あのウェディングドレスは、半年もかけてオーダーメイドしたものだった。私の一番好きなデザイナーにお願いして、世界にひとつだけのデザイン。一週間前にようやく手元に届いて、着てみたらとても似合っていた。でもその時、ちょうど一樹は行方不明で、彼が私の花嫁姿を見ることはなかった。もう、いらない。後悔してるかって?してない。一樹、遊びたいんでしょ?いいよ、まだこれからじゃない。翌日、私たちは新しいウェディングドレスを選びに出かけた。けれど、既製品のドレスはどれもしっくりこなかった。私はわざと、一日中一樹を付き合わせたのに、結局何も決まらなかった。帰り道、車の中で私はわざとため息をついた。「残念だね。全部、私が不注意だったせい」一樹は笑って言った。「大丈夫だよ。焦らなくていいから、ゆっくり探そう」私はじっと彼の目を見つめながら言った。「ねえ……ドレスも壊れたし、もういっそ結婚やめようか?」その瞬間、ブレーキが急にかかった。私は慣性で前に倒れ、一樹の手にぶつかった。彼はすぐに私を庇い、支えてくれた。「大丈夫か?」私は首を横に振ってから、何事もなかったように言った。「どうしたの?冗談だよ」彼は私の手をぎゅっと握りしめ、そのまま私を強く抱きしめた。「清香、こんな冗談、本当にやめて……俺、今日の日をどれだけ待ったと思ってるのか、わかってる?」そうか?でも、一樹。これはあなたたちが最初から仕組んだことじゃなかったの?私と一緒にドレスを選んで、招待状を書いて、思い出を作って、その最後に、私の心にナイフを突き立てる。私はただ、あなたの舞台を整えてあげているだけ。なのに、何を恐れてるの?その夜、家に戻ってドアを閉めた途端、靴を脱ぐ暇もなく、一樹は私を抱きしめて、玄関の棚に押しつけた。熱を帯びた身体が私を包み込み、降り注ぐようなキスが次々と落ちてくる。彼は感情を抑えきれず、焦るように私に触れてきた。でも私は、そっと彼を押しのけた。「一樹……気分が悪いの。今日は、したくない」その一言で、彼の身体がピタリと止まった。緊張がそのまま彼の中に張りついて、私の顔に何かを探すように目を向けてきた。しばらくの沈黙の後、彼は深く息を吐き、私をそっと抱き寄せた。そして手を優しく私の腹にあて、ゆっくりとさすった
これらの記録は、きっといつか、私が彼に贈る、最も心をえぐる贈り物になるだろう。最終的に、ウェディングドレスは一樹が決めた。「今回はこれで我慢して」と言いながらも、すでに巨額をかけて新しいドレスを有名なデザイナーに再注文したらしい。「島で挙式する時に、それを着てくれ」と言って。ああ、その島――プロポーズの時に一樹が買って、私の名前をつけたあの島。なんて皮肉なことだろう。「やっと願いが叶った」あの時そう言っていた彼が、今は結婚を前にして、私を裏切り、恥をかかせようとしている。一樹。ねぇ、教えてよ。この世界で、たったひとつの真心を求めることって、そんなに難しいことなの?また、あの女の子のSNSが更新された。【就活無事終了!一樹さんが私をそばに置いてくれたよ。憧れの人にまた一歩近づいちゃった、えへへ】添えられていたのは、会議中の一樹をこっそり撮った写真だった。私はすべてをスクリーンショットに残した。そして、私の結婚準備日記にこう書き足した。【結婚式まであと17日。水中の月は近いが、触れられない。目の前の好きな人も近いが、到底私のものではない。】けれど、この詩には、あまり知られていない次の一節がある。しかしその心は見物人の心、その人は劇中の人。結局すべては、ただの鏡の中の花、水の中の月。私はあえて彼のために幸せな夢を紡ぎ、そして彼を深い淵に落とすつもりだ。だから最近の一週間、私は一樹にたくさんの幸せな思い出作りを付き合ってもらった。結婚式の細かな準備、今回は私は一切手を出さず、彼にすべてをプランナーと直接やり取りさせた。彼にすべての段階を理解させたかった。どんなに小さな装飾花一輪でも、それがどこから来たのか、式の流れも、スケジュールも、何時に何をするのか、どこで誰が動くのか、私よりも彼の方が詳しくなるように。一樹は私を抱きしめて、冗談めかして甘えてきた。「清香、お前を娶るってほんと大きなプロジェクトだよ」私は笑った。「ねぇ一樹、これだけ大きなプロジェクトして、ここまで頑張って……まさか当日逃げたりしないよね?」彼はしばらく黙っていたが、何も言わなかった。沈黙のあと、私を強く抱きしめて、こう言った。「結婚式を逃げるなんて……そんなことできるわけないだろ?お前のこと、誰よりも愛してる」でも
