|華 閻李《ホゥア イェンリー》は初代皇帝の|寵愛《ちょうあい》を受けた一族の生き残りであった。そしてその一族が|殭屍《キョンシー》事件に|関与《かんよ》しているのではないか。
|爛 春犂《ばく しゅんれい》を含む先代皇帝たちは、そう考えているようだった。
当然それに反発の声をあげたのは|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は|威風《いふう》堂々としていた姿勢のまま、瞳を|深紅《しんく》に染めて闇を見せた。
「……その言葉の意味で言うなら、|小猫《シャオマオ》が関与してるって事になるけど?」
敵対をしているわけではないのに、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を睨む瞳は冷たく凍えている。
|爛 春犂《ばく しゅんれい》は首をふり、そうではないとだけ|呟《つぶや》いた。
「|閻李《イェンリー》は何も知らぬだろう。自身の出生の秘密はおろか、一族の事さえわからぬだろうな」
「……その言葉に確証はあるわけ? もちろん私はあの子がどんな事をしてても、ずっと一緒にいるって|誓《ちか》ったからね。悪とかそんなのよりも、私がどうしたいか。それが重要だからね」
|華 閻李《ホゥア イェンリー》という子供を愛するがゆえに、|全 思風《チュアン スーファン》は|冥界《めいかい》の王としての立場を|棄《す》てることができる。
そう、断言した。
「相変わらず|全 思風《チュアン スーファン》殿は、|閻李《イェンリー》しか見えておらぬか」
|爛 春犂《ばく しゅんれい》が苦笑いをすれば、|全 思風《チュアン スーファン》は子供っぽく舌を出して抵抗する。
「……心配なされるな。先ほども申したようにあの子は、|殭屍《キョンシー》事件には|関与《かんよ》してお
ガラガラと、三人を乗せた馬車が砂利道を進む。 |全 思風《チュアン スーファン》が|手綱《たずな》を|曳《ひ》き、馬を走らせていた。その後ろにある荷の部屋では、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|爛 春犂《ばく しゅんれい》の二人がいる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は膝の上に白い仔猫こと|白虎《びゃっこ》、頭の上に|蝙蝠《こうもり》の|躑躅《ツツジ》を乗せていた。 二匹のかわいい動物に囲まれて喜ぶ|華 閻李《ホゥア イェンリー》をよそに、|爛 春犂《ばく しゅんれい》は|訝《いぶか》しげな目をしている。 彼の視線に気づいた|華 閻李《ホゥア イェンリー》はどうしたのかと聞いた。「……|閻李《イェンリー》、これから敵対する者との戦いは激しくなるだろう。そうなった場合、お前はどう対処する? 一人でも立ち向かえる強さを身につけねば、話にならぬぞ?」 |全 思風《チュアン スーファン》という最強の王がついている以上、何かしらの心配は要らぬだろう。しかし|全 思風《チュアン スーファン》という男に頼り、自身では何もしないのか。そんな、おんぶにだっこな状態のままでは荷物にしかならなかった。 厳しもくあり、それでいて|華 閻李《ホゥア イェンリー》の行く末を見守る。 彼の言葉の|端々《はしばし》からは|華 閻李《ホゥア イェンリー》を子供としてではなく、一人の|仙道《せんどう》として扱っているということが|伺《うかが》えた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は動物|弄《いじ》りをやめ、真剣な面持ちで彼と向かい合う。「……僕は、剣操術《けんそうじゅつ》を習いたいです」「ほう?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の大きな瞳は揺らぐことはなかった。それどころか、意思を貫こうとする眼
