東隼翔の話を聞いて唯月は顔を真っ赤にさせた。彼女は確かに食いしん坊で、それに胃袋が大きいのと運動を全くしていなかったので、今のように、どんどん太ってしまったのだ。「東社長、わかりました。試用期間中に必ず痩せてみせますので」今後は朝だけでなく夜にもジョギングに行かなければ。彼女は自分が痩せられると信じていた。「うん、試用期間は一ヶ月にしよう。しっかりやってくれ」東隼翔はまた少し挨拶をしてから、唯月をその場に残し、社長専用エレベーターのほうへと向かって行った。瞬く間に、彼の逞しい姿がすでにエレベーターの入口へと消えていった。彼の姿が見えなくなってから、唯月はようやく視線を元に戻した。振り向くと、自分の上司が不機嫌そうに彼女を睨んでいた。唯月は口を閉じて何も言わなかった。黙ったまま財務部のオフィスへと上がっていった。彼女は以前、財務部長という肩書を持っていたし、今はただの普通の財務職員ではあるが、みんなが彼女と東隼翔の間には何か関係があると確信していたから、財務部長は彼女を目の上のたんこぶだと思っていた。つまり自分の肩書を唯月に取られてしまわないか心配しているのだった。彼女が自ら唯月に何か行動を起こす必要はなかった。他の人たちが裏で唯月に汚い真似を使い、いろいろな方法で彼女を陥れ、仕事上で失敗をさせようと画策していたのだ。試用期間に彼女の仕事が評価されないようにすれば、ここから追い出すことが可能だ。以前の唯月だったら、同僚たちからこのようにいじめの矛先を向けられ、孤立したら、きっとさっさと退職していたことだろう。しかし今は彼女は耐え忍ばなくてはならない。彼女が離婚し、息子の陽の親権を得られるまでは絶対に我慢しなくては。唯月が去った後、財務部の他の職員たちが財務部長のもとに駆け寄ってきて言った。「自分がどんな姿なのか見もせずに、東社長に色目を使うなんて。東社長は彼女と結構おしゃべりをしていましたよ」唯月が東隼翔と話している時、彼と正面に向き合って話していただけで、彼らに色目を使っているなどと言われる羽目になってしまった。「彼女は結婚していて、2歳過ぎの息子がいるらしい」財務部長は淡々と言った。「東社長が彼女を好きなはずはないわ」「それはそうですよ。彼女のあの姿ときたら。東社長とは言わず、どんな男だって彼女の
……西郊外にある山荘へと行く途中、内海唯花は明凛に電話をかけた。「明凛、今日はおばあさんを気晴らしのために外へ連れて行くから、お店に行けないのよ。お店のことはあなたに任せるわ」牧野明凛は笑って言った。「大丈夫よ。あなたはできるだけおばあさんと一緒にいて、発散させてあげてちょうだい。店には私がいるから、いつもと同じよ」どのみち明日は週末だ。彼女たちは週末になると、ふつうお店を開けない。店を開けても、内海唯花が店の中で自分のハンドメイド商品を作るくらいだ。通話を終えてから、牧野明凛は独り言をつぶやいた。「唯花の結婚生活はだんだんイイ感じになってきたわね」「明凛姉さん」聞きなれた声が響いた。それを聞いて牧野明凛は顔色を険しくさせた。金城琉生が向かって来るのを見て、やれやれといった様子で彼を批判した。「琉生、私はこの前あんたに言ったでしょ。全然わかってないの?今後はこの店には来るなって伝えたはずよ。あんたと唯花はそういう関係には絶対なれないんだから!」数日間会ってないだけで、金城琉生は少しやつれたようだった。目の周りにはくまができ、ひげも伸びていた。この時の彼は22歳という若者には見えなかった。このような従弟の様子に、牧野明凛は心を痛めた。愛というものは容赦なく人を傷つけるものなのだ。金城琉生が内海唯花に長い間片思いしていたのだから、すぐにあきらめろと言われてもそれはとても難しい話なのだ。「明凛姉さん」金城琉生は悲痛な叫びを漏らした。「自分に言い聞かせてみたけど、数日経っても無理だった。毎日すごく辛いんだ。少しでも時間があると唯花姉さんのことばかり考えてしまうんだ。本当に、本当に彼女のことが好きなんだよ。俺はあきらめきれない。姉さん、どうしたらいい?どうにかしてくれないか?」金城琉生は牧野明凛の両肩をがっしりと掴み、懇願した。「姉さん、俺は従弟だろ。姉さん以外に頼れる人はいないんだよ」牧野明凛は自分の両肩に置かれたその手を払いのけて、厳しい顔をして言った。「琉生、また何度も言わせる気?唯花はもう結婚しているの。彼女には夫がいるのよ。あんたが彼女のことを愛していたって、この事実は変えられないの。だから、自分の気持ちに区切りをつけなさい。彼女はあなたには相応しくないわ。あの子があんたを好きになることなんて絶対ないん
