某高級ホテルの最上階で、天野昭太はジムから戻ったところだった。筋肉は未だポンプアップした状態のままだ。シャワーを浴びたばかりだというのに、その体からは熱気が立ち昇っている。秘書の一人が、すでに長時間待機していた。普段から親しみやすく気さくな天野に、秘書は冗談めかして言った。「社長、まさか妹さんが橘グループの社長夫人だったなんて!今まで一度も仰らなかったじゃないですか?」天野の表情が急に冷たくなった。「どこでそんな話を?」秘書はスマートフォンの画面を見せた。「ほら、妹さんがまたトレンド入りしてます」『#藤宮夕月が息子を虐待』『#藤宮夕月の元夫・橘冬真』『#藤宮夕月と豚の餌』トレンドの上位は夕月への批判で埋め尽くされていた。昭太は悠斗のインタビュー音声を再生した。音声を最後まで聞く前に、スマートフォンを握り潰さんばかりの力が入った。腕の血管が浮き出るほど激昂した男は、「でたらめも甚だしい!」と怒鳴った。その怒声に秘書は心臓が飛び出るほど震え上がった。ネット上では、夕月の元夫が桜都の名門御曹司・橘グループ社長の橘冬真だということが話題沸騰していた。実子からの告発を聞いた後、ネットユーザーたちの怒りは頂点に達していた。「橘家の坊ちゃんの言う通り!藤宮夕月は橘冬真と七年も結婚してたのに、子供二人産んだ以外に橘家に何か貢献したの?メディアの前で元夫のことを軽々しく扱うなんて、恥知らずもいいとこじゃない?」「奥様生活を捨てて夫も子も見捨てるなんて、ふん。主婦は社会から隔離されすぎて、自尊心が異常に肥大してるのね」「あの女、旦那様がどれだけモテるか分かってないの?桜都の御曹司よ?子供産みたい女性なんて行列できてるのに!」「親戚が桜都の上流階級と付き合いがあるんだけど、橘冬真さんはスキャンダル一つない潔癖な方だって。どれだけ女性が近づいても見向きもしないんですって」「こんな素晴らしい旦那様に何の不満があるっていうの?わがままも大概にしなさいよ!頭おかしいんじゃない?私なら桜都の御曹司に嫁げたら、外で遊び歩かれても、悠々自適な専業主婦して、お茶汲みだってお世話だってやりますけど!」冬真はSNSをやっていないため、多くのユーザーが橘グループの公式アカウントにメッセージを投稿していた。「冬真さん
多忙を極める日々の中、時には悠斗と言葉を交わす時間さえなかった。息子が夕月から虐待を受けていたのかどうか、冬真には分からなかった。ただ、悠斗が言う「豚の餌」という件については、母親から聞いたことがあった。大奥様は夕月の料理を「見るに堪えない」と評していた。母の言葉を借りれば、「恥さらしも甚だしい、とても目に入れられたものではない」ということだった。夕月の郷土料理は、桜都の上流階級にとっては確かに粗末な食事に映ったのだろう。電話越しに清水秘書は感慨深げに続けた。「社長、ようやく濡れ衣が晴れましたね。ネット上の大多数が社長のお味方です!」冬真はネット上の意見など見る気も起こらなかった。「今後、藤宮夕月に関することと、ネット上の話は特に報告する必要はない」もう離婚したのだ。夕月の生死など、自分とは何の関係もない!「おや!?」次の瞬間、清水秘書は驚きの声を上げた。「社長!夕月さんに関するネガティブなトレンドが全て削除されました!」冬真は最初、夕月が金を払って削除したのかと思った。だが、すぐに凍結された16億円の件を思い出した。今の彼女に、そんな工作をする資金などあるはずもない。SNSを開くと、夕月に関するネガティブなワードは全て「法令違反により表示できません」となっていた。男の深い瞳に波紋が広がった。こうした迅速な対応をSNS運営側に取らせるには、相当な影響力を持つ人物の介入としか考えられない。夕月に関するありとあらゆる批判が、一瞬で掻き消されたのだ。誰かが彼女を守っている。冬真は眉間に皺を寄せ、その人物に思いを巡らせずにはいられなかった。桐嶋涼だろうか?アパートメントホテルの一室で、夕月は食器を洗っていた。水の音が響く。夕月と瑛優は食事を終えたところで、瑛優は椅子の上に立ち、布巾でテーブルを拭いていた。テーブルに置かれた夕月のスマートフォンが鳴り、見知らぬ番号からの着信だった。「ママ!」瑛優が夕月を呼んだが、聞こえていないようだった。そこで瑛優は通話ボタンを押した。「もしもし、ママは今お皿を洗ってて……」幼い声で話し始めた瑛優の言葉は、受話器から漏れる冷笑で遮られた。「藤宮夕月、今やネット中があなたを非難してるわ!私の息子がどれだけ人気があるか分
