ホーホーと、ふくろうの鳴き声が静寂の中を走る。 空には月明かりが妖しく輝き、数多もの星が浮いていた。星々は天の川を作り、終わりのない道を宵闇へと忍ばせていた。 そんな夜の※|戌《い》の|刻《こく》。 |殭屍《キョンシー》事件によって滅んだ枌洋(へきよう)の村から少し離れた場所に、誰も使っていない|廃屋《はいおく》があった。屋根や外壁はボロボロで、|蔦《つた》が絡みついている。 中には家具などはいっさなかった。代わりに|藁《わら》が山のように積まれている。 その藁の上に美しい銀髪を持つ端麗な顔立ちの子供、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が眠っていた。横向きになり身を縮め、苦しそうに唸っている。 隣では、|華 閻李《ホゥア イェンリー》より小さな子供が一緒に寝そべっていた。少年に包まれているかのように、小さな体を彼に預けている。 「…………」 眠る子供を抱きしめている|華 閻李《ホゥア イェンリー》の隣には三つ編みの男──|全 思風《チュアン スーファン》──がいた。彼は藁に寄りかかり、無表情で天井を見上げている。 ──|小猫《シャオマオ》が無事でよかった。怪我もしていないようだし、安心した。でも…… 両目を細めた。鋭い眼差しで凝視しているのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》ではない。一緒に寝ている子供だった。 身を起こし、うなされている少年の額に触れる。そして愛しい子が抱擁している子供へと目を向けた。 ──この子供は|殭屍《キョンシー》だったはず。だけど今は人間に戻っている。どういう事だ? 一度|殭屍《キョンシー》になってしまった者は、二度と人間へ戻ることはない。その方法すらなく、誰もが諦めるしかないのが現状であった。
寒さが際立つ十二月の夜。この國──|禿《とく》──では|閉《へい》とも呼ばれ、立冬となっていた。 そんな冬の空は暗い。されど、|全 思風《チュアン スーファン》は、凍える様子がなかった。それどころか、中衣一枚だけでも寒いとは感じない。「──あれ? |王様《・・》、上着は?」 |全 思風《チュアン スーファン》とともに夜を楽しんでいるのは、年端もいかぬ子供だ。こちらも布一枚のみという格好にも関わらず、冬の寒さをもろともしていない。 子供は|雨桐《ユートン》という名で、|殭屍《キョンシー》に変えられてしまっていた。生きたまま死を体験し、村では人知を越えた出来事にも見舞われた。最終的には|華 閻李《ホゥア イェンリー》の決死の術によって、|雨桐《ユートン》のみ救い出された。 しかし救い出された子供は、とても大人びている。言い方を変えるならば、本当に本人なのかという疑問すら沸くほどに屈託していた。「……お前、|小猫《シャオマオ》が助けたいって願った子供じゃないだろ?」 |全 思風《チュアン スーファン》は子供を見、あることを思い|做《な》す。 腰にかけてある剣の柄を握った。子供でしかない|雨桐《ユートン》を、冷めた眼差しで見下ろす。 |雨桐《ユートン》は肩で笑い、おお怖い怖いとおちょくってきた。「あー……|拙《せつ》は争いたくないんだ。というか、王様に逆らうほど愚かじゃないからねえ」 真意の掴めぬ笑顔を浮かべる。両手を挙げて参ったと伝えた。「じゃあ、正体を言ったらどうだい? 私の気が変わらぬ内に──」 怒気混じりの声は、|雨桐《ユートン》に軽い悲鳴をあげさせる。|雨桐《ユートン
危険な状況に見舞われ始めているのは、どこも同じ。例外はない。 |雨桐《ユートン》の姿をした|麒麟《キリン》は、そう告げた。『詳しくは調査とかしてみないとわからないけど。どうにも、各勢力で怪しい動きをしている連中がいるようだよ』 人間の住む、この地上。麒麟が暮らす世界、そして|全 思風《チュアン スーファン》が治めていると言われている冥界。これらの世界で、それぞれが不穏な動きをしていた。なかには、別勢力で手を組んでいる者もある。 『今まで、よく気づかれずにやってたって思うよ』 だってそうだろと、ぶっきらぼうに口を尖らせた。『|拙《せつ》みたいな、考えるのが苦手な奴はともかく、あんたのような王様ですら騙せてるんだ』 麒麟は|全 思風《チュアン スーファン》を王様と呼んでいる。