ドアの向こうには、逸之の手を引いた啓司の姿があった。「ママ、一人で寝るの怖いから、パパ連れてきちゃった」逸之が甘える声を出す。「三人で寝よう?」紗枝は思わず断りかけた。まだ啓司との冷戦は続いているはずなのに。だが啓司は遠慮なく逸之を抱き上げ、ベッドに寝かせると、自分も横たわった。「寝るぞ。明日は仕事だ」まるで他人事のような素っ気ない声。紗枝は、真ん中で眠る逸之の存在と、啓司の無関心そうな態度を確認すると、追い出すのも面倒になった。スマートフォンを置き、静かに横になる。眠りに落ちた紗枝は、不思議な夢を見た。広大な海原に一枚の小舟のように、波に揺られ、上下する自分の姿。苦しさのあまり、小さな呻き声が漏れる。その声で目が覚めかけた時——朦朧とした意識の中で、大きな体が自分をしっかりと抱きしめているような感覚。額に温かい吐息がかかり、全身が火照っていく。啓司……なの?はっきり確かめようと、意識を取り戻そうと必死になる。やっと目を開けると、少しずつ意識が戻ってくる。淡い月明かりの中、逸之は確かに真ん中で眠っていて、啓司もベッドの端で横たわっていた。不思議なことに、啓司は端の方に寄って眠っているのに、いつの間にか自分は真ん中近くまで移動していて、右側には大きな空間が空いていた。紗枝は疲れすぎていて、深く考えることもできなかった。端の方へずり寄りながら、逸之を真ん中に抱き直す。啓司のことなど、もう気にしている余裕はない。翌朝目を覚ますと、また自分が真ん中で眠っていた。父子二人はすでに起き出していた。不思議に思う。自分はいつも大人しく眠るタイプで、寝相が悪いことなど一度もない。ましてや子供が隣で寝ているのに。昨日の疲れのせいだろうと考え、それ以上深く考えずにベッドから抜け出し、朝の支度を始めた。昼には景之に電話して、学校での様子を確認しようと心に留める。......国際幼稚園。今日のクラスの雰囲気が、どこか違っていた。幸平くんと多田さんの子以外は、清水陽介——唯の甥でさえも景之に近寄ろうとしない。明一は意図的に景之の目の前で、他の子供たちと楽しそうに談笑している。先生も授業中、景之を指名することはなくなっていた。逸之ほど繊細ではない景之だが、これほど露骨な態度は見逃せるはずも
「それで、どう思う?」景之が尋ねた。「僕、景ちゃんと友達でいたいんだ。でもママが怖くて……もし良かったら、内緒で友達になれないかな?」陽介は景之の顔を覗き込むように見つめ、断られるのを恐れているようだった。景之は内心で思った。まあ、君には良心があるようだな。算数の個人指導に時間を無駄にせずに済みそうだ。「いいよ」景之は短く答えた。陽介の表情が、その言葉を聞いた途端パッと明るくなった。彼が何か言いかけた時、幼い甲高い声が響き渡った。「陽介!お前、何してんだよ?」明一が、数人の子供たちを連れてやってきた。「べ、別に……」陽介は明一が怖いわけではなく、母親が怖かった。母親から言われていたのだ。清水家は黒木家には逆らえない。明一は黒木家のお坊ちゃまなのだと。もし明一の機嫌を損ねて、大人に告げ口でもされたら、家業にまで影響が及びかねない。明一はその様子を見てさらに得意げな表情を浮かべた。「何もないなら、さっさと消えろよ」一対一なら、体格のいい陽介が明一に勝つのは目に見えていた。だが、清水家は黒木家には敵わない。陽介は明一に頭を下げるしかなかった。陽介は歯を食いしばり、不本意そうにその場を離れた。彼が去ると、明一は景之の前に立ちはだかった。「景之、容赦しないからな。今すぐ弟の代わりに土下座して謝らないと後悔することになるぞ」本来の明一は、ごく普通の子供に過ぎなかった。彼の言動の全ては、両親の影響を強く受けていた。両親の黒木昂司と夢美が海外出張中だった時期は、明一も随分と素直で、クラスメートとも仲良く過ごしていた。両親が帰国してからというもの、突如として横柄な態度に豹変したのだ。景之は相手にする気も起きず、その場を立ち去ろうとした。「待てよ」明一が立ちはだかる。「本当に謝らないのか?言っとくけど、母さんが先生たちに話をつけてあるんだぞ。もう誰も君と遊ばないようになるんだ」景之は「ふーん」と無関心そうに呟いただけで、他人事のような態度を崩さなかった。「なんだその態度は!」明一の声が震える。「僕を舐めてるのか?」彼は連れてきた子分たちの顔を見渡した。子分たちが景之に向かって詰め寄る。景之は目を細め、こぶしを固く握り締めた。一分とかからずに、襲いかかってきた男の子たちは地面に転がり、悲鳴を上
