この言葉を聞いた瞬間、緒莉は雷に打たれたかのように呆然とした。母の言いたいことが分からないはずがない。明らかに、美月の心の中にはすでに疑念が芽生えていた。さっき皆が話していた内容。あれを、母は多少なりとも信じたのだ。そうでなければ、こんな冷たい対応をするはずがない。「いや......いやよ、お母さん、休みたくない......私は、私はただ、お母さんのそばにいたいだけなの......」美月はそんな緒莉の涙に濡れた顔を一瞥することもなく、背を向けた。紗雪はこの茶番劇を冷笑しながら見ていた。母が緒莉に処分を下したように見えるけど、実のところ、あれもまた庇いだ。本気で公平な処理をするなら、徹底的に調査されていたはずだ。こんな中途半端な形で終わらせるなんて、結局はうやむやにしたいだけじゃないか。この母の態度に、紗雪の心はじんわりと冷えていく。ここまで来てもなお、緒莉を庇おうとするその姿に、ふと疑問が浮かんだ。彼女だって、美月の娘じゃない。緒莉の泣き声がロビーから完全に聞こえなくなった頃、美月はようやく振り返った。彼女は紗雪の冷ややかな視線と真正面からぶつかり、一瞬だけ、珍しく気まずそうな顔を見せた。美月はその目が訴える意味を理解していた。だが、家の体裁と二川家の面子を保つためには、こうするしかなかった。まさか皆の前で、二川家の恥を晒すわけにはいかないのだ。美月は視線を逸らし、辰琉の方を向いて冷たく言い放った。「あなたも緒莉のそばについていてあげて。あの子、身体が弱いのよ」「はい、すぐに行きます」辰琉は何の疑問も抱かず、素直に従った。つい先ほどのやり取り、彼には全て見えていた。結局、勝ったのは自分の緒莉だ。そうでなければ、美月が自分をあの子のもとに行かせるはずがない。去り際、辰琉は挑発するように紗雪を一瞥した。その一瞥には、明確な意味が込められていた。大した女だと思ってたけど、母親に全然可愛がられてないんだな。紗雪は彼の意図を察し、黙って拳を握り締めた。やっぱりこの男、ただの偽善者だ。その時、紗雪の拳を、京弥がそっと包み込んだ。優しく撫でるように、彼は耳元で囁く。「大丈夫。俺がいるから」その一言に、紗雪の胸に渦巻いていた鬱屈が、少しだけ晴れ
京弥がグラスの酒を飲み干した瞬間、紗雪の熱い視線に気づいた。その視線の意味を、彼は一瞬で理解してしまった。男はそっと手を伸ばし、紗雪の腰を抱き寄せた。二人の身体が密着し、互いの呼吸がすぐ傍で絡み合う。紗雪は彼の端正な顔を見つめながら、思わずごくりと唾を飲み込んだ。酔ってしまったせいか、どうにもこの男への欲望が抑えきれない。「さっちゃんは......」男が何かを言いかけた瞬間、紗雪は慌てて視線を逸らした。「なんでもない。ちょっと酔っちゃって......頭がぼーっとしてるだけ」今がどこか、彼女はまだ忘れていなかった。ここは外、まだパーティーの最中だ。京弥は紗雪の羞恥を見抜いていた。その赤く染まった耳の根っこ、酒のせいじゃない。本人は気づいていないかもしれないが、彼女が恥ずかしいと感じる時、いつも耳の裏がほんのり染まる。その癖を、京弥は付き合い始めてすぐに気づいていた。「じゃあ......帰ろっか?」紗雪は反射的に美月のほうへ目を向けた。母はまだ客人たちと愛想笑いを交わしている。彼女は目を伏せ、心の中に言いようのない感情が湧き上がる。母はまた緒莉を選んだ。同じ娘なのに、どうしてこんなにも差があるんだろう......紗雪は深く息を吸い込み、我慢できずに酒をもう一杯あおった。そして顔を上げて京弥を見つめる。「......帰ろう」ここにいても、もう意味なんてない。どうせ母の処罰なんて、ただの見せかけだ。京弥は紗雪の視線を辿り、美月が経営者たちと笑顔で話す姿を見た。そして目の前で強がっているさっちゃんを見つめて、胸が締め付けられるような思いがした。彼はそのまま紗雪の腰に手を回し、彼女を抱き上げた。美月の前を通り過ぎる時、彼は一言、礼を言った。「お義母さん、さっちゃんが酔ってしまったので、先に帰ります」美月は京弥の腕に寄りかかる紗雪を見て、複雑な表情を浮かべた。口をつぐみかけて、結局ひと言だけ絞り出した。「......道中、気をつけてね」それ以上、何も言葉はなかった。京弥の腕に抱かれた紗雪の瞳には、隠しきれない失望の色が滲んでいた。自分は、一体何を期待していたのだろう......美月は二人の背中を見送りながら、しばらくその場で動けなかっ
