤解してるの?」私服警備員が周囲を見回している中、楓はその様子を確認すると、得意げに口元を歪めた。バカじゃない、この斜面付近に監視カメラなんてない。だからこそ、立入禁止の看板を外したのだから。星来は喉から軽く「ふん」と声を漏らすと、スマートウォッチの録音を続けて再生し
冬真は夕月の言葉を最後まで聞く気もない。夕月も斜面の下にいたと知った瞬間から、いらだちを覚えていた。楓に冷ややかな視線を投げかけながら、夕月に問う。「楓が、お前と星来を突き落としたと言いたいのか?」「そうよ」夕月は即答した。「お前も星来も怪我はしていない」冬真の声は水面のように平坦だった。怪我もしていないのに、なぜ楓を責める必要がある?怪我もないなら、何もなかったことにすればいい——そう言わんばかりの態度。陽光が眩しく差し込む中、夕月は目の前の男を見つめていた。わずか数歩の距離なのに、まるで深い峡谷が二人を隔てているかのようだった。これだけの人がいる中で、惨めな姿を晒しているのは彼女と楓だけ。天野に教わった護身術のおかげで、斜面を転がり落ちる時も、必死で自分と星来を守ることができた。それなのに、まるで大怪我をしたかのような素振りを見せる楓。冬真は今や、楓が夕月と星来を突き落とした張本人だと分かっているはずなのに、なお楓を庇う姿勢を崩さない。夕月の口元に、苦い笑みが浮かぶ。「ふぅん」その声には、嘲りと諦めが混ざっていた。「夕月さん!橘家があなたの学費を全額援助してくれることになりました。しっかり勉強するのよ!」かつて、石田書記は興奮した様子で駆け寄ってきて、そう告げた。「橘家……ですか?橘博士が援助してくださるんですか?」彼女は首を傾げて尋ねた。「いいえ、援助してくれるのは橘博士じゃなくて、橘家の後継者の橘冬真さん。博士の甥御さんよ」石田書記は息もつかずに続けた。「冬真さんは博士からあなたのことを聞いて、学校側に申し出てくれたの。四年間の学費と、毎月20万円の生活費も出してくれるそうよ。ただし条件が一つあって——」石田書記は笑みを浮かべながら、「全科目で首席を取ることです。まあ、あなたにとっては当たり前のことでしょうけどね。橘博士があなたを高く評価して、その上、後継者までが援助を申し出てくれたんだから、期待を裏切らないようにね!」彼女は石田書記に頼んで、冬真のビジネスメールアドレスを教えてもらった。感謝の気持ちを込めて、夕月は年末年始などの節目に、挨拶のメールを送るようにしていた。時折、冬真から返信があり、近況を尋ねられることもあった。そんな時は丁寧に、橘家の援助のおかげで順調に過
声を上げなければよかったものを——楓は絶望的な表情で顔を覆った。この馬鹿!楓は罵声を飲み込んだ……悠斗の慌てた否定は、かえって真相を暴露するようなものだった。まるで泥棒が「盗んでません!」と叫ぶようなもの。天野が悠斗に近づくと、その影が小さな体を覆い尽くした。見上げた悠斗には、まるで巨大な山が迫ってくるように感じられた。「なぜ下に誰もいないと思うんだ?」天野の顔も見られず、悠斗の細い肩が震え始める。光に照らされたエビのように身動きが取れず、頭の中が真っ白で、言葉が出てこない。「何か隠しているのか?」天野は悠斗の様子の違和感を鋭く察知した。「パパぁ!」悠斗は恐怖で泣きじゃくりながら、冬真の後ろに逃げ込んだ。冬真は冷たい表情で、息子の嘘を悟った。その時、警備員たちは既に安全ロープを固定し、天野と共に斜面を降り始めていた。彼らは素早く身を翻し、まるでスパイダーマンのように斜面を自在に動き回る。天野が生い茂った茂みを掻き分けると、物音に気付いた夕月が顔を上げた。天野の姿を認め、安堵の表情を浮かべる。「お兄さん!」さっき携帯の振動を感じたものの、両手で岩場にしがみついていて電話に出られなかった。でも夕月は信じていた。天野の危機管理能力なら、自分と星来が戻らないことにすぐに気付いて動いてくれるはずだと。