それは、彼が冥界の長であるという事実でもあった。 |全 思風《チュアン スーファン》は強い。普通の人間はおろか、仙術を持つ者たちですら立ち向かうこと敵わず。剣術も、体術すらも、敵う者を見つける方が難しいのだろう。 何者にも怯まない精神。美しく、それでいて人目をひく出で立ちの彼は、聡明な頭脳すらも合わせ持っていた。冥界という、名前以外は不明な場所においても、彼は絶対強者のまま。 その強さは麒麟の住まう地にまで届いていた。 そんな彼を、唯一谷底へ落とせる存在は|全 思風《チュアン スーファン》が敬愛してやまない少年、|華 閻李《ホゥア イェンリー》だけ。誰もが口を酸っぱくして、そう答えるはずだ。 『よーく考えてみなよ。そんなあんたを出し抜こうって奴が、冥界のどこかにいるんだ』 面白いよなと、他人事として爆笑する。 |全 思風《チュアン スーファン》は麒麟の言動にイラつき、大きな手で子供の両頬を挟んだ。麒麟はひたすら謝り続け、解放されたときには涙目になっていた。『せ、|拙《せつ》の事よりも! ……人間側は、この村を|血命陣《けつめいじん》で滅ぼした連中が|暗躍《あんやく》してるのは間違いないよ』 この言葉を聞き、|
|麒麟《きりん》はとりあえず戻ろうかと提案した。|全 思風《チュアン スーファン》は腰をあげる。子供の姿を形どる麒麟とともに|華 閻李《ホゥア イェンリー》が眠る廃屋へと向かった。 廃屋の中へ入れば、|藁《わら》の山に埋もれるようにして眠る美しい少年がいる。すやすやと、気持ちよさそうな寝息をたててもいた。 |全 思風《チュアン スーファン》が普段着ている上着にくるまれながら、丸くなっている。「|小猫《シャオマオ》、ゆっくりとお休み」 愛し子の顔にかかる銀の髪を退かし、優しい笑みを落とした。 一緒に廃屋へと入ってきた麒麟は、彼の溶けるような笑みに驚く。両腕を首の後ろに回しながら、大きな目をぱちくりと。まるで、あり得ないものでも見ているかのようだ。 首を伸ばして安らかな寝息をたてている|華 閻李《ホゥア イェンリー》を見、次に彼を注視する。交互に見張った結果、なにかを察したように目尻が下がった。「……おい、麒麟。何だ? 言いたい事があるならハッキリと言え」 そんな麒麟を睨みつける|全 思風《チュアン スーファン》だったが、羞恥心が耳の先を真っ赤に染めていく。普段は冷静沈着を背負っている彼だが、今だけは表情筋がおかしなほどに激しく変化していた。『ぶっ! あはははっ! ひぃーー!』 お腹を抱えながらのたうち回る。しまいには床をドンドンと叩き、爆笑のしすぎで噎せてしまった。『じ、じぬうーー! あの、冷酷無比で、何者にも|臆《おく》さないって言われてる冥界の王様が! 子供一人の前では、ただの甘いおじさんになるとか!』 信じられないと大声で笑い飛ばす。 けれど、当然それは|全 思風
廃屋の近くにある河に訪れた二人は、さっそく魚を捕り始めた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は長い髪を頭上でお団子にし、瑞々しいまでの首を晒けだす。ボロボロの漢服の上着を脱ぎ、肌着だけになった。 服が濡れぬよう、両端を持って、きゃっきゃっと喜ぶ。頭の上に乗っている|蝙蝠《コウモリ》とともに、無邪気な笑顔で遊び尽くした。 そんな|華 閻李《ホゥア イェンリー》の若い肌は水を弾いていった。透明なようで銀色の髪、それが太陽の光を受けて|梔子《くちなし》色に染まる。 普段は長い髪で隠れている白くて滑らかな首筋に、|水飛沫《みずしぶき》がついた。「……っ!?」 それが汗のように見えたのだろうか。側で魚釣りをしていた|全 思風《チュアン スーファン》の喉が激しく鳴った。唾を飲みこみ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の首をじっと見つめている。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の視線に気づき、|蝙蝠《こうもり》とともに首を傾げた。 |全 思風《チュアン スーファン》はかつてないほどに慌てふためく。弾みで足を滑らせ、尻もちをついてしまった。 残念なことに、彼の不幸はまだ続く。