京弥は、目の前の小さく繊細な耳たぶを見つめながら、とうとう内に秘めた欲望を抑えきれなくなった。男はそのまま身を屈め、耳たぶを口に含み、何度も舌を這わせては弄ぶ......彼の大きな手が紗雪の背中を優しくなぞり、背の高い身体が彼女に覆いかぶさっていく。紗雪の口から、壊れそうなほどの喘ぎ声がこぼれ落ちたが、それも京弥の唇で塞がれ、やがて深く、絡み合っていった。男と女の営みは、やはり一度踏み込めば簡単には抜け出せないほど中毒性がある。こうして二人は、自然の流れのまま結ばれた。翌朝。紗雪の体には痛みが残っていた。特に腰の両脇がひどく張っていて、じんじんと鈍く痛む。隣を見ても、そこに京弥の姿はなかった。紗雪は思わずぼそりと呟いた。「......獣みたい」終わったら服を着てさっさと出ていくなんて、ひとことくらい声かけて行けっての。何か急用でもあったのか。ベッドを下りて着替えようとしたが、足元がふらついて、立つのがやっとだった。膝の青紫色の痕を見て、目の前が一瞬真っ暗になる。やっぱり男って、そういう時は全然容赦ないのね。歯を食いしばりながら、クローゼットから適当な服を引っ張り出して着替える。洗面所で身支度していると、朝方ぼんやりした意識の中で、京弥が「空港に人を迎えに行く」と言っていた気がする。誰を迎えに行ったんだっけ......全然覚えてないや。まあいいや。紗雪が朝食を食べていると、美月からメッセージが届いた。【紗雪、空港まで客を迎えに行ってくれる?塩ヶ城から戻ってきたばかりの方なの。とても重要なお客様だから、丁寧にもてなしてちょうだい。詳しい資料は送っておいたわ。】メッセージを読み終えたとき、ちょうど最後の一口のパンを食べ終えたところだった。紗雪は小さくため息をつく。まったく、まだ出勤もしてないのに、もう仕事開始ってわけね。感慨に浸る暇もなく、時間を確認すると、出発まであと一時間しかなかった。慌てて軽くメイクを済ませ、車を飛ばして空港へ向かう。母親から送られてきた資料に目を通しながら、口の中で呟く。「神垣日向(かみがきひなた)......いい名前じゃない」スマホの画面には、淡い金髪のショートカットの男。自由奔放で、どこか無邪気そうな笑顔が画面いっぱいに広がっ
日向は紗雪の異変に気づき、彼女の視線をたどってそちらを見やった。すると、蝶のように軽やかな少女が、背の高い男の胸元に飛び込んでいくのが見えた。「京弥兄!やっぱり来てくれたのね!」少女はそう叫びながら、嬉しさを隠すことなく京弥の胸に飛び込む。人混みの中、二人はまるで周囲など存在しないかのようにしっかりと抱き合っていた。まるで映画のワンシーンのような、美しく感動的な光景だった。紗雪の腕がゆっくりと身体の横で握られる。無意識のうちに唇を噛み締めていた。あの二人。抱き合っているのは、自分の夫と見知らぬ女性だった。何とも言えない気持ちだった。あれが、京弥の「初恋」なのか?確かに、初恋の名に相応しい。透き通るように純粋で美しく、まるで世間知らずなお姫様のようだった。そして何よりも、京弥の眼差しに宿る優しさ。あれほど柔らかく笑う彼を、紗雪はあまり見たことがなかった。いつも冷静で、近寄りがたい雰囲気をまとっている彼が、あの少女に向ける笑顔は、どこか違っていた。紗雪は深く息を吸い込む。ただの契約結婚だって、自分に何度も言い聞かせてきた。いつかこういう日が来ると、わかっていたはずなのに......それでも、心の奥底に妙な空虚感が広がっていた。「二川さん、大丈夫ですか?」日向の心配そうな声が耳元に響く。彼は、紗雪があの二人を見て感動しているのだと勘違いし、続けて言った。「素敵ですね、あんな恋愛。空港で再会して抱き合うなんて、美男美女でお似合いですよ」紗雪の胸に湧いた妙な感情は、ますます大きくなるばかりだった。なんとなく相槌を打つ。「そうですね」「行きましょうか。もう時間も遅いですし。移動で疲れたでしょうから、食事にご案内します」紗雪は日向と共に空港を後にした。彼女が先を歩き、彼がその後をついていく。一方。京弥は八木沢伊澄(やぎさわいずみ)を抱きしめたまま、ふと紗雪の方を見やった。彼女の後ろ姿が目に入ると、反射的に一歩踏み出しそうになる。だが、腕の中の伊澄がそれを許さなかった。唇をすぼめ、不満げに言う。「京弥兄、どこに行くの?私、飛行機ずっと乗っててお腹ぺこぺこだよ。まだ何も食べてないの」「ねえねえ、国内の美味しいもの食べたいな。海外の食事は全然美