「どこか具合が悪いの?」そう言って一樹は、私の頬にそっと触れた。私は胸のあたりを指差して答えた。「ここ」彼はいたずらっぽく笑って、私の額にキスを落とした。「嘘つきさん、もうそんなこと言わないで。すぐ戻ってくるよ。今夜は早く帰ってきて、一緒に過ごすから」やっぱり、行ってしまうんだ。このところ、私は一樹に触れさせなかった。きっと彼は焦っている。彼が家を出たあと、私は静かに彼のあとをつけた。普段はとても用心深いのに、どれだけ急いでいたのか、私が後ろにいることにも気づかない。車の止め方も雑で、ロックをかけ忘れていた。私はそのまま外で待ち続けた。時計の針が午前0時を回っても、一樹は戻ってこなかった。一樹が帰ってきたとき、私はベッドで眠ったふりをしていた。バスルームからシャワーの音が響いてくる。その音がただただ耳障りで、胸の奥にずっと詰まっていた重たい何かが、ますます息苦しさを増していた。しばらくしてベッドが沈み、私は彼の腕の中に引き寄せられた。私は抵抗しようと身をよじった。「動かないで……抱きしめさせて」彼は、まるで何もなかったかのように、私の髪にキスを落とした。でも、彼の体に他の女の香水が残っているかもしれないと思うと、吐き気がこみ上げた。私はシーツを握りしめ、なんとか感情を押し殺そうとした。それでも抑えきれず、気づけば彼の肩に噛みついていた。どうしようもなく苦しくて、どこかにぶつけなければ、私は本当に壊れてしまいそうだった。一樹は顔をしかめ、私にそう問いかけた。「いってっ……清香、どうしたの?」血の味が舌に広がった時、ようやく私は口を離した。彼は上体を起こし、青ざめた私の顔を見て、心底から心配したように言った。「いったいどうしたんだよ?」「最近、なんかおかしいって思ってたけど……理由がはっきりしなくて……」「何かあった?俺に話してくれよ、な?」私は、その心配そうな顔を見つめながら、こみ上げる嫌悪感をなんとか飲み込んで、少しだけ深く息を吐いた。「……大丈夫。結婚前で、ちょっとプレッシャーがきつくて。何か失敗したらどうしようって、不安だっただけ」彼はそっと私を抱き寄せ、もう一度横になりながら、低くて優しい声を耳元でささやいた。「何があっても、俺はそばにいるよ。清
「私と一樹さんの方が、ずっとお似合いだと思わない?」その言葉が胸に重くのしかかり、心の中に大きな石を詰め込まれたように、私は息が詰まりそうになった。彼女は挑発的に言った。「女の人ってね、結婚する時には、自分が好きな人より、自分をより多く愛してくれる人を選ぶものなのよ」「彼が、本当に十年間も他の人を好きだったあなたが、簡単に乗り換えたって信じているの?あなたと彼なんて、たった五年の付き合いでしょ?」一樹は、こんなことまで彼女に話していたんだ。確かに、私は直人を追うのをやめたあと、一樹とは友達として二年間過ごし、それからようやく自分の気持ちを認め、三年間付き合ってきた。私は目を伏せて笑った。「そんなに選ばれる自信があるなら、わざわざ私のところに来たりしないわよね」その瞬間、さくらの顔色がさっと青ざめ、すぐに悔しげに言い返してきた。「それは、ただの時間の問題でしょ?お姉さんだって、自分の片思い相手を選んだんだから。だからきっと、順番は回ってくる。彼もきっと、私のことを見てくれるようになる」「彼は、私の中にかつての自分を見ているの。だから、きっと同情や憐れみを感じる。彼が私に少しでも興味を持てば、私はきっと勝てる」「感情の中で常に優位に立っているあなたには、わからないでしょうけど」手のひらは爪で赤い跡がついている。一樹のことを考えると、私の心臓はまるで誰かの手の中に握り潰されているようで、鋭い痛みが胸の奥を突き刺した。私は喉に込み上げてくる鉄のような血の味を押し殺し、立ち上がって彼女をまっすぐ見つめ、一言ずつ、確かに、言葉を紡いだ。「焦らないで、お嬢ちゃん。手に入らないものだからこそ、人は欲しがってるのよ」「あなたの片思いの立場こそ、大事にすべきだったのよ」「だってね、一度手に入れた側になったら――高嶺の花も、ただの道端の雑草になるの」私は車のそばに寄りかかり、深呼吸したが、それでも心の底に押し付けられた煩わしさは消えなかった。胸の痛みは、鈍いどころか、まるで心臓をナイフでぐるぐると掻き回されるようで、指先まで震え出すほど、鋭く、深く、刺さっていた。私は胸を押さえ、目の中の涙を必死にこらえた。違う。今は泣く時じゃない、清香。一樹は、もう私に対して罪悪感を持ちはじめている。もうすぐ、終わる。