金城家は彼女のおばの夫の実家である。牧野明凛は小さい頃からおばが金城家でどれだけ苦労してきたのかを見続けてきた。彼ら牧野家は政府の土地計画によって得たお金からのし上がっていった家で、多くの賃貸の家や店を持っている。その資産は二十億に近かったが、おばが名家に嫁入りするのはとても大変だった。おばですらそうなのに、内海唯花は言うまでもないだろう。牧野明凛は決して内海唯花を貶しているわけではない。彼女はただ本当のことを言っているだけだ。「唯花さん……」「唯花なら旦那さんとデートしに行ったわ」金城琉生はそれを聞いて、顔色が一瞬にして青ざめた。そしてすぐに、彼は店の中に内海唯花の姿を探した。牧野明凛は彼の好きなように店の中を隅々まで探させてやった。金城琉生は内海唯花の姿が見当たらず、従姉が言った内海唯花は店にいないという言葉を信じた。彼は完全に生気を失った様子で去って行った。牧野明凛はため息をついた。彼女は金城琉生が早くあきらめをつけて、立ち直るを望んでいた。愛というもののために何か間違ったバカな真似はしないように願った。彼女は今、従弟である金城琉生と親友である内海唯花に挟まれた形で、非常に身動きがとりにくかった。従弟が唯花を深く愛していることに心を痛め、また全力で親友を応援したいと思っていた。従弟には親友の結婚生活の邪魔をさせるわけにはいかない。一方、西郊外の山荘では。結城理仁とおばあさんは結城家の老婦人と現当主という身分ではここにやって来ず、彼は他の一般人と同じように、駐車場に車を止めて、みんなを連れて入場のチケットを買いに行った。そう、この避暑地としても使われている山荘はテーマパークのように営業という形をとっていて、中に入るには入場券を買わなくてはいけないのだった。チケットを購入し、彼はそれを内海唯花に手渡した。そして彼女から陽を抱き上げた。「俺が陽君を抱っこしてあげよう」内海唯花が疲れないように。「陽ちゃんのベビーカーを車から降ろして、そこに座らせたらいいわ。ベビーカーを押しながら歩いたほうが、楽だから」結城理仁はすぐに車の鍵を清水に渡し、清水は車から陽のベビーカーを降ろした。入場口に入り、一行は中へと入っていった。そこに入ると、内海唯花はそこの美しさに釘付けになって、歩きながら言った。
内海唯花は携帯をポケットに入れ、自然と結城理仁の手を繋いで引っ張って行った。これは絶好のチャンスじゃないか。結城理仁はすぐに内海唯花の手をしっかりと握り返し、彼が彼女を引っ張る形にした。歩きながら、彼は彼女と二人、十本の指を絡め合った。うん、妻の小さな手を引いて歩くのはとても良いじゃないか!結城理仁は今まで恋愛経験がなく、傲慢な態度を取るのが好きな男である。妻の手を繋ぐことに成功した彼は、心の中にはまるでハチミツのような甘さが広がった。内海唯花は彼が彼女の手をぎゅっと握りしめてきて、絡め合った二人の十本の手を見つめた。彼のほうからこのように指を絡めてきたのだ。こっそりと結城理仁をちらちら見てみると、彼はやはりあの傲慢で冷たい様子だった。彼女は心の中で文句を言った。わざと知らん顔をして、うれしいくせに!それで、彼女は親指で彼の手のひらに何かを書いた。彼が彼女のほうを見た時、彼女も厳しい顔つきで前方を見つめていた。知らん顔して相手をからかうくらい、彼女だって負けはしないよ。結城理仁の口角が上がった。彼は内海唯花のこの性格が好きだ。恥ずかしがらずに、したいことはしたいようにする。「君のお姉さんのことが解決して、時間ができたら、またここに君を連れてくるよ。数日ここに泊まろう」彼は遠くに見える木造の建物を指さした。「あの山荘に泊まるんだ。なかなか良いと思うよ」「約束よ」「俺がいつ君に嘘をついたことがある?」内海唯花は笑った。「あなたが私に嘘をついたとしても、あなたは絶対に認めないでしょ。これじゃ私だってどうしようもないわ」結城理仁は突然何も話さなくなった。なぜなら、彼は本当に彼女に嘘をついているからだ。しかも、とても大きな嘘を。彼が突然黙ってしまい、内海唯花は首を傾げて彼を見て笑った。「まさか本当に私に嘘をついてるんじゃないでしょうね?」結城理仁はその瞬間、どのように返事をすればいいのかわからなかった。その時ちょうど内海唯花の携帯が鳴ったので、とりあえず逃れることができて彼はホッと胸をなでおろした。内海唯花に電話をしてきたのは神崎姫華だった。「唯花、今日お店にいないの?」神崎姫華はお店に行ったのだが、内海唯花の姿がなかったので、彼女に電話をかけてきたのだった。「うん、今日は遊び