河底に両手をついた瞬間、|蟹《かに》に指を挟まれた。蟹を振り払おうとした時に河の中を泳いでいた魚に触れ、滑って顔から水の中へと飛びこんでしまう。以降も、河は彼にとって鬼門だと云わんばかりの不幸が重なっていった。 ようやく終わった頃には、彼の身なりは見れたものではなかった。三つ編みにしていたはずの髪は、ほどけてしまっている。凛々しく涼しげな眉や瞳は情けなく泣き崩れてしまった。 あまりにも普段とかけ離れている。そんな彼の一面を知り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は口をポカンと開けた。「……|思《スー》にとって、河は不幸しか
いくつもの|灯籠《とうろう》が吊らされている回廊があった。宵闇の中を照らす明かりは、微風が吹いただけでも揺れてしまう。星空と月が浮かぶ空は|鉄紺《てつこん》色で、灯籠がなければ何も見えぬほどに暗かった。 そんな暗闇の時刻、|朱《あか》色で埋め尽くされた豪華絢爛な建物がある。 ここは|禿《とく》王朝の首都[|燐万蛇《リンマンジャ》]にある、唯一無二の王宮だ。たくさんの|殿舎《でんしゃ》が並び、奥へ進むほどきらびやかさが増していく。 そして、ひっそりと佇むことすら叶わぬ宮の奥深く。|朱《あか》とは違う、|瑠璃瓦《るりがわら》の屋根の建物があった。屋根の両端には金色龍が置かれている。それら以外は他の建物と何ら変わらなかった──「──どういう事なの!?」 瑠璃瓦の優しい色とは裏腹に、部屋の中では怒号が飛び交っている。「話が違うじゃない!」 声の主は怒鳴りながら、周囲の物へと当たり散らしていた。机の上にある巻物は落ち、花瓶は割れてしまっている。大胆なまでに机の足を蹴り、その場にひっくり返した。 ひとしきり暴れた後に残るのは荒い呼吸のみ。ふーふーと、理性すら|喪《うしな》ったかのように荒かった。 そんな声の主は、黒髪を頭の上で結い上げている。|玉金《ぎょくきん》の|簪《かんざし》をし、|翡翠《ひすい》の宝石か嵌め込まれた髪留めをしていた。 すっと伸びた鼻に、整った目鼻立ち。細く長い指は白く、とても美しい女性である。 |桔梗《ききょう》色の|桾《くん》、その上に|黒紅《くろべに》の|衫《さん》を着ていた。|衫《さん》は胸元から足にかけて、美しい白蛇の|刺繍《ししゅう》が施されている。 女性は服を翻しながら扉に向かって巻物を投げた。 扉には一人の男が立っている。黒い官僚服を着、怯えた様子で体を震わせていた。「……わ、わかりません。偵察者によると、枌洋(へきよう)の村での実験は失敗。村人が姿を消したとの事です」 村を|殭屍《キョンシー》畑にし、こことは違う世界への扉とする。死した村人たちなどどうでもよく、結果が出
枌洋(へきよう)の村から数里ほど北東へ進むと、大きな街が見えた。そこは蘇錫市(そしゃくし)と呼ばれている都である。 蘇錫市(そしゃくし)は別名、水の都と呼ばれていた。 その別名の通り街へ入れば、そこかしこから潮の香りが漂ってくる。魚介の匂いも混じり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》のお腹の虫が騒いだ。 見上げた空は蒼く、海はそれに負けないほどに水面が輝いて見える。|朱《あか》の建物は少なく、黄土色の建造物が多かった。 耳を澄まさずとも聞こえてくるのは人々の活気ある声、犬や鳥の鳴き声である。 街の中を流れる運河の両脇には建物がひしめき、その多くは飲食店だ。そこから脇道に逸れれば、織物工房や鍛治屋などが建ち並んでいる。 そこから奥へと進むと橋があった。橋を渡った先は一般家屋のある住宅街だ。よく見れば、住宅街と職人たちの住む地区を結ぶ道は一つではなかった。赤い橋が等間隔に作られており、どこからでも互いの地域を行き来できるようになっている。「あ、これ藤の花だ」 一部の橋には紫の花が絡みついていた。寒い冬の季節にしては珍しく咲いているなと、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は楽しそうに花を観察する。「|小猫《シャオマオ》、こっちだよ」「あ、うん」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》とともに街に訪れた青年、|全 思風《チュアン スーファン》が手招きをした。