橘グループ社長室では——清水秘書は業務報告を終えると、タブレットPCを脇に抱えたまま、少し躊躇った後で切り出した。「社長……本日はALIグループの数学コンテスト決勝戦が……」高級なモンブランの万年筆を指先で回しながら、冬真は書類に署名を終えたところだった。その整った顔立ちには一片の感情も浮かばない。「私の元妻にずいぶん関心があるようだな?」社長の一言で、清水秘書は背筋に冷たいものが走った。威圧的な空気に押し潰されそうになり、思わず目を伏せる。「毎回、ALIコンテストのトップ20には弊社から声をかけさせていただいております。もし夕月さんが入賞されましたら……」もし夕月さんが入社することになれば——清水は想像しただけで背筋が凍る。元夫婦が同じ会社で顔を合わせることになるなんて。その時は全社員に念を押さなければならないだろう。元社長夫人に失礼なことがないよう、慎重な対応を徹底させる必要がある。「トップ20に入るなら、それだけの実力があるということだ」冬真は冷ややかに言った。「オファーは出す。だが、採用するかどうかは……その時の気分次第だな」眉間に嘲りの色が浮かぶ。離婚を切り出した時期とコンテストの応募時期が重なっているのは、明らかに自分に対するアピールだろう。自分の価値を示したいのか。夫と息子の愛情を取り戻したいのか。その思いが過った瞬間、冬真の瞳に凶暴な光が宿った。橘夫人の座から引きずり降ろした以上、どれだけ存在感を示そうと、二度と彼女など振り返らない。携帯が鳴った。画面を確認すると橘大奥様からの着信だった。冬真は眉を寄せながらも、電話に出た。「冬真や、送った花嫁候補たちの資料、ちゃんと目を通したの?気に入った子はいた?週末にでも、お見合いのセッティングができるわよ」老婦人の声が響く。離婚が成立して以来、母は次々と令嬢たちの写真を冬真のメールボックスに送り続けていた。だが、彼は一度も開こうとはしなかった。「母さん、余計な心配は無用です」冷たい声音に、大奥様は堪えきれずに食って掛かった。「お見合いの話を持ちかけているのは、あなたのためだけじゃないのよ。悠斗のことも考えなさい!五歳の子供を、母親なしで育てるつもり?」情の欠片も感じられない息子に、「用事があるので」と言われ、電話を切られそ
今まで誰のためにも声を荒げなかった息子が——「まさか!その妖婦に魅せられて、実の母親まで敵に回すつもり?」大奥様の怒声を遮るように、冬真は通話を切った。携帯を机に投げ出した彼の表情から漂う冷気は、まるで室温さえ凍らせるようだった。Lunaの話題さえ出なければ——その名を耳にする度に、疑念が渦を巻く。鐘山での約束。三日以内に車を受け取りに来るはずだった。しかし約束の期限は過ぎ、彼女は姿を見せない。桐嶋涼以外、誰一人として彼女と連絡が取れないのだ。「夜声とヴァルキリーを売りに出せ」冬真は秘書に命じた。「社長、どうして突然……」清水秘書は困惑の表情を浮かべる。どちらも限定モデルの最高級スポーツカー。ガレージでその姿を目にするたび、息を呑むほどの存在感を放つマシンだ。冬真は暗い表情を浮かべたまま、その真意を語ろうとはしなかった。「売却の情報は、確実に広まるようにしろ」これでLunaは動くはずだ。今すぐ現れなければ、二台のマシンは永遠に手に入らない——桜都大学:正午を迎え、決勝戦終了まであと五時間半。夕月は提出ボタンをクリックした。「終わりました」監督官に向かって手を挙げる。その声に、会場内の視線が一斉に集中した。「え?本当によろしいんですか?」監督官は驚きを隠せない。「はい、全問解答済みです」予選では最後の最後まで粘った。それは冬真に時間を取られたせいだけではない。五年のブランクを経て、確かに思考の反応速度は鈍くなっていた。だが、この期間、脳の活性化トレーニングに励んだ成果が出ている。的確な思考さえ維持できれば、解答のスピードは自然と上がるものだ。監督官は夕月の澄んだ瞳を見つめた。提出を確認すると、退室を許可する。他の参加者たちは、残り五時間もある中での提出に、それぞれ複雑な表情を浮かべた。むしろ、この早期退出が彼らにプレッシャーを与えているようだった。問題が易しすぎるのか、それとも自分たちの実力不足なのか—— 疑念が頭をもたげる。安人は、PCバッグを手に会場を去る夕月の後ろ姿を見て、鼻で笑った。天才アピールのつもりだろうが——その代償が正確性である以上、意味はない。たとえ運良くトップ20入りしたところで、チャレンジマッチで完膚なきまでに叩