|華 閻李《ホゥア イェンリー》は細長い|筒《つつ》のようなものを握っていた。右手で|筒《つつ》の下腹を持ち、左手は輪になっている部分に人差し指を引っかけている。「……|小猫《シャオマオ》、それは?」 驚きながら質問をした。集めた枝を地に置き、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の前に立った。いつものように優しい笑みを子供へと落とす。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は「ああ、これ?」と笑顔を浮かべた。「僕にもよくわからないんだ。去年だったかな? 花で遊んでたら偶然できて……」「使い方は知っているのかい?」「うん、知ってるよ。まあ、最初は戸惑ったけど……」 苦く笑み、|筒《つつ》を垂直に構える。 |全 思風《チュアン スーファン》は何をするのかと小首を|傾《かし》げた。|爛 春犂《ばく しゅんれい》も同様に何が始まるのかと疑問を浮かべているようだ。「これはね……こう、するんだよ」 左の指を|添《そ》えていた|輪《わ》っかを、ぐっと強く押す。すると筒の出口らしき部分から何かが飛び出した。|全 思風《チュアン スーファン》たちの間を|掠《かす》めて後ろ雑草へと向かい、瞬時にドサッという小さな音が鳴る。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は何事かと雑草をかき分けた。するとそこには、土気色の肌をした|殭屍《キョンシー》が倒れている。しかも頭部から出血し、|痙攣《けいれん》する間もなく亡くなっているかのようだった。「し、瞬殺……あそこに|殭屍《キョンシー》がいたのは知ってたけど……|小猫《シャオマオ》、凄いね」 彼は|冥界《めいかい》の王である。それがゆえに、死者の気配には誰よりも|敏感《びんかん》だ。当然、この場にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》や|華 閻李《ホゥア イェンリー》よりも優れた能力を持っている。 そんな彼にとって|殭屍《キョンシー》という片指で|跳《は》ね飛ばせる存在など、気にもとめる者ではなかったのだ。だからこそ|殭屍《キョンシー》が近くにいても動かず、平気で喋る。 その証拠に剣に手を置いて戦闘|態勢《たいせい》に入る|爛 春犂《ばく しゅんれい》に対し、彼はつまらなさそうに|欠伸《あくび》をかくだけであった。 そんな|全 思風《チュアン スーファン》が手を差し伸べるのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》のみ。 雑草に隠
|黄族《きぞく》と|黒族《こくぞく》が治める地区の|境《さかい》にある|関所《せきしょ》、|友中関《ゆうちゅうかん》。 そこは普段から結果が張ってあり、|殭屍《キョンシー》や妖怪といった|陰《いん》の気を持つ存在を弾いていた。それは周辺地域にも効果があり、|全 思風《チュアン スーファン》たちが野宿をしていた場所にまで|及《およ》んでいる…… はず。で、あった── 山のように重なっている|骸《むくろ》からは大量の出血が見られる。兵として日々を過ごしていたのか、茶色で|簡素《かんそ》な|鎧《よろい》を着ている者たちばかりだった。 なかには旅人らしき者たちもいるが、彼らもまた兵たちと同様に死している。「……これは、全員死んでいるようだね」 腰を曲げた|全 思風《チュアン スーファン》が、近くにいる死体を確認した。 どの|遺体《いたい》も、体のどこかに|噛《か》みつかれたような|跡《あと》がある。「多分、何らかの理由でここに|殭屍《キョンシー》が現れたんだろうね。それが一気に広まり、|屍《しかばね》の山となった」 可能性として|妥当《だろう》だろうと、|爛 春犂《ばく しゅんれい》に語りかけた。 文句を言えるほどの情報がない今、|爛 春犂《ばく しゅんれい》は軽く|頷《うなず》く以外の方法がなかったのだろう。眉を寄せ、両目を細めた。 血まみれの兵を|仰向《あおむ》けにし、|噛《か》み|跡《あと》を確認する。死した兵の開かれた|両瞼《りょうまぶた》に手を伸ばし、そっと閉じさせた。「……この者は、首に|噛《か》みつかれた|痕跡《こんせき》があるな。……しかし謎だ」