彼は一度住宅街まで進み、東側にある橋を渡って職人たちの住む地域へと足を伸ばす。「あれ? 服屋さんって、そっちなの?」 なぜ、わざわざ住宅街へ向かったのか。それを問いかけた。「私の知っている店は、少々入り組んだ場所にあってね。職人たちの住む地区……[|周桑《しゅうそう》]って言うんだけど、あそこは人が多い。加えて、これから行く店は住宅街からの方が近いんだ」 |周桑《しゅうそう》区は人通りがもっとも多いため、一歩進むだけでも一苦労する。目的地の服屋は住宅街側から橋を渡った目の前にあり、行きやすいのだと説明をした。「へえ……|思《スー》、この街に詳しいの?」「いいや、その服屋だけだよ。私のこの服も、その服屋で作ってもらったんだ」 少しだけはにかみ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取って歩き始める。 ──何か、今の|思《スー》。ちょっと寂しそうに見えた。気のせいかな? 少しばかりの不
|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|全 思風《チュアン スーファン》の二人は、死体があがったとされる|幸鶏湖《こうちょうこ》地区へ来ていた。 |幸鶏湖《こうちょうこ》地区は街の玄関口でもある食品市場から、まっすぐ北へ進んだ先にある。途中の脇道には職人たちの住む|周桑《しゅうそう》区があるが、そこには行かずにひたすら直進。その先には|周桑《しゅうそう》区や住宅街とは違い、華やかな町並みが広がっていた。 |朱《あか》の屋根や柱が建ち並ぶ区域で、寺院や|櫓《やぐら》が多く建てられている。それ以外にも|妓楼《ぎろう》があり、他地区と比べて一貫性がなかった。 寺院の近くでは|山茶花《さざんか》や|睡蓮《すいれん》なども売られており、花びらが舞っている。「──着いたよ。ここが、|幸鶏湖《こうちょうこ》区だ」 ほら。あそこを見てと、ある場所を指差す。|全 思風《チュアン スーファン》が示したのは、比較的大きな寺だった。 金の屋根に|朱《あか》色の外壁と柱の、美しい寺である。前後左右、東西南北を四つの|櫓《やぐら》で囲み、さらに高く伸びたたくさんの木々が出入り口以外を隠してしまっていた。「この寺は[|百日譚寺《ひゃくにちたんじ》]っていう名前でね、四方にある|櫓《やぐら》から寺を見張る仕組みになっているんだ」 顎をくいっとさせ、古めかしい作りの|櫓《やぐら》を見てと言う。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はいわれるがままに|櫓《やぐら》を凝視した。ただ、木でできている以外特にこれといった変わった様子は見受けられない。 けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、とあることに疑問を持った。小首をかしげ、大きな瞳で見つめる。「……何で、寺を見張る必要があるの?」「うん、いい質問だね」
|全 思風《チュアン スーファン》は堂々と正面から|妓楼《ぎろう》の中へと|侵入《しんにゅう》した。普通ならばその時点で誰かが姿を現し、彼へ敵意や攻撃を向けてくるものなのだが……「静かだ」 彼の足音のみが|響《ひび》く。それでも|全 思風《チュアン スーファン》の手には剣が握られていた。 周囲を見渡せば|朱《あか》の|絨毯《じゅうたん》や柱、壁までもが|深紅《しんく》に染まっている。天井には異国の地から取り寄せたであろう|枝形吊灯《シャンデリア》が|眩《まぶ》しく輝いていた。「ああ、本当につまらない」 顔を下に向かせながら、そう、|呟《つぶや》く。三つ編みにした長い黒髪がゆらりと揺れた。それを気にする様子すらなく、ただ|朱《しゅ》の階段を登っていく。 そんな彼の周囲には人の姿をした者たちがたくさんいた。 女は白い|漢服《かんふく》を着、美しい|簪《かんざし》を頭につけている。子供は男女問わず着飾ってはおらず、質素な|漢服《かんふく》を着ていた。男たちは青や水色などの|漢服《かんふく》を着用している。 けれど彼ら、彼女たちは、うんともすんとも言わなかった。黒目の部分は消え、どこを見ているのかわからない白目だけを見開いている。 |瞬《まばた》きすらしない。 呼吸もない。 不気味そのものの、人らしき存在たちだった。「……ああ、これは考えてなかった。|小猫《シャオマオ》の事で頭がいっぱいになっていたな」 そこは予想していなかったなあ、と大笑いする。 剣を|一振《ひとふり》し、道を|塞《ふさ》ぐ者たちを|風圧《ふうあつ》で吹き飛ばした。飛ばされた者たちは壁や柱に体を打ちつける。けれど痛みを感じないようで、小さな|唸《