母親たちのLINEグループは非難と罵倒の言葉で溢れかえっていた。紗枝は彼女たちの悪意に満ちた言葉を黙って見つめながら、まだ事の経緯が分からないため、返信は控えることにした。今すぐ幼稚園に様子を見に行こう。景之には電話しないでおこう。「逸ちゃん」紗枝は逸之の目線まで身を屈めて言った。「ママ、お兄ちゃんの幼稚園に行ってくるわ。新しい幼稚園はパパと一緒に行ってね」「ママ、お兄ちゃん、何かあったの?」逸之が不安そうに尋ねた。「何でもないのよ。先生がちょっと来てほしいって」紗枝は逸之の頭を優しく撫でた。逸之は、ママの嘘が下手すぎることに気付いていた。何でもないなら、なぜ先生がママを呼びつけるんだろう?きっと何か重大なことが起きているに違いない。でも、自分には言えないことなんだ。「うん、わかった。じゃあパパと行ってくるね。バイバイ」「いってらっしゃい」紗枝は父子の背中が見えなくなるまで見送った。牧野は既に外で待機していた。その端正な父子の姿に、つい目を奪われてしまう。「社長、坊ちゃん」運転手がドアを開けた。逸之は啓司と共に後部座席に乗り込み、牧野は助手席から新しい幼稚園での注意事項を説明し始めた。護衛の車両が数台後ろを追従している。もはや逸之の安全は完璧に守られているといっても過言ではなかった。逸之は黙って聞きながら、期待に満ちた瞳を輝かせていた。「お兄ちゃんと違う幼稚園だけど、すっごく楽しみ!」「同じ幼稚園に転園することも可能ですが……」牧野の言葉は途中で切られた。「今のままでいい」啓司の声は静かだが決然としていた。「はい」逸之もそれ以上は何も言わなかった。代わりに啓司の方を向いて、「バカ親父、お兄ちゃんの幼稚園で絶対何かあったと思う。私は牧野おじさんと入園手続きできるから、見に行ってあげて」二つの幼稚園は正反対の方向にある。啓司は最初、逸之の入園手続きを済ませてから紗枝の元へ向かうつもりだった。だが息子の言葉を聞いて考えを改めた。「牧野、逸ちゃんを頼む。用事がある」運転手に車を停めさせると、啓司は別の車両に乗り換え、幼稚園へ向かうよう指示した。一方、国際幼稚園では、紗枝が既に到着していた。職員室では——景之は部屋の隅に立たされていたが、保護者たちが来る前に、こっそりと腕時
四月の初めに大雨が降った。病院の出口。痩せた夏目紗枝の細い手に、妊娠検査報告書が握られていた。検査結果は見なくても分かった。報告書にははっきりと二文字が書かれていた――『未妊』!「結婚して3年、まだ妊娠してないの?」「役立たずめ!どうして子供を作れないの?このままだと、黒木家に追い出されるよ。そんな時、夏目家はどうする?」夏目美希は派手な服をしていた。ハイヒールで地面を叩きながら、紗枝を指さして、がっかりした顔を見せていた。紗枝の眼差しは空しくなった。心に詰まった言葉が山ほどあったが、一言しか口に出せなかった。「ごめんなさい!」「ごめんなどいらない。黒木啓司の子供を産んでほしい。わかったか?」紗枝は喉が詰まって、どう答えるか分からなくなった。結婚して3年、啓司に触られたこと一度もなかった。子供なんか作れるはずはなかった。弱気で意気地なしの紗枝が自分と一寸も似てないと夏目美希は痛感していた。「どうしても無理があるなら、啓司君に女を見つけてやって、あなたのいい所、一つだけでも覚えてもらったらどうだろう!」冷たい言葉を残して、夏目美希は帰った。その言葉を信じられなくて紗枝は一瞬呆れて、お母さんの後ろ姿を見送った。実の母親が娘に、婿の愛人を探せというのか冷たい風に当たって、心の底まで冷え込んだ。......帰宅の車に乗った。不意にお母さんの最後の言葉が頭に浮かんできて、紗枝の耳はごろごろ鳴り始めた自分の病気が更に悪化したと彼女はわかっていた。その時、携帯電話にショートメールが届いた。啓司からだった。「今夜は帰らない」三年以来、毎日に同じ言葉を繰り返されていた。ここ3年、啓司が家に泊まったことは一度もなかった。紗枝に触れたこともなかった。3年前の新婚の夜、彼に言われた言葉、今でも覚えていた。「お宅は騙して結婚するなんて、いい度胸だね!孤独死を覚悟しろよ!」孤独死......3年前、両家はビジネス婚を決めた。双方の利益について、すでに商談済みだったしかし結婚当日、夏目家は突然約束を破り、200億円の結納金を含め、全ての資産を移転した。ここまで思うと、紗枝は気が重くなり、いつも通りに「分かりました」と彼に返信した。手にした妊娠検査報告書はいつの間にか