|陽《よう》の力に包まれた札は、妖怪などの悪しき者から守るためにあった。しかしその札の中身を意図的に書き換えたりすることで、その効力はなくなる。逆に|陰《いん》の気だけが集まり、|殭屍《キョンシー》などの人に害を成す存在が現れるとされていた。 この|友中関《ゆうちゅうかん》という|関所《せきしょ》は、それが起こっている状態である。 誰が何の目的で行ったかについては不明であるものの、仕組まれた札が事件を起こしているのは間違なかった。「先生」 長い髪を後ろで高く束ね、華 閻李《ホゥア イェンリー》は|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見つめる。小柄で儚げな見目を|惜《お》しげもなく|晒《さら》けだすように、|爛 春犂《ばく しゅんれい》の|袖《そで》を軽く引っ|張《ぱ》った。「この関所で死んでた兵たちは、どこの|領土《りょうど》の者か。わかりますか? 僕はそういうのさっぱりわからなくて……」 頭の上にいる|躑躅《ツツジ》、いつの間にか抱きしめられている|白虎《びゃっこ》。そして二匹に負けない小動物感を|顕《あらわ》にする|華 閻李《ホゥア イェンリー》が、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見上げる。「……っ!?」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は固まり、声が出なくなってしまったようだ。「せ、先生!?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、素でそれをやっていたようだ。突然|硬直《こうちょく》した彼に戸惑い、どうしたのかと慌てる。 「ねえ|思《スー》、先生がおかしくなって……|思《スー》?」 |全 思風《チュアン スーファン》に助けを求めようと、彼へ振り向いた。
大きな月が光を地上へ落とす|丑三《うしみ》つ時。逃げろと、誰が声あげた。 そこかしこから悲鳴が聞こえ、辺りは|阿鼻叫喚《あびきょうかん》を生む。 茶色の|革鎧《かわよろい》を着た兵たちが女子供を先導し、火の粉が上がる場から逃がそうとしていた。商人は大事な荷物を捨て、|一目散《いちもくさん》に駆け出す。「──こっちだ! こっちはまだ安全だ!」 そのなかの一人、|革鎧《かわよろい》に鉄|槍《やり》を持った男がいた。彼は必死に皆を|誘導《ゆうどう》し、安全確保をしようと|躍起《やっき》になっている。そんな男が持つ|槍《やり》には、黒い|房《くさ》がついていた。「さあ、早く中に!」 生き残っている者たちとともに三階へと逃げこみ、扉を閉める。 同じ|革鎧《かわよろい》を着た者たちとともに扉が開かないように、机などの物を重ねて廊下側へと押しつけた。 扉の外にある廊下からは、未だに悲鳴が|轟《とどろ》いている。時おりプツッという鈍い音、人とは思えぬ|雄叫《おたけ》びも耳に届いてきた。 建物の外を見れば、おびただしいほどの死体が転がっている。砂や雑草が見えていたはずの地面は|既《すで》になく、あるのは赤黒い|水溜《みずた》まりばかりであった。 行商人が乗ってきたであろう馬の頭部はなく、身体だけが転がっている。「……っ! なぜ、こんな事に……!」 部屋の中を|注視《ちゅうし》すれば、逃げ|延《の》びた者たちが|震《ふる》えていた。女子供は泣き、農民の男たちは顔を青ざめさせている。 数名の|革鎧《かわよろい》を着た者たちは剣を手にしながら、どうしてこんなことになったのかと口々に語った。「無事なのは我らだけか」&n
「|夢現再生術《むげんさいせいじゅつ》は、感受性の高い子供が覚えやすい術だ。もっとも、|閻李《イェンリー》のように修行すらしておらぬ者が|習得《しゅうとく》できるほど、|容易《たやす》くはないがな」 それを何の苦労もなく習得してしまった|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、術師として優秀な才能を秘めているのだろう。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》の口から語られたのは純粋な喜びであった。「……さて。|閻李《イェンリー》の見たそれを確実にするために、私たちは動かねばならん。それに、どうにも気がかりな事もあるのでな」 彼らがやることは以下の通りである。 