実は、彼は言葉より行動だというのを信じていた。行動で彼女に自分の愛を示すのは、口で甘い言葉をかけるより簡単なのだ。もちろん、もし唯花が甘い言葉をご所望なら、どう反抗的な感情が浮かんでも、ちゃんと努力して応えるつもりだ。その時、悟は立ち上がり、上半身を乗り出して小声で親友に言った。「牧野さんのことを聞いてくれよな」理仁は片手で悟の乗り出してきた体を軽く押しのけ、それから唯花と暫くお喋りしてから、ようやく悟のために状況を尋ねた。「唯花さん、牧野さんは午後店に来るの?俺の同僚が彼女が病気になったのが気になって、お見舞いに行きたいって」唯花は答えた。「来てないよ。熱が完全に下がるまで家で休むように言ってあげたの。同僚さんが明凛に会いたいの?じゃ、直接電話して誘ってもいいのよ」「牧野さんは風邪を引いてるだろ。今日も突然寒くなったし、もし彼女を誘って外へ出て、風邪をこじらせたら、同僚はきっと自分を責めると思う。じゃあ、牧野さんが治って仕事に戻ったら俺に教えて。そしたら同僚に伝えるから」「わかった。理仁さん、あのさ、この二人うまくいきそうなのかな?」唯花も初めて誰かのために恋のキューピット役をするものだから、自分が結んだ縁がちゃんと実るのを心から願っているのだった。「牧野さんが同僚に好意を持ってるかどうか、まだ唯花さんに言ってない?同僚のほうはかなり牧野さんに好意をもっているから。結婚を前提に付き合ってみたいと思ってるぞ」「この間、明凛に聞く時間がなかったから、後で聞いてみる。明凛はとてもいい子だから、同僚さんが彼女を好きになるのは当然だよ」唯花から見ると、明凛はとても素敵な女性だった。理仁はただ笑っていて、何も言わなかった。妻には伝えなかったが、悟が明凛に興味を持ったのは、大塚夫人の誕生日パーティーで何も構わず床に寝転ぶというとんでもないことをしでかしたからだ。「じゃあ、理仁さん、電話を切るね、そろそろ仕事を始めようと思って」「うん、無理しないでね。夜八時頃にちゃんと家に帰って」理仁は念を押した。「君の夫は自分の家庭も妻である君のことも、ちゃんと養えるんだぞ」「養ってもらわなくてもいいの。ちゃんと自分のお金でも生活できるし。でも、あなたがお金を私に預けてくれるなら、遠慮せず受け取るけど」姉の結婚がハチミツの
理仁は木村からその袋を受け取った。その中には二つの精巧な箱が二つ入っていた。彼はそのうちの一つを取り出した。悟は馬鹿ではない。これがおばあさんが自分のものから一番良いのを選んで、理仁に唯花を喜ばせるために渡したものだとすぐ理解した。理仁には彼の婚姻を順調に進められるように一から手伝ってくれるおばあさんがいることを、悟は羨ましく思った。それに、おばあさんのことを結城家では誰もが心から尊敬しているのだ。だから、彼女が理仁に唯花をスピード結婚の相手として紹介してあげても、誰も止めようとしなかった。このようなおばあさんが、悟も欲しいと思った。残念なことに、彼のおばあさんはもう亡くなっているのだ。「じゃ、先に仕事に戻るぞ」悟はもうこれ以上親友に刺激されたくなかった。これは羨ましくても仕方がないことなのだ。彼はソファーから腰を上げて、木村と一緒にオフィスを出ていった。理仁はおばあさんが送ってきたエタニティリングを確認してから、携帯を取り出しおばあさんに電話をかけた。「ばあちゃん、送ってきた二つのエタニティリングのことだが、俺がお金を出してばあちゃんから買うよ。俺たちの結婚指輪なんだから。ばあちゃんに送ってもらうわけにはいかないだろう」おばあさんは笑った。「わかったわ。理仁は私の孫だから、安く売ってあげるわ。一つ百円、二つまとめて百円玉二枚くれるだけでいいわよ」「ばあちゃん!」理仁は困ったように低い声で文句を言った。「唯花さんに知られたら、これをどこぞの道端の屋台で買ったおもちゃだと思うかもしれん」おばあさんは笑った。「わかったわ。じゃ、適当にお金を払ってちょうだい。いくら払ってもおばあちゃんは文句言わないよ」孫が払ってくれたお金は、将来ひおばあさんになったら、ご褒美としてまた唯花に返したらいいことなのだ。そのお金は、最終的にまたこの夫婦のものになるのだ。「ばあちゃん、ありがとう!」「このありがとうは、何に対して言ってくれたの?」「ばあちゃんはどう思う?解釈はばあちゃんに任せる」おばあさんは満足そうにニコニコしながら電話を切った。機嫌がいい時、何をやっても元気いっぱいだ。そして、時間の経つのもとても早く感じる。昼ご飯を食べたばかりなのに、あっという間に晩ご飯の時間になったようだ。佐