右手で時折スマホを開き、紗雪からのメッセージが届いていないか確認していた。後ろから、伊澄が不満げに言った。「京弥兄、そんなに早く歩かないでよ、追いつけないよ!」その声を聞いても、京弥は未読のメッセージを見つめて、少し苛立ちを覚えていた。だが振り返って伊澄と目が合うと、顔にはいつもの柔らかな笑みを浮かべて応えた。「ごめん」二人が車に乗り込むまで、紗雪からの返信はついに来なかった。京弥は運転席に座りながらも、どうにも心が落ち着かなかった。もしかして紗雪はさっきの光景を見て、誤解したのではないか?そんな思いが頭から離れなかった。一方の紗雪も、日向と食事をしながら、まるで上の空だった。頭の中はずっと、さっき見た京弥とあの「初恋」のことばかり。ちょうど食事時だったので、二人は簡単に食事を済ませた。そんな中、日向が何かを思い出したように、何気なく尋ねてきた。「二川さん、さっき空港にいたあの人、知り合いですか?」「カラン」という音がして、紗雪の手からスプーンが器の中に落ちた。目を見開き、少し慌てた様子で紙ナプキンを探そうとしたところ、日向がすぐに一枚差し出してくれた。「どうして急にそんなことを?」紙ナプキンを受け取り「ありがとう」と言ってから、紗雪は思わず問い返した。日向はくすっと笑いながら言った。「二川さん、今日の道中ずっと心ここにあらずって感じでしたよ」「僕もバカじゃないから、さすがに気付きます」紗雪は頭の中で振り返ってみて、確かにそうだったと気づき、少し気まずそうに笑った。「すみません、失礼しちゃいましたね」日向はただにこやかに言った。「気にしないでください、二川さん。何事も人次第ですしね。それに、この店のスープ、本当に美味しいですね。二川さんが選んでくれたお店、気に入りました」「次は妹を連れて来たいです」その言葉を聞いて、紗雪は会話を広げた。「妹さんがいらっしゃるんですか」「はい、神垣千桜(かみがきちはる)って言います」「妹」という言葉を口にしたときの日向の瞳には、紗雪には理解できない哀しみが宿っていた。だが紗雪は空気を読んで、それ以上は聞かなかった。誰にでも秘密や、人に言いたくないことの一つや二つあるものだ。わざわざ掘り返す必要なんてない。
紗雪は実は京弥からのメッセージを見ていた。ただ、どう返信すればいいのか分からなかった。彼と初恋のことなんて、自分には関係ない。よくよく考えてみれば、京弥がわざわざ自分にあのメッセージを送ってくる必要なんて、最初からなかったのだ。所詮表向きの夫婦にすぎないのに、何をそんなに真剣になっているのか。京弥が帰ってきたのは、ちょうど紗雪がキッチンで水を飲んでいたときだった。水を注ぎ終えた瞬間、玄関の方から物音が聞こえてきた。紗雪のまなざしがわずかに揺れる。それが京弥であることは、すぐに察しがついた。彼女はコップの水を一気に飲み干すと、そのまま洗面所に向かおうとした。だが、振り返った瞬間、彼女はキッチンの出口を塞がれてしまう。大柄な男の身体がそこに立っているだけで、通路を完全に塞いでいた。彼がどかない限り、紗雪はキッチンから出られない。仕方なく立ち止まり、紗雪は諦めたように口を開いた。「どいて。歯を磨きたい」京弥はそんな彼女を見つめながら、内心でははっきりと確信していた。今日、空港で見たのは、間違いなく紗雪だった。「なんで、返信しなかった?」彼は話題を変えて、静かにそう問いかける。午後から今まで、スマホを見なかったなんてあり得ない。唯一の理由は、紗雪が返信する気がなかったということだ。紗雪は彼の視線を避け、答える気もない様子だった。「電池切れてただけよ」彼女は視線を落とし、平然とした口調で言った。「もう遅いし、どいて。休みたいの」京弥は彼女の表情をじっと見つめ、その顔から少しでも嫉妬や怒りの気配を探ろうとした。だが、なかった。逆に、彼女はあまりにも冷静だった。その事実が、京弥の心に妙な不安を生じさせる。彼は奥歯を強く噛みしめる。「今日、空港にいたのか?」紗雪の目が一瞬揺れたが、すぐにふっと笑った。「どういう意味?」「何を見た」彼女はしっかりと彼を見据えた。「私はただ客の出迎えに行っただけよ。むしろあなたが何をしたかじゃない?」この言葉を口にした瞬間、紗雪は自分の舌を噛み切りたい衝動に駆られた。まるで嫉妬深い妻みたいじゃないか。でも実際のところ、京弥がそんなことを言い出すなんて、滑稽としか思えなかった。京弥は一歩ずつ彼女に近づきながら、ま
京弥が寝室に入るとき、ベッドに紗雪の姿がないことに気づいた。家中を一通り探し、最終的に客間で紗雪を見つけた。今日の紗雪は完全に腹をくくっていて、もう京弥と同じベッドで寝るつもりはなかった。初恋の存在がある以上、この結婚関係だってもっと線引きをすべきだと感じていた。昼間のあの光景を思い出すだけで、紗雪は京弥を見るたびに心がざわつく。とくに、あの手が他の女に触れていたことを思うと、なおさら。京弥は客間にいる紗雪を見つめた。何か言おうと唇を動かしかけたが、結局、何も言えずに終わった。拳を握りしめる。どうしようもない無力感が、心の奥からじわじわと湧き上がってくる。つい昨日まで同じベッドで体を重ねていたはずなのに、今日は別々の部屋で眠る。ただ一枚の壁を隔てているだけなのに、お互いの心はまったく違う場所にあるようだった。翌朝。紗雪は早くに目を覚ました。