「お坊ちゃま!」私服警備員たちは星来を見つけるや否や、素早く安全ロープを装着しようとする。星来は夕月の袖を掴み、頑固な眼差しで警備員たちに訴える——先に夕月を助けてほしいと。「星来くん、大丈夫よ。こんなに大勢来てくれたんだもの。一緒に上がれるわ」と夕月は諭すように言った。星来を警備員に託すと、天野は夕月に安全ロープを取り付けた。天野に引き上げられた夕月は、斜面の上で地面に座り込み、大きく息を吐いた。危機的状況でアドレナリンが急上昇し、恐怖を乗り越える力を与えてくれていた。だが、その危機が去った今、夕月は生還の安堵と共に、全身から力が抜けていくのを感じていた。土埃まみれの髪が頬に張り付き、服には草の切れ端や小さな棘がこびりついている。「なぜ下にいたんだ」声をかけたのは冬真だった。夕月は彼を無視し、担架に座る楓に視線を向けた。その瞳は氷のように冷たく澄んでいた。地面
楓が処置室に運ばれた後で、パパにあの面倒くさい母さんが斜面の下にいることを伝えよう——担任は怪我人との口論を避け、淡々と言った。「藤宮さんの転落事故については、園で詳しく調査させていただきます」「私が嘘つきだって言うの?」楓は体を起こすと、突然担任の頬を平手打ちした。担任は楓の傍らに屈んでいたが、その衝撃で頭が真っ白になった。口を開けたまま、信じられない目で楓を見つめる。なんて品性の欠如した女だ。「楓!」冬真の声が低く鋭く響いた。地面に座ったまま楓は顔を上げ、怒鳴り返した。「なんで私を怒るの!?私のこと兄弟だと思ってないの!?」担任は口を開きかけたが、楓の言葉を聞いて閉じた。馬鹿と話しても無駄だ。馬鹿は必ず相手の知能を自分のレベルまで引きずり下ろそうとする。楓は苛立たしげに冬真の太腿を叩いた。「親友が侮辱されてるのに、なんで私の味方してくれないの?」冬真は楓の首筋に残る鮮明な赤い痕に目を留めた。「首の傷は何だ?」自分の首に広がる細かな痛みを感じながら、楓は躊躇った。夕月にマフラーで絞められたと告げ口したい。そうすれば冬真は必ず夕月を罰するはず。でも今は、夕月の存在を皆に隠さなければならない。茂みに落ちた夕月と口の聞けない星来は、もう声一つ聞こえない。多分もう……そう考えると、楓の目の奥に浮かぶ冷笑を隠すように俯いた。星来を消せば、凌一を傷つけ、冬真の橘家での発言力を高められる。そして将来、冬真との子供の競争相手を一人減らせる。夕月を消せば、あの眩い輝きも消える。実の姉があんなに輝かしい存在であることに、もう我慢できなかった。「転がり落ちた時に、マフラーが木の枝に引っかかって首を絞めたの。まだ息苦しくて……」楓は咳き込みながら、惨めな表情を浮かべ、冬真に抱きしめてもらおうと手を伸ばす。冬真は眉間に皺を寄せ、冷たい表情のまま屈みこもうとした瞬間、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。振り返ると、園の制服を着た十数名の男たちが一斉に駆けてくるのが見えた。冬真は細い目を更に細めた。一目で分かる。訓練された動き——明らかに園の職員ではない。私服の警備員だ。ここに私服警備員がいるとすれば、それは一つのことを意味する——星来の野外活動参加に際し、凌一が警備要員を
夕月は激しく胸を上下させていた。呼吸をする度に鼻腔が刃物で切り裂かれるような痛みが走る。鉄錆のような匂いが鼻と喉に広がる。より広い平らな土手に立ちながら、夕月は唇を固く結んだ。声を出せば、楓に位置を悟られ、また石を投げつけられかねない。ゆっくりと星来を下ろす。抱きかかえていた腕は力が抜け、感覚が失われていた。急な斜面の中に、やっと足場の確保できる場所を見つけた星来は、スマートウォッチの緊急通報ボタンを押した。星来は夕月の手を取り、まるで年老いた幹部のように、その手の甲を優しく叩いた。