ケーキを分けている時に、学部の後輩ちゃんは最初の1切れを会場に来たばかりで、ギリギリ間に合った紀戸八雲(きど やくも)に渡した。まるで初めて顔を合わせたように、八雲はこの妻である私の存在ですら気付かなかった。周りはざわざわとしてきた。面白がる人は冗談半分に話しかけた。「葵、ここまで来て、もう隠す気もないんだな?」可愛らしいお団子ヘアをしている女の子は、少し照れているような顔で横の男を見て、もごもごと「紀戸先輩はわざわざ遠くから来てくれたから、きっと大変だろうって思って」と言った。細くて優しい口調に、そのキュートな笑顔。どの男でも心が惹かれるような可愛い女の子だった。しかし、その娘の言ったことは間違ってはいない。東市協和病院から医学部まで車で来ても、1時間以上はかかる。それに、八雲はしっかりとスーツに着替えて、首元に付けているネクタイまできちんと整えた。見れば、ちゃんと準備をしてから来たと分かった。2時間前まで、手術室にいたはずなのに。ケーキを渡された時、男は紳士的に受け取って、立ち居振る舞いから、溢れ出すほどの上品さを感じた。その整った目鼻立ちは天井から差してきた電気の光に照らされて、普段厳しくて近寄りがたい目つきは今、少し柔らかく見えた。「ありがとう。ちょうどお腹が空いたところだよ」八雲は松島葵(まつしま あおい)の顔を見つめながら、低いけど、温かい声で話した。普段いつも冷たい顔をしているあの紀戸先生とは、まるで別人のようだった。女の子の顔はいきなり赤くなって、小声で八雲に呟いた。「紀戸先輩、みんな見てますよ」八雲は小幅に顔を上げて、人混みを見渡した。最後に、斜め向かいにいる私の顔に目を留めて、落ち着いた声で「見知らぬ顔だな」と言った。私は少し指を丸くして、「もう結婚してから3年目なのに、相変わらず演技が上手だね」と思った。そうだよね。私たちは元から契約上の婚姻関係だった。結婚証明書まで紀戸家の運転手が代わりに受け取ってくれた。名ばかりの婚姻関係と名ばかりの妻を公表したくないのも、仕方のないことだ。私も八雲の芝居に乗った。「先月は学院祭の時に会ったでしょう?」その時、葵もいた。葵は何人かの後輩と接待係の仕事を学部長に任せられた。そして、接待する対象は、八雲などの優れた先輩方だった。今思い返せば、葵
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