身支度を済ませると、京弥に声をかけることもなく会社へ向かった。普段なら京弥の用意した朝食を食べるところだが、今日はその気になれなかった。会社に到着すると、社員たちの態度が一変していた。誰もが敬意を込めて彼女を「会長」と呼ぶ。この瞬間、紗雪の立場は完全に変わったのだ。彼女は皆に軽く会釈しながら挨拶した。「そんなにかしこまらなくてもいいよ。今まで通りでお願い」「私は皆さんと同じで、会社のことを第一に考えているから」拍手があちこちから起こる。そのとき、紗雪は隅の方にいる円を見つけた。何か言いたげな顔をしながらも、遠慮して口を開けない様子だった。紗雪は眉を少し上げて、円に手招きする。「どうしたの?なんか言いたいことがあるような顔してるけど」円は少し恥ずかしそうに言った。「もう私たちの立場が違う気がして......」「それに、今は会長であり次女様でもあるし、きちんと礼儀をわきまえないとって」その言葉に、紗雪は胸の奥に小さな痛みを感じた。彼女は真剣な表情で円に向き直った。「円、そんなふうに自分を卑下しないで」「私の中の円は、いつも笑顔で明るくて前向きな女の子だった。ずっとあなたのことを友達だと思ってたよ。円は、私のことを友達だと思ってくれないの?」「そんなことないよ!」円は慌てて否定した。「私もずっと
紗雪は少し考え込んでから、真剣な口調で言った。「いい人でしたよ。とても親切で。ただ......妹さんがいるみたいで、その子の事情が少し特殊で......」特殊という言葉を選んだのは、今の段階では詳しい事情が分からないからだった。紗雪自身、日向の妹にまだ会ったことがない。美月は少し黙考してから頷いた。「そう。じゃあ彼の家庭のことも含めて、もう少し詳しく調べておいて。神垣は信頼できるパートナーになり得るわ」「分かりました」そう言って、紗雪は会長室をあとにした。自分のオフィスに戻ったばかりのところで、日向からメッセージが届いた。「この前君が薦めてくれた料理、妹に食べさせてみましたよ。あんなに食べる姿、初めて見ました」そのメッセージを見た紗雪の瞳に、ふっと優しい笑みが浮かぶ。彼女はすぐに返信を送った。「気に入ってくれてよかったです。子どもが楽しめる場所、他にもたくさん知ってますから、よかったら一緒にどうです?」するとすぐに返事が返ってくる。「それはありがたいです。今日の午後なら空いてますが、二川さんは?」紗雪は午後のスケジュールをざっと確認した。特に急ぎの用事はなかったので、日向の誘いに応じることにした。ちょうどよかった。仕事の件でも相談したいことがあったからだ。最近、二川グループではあるプロジェクトのデザイン案を修正する必要があり、日向の意見を聞いてみたかった。待ち合わせの場所に着いた紗雪は、そこで初めて日向が一人ではないことに気づいた。彼の隣には、ツインテールにした小さな女の子がいた。年齢は五〜六歳くらいだろうか。まるで人形のように愛らしく、大きな瞳はブドウのようにきらきらしていて、見る人の心を一瞬でとろけさせてしまいそうなほどだった。だが、紗雪の目がふと鋭くなる。違和感に気づいたからだ。「神垣さん、この子が......妹さん?」軽く挨拶をしながら尋ねる。日向は妹の頭をそっと撫でながら、どこか切なげな笑みを浮かべた。その目には、明らかに深い愛情と、隠しきれない哀しみが滲んでいた。やっぱり、見間違いじゃなかった。「二川さん、僕たち、そんなに歳も離れていませんし、今後は何度も会うことになりますから、気軽に『神垣』って呼んでくださいよ。あと、敬語も」彼の言葉
そんなことを言われたところで、ただ自分がどれだけ愚かだったかを思い知らされるだけだった。だが、加津也は全くお構いなしに、自分の思い出話を続けた。「懐かしいと思わないか?俺は今でも覚えてるよ。君が初めて顔を赤らめたときのこと。白いワンピースを着て可愛らしく笑った姿。俺のそばでおとなしくしてたあの優しい君......あの頃は、本当に幸せだったよな......」そう言いながら、彼は紗雪の表情をじっと伺っていた。けれど、紗雪の内心には嫌悪感しか湧かなかった。この人の口からそんな言葉を聞くだけで、気持ち悪くてたまらない。加津也の言葉が続けば続くほど、紗雪の顔には明らかに苛立ちが浮かんでいった。彼女はスマホを手に取り、タクシーを呼ぼうとした。これ以上ここにいても、こいつと同じ頭が悪くなるだけだ。加津也はその動きに気づき、ようやく紗雪が自分の話を最初から聞いていなかったことを悟った。その瞬間、彼は自分がバカにされてると感じた。自分だって、こんなに尽くしてきたのに......どうして紗雪は、あんなにも非情なんだ。目の奥に陰りを宿しながら、加津也はゆっくりと紗雪に歩み寄った。