その発言に、他の記者たちが色めき立った。「さすがゴシップ放送局!息子さんの取材まで?」「息子さん?娘さんだけかと……」陥没した顔の記者は意地の悪い笑みを浮かべる。「息子さんのことだけじゃありません。元旦那様が橘グループの社長・橘冬真だということも……」その言葉は雷のように群衆の中に響き渡った。「マジか!?」「橘冬真って……桜都の御曹司の一人、あの橘冬真?」衝撃的なスクープを知った記者たちの目が、一斉に変質する。「なぜ玉の輿を降りたんですか?」「橘社長があなたを離婚したのは、何かあったからでは?」「名家は簡単には離婚しないはず。どんな不始末が?」報道陣の目が、獲物を見つけた野犬のように輝いていた。スキャンダラスな豪門の内幕を暴こうと、執拗に食い下がってくる。彼らの意識の底には、夕月が過ちを犯したという確信があった。確かに藤宮家の令嬢ではあるものの、18歳まで家族と離れて暮らしていたという事実。そこには、きっと橘家を追われるような不品行が……ゴシップ放送局の記者が興奮した面持ちで、ICレコーダーを取り出した。ついに真相を暴く時が来たのだ。「皆さん、藤宮さんに騙されていましたね」記者は意地の悪い笑みを浮かべる。「では、ご本人の息子さんが、実の母親についてどう語ったのか、聞いてみましょう」再生ボタンが押される。「僕は橘悠斗です。五歳。妹の橘美優は今、藤宮瑛優って名前に変わりました」幼い声が響き渡る。数人の記者がマイクをレコーダーに向けた。「夕月はもう僕のママじゃありません。パパと離婚したんです!」声音だけでも、男の子の怒りは明らかだった。「あの人は僕を捨てたんです。この前、学校に取材に来た時も、僕を知らないフリして通り過ぎたんですよ!」「実のお母様が、どうしてそんな……」記者の声が重なる。悠斗は小さな大人のように深いため息をついた。「うちはお金なんでも使わせてあげたのに、パパと僕のことばっかり文句言うんです。妹の名字まで勝手に変えちゃって……パパの顔を潰すためですよ!知らないでしょう?ママってすっごく面倒くさいんです。家でブタみたいにゴロゴロしてるくせに……それに、僕をいじめるんです!ご飯も食べさせてくれなかった!」「まさか……どうしてそんなひどいことを?」記者は
「お母様がコンテストに参加された理由は?」レコーダーから記者の声が続く。「有名になりたいんです!お金が欲しいの!それに僕をパパから奪おうとしてる!僕を人質にして、パパからもっとお金を取ろうとしてるんです!!」幼い声の一言一言が、無数の針となって夕月の体を貫く。全身に細かな痛みが走る。立ち尽くす夕月の頭の中が真っ白になった。かつては息子だった。彼女の弱点であり、鎧でもあった。心臓の鼓動を分け合った愛しい我が子。血の繋がった子供だからこそ。悠斗は指一本動かすだけで、彼女を深く傷つけ、容易く打ち砕くことができる。血の気が引いていく。漆黒の瞳が、光さえ飲み込む暗闇へと変わっていった。「悠斗くん、視聴者の皆さんに伝えたいことはありますか?」レコーダーから記者の声が流れる。「夕月に騙されないでください!自分のことしか考えない悪い人なんです!僕は実の子供だから、どんなママなのか、一番よく分かってるんです!!」悠斗の声が途切れると、記者は録音機を握りしめたまま、夕月に意地の悪い笑みを向けた。無数のカメラのレンズが、夕月の表情を捉えようと向けられる。一瞬の表情の変化も見逃すまいと、カメラマンたちは息を潜めていた。血の匂いを嗅ぎ付けた鮫のように、記者たちはマイクを夕月の顔に突き出してくる。「藤宮さん、息子さんの証言は本当なんですか?」「実の子供を捨てたのは事実ですか?」夕月の体内で血液が凍りつく。手を上げようとすると、凍った関節が軋むような音を立てた。押し寄せるマイクを手のひらで制して、顔に突き刺さるのを防ぐ。ゴシップ放送局の記者は鼻の穴を広げ、興奮した様子で声を張り上げた。「五歳の子供に嘘なんてつけるはずがない!」乾いた唇を開いた夕月の喉から、冷ややかな笑いが漏れる。「子供は、嘘も混ぜて話すものですよ」平たい顔の記者が唾を飛ばしながら詰め寄る。「息子さんがそこまで嫌うのは、母親失格だからでしょう!」「児童虐待を見過ごすわけにはいきません。女性連盟に通報させていただきます」「橘家のお坊ちゃまに豚の餌を……いったいどういうことですか!何か言い訳はないんですか!」「虐待の証拠を出してください。具体的な証拠を」吸い込む空気が肺に達するたび、鋭利な氷となって肉を切り裂いていく。拳を握り締めた夕月