「啓司、ここ数年とても不幸だっただろう?」「彼女を愛していないのはわかってるよ。今夜会おう。会いたい」画面がブロックされても、紗枝はまだ正気に戻れなかった。タクシーを拾って、啓司の会社に行こうとした。窓から外を眺めると、雨が止むことなく降っていた。啓司の会社に行くのが好まれないから、行くたびに、紗枝は裏口の貨物エレベーターを使っていた。紗枝を見かけた啓司の助手の牧野原は、「夏目さんいらっしゃい」と冷たそうに挨拶しただけだった。啓司のそばでは、彼女を黒木夫人と見た人は一人もいなかった。彼女は怪しい存在だった。紗枝が届けてくれたスマホを見て、啓司は眉をひそめた。彼女はいつもこうだった。書類でも、スーツでも、傘でも、彼が忘れたものなら、何でも届けに来ていた......「わざわざ届けに来なくてもいいと言ったじゃないか」紗枝は唖然とした。「ごめんなさい。忘れました」いつから物忘れがこんなにひどくなったの?多分葵からのショートメールを見て、一瞬怖かったせいかもしれなかった。啓司が急に消えてしまうのではないかと心配したのかな......帰る前に、我慢できず、ついに彼に聞き出した。「啓司君、まだ葵のことが好きですか?」啓司は彼女が最近可笑しいと思った。ただ物事を忘れたではなく、良く不思議なことを尋ねてきていた。そのような彼女は奥さんにふさわしくないと思った。彼は苛立たしげに「暇なら何かやることを見つければいいじゃないか」と答えた。結局、答えを得られなかった。紗枝は以前に仕事を探しに行ったことがあったが、結局、黒木家に恥をかかせるとの理由で、拒否された。姑の綾子さんにかつて聞かれたことがあった。「啓司が聾者と結婚したことを世界中の人々に知ってもらいたいのか?」障害のある妻......家に帰って、紗枝はできるだけ忙しくなるようにした。家をきれいに掃除していたが、彼女はまだ止まらなかった。こうするしか、彼女は自分が存在する価値を感じられなかったのだ。午後、啓司からショートメールがなかった。いつもなら、彼が怒っていたのか、取り込み中だったのかのどちらかだったと思ったが......夜空は暗かった。紗枝は眠れなかった。ベッドサイドに置いたスマホの着信音が急にな
「あなたはたぶん今まで恋を経験したこともなかっただろう。知らないだろうが、啓司は私と一緒にいたとき、料理をしてくれたし、私が病気になった時、すぐにそばに駆けつけてきたのよ。彼がかつて言った最も温もりの言葉は、葵、ずっと幸せにいてね......」「紗枝、啓司に好きって言われたことがあるの?彼によく言われたの。大人気ないと思ったけどね......」紗枝は黙って耳を傾け、過去3年間啓司と一緒にいた日々を思い出した。 彼は台所に入ったことが一度もなかった......病気になった時、ケアされたことも一度もなかった。愛してるとか一度も言われたことがなかった。紗枝は彼女を冷静に見つめた。「話は終わったの?」葵は唖然とした。紗枝があまりに冷静だったせいか、それとも瞳が透き通って、まるで人の心を見透かせたようだったのか。彼女が離れても葵は正気に戻らなかった。なぜか分からなかったが、この瞬間、葵は昔に夏目家の援助をもらった貧しい孤児の姿に戻ったように思えた。夏目家のお嬢様の目前では、彼女は永遠にただの笑われ者だった......紗枝は葵の言葉に無関心でいられるのだろうか? 彼女は12年間好きだった男が子供のように他の女を好きになったことが分かった。耳の中は再び痛み始め、補聴器を外した時、血が付いたことに気づいた。いつも通り表面から血を拭き取り、補聴器を置いた。眠れなかった...... スマホを手に取り、ラインをクリックした。彼女宛のメッセージは沢山あった。開いてみたら、葵が投稿した写真などだった。最初のメッセージは、大学時代に啓司との写真で、二人は立ち並べて、啓司の目は優しかった。2枚目は2人がチャットした記録だった。啓司の言葉「葵、誕生日おめでとう!世界一幸せな人になってもらうぞ!」3枚目は啓司と二人で手を繋いで砂浜での後姿の写真......4枚目、5枚目、6枚目、沢山の写真に紗枝が追い詰められて苦しくなった......彼女はそれ以上見る勇気がなくて、すぐに電話の電源を切った。この瞬間、彼女は突然、潮時だと感じた。 この日、紗枝は日記にこんな言葉を書いた。――暗闇に耐えることができるが、それは光が見えなかった場合に限られる。翌日、彼女はいつものように朝食を準備した。しかし
今思えば、お父さんはとっくに分かっていた。啓司が紗枝の事が好きじゃなかったことを。 しかし、お父さんは彼女の幸せのため、黒木家と契約を結び、彼女が望むように啓司と結婚させた。 でも、意外なことに、二人が結婚する寸前に、父親が交通事故に遭った。お父さんが他界しなかったら......弟と母親は契約を破ることもなかった......資産譲渡についてのすべての手続きを彰弁護士に任せて、彼女は家へ向かった。帰り道の両側に、葵のポスターがたくさん並べられていた。ポスター上の葵は明るくて、楽観的できれいだった。紗枝は手放す時が来たと思った。啓司を解放して、そして自分も解放されると思った。邸に戻り、荷物を片付け始めた。結婚して3年経ち、彼女の荷物はスーツケース一つだけだった。離婚合意書は、昨年、彰弁護士に用意してもらっていた。 たぶん、啓司の前では、自分が不器用で、プライドがなくて、感情的だったと思った。だから、2人の関係が終わりを迎える運命にあると思って、とっくに離れる準備をしていた...... 夜、啓司からショートメールがなかった。 紗枝が勇気を出してショートメールを送った。「今夜時間ありますか?お話したいことがあります」向こうからなかなか返事が来なかった。 紗枝はがっかりした。メールの返事でもしたくなかったのか。朝に戻ってくるのを待つしかなかった。向こう側。黒木グループ社長室。啓司はショートメールを一瞥して、スマホを横に置いた。親友の和彦は隣のソファに座っていた。それに気づき、「紗枝からか?」と尋ねてきた。啓司は返事しなかった。和彦は何げなく嘲笑した。「この聾者は黒木夫人だと思ったのか。旦那の居場所まで調べたのか?「啓司君、彼女とずっと一緒に過ごすつもり?現在の夏目家はもうだめだ。紗枝の弟の太郎は馬鹿で、会社経営も知らなくて、間もなく、夏目家は潰れるだぞ」「そして、紗枝のお母さんは猶更だ!」 啓司は落ち着いてを聞いていた。「知ってるよ」 「じゃあ、どうして離婚しない?葵はずっと待ってるのよ」和彦は熱心に言った。彼の心の中では、シンプルで一生懸命努力する葵は腹黒い紗枝より何倍優れていると思った。 離婚と思うと、啓司は黙った。 和彦はそれを見て、いくつかの言葉
紗枝は自分の部屋に戻り、沢山の薬を無理やりに飲み込んだ。 耳の後ろに手を伸ばして触れると、指先が真っ赤に染まっていた。 医師のアドバイスが頭に浮かんできた。「紗枝さん、実際には、病気の悪化は患者の気持ちに大きく関わってます。できるだけ感情を安定させ、楽観的になり、積極的に治療に協力してくださいね」楽観的に、言うほど簡単ではなかった。紗枝はできるだけ啓司の言葉を考えないようにして、枕にもたれかかって目を閉じた。外が薄白くなったとき、彼女はまだ起きていた。薬が効いたせいか、彼女の耳がいくらか聴力を取り戻した。 窓から差し込む些細な日差しを見て、紗枝はしばらく茫然としていた。 「雨が止んだ」 本当に人を諦めさせるのは、単なる一つの原因ではなかった。 それは時間とともに蓄積され、最終的には一撃があれば。その最後の一撃は草でも、冷たい言葉でも、些細なことでも可能だった...... 今日、啓司は出かけなかった。 朝早く、ソファに座って紗枝からの謝罪を待っていた。後悔する紗枝を待っていた。 結婚して3年になったが、紗枝がひねくれたことはないとは言えなかった。しかし、彼女がすねて泣いてから暫く、必ず謝りに来た。啓司は、今回も変わりはないと思った。 紗枝が歯磨いて顔を洗ってから、普段着ている暗い服を着て、スーツケースを引きずり、手に紙を持っていた。 紙を渡されたから啓司は初めて離婚合意書であることが分かった。 「啓司君、時間がある時に、連絡してください」 紗枝は啓司にごく普通の言葉を残してスーツケースを引きずりながら出て行った。雨が上がり、澄み切った空だった。 一瞬、紗枝は新たな命を与えられたように感じた。 啓司は離婚合意書を手に取り、リビングルームのソファで凍りついた。 長い間、正気に戻ることができなかった。 紗枝の後ろ姿が彼の前に消えてから、あの女がいなくなったと初めて気づいた。 ただ一瞬だけ落ち込んだが、すぐ冷たい自分に取り戻し、紗枝の家出を忘れた。どうせ、彼の電話一つ、言葉一つで、紗枝は瞬く間に彼の側に戻り、これまで以上に彼を喜ばせるだろうと思った。 今回も、間違いなく同じだろう。 四月最初の週末だった。 例年のこの時期に、啓司は紗枝を連れて実家に戻りお墓参りを
母親たちのLINEグループは非難と罵倒の言葉で溢れかえっていた。紗枝は彼女たちの悪意に満ちた言葉を黙って見つめながら、まだ事の経緯が分からないため、返信は控えることにした。今すぐ幼稚園に様子を見に行こう。景之には電話しないでおこう。「逸ちゃん」紗枝は逸之の目線まで身を屈めて言った。「ママ、お兄ちゃんの幼稚園に行ってくるわ。新しい幼稚園はパパと一緒に行ってね」「ママ、お兄ちゃん、何かあったの?」逸之が不安そうに尋ねた。「何でもないのよ。先生がちょっと来てほしいって」紗枝は逸之の頭を優しく撫でた。逸之は、ママの嘘が下手すぎることに気付いていた。何でもないなら、なぜ先生がママを呼びつけるんだろう?きっと何か重大なことが起きているに違いない。でも、自分には言えないことなんだ。「うん、わかった。じゃあパパと行ってくるね。バイバイ」「いってらっしゃい」紗枝は父子の背中が見えなくなるまで見送った。牧野は既に外で待機していた。その端正な父子の姿に、つい目を奪われてしまう。「社長、坊ちゃん」運転手がドアを開けた。逸之は啓司と共に後部座席に乗り込み、牧野は助手席から新しい幼稚園での注意事項を説明し始めた。護衛の車両が数台後ろを追従している。もはや逸之の安全は完璧に守られているといっても過言ではなかった。逸之は黙って聞きながら、期待に満ちた瞳を輝かせていた。「お兄ちゃんと違う幼稚園だけど、すっごく楽しみ!」「同じ幼稚園に転園することも可能ですが……」牧野の言葉は途中で切られた。「今のままでいい」啓司の声は静かだが決然としていた。「はい」逸之もそれ以上は何も言わなかった。代わりに啓司の方を向いて、「バカ親父、お兄ちゃんの幼稚園で絶対何かあったと思う。私は牧野おじさんと入園手続きできるから、見に行ってあげて」二つの幼稚園は正反対の方向にある。啓司は最初、逸之の入園手続きを済ませてから紗枝の元へ向かうつもりだった。だが息子の言葉を聞いて考えを改めた。「牧野、逸ちゃんを頼む。用事がある」運転手に車を停めさせると、啓司は別の車両に乗り換え、幼稚園へ向かうよう指示した。一方、国際幼稚園では、紗枝が既に到着していた。職員室では——景之は部屋の隅に立たされていたが、保護者たちが来る前に、こっそりと腕時
「それで、どう思う?」景之が尋ねた。「僕、景ちゃんと友達でいたいんだ。でもママが怖くて……もし良かったら、内緒で友達になれないかな?」陽介は景之の顔を覗き込むように見つめ、断られるのを恐れているようだった。景之は内心で思った。まあ、君には良心があるようだな。算数の個人指導に時間を無駄にせずに済みそうだ。「いいよ」景之は短く答えた。陽介の表情が、その言葉を聞いた途端パッと明るくなった。彼が何か言いかけた時、幼い甲高い声が響き渡った。「陽介!お前、何してんだよ?」明一が、数人の子供たちを連れてやってきた。「べ、別に……」陽介は明一が怖いわけではなく、母親が怖かった。母親から言われていたのだ。清水家は黒木家には逆らえない。明一は黒木家のお坊ちゃまなのだと。もし明一の機嫌を損ねて、大人に告げ口でもされたら、家業にまで影響が及びかねない。明一はその様子を見てさらに得意げな表情を浮かべた。「何もないなら、さっさと消えろよ」一対一なら、体格のいい陽介が明一に勝つのは目に見えていた。だが、清水家は黒木家には敵わない。陽介は明一に頭を下げるしかなかった。陽介は歯を食いしばり、不本意そうにその場を離れた。彼が去ると、明一は景之の前に立ちはだかった。「景之、容赦しないからな。今すぐ弟の代わりに土下座して謝らないと後悔することになるぞ」本来の明一は、ごく普通の子供に過ぎなかった。彼の言動の全ては、両親の影響を強く受けていた。両親の黒木昂司と夢美が海外出張中だった時期は、明一も随分と素直で、クラスメートとも仲良く過ごしていた。両親が帰国してからというもの、突如として横柄な態度に豹変したのだ。景之は相手にする気も起きず、その場を立ち去ろうとした。「待てよ」明一が立ちはだかる。「本当に謝らないのか?言っとくけど、母さんが先生たちに話をつけてあるんだぞ。もう誰も君と遊ばないようになるんだ」景之は「ふーん」と無関心そうに呟いただけで、他人事のような態度を崩さなかった。「なんだその態度は!」明一の声が震える。「僕を舐めてるのか?」彼は連れてきた子分たちの顔を見渡した。子分たちが景之に向かって詰め寄る。景之は目を細め、こぶしを固く握り締めた。一分とかからずに、襲いかかってきた男の子たちは地面に転がり、悲鳴を上
ドアの向こうには、逸之の手を引いた啓司の姿があった。「ママ、一人で寝るの怖いから、パパ連れてきちゃった」逸之が甘える声を出す。「三人で寝よう?」紗枝は思わず断りかけた。まだ啓司との冷戦は続いているはずなのに。だが啓司は遠慮なく逸之を抱き上げ、ベッドに寝かせると、自分も横たわった。「寝るぞ。明日は仕事だ」まるで他人事のような素っ気ない声。紗枝は、真ん中で眠る逸之の存在と、啓司の無関心そうな態度を確認すると、追い出すのも面倒になった。スマートフォンを置き、静かに横になる。眠りに落ちた紗枝は、不思議な夢を見た。広大な海原に一枚の小舟のように、波に揺られ、上下する自分の姿。苦しさのあまり、小さな呻き声が漏れる。その声で目が覚めかけた時——朦朧とした意識の中で、大きな体が自分をしっかりと抱きしめているような感覚。額に温かい吐息がかかり、全身が火照っていく。啓司……なの?はっきり確かめようと、意識を取り戻そうと必死になる。やっと目を開けると、少しずつ意識が戻ってくる。淡い月明かりの中、逸之は確かに真ん中で眠っていて、啓司もベッドの端で横たわっていた。不思議なことに、啓司は端の方に寄って眠っているのに、いつの間にか自分は真ん中近くまで移動していて、右側には大きな空間が空いていた。紗枝は疲れすぎていて、深く考えることもできなかった。端の方へずり寄りながら、逸之を真ん中に抱き直す。啓司のことなど、もう気にしている余裕はない。翌朝目を覚ますと、また自分が真ん中で眠っていた。父子二人はすでに起き出していた。不思議に思う。自分はいつも大人しく眠るタイプで、寝相が悪いことなど一度もない。ましてや子供が隣で寝ているのに。昨日の疲れのせいだろうと考え、それ以上深く考えずにベッドから抜け出し、朝の支度を始めた。昼には景之に電話して、学校での様子を確認しようと心に留める。......国際幼稚園。今日のクラスの雰囲気が、どこか違っていた。幸平くんと多田さんの子以外は、清水陽介——唯の甥でさえも景之に近寄ろうとしない。明一は意図的に景之の目の前で、他の子供たちと楽しそうに談笑している。先生も授業中、景之を指名することはなくなっていた。逸之ほど繊細ではない景之だが、これほど露骨な態度は見逃せるはずも
「これは理事会の決定なんです」夢美は冷たく切り返した。「園児の安全と校内の美観のため。他のクラスのママたちだって同じ状況ですから。もし異議があるなら、学校側に直接お申し出になれば?」この国際幼稚園は、小中学校よりも広大な敷地を誇り、桃洲市一番の教育水準を謳っている。幸平くんのママは口を引き結んだ。せっかく手に入れた入園資格を失うわけにはいかない。「大丈夫です。幸平を早く起こして、歩かせます」そう言いながらも、一歳の娘の面倒を見ながら、四歳の息子を幼稚園に送るのは、どう考えても無理な話だった。紗枝は胸が締め付けられる思いだった。かつて双子を同時に育てた経験から、その苦労が痛いほど分かる。パーティーも終わりに近づき、ママたちは我先にと夢美との記念撮影に群がった。多田さんも加わろうとしたが、端っこに追いやられ、写真には半身しか写らなかった。幸平くんのママも、夫の事業のために夢美に近づきたかったが、先ほどの座席の件で顔を潰してしまった今となっては叶わぬ望みだった。紗枝は少し離れた場所から、保護者たちの打算的な表情を一つ一つ観察していた。権力というものは本当に恐ろしい。特に、責任感も公平さも持ち合わせていない人間の手に渡った時には。記念撮影を終えたママたちは、一列になって外へと歩き出した。車は中に停めてあるのに、わざわざ徒歩で向かうのは、この道すがら、おしゃべりを楽しむためだった。紗枝は幸平くんのママの傍らに寄り、幹部用の駐車許可証を取り出した。「よかったら、これを使ってください」その許可証は、園長室を出る時に園長から渡されたものだった。三枚もらったうちの一枚。幹部専用駐車場は教室にも近く、何より人も少なく、ほとんど空いている。「紗枝さん、どうして幹部用の許可証を……?」幸平くんのママは目を丸くした。「気にしないで、使ってください」紗枝は遠くを見つめながら言った。「そろそろ、園の制度も見直す時期かもしれないわ」幸平くんのママが何か言いかけた時、周りのママたちが次々と紗枝を取り囲み始めた。夢美の前では声もかけられなかった彼女たちが、今やすっかり態度を変え、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。ブランドものへの関心は際立って強く、紗枝のバッグやシューズ、ドレス、アクセサリーについて、執拗なま
夢美は自宅でのパーティーで、また紗枝に話題を持っていかれることに焦りを感じ、急いで幼稚園の新しい改革案へと話を転換させた。途端にママたちの関心は夢美へと集中し、紗枝の存在は空気のように薄れていった。今どきの子育ては、スタートラインから競争。この国際幼稚園では、入園と同時にバイリンガル教育、算数、その他の情操教育まで始まる。わが子により良い教育環境を——その一心で、ママたちは夢美の機嫌を伺っていた。紗枝が驚いたのは、夢美がその場で園児の座席配置まで決め始めたことだった。20人のクラスで、最前列の真ん中という特等席は、夢美に取り入ろうとするママたちの子供たちへと次々に割り当てられていく。「景之くんのお母さん」夢美は意味ありげな笑みを浮かべた。「景之くんは成績が良いから、前の席じゃなくても大丈夫でしょう?」確かに、景之にとって座席など些細な問題かもしれない。でも、なぜ自分の子供を不当に扱われなければならないのか。譲るべきではない戦いもある。「じゃあ、明一くんは?」紗枝は穏やかに尋ねた。「彼も成績が良いから、後ろの席……かしら?」もし明一は後ろの席には座らないと言えば、それは息子の成績が芳しくないことを認めるようなもの。夢美もその意図を察した。「あら、うちの子は視力が少し弱くて……」と、巧みに言い逃れた。紗枝はすかさず、多田さんと同じように疎外されがちな一人のママを指さした。メガネをかけたその母親の息子——確か幸平くんという名前だったはず。クラスで唯一眼鏡をかけている子だった。「じゃあ、幸平くんこそ最前列じゃないとね。端っこの席なんて、どうしてそんな配慮に欠ける……」夢美の表情が一瞬凍りついた。まさか紗枝が他のママたちまで巻き込んでくるとは。幸平くんの父親の会社は倒産寸前で、夢美は近々退園を迫るつもりだったのに。場の空気に押され、夢美は渋々幸平くんを前の席に移動させることにした。幸平くんのママは、感謝の眼差しを紗枝に送った。「あの、会長」多田さんも勇気を出して声を上げた。「うちの娘も視力が弱くて……できれば前の方で、女の子と一緒に座らせていただけないでしょうか」一度、水門が開いてしまえば、後は洪水のように要望が押し寄せる。「会長、うちの子は窓際だと気が散っちゃって……」「トイレが