それを聞いた佐々木父は大体状況を把握した。きっと唯月と離婚するためのことだろう。佐々木母は息子のご飯を持ってきた。「先に言ってくれなかったから、あなたの分は準備してなかったのよ。残りはこれしかないよ。本当は犬にやろうと思ってたんだけど、あんたが食べちゃって。もし足りなかったら、またうどんを作ってあげるよ」「母さん、これで十分だよ」家に入ってから、俊介はただ母親が彼に食器を取ってあげたり、ご飯をついであげたりするのを任せっきりにしていた。当たり前のように、母からの世話を受けている。三人一緒に夕食を済ませると、俊介はあの黄色いファイルを父親に渡した。「これは何だ?」佐々木父は訝しそうな顔をしていたが、手を伸ばしてファイルを受け取り、開けて中から一束のプリントと写真を取り出した。佐々木母も近づいて覗いた。見ているうちに、夫婦二人とも眉をひそめた。「俊介、これほどのお金をこっそりもらったの?」佐々木母が一番驚いたのは息子がこれほどお金を持っていることだった。佐々木父は眉をひそめながら息子に尋ねた。「この資料は唯月に渡されたのか?」俊介は頷いた。「彼女は一体何をしたいんだ?」「俺の全財産がいくらあるか、あいつはすでに把握しているんだ。これらの証拠を持って離婚訴訟でも起こされたら、俺の財産の半分を彼女に渡さなければならないんだ」佐々木父は暗い顔をした。息子が実際どれだけのお金を持っているか彼は知らないが、結構早い段階でもう唯月を騙していたのはちゃんと知っていた。「どうしても半分渡すしかないのか?」それを聞いた佐々木母は声を上げた。「つまり、彼女に二千万くらい分けなければってこと?」「うん、大体二千万くらいだな」佐々木母は自分の心が抉られるような痛みを耐えている様子の表情で言った。「こんなことだったら、最初から彼女に四百万渡しておけばよかったじゃない?」そう言いながら、彼女はまた息子に一発ビンタをお見舞いした。「俊介!こんな重要なこと、どうして先に言ってくれないの?そんな大金を隠し持っているのを知っていたら、唯月に四百万渡させたのに。そうすれば、損はここまで大きくならなかったでしょ」「母さん、今になって何を言っても駄目だよ。唯月はもう絶対黙ってないんだぜ。あいつが以前何をしていたかもう忘れた?彼女
「あれは子供同士の喧嘩でしょう。偶然の出来事で、大したことじゃなかったのに。陽ちゃんのことを任せてくれたら、二度とあんなことは起きないと約束するから」佐々木母は心を痛めたように諭した。「俊介、離婚をやめましょう。母さんは耐えられないわ」彼女は子供同士の喧嘩が、孫の親権がどちらにつくか影響が出るとは思ってもみなかったのだ。彼女はこの年になるまで、一度も離婚のために裁判をする人を見たことがなかった。周りの人達が離婚すると決めたら、いつも女性のほうが荷物とともに家から出され、家も車も子供までも全部男側に残るのが普通だった。「確かに子供同士の喧嘩だけど、問題を起こしたことは事実だ。他人から見ると、陽がうちに残ったら、成長によくないと思うだろうな」俊介はゆっくりと両親を説得しようとしていた。「母さん、俺はもう唯月のことが愛せないんだ。向こうもそうだぞ。無理に一緒にいても幸せになれないんだ。このまま長引いてもみんな一緒に苦しむだけなんだ。それに、唯月ももう我慢できないと言ってた。離婚しか選択肢はないだろう。俺はもう決めたんだ。今回帰ったのは、ただ母さんたちに知らせるためだったんだよ」莉奈が言った通り、これは彼と唯月のことだから、彼が決めればいい話だ。その決定を親にひとこと言えば十分だ。佐々木母は泣きそうになった。そして、彼女は夫を叩いた。「あなた、何か言ってよ。だめよ。私は今から英子に電話する。英子に来てもらって説得してもらいましょ」彼女は言いながら電話しようとしたが、夫に止められた。「英子に任せたら、ただ問題を大きくするだけだぞ!」佐々木父は怒ったように言ってから、また息子に尋ねた。「どうしても離婚するか?あの写真やらなんやら、本当にお前にひどい影響が出るのか?」自分の息子のことだから、よくわかっている。もし脅されなかったら、息子はここまで譲って、唯月の言う通りにするわけがない。「お父さん、もし唯月がこれを全部うちの社長に渡したら、俺はもう終わりだ。こんな感情もない婚姻を終わらせることで、俺の将来が守れると思ったらいい話じゃないか」佐々木父は黙った。佐々木母は相変わらず罵っていた。「あの女、本当にひどいよ。あなたの将来を潰して、彼女に何が得られるの?」「俺は彼女を苦しめたから、彼女はやり返しただけだろう。