夕月は十数名のボディーガードに護衛され、ようやく教室棟から脱出することができた。しかし、まるで蚊のように執拗に付きまとう記者たちは、彼女の後を追い続けた。「あなたたち、どちらの方々ですか?」「誰に雇われているんですか?」記者たちは無表情なボディーガードたちの顔にマイクを突きつけ、騒々しく質問を浴びせかけた。この騒ぎに、多くの学生たちが興味を引かれ、夕月のいる方向を好奇心に満ちた目で見つめていた。最後尾を歩いていたボディーガードの一人が、しつこく付きまとう記者たちに身分証を提示した。記者たちは身分証に記された「桜国警備」の文字を目にした途端、足を止めた。「何を報道していいか、何を報道してはいけないか、皆さんご存知でしょう?不適切な報道をすれば、責任は自己負担となりますよ」とそのボディーガードは警告した。群がっていた記者たちは一瞬にして静まり返った。機転の利く数名のカメラマンは即座に肩から下ろしたカメラのレンズにキャップをはめた。桜国警備のボディーガードだと知った途端、記者たちは大人しくなった。黒塗りのセンチュリー ノブレスが近くに停まっていた。桜都大学では学長でさえ構内の自由な車の乗り入れは許可されていなかった。しかし、この威厳に満ちた高級車は、大学校内へと悠然と進入してきた。車のドアが開くと、広々とした後部座席に長身の若い男性が座っていた。車内は薄暗く、男の表情は影に隠れていたが、立体的な骨格からその優れた容貌が窺えた。記者たちは首を伸ばし、目を見開いた。「橘冬真社長じゃないですか?似てる気が……」「橘社長は藤宮さんと離婚したはずでは?」「桜国警備のボディーガードを動かせるなんて、橘社長に可能なんでしょうか?」訓練された警備員たちは、記者たちを数メートル先で制止していた。夕月は車のドアの前まで歩み寄り、中の男性を確認すると、丁寧に頭を下げた。「叔父様」その言葉を口にした瞬間、不適切な呼び方だったと気付いた。車内の空気が一気に重くなり、息苦しさを感じた。もう冬真と離婚した今、橘凌一(たちばな りょういち)を叔父様と呼ぶ資格はないのだ。「乗りなさい」大聖堂のパイプオルガンのような低く渋い声音には、拒否できない威厳が漂っていた。その抗いがたい力に導かれるように、夕月
凌一がドアの横のボタンを押すと、車のドアが再び閉まった。記者たちは一歩も前に出ようとせず、大人しく立ち尽くすばかりだった。警備員たちが去った後、ゴシップ放送局の記者は背を向けて携帯を取り出し、すぐに電話をかけた。「もしもし、楓兄貴?橘家のあの方が夕月さんを庇うなんて聞いてませんでしたよ!今日、あの方を怒らせてしまったら、この業界でやっていけなくなりますよ!」凌一はとうに去っていたが、ゴッシプ放送局の記者は未だに動揺が収まらない様子だった。電話の向こうから藤宮楓の声が響いた。「橘家のあの方って誰のこと?」「橘凌一博士ですよ!ボディガードを連れて、お姉さんを迎えに来たんです」「まさか!」楓は思わず声を上げた。「本当に凌一博士が藤宮夕月を連れて行ったって?冬真とは幼い頃から一緒に育ったのに、私でさえほとんど会ったことがないのよ。桜国科学院の博士として国家機密プロジェクトを任されている人が、どうして……」「間違いありません!」記者は興奮気味に続けた。「この目で確かに見ましたよ!博士は私のことを『ベテラン記者が五歳児から記事のネタを探るとは可笑しな話だ』とまで仰いましたよ」胸に手を当てながら、記者は不安げに続けた。「会社に戻ったら、クビになるんじゃないでしょうか?楓さん!お手伝いするつもりでしたが、まさか凌一博士を怒らせることになるとは……」楓はまだ衝撃から立ち直れない様子で、呟くように繰り返した。「ありえない……凌一博士があの夕月の味方をするなんて……絶対にありえないわ!」