|全 思風《チュアン スーファン》は自らの鼻を疑った。 彼は死者と生者、そのどちらもを嗅ぎわける能力に自信を持っている。それは間違えるはずがないという絶対的な自信であった。 ──私は|冥界《めいかい》の王だ。その私を|騙《だま》せる者など、そうそういないはず。その私をここまでコケにした奴、か。会ってみたいものだ。 そして殺してしまいたい。そう願った。背景にあるものが何にせよ、大切な子を奪われたのである。|冥界《めいかい》やこことは違う世界のことよりも、それが一番許せなかった。 「……|爛 春犂《ばく しゅんれい》、もしもあんたの言う通りなら、私たちは何を相手にしている? そして、何に馬鹿にされた?」 死者を|統《す》べる王としての怒りは凄まじく、周囲に|強烈《きょうれつ》な突風を|撒《ま》き散らす。 笑う唇の裏にあるのは|静寂《せいじゃく》という名の|怒涛《どとう》。|漆黒《しっこく》を詰めた瞳は|燦々《さんさん》と燃え盛る|焔《ほのお》となった。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は彼の変化に驚きを隠せないのだろう。恐怖とは違う、凍えるまでに|冷淡《れいたん》な表情を見せられグッと拳を握った。額から流れる汗は|妓楼《ぎろう》に集まる人々に対するものではない。|全 思風《チュアン スーファン》という人物への警戒の現れだった。 それでも今だけは頼もしい味方である。唯一正常かつ、目的をともにする者であるのだと、|全 思風《チュアン スーファン》に口を酸っぱくして伝えた。「……ああ、そうだったね。私たちの目的はそれだった」 |全 思風《チュアン スーファン》の瞳は|徐々《じょじょ》に落ち着きを取り戻していく。ふーと深呼吸をし、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見やった。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は心の底から肩を落としている。&n
瞳が虚ろになった|華 閻李《ホゥア イェンリー》に、何度も呼びかけた。けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》はうんともすんとも言わない。「──|小猫《シャオマオ》!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の肩を揺さぶった。 その時である。周囲から|人《・》の気配が消えた。それは文字通り人が、である。屋台を前にして並ぶもの、食べ物を売る者も、しっかりと目の前にいた。けれど彼らからは、|人《・》としての気配がなくなっていた。 ──どういうことだ? 直前まで、普通に人間の気配で溢れていたはずだ。「……いったいどうなって……|小猫《シャオマオ》!?」 考える暇もなく|華 閻李《ホゥア イェンリー》を含む、食品市場にいる者たちが一斉に動きだす。どの人間も|華 閻李《ホゥア イェンリー》と同じく、瞳に光を宿していなかった。そして誰もが体のどこかしらに鎖をつけている。 そんな人たちは食べ物すら放置して、街の北へと歩きだした。「し、|小猫《シャオマオ》!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》を腕を掴み、行動を阻止しようとする。けれど凄まじい人混みのせいで手を離してしまった。 |全 思風《チュアン スーファン》は喉の奥から叫ぶ。|華 閻李《ホゥア イェンリー》を呼び続けながら邪魔をする人々をかき分けていった。 けれどおかしなことに、近づくどころか遠ざかっていく。|華 閻李《ホゥア イェンリー》の姿すら見えなくなるほどに人が増えていっているのだ。おそらく住宅街や|周桑《しゅうそう》など、蘇錫市(そしゃくし)の住人のほどんどが、鎖の言いなりになってしまっているのだろう。 女や子供はもちろん、性別や年齢関係なく集まっていた。「……っ!?」