心配しないで、すぐに誰かが助けに来てくれる——そう伝えるように。五分後、先生が医療スタッフ四名を連れて駆けつけた。担架を一つだけ持っているのを見て、悠斗は自分に言い聞かせた。楓のことだけを伝えて、夕月のことは言わなかった自分は、間違っていない。まず楓を診療所に運び、治療が済んでから、夕月と星来を探してもらえばいい。あの面倒くさい母親への、いい教訓になるはずだ。星来が危険な目に遭った時、夕月は我を忘れて斜面を駆け下りていった。いい気になって!二人とも、あの下でじっとしているがいい!中村先生は斜面に横たわる楓を見て声を上げた。「藤宮さん、ここは立入禁止区域ですよ。どうしてここに?」楓は苛立たしげに返した。「知るわけないでしょ。柵も看板もないのに」中村先生は周囲を見回した。昨日の下見の際、立入禁止の場所には全て警告の看板を立てたはずなのに、ここの看板が消えている。冬真が駆けつけると、楓の背後に赤いマフラーが落ちているのが目に入った。その下の斜面には、明らかな転落の跡が長く残されていた。医療スタッフが楓に手を差し伸べると、彼女は悲鳴を上げた。「冬真!」楓は取り乱したような表情で、冬真に向かって手を伸ばす。担任は蔑むような表情を浮かべた。救急隊員がいるというのに、楓は冬真の前でドラマでもやっているのか。しかも冬真は、この手の演技に引っかかる方だった。冬真は楓の手を握り、一気に引き上げた。救急隊員が担架に移そうとして触れた途端、楓は大袈裟な悲鳴を上げた。「冬真に抱っこしてもらいたい」楓は哀願するような声を出す。担任は目を天に向けんばかりに回した。「橘社長は特別な体質でもあるんですか?社長が触れ
そうして楓は悠斗に星来を誘い寄せるよう仕向けた。自閉症を抱える星来は、ずっと心理療法を受けてきた。今日やっと一歩を踏み出し、野外で他の子供たちや保護者と活動に参加する勇気を見せたのだ。もしここで少しでも事故に遭えば、それだけで星来は二度と外に出ようとはしないだろう。そんな臆病な星来なら、もう悠斗の橘家での立場を脅かすことはない。楓は下を見やった。夕月が星来を抱えて這い上がってくるところだ。手の届く場所に転がっていた石を掴む。「楓兄貴、何するの?」悠斗の声に、夕月が顔を上げる。楓の唇に浮かんだ底意地の悪い笑みが見えた。ここまで転落させたのに、もう一踏みしない手はない。楓は石を振り上げ、夕月の頭めがけて投げつけた。夕月は星来を抱きしめたまま、咄嗟にずれた。斜面の下の茂みの陰に平らな場所を見つけた夕月は、そのまま星来を抱えて茂みの中へ身を投げた。「ザッ」という音と共に茂みが大きく揺れ、すぐに静寂が戻った。「うっ……!」悠斗は思わず身を乗り出し、何かを掴もうとして手を伸ばした。夕月と星来が落ちていくのを、ただ呆然と見つめることしかできない。目の前の光景に悠斗は震え上がった。小さな唇を震わせながら、悠斗は絞り出すような声で言った。「楓兄貴、どうしてそんなことするの?あ、あなた……人殺しちゃったよ!!」悠斗の体が凍りつき、頭の中が真っ白になった。楓は最初、ただのいたずらだと言った。星来を怖がらせて、瑛優や面倒くさい母親の前に二度と現れないようにするだけだと。「悠斗くん、見たでしょう?夕月姉さんが自分から星来を抱えて転がり落ちたのよ!」「でも……」喉に刃物を突き立てられたかのように、悠斗は息も言葉も詰まった。見えない手に引っ張られているような感覚。悠斗の瞳に涙が揺れる。「ねぇ悠斗くん、医者が来たとき、私を見捨てて彼女たちだけを助けたらどうする?」楓の声が追い詰めるように響く。悠斗は固まったまま、どうすればいいのか分からなくなった。楓の声が急に弱々しくなる。「救護所のベッドは一つしかないの。夕月と星来が使っちゃったら、私はどうなるの?」「医者に楓兄貴を放っておかせたりしないよ!」楓は首を振った。「医者は夕月姉さんを見つけたら、真っ先に彼女を助けようとするわ」「だから医者が来る