「とにかく、藤宮さんの記事はもう私には手が出せません」楓の声が一瞬にして冷たくなった。「あなたが報道できなくても、他のメディアが藤宮夕月の醜聞を争って報道するわ。子供への虐待疑惑は、もうトレンド入りしているのよ」電話を切った楓は、スマートフォンを握りしめ冷笑を浮かべた。ALI数学コンテストで一躍有名になりたいだなんて、ふん!ネット上で持ち上げられれば持ち上げられるほど、夕月の転落は痛快なものになるわ!藤宮家の誇る令嬢は、この私だけ。田舎者が運良く橘家に嫁いだだけ。それだけで彼女の運は使い果たしたも同然よ。橘家は、夕月にとって永遠に超えられない天井なの。これからは、私の足下で這いつくばるしかないわ!センチュリー ノブレスが桜
夕月は凌一に丁重に答えた。「来月には瑛優と新しい学区の家に引っ越す予定です。来週にはALI数学コンテストの結果が発表されますが、上位三位以内には入れると確信しています。そして仕事の件ですが……」夕月が目を上げると、濃く長いまつげが蝶の羽のように僅かに震えた。「私……」彼女は凌一をまっすぐ見つめ、言葉を途切れさせた後、勇気を振り絞って尋ねた。「日興に入れていただくことは可能でしょうか?」その声は、静かな湖面に落ちた小石のように、波紋を広げていった。凌一の澄んだ眼差しが、夕月の清らかな顔を掠めた。夕月は凌一の仕事について、おおよその見当がついていた。凌一が率いる「日興研究センター」は、桜国十大研究機関の一つ。その所在地は地図上にさえ記載されていない機密施設だ。意を決して、夕月は自己推薦を始めた。「第十五次五カ年計画で、国が超知能AI研究を掲げています。凌一さん、あなたはその責任者で……私は……」「藤宮夕月」凌一が彼女のフルネームを呼ぶと、夕月は反射的に背筋を伸ばし、正座のような姿勢で凌一の前に座り直した。「日興に入る資格が、お前にあると?」深い井戸のように静かで波立たない声音で男が問うと、夕月は冬真に通じる冷徹さを感じ取った。さすが叔父と甥、と夕月は思いながらも諦めなかった。「私はあなたが直接選んだ人材です!」十三年前、凌一は教育環境の整っていない地方都市から夕月を見出し、一通の推薦状で花橋大学の飛び級クラスへと送り込んだのだ。女性の輝く瞳に向き合い、凌一は小さく息を吸うと顔を逸らした。「金賞を取ってからにしろ」夕月の唇が上がり、瞳の中で蝋燭の炎のような笑みが揺らめいた。「橘さんは私のALI数学コンテストの参加を気にかけていたんですか?」「たまたま目にしただけだ」男は短く答え、誤解の余地を与えまいとした。黒塗りの高級車がホテルの玄関に停まると、下車しようとする夕月に気付いた星来の表情が急に曇った。彼は夕月に背を向け、小さな手でルービックキューブを握りしめ、瞳には涙が溜まっていた。夕月は後ろから星来を優しく抱きしめた。「星来ちゃん、また瑛優と遊びに来てね。きっとすぐに会えるから」振り返った星来の真っ赤な目には別れを惜しむ気持ちが溢れ、力強く頷いた。夕月が凌一に別れを告げる時、陽
某高級ホテルの最上階で、天野昭太はジムから戻ったところだった。筋肉は未だポンプアップした状態のままだ。シャワーを浴びたばかりだというのに、その体からは熱気が立ち昇っている。秘書の一人が、すでに長時間待機していた。普段から親しみやすく気さくな天野に、秘書は冗談めかして言った。「社長、まさか妹さんが橘グループの社長夫人だったなんて!今まで一度も仰らなかったじゃないですか?」天野の表情が急に冷たくなった。「どこでそんな話を?」秘書はスマートフォンの画面を見せた。「ほら、妹さんがまたトレンド入りしてます」『#藤宮夕月が息子を虐待』『#藤宮夕月の元夫・橘冬真』『#藤宮夕月と豚の餌』トレンドの上位は夕月への批判で埋め尽くされていた。昭太は悠斗のインタビュー音声を再生した。音声を最後まで聞く前に、スマートフォンを握り潰さんばかりの力が入った。腕の血管が浮き出るほど激昂した男は、「でたらめも甚だしい!」と怒鳴った。その怒声に秘書は心臓が飛び出るほど震え上がった。ネット上では、夕月の元夫が桜都の名門御曹司・橘グループ社長の橘冬真だということが話題沸騰していた。実子からの告発を聞いた後、ネットユーザーたちの怒りは頂点に達していた。「橘家の坊ちゃんの言う通り!