この|関所《せきしょ》、|友中関《ゆうちゅうかん》で起きた事件の真相。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の見た夢を元にするならば、生き残りがいるはず。その彼ら、彼女たちの行方を探すこと。 そしてもうひとつと、人差し指を立てた。「この扉を死守していた兵士。彼はどこに行ったのか……だ」 扉の前で自らの|喉《のど》を貫いたとなれば、|即死《そくし》だったのだろう。しかし|肝心《かんじん》の扉の前には誰もいなかった。 争った|跡《あと》はあり、たくさんの|血痕《けっこん》が飛び散っている様子も見受けられる。札はたくさん落ちているため、最後の力で破いたとされるものを探すのは|困難《こんなん》であった。 「……確かに、言われてみるとそうだな。だけど|小猫《シャオマオ》が嘘をつくなんて絶対にないし」 |清々《すがすが》しいほどの言い切りっぷりである。 |全 思風《チュアン スーファン》のなかで|華 閻李《ホゥア イェンリー》という少年は、絶対的な存在だ。子供が白だと言えば、例え黒でもそう信じるのだろう。
もしも|間者《かんじゃ》がいたのならば、それは間違いなく今回の事件に関わっているのだろう。 しかし間者がいるという証拠すらなく、現段階では|全 思風《チュアン スーファン》の想像として止まっていた。「……間者って、誰が?」 彼の真向かいにいる子供は、きょとんとした様子で|尋《たず》ねる。 |全 思風《チュアン スーファン》は、これは予想であり確かなことではないよと返答した。 彼の頭の中にあるのは、|黒《くろ》と黄以外の第三者。|憶測《おくそく》の|域《いき》を出ていなくとも、それが一番|妥当《だとう》な答だと伝える。「ここは|黒《くろ》と黄色、その両方が治める土地だ。そこにこんな大がかりな事をするには、どちらかの|族《ぞく》に侵入する必要がある」 旅人や、周辺地域の者もあり得た。しかし村人の場合、危険な目に合うことはわかりきっている。そのような危険を犯してまで、間者として|潜《もぐ》りこむ意味はあるのだろうか。 「深い|怨《うら》みを持っているならあり得たかもだけど……そもそもそんな連中が、こんな手のこんだ仕掛けをするとは思えないんだよね。私の経験上、そういう奴らは、すぐ行動に移すんだよ」 しかし人は予測不能な動きをするものだ。|全 思風《チュアン スーファン》の考えが|及《およ》ばぬ者もいる。ただ、|間者《かんじゃ》というものは普通の人間ができることではなかった。 それを視野に入れても、近くの住民にとっては悪いことにしかならないのではないだろうか。「|小猫《シャオマオ》が夢で見た出来事、あれが真実であるという事を証明するためにも、私は……」「信じてくれるのは嬉しいけど……どうしてそこまで?」
──これは、私が望んでいた|薫《かお》りだ。優しくて、大切にしたい。あの人の血をひく、唯一の暖かさだ。 |全 思風《チュアン スーファン》は寝ぼけ|眼《まなこ》に思考を働かせる。「……っ痛!」 ズキズキと、頭に鈍い痛みを覚えた。頭を触ってみれば、小さなたんこぶができている。これはいったい何かと考えながら体を動かした。「あっ、|思《スー》。気がついた? 大丈夫?」 ふと、頭上より、子供の声が聞こえる。それは|紛《まぎ》れもない、愛しい子の声だ。 けれどあの子は背が低いはずだと、頭上より届く声に疑問を持つ。まだ頭痛が|癒《い》えておらず、それのせいで|幻聴《げんちょう》がしてしまったのだろうとため息をついた。 しかし……「もう、|思《スー》ってば! 無視しないでよ!」 視界に銀の糸が流れた。同時に、端麗な顔立ちの子供がのぞいてくる。 |全 思風《チュアン スーファン》は、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった。直後、「はあ!?」というすっとんきょうな声をあげる。 どうやら彼は横になっていたようだ。さらには|華 閻李《ホゥア イェンリー》の膝の上で眠ってしまっていた。 これには普段の|飄々《ひょうひょう》さは消え失せ、顔を真っ赤にさせながら言葉にならぬ何かを発する。 ──ちょっ、えーー!? な、何で|小猫《シャオマオ》が私を|膝枕《ひざまくら》しているのさ!? |混乱《こんらん》が頂点に達し、ついには金魚のように口をパクパクとさせてしまった。しどろもどろになりながら耳の先をどんどん赤くさせていく。