|華 閻李《ホゥア イェンリー》を包む|彼岸花《ひがんばな》は、少しずつ光を失っていく。根元から枯れ始め、花びらや雄しべたちがハラハラと崩れ落ちていった。けれど床につく前に消えていき、まるで幻でも見ているかのような錯覚に陥る。 同時に、白虎の前肢にあった|血晶石《けっしょうせき》が跡形もなく消滅するのを確認した。「──|全 思風《チュアン スーファン》よ。|閻李《イェンリー》はいったい何をした?」 なんとも言えぬ不思議な現象の場に居合わせた|爛 春犂《ばく しゅんれい》が問う。彼は全ての術を解除し、眠る|華 閻李《ホゥア イェンリー》につき従う|全 思風《チュアン スーファン》の肩に触れた。 「……正直な話、私にもわからない。だけど白虎の|殭屍《キョンシー》化を阻止し、|血晶石《けっしょうせき》そのものを消し去ったのは、間違いなく|小猫《シャオマオ》だ」 本人の意識かどうかは別として、と語り加える。|爛 春犂《ばく しゅんれい》の手を軽く払い、感情のない瞳で凝視した。けれどすぐに興味の対象から外す。 「どんな理由があるにせよ、|小猫《シャオマオ》が浄化した事に変わりはない」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》に冷めた瞳を向けた。それは他言するなという証でもあった。「……安心せい、|全 思風《チュアン スーファン》殿。このような事、言いふらしはせぬ。言ったところで誰も信じてはくれまいて」「話が早くて助かるよ」 |全 思風《チュアン スーファン》の直前までの全てを敵視するような眼差しは消える。笑顔を浮かべ、暗黙の了解として、|爛 春犂《ばく しゅんれい》と握手を交わした。 しかしどちらも心の内を見せるようなことはしない。どちらかというと探りあっていた。笑顔で
|華 閻李《ホゥア イェンリー》の背中から|彼岸花《ひがんばな》が生まれた。淡く、蛍のように優しく、それでいて、暖かい光をまとっている。「……っ|小猫《シャオマオ》!?」 いとおしい子へ腕を伸ばして助けようとした。けれど眩しくて直視できない。 |全 思風《チュアン スーファン》も、少し離れた場所にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》ですら両目を閉じてしまうほどだ。 それでも彼は諦めることなく、手探りで|華 閻李《ホゥア イェンリー》の居場所を見つける。子供の細腕を引っ張り、己の胸元へと押し戻した。「|小猫《シャオマオ》!」 未だ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の背中に浮き出ている|彼岸花《ひがんばな》を睨む。触ろうとしても透けてしまい、剥ぎ取ることすら不可能であった。 それでもうつ伏せになっている|華 閻李《ホゥア イェンリー》の喉で脈を測る。トクン、トクンと、弱いが脈はあった。 目映いばかりに煌めく花は背から頭上へと移動する。両腕に包まれている白い仔猫の姿をした|神獣《しんじゅう》は、苦しそうに鳴いていた。「……はあー」 |全 思風《チュアン スーファン》のため息は、場を落ち着かせていく。|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|床《ベッド》まで運び、安心の吐息を溢した。結界を維持したままの|爛 春犂《ばく しゅんれい》に目配せし、疲れと心配からくる汗を拭う。 再び|華 閻李《ホゥア イェンリー》を黙視した。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の瞳を隠すのは長いまつ毛で、ときおり苦痛に蝕まれるように濡れる。それは涙で、|全 思風《チュアン スーファン》は何度も雫を己の指先で拭いた。 ──白虎の身体に浮かんでいた青白い血管が薄れていっている