大奥様の顔が画面越しに一瞬で歪んだ。「藤宮夕月!何をする気!?」大奥様は画面を突き破って夕月の手を掴みたいとでも言うように身を乗り出した。鼻の穴を広げ、目を剥きながら、大奥様は画面を睨みつけた。「私の何の証拠があるというの?そんな脅しに乗るものですか!」「若葉さん」夕月は淡々と告げた。「嘘を言っているかどうかは、七営業日以内にお分かりになるでしょう。ちなみに、今回提出した証拠で、あなたは表彰を逃すことになります。もし私に手を出すようなことがあれば、あなたの輝かしい肩書きが、一つずつ剥がれ落ちていくことになりますよ」大奥様にとって、夕月の警告は挑発以外の何物でもなかった。「はっ!告発するなら、してみなさい!どこまでやれるか、見物ですわ!天を突き破れるとでも?」夕月は田舎者で世間知らず、大奥様が桜都の上流社会でどれほどの影響力を持っているか知るはずもない。大奥様は笑みを浮かべ、画面越しの真っ赤な唇が妖しく光った。「瑛優のことを考えて、まだ少しは情けをかけてやろうと思っていたのに。夕月、あなたが私を告発するなら、悠斗の実母は死んだものと思いなさい!二度と悠斗に会わせてもらえると思わないことね!」大奥様の目に氷のような冷気が宿り、まるで裁判官のように夕月に判決を言い渡した。極刑を下すのだ!息子との関係を完全に断ち切り、面会権を永遠に奪うという極刑を。これは夕月が最も恐れていたことだった。悠斗が二歳の時、橘家は彼をエリート教育のため母親から引き離そうとした。その時の出来事は、夕月の魂を抉るようなものだった。大奥様の前に跪き、額を地に擦りつけて必死に懇願したあの日々。大奥様は夕月の急所を熟知していた。瑛優を連れ出した件など、大奥様の目には些細な反抗でしかなかった。冬真への当てつけに過ぎないと。瑛優と悠斗は同じ学校。夕月は気が向けばいつでも悠斗に会えるのだから。大奥様は画面越しに宣告した。「あなたは息子を永遠に失うことになるわ!」そう言い放つと、かつてのように夕月が涙を流して哀願するのを待った。しかし、夕月は画面に向かって微笑んだ。「大奥様、どうかその言葉通りにしていただきたいですね」「えっ!?」今度は大奥様の方が予想外の展開に驚きを隠せなかった。夕月は即座に通話を切り、スマー
楓は片方の唇を上げ、指示を出した。「全て公開にしなさい。みんなに彼女の本性を見せてあげましょう」「承知しました。すぐに実行します」ハッカーは夕月が長年に渡って投稿してきた非公開コンテンツを、一斉に公開設定に変更した。楓は複数のPR会社に連絡を取った。PR会社は傘下の百万フォロワーを抱えるアカウントを使って、夕月のサブアカウントの投稿を拡散し始めた。夕月の非公開投稿が、一気に日の目を見ることとなった。「これが藤宮夕月による虐待の証拠です!」あるインフルエンサーが、悠斗の全身に発疹が出ている写真付きの投稿を引用した。数百万のユーザーがバッタの大群のように夕月のアカウントに殺到した。タイピングの速いユーザーたちが、すでに罵詈雑言を書き始めていた。その時、夕月を非難するコメントに反論する声も上がり始めた。「目を使って見てる?明らかにアレルギー反応じゃない」さらに別のユーザーが、夕月の二千件以上ある投稿から、地面に座って涙目になっている男の子の膝にバンドエイドが貼られている写真を取り上げた。「これが虐待の証拠よ!子供を殴っておいて写真を撮って投稿するなんて、サイコパスね!」冷静なユーザー:「前後の投稿を見れば分かるけど、これは坊ちゃんが自転車で転んだ時の写真でしょ」夕月は妊娠から出産、育児の日々をSNSに細かく記録していた。ユーザーたちは「豚の餌」と呼ばれた料理の写真を探そうと躍起になっていた。だが、投稿された料理の写真を見るたびに、逆に食欲をそそられる始末だった。「この腕前で豚の餌なんて作れるわけないでしょ!」「これが豚の餌なら、私の食べてるものは何?残飯?」あるユーザーが土鍋粥の写真付きの投稿を見つけ出した。『新しく覚えた土鍋粥。娘は完食してくれたのに、息子は豚の餌だと言って頑なに食べてくれない。もっと美味しく、見た目も良く作れるように頑張らないと!』この投稿には瞬く間に数百のコメントが寄せられた。「記者に平手打ち一発、坊ちゃんにビンタ二発、橘冬真には昇龍拳!!」「子を教えぬは親の過ち、元旦那のクソ野郎が悪い!」「同じ土鍋粥を作ったことある人から言わせてもらうと、七種の魚介で出汁を取って、お米が鍋にくっつかないよう40分も優しくかき混ぜ続けないといけないのよ!こんな手間暇かけた