「こんなに話してるのに、なぜ無視するんだ」「一言くらい返してくれてもいいだろ?なんで、チャンスをくれないんだよ......」「そんな態度取るなら......俺、自分を抑える自信がない。そうなったら、何するか分からないぞ?」その言葉に、ようやく紗雪の目が冷たく光った。彼女は冷笑しながら二歩後ろへ下がり、彼との距離を大きく取った。「いいわ。その言葉、確かに聞き届けたよ」「今の、全部録音してあるから。これ以上つきまとうなら、お互いにとって損しかしない」加津也は一瞬、目に光を取り戻し、疑わしげに聞いた。「録音した?」紗雪は彼が信じていないのを見て、ためらうことなく行動に移した。その場で録音データを初芽に送信し、さらに迷わず警察に通報した。そして、二川グループのオフィスに戻ると、すぐに警備員を呼び寄せた。一連の流れは、まるで水が流れるように滑らかで迅速だった。加津也はあっけに取られ、その様子を見つめるだけだった。気づいたときには、すでに警備員に取り押さえられており、紗雪は、駆けつけた警官に向かって毅然と話し出
紗雪はその言葉を聞いた瞬間、怒りが込み上げてきた。彼女は思い切り加津也に平手打ちを食らわせ、冷たい口調で言った。「一体、何がしたいの?ここは二川グループの会社の前よ。こんな場所で好き勝手してなんて。私がどう決めるかは、あんたには関係ないわ!」その平手打ちで、加津也は完全に呆然とした。油断していたせいで、紗雪に携帯を奪い返されてしまった。さらに、彼は顔を押さえながら、視線のやり場に困っていた。加津也はついに怒りを爆発させた。「このアバズレが!よくも俺を殴ったな!」紗雪は顎を上げて言い返す。「だから?自業自得でしょ」加津也は彼女のそんな挑発的な態度に我慢ができなかった。歯を食いしばりながら言った。「俺との関係を完全に切ろうったって、そう簡単にはいかないからな!」「俺たちは三年以上付き合ってたんだぞ。お前のことくらい、手に取るようにわかるぞ!全部公開しても構わないのか?」男の脅しに、紗雪は眉をひそめて加津也を睨みつけた。その顔には、以前の端正で穏やかな面影は一切なかった。目の前にいるのは、ただの醜悪な他人にすぎなかった。「三年も付き合ってたこそ、あんたが何を持ってるかは私にも分かってる」紗雪の声は驚くほど静かだった。「だから、これ以上つきまとったら、本当に警察を呼ぶよ」加津也は彼女の冷たい視線に少しだけ我に返った。そうだ、自分は紗雪を脅せるようなものは何一つ持っていないのだ。彼は紗雪の服の袖をそっと引っ張った。ちょうどその時、通勤中の人々が彼らの様子に気づき始めていた。ある通りすがりの中年女性が、善意から声をかけてきた。「お嬢ちゃん、さっきから見てたけどね......」「あんたの旦那さん、ずっと謝ってるじゃない。夫婦なんてそういうものよ。もう機嫌直して仲直りしなさいな」加津也はすかさずうなずき、まるでニンニクでも刻んでるように頭を縦に振った。ようやくまともな人が来てくれた、そう思ったのだろう。その言葉が耳に心地よかったのか、満足げな様子だった。「そうだよ。これはただの夫婦喧嘩だ、紗雪。怒ってばっかだと体に悪いよ?」ついさっきまで脅してきたくせに、今度は優しい言葉をかけてきた。この豹変ぶり、紗雪はもう見飽きていた。彼女は堪えきれず、路人に向き直って
何せ、今回の選択も賭けも、自分で決めたことだった。たとえその賭けに負けたとしても、その結果はすべて自分で飲み込むしかない。紗雪は携帯を取り出し、配車アプリを開いて車を呼ぼうとした。その時、不意に怒りを噛み殺したような男の声が響いた。「お前、わざとだろ」その声に驚いて、彼女はびくりと体を震わせた。まさか、自分のすぐ横に人が立っているとは思いもしなかった。気を落ち着けて顔を上げると、そこには真っ黒に怒りを染めた加津也の顔があった。「あれ?職業変えたの?」紗雪は思わず皮肉を口にした。加津也は一瞬反応が遅れたように、呆然とした表情を浮かべた。「......どういう意味だ?」「別に大した意味はないけど。家の前に面白いピエロでもいるなって思っただけよ」紗雪は無造作に言い放ち、軽く顎をしゃくった。「どいて」その一言で、加津也の顔色が一瞬で変わった。せっかく整えたヘアスタイルも、怒りに歪んだ顔には意味をなさない。「どういうつもりだ!わざわざ会いに来てやったのに、その言い草はなんなんだ」紗雪は冷たく目を細め、あからさまに白眼を向けた。「自分のプライドを捨てた人間に言うセリフだけよ」「優秀な元恋人ってのはね、別れた後二度と姿を見せないのが一番なの」今の紗雪には、加津也に対する一片の情も残っていなかった。言葉を交わすだけで、時間の無駄だとすら思っている。そんな紗雪の決然とした態度に、加津也は一瞬たじろいだが、すぐに何か思い出したかのように表情を緩め、無理に笑顔を作って話しかけてきた。「紗雪......俺たち、三年以上も付き合ってたんだぞ。そんな関係、簡単に捨てられるもんじゃないだろ?」「何も感じなくなったら、捨てるのは簡単よ」その言葉に、紗雪は少しの迷いも見せなかった。その一言で、加津也の表情に小さな亀裂が走る。垂れ下がっていた手が、ぎゅっと握りしめられた。こいつ、本当にどうしようもないな。西山家の御曹司である自分がここまで頭を下げてやってるのに、この女はまだそんなに偉そうな態度を取るのか。沈黙のまま紗雪を見つめる加津也の表情は、読みにくく濁っていた。だが、三年間も共に過ごした相手だ。紗雪にはその考えが手に取るように分かった。心の底から、ぞっとする。
「最近は辛い思いをさせた。欲しい物があれば、好きに選んでくれ」加津也は大きく手を振り、初芽に一枚のキャッシュカードを差し出した。「暗証番号は知ってるだろ?足りなかったら俺に言え」そのカードを見つめる初芽は、最初は少し驚いたような顔をした。「ありがとう、加津也。優しいね」加津也は彼女を腕の中に抱き寄せた。「君は俺の女。これくらいは当然のことだ。午後はショッピングに行け。金を使い切るまで帰ってくるな」初芽は幸せそうに加津也の胸に身を寄せる。願わくば、前に感じたあの不安が全部思い違いでありますように。初芽を送り出した後、加津也はスタイリングを整え、二川グループの本社へと向かった。彼の目的は、紗雪と一度直接会って話をつけることだった。ここ最近、考えれば考えるほど、心の中は苛立ちでいっぱいだった。紗雪のあの三年間の隠し事は、全部ワザとだったのではないか?二人の間に、ほんの少しの信頼すらなかったから、自分はこの女に対して我慢ができなくなった。だから別れたのだ。だが、加津也にはどうしても腑に落ちないことがあった。恋愛は元々、お互いの合意があって成り立つものだろう?なぜ紗雪は事態をややこしくにしたがる。彼女が「二川家の次女」だからって、自分を切り捨てるつもり?そんなの、させないぞ。加津也は二川グループビルの前に到着し、紗雪が必ず通る出入口で彼女を待つことにした。ここには人の目がたくさんある。いくら紗雪でも、ここで醜態を晒すようなことはしないはずだ。もし騒ぎになれば、損するのは二川グループだ。......その頃、紗雪はまだ何も知らずにいた。午後、日向と別れた後は会社に戻り、業務の続きをしていた。会長になってからというもの、彼女に注がれる視線は明らかに増えていた。常に自分を律していなければならない。ここで満足してはいけない。椎名のプロジェクトを獲得できたとはいえ、後続の工程にミスは許されない。これは初めての提携なのだ。信頼を築けなければ、次のチャンスは来ない。その最中、美月から呼び出しが入り、彼女は母親のオフィスへ向かった。日向との進捗について聞かれた紗雪は、最近のことを丁寧に報告した。「彼には自閉症の妹がいます。神垣日向自身も誠実な人柄で、既にデ
二人が笑いながら会話する姿は、京弥の目にはまるで家族に見えた。京弥の目尻には赤みが差し、心の奥底で湧き上がる感情を必死に抑え込んでいた。落ち着け。紗雪を信じろ。心の中の声が何度もそう言い聞かせる。だが、あの店内の三人を見ていると、理性などすぐに限界を迎えそうだった。美男美女、それに可愛らしく整った小さな女の子。その光景は、どう見ても家族にしか見えなかった。京弥の胸中には、嫉妬と焦燥が沸々と煮え立つ。息を数回深く吐き、最終的にその場を離れることを選んだ。どれだけ怒っていようと、ここは紗雪の会社のすぐそば。きっと紗雪は、自分にちゃんと説明してくれるはずだ。あの男は、ただの仕事仲間かもしれない。京弥はそう自分に言い聞かせるのだった。......その頃、加津也は自宅で焦りながら部屋を歩き回っていた。髪をぐしゃぐしゃにかき乱し、もともと端正だった顔には無精ひげが生え、見る影もない姿だった。二川グループのパーティーで追い出されて以来、彼はしばらく外出もしていなかった。毎日部屋に引きこもり、何かをぶつぶつと呟いている。初芽が近づいても、以前のように喜んで迎えることもなかった。「ご飯ができたよ、加津也」食事に呼びに来た初芽は、彼の惨めな姿に一瞬だけ嫌悪の色を浮かべたが、すぐにそれを隠した。「今日はおばさんが加津也の好きな料理を作ってくれたの。早く降りてきて」加津也は初芽を見つめ、その目にはいつの間にか憎しみが滲んでいた。もしこの女がいなければ、自分は紗雪と別れることにならなかったのに。あの人は二川家の二女で、今や二川グループの会長。家の資産だって、西山家の何倍もある。初芽のせいで、自分は大金を他人に渡してしまったのだ。深く息を吸い込んだ加津也は、初芽を見る目がどんどん恐ろしいものに変わっていく。初芽は怖くなり、少し後ずさる。「加津也、どうしたの......?」「なんでもない。ちょっと顔を洗ってくる」怒りを抑えながらそう答え、洗面所に向かう。鏡に映る自分の無精ひげを見つめ、手で触れる。そのとき、彼の脳裏にひらめきが走った。そうだ。紗雪が一度自分を好きになったのなら、もう一度惚れさせることだってできるはずだ。どうせ女なんて、見た目がすべて。
「はい。最近、会長はプロジェクトの打ち合わせで忙しくて、お昼にはもう会社を出ました。たぶん近くのレストランで食事してるんじゃないかと」受付の人は、京弥に対して知っていることをすべて話してくれた。京弥は軽く頷いて感謝の意を示すと、そのまま会社を後にした。彼は、相変わらず音沙汰のないスマホの画面を見つめながら、胸の奥に不安を覚え始めていた。どうやら、紗雪はまだ怒っているようだ。京弥は向きを変えて、外のレストランをいくつか見て回った。周囲の人々が自分に視線を送ってくるのを感じ、仕方なくマスクをつけ、車を走らせて周辺を一通り巡った。最初は、ただ偶然会えたらラッキーくらいにしか思っていなかった。ところが、ガラス張りのレストランの中で、紗雪の笑顔を見つけてしまった。最初は距離があって、彼女かどうか確信が持てなかった。というのも、彼女の向かいには男性と小さな女の子が座っていたからだ。だが、窓を少し下ろした瞬間、京弥は確信した。あの中にいるのは、確かに紗雪だ。彼女の向かいには、明るい色の髪の男性がいて、その隣に小さな女の子もいた。昨日はあんなに言い争いをしていたのに、今日はこんなにも笑顔を見せている。特に、その女の子と話しているときの表情は、とても柔らかくて楽しそうだった。京弥はハンドルを握る手に、思わず力を込めてしまう。ついこの間まで怒っていたはずなのに?あの男は何者?まさか、わざと自分を嫉妬させようとしている?京弥の脳内では、すでに一つの恋愛ドラマが始まっていた。しかも、その男はそこそこ整った顔立ちをしていた。そして、あの女の子......彼らとの関係はいったい?「さっちゃん......俺を裏切るつもりなのか?」彼の車が道端に止まったまま、どれほどの時間が過ぎたのだろう。やがて、紗雪も何となく気づいた。誰かの視線をずっと感じているような気がしたのだ。その違和感に日向が気づき、千桜の口元についたご飯粒を拭き取りながら尋ねた。「どうした?さっきから顔色があまり良くないけど」「ううん、なんでもない。考え過ぎたかも」紗雪はすぐに表情を整え、さっきの違和感について日向には何も言わなかった。ただの勘違いかもしれないし、万が一間違っていたら、余計な心配をかけることに
京弥はもう彼女の手には乗らなかった。冷たい表情でこう言い放った。「あと二日くらい遊んだら、帰ってくれ」「......私を追い出す気?」伊澄は信じられないという顔で京弥を見た。表情には驚きが溢れていた。彼らは子供の頃からの知り合いで、長年の付き合いがある。今やその関係がまったくの無価値になったというのか。だが、京弥の態度は変わらない。彼には彼の信念があった。今回ばかりは、伊澄がどれだけ甘えても、どれだけ懇願しても、京弥の口は固く閉ざされたままだった。最終的に、この茶番は伊澄の一方的な怒りとともに、不機嫌なまま終わりを迎えた。京弥も食事をする気分にはなれず、服を手に取り、家を出て行った。伊澄が来てからというもの、彼は紗雪との関係をもう一度見つめ直す必要があると痛感していた。これ以上、曖昧な態度ではいけないと。彼の背を見送る伊澄は、ゆっくりと拳を握りしめ、その目には怒りが浮かんでいた。紗雪は一体、どんな魔法を使った?あんなにも気が強い女なのに、京弥がそこまで譲歩するとは、思いもしなかった。しかも彼女のために料理までするなんて。昔は、そんなこと一度もなかったのに。たまに何か作ったことがあっても、それは京弥と彼の兄が機嫌のいいとき、ほんの気まぐれで作る程度だった。あんな温かい家庭のようなこと、ほとんどあり得なかった。伊澄は苛立ちまぎれに、目の前の朝食を口に運ぶ。だが、京弥がいないと、どれも味気ない。......一方その頃、京弥は家を出た直後、まず紗雪にメッセージを送った。紗雪はそのメッセージをちらりと一瞥しただけで、スマホをポケットにしまい、返事をする気配はなかった。しかし、オフィスの椅子に腰かける京弥は、ずっとスマホから目を離さなかった。明らかに、紗雪からの返信を待っていた。内容までは誰にも分からなかったが、側にいた匠にもそれは伝わった。だが匠にとって、細かい内容などどうでもよかった。最終的に社長の機嫌が戻りさえすれば、自分たちの利益になる。書類を処理しながらも、京弥の視線はスマホへと向けられ続けていた。そして、昼が近づく頃になっても、紗雪からの返信はなかった。これには、さすがの京弥も我慢の限界だった。彼は上着を手に取り、そのまま立ち上がって出て行こう
紗雪が目を覚ましてリビングに来たとき、ちょうど伊澄がダイニングテーブルに座り、目をキラキラさせながら京弥を見つめていた。「わあ、京弥兄!まさか今日もまた京弥兄の料理が食べられるなんて!本当に恋しかったんだから!」伊澄はわざとらしく言った。「もう、海外の食べ物って本当に人間が食べるもんじゃないのよ、どれもこれも飲み込みづらくて......」「やっぱり国内が一番。何より京弥兄の手料理が最高!」京弥の表情は淡々としていた。「手をつけるな。彼女が起きてからだ」伊澄は唇を尖らせたが、京弥の視線に気づき、しぶしぶと卵焼きを置いた。その視線の端に、紗雪の姿が映った。女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。まるで他人事のように、その光景を見つめていた。そんな彼女の前に、伊澄がわざと親しげな素振りで歩み寄り、腕を取った。「お義姉さん、見てください。京弥兄がこんなにたくさん美味しいもの作ってくれたんだし、もう怒らないでくださいよ〜」「ていうかさ、お義姉さんってホントにラッキーですね。京弥兄、顔も家柄も完璧だし、おまけに料理までできるなんて、まさに女心を鷲掴みってやつじゃないですか?」その一連のセリフに、紗雪は自然と眉をひそめた。彼女は何の遠慮もなく、伊澄の腕を引き抜き、鼻で笑って言った。「そこまで褒めるってことは、妹さんも彼に惚れた?」その言葉に、伊澄は一瞬驚いた顔を見せた。京弥もまた、不満げに紗雪を見つめて言った。「紗雪、俺と伊澄はただの兄妹だ。それ以上それ以下でもない」その言葉に、伊澄のこめかみがピクリと動いた。拳を無意識に握りしめる。大丈夫。焦らず少しずつ距離を詰めていけばいい。彼女はすぐに表情を整え、にこやかに笑って言った。「昨日のこと、まだ気にしています?京弥兄は自分から仲直りしようとしていたじゃないですか」「で?妹さんも彼に惚れた?」紗雪は背筋を伸ばし、まっすぐに二人の前に立った。冷静なまま、さっきの言葉をもう一度繰り返す。その瞳は澄んでいて、何の感情も読み取れない。まるで、ただ「答え」がほしいだけのようだった。伊澄は乾いた笑いを浮かべた。「お義姉さん、京弥兄みたいに優秀な人なら、そりゃあ女の子たちからモテるに決まってますよ」「じゃあ、君はどう
京弥は紗雪の背中を見つめながら、結局は追いかけなかった。彼には分かっていた。今の紗雪に必要なのは「冷静」だということを。無理に踏み込めば、かえって怒らせるだけだ。拳をぎゅっと握りしめる。客間のドアが「バタン」と閉まる音が響くまで、その場に立ち尽くしていた。ようやく我に返ると、彼は長いため息を吐いて主寝室へと歩いて行った。一方、紗雪も部屋に戻ってからというもの、なぜか胸の内がざわついて仕方がなかった。本来なら、最初から自分に言い聞かせていたはずだ。男の言葉なんて、本気にしちゃダメだって。京弥との関係も、所詮は利害の一致にすぎないと。なのに今は、何かがずれてきている。まるで自分の意思では止められない方向に、すべてが流れていくような感覚。紗雪は胸元に手を当てる。その奥で鼓動している心臓が、自分のものではないかのように、どんどん制御できなくなっている気がした。どうして今日、あんなに怒ってしまったんだろう?......「どういう意味よ!」伊澄は部屋の中で伊吹とビデオ通話をしていた。画面越しに何を言われたのか、彼女の顔には明らかな不満が滲み出ていた。金縁の眼鏡をかけた伊吹は、知的で穏やかな雰囲気を漂わせていた。妹が怒っているのを見ても、その表情は少しも動じなかった。「さっき言ったこと、ちゃんと心に刻んでおけ」「なんでよ、やだもん!」伊澄はワガママな声で反論する。京弥兄から離れろなんて、絶対に無理。彼女が帰国した最大の理由は、この『お義姉さん』とやらを見極めて、京弥兄との『運命の物語』を作ることだったのに。伊吹の目に冷たい光が宿る。「俺の言うこと、もう聞けないってわけ?」「京弥は、お前が関わっていい相手じゃない。お前が息抜きで数日帰国したと思ってたが、これ以上わがままを続けるなら......俺は爺さんに話すぞ!」彼はやむを得ず、爺さんという切り札を持ち出した。その言葉に、伊澄は少し拗ねたように唇を尖らせた。「京弥兄、人を好きになることの何が悪いの?ただ近づきたいだけ、それの何がいけないの?自由に恋愛する権利くらい、私にだってあるでしょ。お爺さんが何を言っても、私の気持ちは止められないよ!」そう言って、彼女は一方的に通話を切ってしまった。「おいっ...