|爛 春犂《ばく しゅんれい》を加え、二人は蘇錫市(そしゃくし)で起きている出来事を再度話し合う。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は窓際に。 |全 思風《チュアン スーファン》はそんな子供にピッタリとくっつくように、隣へと座ってきた。 そして、情報を持ってきた|爛 春犂《ばく しゅんれい》は二人の前に腰を落ち着けている。 彼ら三人の中心には机があり、茶杯の中には緑茶が入っていた。おやつとして胡麻団子が置かれており、三人は各々で好きな物を選んで食す。そんななか、|華 閻李《ホゥア イェンリー》だけが他の二人よりもたくさん食べていた。「ねえ|小猫《シャオマオ》、さっきあんなに食べてたよね? まだ食べるつもりなのかい?」 胡麻団子を何個も頬張る|華 閻李《ホゥア イェンリー》に、|全 思風《チュアン スーファン》は顔を引きつかせながら問うた。 頬についた胡麻を取ってあげると、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は無邪気に「ありがとう」と言って微笑む。 ──んん! 可愛い! 愛くるしい見目の|華 閻李《ホゥア イェンリー》に幸せを覚え、満面の笑みになった。「──こほんっ!」 緩い現場を見かねた|爛 春犂《ばく しゅんれい》が、わざとらしい咳払いをする。しまりのない表情をする|全 思風《チュアン スーファン》を睨み、淡々と話を進めた。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》が持ってきた話は、以下の通りである。 [|國《くに》中で白服の男たちが目撃されている] [目撃された場所では|殭屍《キョンシー》が出現し、最悪街や村が滅んでしまう。この蘇錫市(そしゃくし)でも白服の男たちの目撃情報があり、何らかの形で関わっている可能性がある] [|殭屍《キョンシー
太陽が真上に差しかかった頃、|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちは昼食をとっていた。 辛さが決め手の|麻婆豆腐《マーボードウフ》、高級食材であるフカヒレを使用したスープ。肉汁たっぷりの|包子《パオズ》、卵とニラの色合いが美しい食べ物などもある。箸休めには、ほうれん草の唐辛子炒めもあった。食後のおやつとして月餅、杏仁豆腐なども置かれている。 それらはざっと十人前ほどはあった。「うわあ、美味しそう……ねえ、本当にこれ食べていいの!?」 数々の料理を前にして両目を輝かせる。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は大きな瞳いっぱいに食べ物を映し、頭上を確認した。「うん、いいよ。私も多少食べるけど、|小猫《シャオマオ》は遠慮なくいっちゃって!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》が見上げた先にいるのは|全 思風《チュアン スーファン》である。彼は我がことのように喜びながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》へとご飯を勧めた。 そんな二人は何とも奇妙な姿勢をとっている。どちらも座ってはいた。しかし|華 閻李《ホゥア イェンリー》は床にではなく、|全 思風《チュアン スーファン》の膝上にである。 |全 思風《チュアン スーファン》はがに股になりながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を乗せていた。 そんな彼の頬は絶賛綻び中で、しまりのない笑顔をしている。その姿はまるで、普段は強面だが小動物を愛でる時だけは優しくなるような……何とも言えない緩み具合だった。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の方は、それを当たり前として受け入れている様子。大きくて逞しい彼を椅子代わりに、満面の笑みで箸を走らせていた。 数分後、ものの見事に全てを平らげる。最後に残った杏仁豆腐すらもペロリとお腹の中へと入れた。「&h