程なくして、多田さんのスマートフォンが震えた。夢美からの呼び出しだ。「申し訳ありません」多田さんは紗枝に向かって小さく頭を下げた。「ちょっと席を外してきます。すぐ戻りますから」紗枝との関係を築くのも大事だが、今はまだ夢美の顔色を伺う方が先決だった。紗枝はそんな多田さんの立場を理解していた。特に何も言わず、ただ軽く頷いて見送った。その後のティーパーティーは、夢美を中心とした他愛もない自慢話で過ぎていく。紗枝は隅の席で静かに時を過ごしていた。「会長、御主人が共同購入事業の市場独占に数十億円投資されているって本当ですか?」あるママが尋ねた。夢美は優雅に紅茶を一口すすり、「数十億円じゃありませんわ」と相手の言葉を訂正した。「1千億円です。しかもこれは初期投資だけ。今後どれだけかかるかしら」「まあ、市場独占なんて、たかが数十億円では無理ですものね」「1千億円!?」「それも、たった一週間で投資を決めたんですって……」ママたちは次々と感嘆の声を上げた。黒木家の傍流ですらこれほどの規模。現当主である拓司の手がける事業となれば、一体どれほどの規模になるのだろう——「会長、実は主人もその業界に詳しくて、もしチャンスがあれば……」あるママが黒木グループとの取引の糸口を探ろうとした。「ごめんなさい」夢美はさらりとかわした。「ビジネスのことは主人に任せっきりで。私は、お金を使う専門なの」その傲慢な物言いに、誰もが内心で眉をひそめながらも、声を上げる者はいない。夢美は隣のママに目配せした。「景之くんのお母さん、ご主人のお仕事は?」と、そのママが唐突に話題を振った。答える間もなく、別のママが割り込んできた。「ご主人って啓司さんでしょう?事故で視力を失われて……今はお仕事は?」夢美はティーカップを持ち上げ、口元の優越な笑みを隠すように見せかけた。「それで景之くんのお母さん」また別のママが追い打ちをかける。「そのお洋服やアクセサリー、どちらで?」「まさか……」すかさず声が上がる。「ご主人の預金や保険金……?」紗枝は、この女性たちの本質を見抜いていた。皆、夢美の意のままに動く。それは子供のためだけではない。夫の会社や、それぞれの利権のため——大人の世界は、結局のところ損得勘定で動いているのだから。「ええ、今は主
多田さんの顔が一瞬にして青ざめた。確かに明一くんは普通の子供よりは優秀かもしれないが、景之くんと比べるのはお門違いだ。それでも夢美を完全に敵に回すわけにはいかない。「あの、会長、そんなつもりじゃ……うちのクラスの子はみんな素晴らしい子供たちですから」慌てて取り繕った彼女の言葉に、その場の母親たちはほっと胸をなで下ろした。誰だって自分の子供の悪口は聞きたくないものだ。紗枝は多田さんの立ち位置を理解した。誰からも好かれようとする人。でも、この世で万人に愛されるのは、お札の肖像画くらいのものじゃないかしら——パーティーは和やかに進み、ママたちは旦那や子供の話で盛り上がっていた。日常的な世間話ばかり。紗枝は会話に入れず、一人一人の顔と名前を覚えようとしていたが、啓司のような記憶力の持ち主ではない彼女には、少々荷が重かった。「景之くんのお母さん、緊張しないで」多田さんが寄ってきた。「最初は誰でも知らない人ばかりですよ。すぐに慣れますから」紗枝は彼女を見つめ、ふとアイデアが浮かんだ。「多田さんは保護者会に入って、どのくらいになります?」「そうですね、もう一年になりますかね」「じゃあ、みなさんのことよくご存知なんですね?」「もちろんです!」多田さんは急に誇らしげな表情を見せた。「皆さんを私が紹介したんですから」だが、その声はすぐに沈んだ。紹介した裕福なママたちは、今では彼女を避けるようになっていた。「みなさんの詳しい情報を、まとめていただけませんか?」「え?」多田さんは目を丸くした。「どうしてそんな情報が……?」「実は私、顔を覚えるのが苦手で」紗枝は申し訳なさそうに微笑んだ。「子供のためにも、みなさんの写真を見ながら、しっかり覚えたいんです」子供のためと聞いて、多田さんの疑念は薄れた。とはいえ、ただ働きはご免だ——そんな彼女の思いを察したように、紗枝はバッグから小さな箱を取り出した。「いつもお気遣いいただいてありがとうございます。これ、ほんの気持ちです」蓋を開けると、中から美しい翡翠のブレスレットが姿を現した。翡翠の最高級品で、職人の手彫り。控えめに見積もっても4千万円は下らない。「こんな高価なものは……」多田さんは形式的に辞退の言葉を口にした。が、その目は輝きを隠せない。紗枝は多田さ
株式の買収は難航するかと思いきや、市場価格の三倍という破格の条件を提示したことで、午前中だけで話がまとまった。紗枝は黒木おお爺さんの持ち株比率を上回り、名門国際幼稚園の筆頭株主として、54パーセントの株式を手中に収めた。手続きが一通り済むと、園長が玄関まで見送ってくれた。雷七の運転する車は、黒木本邸へと向かった。黒木本邸は二つの棟からなり、東棟には黒木おお爺さんと末っ子である啓司の父を含む一家が、西棟には長男家族が住まいを構えていた。西棟の執事の案内で、紗枝は夢美の住まいへと向かった。車で15分ほど走ると、昂司と夢美の邸宅が姿を現した。遠くから眺めても、その優美な建築美と贅沢な佇まいが目を引く。芝生のテラスには既にティーパーティーの準備が整えられ、ママ友たちは思い思いのブランド服に身を包んで三々五々と集まっていた。いつも質素な装いの多田さんでさえ、今日ばかりは首元と手首に見栄えのする装飾品を身につけていた。ただ、彼女の持つバッグも、アクセサリーも、どれも数シーズン前の古いコレクション。誰も彼女の周りには寄り付かず、ポツンと一人きりだった。紗枝の到着を今か今かと待っていた多田さんは、車から降りてくる紗枝の姿に目を見張った。昨日までの彼女とは別人のような、総額20億円を優に超える装いに。他のママたちも紗枝の出で立ちに釘付けになった。耳に揺れるピアスひとつとっても1千万円は下らない。まさにここに、本物の名門と、ただの成金との違いが如実に表れていた。「景之くんのお母さんが持ってるバッグって、世界に2個しかない限定品じゃない?うちの主人にお願いしたのに、資産基準に届かなくて……」「あのブレスレット、1億円よ!」「ドレスだってオートクチュール。確か一年以上前から予約が必要なはず」「会長さんの一番高いバッグでも4千万円程度でしょ。あのバッグ、絶対6千万円や8千万円はするわ」「……」ママたちの間で、艶やかな噂が花開いていった。紗枝は、羨望に満ちた視線を一身に集め、今回の作戦が功を奏したことを実感していた。さりげなく夢美の方へ視線を向ける。夢美もオートクチュールのドレスに、高価なネックレスという装いだったが、紗枝と比べれば、まるで月とスッポン。それに何より、紗枝の身につけているものは、どれ
多田さんのSNSには娘の写真と前向きな言葉が並んでいたが、その裏には仕事も収入もなく、姑の顔色を伺う日々が透けて見えた。スクロールしていると、母親たちのLINEグループに新しい投稿が。「日曜日、みなさんいかがですか?うちで親睦会でもいかがかしら?」夢美からの誘いだった。海外出張のない時期は決まってこうして自宅に集まりを持つのが夢美の習慣だった。退屈しのぎであり、自慢の機会でもある。今回は特に紗枝の名前も指名で。今日の一件で思い通りにならなかった分、もし紗枝が参加すれば必ず恥をかかせてやろうという魂胆が見え見えだった。「はい、会長!お会いできるの楽しみにしています♪」多田さんが真っ先に返信。深夜零時。紗枝は作詞で起きていたが、多田さんまでこんな時間に即レスとは。他のメンバーは三々五々と参加表明を始めている。紗枝が返事を躊躇っていると、多田さんから個別メッセージが。「景之くんのお母さん、これはチャンスよ。このタイミングで夢美さんと距離を縮めてみては?」紗枝は考えを巡らせた。保護者会のメンバーが一堂に会する機会は貴重かもしれない。「ありがとう。そうさせてもらうわ」と多田さんに返信。夢美に近づくつもりなど毛頭なかったが。グループには「はい、明日お伺いします」と書き込んだ。返信を終えるなり、高級ブランドの本社に深夜の電話をかけ、ドレスの緊急空輸を依頼。身長、体重、スリーサイズを伝え、「オーダーメイドでなくても構いません。着られるサイズがあれば。予算は問題ありません」と告げた。資金力という魔法の杖を手にして、物事は驚くほどスムーズに運んだ。同じ要領で、あるママが憧れていたバッグや、他のママたちが手に入れられずにいたブレスレットやジュエリーも次々と購入。決して彼女たちの機嫌を取るためではない。贈り物には戦略が必要だ。最初から派手な贈り物をすれば、好感どころか警戒心を抱かせるだけ。翌朝。景之を澤村家に送り届けた紗枝を見て、唯の目が輝いた。「まあ!それって世界限定2個のバッグじゃない?どうやって手に入れたの?」「気に入った?」唯は何度も頷いた。澤村家の和彦の婚約者として澤村お爺さんにも可愛がられているとはいえ、お金の無心などできない立場だった。「今日使ったら、あなたにあげるわ。中古