「──へえ、あの男が|黄 沐阳《コウ ムーヤン》なんだ」 |全 思風《チュアン スーファン》の声はいつになく低い。瞳の色は|焔《ほのお》のような|朱《あか》にまみれていた。 一緒に隠れている子供を後ろから軽く抱きしめる。あの男殺そうかと、|物騒《ぶっそう》な相談を持ちかけては、|華 閻李《ホゥア イェンリー》に注意された。「もう、|思《スー》ってば! ……それよりも、どうしてあの二人がここにいるんだろう?」 率先して兵たちを|煽《あお》り、まるで戦争をするように仕向けているかのよう。兵たちも彼らを神のように|崇《あが》め、|血気盛《けっきさか》んになっていた。|先刻《せんこく》までの、のんびりとした空気などない。あるのはビリビリとした、戦場にも似たものだけだった。 子供は彼から視線を外し、|櫓《やぐら》にいる男たちを見つめる。彼らは親子というだけあり、背格好や顔立ちがよく似ていた。「……でも、おかしいなあ」「ん? 何がおかしいんだい? あ、もしかしてこの体勢かな!? だったら、|小猫《シャオマオ》を横抱きにし……」「黙ってなさい」「……はい」 明後日の方向にしか行かない彼の口は|華 閻李《ホゥア イェンリー》によって、言葉で|塞《ふさ》がれてしまう。そのことに多少の不満があり、子供っぽく頬を|膨《ふく》らませた。 ──まあ、いいか。この一件が終わったら、たっぷりと|小猫《シャオマオ》を抱きしめる予定だし。 少年の美しい銀髪を|眺《なが》めながら、ふふっと心の中で笑った。 「……それで|小猫《シャオマオ》、何が
息子の想いを届けることに成功した翌日、|全 思風《チュアン スーファン》は、ふっと目を覚ました。 ──あれ? 私はいつの間に寝てしまったのか。……ああ、眠るなんて行為、本当に久しぶりだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》という|愛《いと》しい子を隣に置くだけ。たったそれだけなのに、彼は安心して眠ることができた。そのことにほくそ笑みながら上半身を伸ばす。「……あれ? そういえば|小猫《シャオマオ》は?」 キョロキョロと、周囲を見渡した。ふと、|廃屋《はいおく》の奥にある台所に目が止まる。 そこには愛してやまない少年が立っていた。後ろ姿ではあったが、|一際《ひときわ》目立つ銀の髪が頭部でひと|縛《しば》りされている。 いつもと違う髪型に首をかしげつつ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の元へと近よった。 子供の髪から|薫《かお》るのは|薔薇《ばら》か。とても落ち着く、品のある|薫《かお》りである。ふわりと|靡《なび》く銀髪は、壁の隙間から差しこむ太陽の光を受け、|黄金《こがね》色に見えた。 |全 思風《チュアン スーファン》は子供の|神々《こうごう》しさに両目を見開く。「──あ、お早う|思《スー》。よく寝てたみたいだね。もう起きるの?」 彼の視線に気づいたようで、子供はくるりと振り向いた。昨日のように青ざめた顔色ではない。血色のよい、薄い紅色を頬に浮かばせていた。 そんな少年は、顔のところどころに|煤《スス》をつけている。 いつもは服で隠れてしまっている白い細腕や首|筋《すじ》が見え、|妙《みょう》に|色香《いろか》を|漂《ただよ》わせていた。「|思《スー》。今、朝ごはん作ってるから、ちょっと待っててね」「|華 閻李《ホゥア イェンリ
|関所《せきしょ》を守りぬいた兵がいた。彼は|母親《オモニ》の足を治療するため、そして誰かを守りたいという想いから兵へ志願する。 母親はそんな息子を|誇《ほこ》りに思い、子の夢を止めることなどできなかった。けれど代わりにと、祝いの品として一本の|蝋梅《ろうばい》の木を送る。「それが、この枝の元の|蝋梅《ろうばい》。あの男の人に大切に育てられて、あなたの……|母親《オモニ》が息子を想う気持ちがこめられている。それがこの木に力を与え、あなたの元へと届けてほしいって願ったんです」 花や植物の気持ちなと、誰もわかりはしなかった。けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》という少年は花の心を伝え、想いを力にする能力を持つ。それは仙術のようで違う。けれど、それを成し|遂《と》げるだけの力を有していたのは間違いなかった。 もちろん眼前にいる中年女性には、そのことなどわかりはしない。 だからこそふたりは|頷《うなず》き合った。子供の隣に|全 思風《チュアン スーファン》が立ち、その細い肩を支える。 |廃屋《はいおく》に|避難《ひなん》している人々は何が始まるのかと、興味|津々《しんしん》に彼らを見た。「──僕は、あの人の想いを全て届けられるわけじゃない。だけど、知ってほしいんです。あの人がどんな想いで亡くなったのか。最後に願った事は何だったのかを……」 子供の声が|廃屋《はいおく》の中を泳ぐ。 両手を胸の前に、そっと置いた。そして枝に|丁寧《ていねい》なまでの口づけをする。すると|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が優しい光に包まれていった。それは|蛍火《ほたるび》のように小さな|粒《つぶ》で、夕焼けのように美しい。 そのときだった。子供の背中から、ひとつの大きな|彼岸花《ひがんばな》が現れる。けれどそれは花びらを散らし、姿、種類すらも変わっていった。 一本の大きな木
屋根の上を飛び移りながら、ふたりは|杭西《こうせい》の西へと進んでいた。 冬の風と、空から降る雪がふたりの体を打ちつける。|全 思風《チュアン スーファン》は平気なようだが、|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそういかなかった。 子供は彼の|漢服《ふく》を頭から被ってはいる。それでも体力のなさは変わらずで、寒さに震えていた。|艶《つや》のあった唇は紫色に変色している。白い肌は土気色に、体温はぐっと下がって指先から冷たくなっていた。「……|小猫《シャオマオ》、大丈夫かい!?」 子供の体調が心配で足を止める。横抱きにした|華 閻李《ホゥア イェンリー》の様子が少しおかしいことに気づき、彼は慌てて下へと降りた。 近くにある|廃屋《はいおく》の|外壁《がいへき》に隠れ、子供の熱を測る。幸いなことに少年に熱はなかった。けれど顔色を見るに、このまま外で行動するということは避けるべきだと判断する。「|小猫《シャオマオ》ごめんね。君が寒さに弱いって知ってたらこんな……」 自身の|不甲斐《ふがい》なさを悔やんだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は紫になった唇のまま、無理やり笑顔を作る。大丈夫だよと、彼の|逞《たくま》しい手に触れた。 ──本当にこの子は優しいな。私に心配かけまいとして、辛いのを押して笑っている。 力があっても、王になっても、大切な子供ひとりすら守れない。そんな自分が憎く、そして情けないとすら感じた。 彼は唇を噛みしめる。「……|小猫《シャオマオ》、辛いときは無理して笑わなくてもいいよ」 「……っ!」 そう言った瞬間、子供の瞳が|潤《うる》んだ。体を両手で包み、その場に|踞《う
|京杭《けいこう》大運河での戦争を目の当たりにしたふたりは、急いで|杭西《こうせい》へと向かった。 到着した町は銀の世界となっていた。 |杭西《こうせい》の中を流れる|河《かわ》には舟が浮かんでいる。河の両脇には家屋が並び、屋根の上に雪が積もっていた。ゆらゆらと揺れる|提灯《ちょうちん》の明かりが、白銀の景色と重なって幻想的に見える。 しかし|肝心《かんじん》の人の姿がなく、町は静まり返っていた。 置き捨てられた|籠《かご》、水|浸《びた》しになった|漢服《かんふく》など。|数刻《すうこく》前まではそこに誰かがいたであろうという、生活感のある風景が置き去りにされていた。「……誰もいないね?」 町の中にある河を進みながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は小首を|斜《なな》めに動かす。呼吸をするたびに白い息が生まれ、はーと吹きかけては両手を温めた。 白い獣である|白虎《びゃっこ》を|暖《だん》として抱きしめる。