藤宮夕月は橘冬真と七年も結婚してたのに、子供二人産んだ以外に橘家に何か貢献したの?メディアの前で元夫のことを軽々しく扱うなんて、恥知らずもいいとこじゃない?」「奥様生活を捨てて夫も子も見捨てるなんて、ふん。主婦は社会から隔離されすぎて、自尊心が異常に肥大してるのね」「あの女、旦那様がどれだけモテるか分かってないの?桜都の御曹司よ?子供産みたい女性なんて行列できてるのに!」「親戚が桜都の上流階級と付き合いがあるんだけど、橘冬真さんはスキャンダル一つない潔癖な方だって。どれだけ女性が近づいても見向きもしないんですって」「こんな素晴らしい旦那様に何の不満があるっていうの?わがままも大概にしなさいよ!頭おかしいんじゃない?私なら桜都の御曹司に嫁げたら、外で遊び歩かれても、悠々自適な専業主婦して、お茶汲みだってお世話だってやりますけど!」冬真はSNSをやっていないため、多くのユーザーが橘グループの公式アカウントにメッセージを投稿していた。「冬真さん
冬真がドアに手をかけ、夕月を引きずり出そうとした瞬間。スタッフ数人が駆け寄り、彼とコロナの間に割って入った。「橘社長!レースが始まります!」「橘社長、Lunaの集中の妨げになります」「あれは藤宮夕月だ!」冬真は声を荒らげた。「彼女がLunaのはずがない!」その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。コロナのドアが閉まり、夕月はコースへと向かった。「邪魔するな!」冬真の身のこなしは素早かった。スタッフを押しのけ、コースの端まで走り寄った。ウォームアップを終えても、夕月はコロナから降りる気配を見せなかった。コロナがみんなの視界に入った瞬間、観客席から歓声が沸き起がった。「Luna!Luna!」ファンたちは最も忠実な信者のように、コロナがスタートラインに向かう姿を見つめ、思わず涙を流す者も数多くいた。なぜまだ夕月はコロナから降りてこない?冬真は周囲を見回した。本物のLunaはどこにいる?レース開始が迫っているのに、なぜLunaは姿を現さない?一方、マシンの中の楓は、コース脇に立つ冬真の姿を見つけ、思わずウィンドウを下ろそうとした。VIPルームで観戦できるはずなのに、わざわざコースまで来てくれた。これは自分に関心を持ってくれている証拠だわ。楓は内心で得意げに思った。窓を下ろし、楓は興奮した様子で冬真に手を振った。「冬真!」ヘルメット越しの声は籠もって聞こえた。だが冬真は、楓のマシンには一瞥もくれなかった。「何してるんだ藤宮楓!窓を開けるな!レースが始まるぞ!」管制台に立つヴィンセントは、楓が突然窓を開けるのを見て、血圧が急上昇した。無線を握りしめ、M国語で罵声を浴びせかける。M国語の分からない楓は、逆に不満気な声を上げた。「何よ、そんな怒鳴って!」通訳が慌てて無線を取り、息を切らしながら叫んだ。「窓を閉めてください!集中してください!」楓の通訳を担当している若い男性も、酸素マスクが必要なほどの疲労感を覚えていた。エキシビションとはいえ、楓のこの態度は到底理解できなかった。そのとき、レース開始を告げるホーンが鳴り響いた。三度目のホーンと共に、スタートラインに並ぶマシンたちが、弦を放たれた矢のように飛び出した。最も出遅れた楓の姿を見て、
小さな丸みを帯びた顎に、整った卵型の顔立ち。その唇は誘うような桜色を湛え、筋の通った鼻筋と柔らかな目元が印象的だった。漆黒の髪を後ろで纏め上げ、耳元には繊細な毛束が風に揺れていた。冬真にとって、あまりにも見覚えのある顔立ちだった。その場に凍りついたように、冬真は目を見開いたまま夕月を凝視していた。頭の中が真っ白になった。なぜLunaが夕月の顔を持っているのか?これは笑い話としか思えない。まるで、あの荒唐無稽な夢の中にいるかのようだった。観客席からの歓声が押し寄せる波のように、冬真を包み込んだ。彼は震えながら我に返った。夕月は彼の存在など無いかのように、そのまま横を通り過ぎようとした。冬真は咄嗟に振り返り、夕月の腕を掴んだ。「なぜここにいる?」男の眼差しには疑惑と困惑が入り混じっていた。「なぜそんな格好を?」彼は夕月の手にしたヘルメットを見下ろした。確かにそれはLuna専用のものだ。何か言おうとして言葉に詰まり、喉に紙を詰め込まれたような感覚に襲われた。「Lunaのボランティアスタッフか?」自分でも信じられないような声が漏れた。きっとそうに違いない!彼はその考えに必死にしがみついた。Lunaの出場が発表された途端、国際レースのボランティア募集は熱狂的なファンで埋め尽くされた。仕事を投げ出し、給料カットも厭わず、ボランティアに志願する者も少なくなかった。ただLunaのレースを間近で見たい一心で。憧れの女神の素顔を一目見られる機会を求めて。冬真の問いに、夕月は笑みを浮かべた。「こんな馬鹿げた質問をするなんて、どれだけ頭が悪いの?」レーシングスーツを着て、ヘルメットを手に持って目の前に立っているのに、この男は未だに彼女をLunaと結びつけようとしない。バカなの?心の底から彼女を見下しているのね。若く血気盛んだった頃、夕月は純粋に冬真を愛していた。なのに結局、この男には「本当の藤宮夕月」と向き合う勇気すらないというわけ。「Lunaの車のウォームアップでもするつもりか?そもそもレースライセンスは持ってるのか?」高圧的な目線で夕月を見下ろしながら冷たく言い放った。「コロナを壊すなよ」もし壊したら、Lunaへの弁償なんて絶対にしてやらないと言わんばかり
足音を聞いて振り返った冬真の目に、レーシングスーツ姿の女性が歩み寄る姿が映った。冬真の背後から差し込む澄んだ日差しが、その肩の輪郭を縫うように流れていく。彼女が手にしているヘルメットは見覚えがあった。濃紺の地に金色の月が星々に囲まれた模様が描かれた、あのLuna専用のものだ。女性の上半身は、深い影に覆われていた。彼女が暗がりから一歩踏み出した瞬間、冬真は思わず息を呑んだ。Lunaはヘルメットを被っていない――つまり、ついに素顔のLunaと向き合うことになる。夕月も意外だった。冬真がわざわざ自分を待っていたとは。彼女は影の中で足を止めた。男は彼女に向き直り、スラックスのポケットに片手を入れたまま立っていた。オーダーメイドのスーツに包まれた背筋の伸びた佇まい、幅の広い肩から腰にかけての優美なラインは、まるで彫刻のように完璧だった。「Lunaともあろう人が約束を破るとは思わなかったぞ。指定の時間にガレージに来なかったから、お前が気に入っていたスポーツカーたちは、もう新しいオーナーの手に渡ってしまった」二度目の対面だというのに、冬真は自分の中に湧き上がる悪意に気付いていた。彼女を壊してしまいたい衝動。からかって、恥じらわせて、赤面させて、自分の前で膝を屈させたい――そんな欲望が抑えきれなかった。男はさりげない立ち姿ながらも、その佇まいから放たれるオーラは鋭く冷たかった。その冷徹な眼差しは矢のように彼女に向けられ、Lunaを包む影を打ち払おうとするかのようだった。「最後のチャンスだ。年俸2億円で藤宮楓のコーチを引き受けてもらいたい。正直、彼女の実力は並以下だ。トップに立つ必要もない。ただ三年以内に国内で名の知れた選手になってくれれば、それでいい」これは橘汐が叶えられなかった夢。冬真は楓にその夢を託そうとしていた。「引退して五年、突然復帰を決めたのは金のためだろう」嘲笑うように冬真は言った。「だが、もうお前は全盛期を過ぎている。月光レーシングのように高額な契約を結んでくれるクラブはもうない。これは今のLunaが市場で得られる最高の条件だぞ」言葉が途切れぬうちに、夕月は影から一歩前に出た。まるで映画のスローモーションのように。影が彼女の首筋から肩へと、ゆっくりと剥がれていく。冬真の瞳が大き
夕月は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ憂いの色が浮かんだ。この五年間、必死に悠斗の性格を正そうとしてきた。でも橘家の面々は、長男で跡取りである悠斗の言動は全て正しいと言い聞かせ続けてきた。一度母親への偏見が芽生えてしまえば、二人の間には越えられない壁が築かれてしまう。夕月は棚に向かい、ヘルメットを手に取ると、「スマホのライトを点けてくれる?」と鹿谷に声をかけた。「どうしたの?」鹿谷はライトを点けながら近寄った。夕月が鹿谷のスマホの光をヘルメットの中に当てると、砂粒よりも小さな虫が数匹、パッと飛び出した。明るいLEDの光に照らされて、やっとその姿が確認できる。「なんで中に虫が?」鹿谷は困惑気味に呟いた。桜都の乾燥した寒い気候では、虫なんて発生しないはず。しかも、このスペアヘルメットは新品で、たった30分前に出してきたばかり。どうして虫が入り込むことができたのか?「唯一ヘルメットに触れたのは、あの照明スタッフね」夕月は静かに言った。「まさか、細工でもしたのか!?」鹿谷は思わず声を上げた。そして、急に閃いたように、「楓の差し金に決まってる!」と断定的な口調で告げた。夕月は冷静な面持ちで携帯を取り出し、涼に電話をかけた。「桐嶋さん、申し訳ないけど、全出場者のヘルメットに細工がされていないか、至急確認していただけない?」続けて付け加えた。「できるだけ人目を避けてお願いします」今回の国際レースで、高い権限を持つのは涼だった。月光レーシングクラブは解散したものの、彼は依然として国際レースの主催者側のオーナーだった。「分かった、すぐに調べさせる」低く渋い声が受話器から響いた。なぜそんな調査が必要なのか、彼は問わなかった。夕月の判断を完全に信頼していた。「お願いします」夕月が電話を切ろうとした時、彼の声が再び聞こえた。「ちょうどいい。面白い映像が見つかったんだ。共有したいことがある」すぐに監視カメラの映像が送られてきた。鹿谷は夕月の隣に寄り、二人で映像を見つめた。整備室で撮影された映像だった。メカニックの一人が、コロナのボンネット内側で何かをいじっている。明らかに人目を避けようとしている様子で、ボンネットの留め具をいじりながら、周囲を警戒するように目を光らせていた。映像は3分前に撮
「私が誰だか分かってるの?」楓は参加者証を作業員たちに突きつけた。よく見るようにと迫るその態度に、作業員たちは参加者証を確認すると、何とも言えない表情を浮かべた。今大会で楓の名前は、確かに話題を呼んでいた。「ええ、存じ上げてますとも。レーシングライセンスすら持っていないアマチュアドライバーの藤宮楓様。初めての国際レース参加とのことで、基本的なマナーをご説明させていただきましょうか」作業員は言葉に力を込める。「他のレーサーの控室に無断で入るのは厳禁です!」周囲を見回してから、「誰の許可で入室したんです?」照明スタッフやカメラマンたちは、思わず楓の顔を見た。「私の部下よ!」楓は威勢よく叫んだ。「レース開始直前にこれだけの人数を連れて来るなんて、Lunaの邪魔をする気でしょう!」作業員は怒りを含んだ声で言い放った。その瞬間、「ガチャン!」という音と共に、棚に置かれていたヘルメットが床に転がり落ちた。照明スタッフの一人が真っ赤な顔で慌ててヘルメットを拾い上げ、元の位置に戻す。夕月の目が、そのスタッフの手にある細い管状の物に釘付けになる。パッと見は撮影用の道具にも見えるが。スタッフは慌てて、その細い管をズボンのポケットに押し込んだ。もし本当に撮影用の道具なら、なぜ急いで隠す必要があったのか。楓のスタッフがヘルメットを落としたことで、作業員の怒りは頂点に達した。「これはLunaのヘルメットですよ!さあ、全員出て行ってください!さもないと警察を呼びますからね!」作業員たちは鳥を追い払うように手を振りながら、楓たちを外へ追い出そうとする。「僕、Lunaを待つんだ!」悠斗が抵抗すると、作業員は彼の腕を掴んで小さな体を持ち上げた。悠斗は必死に足をバタつかせ、作業員の太腿を蹴ろうとする。「僕は橘グループの御曹司だぞ!」悠斗は怒りに任せて叫び、ムチムチした頬を膨らませた。「たとえ橘社長でも、Lunaの控室に無断で入って、試合前の邪魔をする権利はありません!」「離せよ!下ろせ!!」作業員は悠斗を控室の外まで運び出してから、やっと地面に降ろした。暴れる間に帽子とサングラスが床に落ちる。悠斗は不機嫌な顔で、わざとサングラスを踏みつけた。「フン!パパに全員クビにしてもらうからな!」