佐々木母はまた離婚協議書を取り、何回もよく見返した。唯月に分ける金額を見るたびに、胸が締め付けられるような顔をして言った。「半分分けるって言ったでしょ?この金額おかしいよ」「家と車は唯月が要らないって言ったから、別に彼女に補償金を払わなきゃ。全部合わせると、この金額なんだ」佐々木母「……じゃ、家のリフォーム代は?」俊介は答えた。「含めてないよ。俺はもうあいつに言ったんだ。リフォーム代は絶対返さないって」それを聞いて佐々木母はようやく気が少し楽になった。「リフォームにも数百万かかったから、これを請求してこないなら、うちは幾分かマシね」少なくとも、そこまで気が病まなかった。「俊介、唯月はどうやってこの証拠を集めたんだ?」佐々木父は息子の嫁にそんなツテはないはずだと思った。「もしかして、誰かが手伝ってあげたんじゃないか」「聞いたけど、答えてくれなかったんだ。一体誰に手伝ってもらったのか、俺もさっぱりわからない。ここまでできる人物は絶対相当な厄介者だぞ。俺にとっても爆弾みたいな危険な者だから、父さん、怖くないわけがないだろう。だから、妥協しかないんだ」佐々木母もようやく状況を把握して、疑いながら言った。「唯花夫婦がやったんじゃない?」「陽の一件では、唯月はこんなもん出してなかったから、あの時はまだ持ってなかったはずだ。たった数日でこれだけの証拠を集めてきた。きっと短期間で集めたものだろう。唯花の夫の家族には確かに人が多いけど、皆一般人なんだ。そんな能力はないはずだ。母さん、そんなに心配しなくてもいい。俺らが唯月の要求を受け入れれば、きっと大丈夫だろう。唯月も離婚協議書に、離婚後俺に絶対また報復したりしないと書いてるし」俊介の両親はまた黙り込んだ。俊介は時間を確認してから、彼ら二人に言った。「父さん、母さん、もう帰らないと。明日も仕事だ。午後になったら休暇を取って離婚の手続きをしに行く予定だから」二人は黙っていた。俊介はまた少し座ってから、帰って行った。彼が帰った後、佐々木母は夫に行った。「あなた、本当にこのまま俊介たちを離婚させる気なの?もう止められないの?」離婚しなかったら、お金を分ける必要もないし、孫もそのまま佐々木家の子だ。息子と唯月も夫婦のままなのだ。「俊介がもう決めただろう?俺らはどうしようもない
「英子も仕事がうまくいってないって、一体どうしたの。職場でよくやっているんじゃなかったっけ?どうしてうまくいかなくなった?」佐々木母はぶつぶつ言いながら、娘に電話をかけた。電話で英子がイライラしながら言った。「お母さん、私にもさっぱりわからないのよ。皆わざと私を陥れるようなことをしてきたの。一日中ずっと嫌がらせしてくるわ。ほっとできる時間なんて一分もないよ。お母さんったら、俊介が離婚したいならさせたらいいじゃん?あの子は優秀なんだから、また結婚なんてできるでしょ」「唯月がどこからか、たくさん証拠を集めてきたのよ。全部俊介を不利にさせようとするものばかりよ。それで、俊介が唯月の要求を全部受け入れるしかなくなったんだ。離婚すると二千万以上も取られるわ。陽ちゃんの親権も渡さないと。まして毎月六万円の養育費付きよ」「俊介にそんな大金あるわけ?」英子はびっくりした。「俊介が前から隠して移した財産よ。まさか唯月に証拠をにぎられちゃったなんて。まあいいわ、あなたも大変だったみたいだし、明日一緒に行かなくてもいいよ。お母さんはお父さんと明日早く星城へ行って唯月姉妹に会ってくるわ」英子はすぐに返事した。「お母さん。唯花を説得しょう。彼女を説得できたら、きっと唯月も納得できるよ」「お母さんもそう思うわ」佐々木母と娘はしばらく電話でおしゃべりしてから、ようやく電話を切った。……唯花は仕事を終わらせると、先に姉の家へ行った。姉の離婚後の居住場所を話し合うためだ。案の定、唯月は妹の家に住むことを拒否した。彼女は言った。「俊介がちゃんとお金を送ってくれれば、もうお金で困ることがないから、あなた達の家に住まなくてもいいよ。まず適当に家を借りて、それから不動産屋を回るつもり。もらったお金で小さな家の頭金が払えるはずだし。「残ったお金については、とりあえず東グループでまだやっていけるかどうか試してみてからね。無理だったら仕事を辞めて、前に言ったようにそのお金で弁当屋をやるわ」唯花はこれ以上姉を説得しなかった。そしてただ彼女に言った。「お姉ちゃん、もしお金が足りなかったら、私に言って。先に貸すこともできるからね」「わかったわ。本当に必要だったら、絶対唯花に言うよ」唯花は姉に抱かれた甥の頭を撫でた。「おばたん」「おばちゃんが抱っこし
携帯を見てみれば、可哀想に床に転がったままだった。確かに部屋で待ってはいてくれたが、まさか寝た状態で待っているとは。まさに理仁の、そのうきうきとした心に冷たい水をかけられてしまった。彼はおばあさんから買った指輪を持ってきて、今晩唯花につけようと思っていたが、結局この仕打ちだ。理仁はベッドの端に腰をかけ、手を出し軽く唯花の頬をつねった。「本当に子供のようにぐっすりだな」頬をつねってから、彼は頭を下げ、彼女の頬に、それから唇にもキスをした。それでようやく彼女の携帯を拾ってあげて、サイドテーブルに置いた。妻が寝たまま彼の帰りを待っていたのに少し不満だが、少なくとも確かに彼の部屋で待ってくれていた。某若旦那様にとって、これが僅かな慰めだった。翌日、唯花が目を覚ますと、視野は大きい花束でいっぱいだった。その花束の後ろに、理仁の整った顔が見えた。彼女は瞬きをした。自分が夢を見てるわけじゃなくて、今見ているのは確かに理仁だということを確認し、彼女は起き上がり、笑いながら言った。「お帰り」「唯花さん、おはよう」おはよう?「うそ、もう朝?朝まで残業したの?」「いや、昨日の夜帰ってきたんだ。誰かさんが待っていてくれるって約束しといて、一人で先に夢の世界へ飛んで行っただけさ」唯花は恥ずかしそうに笑いながら、そのきれいな花束を受け取った。「お花屋さんがこんなに早く開いてるの?」「俺が買いたいと思うなら、いつでも買えるよ」理仁は彼女が花束を受け取った後、体を屈め、黒くてキラキラした瞳で彼女の美しい顔をじっと見つめながら、低くかすれた声で聞いた。「おはようのキスは?」彼女に贈ったこの花束は、実家の執事である古谷に電話をかけ、実家の庭で一番美しく咲いていた花をとり、専用車で送らせたのだ。朝、目を開けてすぐきれいな花束をもらうなんて、理仁の心遣いとロマンチックな行動に感動し、唯花は何のためらいもなく、彼におはようのキスをした。「唯花さん。聞きたいことがあるなら、直接言っていいよ」唯花は嬉しそうに花束を愛でながら尋ねた。「どこの花屋さんで買ったの?綺麗だね。うちのベランダに植えたどの花よりもきれいに咲いているわ」「ある園芸店に電話して注文して、専用車で届けてもらったんだ。こんな早い時間に、開いてる店はない
「唯花さん」唯花が彼に指輪をつけてくれた時、理仁は優しい声で言った。「これから、何があっても、絶対別れようとか、離婚しようとかお互いに言わないようにしないか?」唯花はこの対の指輪が夫婦二人によく似合っていると思い、心の中で彼のセンスを密かに褒めていた。選ぶ時に彼女を連れて行かなかったとしても、ちゃんと彼女に似合うものを選んでくれた。そして彼の話を聞くと、彼女は顔を上げ返事をした。「それはできないわ。もしあなたが佐々木俊介のようなクズだったとしても、離婚するって言い出せないの?浮気した男なんて、早くそいつを蹴っ飛ばしたほうが楽よ。傍に残していても気分が悪くなる一方だわ」理仁はまず彼女と誓いを結んで、後で自分の正体がばれてしまったとしても、彼女が離れることができないように仕掛けようとしたのだが。全く引っかかってこない。こんなロマンチックな状況でも、彼女はしっかり冷静さを保っていた。さすが結城理仁が惚れた女だ。「じゃ、俺が浮気しない限り、何があっても離婚なんか口にしないでくれる?この一生ずっと夫婦でいたいんだ」理仁は絶対に浮気などしないと自負していた。彼のような性格の男は、一度誰かを愛したら一生変わらない。だからこそ、怖くなってきたのだ。もし唯花が彼が結城家の御曹司だと知った時、彼の傍から離れるのではないかと。「何か後ろめたいことでもしたの?」唯花は逆に彼に尋ねた。「本当に変よ。朝っぱらから専用車で花束を送ってこさせたり、結婚指輪まで用意してくれたり。宝石にはあまり詳しくないけど、とっても高いものでしょ。普通の日なのに、ここまでよくしてくれるなんて、絶対変だよ。きっと何か後ろめたいことをしたんでしょ。そうやって甘い言葉でごまかして、私に罠を仕掛けて、後で私が気づいたとしても怒らないようにしている。そうでしょ?」理仁は黙って彼女を見つめた。暫くして、彼は手を伸ばし、唯花の髪の毛を撫でながら、何食わぬ顔で淡々と言った。「この頭の中で、とんでもないことを想像しているんだな。わざわざロマンチックなことをしようとしたのに、誤解されるなんて」「私が勘違いしたの?」唯花は彼のいたって冷静で自信満々な顔を見て、少しためらった。「本当に後ろめたいことしてない?」理仁は逆に彼女に聞いた。「俺がどんな後ろめたい
「唯花さん、どうしたんだ?」理仁は彼女の異様な様子に気づき、急いで近寄ってベッドの端に腰をおろした。そして手を伸ばして彼女の身体に当て心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」「お腹が痛いの」「お腹が?もしかして夜食を食べた時に、食べ過ぎで痛くなったの?」唯花は彼をうらめしそうに見ていた。「違うの?だったら、どうしてお腹が痛くなった?」唯花は体の向きを変えて彼に背を向けた。「あなたにはわからないわ。ちょっと横になって我慢してたら良くなるわよ」理仁は眉をひそめた。彼は立ち上がって、すぐに腰を曲げ唯花をベッドから抱き上げた。そして整った顔をこわばらせて言った。「俺には医学的なことはわからない。でも医者にならわかるだろう。病院に連れて行くよ。我慢なんかしちゃだめだ。もし何かおおごとにでもなったら、後悔してももう遅いだろ」「病院なんか行かなくていいの。私はその……月のものが来ただけよ。だからお腹が痛くなったの」理仁「……月のもの……あ、あー、わ、わかったよ」彼は急いで唯花をまたベッドに寝かせた。「どうして痛くなるんだ?」彼は女性が生理中にお腹が痛くなるということを知らなかった。彼の家には若い女の子はいないのだ。両親の世代には女性がいるが、若い女性には今まで接したことがない。そう、だから本気でこんなことは知らなかったのだ。唯花が生理になった当日は、彼は彼女にジンジャーティーを入れてあげたが、あれは彼が以前、父親が母親にそのようにしてあげていたのを見たからだった。それで女性は生理中にはジンジャーティーのようなものをよく飲むのだと理解していた。「たぶん昼間たくさん動いたし、寒かったし、それで痛くなったんだわ。またジンジャーティーでも作ってくれない?」「わかった。暫く耐えてくれ。すぐに作ってくるから」理仁はすぐにジンジャーティーを作りに行った。キッチンで彼は母親に電話をかけた。「理仁、お母さんは寝ているぞ。何か用があるなら明日またかけてくれ」電話に出たのは父親のほうだった。「父さん、母さんを起こしてくれないか?ちょっといくつか聞きたいことがあるんだ」「聞きたいことって、今じゃないとダメなのか?言っただろ、母さんはもう寝てるんだって。彼女を起こすな。何だ、どんな問題なんだ?父さんに言ってみろ、解決できるかも
俊介はかなり怒りを溜めていた。一方、唯花のほうは今日、かなりスッキリしているようだ。夫婦二人が姉の賃貸マンションから出て来た後、唯花はずっと笑顔だった。理仁は可笑しくなって彼女に言った。「そんなに豪快に笑ってないでよ。お腹が痛くなるよ」「笑いでお腹が痛くなるっていうなら、ウェルカムよ。今頃、佐々木俊介はあの家に帰ってる頃よ。あいつ家に着いてどんな反応をしたかしらね?絶対入る家を間違えたって思ってるわよ。あはははは、あいつの反応を想像しただけで、思わず笑いが込み上げてくるわ。またちょっと大笑いさせて、あはははははっ……」理仁も彼女につられて笑ってしまった。そして危うく街灯にぶつかってしまうところだった。驚いた彼は急いでハンドルを切り、それをなんとかかわした。唯花もそれに驚いて笑いを止めた。安全運転になってから唯花は言った。「理仁さん、あなたの運転技術は如何ほどなの?下手なら、今後は私が運転するわ。私運転は得意なのよ。カーレースだって問題ないわ」「俺は18歳の時に免許を取ったもう熟練者だぞ。さっきはちょっとした事故だ、笑いすぎて集中力が落ちてたんだよ」唯花「……まあいいわ。もう言わないから、運転に専念してちょうだい」彼女は後ろを向いて後部座席に座っているおばあさんを見た。おばあさんが寝てしまっているようだから、夫に注意した。「おばあちゃん、寝ちゃったみたい。音楽をちょっと小さくして」清水はまだ唯月の家にいて、一緒に帰ってきていないのだった。理仁は彼女の指示に従った。そして唯花はあくびをした。「私も眠くなってきちゃった」「もうすぐ家に着くよ」「ちょっと目を閉じてるから、家に着いたら起こしてね」「君は一度目を閉じたら朝までその目を覚まさないだろうが。寝ないで、あと十分くらいだから。おしゃべりしていよう」唯花は横目で彼を見た。「あなたとおしゃべりしたら、優しい神様ですら飽きて寝ちゃうかもしれないわよ」理仁「……」暫くして、彼は言った。「唯花さん、俺は大人になってから、君を除いて俺にそんなショックを与えられる人間は一人もいなかったよ」「私は事実を述べただけよ」唯花は座席にもたれかけ、携帯を取り出してショート動画を見始めた。ショート動画によってはとても面白いので、眠気も全部消えてしまった。そし
俊介「……こんなにあるゴミも片付けてねぇじゃねえか!」唯月は可笑しくなって笑って言った。「私が当時、内装を始めた時には同じようにゴミが散らかっていたじゃないの。それは私がお金を出してきれいに片付けて掃除してもらったのよ。その時に使ったお金もあんたは私にくれなかったじゃないの。今日、それも返してもらっただけよ」「人を雇って掃除してもらったとしても、いくら程度だ?そんなちっぽけな金額ですらネチネチ俺に言ってくるのかよ」「どうして言っちゃいけないの?あれは私のお金よ。私のお金は空から降ってきたものじゃあないのよ。どうしてあんたにあげないといけないのよ。一円たりともあんたに儲けさせたりするもんか」俊介「……」暫く経ってから、彼は悔しそうに歯ぎしりしながら言った。「てめぇ、そっちのほうが性根が腐ってやがる!」「私はただ私が使ったお金を返してもらっただけよ。そんなにひどいことしてないわ。あんたが当時、自分のお金で買った家と同じものにしてやっただけでしょ」俊介は怒りで力を込めて携帯を切ってしまった。そして、携帯を床に叩きつけようとしたが、莉奈がすぐにその携帯を奪いにいった。「これは私の携帯よ、壊さないでよね」「クッソ、ムカつくぜ!」俊介はひたすらその言葉を繰り返すだけで、成す術はなかった。唯月の言葉を借りて言えば、彼女はただ自分が内装に使ったお金を返してもらっただけだ。彼が買ったばかりの家はまだ内装工事が始まる前のものなのだから、誰を責めることができる?「俊介、これからどうするの?」莉奈も唯月は性根の腐った最低女だと思っていた。なるほど俊介が彼女を捨ててしまうわけだ。あんな毒女、今後一生お嫁には行けないだろう。莉奈は心の中で唯月を何万回も罵っていた。「こんな家、あなたと一緒に住めないわ」彼女は豪華な家に住みたいのだ。「私もマンションは大家さんに返しちゃったし、私たちこれからどこに住むの?」俊介はむしゃくしゃして自分の頭を掻きむしって、莉奈に言った。「ホテルに行こう。明日、部屋を探してとりあえずそこを借りるんだ。この家はまた内装工事をしよう。前は唯月の好みの内装だったことだしな。また内装工事するなら、俺らが好きなようにできるだろ。莉奈、君のところにはあといくらお金がある?」莉奈はすぐに返事をした。「
「ドタンッ」携帯が床に落ちた時、画面がひび割れてしまった。俊介は急いで屈んで携帯を拾い、携帯の画面が割れてしまったことなど気にする余裕もなく、再び部屋の中を照らして見渡してみた。莉奈も携帯を取り出して、フラッシュライトで彼と一緒に部屋の状況を確認するため照らしてみた。豪華な内装がないだけでなく、ただの鉄筋コンクリートの素建ての家屋にも負けている。「俊介、やっぱり私たち入る家を間違えてるんじゃないの?」莉奈はまだここは絶対に自分たちの家ではないと希望を持っていた。俊介は奥へと進みながら口を開いた。「そんなわけない。間違えて入ったんじゃない。それなら、この鍵じゃここは開かないはずだ。ここは俺の家だ。どうしてこんなことになってるんだ?うちの家電は?たったのこれだけしか残ってないのか?」俊介の顔がだんだんと暗い闇に染まっていった。彼は食卓の前に立った。このテーブルは彼がお金を出して買ったものだ。この時、頭の中であることが閃いた。俊介はようやく理解したのだ。唯月の仕業だ。「あのクッソ女ぁ!」彼はどういうことなのか思いつき、そう言葉を吐きだした。「あいつが俺の家をこんなにめちゃくちゃにしやがったんだ!」俊介がこの言葉を吐いた時、怒りが頂点に達していた。莉奈はすぐに口を開いた。「早く警察に通報してあの女を捕まえてもらいましょう。賠償請求するのよ。あなたの家をこんなふうにしてしまったんだから、どうしたって内装費用を要求しなくっちゃ」内装費?俊介は警察に通報しようと思っていたが、莉奈の言った内装費という言葉を聞いて、すぐにその考えを捨ててしまった。そして、警察に通報しようとしていたその手を止めた。「どうして通報しないの?まさかしたくないとでも?まだあの女に情があるから?」莉奈は彼が電話をかけたと思ったらすぐに切ってしまったのを見て、とても腹を立て、言葉も選ばず厳しく責めるような言い方をした。彼女は自分が借りていたあの部屋はもう契約を解消してしまったし、全てを片付けて彼と一緒にこの家に帰ってきたのだ。ここに着くまでは、豪華な部屋に住めると思っていて、家族のグループチャットにキラキラした自分を見せつけようと思っていたというのに。結果、目に入ってきたのは素建ての家屋にも遠く及ばない廃れ果てた家だったのだ
「私たちの家は何階にあるの?」「十六階だよ」俊介は莉奈のスーツケースを車から降ろし、それを引っ張って莉奈と一緒にマンションの中へと入っていった。エレベーターで、ある知り合いのご近所さんに出くわした。彼らはお互いに挨拶を交わし、そのご近所さんが言った。「佐々木さん、あなたの奥さん、午後たくさんの人を連れて来てお引っ越しだったんでしょ?どうしてまたここに戻ってきたんですか?」「彼女は自分の物を引っ越しで運んで行っただけですよ」相手は莉奈をちらりと見やり、どういう事情なのか理解したようだった。そして俊介に笑いかけて、そのまま去っていった。なるほど、この間佐々木さんが奥さんに包丁で街中を追い回されていたのは、つまり不倫していたからだったのか。夫婦二人はきっと離婚したのだろう。唯月が先に引っ越していって、俊介が後から綺麗な女性を連れて戻ってきたのだ。もし離婚していないなら、ここまで露骨なことはしないだろう。「さっきの人、何か知っているんじゃないの?」莉奈は不倫相手だから、なかなか堂々とできないものなのだ。俊介は片手でスーツケースを引き、もう片方の手を彼女の肩に回し彼女を引き寄せてエレベーターに入っていった。そして微笑んで言った。「今日の午後、俺が何しに行ったか忘れたのか?あの女と離婚したんだぞ。今はもう独身なんだ。君は正式な俺の彼女さ、あいつらが知ってもなんだって言うんだ?莉奈、俺たちはこれから正々堂々と一緒にいられる。赤の他人がどう言ったって気にすることはないさ」莉奈「……そうね、あなたは離婚したんだもの」彼女は今後一切、二度とこそこそとする必要はないのだ。エレベーターは彼ら二人を十六階へと運んでいった。「着いたよ」俊介は自分の家の玄関を指した。「あれだよ」莉奈は彼と一緒に歩いていった。俊介は預けてあった鍵をもらって、玄関の鍵を開けた。ドアを開くと部屋の中は真っ暗闇だった。彼は一瞬ポカンとしてしまった。以前なら、彼がいくら遅く帰ってきても、この家は遅く帰ってくる彼のためにポッと明りが灯っていたのだ。今、その明りには二度と火が灯ることはない。「とっても暗いわ、明りをつけて」莉奈は俊介と部屋の中へ入ると、俊介に電気をつけるように言った。俊介はいつものようにドアの後ろにあるスイッチ
賑やかだった午後は、暗くなってからいつもの静けさへと戻った。唯月は結婚当初、この家をとても大切に多くのお金を使って内装を仕上げた。それが今や、彼女が当時買った家電は全て持ち出してきてしまった。そして、新しく借りた部屋には置く場所がなかった。彼女は中からよく使うものだけ残し、他のものは妹の家にではなく、中古として売ることにした。それもまた過去との決別と言えるだろう。唯月が借りた部屋はまだ片付けが終わっていなかったので、料理を作るのはまだ無理で、彼女はみんなを連れてホテルで食事をすることにした。そして、その食事は彼女がまた自由な身に戻ったお祝いでもあった。唯月のほうが嬉しく過去と決別している頃、俊介のほうも忙しそうにしていた。夜九時に成瀬莉奈が借りているマンションへとやって来た。「莉奈、これだけなの?」俊介は莉奈がまとめた荷物はそんなに多くないと思い、彼女のほうへ行ってスーツケースを持ってあげて尋ねた。「もう片付けしたの?」「普段は一人暮らしだから、そんなに物は多くないのよ。全部片づけたわ。要らない物は全部捨てちゃったの」莉奈はお気に入りのかばんを手に持ち、それから寝る時に使うお気に入りの抱き枕を抱えて俊介と一緒に外に出た。「この部屋は契約を解消したわ」「もちろんそれでいいよ。俺の家のほうがここよりもずっと良いだろうし」「あの人はもう引っ越していったの?」莉奈は部屋の鍵をかけて、キーケースの中からその鍵だけ外し、下におりてから鍵をそこにいた人に手渡した。その人は大家の親戚なのだ。「もう大家さんには契約を解消すると伝えてあります。光熱費も支払いは済ませてありますから。おじさん、後は掃除だけです。部屋にまだ使える物がありますけど、それは置いたままにしています」つまり、その人に掃除に行って、彼女が要らなくなったまだ使える物を持っていってくれて構わないということだ。おじさんは鍵を受け取った後、彼の妻に掃除に行くよう言った。俊介はスーツケースを引いて莉奈と一緒に彼の車へと向かい、歩きながら言った。「暗くなる前に、あいつから連絡が来たんだ。もう引っ越したってさ」同時に唯月は彼女の銀行カードの口座番号も送っていた。今後、彼に陽の養育費をここに振り込んでもらうためだ。そして彼女は俊介のLINEと携帯番号を全て削
理仁は悟のことを好条件の揃った男じゃなかったら、彼女の親友に紹介するわけないと言っていた。確かに彼の話は信用できる。一方の悟は、来ても役に立てず、かなり残念だと思っていた。彼が明凛のほうを見た時、彼女はみんなが荷物を運ぶのを指揮していたが、悟が来たのに気づくと彼のもとへとやって来た。そして、とてもおおらかに挨拶をした。「九条さん、こんばんは」「牧野さん、こんばんは」悟は微笑んで、彼女に心配そうに尋ねた。「風邪は良くなりましたか?」「ええ。お気遣いありがとうございます」唯花はそっと理仁を引っ張ってその場を離れ、悟と明凛が二人きりで話せるように気を利かせた。そして、唯花はこっそりと夫を褒めた。「理仁さん、あなたのあの同僚さん、本当になかなかイイじゃない。彼も会社で管理職をしているの?あなた達がホテルから出て来た時、彼も一緒にいるのを見たのよ」「うん、あいつも管理職の一人だ。その中でも結構高い地位にいるから、みんな会社では恭しく彼に挨拶しているよ」そしてすぐに、彼は唯花の耳元で小声で言った。「悟は誰にも言うなって言ってたけど、俺たちは夫婦だから言っても問題ないだろう。彼は社長の側近なんだ。社長からかなり信頼されていて、会社の中では社長の次に地位の高い男だと言ってもいいぞ」唯花は目をパチパチさせた。「そんなにすごい人だったの?」理仁はいかにもそうだといった様子で頷いた。「彼は本当にすごいんだ。職場で悟の話題になったら、誰もが恐れ敬ってるぞ」唯花は再び悟に目を向けた。しかし、理仁は彼女の顔を自分のほうに向けさせ、素早く彼女の頬にキスをした。そして低い声で言った。「見なくていい、俺の方がカッコイイから」「彼って結城家の御曹司に最も近い人なんでしょ。だからよく見ておかなくちゃ。結城社長の身の回りの人がこんなにすごいんだったら、社長自身もきっとすごい人なんでしょうね。だから姫華も彼に夢中になって諦められなかったんだわ」理仁は姿勢を正して、落ち着いた声で言った。「悟みたいに優秀な男が心から補佐したいと思うような相手なんだから、結城社長はもちろん彼よりもすごいに決まってるさ」「お姉ちゃんのために佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれた人って、彼なんでしょう?」理仁「……」彼は九条悟が情報集めのプロだということを彼女
部屋の中から運び出せるものは全て運び出した後、そこに残っている佐々木俊介が買った物はあまり多くなかった。みんなはまた、せかせかと佐々木俊介が買った家電を部屋の入り口に置いて、それから内装の床や壁を剥がし始めた。電動ドリルの音や、壁を剥がす音、叩き壊す音が混ざりに混ざって大合唱していた。その音は上の階や階下の住人にかなり迷惑をかけるほどだった。唯月姉妹二人は申し訳ないと思って、急いで外に行ってフルーツを買い、上と下のお宅に配りに行き謝罪をし、暗くなる前には工事が終わることを伝えた。礼儀をもって姿勢を低くしてきた相手に対して誰も怒ることはないだろう。内海家の姉妹はそもそも上と下の住人とはよく知った仲で、フルーツを持って断りを入れに来たので、うるさいと思っても住人たちは暫くは我慢してくれた。家に子供がいる家庭はこの音に耐えられず、大人たちが子供を連れて散歩に出かけて行った。姉妹たちはまたたくさん食べ物を買ってきて、家の工事を請け負ってくれている人たちに配った。このような待遇を受けて、作業員たちはきびきびと作業を進めた。夕方になり、外せるものは全て外し、外せないものは全て壊し尽くした。「内海さん、出たごみはきれいに片付けますか?」ある人が唯月に尋ねた。唯月はぐるりと一度部屋を見渡して言った。「必要ありません。当初、内装工事を始めた時、かなりお金を使って綺麗に片付けてもらいましたから。これはあの人たちに自分で片付けてもらいます。私が当初、人にお願いして掃除してもらった時に払ったお金とこれでチャラになりますからね」唯花は部屋の中をしげしげと見て回った。壁の内装もきれいさっぱり剥がして、床もボロボロにした。全て壊し尽くしてしまった。姉が掃除する必要はないと言ったのだから、何もする必要はないだろう。これは佐々木俊介たちが自分で掃除すればいいのだ。「明凛、あなたの話を聞いてよかったわ。あなたの従兄に作業員を手配してもらって正解ね。プロの人たちだから、スピードが速いのはもちろん、仕上がりもとても満足いくものだわ」明凛は笑って言った。「彼らはこの道のプロだから、任せて間違いなかったわね」「彼らのお給料は従兄さんに全部計算してもらって、後から教えてちょうだい。お金をそっちに入金するから」明凛は頷いた。「もう従兄には言ってあ
「あ、あなたは、あの運転代行の方では?」唯花は七瀬に気づいて、とても意外そうな顔をした。七瀬は良い人そうにニカッと笑った。「旦那さんに名刺を渡して何かご用があれば声をおかけくださいと伝えてあったんです。仕事に見合うお給料がいただければ、私は何でもしますので」唯花は彼が運転代行をしていることを考え、代行運転の仕事も毎日あるわけじゃないから、アルバイトで他のことをやっているのだろうと思った。家でも暇を持て余して仕事をしていないのではないかと家族から疑われずに済むだろう。「お手数かけます」「いえいえ、お金をもらってやることですから」七瀬はそう言って、すぐに別の同僚と一緒にソファを持ち上げて運んでいった。明凛は何気なく彼女に尋ねた。「あの人、知り合い?」「うん、近所の人よ。何回か会ったことがあるの。普段は運転代行をしているらしくて、理仁さんが前二回酔って帰って来た時は彼が送ってくれたのよ。彼がアルバイトもしてるなんて知らなかったけどね。後で名刺でももらっておこう。今後何かお願いすることがあったら彼に連絡することにするわ。彼ってとても信頼できると思うから」陽のおもちゃを片付けていたおばあさんは、心の中で呟いていた。七瀬は理仁のボディーガードの一人だもの、もちろん信頼できる人間よ。人が多いと、作業があっという間に進んだ。みんなでせかせかと働いて、すぐに唯月がシールを貼った家電を外へと運び出した。唯月と陽の親子二人の荷物も外へと運び出した。「プルプルプル……」その時、唯花の携帯が鳴った。「理仁さん、今荷物を運び出しているところよ」唯花は夫がこの場に来て手伝えないが、すごく気にかけてくれていることを知っていて、電話に出てすぐ進捗状況を報告したのだった。理仁は落ち着いた声で言った。「何台かの荷台トラックを手配したんだ。きっともうすぐマンションの前に到着するはずだよ。唯花さんの電話番号を運転手に伝えておいたから、後で彼らに会って、引っ越し荷物を義姉さんの新しいマンションまで運んでもらってくれ。もし義姉さんのマンションに置く場所がなければ、とりあえずうちに荷物を置いておいていいから」彼らの家はとても広いし、物もそんなに多くないのだ。「うん、わかったわ。理仁さん、本当にいろいろ気を配ってくれるのね。私たちったら