内海唯花は神崎姫華が今まで結城社長のことを好きだったので、神崎姫華を悲しませないように、あまり多く言わず、すぐ話題を変えた。二人はおしゃべりをしているうちに、神崎姫華は今やっていることを思い出し、言った。「兄さんがね、私が暇な時に結城社長のことを思い出して悲しむんじゃないかって心配して、私にあることを頼んできたの。私の叔母さんを探しなさいって」「叔母さん?」内海唯花は神崎家の事情にはあまり詳しくなかった。知っているのは神崎家が結城家に次ぐ名家だということだけだ。唯花が神崎家で唯一知っているのは神崎姫華だった。「そういえば、唯花、あなた達姉妹が経験したことは、うちの母の昔にとても似ているわ。うちのおばあさんとおじいさんも早く亡くなって、親戚たちは誰も母とその妹を引き受けたがらなかったせいで、母さん達は保護施設に入るしかなかったの。そこで暫く過ごして、母の妹、つまり私の叔母さんはね、まだ小さくて、かわいかったから、結婚してから間もなく子供に恵まれなかったお金持ちの夫婦に選ばれて、養子になったんだ。母はずっと施設にいたんだけど、妹のことを忘れたことがなかったの。大きくなって、一人前になってから、ずっと妹のことを探していたけど、当時は今みたいにネットなんかなかったでしょ。ネットで人探しの情報をアップして、その人が簡単に見つかるような時代じゃなかったから、なかなか成果がなかったの。今までずっと何も手掛かり一つなかったんだけど、ついこの間、叔母さんを引き取ってくれた夫婦が見つかったわ。これで叔母さんを見つけたと思って、私たちはとっても喜んでいたの。でも、母に付き添ってその夫婦のところに叔母さんの行方を尋ねに行ったところ、相手が知らないって答えたんだ」話を聞いた内海唯花も緊張してきた。「どうして知らないの?そのご夫婦が叔母さんを引き取ってくれたんじゃない。もしかして、あなたのお母様に会わせたくないから、わざと嘘をついたとか?」「違うの」神崎姫華は怒った様子で言った。「あの人達、叔母さんを引き取って一年後、自分の子供が生まれたから、叔母さんのことをどんどん気にいらなくなって、殴ったり怒鳴ったりしただけじゃなく、叔母さんが大きくなったら、実の子供と財産で争うことを心配して、夫婦は相談し、別の子供がいない夫婦に叔母さんを譲ったのよ」内海唯花も
「母さんは叔母さんと離れたとき、二人で一緒に写真をとって、ぞれぞれその写真を持っていたんだ。大きくなったら、これを手掛かりとして、いつかまた会えると思ってたけど、叔母さんの持ってた写真は最初の里親に燃やされちゃったの。母さんの写真はまだ残っているけど、もう数十年経ったんだよ。どう気を使って大事に保存していても、やっぱり黄ばんでいて、はっきり見えないわ。兄さんはもうその写真をネットにアップしたけど、全く手がかりがなかったの。もし、叔母さんに子供がいて、その子が叔母さんに似ていたら、うちの母さんが見て気づく可能性もあるけど、そうじゃなかったら、たぶん叔母さんを見つけるのは難しいと思うわ」今はその方法しかないのだ。しかし、このままだと、どう考えても不可能に近い。「頑張ればなんとかなるよ。姫華、絶対見つかるわ、諦めないで」内海唯花は今、神崎姫華を応援することしかできない。神崎家はお金と権力を持っているが、何年かけても彼女の叔母を見つけることができなかった。唯花は何の権力もない一般人で、どうしようもできないのだ。「早く叔母さんが見つかるといいな。そしたら、母さんに会わせて、元気になると思うの。唯花、もし知り合いに養子だという人がいるなら、教えてね。どんな可能性も見逃したくないの」内海唯花は突然自分の母親を思い出した。彼女は試しに神崎姫華に聞いてみた。「叔母さんは今年いくつになる?」「54歳ね。母さんはもう叔母さんと五十年以上も会っていないの」暫く沈黙すると、内海唯花は口を開いた。「私の母がもし生きていたら、ちょうど今年54歳になるわ。母もおじいさんとおばあさんの子供じゃないの、どっかで拾ってそのまま引き取ったようで。母には私とお姉さんしか子供がいないわ。姫華も会ったよね」養子になる人は意外と多い。内海唯花は母親が神崎姫華の叔母だとは簡単に思わなかった。それに、神崎姫華は唯花姉妹に会ったこともあるし、姉の唯月が特に母に似ている。神崎姫華が唯月に会ってどうも思わなかったから、その可能性がないと思った。神崎姫華は内海姉妹の両親は十五年前の交通事故で亡くなったことを知っていた。自分の叔母はそんなに短命ではないだろうと思って、その可能性も頭から排除した。「唯花、お母さん以外に、養子になった知り合いが誰かいる?」「実家の田舎だと
神崎姫華は感激して言った。「唯花、ありがとう。もしおばさんを見つけたら、あなたは神崎家の一番の恩人になるわ。そのときちゃんとした礼をさせてもらうから」「私たちは友達でしょ、そんなに遠慮しないで。ただ母のことを思い出したの。もし母がまだ生きているなら、私も姉も絶対、精一杯母のために家族を探してあげると思ったから」母親がなくなってもう十数年経った。内海唯花は母親のことをあまり覚えていなかったが、幸い姉の唯月が母親に似ているので、彼女を見ると、母親のことを思い出せる。「じゃ、唯花、これ以上は家族団らんの邪魔するのはさすがに申し訳ないわ。楽しんでね。いつか正式に結婚式を挙げるなら、きっと教えてね。ブライドメイドしたいから」内海唯花にからかうように一言を残して、彼女は電話を切った。「また神崎さん?」結城理仁は何食わぬ顔をして尋ねた。「うん、もともと私たちに合流しようと思ったらしいけど、私は結城さんと一緒にいるって聞いて、来ないことにしたって」結城理仁は心の中で冷たく彼女に小言を言った。「やっと気の利いたことをしてくれたな」「神崎さんは本当にいい人だよ。お宅の社長さんは……」結城社長がもう指輪をつけていたのを思い出して、内海唯花はため息をついた。「人と人との縁って、本当に残酷だね」「何を話した?さっきお義母さんの事とか言ってなかった?」結城理仁は話題を変えた。彼自身の噂ばかり聞きたくないのだ。内海唯花は彼と肩を並べ、手を繋いで話した。「姫華は今、彼女の叔母さんを探すのに専念してるんですって。こうすれば、結城社長のことばかりを考えなくて済むからって。まさか神崎夫人も施設で育てられたなんてね。彼女の妹は誰かに引き取られて、また何回も他のところにたらい回しにされちゃったから、今になっても二人は再会できないみたい。お母さんもおじいさんとおばあさんの養子だったのよ。でも、本当の家族は全く母のことを探さなかったんだ。それに、小さい頃のこともあまり記憶になかった。覚えていたのは前の里親はよく彼女を虐待してきたから、我慢できず逃げてきたって。その時、お母さんはまだ7、8歳くらいだった。何もできなくてお腹が空きすぎて、道端で倒れてたところを、おじいさんとおばあさんに拾ってもらったんだ。それからようやく穏やかな生活ができたって。その後、お
「もちろんよ。絶対裁判で両親の家を取り戻すわ!」「そんなに自信があるなら、もう落ち込んだ顔なんかしないで。今日は遊びに来たんだ。だから、ちゃんと笑うんだよ。以前のまだ解決できていないことは、帰ったら一つずつ解決したらいい。いつか全部片付くから」彼は内海唯花を胸にきつく抱きしめて、優しい声で言った。「それに、俺がいるだろう。何かあっても、ちゃんと君を支えているから」内海唯花は彼の懐から逃れようとはしなかった。静かに彼に抱きしめられて、暫くしてからようやく離れた。この時、顔はほんのり赤く染まっていた「こんなに人がいるのに」結城理仁は何食わぬ顔をしてまた彼女の手を取り、そのまま前に歩き出した。「俺たち夫婦だろう。愛人が逢引してるわけじゃないんだから、人が多くいても問題ないだろう」内海唯花「……」「どうりでお姉ちゃんがいつも結城さんに優しくしなさいってうるさく言うわけね」彼はとっくに行動で唯月から認められているのだ。二人はスピード婚し、一緒に生活し始めてから、内海唯花はこの男には欠点があるのを知っていた。しかし、その欠点より、美点の方が多かった。それに、欠点がない人なんてこの世のどこにいる?内海唯花自身にもそれはたくさんある。きちんとした重要な場面では、結城理仁は佐々木俊介のクズ男より何万倍ちゃんとしている。内海唯花のただでさえ落ち着くことのできない心が、結城理仁のせいで、またドキドキしてきた。彼女は絶対にチャンスをうかがい、こっそり彼の契約書を取って燃そうと思った。そうしたら、彼女は何の恐れもなく彼をからかうことができるのだ。もし、いつか二人の心が一つになり、彼と本当の夫婦になったら、彼はあの半年の契約のことなど口に出さなくなるだろう。顔を傾けて、彼のいつもムスッとしているような顔を見つめた。内海唯花は密かにため息をついた。やはりもっと度胸をつけよう。じゃないと、彼の服を剥ぎ取っても、その氷山のような冷たい顔を目の前にしたら、どれほど熱い衝動もすぐ消えるだろう。「なら、もっと俺に優しくしてくれよ」「まだ足りないの?」結城理仁は口元を引き締め、また黙った。二人はお互いに助け合ってきたのだ。内海唯花は一方的に他人に助けられてばかりということをよしとするタイプではない。彼が彼女を少し助けてくれたら、彼女
「唯花さん、どうしたんだ?」理仁は彼女の異様な様子に気づき、急いで近寄ってベッドの端に腰をおろした。そして手を伸ばして彼女の身体に当て心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」「お腹が痛いの」「お腹が?もしかして夜食を食べた時に、食べ過ぎで痛くなったの?」唯花は彼をうらめしそうに見ていた。「違うの?だったら、どうしてお腹が痛くなった?」唯花は体の向きを変えて彼に背を向けた。「あなたにはわからないわ。ちょっと横になって我慢してたら良くなるわよ」理仁は眉をひそめた。彼は立ち上がって、すぐに腰を曲げ唯花をベッドから抱き上げた。そして整った顔をこわばらせて言った。「俺には医学的なことはわからない。でも医者にならわかるだろう。病院に連れて行くよ。我慢なんかしちゃだめだ。もし何かおおごとにでもなったら、後悔してももう遅いだろ」「病院なんか行かなくていいの。私はその……月のものが来ただけよ。だからお腹が痛くなったの」理仁「……月のもの……あ、あー、わ、わかったよ」彼は急いで唯花をまたベッドに寝かせた。「どうして痛くなるんだ?」彼は女性が生理中にお腹が痛くなるということを知らなかった。彼の家には若い女の子はいないのだ。両親の世代には女性がいるが、若い女性には今まで接したことがない。そう、だから本気でこんなことは知らなかったのだ。唯花が生理になった当日は、彼は彼女にジンジャーティーを入れてあげたが、あれは彼が以前、父親が母親にそのようにしてあげていたのを見たからだった。それで女性は生理中にはジンジャーティーのようなものをよく飲むのだと理解していた。「たぶん昼間たくさん動いたし、寒かったし、それで痛くなったんだわ。またジンジャーティーでも作ってくれない?」「わかった。暫く耐えてくれ。すぐに作ってくるから」理仁はすぐにジンジャーティーを作りに行った。キッチンで彼は母親に電話をかけた。「理仁、お母さんは寝ているぞ。何か用があるなら明日またかけてくれ」電話に出たのは父親のほうだった。「父さん、母さんを起こしてくれないか?ちょっといくつか聞きたいことがあるんだ」「聞きたいことって、今じゃないとダメなのか?言っただろ、母さんはもう寝てるんだって。彼女を起こすな。何だ、どんな問題なんだ?父さんに言ってみろ、解決できるかも
俊介はかなり怒りを溜めていた。一方、唯花のほうは今日、かなりスッキリしているようだ。夫婦二人が姉の賃貸マンションから出て来た後、唯花はずっと笑顔だった。理仁は可笑しくなって彼女に言った。「そんなに豪快に笑ってないでよ。お腹が痛くなるよ」「笑いでお腹が痛くなるっていうなら、ウェルカムよ。今頃、佐々木俊介はあの家に帰ってる頃よ。あいつ家に着いてどんな反応をしたかしらね?絶対入る家を間違えたって思ってるわよ。あはははは、あいつの反応を想像しただけで、思わず笑いが込み上げてくるわ。またちょっと大笑いさせて、あはははははっ……」理仁も彼女につられて笑ってしまった。そして危うく街灯にぶつかってしまうところだった。驚いた彼は急いでハンドルを切り、それをなんとかかわした。唯花もそれに驚いて笑いを止めた。安全運転になってから唯花は言った。「理仁さん、あなたの運転技術は如何ほどなの?下手なら、今後は私が運転するわ。私運転は得意なのよ。カーレースだって問題ないわ」「俺は18歳の時に免許を取ったもう熟練者だぞ。さっきはちょっとした事故だ、笑いすぎて集中力が落ちてたんだよ」唯花「……まあいいわ。もう言わないから、運転に専念してちょうだい」彼女は後ろを向いて後部座席に座っているおばあさんを見た。おばあさんが寝てしまっているようだから、夫に注意した。「おばあちゃん、寝ちゃったみたい。音楽をちょっと小さくして」清水はまだ唯月の家にいて、一緒に帰ってきていないのだった。理仁は彼女の指示に従った。そして唯花はあくびをした。「私も眠くなってきちゃった」「もうすぐ家に着くよ」「ちょっと目を閉じてるから、家に着いたら起こしてね」「君は一度目を閉じたら朝までその目を覚まさないだろうが。寝ないで、あと十分くらいだから。おしゃべりしていよう」唯花は横目で彼を見た。「あなたとおしゃべりしたら、優しい神様ですら飽きて寝ちゃうかもしれないわよ」理仁「……」暫くして、彼は言った。「唯花さん、俺は大人になってから、君を除いて俺にそんなショックを与えられる人間は一人もいなかったよ」「私は事実を述べただけよ」唯花は座席にもたれかけ、携帯を取り出してショート動画を見始めた。ショート動画によってはとても面白いので、眠気も全部消えてしまった。そし
俊介「……こんなにあるゴミも片付けてねぇじゃねえか!」唯月は可笑しくなって笑って言った。「私が当時、内装を始めた時には同じようにゴミが散らかっていたじゃないの。それは私がお金を出してきれいに片付けて掃除してもらったのよ。その時に使ったお金もあんたは私にくれなかったじゃないの。今日、それも返してもらっただけよ」「人を雇って掃除してもらったとしても、いくら程度だ?そんなちっぽけな金額ですらネチネチ俺に言ってくるのかよ」「どうして言っちゃいけないの?あれは私のお金よ。私のお金は空から降ってきたものじゃあないのよ。どうしてあんたにあげないといけないのよ。一円たりともあんたに儲けさせたりするもんか」俊介「……」暫く経ってから、彼は悔しそうに歯ぎしりしながら言った。「てめぇ、そっちのほうが性根が腐ってやがる!」「私はただ私が使ったお金を返してもらっただけよ。そんなにひどいことしてないわ。あんたが当時、自分のお金で買った家と同じものにしてやっただけでしょ」俊介は怒りで力を込めて携帯を切ってしまった。そして、携帯を床に叩きつけようとしたが、莉奈がすぐにその携帯を奪いにいった。「これは私の携帯よ、壊さないでよね」「クッソ、ムカつくぜ!」俊介はひたすらその言葉を繰り返すだけで、成す術はなかった。唯月の言葉を借りて言えば、彼女はただ自分が内装に使ったお金を返してもらっただけだ。彼が買ったばかりの家はまだ内装工事が始まる前のものなのだから、誰を責めることができる?「俊介、これからどうするの?」莉奈も唯月は性根の腐った最低女だと思っていた。なるほど俊介が彼女を捨ててしまうわけだ。あんな毒女、今後一生お嫁には行けないだろう。莉奈は心の中で唯月を何万回も罵っていた。「こんな家、あなたと一緒に住めないわ」彼女は豪華な家に住みたいのだ。「私もマンションは大家さんに返しちゃったし、私たちこれからどこに住むの?」俊介はむしゃくしゃして自分の頭を掻きむしって、莉奈に言った。「ホテルに行こう。明日、部屋を探してとりあえずそこを借りるんだ。この家はまた内装工事をしよう。前は唯月の好みの内装だったことだしな。また内装工事するなら、俺らが好きなようにできるだろ。莉奈、君のところにはあといくらお金がある?」莉奈はすぐに返事をした。「
「ドタンッ」携帯が床に落ちた時、画面がひび割れてしまった。俊介は急いで屈んで携帯を拾い、携帯の画面が割れてしまったことなど気にする余裕もなく、再び部屋の中を照らして見渡してみた。莉奈も携帯を取り出して、フラッシュライトで彼と一緒に部屋の状況を確認するため照らしてみた。豪華な内装がないだけでなく、ただの鉄筋コンクリートの素建ての家屋にも負けている。「俊介、やっぱり私たち入る家を間違えてるんじゃないの?」莉奈はまだここは絶対に自分たちの家ではないと希望を持っていた。俊介は奥へと進みながら口を開いた。「そんなわけない。間違えて入ったんじゃない。それなら、この鍵じゃここは開かないはずだ。ここは俺の家だ。どうしてこんなことになってるんだ?うちの家電は?たったのこれだけしか残ってないのか?」俊介の顔がだんだんと暗い闇に染まっていった。彼は食卓の前に立った。このテーブルは彼がお金を出して買ったものだ。この時、頭の中であることが閃いた。俊介はようやく理解したのだ。唯月の仕業だ。「あのクッソ女ぁ!」彼はどういうことなのか思いつき、そう言葉を吐きだした。「あいつが俺の家をこんなにめちゃくちゃにしやがったんだ!」俊介がこの言葉を吐いた時、怒りが頂点に達していた。莉奈はすぐに口を開いた。「早く警察に通報してあの女を捕まえてもらいましょう。賠償請求するのよ。あなたの家をこんなふうにしてしまったんだから、どうしたって内装費用を要求しなくっちゃ」内装費?俊介は警察に通報しようと思っていたが、莉奈の言った内装費という言葉を聞いて、すぐにその考えを捨ててしまった。そして、警察に通報しようとしていたその手を止めた。「どうして通報しないの?まさかしたくないとでも?まだあの女に情があるから?」莉奈は彼が電話をかけたと思ったらすぐに切ってしまったのを見て、とても腹を立て、言葉も選ばず厳しく責めるような言い方をした。彼女は自分が借りていたあの部屋はもう契約を解消してしまったし、全てを片付けて彼と一緒にこの家に帰ってきたのだ。ここに着くまでは、豪華な部屋に住めると思っていて、家族のグループチャットにキラキラした自分を見せつけようと思っていたというのに。結果、目に入ってきたのは素建ての家屋にも遠く及ばない廃れ果てた家だったのだ
「私たちの家は何階にあるの?」「十六階だよ」俊介は莉奈のスーツケースを車から降ろし、それを引っ張って莉奈と一緒にマンションの中へと入っていった。エレベーターで、ある知り合いのご近所さんに出くわした。彼らはお互いに挨拶を交わし、そのご近所さんが言った。「佐々木さん、あなたの奥さん、午後たくさんの人を連れて来てお引っ越しだったんでしょ?どうしてまたここに戻ってきたんですか?」「彼女は自分の物を引っ越しで運んで行っただけですよ」相手は莉奈をちらりと見やり、どういう事情なのか理解したようだった。そして俊介に笑いかけて、そのまま去っていった。なるほど、この間佐々木さんが奥さんに包丁で街中を追い回されていたのは、つまり不倫していたからだったのか。夫婦二人はきっと離婚したのだろう。唯月が先に引っ越していって、俊介が後から綺麗な女性を連れて戻ってきたのだ。もし離婚していないなら、ここまで露骨なことはしないだろう。「さっきの人、何か知っているんじゃないの?」莉奈は不倫相手だから、なかなか堂々とできないものなのだ。俊介は片手でスーツケースを引き、もう片方の手を彼女の肩に回し彼女を引き寄せてエレベーターに入っていった。そして微笑んで言った。「今日の午後、俺が何しに行ったか忘れたのか?あの女と離婚したんだぞ。今はもう独身なんだ。君は正式な俺の彼女さ、あいつらが知ってもなんだって言うんだ?莉奈、俺たちはこれから正々堂々と一緒にいられる。赤の他人がどう言ったって気にすることはないさ」莉奈「……そうね、あなたは離婚したんだもの」彼女は今後一切、二度とこそこそとする必要はないのだ。エレベーターは彼ら二人を十六階へと運んでいった。「着いたよ」俊介は自分の家の玄関を指した。「あれだよ」莉奈は彼と一緒に歩いていった。俊介は預けてあった鍵をもらって、玄関の鍵を開けた。ドアを開くと部屋の中は真っ暗闇だった。彼は一瞬ポカンとしてしまった。以前なら、彼がいくら遅く帰ってきても、この家は遅く帰ってくる彼のためにポッと明りが灯っていたのだ。今、その明りには二度と火が灯ることはない。「とっても暗いわ、明りをつけて」莉奈は俊介と部屋の中へ入ると、俊介に電気をつけるように言った。俊介はいつものようにドアの後ろにあるスイッチ
賑やかだった午後は、暗くなってからいつもの静けさへと戻った。唯月は結婚当初、この家をとても大切に多くのお金を使って内装を仕上げた。それが今や、彼女が当時買った家電は全て持ち出してきてしまった。そして、新しく借りた部屋には置く場所がなかった。彼女は中からよく使うものだけ残し、他のものは妹の家にではなく、中古として売ることにした。それもまた過去との決別と言えるだろう。唯月が借りた部屋はまだ片付けが終わっていなかったので、料理を作るのはまだ無理で、彼女はみんなを連れてホテルで食事をすることにした。そして、その食事は彼女がまた自由な身に戻ったお祝いでもあった。唯月のほうが嬉しく過去と決別している頃、俊介のほうも忙しそうにしていた。夜九時に成瀬莉奈が借りているマンションへとやって来た。「莉奈、これだけなの?」俊介は莉奈がまとめた荷物はそんなに多くないと思い、彼女のほうへ行ってスーツケースを持ってあげて尋ねた。「もう片付けしたの?」「普段は一人暮らしだから、そんなに物は多くないのよ。全部片づけたわ。要らない物は全部捨てちゃったの」莉奈はお気に入りのかばんを手に持ち、それから寝る時に使うお気に入りの抱き枕を抱えて俊介と一緒に外に出た。「この部屋は契約を解消したわ」「もちろんそれでいいよ。俺の家のほうがここよりもずっと良いだろうし」「あの人はもう引っ越していったの?」莉奈は部屋の鍵をかけて、キーケースの中からその鍵だけ外し、下におりてから鍵をそこにいた人に手渡した。その人は大家の親戚なのだ。「もう大家さんには契約を解消すると伝えてあります。光熱費も支払いは済ませてありますから。おじさん、後は掃除だけです。部屋にまだ使える物がありますけど、それは置いたままにしています」つまり、その人に掃除に行って、彼女が要らなくなったまだ使える物を持っていってくれて構わないということだ。おじさんは鍵を受け取った後、彼の妻に掃除に行くよう言った。俊介はスーツケースを引いて莉奈と一緒に彼の車へと向かい、歩きながら言った。「暗くなる前に、あいつから連絡が来たんだ。もう引っ越したってさ」同時に唯月は彼女の銀行カードの口座番号も送っていた。今後、彼に陽の養育費をここに振り込んでもらうためだ。そして彼女は俊介のLINEと携帯番号を全て削
理仁は悟のことを好条件の揃った男じゃなかったら、彼女の親友に紹介するわけないと言っていた。確かに彼の話は信用できる。一方の悟は、来ても役に立てず、かなり残念だと思っていた。彼が明凛のほうを見た時、彼女はみんなが荷物を運ぶのを指揮していたが、悟が来たのに気づくと彼のもとへとやって来た。そして、とてもおおらかに挨拶をした。「九条さん、こんばんは」「牧野さん、こんばんは」悟は微笑んで、彼女に心配そうに尋ねた。「風邪は良くなりましたか?」「ええ。お気遣いありがとうございます」唯花はそっと理仁を引っ張ってその場を離れ、悟と明凛が二人きりで話せるように気を利かせた。そして、唯花はこっそりと夫を褒めた。「理仁さん、あなたのあの同僚さん、本当になかなかイイじゃない。彼も会社で管理職をしているの?あなた達がホテルから出て来た時、彼も一緒にいるのを見たのよ」「うん、あいつも管理職の一人だ。その中でも結構高い地位にいるから、みんな会社では恭しく彼に挨拶しているよ」そしてすぐに、彼は唯花の耳元で小声で言った。「悟は誰にも言うなって言ってたけど、俺たちは夫婦だから言っても問題ないだろう。彼は社長の側近なんだ。社長からかなり信頼されていて、会社の中では社長の次に地位の高い男だと言ってもいいぞ」唯花は目をパチパチさせた。「そんなにすごい人だったの?」理仁はいかにもそうだといった様子で頷いた。「彼は本当にすごいんだ。職場で悟の話題になったら、誰もが恐れ敬ってるぞ」唯花は再び悟に目を向けた。しかし、理仁は彼女の顔を自分のほうに向けさせ、素早く彼女の頬にキスをした。そして低い声で言った。「見なくていい、俺の方がカッコイイから」「彼って結城家の御曹司に最も近い人なんでしょ。だからよく見ておかなくちゃ。結城社長の身の回りの人がこんなにすごいんだったら、社長自身もきっとすごい人なんでしょうね。だから姫華も彼に夢中になって諦められなかったんだわ」理仁は姿勢を正して、落ち着いた声で言った。「悟みたいに優秀な男が心から補佐したいと思うような相手なんだから、結城社長はもちろん彼よりもすごいに決まってるさ」「お姉ちゃんのために佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれた人って、彼なんでしょう?」理仁「……」彼は九条悟が情報集めのプロだということを彼女
部屋の中から運び出せるものは全て運び出した後、そこに残っている佐々木俊介が買った物はあまり多くなかった。みんなはまた、せかせかと佐々木俊介が買った家電を部屋の入り口に置いて、それから内装の床や壁を剥がし始めた。電動ドリルの音や、壁を剥がす音、叩き壊す音が混ざりに混ざって大合唱していた。その音は上の階や階下の住人にかなり迷惑をかけるほどだった。唯月姉妹二人は申し訳ないと思って、急いで外に行ってフルーツを買い、上と下のお宅に配りに行き謝罪をし、暗くなる前には工事が終わることを伝えた。礼儀をもって姿勢を低くしてきた相手に対して誰も怒ることはないだろう。内海家の姉妹はそもそも上と下の住人とはよく知った仲で、フルーツを持って断りを入れに来たので、うるさいと思っても住人たちは暫くは我慢してくれた。家に子供がいる家庭はこの音に耐えられず、大人たちが子供を連れて散歩に出かけて行った。姉妹たちはまたたくさん食べ物を買ってきて、家の工事を請け負ってくれている人たちに配った。このような待遇を受けて、作業員たちはきびきびと作業を進めた。夕方になり、外せるものは全て外し、外せないものは全て壊し尽くした。「内海さん、出たごみはきれいに片付けますか?」ある人が唯月に尋ねた。唯月はぐるりと一度部屋を見渡して言った。「必要ありません。当初、内装工事を始めた時、かなりお金を使って綺麗に片付けてもらいましたから。これはあの人たちに自分で片付けてもらいます。私が当初、人にお願いして掃除してもらった時に払ったお金とこれでチャラになりますからね」唯花は部屋の中をしげしげと見て回った。壁の内装もきれいさっぱり剥がして、床もボロボロにした。全て壊し尽くしてしまった。姉が掃除する必要はないと言ったのだから、何もする必要はないだろう。これは佐々木俊介たちが自分で掃除すればいいのだ。「明凛、あなたの話を聞いてよかったわ。あなたの従兄に作業員を手配してもらって正解ね。プロの人たちだから、スピードが速いのはもちろん、仕上がりもとても満足いくものだわ」明凛は笑って言った。「彼らはこの道のプロだから、任せて間違いなかったわね」「彼らのお給料は従兄さんに全部計算してもらって、後から教えてちょうだい。お金をそっちに入金するから」明凛は頷いた。「もう従兄には言ってあ
「あ、あなたは、あの運転代行の方では?」唯花は七瀬に気づいて、とても意外そうな顔をした。七瀬は良い人そうにニカッと笑った。「旦那さんに名刺を渡して何かご用があれば声をおかけくださいと伝えてあったんです。仕事に見合うお給料がいただければ、私は何でもしますので」唯花は彼が運転代行をしていることを考え、代行運転の仕事も毎日あるわけじゃないから、アルバイトで他のことをやっているのだろうと思った。家でも暇を持て余して仕事をしていないのではないかと家族から疑われずに済むだろう。「お手数かけます」「いえいえ、お金をもらってやることですから」七瀬はそう言って、すぐに別の同僚と一緒にソファを持ち上げて運んでいった。明凛は何気なく彼女に尋ねた。「あの人、知り合い?」「うん、近所の人よ。何回か会ったことがあるの。普段は運転代行をしているらしくて、理仁さんが前二回酔って帰って来た時は彼が送ってくれたのよ。彼がアルバイトもしてるなんて知らなかったけどね。後で名刺でももらっておこう。今後何かお願いすることがあったら彼に連絡することにするわ。彼ってとても信頼できると思うから」陽のおもちゃを片付けていたおばあさんは、心の中で呟いていた。七瀬は理仁のボディーガードの一人だもの、もちろん信頼できる人間よ。人が多いと、作業があっという間に進んだ。みんなでせかせかと働いて、すぐに唯月がシールを貼った家電を外へと運び出した。唯月と陽の親子二人の荷物も外へと運び出した。「プルプルプル……」その時、唯花の携帯が鳴った。「理仁さん、今荷物を運び出しているところよ」唯花は夫がこの場に来て手伝えないが、すごく気にかけてくれていることを知っていて、電話に出てすぐ進捗状況を報告したのだった。理仁は落ち着いた声で言った。「何台かの荷台トラックを手配したんだ。きっともうすぐマンションの前に到着するはずだよ。唯花さんの電話番号を運転手に伝えておいたから、後で彼らに会って、引っ越し荷物を義姉さんの新しいマンションまで運んでもらってくれ。もし義姉さんのマンションに置く場所がなければ、とりあえずうちに荷物を置いておいていいから」彼らの家はとても広いし、物もそんなに多くないのだ。「うん、わかったわ。理仁さん、本当にいろいろ気を配ってくれるのね。私たちったら