「違うんだ……」直人が手を伸ばして私を引き止めようとしたが、私はそれをすっと避けた。その時、背後から、聞き覚えのある声が響いた。「何をしている?」振り返ると、陽を背にした一樹がそこに立っていた。顔は影に隠れ、目には闇が宿っていて、その視線は、凍えるように冷たかった。彼の全身からは、怒りと支配欲を押し殺したような重苦しい気配がにじみ出ていて、その拳は、ためらいもなく直人の顔面に叩き込まれた。直人は一瞬たじろいだが、すぐに拳で応戦した。「白洲――清香に手を出すんじゃねえよ!ぶっ殺すぞ!」一樹は目を真っ赤にし、怒りのままに叫んだ。直人も一歩も引かず、彼の胸に刃を突き立てるように言い返した。「藤木、てめぇがどの面下げて言ってんだ?清香を追ったのは、俺を苛つかせたいだけだったんじゃないのか?」「自分の感情が純粋だったって、胸張って言えるのか?」「俺は確かに清香に惹かれてたさ。でも、彼女は一度も応えてくれなかった。お前はどうだ?彼女は知ってるのか?外にかわいい妹がいることを――」その瞬間、一樹の体が硬直した。その顔には、はっきりとした恐れが浮かんでいた。「……清香。お願いだ。説明させてくれ」車の中で、一樹は説明を続けていた。「あの子は、ただ俺のことが好きな女の子で……見ると昔の自分を思い出すんだ」「それ以上何もなかった。ただそれだけなんだ」彼は私の手をぎゅっと握りしめながら、必死に言った。「俺は何年もお前を愛してきた。もうすぐ結婚なんだ。清香……俺を信じてくれよ」指先がぎゅっと力を込めた。不思議だった。心の中で荒れていた波は、ゆっくりと、静かに、引いていった。私は淡々と、一樹を見つめながら言った。「一樹。結婚、やめようか」「え?」彼の目に浮かんだ驚きは、演技なんかじゃなかった。「あと三日で結婚なんだよ?清香、そんな冗談言わないでくれ」私はふっと笑った。「ねえ、一樹。悔しいんでしょう?私があなたを選んだのは、仕方なかったからだけ――そう思ってるんでしょ?私が直人を愛していないって信じられなくて、私の心の中には、今も彼の居場所があるって、そう思ってるんでしょ?」「違う」「そうじゃないんだ」私は笑いながら、ぽろぽろと涙をこぼした。「一樹。私は本当にあなたのことが好きだったよ。あなたの優
ほどなくして、一樹の姿が見えた。さくらは勢いよく彼の胸に飛び込んだ。彼はその場に立ち尽くしたまま、腕を差し伸べることもなければ、彼女を突き放すこともなかった。私との距離は遠く、二人が何を話しているのかまでは聞き取れなかった。ただ、さくらが一樹の胸元に顔を押しつけ、泣きじゃくっている姿だけが、はっきりと見えた。でも不思議なことに。私は、何の感情も湧かなかった。ふと、二年目のある夜を思い出した。一樹と恋人として過ごしていた、あの頃。雰囲気がちょうどいい時、私は彼に尋ねた。「いつか、私より若くてきれいな子を好きになったり、浮気したりすることって……ないよね?」彼は私の頬に顔をすり寄せながら、笑って答えた。「何言ってるの?お前以上に綺麗な人なんていないよ。それにさ、俺が浮気なんてする男だったら、この世にいい男なんかいないってことになるだろ。12歳でお前を知って、25歳でようやく一緒になった。俺の人生の半分は、お前なんだよ。そんな俺が、他の誰かを好きになるわけないじゃん」全部嘘だった。携帯には先輩からのメッセージが届いていた。【うちの博士指導教授、めっちゃ大物だよ。来たら絶対ここ気に入ると思う】【どれだけ清香が来るのを待ってたか!やっとその気になったんだね!正直、博士進学するって冗談かと思ってた】【マジで待ちきれない!いつ来る?空港で爆竹鳴らして迎えるよ!】遠くで、互いに想いを伝え合っている二人を見つめながら、私はふと目線を落とし、返信した。【今晩】一樹の新婚部屋には私の痕跡はすべて消されていた。私は事前に、結婚準備日記にこう記していた。【結婚式まであと2日。ようやく気づいた。人は、まず自分自身を愛さなくちゃいけない。私が愛されるに値しないわけじゃない、あなたたちが私を愛するに値しないだけ。私には、何の問題もなかった】【結婚式まであと1日。この期間はあなたにチャンスを与えるように見えたが、実は私自身に与えたものだった。別れる時に未練が残らないように。だから私は冷静にあなたの一挙手一投足を見つめ、あなたが私をどう傷つけるか、あなたがどう平然としているかを見て、私があなたを見ても何の愛も感じず、何の波風も立たず、むしろあなたが心底嫌になるまで。私とあなたは終わった。一樹、私たちは終わったよ】そして荷物をまとめ
中には私と彼の写真が貼り詰められていて、最初はまだ距離のあった二人が、少しずつ、少しずつ心を通わせていった過程が写っていた。私と彼が付き合ってからのすべての出来事が記録されている。最後のページをめくると、彼の力強い字で書かれていた。【清香、愛してる】隣でその文字を見た先輩が、バッと私の顔を見た。「……ちょっと、感動してるとか、ないよね?」私はアルバムを閉じて、ゴミ箱に捨てた。「まさか。感動なんかしたら、これまでの私の努力、全部バカみたいでしょ」先輩は安堵のため息をついた。「でも、あなたが興味を持ちそうなことがあるわ」そう言って、先輩は話し始めた。さくらの話だった。国内ではニュースになるほどの騒ぎになっていたという。不倫相手として本妻に現場を押さえられ、なんとその場で暴行されたらしい。そして彼女は自分の正当性を訴えようと、ライブ配信を試みた。しかし、過去の投稿や行動が次々と掘り起こされ、常習犯だとネット中から総叩きに遭った。彼女が一樹を追いかけていた時の片想い日記さえも晒され、コメント欄は炎上の嵐だった。【不倫ってわかっててやってたんだ?読んでて胸が苦しくなるわ】【今どき、他人の恋愛に入り込むことをこんな綺麗な言葉で包む人がいるとは】【結婚前に告白して、自分の初めてをあげるとか……頭イカれてんの?】【私が新婦だったら、マジでぶん殴ってる】【女も最低だけど、この男も同罪だよね。距離を保ていれば、ここまでこじれてない】そこで誰もがこの恋の結末を待ち望んでいたが、内部関係者によると、花嫁は結婚式当日に逃げ出したらしい。新郎は街中を探し回ったが、行方不明の花嫁を見つけられず、彼は狂ってしまった。多くのネットユーザーが「ざまぁみろ」と罵った。先輩は言った。「もう一生、あの二人の厄介者に関わらないように」でも言霊とは、時に皮肉なものだ。私は優秀博士代表としてスピーチを終えたその直後、バックステージで一樹に、会ってしまった。彼は私の手首をつかんだ。「清香」「お願いだ、少しだけ話を聞いてくれないか?」私はそっと手を引き、冷ややかな視線を彼に向けた。「聞く意味、あるの?」一樹は力なく肩を落とし、声を詰まらせて絞り出すように言った。「清香……俺に、そんなふうに突き放すべきじゃない。犯人だって言
「私たちの関係なんて、三年前にとっくに終わってる。もう行って」一樹はそれでも去らなかった。代わりに、私の向かいにあるアパートを買い取って、そこに住み着いた。しかも、毎日のように私の大学までやってくる。しつこく半年も付きまとって、この人生、私にすがりついてでも一緒にいるつもりらしい。あまりに腹が立って、私は何度も彼に怒鳴った。「一樹、賞味期限切れの愛してたごっこなんて、もうやめてくれる?」彼はすぐに目を潤ませた。「清香、お願いだ。そんなふうに突き放さないでくれ」「俺が悪かった。あんな酷いこと言うんじゃなかったし、お前を傷つけるつもりもなかった。逃げようなんて考えて、お前に恥をかかせるなんて……絶対に間違ってた」「俺は本気で清香を愛してた。ただ、あのくだらないプライドが……どうしても認めたくなかっただけだ。でも、今はちゃんとわかってる」「頼む……俺を捨てないでくれ」でも私の心は、何ひとつ動かなかった。むしろ、その必死さが滑稽にすら思えた。「一樹……その芝居、つまらなかったよ」私はそう言って、変わらず彼を無視し続けた。けれど、いくら私が想像を巡らせても、さらに想像を超える出来事が起きた。なんと、直人がどこで聞きつけたのか、一樹の噂を知ってやって来たのだ。時々、本当に思う。あの二人はやっぱり同じ世界の住人なんだって。どちらも、演じて生きるタイプの人間。きっと前世の私は酷い罪を犯したので、罰として今世でこの二人の狂った男に出会ったのだ。クリスマスの日、彼ら二人は同時に私を誘った。私は承諾した。一度で全部、彼らとはっきりさせようと思ったからだ。一樹はレストランを貸し切りにしていた。私が足を踏み入れた瞬間、店内はツバキでいっぱいに飾られていた。彼の顔に浮かぶ喜びは、偽りのないものだった。だが、私の後ろから現れた直人の姿を目にした瞬間、その顔から血の気が引いた。「……お前、どうして来たんだ?」直人は冷たく鼻で笑って答えた。「彼女が呼んだんだよ」私はバッグをテーブルの上に置き、顎をしゃくった。「二人とも、座って」「清香……」一樹が私を呼んだ。「今日はここで、全部はっきり話すつもりだから」「私たち三人、もう十八年の付き合いだよね。今ではもう三十歳。いい加減、そんな子供みたいな駆け引きはや
彼女は歩み寄ってきて、俺を抱きしめた。「彼女はもうあんなに年を取ってるのに、あなたの時間をずっと無駄にしてきた。なのに、どうして私を見てくれないの……?」「私は若いし、何よりあなたを愛してる。私は命をかけて十年間、ずっとあなた一人を想ってきたの。目の中にも、心の中にも、あなたしかいない。私は、あの人よりずっと清らかだよ」清らか?俺は彼女を力いっぱい突き飛ばした。そのくせ、目の奥がツンとして、滲んでくるものを止められなかった。まともに眠れた夜なんて、一度もなかった。目を閉じるたびに、脳裏に浮かぶのは清香の姿だった。彼女に仕返しすれば、少しは気が晴れるんじゃないかって。でも違った。胸が張り裂けそうで、息をするのも辛くなるだけだった。十二歳で出会い、二十八歳まで――十六年。俺はそんな彼女を、自分の手で失ったんだ。本当に、どうしようもなく後悔してる。心の奥から、しぼり出すような後悔。何の前触れもなく、俺は顔を覆って泣き崩れた。さくらがそっと近づこうとしたが、俺は顔を上げ、氷のような目で彼女を睨みつけた。「……さくら。西京市から消えたくなければ、今すぐ出ていけ」「それから、藤木家がしてきた支援は、今日で終わりだ」その夜、俺はまた、清香との新婚部屋へ戻った。書斎の床に横たわり、壊れたウェディングドレスを胸に抱きしめながら、体を小さく丸めて眠った。三年後、彼女が博士課程を卒業したという知らせを受けた。その知らせを受けて、俺は一秒も迷わず、 すぐに飛行機に乗った。彼女に会いたくて――たった一言、「ごめん」を言いたくて。しかし、彼女は俺に冷たく、どこかよそよそしかった。本当に俺のことを、もう何とも思っていないかのように。信じられなかった。あんなに長い間、愛し合っていたはずなのに。どうして、もう愛してないなんて、そんな簡単に言えるんだ?だから俺はその街に留まり、彼女を取り戻すために動き始めた。昔と同じように、もう一度、彼女の心に触れたかった。女は、しつこい男に弱い。なんて、都合のいい言い訳を自分に言い聞かせながら。しかし、彼女は、本当に、俺を見ようとしなかった。やがて、白洲もそこに現れた。けれど不思議と、俺は彼に対して何のわだかまりも感じなかった。時が流れ、ようやく俺は気づいたのだ。あの頃、直人に向けて
二十三歳の一樹は、二十八歳の自分を殺したいと思うだろうか?俺は、西京市中の笑い者になった。花嫁が盛大な結婚式の最中に逃げたという。彼女のために殴り合いをした二人の男。けれどそのどちらも、ろくでもないクズだったと。俺のようなろくでなしは彼女に近づくべきではなかったと言われた。俺はそれを無視してきて、ただ彼女に会いたかった。俺は西京市中を探し回ったが、彼女の姿は見つからなかった。以前、俺が失踪したとき――彼女が俺を探し回っていた、あの時の絶望。胸が裂けるようなあの想いを、今、初めて知った。彼女は、まるで自分という存在をこの世から消したかのように、完璧に、消息を絶っていた。誰に聞いても、誰ひとりとして行き先を知らなかった。調査を頼んだ相手も、こう答えるだけだった。「一樹さん、どうか……これ以上、私を困らせないでください」そうだ。彼女は、あの言葉を聞いたときから、もう準備していたのだ。すべてを終わらせるために。俺に、見つかるはずがなかった。すべて、俺のせいだ。本当のさよならっていうのは、怒鳴り合いでも、泣き叫びでもない。ただ静かに、音も立てずに、消えるように去っていく。清香は本当に俺のことを諦めたのだ。それに気づいた時、胸の奥にあった何かが、じわじわと酸っぱく腐っていくような感覚がして、俺は、自分の心が少しずつ、溶けていくのを感じていた。俺は新婚部屋に戻った。けれどそこには、彼女のいた痕跡など、ひとつも残っていなかった。彼女はわざと、そうしたのだ。俺に、ひとかけらの想い出すら残さないために。まるで断崖から一気に突き落とすような、決然と、そして冷酷なまでの手つきで、俺の人生から自分の存在を、きれいに、徹底的に剥がしていった。彼女は本当に容赦がなかった。俺は、家中のすべての部屋を隈なく探し回った。ついに書斎で彼女が残していったものを見つけた。それは俺が彼女に贈ったプレゼントで、すべてが壊れていた。彼女はこの方法で俺との線引きをしようとし、俺が贈ったものが彼女にとって嫌悪感を抱かせるものだと伝えたかったのだ。そして、俺たちがイタリアでオーダーしたウェディングドレスもあった。そこには長い傷がついていた。ウエストから裾まで広がっていた。半年前に俺たちがオーダーした時
俺は携帯の電源を切り、清香がウェディングドレスに身を包む姿を思い描いた。きっととても綺麗なんだろうな。ただ残念なのは、あのオーダーメイドのドレスが壊れてしまったこと。でもそんなことはどうでもよかった。彼女がどんな服を着ていようと、世界でいちばん美しい花嫁には違いないのだから。俺は思った。一樹、これからはくだらない意地も、未練も、ぜんぶ捨てて、彼女とまっすぐ向き合って、ちゃんと一緒に生きていこう。結婚式の会場は、何かがおかしかった。どう説明したらいいのかわからない。進行は滞りなく進んでいるはずだった。司会者がステージに立ち、次の段取りを話している。でも俺は心ここにあらずだった。清香の姿が、どこにも見えない。心臓がどくどくと早鐘のように鳴り出し、何かとんでもないことが起きる気がした。司会者が口を開いた。「それでは、新郎さんからひと言いただきましょうか」その瞬間、俺はゾクリとした。そんな段取り、打ち合わせにはなかった。しかし、会場のサラウンドスピーカーからすでに音が流れ始めていた。俺は立っていられなくなり、震えが止まらなかった。それはあの日、船の上で俺が言った、あの言葉だった。「俺は、わざと直人を苛つかせるために清香を追いかけたんだ」「手に入れたら、かえってつまらなくなった」「でも引き下がるのも癪だから、結婚式から逃げて恥かかせるのって面白くない?」会場は、一瞬で騒然となった。そして次の瞬間、大スクリーンに映像が映し出され始めた。あの女の子が俺にキスをしようとした。俺は確かにその時、身体を引いた。だが、シャッターはちょうどその瞬間を切り取っていた。彼女がSNSに投稿した、ホテルの部屋番号。その映像には、俺がその部屋へ入っていく姿まで映っていた。「死ぬ」なんて言い出した彼女に、俺はただ――「そんな馬鹿なことをするな」と止めた。心が折れてしまわないように、少しだけ慰めてしまった。同じように報われない想いを抱える者同士、彼女の辛さが、少しだけわかる気がしていた。それから、病院の前で彼女が泣きながら俺にしがみついてきたあの瞬間の写真。あれは、彼女が俺を諦めると決めたとき。俺はどうしても、突き放すことができなかった。……何も、なかったのだ。でも、どうしてだろう。俺の心は、その瞬間にま
「でも人生って時々、本当に予想がつかないものよね。あの言葉を聞いたあの日から、私はあなたの芝居に付き合って、あなたが私に復讐したいと思っていたその思いを、今度は私が利用して、全力であなたに返したの」「もうやめてくれ……清香」「十八年だよ。諦めろと言うが、どうやって諦められるんだ……」一樹は嗚咽まじりに泣きながら、言葉を絞り出した。「俺はどうすればお前に許してもらえる?頼む、教えてくれ」私は深くため息をついた。「私たち三人は、あまりにも長く絡まりすぎた。そんなふうにして、誰も幸せになれるはずがないのよ」「それにね……あのウェディングドレスみたいなもの。一度裂けてしまったら、もう綺麗には繕えない。作り直したって、身体に合わない」「それが私とあなたの結末」私は席を立った。「だから、もう私を追わないで。あなたたちの愛は、私には重すぎる」「私はもう、振り返らない」彼は苦しげに頭を抱え、髪をかきむしる。「こんなに長い未来があるのに……たった一度のチャンスすら、くれないのか?」私は彼を見つめて、ふっと笑った。「一樹、私が二十三歳のときに、あなたの好きな画家に頼んで描いてもらった絵……あれ、届いてた?」彼は一瞬、呆けたように固まって、それから目尻に静かに涙を落とした。「……これで、本当に終わりなんだな。俺たちはもう、何の関係もない」私は何も言わなかった。背を向けて、そのまま歩き出した。それが、私の答えだった。逃したものは、もう戻らない。たまに惜しいと思うことはあっても、後悔は、しない。ドアを閉めるその瞬間まで、一樹はただそこに立ち尽くしていた。でも、私はわかっていた。すべてが終わったのだと。止まない雨がないように。胸に残るわだかまりも、いつかは解ける。すべての出来事も、きっといつかは思い通りになる。だから私は願う。この果てしない人生の海の中で、心ゆくまで笑い、楽しんでいけますように。いつかこの世界に吹く優しい風が、私の夢をきっと満たしてくれるから。番外編・一樹の場合結婚式の前日、なぜかわからないが、胸がざわついて仕方がなかった。スマホのグループチャットに通知が浮かんだ。【一樹さん、明日の式、ほんとに挙げるんですか?俺たちにもちゃんとした返事をくださいよ】【そうそう、俺たちも見物に行くし、清香
「私たちの関係なんて、三年前にとっくに終わってる。もう行って」一樹はそれでも去らなかった。代わりに、私の向かいにあるアパートを買い取って、そこに住み着いた。しかも、毎日のように私の大学までやってくる。しつこく半年も付きまとって、この人生、私にすがりついてでも一緒にいるつもりらしい。あまりに腹が立って、私は何度も彼に怒鳴った。「一樹、賞味期限切れの愛してたごっこなんて、もうやめてくれる?」彼はすぐに目を潤ませた。「清香、お願いだ。そんなふうに突き放さないでくれ」「俺が悪かった。あんな酷いこと言うんじゃなかったし、お前を傷つけるつもりもなかった。逃げようなんて考えて、お前に恥をかかせるなんて……絶対に間違ってた」「俺は本気で清香を愛してた。ただ、あのくだらないプライドが……どうしても認めたくなかっただけだ。でも、今はちゃんとわかってる」「頼む……俺を捨てないでくれ」でも私の心は、何ひとつ動かなかった。むしろ、その必死さが滑稽にすら思えた。「一樹……その芝居、つまらなかったよ」私はそう言って、変わらず彼を無視し続けた。けれど、いくら私が想像を巡らせても、さらに想像を超える出来事が起きた。なんと、直人がどこで聞きつけたのか、一樹の噂を知ってやって来たのだ。時々、本当に思う。あの二人はやっぱり同じ世界の住人なんだって。どちらも、演じて生きるタイプの人間。きっと前世の私は酷い罪を犯したので、罰として今世でこの二人の狂った男に出会ったのだ。クリスマスの日、彼ら二人は同時に私を誘った。私は承諾した。一度で全部、彼らとはっきりさせようと思ったからだ。一樹はレストランを貸し切りにしていた。私が足を踏み入れた瞬間、店内はツバキでいっぱいに飾られていた。彼の顔に浮かぶ喜びは、偽りのないものだった。だが、私の後ろから現れた直人の姿を目にした瞬間、その顔から血の気が引いた。「……お前、どうして来たんだ?」直人は冷たく鼻で笑って答えた。「彼女が呼んだんだよ」私はバッグをテーブルの上に置き、顎をしゃくった。「二人とも、座って」「清香……」一樹が私を呼んだ。「今日はここで、全部はっきり話すつもりだから」「私たち三人、もう十八年の付き合いだよね。今ではもう三十歳。いい加減、そんな子供みたいな駆け引きはや
中には私と彼の写真が貼り詰められていて、最初はまだ距離のあった二人が、少しずつ、少しずつ心を通わせていった過程が写っていた。私と彼が付き合ってからのすべての出来事が記録されている。最後のページをめくると、彼の力強い字で書かれていた。【清香、愛してる】隣でその文字を見た先輩が、バッと私の顔を見た。「……ちょっと、感動してるとか、ないよね?」私はアルバムを閉じて、ゴミ箱に捨てた。「まさか。感動なんかしたら、これまでの私の努力、全部バカみたいでしょ」先輩は安堵のため息をついた。「でも、あなたが興味を持ちそうなことがあるわ」そう言って、先輩は話し始めた。さくらの話だった。国内ではニュースになるほどの騒ぎになっていたという。不倫相手として本妻に現場を押さえられ、なんとその場で暴行されたらしい。そして彼女は自分の正当性を訴えようと、ライブ配信を試みた。しかし、過去の投稿や行動が次々と掘り起こされ、常習犯だとネット中から総叩きに遭った。彼女が一樹を追いかけていた時の片想い日記さえも晒され、コメント欄は炎上の嵐だった。【不倫ってわかっててやってたんだ?読んでて胸が苦しくなるわ】【今どき、他人の恋愛に入り込むことをこんな綺麗な言葉で包む人がいるとは】【結婚前に告白して、自分の初めてをあげるとか……頭イカれてんの?】【私が新婦だったら、マジでぶん殴ってる】【女も最低だけど、この男も同罪だよね。距離を保ていれば、ここまでこじれてない】そこで誰もがこの恋の結末を待ち望んでいたが、内部関係者によると、花嫁は結婚式当日に逃げ出したらしい。新郎は街中を探し回ったが、行方不明の花嫁を見つけられず、彼は狂ってしまった。多くのネットユーザーが「ざまぁみろ」と罵った。先輩は言った。「もう一生、あの二人の厄介者に関わらないように」でも言霊とは、時に皮肉なものだ。私は優秀博士代表としてスピーチを終えたその直後、バックステージで一樹に、会ってしまった。彼は私の手首をつかんだ。「清香」「お願いだ、少しだけ話を聞いてくれないか?」私はそっと手を引き、冷ややかな視線を彼に向けた。「聞く意味、あるの?」一樹は力なく肩を落とし、声を詰まらせて絞り出すように言った。「清香……俺に、そんなふうに突き放すべきじゃない。犯人だって言
ほどなくして、一樹の姿が見えた。さくらは勢いよく彼の胸に飛び込んだ。彼はその場に立ち尽くしたまま、腕を差し伸べることもなければ、彼女を突き放すこともなかった。私との距離は遠く、二人が何を話しているのかまでは聞き取れなかった。ただ、さくらが一樹の胸元に顔を押しつけ、泣きじゃくっている姿だけが、はっきりと見えた。でも不思議なことに。私は、何の感情も湧かなかった。ふと、二年目のある夜を思い出した。一樹と恋人として過ごしていた、あの頃。雰囲気がちょうどいい時、私は彼に尋ねた。「いつか、私より若くてきれいな子を好きになったり、浮気したりすることって……ないよね?」彼は私の頬に顔をすり寄せながら、笑って答えた。「何言ってるの?お前以上に綺麗な人なんていないよ。それにさ、俺が浮気なんてする男だったら、この世にいい男なんかいないってことになるだろ。12歳でお前を知って、25歳でようやく一緒になった。俺の人生の半分は、お前なんだよ。そんな俺が、他の誰かを好きになるわけないじゃん」全部嘘だった。携帯には先輩からのメッセージが届いていた。【うちの博士指導教授、めっちゃ大物だよ。来たら絶対ここ気に入ると思う】【どれだけ清香が来るのを待ってたか!やっとその気になったんだね!正直、博士進学するって冗談かと思ってた】【マジで待ちきれない!いつ来る?空港で爆竹鳴らして迎えるよ!】遠くで、互いに想いを伝え合っている二人を見つめながら、私はふと目線を落とし、返信した。【今晩】一樹の新婚部屋には私の痕跡はすべて消されていた。私は事前に、結婚準備日記にこう記していた。【結婚式まであと2日。ようやく気づいた。人は、まず自分自身を愛さなくちゃいけない。私が愛されるに値しないわけじゃない、あなたたちが私を愛するに値しないだけ。私には、何の問題もなかった】【結婚式まであと1日。この期間はあなたにチャンスを与えるように見えたが、実は私自身に与えたものだった。別れる時に未練が残らないように。だから私は冷静にあなたの一挙手一投足を見つめ、あなたが私をどう傷つけるか、あなたがどう平然としているかを見て、私があなたを見ても何の愛も感じず、何の波風も立たず、むしろあなたが心底嫌になるまで。私とあなたは終わった。一樹、私たちは終わったよ】そして荷物をまとめ
「違うんだ……」直人が手を伸ばして私を引き止めようとしたが、私はそれをすっと避けた。その時、背後から、聞き覚えのある声が響いた。「何をしている?」振り返ると、陽を背にした一樹がそこに立っていた。顔は影に隠れ、目には闇が宿っていて、その視線は、凍えるように冷たかった。彼の全身からは、怒りと支配欲を押し殺したような重苦しい気配がにじみ出ていて、その拳は、ためらいもなく直人の顔面に叩き込まれた。直人は一瞬たじろいだが、すぐに拳で応戦した。「白洲――清香に手を出すんじゃねえよ!ぶっ殺すぞ!」一樹は目を真っ赤にし、怒りのままに叫んだ。直人も一歩も引かず、彼の胸に刃を突き立てるように言い返した。「藤木、てめぇがどの面下げて言ってんだ?清香を追ったのは、俺を苛つかせたいだけだったんじゃないのか?」「自分の感情が純粋だったって、胸張って言えるのか?」「俺は確かに清香に惹かれてたさ。でも、彼女は一度も応えてくれなかった。お前はどうだ?彼女は知ってるのか?外にかわいい妹がいることを――」その瞬間、一樹の体が硬直した。その顔には、はっきりとした恐れが浮かんでいた。「……清香。お願いだ。説明させてくれ」車の中で、一樹は説明を続けていた。「あの子は、ただ俺のことが好きな女の子で……見ると昔の自分を思い出すんだ」「それ以上何もなかった。ただそれだけなんだ」彼は私の手をぎゅっと握りしめながら、必死に言った。「俺は何年もお前を愛してきた。もうすぐ結婚なんだ。清香……俺を信じてくれよ」指先がぎゅっと力を込めた。不思議だった。心の中で荒れていた波は、ゆっくりと、静かに、引いていった。私は淡々と、一樹を見つめながら言った。「一樹。結婚、やめようか」「え?」彼の目に浮かんだ驚きは、演技なんかじゃなかった。「あと三日で結婚なんだよ?清香、そんな冗談言わないでくれ」私はふっと笑った。「ねえ、一樹。悔しいんでしょう?私があなたを選んだのは、仕方なかったからだけ――そう思ってるんでしょ?私が直人を愛していないって信じられなくて、私の心の中には、今も彼の居場所があるって、そう思ってるんでしょ?」「違う」「そうじゃないんだ」私は笑いながら、ぽろぽろと涙をこぼした。「一樹。私は本当にあなたのことが好きだったよ。あなたの優
「私と一樹さんの方が、ずっとお似合いだと思わない?」その言葉が胸に重くのしかかり、心の中に大きな石を詰め込まれたように、私は息が詰まりそうになった。彼女は挑発的に言った。「女の人ってね、結婚する時には、自分が好きな人より、自分をより多く愛してくれる人を選ぶものなのよ」「彼が、本当に十年間も他の人を好きだったあなたが、簡単に乗り換えたって信じているの?あなたと彼なんて、たった五年の付き合いでしょ?」一樹は、こんなことまで彼女に話していたんだ。確かに、私は直人を追うのをやめたあと、一樹とは友達として二年間過ごし、それからようやく自分の気持ちを認め、三年間付き合ってきた。私は目を伏せて笑った。「そんなに選ばれる自信があるなら、わざわざ私のところに来たりしないわよね」その瞬間、さくらの顔色がさっと青ざめ、すぐに悔しげに言い返してきた。「それは、ただの時間の問題でしょ?お姉さんだって、自分の片思い相手を選んだんだから。だからきっと、順番は回ってくる。彼もきっと、私のことを見てくれるようになる」「彼は、私の中にかつての自分を見ているの。だから、きっと同情や憐れみを感じる。彼が私に少しでも興味を持てば、私はきっと勝てる」「感情の中で常に優位に立っているあなたには、わからないでしょうけど」手のひらは爪で赤い跡がついている。一樹のことを考えると、私の心臓はまるで誰かの手の中に握り潰されているようで、鋭い痛みが胸の奥を突き刺した。私は喉に込み上げてくる鉄のような血の味を押し殺し、立ち上がって彼女をまっすぐ見つめ、一言ずつ、確かに、言葉を紡いだ。「焦らないで、お嬢ちゃん。手に入らないものだからこそ、人は欲しがってるのよ」「あなたの片思いの立場こそ、大事にすべきだったのよ」「だってね、一度手に入れた側になったら――高嶺の花も、ただの道端の雑草になるの」私は車のそばに寄りかかり、深呼吸したが、それでも心の底に押し付けられた煩わしさは消えなかった。胸の痛みは、鈍いどころか、まるで心臓をナイフでぐるぐると掻き回されるようで、指先まで震え出すほど、鋭く、深く、刺さっていた。私は胸を押さえ、目の中の涙を必死にこらえた。違う。今は泣く時じゃない、清香。一樹は、もう私に対して罪悪感を持ちはじめている。もうすぐ、終わる。