その言葉が夕月の心を刺すことを、悠斗は分かっていた。その棘で、夕月を傷つけてやりたかったのだ。悠斗は勝ち誇ったような目で夕月を見つめ、彼女が苦痛に歪む表情を見せるのを待った。最も近しい存在だからこそ、最も深い傷を与えることができる。田舎育ちで、レースのことなんて何も分からないような女が、橘家の御曹司のママなんて務まるはずがない!「悠斗くん、もし私が一位を取ったらどうする?」楓は目を細め、冷たい笑みを隠しきれない。悠斗の言葉が明らかに楓の癇に障った。これまで悠斗に尽くしてきた心遣いが、全て無駄になったような気がした。Lunaの名前を聞いた途端、楓を新しいママにすると約束したことなど、すっかり忘れてしまったようだ。雲上牧場の斜面での一件以来、悠斗の目には、楓の強くて何でもできるイメージは完全に崩れ去っていた。強い人が親に尻を叩かれるなんてありえない!自分だって手のひらを十回叩かれただけなのに。楓があんなに泣き叫んで、よだれを垂らしながら謝る姿なんて、見ているのも辛かった。しかも翌朝、楓は気を失ってしまった。蚊に刺されて豚のような顔になり、提灯のように目が腫れ上がった楓が、冬真の部下に斜面から引きずり上げられる姿を見て、悠斗は楓との知り合いだということすら認めたくなくなった。早く、強くて凄いママを見つけなければ。楓の視線を避けながら、悠斗の声は小さくなっていく。「楓兄貴が一位取れたら……考えないこともない……」最後の言葉は、はっきりとしない呟きになっていった。楓の表情が途端に得意げになる。「夕月姉さん、早く出てった方がいいわよ。関係者以外がLunaの控室に入ってたって知れたら、追い出されるわ。みっともないことになるんじゃない?」夕月の視線が楓の太腿に注がれる。「感心するわ。厚顔無恥な人間は、皮も分厚いのね」その言葉に、楓の太腿と尻がズキズキと疼きだす。厚く塗ったファンデーションの下には、蚊に刺された跡がまだ赤く残っている。スモーキーなアイメイクも、まだ腫れぼったい目を隠すためのものだった。先週、夕月の通報で警察に連行され、拘留時間を減らすため、冬真を通じて夕月に連絡を取った。ところが夕月は警察に意地の悪い提案をし、SNSで謝罪動画を投稿して999いいねを集めなけ
「Luna!会えて嬉しい!」悠斗の澄んだ声が響いたが、控室に座る人物を見た途端、その場に凍りついた。更衣室に向かおうとしていた夕月と悠斗の視線が絡む。悠斗の弾けるような表情が一瞬にして固まり、眉を寄せたまま夕月を見つめていた。「なんでここにいるの!?」楓と悠斗の後ろには黒山のような人だかりができていた。カメラマンのレンズが夕月と鹿谷に向けられる。ドア前に群がる人々を見て、鹿谷は思わず身を縮めた。夕月の傍らにそっと寄り添う。「夕月、なぜLunaの控室に!?」楓の声が驚きのあまり裏返った。悠斗は目を丸くして鹿谷を見つめ、「君がLunaなの?」そう言って首を傾げる。ガンメタルのルーズなジャージ姿の鹿谷は、すらりとした体格に凛とした顔立ち、さらにベリーショートの髪型で、誰もが一目で性別を見誤るほどだった。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。鹿谷は夕月の袖をつかみながら、首を振った。「僕はLunaじゃないよ」楓は夕月にぴったりと寄り添う鹿谷を眦を吊り上げながら観察した。どこかで見た顔だと思ったら、七年前のあの「男」だった!夕月が実の姉だと分かってから、楓は何度も尾行し、私立探偵まで雇って調べ上げた。その時、夕月には幼馴染がいて、その「男」は間もなくLunaのコ・ドライバーという大役を掴んだのだ。鹿谷が有名になるや否や、夕月を置き去りにして海外に飛び立った。楓はその事実を内心で喜んでいた。後に冬真から鹿谷を自分の教官として迎えると聞いた時も、夕月のこの身分の低い「幼馴染」に対して、軽蔑と好奇心が入り混じった感情を抱いていた。腕を組んで、夕月と鹿谷の間を意地の悪い視線で行き来させる。「夕月姉さん、酷くない?ここはLunaの控室よ!Lunaのコ・ドライバーと密会なんて、レースの邪魔になるでしょう?」その言葉に、後ろのカメラクルーは名家の醜聞の匂いを嗅ぎ取った。橘家の奥様で、つい先日社長と離婚騒動を起こした夕月が、レーサーの控室でコ・ドライバーと密会。しかも実の息子に見つかるとは!楓の後ろに控える男たちの顔に、冷ややかな笑みが浮かんだ。悠斗は部屋を見回し、Lunaの姿が見当たらないことに気づくと、夕月の存在がますます目障りにな
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN