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第2話

Author: 金よ来い
私はこっそりと後をついた。

診察室の中で、蒼介が医者に状況を伝える声は震えていた。

いつも冷静な彼がこれほど取り乱す姿を見るのは初めてだった。

女の人が彼の手を握り締め、混乱した口調で訴えた。「蒼介、お腹痛い......怖いよ......」

蒼介は優しい声で彼女を宥めていた。「大丈夫だ。赤ちゃんはお腹の中で元気に育ってるんだよ。今朝先生が言ってたじゃないか。あと一ヶ月で会えるんだって」

その言葉に女は少し落ち着いた様子で、それでも蒼介の手を離さなかった。「蒼介って、男の子と女の子、どっちが好き?もし可愛くなかったらどうしよう?嫌いになっちゃう?」

苦笑いを浮かべた蒼介は声には甘えがにじんでいた。「どっちでもいいさ。君がきれいなんだから、きっと可愛い子に決まってる。悩むことないよ......」

涙がこぼれ落ちて止まらなかった。私はもう見ていられなくて、振り返って病院を後にした。

必死に堪えて帰宅した時には、呼吸すらできないほど胸が張り裂けそうだった。

蒼介とは三年間恋愛し、七年間結婚してきた。

人生の三分の一近くを共に過ごしていた。

一緒にいる時、彼はいつも優しく細やかで、瞳には揺るぎない愛情が宿っていた。

複雑な家庭環境で育った私は元々小心者だった。

彼がそんな私をお嬢様のように甘やかしてくれた。

彼の両親は私をずっと見下し、結婚後不妊が続くにつれ、ますます不満を募らせた。

蒼介は私のために親と喧嘩し、妊娠できない原因を全て彼自身の身に着せた。

そんな優しい彼と別れることなど考えもしなかった。

だが今日病院で彼がその女に対する姿を見たら、はじめて気がついた。

あの優しさと配慮が、私だけのものではなかった。

彼が望めば、誰にでも同じように振る舞えるのだ。

その優しさを真に受けていた自分こそが愚かだった。

夜、蒼介が帰ってきた。

数時間ぶりだが、著しく憔悴しきっていた。

目には明らかな疲れが滲んでいた。

彼はまっすぐ私の前に跪き、顔を私の膝に埋めた。

その脆い姿に胸が締め付けられた。

だが、心は許さないよう自分に言い聞かせた。

「さあ。あの人は?どうして私のこと知ってる?あんたたち、付き合ってどれくらい?」

質問する度に心臓が砕けていくような気がした。

彼の体が硬直し、長い沈黙の後答えた。

「新人のアシスタントだ。去年君が会社に来た時、一度会ったことがあるんだ」

思い返せば確か覚えがあった。

江藤月香(えとう つきか)、去年の新卒だった。

私が蒼介を訪ねた時、彼女がお茶を出してくれた。

当時妙に視線を感じたことをぼんやり思い出した。

あの頃蒼介はよく彼女の愚痴をこぼしていた。「常識外れで何もできない」と。

そう言いながらも江藤月香とのLINE画面から目を離さなかった。

そのような日々が続いていた。

「可愛い子じゃん。頭も良さそう」と私が言うと、

蒼介はぎこちなく「他の女の顔なんか覚えてない」とごまかした。

「まったく口達者だね」と私は彼をからかった。

それ以来、彼女の話はぱったり聞かなくなった。

クビにしたのかと思っていた。

まさか......

私は苦しそうに口を開いた。「だから......あの頃から始まってた?」

「いや!」蒼介が慌てて遮った。

しかし信用できるかどうか分からなかった。

「彼女とは、偶然だった。去年君が旅行に出かけた時、俺は飲み会で酔っちゃった。彼女が家まで送ってくれたが、どういうわけか......でも誓うよ。その一回だけだ。まさか妊娠するなんて。それに彼女の体質では、中絶もできなくて......」

蒼介の弁明が続く中、私は次第に目を見開いていった。

「あの時突然会いに来て、激しく求めてきたのは、『会いたかったから』なんかじゃなくて、彼女と寝たから罪悪感で......?」

蒼介の瞳は縮み、唇を震わせながら頷いた。
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    蒼介は花凛を見つけられなかった。使える手段はすべて使い果たした。友人たちに電話を回り、「花凛を怒らせてしまった。今見当たらないから、会ったことはないか」と言った。友人たちはすべて冗談だと思った。「まさか?あんなに仲良しだったのに、ケンカするなんて?」「花凛ちゃんはいつもお前に甘いのに、いったい何を?」反問されると、彼は言葉を失った。ただ黙って電話を切った。誰も彼が花凛を怒らせることを信じなかった。彼自身も信じられなかった。だが彼は確かに間違ってしまい、しかもひどい間違いを犯した。彼女の航空券の記録も調べたが手がかりはなかった。彼女は本気で彼に見つからないようにしていた。花凛は一生、許してくれないだろう。そう思うだけで、彼は胸が痛くて息ができなかった。何もしたくなかった。半月間も会社を休み、病院の赤ん坊にも会わなかった。毎日、花凛との家で酒を飲み続けた。両親が戒めても聞かなかった。月香は我慢できなくなった。産褥期中にもかかわらず、赤ちゃんを抱いて蒼介を勧めに来た。彼女は子供を蒼介の前に差し出し、子供の存在で彼の心を和らげようとした。ところが蒼介は彼女を突き飛ばした。眠っていた子供は恐怖を覚え、腕の中で泣きわめいた。蒼介はちらっとも見向けず、月香を睨みつけて苛立って叫んだ。「お前、まだ俺の前に出てくるか?今すぐ殺したくなるほどだ、消えろ」月香は彼の態度に震えを止められなかった。蒼介の両親は孫を抱いて愛情たっぷりになでなでした。「何を狂ったんだ?あの女より血の繋がりが大事だろう!」月香も立ち上がって泣き叫んだ。「蒼介、松島さんはもういないの。私たちこそ家族なのに......」蒼介は目を血に染め、彼女の言葉を遮った。「黙れ!あの夜、俺のカップに何を入れた?」この言葉を聞いて、月香の顔から血の気が引いた。口ごもって何も言えなかった。蒼介の親は世間知らずではなく、すぐに真実を悟った。だが彼らは気にせず、むしろ孫を得られたから江藤月香に感謝した。「今じゃ子供が生まれたし、過去のことは水に流そう。子供のために仲良く暮らそうよ」と勧めた。蒼介は失望の表情で両親を見つめた。今、彼が最も後悔しているのは、当時、親の言葉を聞いてこの子供を残したことだ。

  • 共に老いる日は来ない   第5話

    蒼介の足が地に釘付けになった。振り返って医者に「どういうこと?」と聞いた。医者は彼を見直した。「この件ですね。松島花凛(まつしま かりん)さんのご主人でしょ?松島さんは先日四度目の体外受精を受けました。ご主人に心配かけまいと、ずっとあなたに隠してたんです。先月の検査で、ようやく成功したんですよ。伝えていなかったのですか?彼女を大事にしてくださいよ。子供を授かるためにどれだけ苦労したか、大変だったのに......」医者の残りの言葉を星野蒼介は聞き取れなかった。周囲の声が遠くなり、耳の中だけがザンザン鳴った。花凛も、妊娠していた?先月?彼は目を見開いた。まさかあの日、病院で花凛に会ったのは、彼女が検査結果を取りに来ていたのか?彼女がようやく妊娠したことを知った日に、自分が別の女と産前検診をしているのを目撃した。自分は彼女を押し倒した。蒼介は突然激しく息を呑み、胸の苦しみをこらえた。絶望感が押し寄せた。花凛はもう、許してくれないかもしれないと恐れを感じた。蒼介は人生で最速のスピードで車を走らせた。心の中で「早く、もっと早く」と叫ぶ声が止まらなかった。「花凛......」暗闇に包まれた部屋には人影もなかった。ベッドサイドに飾っていた結婚写真は引き裂かれていた。クローゼットから花凛の服が消えていた。この家に残された花凛の痕跡はすべてなくなった。まるで過去十年間が、彼の夢のようだった。胸に無限の恐怖が押し寄せた。化粧台に置かれた離婚届を見た瞬間、その恐怖は頂点に達した。「花凛......」と、空っぽの部屋に痛みを込めた叫びが響いた。私はどこへ行くべきか決めていなかった。両親は私の幼い頃に離婚した。離婚の日、彼らは私をめぐって激しい口論を展開した。私を取り合うのではなく、押し付け合ったのだ。小さい頃から、家族の温かみを知らなかった。大人になってからも、親密な関係を拒否する傾向があった。蒼介だけが少しずつ私の心の扉を開いてくれた。彼は私が幸せになる価値があると信じさせた。結婚するのも恐ろしいことではなく、正しい人と一緒にいればいいのだ。彼がプロポーズした日、指輪を出すや否や泣き崩れた。「二人だけの家庭を築きたい」「一生幸せにしてあげたい」と言った。

  • 共に老いる日は来ない   第4話

    蒼介が私を彼の別荘の一つに連れて行った。部屋の至る所に二人が一緒に過ごした跡が残っていた。玄関に揃いのスリッパ、テーブルに並んだペアマグ......全てが私に告げていた。知らぬ間に蒼介が別の家庭を築いていた事実を。月香は私のがっかりした顔を見て、目に得意げな光を宿し、ささやかに口を開いた。「すべては蒼介が準備してくれたの。赤ちゃんの部屋の設計も、彼が手がけた。性別が分からないから、ピンクとブルーの両方の内装を。本当に至れり尽くせりよね?」彼女の声には自慢げな響きが込められていた。私はもちろん蒼介の几帳面さを知っていた。でなければ、私の目の前でこんなことをしても、全く気づかないなんてことはないだろう。月香は続けた。「松島さん、私ならすぐに蒼介と離婚するわ。子供がいる限り蒼介とは切れない関係よ。それを見て苦しいじゃない?」蒼介の視線が届かないところで、月香は仮面を剥ぎ取り、本性を露出させた。彼女が故意に私を怒らせていた。私は笑い返した。「離婚する必要ある?離婚しなければ、彼の財産は全て私のもの。この別荘も含めてね。蒼介は私を愛してるし、今は罪悪感も抱いてる。私が望めば、いつでもあなたを追い出せるわ」「あんた......」月香は息を荒らした。たった一秒で、表情を取り直した。彼女は一歩近づき、私の耳元でささやいた。「なら、蒼介が誰を選ぶか、見てみ」まだその意味を理解していないのに、彼女はテーブルのコップを落とし、自分でテーブルの角にぶつけた。「やめて......押さないで」次の瞬間、蒼介は急いで彼女のそばに飛び込み、緊張して「どうした?」と訊いた。月香はお腹を抱えて痛そうに叫んだ。蒼介は彼女を抱き上げ、あわててドアを飛び出した。私のそばを通り過ぎる際、彼は失望の眼差しで私をちらりと見た。「ちょっと」私は彼を呼び止めた。「彼女を押したわけじゃないって、信じてくれる?」蒼介は一秒だけ動きを止めた。だがたった一秒で、振り返らずに去った。月香の計略が成功した。私は部屋でぼんやりと立ち尽くし、やっと腰を下ろして床のガラスの破片を拾おうとした。指が破片に切られた時、ここが私の家ではないと気がついた。ここは星野蒼介と別の女の子の家だ。私には家など最初からなかったのだ。心

  • 共に老いる日は来ない   第3話

    喉元に嫌悪感が込み上げ、私はトイレに駆け込んでぐうぐう吐いた。蒼介は慌てて私の背中をなで、少しでも気分を良くしてくれようとした。「触らないで!」私は振り返って憎しみを宿した目で彼を睨んだ。だからあの時彼があんなに異常だったのか。いつもの仕事に没頭してるのに、突然半分月間も仕事を放り出して私を付き添った。本当に私を愛していると嬉しくて思っていた。なのに、それは浮気したことに罪悪感を抱いていただけだった。さらに、彼らは私達の寝室で、七年間共に過ごしたベッドの上で......私の視線に怯えた蒼介が呆然としていた。胸の怒りが発散することができず、私はバッと立ち上がり、寝室に飛び込んだ。視線をあちこちさまよわせると、化粧台の眉シェーバーに止まった。それを握りしめ、狂ったようにカバー、シーツ、枕を切り裂いた......布団の羽が雪のように空中に舞い散り、部屋はごちゃごちゃに乱れた。でもまだ足りなかった。この汚らわしいもの、すべて滅ぼしてしまおう!蒼介は心配しそうな目で私の後を追い、私の暴れを止めようとした。だが、狂った私に手を切られてしまった。血が瞬時に流れ出した。真白な羽が散らばった床に映えて、鮮血はまぶしいほど赤かった。私はようやく冷静になり、空っぽの目で私たちの結婚写真を見つめた。あの時、本当に楽しそうに笑っていた。目を閉じ、絶望的な声で言い放った。「私たち、離婚しましょう」蒼介は何か恐ろしい言葉を聞いたように、血を流している手を顧みず、飛び込んで私を抱きしめた。声には悲しみが滲んでいた。「ダメだ、花凛。離婚なんてしない。約束するから、子供が生まれ次第、彼女とは縁を切る。昔のように戻れるんだ。俺は君しか愛してない、君なしでは生きられないんだよ」私の心の中で冷笑した。戻れるはずがない。私のことばかり思っていたあの星野蒼介は、もういなかった。私と蒼介は奇妙な状態に陥った。私がどれだけ暴れても、彼はずっと平気に微笑み、昔のように優しく接した。ただ離婚の話になると、馬鹿にするような態度を取った。彼の携帯はずっと鳴り続け、すべて月香からの着信だった。私の前ではいつも受話を拒否した。だが毎晩、ベランダでひそかに電話をかけ、極めて優しい声で相手の気持ちを鎮めた。

  • 共に老いる日は来ない   第2話

    私はこっそりと後をついた。診察室の中で、蒼介が医者に状況を伝える声は震えていた。いつも冷静な彼がこれほど取り乱す姿を見るのは初めてだった。女の人が彼の手を握り締め、混乱した口調で訴えた。「蒼介、お腹痛い......怖いよ......」蒼介は優しい声で彼女を宥めていた。「大丈夫だ。赤ちゃんはお腹の中で元気に育ってるんだよ。今朝先生が言ってたじゃないか。あと一ヶ月で会えるんだって」その言葉に女は少し落ち着いた様子で、それでも蒼介の手を離さなかった。「蒼介って、男の子と女の子、どっちが好き?もし可愛くなかったらどうしよう?嫌いになっちゃう?」苦笑いを浮かべた蒼介は声には甘えがにじんでいた。「どっちでもいいさ。君がきれいなんだから、きっと可愛い子に決まってる。悩むことないよ......」涙がこぼれ落ちて止まらなかった。私はもう見ていられなくて、振り返って病院を後にした。必死に堪えて帰宅した時には、呼吸すらできないほど胸が張り裂けそうだった。蒼介とは三年間恋愛し、七年間結婚してきた。人生の三分の一近くを共に過ごしていた。一緒にいる時、彼はいつも優しく細やかで、瞳には揺るぎない愛情が宿っていた。複雑な家庭環境で育った私は元々小心者だった。彼がそんな私をお嬢様のように甘やかしてくれた。彼の両親は私をずっと見下し、結婚後不妊が続くにつれ、ますます不満を募らせた。蒼介は私のために親と喧嘩し、妊娠できない原因を全て彼自身の身に着せた。そんな優しい彼と別れることなど考えもしなかった。だが今日病院で彼がその女に対する姿を見たら、はじめて気がついた。あの優しさと配慮が、私だけのものではなかった。彼が望めば、誰にでも同じように振る舞えるのだ。その優しさを真に受けていた自分こそが愚かだった。夜、蒼介が帰ってきた。数時間ぶりだが、著しく憔悴しきっていた。目には明らかな疲れが滲んでいた。彼はまっすぐ私の前に跪き、顔を私の膝に埋めた。その脆い姿に胸が締め付けられた。だが、心は許さないよう自分に言い聞かせた。「さあ。あの人は?どうして私のこと知ってる?あんたたち、付き合ってどれくらい?」質問する度に心臓が砕けていくような気がした。彼の体が硬直し、長い沈黙の後答えた。「新人のアシスタント

  • 共に老いる日は来ない   第1話

    婦人科で星野蒼介(ほしの そうすけ)を見かけた時、見違えたと思った。昨夜、何度も「愛してる」と囁きながら私をキスしていたのに。彼の荷物は私が一つ一つ手伝って詰めた。しかし今、その私が選んだ服を着た彼が、気遣いのように妊娠中の若い女性を婦人科から介抱して出て来た。検査結果を手にした女性が何か囁くと、彼は腰を折って耳を傾けていた。二人の間には甘い空気が漂い、誰が見ても幸せなカップルだと思われるほどだった。冷たい水を浴びせられたように、心はすぐに冷めた。硬直した私と、笑みを浮かべていた蒼介の視線が交差した。すると彼の表情がこわばり、明らかな動揺が走った。傍らの女性が私に気付くと、顔色が真っ青になって蒼介の袖を掴んだ。蒼介は我に返ると女性の手を撫で、休憩室に座らせてって優しく言った。私の元へ戻る時には、すでに平静を取り戻していた。「なんで病院に来た?具合でも悪い?」彼が手を伸ばして私の顔に触れようとしたが、私は一歩下がって避けた。「説明しなさい!」私は心の中で懇願した。蒼介、誤解だと言ってよ。そう言えば信じるから。私は唇を噛み締めて涙をこらえようとしたが、震える声が私の感情を暴かれた。苦しそうな様子を見ると、蒼介は私の抵抗を振り切って抱きしめた。「違うんだ。君が思うようなことじゃない。家に帰って説明するから......」私の心が沈んだ。彼は問題の核心を避けていた......目頭が熱くなり、私は無声で彼を見つめ、頑固に答えを求めた。逃げ場を失った彼は目を逸らし、絞り出すように口を開いた。「確かに、俺の子だが......わざとじゃなかったんだ、花凛......」蒼介の声は大きくなかったが、雷鳴のように私の耳の中で爆発した。膝が崩れそうになった。蒼介は私の様子を見て、悔しそうに手を伸ばした。私は彼の手を払いのけた。「触らないで!」もう心を変えたのに、なぜ偽りの愛情を演じられるのか、理解できなかった。廊下の視線が集中する中、その女が小走りにやって来て蒼介を身の後に守った。「松島さん、星野社長を責めないでください。彼はわざとじゃなかったの」蒼介は冷たく彼女に戻るように言ったが、腰を支える手は保護者のようだった。睦まじい二人を前に、自分が悪役になった気分だった

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