バーで神谷さんを見かけた時、疲れ目で幻覚でも見ているのかと思った。しばらく目を細めて見ていた。田中店長が遠くから、イライラした様子で呼んでいた。今日はお客さんが多くて、いつもより仕事がきついんだ。酒の入った重い箱を、厨房の倉庫とバーカウンターの間を何度も往復して運んでいる。忙しさで、さっきのことは忘れかけていた。最後の箱をきちんと並べ終わってから、また考え始めた。あれは本当に神谷さんだったのかなって。バーの中央では、綺麗な若いダンサーが歌って踊って雰囲気を盛り上げていて、チカチカする照明の下、ぼんやりとした空気が私と彼らを隔てる別の世界のように感じさせた。「美奈、二階行ってみない」私はバーカウンターの裏でしゃがんで休憩していて、携帯の画面には神谷さんから来た最後のメッセージが表示されていた。「ベイビー、今夜は付き合いで外食だから、夕飯は帰って食べない」思わず腰を叩いた。お酒を運びすぎて、腰が痛い。それを聞いて、首を横に振った。「ううん、私は二階には向いてないから」「え?お金、足りないんじゃなかった」「ほら、あの人。さっき二階に上がったんだけど、腕時計もらったんだって」そう言った。「ヴァシュロン・コンスタンタンので、2000万円以上するらしいよ」「ふふっ、神谷様はいつも太っ腹だから。この前、愛莉ちゃんにもチップで数十万円くれたんだって」愛莉ちゃん?彼女のことは知っている。若くて綺麗な大学生で、口を開けばいつも「神谷様」って、目をキラキラさせて話す子だ。憧れと恋慕が込められた瞳だった。私はその時、特に気に留めていなかった。神谷って苗字の人なんてたくさんいるんだから、まさか慧さんのことだなんて思わなかった。話していた相手は私が断ったので、行こうとした。慌てて彼女の裾を掴んだ。「か、神谷様って…...神谷慧さんですか」「美奈、どうして神谷様の名前を知ってるの」その言葉が耳の中で炸裂して、頭がくらくらした。携帯の画面が再び点灯して、神谷さんからメッセージが届いた。「ベイビー、頭が痛い」「君が作ってくれるお粥が飲みたい」従業員休憩室に置いてあるスペアリブのことを思い出した。神谷さんが付き合いで外食すると聞いてから買っておいたものだ。仕事が終わったらすぐ
最終更新日 : 2024-11-25 続きを読む