そよそよと、窓から冬の風が入る。寒気とまではいかないが、それでも冬という季節の風は身を縮ませるほどには体温を奪っていった。「…………」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は丸くなる。しばらくすると、もぞもぞと動いた。 ──何だろう、暖かい。 眠気を無理やり吹き飛ばし、静かに両目を開けた。「……ふみゅ?」 寝ぼけ眼なまま、体を起こす。眠たい目をこすり、ふあーとあくびをかいた。上半身だけで背伸びする。 外を見れば陽は高く昇っており、部屋の中に光が差しこんでいた。 ──あれ? ここ、どこだろう? 確か砂地で数人と対峙した。その後の記憶があやふやであり、なぜ布団で寝ているのか。それすら疑問となっていた。 小首を傾げ、|床《ベッド》から降りる。裸足で板敷の床を歩けば、ある者たちが目に止まった。部屋の隅で、二匹の動物がすやすやと寝ている。一匹は|蝙蝠《こうもり》の躑躅(ツツジ)、もう一匹は白い毛並みの仔猫だった。 仔猫は身体を丸め、躑躅(ツツジ)は野生を忘れたかのようにお腹を出して寝ていた。 その姿に|華 閻李《ホゥア イェンリー》の頬は緩む。近づいて躑躅(ツツジ)のお腹を撫で、白猫へは恐る恐る腕を伸ばした。「うわ、もふもふだあ……」 仔猫は疲れが溜まっているのか、嫌がる素振りすら見せずに深い眠りに入っている。そんな仔猫の毛はお日様のように暖かく、とてもふわふわとしていた。 ふと、仔猫の前肢に赤い塊があったことを思い出す。仔猫の眠りを妨げぬよう、ごめんねと云いながら両前肢を探った。「&hel
白い毛並みの仔猫は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の腕から逃れようと必死だ。けれど体力がほとんど残っていないようで、すぐにぐったりしてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は急いで宿屋へ戻ろうと踵を返した。 直後、後ろから青い漢服に身を包んだ数人が近づいてくる。彼らは|華 閻李《ホゥア イェンリー》を囲うようにして、腰にさげている剣を抜いた。「……え? な、何!?」 大勢の大人に囲まれた|華 閻李《ホゥア イェンリー》だったが、驚くふりをしながら彼らを観察する。 ──肩と胸の部分に金色の|刺繍《ししゅう》。それに青い服……この人たちって、どこかの貴族の使用人ってところかな。 そんな人たちがなぜ寄ってたかって、見ず知らずの自分を囲うのか。|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそれだけが疑問だった。「──そこの子供! その猫を渡せ!」 剣の切っ先を|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと向け、数人が砂を踏みつける。「猫って……この仔猫の事?」 腕の中にいる仔猫を注視した。仔猫はぐったりとしており、息も絶え絶えである。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からすれば、仔猫も目の前にいる男たちも、全く知らない者たちであった。けれど仔猫の様子を見ているうちに、放っておくことなどできないと決意する。 仔猫を抱く腕に力をこめ、男たちを睨んだ。そして聞き分けのない子供を演じていく。「い、嫌だ! 僕はこの仔猫の事気に入ったんだ。僕が飼う!」 駄々をこねるだけこねながらも、少しずつ後ろへと下がっていった。「猫、飼いたいもん! 僕、猫好きだもん! ぜーったいに、渡さないからね!」 あかんべーと、普段の|華 閻李《ホゥア イェンリー》からは想像もできないような我が儘ぶりを発揮。地団駄を踏みながら仔猫を抱きしめ、飼うの一点張りに尽きた。 けれど男たちは子供の我が儘ごときにつき合ってはいられないと、剣を容赦なく|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと振り下ろす。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は寸でのところで剣による攻撃を回避し、我が儘な子供を演じながら砂浜を逃げ回った。 剣が背に迫れば、泣くふりをしながらしゃがむ。男たちが手を伸ばせば身を低くして彼らの背後に回避し、軽く蹴りを入れた。男たちが倒れていく瞬間を狙い、彼らの肩や背中などを使って側にある木に登っていく。