車内に座った冬真の表情は無感情そのもので、特段の反応は示さなかった。楓の行動は悠斗のためという思いからだろうが、結果として世論を制御できるはずもない。「社長!」清水秘書は慌てて車のドアを叩き、窓が下りると携帯を差し出した。「楓さんの良くない動画が、今ネットで拡散され始めています!」冬真は携帯を受け取った。画面には隠し撮りされた映像が再生されていた。楓が男性の膝の上に座り、キャミソールに黒のデニムショートパンツ姿で、雪のような白い脚を見せている。グラスを咥えたまま、男性に口移しで酒を飲ませようとする楓。男性の唇がグラスに当たり、それが落下。その瞬間、楓の唇が男性の唇と触れ合ったように見えた。「うわっ!」楓が先に叫び出し、男性の胸を叩きながら、「おい直人!下手くそすぎだろ!」酒を飲まされていたのは進直人(しん なおと)は楓の親友の一人だった。進は胸を反らし、楓と胸と胸をぶつけ合いながら、「へっ、上手いに決まってんだろ!試してみるかよ!」楓は悪態をつきながら笑い、周りの連中は「おーっ!」と野次馬根性丸出しで盛り上がっていた。三年前、進は一般家庭の女性と恋に落ち、その熱烈な恋愛は、家族から脚を折られても彼女を娶ると誓うほどだった。二人の結婚式は桜都の話題を独占し、今でもネット民の間で理想のラブストーリーとして語り継がれている。だがこの動画の流出で、進直人の純愛キャラは崩壊。その膝の上に座る藤宮楓も、世間から指弾されることは必至だった。動画が終わる前に、清水秘書の携帯が鳴った。冬真は画面に表示された「桐嶋涼」の文字を見つめた。車内に座る彼を、重たい影が包み込むかのようだった。冬真は通話ボタンを押した。「よう、清水さん。お前の社長と話がある」不敵な声が響いてきた。「聞いてる」冬真は無機質に返した。電話の向こうで涼が嘲るように笑う。「ネットで拡散してる動画、見たか?」冬真は顔を僅かに傾げ、彫刻のように整った顔立ちが冷たい金属光沢を帯びる。「夕月の代わりに楓を潰して、その名誉を傷つけた。わざわざ私に報告する理由でも?」氷のように冷徹な男は、桐嶋に皮肉な助言を投げかけた。「夕月のところへ行って自慢したらどうだ?お前が彼女の救世主で、新しい恋の相手だってな。感動した彼女は、きっと子供
初めて車の御守りの鈴の音を耳にしたのは、橘汐の葬儀の日だった。今また、その鈴の音が響く。彼女は親友のことを心配しているのだろうか。「お兄ちゃん、楓のこと、よろしくね!」冬真は深い息を吐き、清水秘書に電話をかけた。「楓に関する不適切な動画や書き込み、全て削除しろ」「藤宮楓さんに関する不利な情報を、全て削除するということで?」清水秘書が念を押すように確認した。男は苛立たしげに答えた。「他に誰を守る必要がある?」清水は咄嗟の思いを打ち消すように「はい、すぐに対応いたします!」藤宮家:楓はだぶだぶのパーカーを着て全身鏡の前に立った。ゆったりとした生地は体のラインを隠し、上半身の貧相な部分も目立たなくなっている。下は黒のショートパンツで、パーカーの裾とほぼ同じ長さ。露わになった脚がより一層すらりと見える。ティッシュで何度も唇を押さえ、口紅を自然な色味に整えた。顔全体にヌードメイクを施しているが、親友の男たちからすれば、すっぴんにしか見えない。楓は外出の準備を整えていた。今夜もまた、親友たちと飲み明かす約束をしている。携帯が鳴り、電話に出る。「は?来ないの?クソ!つまんねぇー!」罵りかけたその時、別の着信が入った。新しい電話に出ると、すぐに楓の表情が険しくなった。「お前まで今夜来ないの?私をドタキャンするとか、死にたいわけ?」「楓兄貴、最近は大人しくしておいた方がいいっすよ」電話の向こうで相手が歯切れ悪く続けた。「ネットの悪評は消えましたけど、進さんとの件は業界内で噂になってますから」「直人との何がよ?あいつは私の可愛い子分じゃない」楓はネットで自分の名前を検索したが、特に目立った悪評は見当たらなかった。桜都の御曹司たちときたら、噂好きで大げさなんだから。楓は飲み会のキャンセルなど気にも留めなかった。夕月のSNSを見つけ、コメント欄を開くと、楓の心に怒りが込み上げてきた。すぐにハッカーの知り合いに電話をかけた。「ねぇ、夕月のSNSには愚痴ばっかりだって言ってたじゃない。なんで皆が彼女を支持してんの?」ハッカーは答えた。「まさか彼女の投稿がネット民の心を掴むとは思わなかったよ」楓は髪を掻き乱しながら言い放った。「夕月の投稿、全部消して!」このまま放っておけば、ネ
また携帯が鳴り、楓は思わず飛び上がった。画面に表示された「日下部記者」の文字に、楓の表情は一層険しくなった。ゴッシプ放送局の日下部がこんな時に電話してくるなんて、ろくなことじゃないに違いない。着信音が死神の鐘のように響き、楓の心を掻き乱す。「もしもし」楓が出る。日下部は早口で怒鳴り込んできた。「楓さん、私を破滅させましたね。免許剥奪されましたよ!」「はぁ?あんたの免許がどうなろうと私に関係ないでしょ!自分で何かやらかしたんじゃないの?」楓は即座に否定した。「上からの圧力が凄かったんです。会社はゴシップ番組を守るため、私を切り捨てました」記者は憤っていた。楓は一瞬固まった。「桐嶋グループなの?」「それだけじゃありません!」記者の声は恐怖に震えていた。「楓さん、夕月さんは普通の主婦だって言いましたよね?でも官僚まで守ってる人物を、私たちが敵に回すなんて……」「ふざけんな!」楓は罵声を上げた。「世論すら操作できないあんたが無能なだけでしょ!」楓は記者を責め立て、「もういいわ。見込み違いだった。夕月のこと、私が自分でぶっ潰してやるから」ALI数学コンテストの結果発表前日、天野昭太は夕月と瑛優を山登りに連れて行った。朝六時、うっすらとした夜明けの光の中、山々は霞に包まれ、涼やかな風が吹き抜けていた。天野は真っ白なドライTシャツとミリタリーグリーンのトレーニングパンツで、グループの先頭を大股で進んでいた。太腿の筋肉がパンツの生地を押し上げ、胸板の隆起をくっきりと映し出すTシャツ、半袖から覗く腕の筋肉は鍛え抜かれた男らしい曲線を描いていた。夕月はジャージを腰に巻き付け、前を見ないようにうつむきながら歩を進めた。天野が一歩踏み出すたびに、トレーニングパンツに浮かび上がるラインは、見る者の鼓動を高めるには十分すぎた。瑛優は夕月の横を歩いていたが、登り始めて十分もすると、息を切らし始めた母親を心配そうに見守り始めた。「ママ、がんばれ!」「あと一歩だよ!ママすごい!もう一歩!頑張って!!」女の子の幼い声が谷間に響き渡る。瑛優の励ましの声に支えられ、夕月はよちよち歩きの幼児のように、大きく息を切らしながら、麻痺した足を引きずるように階段を一段一段上っていく。娘に手を引かれながら。天野は立ち止まり
夕月は笑いながら答えた。「成獣の猪は大きくて強いのよ。本当に出てきたら、真っ先に逃げるのよ」「その時は、ママを背負って逃げるから!」あっという間に天野は中腹まで登りつめ、息一つ乱れていなかった。目を上げると、蛇行する石段の上に細身の人影が見えた。両者の距離は徐々に縮まっていく。並んで歩くようになった時、桐嶋涼が振り向いた。「よお、偶然だな」汗止めのヘッドバンドをしている涼は、前髪を上げていて、一段と若々しく見える。水滴が彼の顔に付着し、欠けのない肌は白玉のように透き通っていた。「定光寺の一番線香は効き目があるって聞くけど、天野少尉も参拝かい?」昔の階級で呼ばれ、天野の瞳が僅かに曇る。この名家の御曹司は、自分のことをよく調べているようだ。天野は唇を開き、喉元で「ああ」と短く応じた。だが、桐嶋涼のような男にとって、この世の全ては手の届くところにあるはず。「桐嶋さんは、何を祈願するんです?」この世に、桐嶋涼が手に入れられないものなど、あるのだろうか。「縁結びさ」その言葉を聞いた瞬間、天野は急激にペースを上げた!一度に二段を飛ばすように走り出す天野を見て、涼の目が鋭く光る。追いついた涼は、余裕たっぷりに話しかける。「天野少尉は何を祈願するんだい?」天野は冷笑し、挑発を込めた声で返す。「私も、縁結びだ!」言葉が終わるや否や、二人の間で火花が散った。次の瞬間、石段を駆け上がる追いかけっこが始まった!山門の前で居眠りをしていた古びた衣の僧侶は、突然の風に驚いて目を覚ました。門の内側に目をやると、二つの逞しい人影がすでに遠ざかっていくのが見えた。「おい!!」門番の僧侶は声を上げた。二人には届かないと分かっていながらも、「本日は一般参拝をお断りしておりまして……」と叫び続けた。天野と涼は寺内に入るなり、焼香所へと駆け込んだ。天野は線香を手に取り、点火所へと向かう。涼はその場に立ち止まり、ライターを取り出して火を点けた。二人がほぼ同時に火を点け、香炉に向かって駆け寄る。涼と天野が同時に手を伸ばし、三本の線香を香炉に差し込もうとした瞬間、すでに香炉には線香が燃えているのに気付いた。二人は凍りついた。自分たちより早く来た者がいるというのか。涼と天野が同時に
冬真がドアに手をかけ、夕月を引きずり出そうとした瞬間。スタッフ数人が駆け寄り、彼とコロナの間に割って入った。「橘社長!レースが始まります!」「橘社長、Lunaの集中の妨げになります」「あれは藤宮夕月だ!」冬真は声を荒らげた。「彼女がLunaのはずがない!」その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。コロナのドアが閉まり、夕月はコースへと向かった。「邪魔するな!」冬真の身のこなしは素早かった。スタッフを押しのけ、コースの端まで走り寄った。ウォームアップを終えても、夕月はコロナから降りる気配を見せなかった。コロナがみんなの視界に入った瞬間、観客席から歓声が沸き起がった。「Luna!Luna!」ファンたちは最も忠実な信者のように、コロナがスタートラインに向かう姿を見つめ、思わず涙を流す者も数多くいた。なぜまだ夕月はコロナから降りてこない?冬真は周囲を見回した。本物のLunaはどこにいる?レース開始が迫っているのに、なぜLunaは姿を現さない?一方、マシンの中の楓は、コース脇に立つ冬真の姿を見つけ、思わずウィンドウを下ろそうとした。VIPルームで観戦できるはずなのに、わざわざコースまで来てくれた。これは自分に関心を持ってくれている証拠だわ。楓は内心で得意げに思った。窓を下ろし、楓は興奮した様子で冬真に手を振った。「冬真!」ヘルメット越しの声は籠もって聞こえた。だが冬真は、楓のマシンには一瞥もくれなかった。「何してるんだ藤宮楓!窓を開けるな!レースが始まるぞ!」管制台に立つヴィンセントは、楓が突然窓を開けるのを見て、血圧が急上昇した。無線を握りしめ、M国語で罵声を浴びせかける。M国語の分からない楓は、逆に不満気な声を上げた。「何よ、そんな怒鳴って!」通訳が慌てて無線を取り、息を切らしながら叫んだ。「窓を閉めてください!集中してください!」楓の通訳を担当している若い男性も、酸素マスクが必要なほどの疲労感を覚えていた。エキシビションとはいえ、楓のこの態度は到底理解できなかった。そのとき、レース開始を告げるホーンが鳴り響いた。三度目のホーンと共に、スタートラインに並ぶマシンたちが、弦を放たれた矢のように飛び出した。最も出遅れた楓の姿を見て、
小さな丸みを帯びた顎に、整った卵型の顔立ち。その唇は誘うような桜色を湛え、筋の通った鼻筋と柔らかな目元が印象的だった。漆黒の髪を後ろで纏め上げ、耳元には繊細な毛束が風に揺れていた。冬真にとって、あまりにも見覚えのある顔立ちだった。その場に凍りついたように、冬真は目を見開いたまま夕月を凝視していた。頭の中が真っ白になった。なぜLunaが夕月の顔を持っているのか?これは笑い話としか思えない。まるで、あの荒唐無稽な夢の中にいるかのようだった。観客席からの歓声が押し寄せる波のように、冬真を包み込んだ。彼は震えながら我に返った。夕月は彼の存在など無いかのように、そのまま横を通り過ぎようとした。冬真は咄嗟に振り返り、夕月の腕を掴んだ。「なぜここにいる?」男の眼差しには疑惑と困惑が入り混じっていた。「なぜそんな格好を?」彼は夕月の手にしたヘルメットを見下ろした。確かにそれはLuna専用のものだ。何か言おうとして言葉に詰まり、喉に紙を詰め込まれたような感覚に襲われた。「Lunaのボランティアスタッフか?」自分でも信じられないような声が漏れた。きっとそうに違いない!彼はその考えに必死にしがみついた。Lunaの出場が発表された途端、国際レースのボランティア募集は熱狂的なファンで埋め尽くされた。仕事を投げ出し、給料カットも厭わず、ボランティアに志願する者も少なくなかった。ただLunaのレースを間近で見たい一心で。憧れの女神の素顔を一目見られる機会を求めて。冬真の問いに、夕月は笑みを浮かべた。「こんな馬鹿げた質問をするなんて、どれだけ頭が悪いの?」レーシングスーツを着て、ヘルメットを手に持って目の前に立っているのに、この男は未だに彼女をLunaと結びつけようとしない。バカなの?心の底から彼女を見下しているのね。若く血気盛んだった頃、夕月は純粋に冬真を愛していた。なのに結局、この男には「本当の藤宮夕月」と向き合う勇気すらないというわけ。「Lunaの車のウォームアップでもするつもりか?そもそもレースライセンスは持ってるのか?」高圧的な目線で夕月を見下ろしながら冷たく言い放った。「コロナを壊すなよ」もし壊したら、Lunaへの弁償なんて絶対にしてやらないと言わんばかり
足音を聞いて振り返った冬真の目に、レーシングスーツ姿の女性が歩み寄る姿が映った。冬真の背後から差し込む澄んだ日差しが、その肩の輪郭を縫うように流れていく。彼女が手にしているヘルメットは見覚えがあった。濃紺の地に金色の月が星々に囲まれた模様が描かれた、あのLuna専用のものだ。女性の上半身は、深い影に覆われていた。彼女が暗がりから一歩踏み出した瞬間、冬真は思わず息を呑んだ。Lunaはヘルメットを被っていない――つまり、ついに素顔のLunaと向き合うことになる。夕月も意外だった。冬真がわざわざ自分を待っていたとは。彼女は影の中で足を止めた。男は彼女に向き直り、スラックスのポケットに片手を入れたまま立っていた。オーダーメイドのスーツに包まれた背筋の伸びた佇まい、幅の広い肩から腰にかけての優美なラインは、まるで彫刻のように完璧だった。「Lunaともあろう人が約束を破るとは思わなかったぞ。指定の時間にガレージに来なかったから、お前が気に入っていたスポーツカーたちは、もう新しいオーナーの手に渡ってしまった」二度目の対面だというのに、冬真は自分の中に湧き上がる悪意に気付いていた。彼女を壊してしまいたい衝動。からかって、恥じらわせて、赤面させて、自分の前で膝を屈させたい――そんな欲望が抑えきれなかった。男はさりげない立ち姿ながらも、その佇まいから放たれるオーラは鋭く冷たかった。その冷徹な眼差しは矢のように彼女に向けられ、Lunaを包む影を打ち払おうとするかのようだった。「最後のチャンスだ。年俸2億円で藤宮楓のコーチを引き受けてもらいたい。正直、彼女の実力は並以下だ。トップに立つ必要もない。ただ三年以内に国内で名の知れた選手になってくれれば、それでいい」これは橘汐が叶えられなかった夢。冬真は楓にその夢を託そうとしていた。「引退して五年、突然復帰を決めたのは金のためだろう」嘲笑うように冬真は言った。「だが、もうお前は全盛期を過ぎている。月光レーシングのように高額な契約を結んでくれるクラブはもうない。これは今のLunaが市場で得られる最高の条件だぞ」言葉が途切れぬうちに、夕月は影から一歩前に出た。まるで映画のスローモーションのように。影が彼女の首筋から肩へと、ゆっくりと剥がれていく。冬真の瞳が大き
夕月は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ憂いの色が浮かんだ。この五年間、必死に悠斗の性格を正そうとしてきた。でも橘家の面々は、長男で跡取りである悠斗の言動は全て正しいと言い聞かせ続けてきた。一度母親への偏見が芽生えてしまえば、二人の間には越えられない壁が築かれてしまう。夕月は棚に向かい、ヘルメットを手に取ると、「スマホのライトを点けてくれる?」と鹿谷に声をかけた。「どうしたの?」鹿谷はライトを点けながら近寄った。夕月が鹿谷のスマホの光をヘルメットの中に当てると、砂粒よりも小さな虫が数匹、パッと飛び出した。明るいLEDの光に照らされて、やっとその姿が確認できる。「なんで中に虫が?」鹿谷は困惑気味に呟いた。桜都の乾燥した寒い気候では、虫なんて発生しないはず。しかも、このスペアヘルメットは新品で、たった30分前に出してきたばかり。どうして虫が入り込むことができたのか?「唯一ヘルメットに触れたのは、あの照明スタッフね」夕月は静かに言った。「まさか、細工でもしたのか!?」鹿谷は思わず声を上げた。そして、急に閃いたように、「楓の差し金に決まってる!」と断定的な口調で告げた。夕月は冷静な面持ちで携帯を取り出し、涼に電話をかけた。「桐嶋さん、申し訳ないけど、全出場者のヘルメットに細工がされていないか、至急確認していただけない?」続けて付け加えた。「できるだけ人目を避けてお願いします」今回の国際レースで、高い権限を持つのは涼だった。月光レーシングクラブは解散したものの、彼は依然として国際レースの主催者側のオーナーだった。「分かった、すぐに調べさせる」低く渋い声が受話器から響いた。なぜそんな調査が必要なのか、彼は問わなかった。夕月の判断を完全に信頼していた。「お願いします」夕月が電話を切ろうとした時、彼の声が再び聞こえた。「ちょうどいい。面白い映像が見つかったんだ。共有したいことがある」すぐに監視カメラの映像が送られてきた。鹿谷は夕月の隣に寄り、二人で映像を見つめた。整備室で撮影された映像だった。メカニックの一人が、コロナのボンネット内側で何かをいじっている。明らかに人目を避けようとしている様子で、ボンネットの留め具をいじりながら、周囲を警戒するように目を光らせていた。映像は3分前に撮
「私が誰だか分かってるの?」楓は参加者証を作業員たちに突きつけた。よく見るようにと迫るその態度に、作業員たちは参加者証を確認すると、何とも言えない表情を浮かべた。今大会で楓の名前は、確かに話題を呼んでいた。「ええ、存じ上げてますとも。レーシングライセンスすら持っていないアマチュアドライバーの藤宮楓様。初めての国際レース参加とのことで、基本的なマナーをご説明させていただきましょうか」作業員は言葉に力を込める。「他のレーサーの控室に無断で入るのは厳禁です!」周囲を見回してから、「誰の許可で入室したんです?」照明スタッフやカメラマンたちは、思わず楓の顔を見た。「私の部下よ!」楓は威勢よく叫んだ。「レース開始直前にこれだけの人数を連れて来るなんて、Lunaの邪魔をする気でしょう!」作業員は怒りを含んだ声で言い放った。その瞬間、「ガチャン!」という音と共に、棚に置かれていたヘルメットが床に転がり落ちた。照明スタッフの一人が真っ赤な顔で慌ててヘルメットを拾い上げ、元の位置に戻す。夕月の目が、そのスタッフの手にある細い管状の物に釘付けになる。パッと見は撮影用の道具にも見えるが。スタッフは慌てて、その細い管をズボンのポケットに押し込んだ。もし本当に撮影用の道具なら、なぜ急いで隠す必要があったのか。楓のスタッフがヘルメットを落としたことで、作業員の怒りは頂点に達した。「これはLunaのヘルメットですよ!さあ、全員出て行ってください!さもないと警察を呼びますからね!」作業員たちは鳥を追い払うように手を振りながら、楓たちを外へ追い出そうとする。「僕、Lunaを待つんだ!」悠斗が抵抗すると、作業員は彼の腕を掴んで小さな体を持ち上げた。悠斗は必死に足をバタつかせ、作業員の太腿を蹴ろうとする。「僕は橘グループの御曹司だぞ!」悠斗は怒りに任せて叫び、ムチムチした頬を膨らませた。「たとえ橘社長でも、Lunaの控室に無断で入って、試合前の邪魔をする権利はありません!」「離せよ!下ろせ!!」作業員は悠斗を控室の外まで運び出してから、やっと地面に降ろした。暴れる間に帽子とサングラスが床に落ちる。悠斗は不機嫌な顔で、わざとサングラスを踏みつけた。「フン!パパに全員クビにしてもらうからな!」
その言葉が夕月の心を刺すことを、悠斗は分かっていた。その棘で、夕月を傷つけてやりたかったのだ。悠斗は勝ち誇ったような目で夕月を見つめ、彼女が苦痛に歪む表情を見せるのを待った。最も近しい存在だからこそ、最も深い傷を与えることができる。田舎育ちで、レースのことなんて何も分からないような女が、橘家の御曹司のママなんて務まるはずがない!「悠斗くん、もし私が一位を取ったらどうする?」楓は目を細め、冷たい笑みを隠しきれない。悠斗の言葉が明らかに楓の癇に障った。これまで悠斗に尽くしてきた心遣いが、全て無駄になったような気がした。Lunaの名前を聞いた途端、楓を新しいママにすると約束したことなど、すっかり忘れてしまったようだ。雲上牧場の斜面での一件以来、悠斗の目には、楓の強くて何でもできるイメージは完全に崩れ去っていた。強い人が親に尻を叩かれるなんてありえない!自分だって手のひらを十回叩かれただけなのに。楓があんなに泣き叫んで、よだれを垂らしながら謝る姿なんて、見ているのも辛かった。しかも翌朝、楓は気を失ってしまった。蚊に刺されて豚のような顔になり、提灯のように目が腫れ上がった楓が、冬真の部下に斜面から引きずり上げられる姿を見て、悠斗は楓との知り合いだということすら認めたくなくなった。早く、強くて凄いママを見つけなければ。楓の視線を避けながら、悠斗の声は小さくなっていく。「楓兄貴が一位取れたら……考えないこともない……」最後の言葉は、はっきりとしない呟きになっていった。楓の表情が途端に得意げになる。「夕月姉さん、早く出てった方がいいわよ。関係者以外がLunaの控室に入ってたって知れたら、追い出されるわ。みっともないことになるんじゃない?」夕月の視線が楓の太腿に注がれる。「感心するわ。厚顔無恥な人間は、皮も分厚いのね」その言葉に、楓の太腿と尻がズキズキと疼きだす。厚く塗ったファンデーションの下には、蚊に刺された跡がまだ赤く残っている。スモーキーなアイメイクも、まだ腫れぼったい目を隠すためのものだった。先週、夕月の通報で警察に連行され、拘留時間を減らすため、冬真を通じて夕月に連絡を取った。ところが夕月は警察に意地の悪い提案をし、SNSで謝罪動画を投稿して999いいねを集めなけ
「Luna!会えて嬉しい!」悠斗の澄んだ声が響いたが、控室に座る人物を見た途端、その場に凍りついた。更衣室に向かおうとしていた夕月と悠斗の視線が絡む。悠斗の弾けるような表情が一瞬にして固まり、眉を寄せたまま夕月を見つめていた。「なんでここにいるの!?」楓と悠斗の後ろには黒山のような人だかりができていた。カメラマンのレンズが夕月と鹿谷に向けられる。ドア前に群がる人々を見て、鹿谷は思わず身を縮めた。夕月の傍らにそっと寄り添う。「夕月、なぜLunaの控室に!?」楓の声が驚きのあまり裏返った。悠斗は目を丸くして鹿谷を見つめ、「君がLunaなの?」そう言って首を傾げる。ガンメタルのルーズなジャージ姿の鹿谷は、すらりとした体格に凛とした顔立ち、さらにベリーショートの髪型で、誰もが一目で性別を見誤るほどだった。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。鹿谷は夕月の袖をつかみながら、首を振った。「僕はLunaじゃないよ」楓は夕月にぴったりと寄り添う鹿谷を眦を吊り上げながら観察した。どこかで見た顔だと思ったら、七年前のあの「男」だった!夕月が実の姉だと分かってから、楓は何度も尾行し、私立探偵まで雇って調べ上げた。その時、夕月には幼馴染がいて、その「男」は間もなくLunaのコ・ドライバーという大役を掴んだのだ。鹿谷が有名になるや否や、夕月を置き去りにして海外に飛び立った。楓はその事実を内心で喜んでいた。後に冬真から鹿谷を自分の教官として迎えると聞いた時も、夕月のこの身分の低い「幼馴染」に対して、軽蔑と好奇心が入り混じった感情を抱いていた。腕を組んで、夕月と鹿谷の間を意地の悪い視線で行き来させる。「夕月姉さん、酷くない?ここはLunaの控室よ!Lunaのコ・ドライバーと密会なんて、レースの邪魔になるでしょう?」その言葉に、後ろのカメラクルーは名家の醜聞の匂いを嗅ぎ取った。橘家の奥様で、つい先日社長と離婚騒動を起こした夕月が、レーサーの控室でコ・ドライバーと密会。しかも実の息子に見つかるとは!楓の後ろに控える男たちの顔に、冷ややかな笑みが浮かんだ。悠斗は部屋を見回し、Lunaの姿が見当たらないことに気づくと、夕月の存在がますます目障りにな
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN