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第9話

Auteur: 沙和
飛行機が離陸する直前、美鈴はスマホから銀司と杏の連絡先をすべて削除した。

電源を切り、窓の外を見やった。

一方、病室のベッドで銀司は一日中待ち続けていた。

ドアの向こうに期待した足音は聞こえてこない。

ラインの画面には冷たい「送信エラー」の表示が繰り返され、電話は何度かけても出なかった。

彼の表情はますます険しくなり、周囲の空気も重くなっていった。

まさか、これは美鈴のプレゼントだか?

そう自分に言い聞かせようとしたその時、軽やかなヒールの音が廊下に響いた。

「美鈴、やっと……」

言葉が喉につかえた。ドアを開けて入ってきたのは杏だった。

「杏か……美鈴は?」

杏の笑顔が一瞬こわばり、すぐに作り笑いに戻った。

「あ、橋本さんは見かけませんでした……私じゃダメですか?せっかく作ってきたスープなんですけど……」

保温ジャーからはチキンスープの香りが漂ってきた。

銀司は思わず顔をしかめた。

「いや……来ないならそれでいい。

ただ、言っておくが、俺は鶏肉もそのスープも食べない」

その冷たい声に、杏の顔が青ざめた。

「えっ……ごめんなさい。知りませんでした」

慌ててジャーを廊下に置き、澄んだ瞳で謝った。

銀司は彼女の顔をじっと見つめた。

鼻先にまとわりつく鶏の臭いが気になった。

「君は鶏肉が好きなのか?」

急に距離を感じる質問。

杏は戸惑った。

「は、はい……?」

そして、その日記にそんなこと書いてあっただろうかと思った。

銀司の目から光が消えていった。

「違う……お前じゃない」

彼は小声でつぶやいた。

杏は内心焦った。

日記のどこにも竹内葵(たけうち あおい)が鶏肉嫌いだなんて書いてなかったはず!

それでも、必死に涙を浮かべ、写真で見た葵の表情を真似て、涙をこらえるように聞いた。

「銀司さん、どういう意味ですか?私、誰かの代わりなんですか?」

「違う」

即答したが、失望は深まるばかり。頭を振り、目を閉じた。

「帰ってくれ。疲れた」

杏はまだ何か言おうとしたが、その冷たい視線に言葉を飲み込んだ。

「じゃ、じゃあ……お休みなさい」

時計の針は深夜を指していた。美鈴は結局現れなかった。

銀司はなぜか、今すぐ彼女に会いたいと思った。

その温もりに触れたい、慰めを得たいという衝動に駆られた。

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    美鈴は目を閉じ、ふと葵のことを思い出していた。償いなんて、本当に意味があるのだろうか?もうこの世にいない少女。その代わりに杏を寵愛しても、何の意味もない。杏は葵ではないのだから。今になってようやく理解した。銀司は確かに愛してくれたのだ。だが、そんなことはもうどうでもよかった。伝わらない愛など、愛とは言えない。胸の奥からは、喜びの感情が一切湧いてこない。七年もの歳月を共に過ごしたのに。彼の無口な性格は十分知っていたはずなのに。それでも、一言の「愛してる」さえ惜しんだ彼の態度に、どんな熱も冷めていく。ましてや、比較する相手が現れてしまった。銀司が杏を優しく扱う姿を見た時、初めて悟った――彼にもこんな風に人を愛することができるんだ。けれど、一度もそんな風に接してくれなかった。今更、彼が杏を愛していたかどうかなんて、どうでもいい。もう、心は傷だらけだった。長い沈黙の後、美鈴は静かに彼を押しのけた。「銀司、もう終わりよ。杏のことじゃないの。あなたは私を愛していたかもしれない。でも、私はそれを感じられなかった。だから手を放したの。二度と戻らない」悟り切ったような声でそう告げると、自然に藤正の手を握り、彼の胸に寄り添った。それだけで、銀司との距離は決定的に遠のいていく。「ずっと同じ場所で待ち続けてくれる人なんていないわ。私だってそう。もう長く待たせすぎた人を、これ以上待たせたくない。新しい人生を始めなさい。私はもう銀司を選ばない」きっぱりと言い切ると、美鈴はしっかりと藤正を見つめた。その温かい眼差しに、不安げだった彼の表情がほぐれていく。そして、ゆっくりと目を閉じ、彼の唇の端に優しいキスを落とした。教会は一瞬、また水を打ったように静まり返り、聞こえるのは二人の鼓動だけだった。トクン、トクン。「藤正の妻になれて……本当に嬉しい」美鈴の微笑みには、偽りのない輝きがあった。藤正の心臓は高鳴りを止められなかった。慌てて言葉を紡ごうとするが、興奮のあまり言葉が続かなかった。「俺……俺こそ……美鈴と結婚できて……」そのわずか数歩先で、銀司は拳を握り締めていた。力任せに握った指輪が掌に食い込み、傷口から血が滴り落ちるていた。高価なダイヤモンドは

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    銀司は黒いベルベットの指輪ケースを握りしめていた。中には揃いの結婚指輪――鳩の卵ほどの大きさのダイヤがきらめき、目を奪う輝きを放っている。彼は周囲の好奇の視線も神父の困惑も無視するように、美鈴へとまっすぐ歩み寄った。足取りは固く、迷いがなかった。すると、オーケストラが止まった。神父も呆然としてしまった。教会は水を打ったように静まり返った。挙式の最中に、もう一人の新郎が現れるなんて――誰もが息を飲んだ。「銀司?」美鈴は瞬きを忘れた。もう杏に場所を譲ったはずなのに。なのに、なぜ今?それもまさかの結婚式に?反射的に藤正の前に立ちはだかり、眉をひそめて言い放った。「何の用?今日は私たちの結婚式よ。邪魔しないで」「結婚式?」銀司は唇を歪めて笑った。「俺が別れを承知した覚えはない。お前たちの結婚なんて、さらに認めない。杏の件は説明する。だからまず……俺と来てくれ」不敵な笑みを浮かべながら、彼は美鈴の手首を強く掴んだ。その顔には狂気じみた表情が浮かんでいた。「放して!」美鈴は激しく手を振り払い、顔を背けた。「もういいの。あなたを愛してないって、わからないの?もう終わったんだよ。子供みたいなわがままで式を台無しにしないで」「わがまま……?」銀司の目が一瞬、揺れた。必死の思いが、彼女にはただの「わがまま」に見えるのか。「違うんだ」声が震えた。「美鈴、まだ終わってない。俺たちは……」銀司の目は真っ赤になり、冷たい顔に崩れそうな笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼は美鈴の頬を強引に掴み、唇を奪おうとした――ドン!鈍い音が教会に響いた。藤正の拳が銀司の頬骨に直撃した。その一撃で銀司の体はのけぞり、頬はすぐに腫れ上がり、口角から血が滲んだ。「ふざけるな!美鈴がもう入籍した。式も終わりに近いんだ。俺の妻に何をするつもりだ!諦めろ」藤正はそう言い、もう一発殴ろうと追いかけた。しかし銀司はわざと傷ついた腕でその拳を受け止めた。血が腕を伝って流れ、見るも痛々しい赤だった。だが彼は少しも気にせず、むしろ唇をゆがめて笑った。「痛いな、美鈴」わざと傷ついた腕を見せつけるように袖をまくり、赤黒い血を滴らせた。地面に落ちた血のしずくが、教会の床を汚した。

  • ピアノは響けど、君の姿はもういない   第20話

    美鈴の心は大きく揺さぶられた。銀司を追いかけていたあの頃、こんなにも密かに想いを寄せてくれていた人がいたなんて。「でも……藤正と銀司って親友じゃなかったの?どうして私なんかを……」まだ不安が消えない様子だった。「ああ、あれはね。昔の話だ。今日からはもう親友じゃない」藤正はあっさりと言い放った。「あいつが君の告白を受け入れた日、実は俺も大がかりな告白の準備をしてたんだ。ただ……ほんの少しだけ遅れた。もしかしたら、あいつは俺の計画を察知して、先回りしたのかもしれないな」その声には、かすかな悔しさが滲んでいた。もっと早く気持ちを伝えていれば。もっと早く出会えていればと。長い沈黙の後、彼はそっと彼女の手を取り、指を絡ませながら続けた。「君たちが付き合い始めてから、俺は海外に飛んだ。この国にいたら、きっと君に告白してしまうと思ったから。三年前の雨の夜、我慢できなくて……君に会いに戻ってきたんだ。実は、あの夜、銀司の電話が繋がってたんだ。俺が会社に引き止めさせて、君に連絡できないようにした。全ては君に会うための計画だった。美鈴、この告白は随分遅くなったけど、どうか聞いてほしい。君を愛してる」一つ一つの言葉が美鈴の胸を強く打ち、彼女は完全に動揺した。信じられないという表情で、思考が停止しそうだった。鼓動は早くなり、頬は火照り、まつげがぱたぱたと震えた。「ふふっ」藤正は優しく笑い、彼女の動揺を温かく見守った。そして、いつものように静かに答えを待った。その時、扉を叩く音がした。「新郎新婦様、入場のお時間です」係の女性が明るく告げた。「美鈴、この扉を開けたら、もう後悔する余地がない。それでも……続ける?」藤正は目尻を下げて笑いながら、大きくて温かい掌を美鈴の前に差し出した。迷いはなかった。美鈴は即座に自分の手をその中に預けた。「後悔なんてしないわ」その温もりは、彼女に無限の勇気を与えている。扉が開くと、目の前には花の絨毯が広がり、教会のステンドグラスから神々しい光が降り注いでいた。白衣を着ている神父が立ち、その合図で白い鳩が舞い上がり、優雅なオーケストラの調べが響き渡った。式が始まった。二人はしっかりと手を繋ぎ、祝福の視線を浴びながら祭壇へと進んだ。

  • ピアノは響けど、君の姿はもういない   第19話

    鏡の前で、美鈴は緊張しながらドレスの裾を整えていた。何層にも重なったスカートには無数の真珠とダイヤモンドが散りばめられ、まるで星空をまとっているようだった。精巧な文様が施されたドレスは、彼女の美しいプロポーションを引き立てていた。鏡に映る彼女の肌は雪のように白く、以前の目の下のクマはすっかり消え、健康的なピンク色に染まっていた。薄化粧なのに、息をのむほどの美しさだった。陽光が降り注ぐと、天女のように輝いて見えた。「このウェディングドレス、私に似合ってる?」美鈴はスカートの裾をそっと持ち上げながら、唇を噛んで尋ねた。藤正は彼女の姿を見つめ、一瞬言葉を失った。手の動きが止まり、息さえも忘れるほどだった。「美しい。世界一美しい花嫁だ」思わず本音がこぼれた。「褒めすぎよ」藤正の熱い視線に頬を染め、美鈴は慌てて鏡の中の自分に目を戻した。銀司と一緒だった七年間、何度も結婚の話をほのめかしたことがあった。だが彼はいつも黙り込むだけだった。一生ウェディングドレスを着ることはないと思っていたのに、まさかこんな日が本当に来てくれたとは。最初は形だけの結婚だと思っていたのに、今はなぜか本気のような気がしてきた。「藤正、もうすぐ式が始まるけど……後悔してない?私の恩着せがましい要求に応じて」なぜか、彼女は答えが怖くなり、目を伏せて軽く笑ってみせた。「やはり式を中止しよう……」「後悔なんてしない!」美鈴の言葉を遮って、藤正はきっぱりと言った。「美鈴に頼まれた時から、これは俺の本心だ。他の人に同じことを求められたら、金で済ませるだけだ。俺はバカじゃないし、無駄に親切でもない。美鈴だけだ。美鈴だからこそ、応じたんだ」深い眼差しで彼女を見つめる藤正の目には、計り知れない愛が宿っていた。美鈴は照れくさそうにうつむいた。たった一度の偶然の救命が、どうしてここまでの愛情を生むのか理解できなかった。藤正は彼女の心の不安を理解していた。ずっと与えるばかりで、銀司から愛を感じられなかった彼女が、自信を持てないのも当然だった。だが、彼は行動で示すつもりだった。銀司とは違うことを。藤正は美鈴の手を取り、自分のスマホにパスコードを入力した。彼女の誕生日だった。その事実に、美鈴の胸が高鳴

  • ピアノは響けど、君の姿はもういない   第18話

    その写真は完璧なタイミングで撮られていた。二人の微妙な表情は、初恋のような淡い恋心を思わせるものだった。この一枚が流出した瞬間、銀司の「妹同然」という主張は木っ端微塵に打ち砕かれた。彼は写真を睨みつけ、消し去りたい衝動に駆られた。長い沈黙の後、父親に電話をかけた。「お父さん、竹内家の力を借りたい。厄介者を片付けたい」電話の向こうは無言で、ただ「ああ」と応じるだけだった。一夜明けると、杏のSNSアカウントは永久凍結されていた。彼女に関連するコンテンツは次々と削除され、トレンド入りしていた話題もあっという間に消え去った。新しいニュースが注目を集め、人々の関心はすぐに別の話題へ移っていった。少し静かになったコメント欄を見て、銀司はほっと胸を撫で下ろした。今急ぐべきはA国行きのフライトだ。病院を出たばかりの彼は身なりをさっと整えると、すぐに空港へ向かった。疲労でまぶたが重かったが、無理やり目を見開き、険しい表情で結婚招待状を睨みつけた。空港に着いた時、ようやく藤正が電話に出た。「銀司、俺たちの結婚式に来てくれるんだ?祝福してくれるよな」藤正の声は軽やかで、心底楽しんでいるのが伝わってきた。だが銀司は歯を食いしばって言った。「建部、正気か?俺たち家族みたいだろう。美鈴は俺の女だ!彼女は俺を愛してる。お前との結婚なんて、ただの当てつけに過ぎない。全て説明すれば、きっと許してくれる。七年も一緒にいたんだ。俺は今すぐ誤解は解ける。結婚式を中止しろ。今A国に向かって、彼女を連れ戻すところだ」そう言いながらも、内心では確信が持てなかった。ただ、藤正が自信を失い、諦めてくれることを願っただけだ。しかし藤正は軽く笑っただけだった。「お前少し自信過剰じゃないか?これまで俺たちが親友だったなら、今日でその関係は終わりだ」彼は結婚行進曲を口ずさみながら、あからさまに銀司を嘲笑った。「美鈴はもうお前を愛していない。心から俺と結婚したいんだ。式は予定通りだ。来たければ、俺たちの幸せを見届けてくれ」その軽い一言が銀司の心を貫き、彼を打ちのめした。「美鈴はもうお前を愛していない……」この言葉が頭の中で反響し、狂いそうになった。スマホを握りしめる手に力が入り、今すぐ太平洋を越えて美鈴

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