寒いなあと、体を震わせた。「すぐ近くで|戦《いくさ》があったからね。多分その|影響《えいきょう》で皆、家の中に閉じこもってるんじゃないかな?」 それに雪も降ってるからねと、彼は優しく説明をする。ただ口ではそう言っていても、彼自身、町中での戦争がないことを願うことしかできなかった。 河から確認できる建物をひとつひとつ、|黙視《もくし》していく。 建物が壊れた様子はないので、町の中までは戦争の被害が及んでいないだろうと|推測《すいそく》できた。そのことにホッと胸を撫で下ろしながら、舟を進めていく。 ふと、行き止まりに差しかかった。ここから先は舟では進むことが不可能のようで、ふたりは降りることを決める。「──さあ、私の|小猫《シャオマオ》。転ばぬよう、手を」「ふふ。本当に|思《スー》って優しいよね?」 先に舟から降りた|全 思風《チュアン スーファン》が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取った。 パラパラと|粉雪《こなゆき》が降り続き、ふたりの頭や肩などに落ちて溶けていく。 ときおり足元にいる|白虎《びゃっこ》の鼻にかかり、|虎《とら》はイヤイヤと顔をぶるぶるさせていた。 そんな|白虎《びゃっこ》を両腕で抱き、子供はふふっと|微笑《びしょう》しながら雪を払う。「はは。|牡丹《ボタン》は雪嫌いなの?」「|牡丹《ボタン》?
黒の一族、|黒《こく》。術を得意とし、戦略に長けた者が多いと|云《い》われていた。そのなかでも|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》は、群を抜いて素晴らしい才能を持つと云われている。 そしてその弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は兄にこそ|及《およ》ばぬものの、それでも|黒《こく》族のなかでは優秀な分類と噂されていた。 しかしあるときを|境《さかい》に、弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は反旗を|翻《ひるがえ》したとされる。理由は不明、今どこにいて何をしているのか。それすら謎とされていた──「──|他族《たぞく》の事だから、僕も詳しくは知らない。だけどあの人は|獅夕趙《シシーチャオ》なんていう、二つ名まである」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は嘘でしょと、大きな目をさらに広げる。「ああ、その二つ名なら私も聞いた事はあるかな。確か、獅子のように|獰猛《どうもう》だけど、場の空気を変える力があるって理由で、そういった名前になったとか何とか」 |全 思風《チュアン スーファン》自身、膝の上に乗せて守る子供以外には興味などなかった。しかし人間の住む世界にいる以上は、嫌でも何かしらの情報が入ってくるというもの。 彼にとって興味の対象外であった。けれど風の噂というものは自然と耳に届く。それがいいか悪いかではなく、印象に残る何かがある。 ──|小猫《シャオマオ》を探している最中、あの男の二つ名を何度か耳にした。兄と|喧嘩《けんか》をして家を飛び出したとかいう話だったな。 それかなぜ、このようなところにいるのか。いったい|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男に何があったのか…… ──うん。全く、興味ない。 |全 思風《チュアン スーファン》にとって、完全に興味
|京杭《けいこう》大運河の中枢から少し離れたところに、大きく横に広がった場所がある。縦に長く続く河、|両脇《りょうわき》には人の力では到底登れぬ崖があった。 そんな河を陣取るように、二種類の船が横に並んでいる。ひとつは|杭西《こうせい》、もう片方は枸杞(クコ)の村側へと背を向けていた。 |杭西《こうせい》側を陣取る船の先端には、|朱《あか》の鳥が描かれた旗が掲げられている。 枸杞(クコ)を背にする船はひとまわり小さいが、反対側に浮くものよりも数が多かった。先頭をいく一隻には、緑の亀が|刺繍《ししゅう》された旗が立てられている。 そのどちらもが互いを睨み、冷戦状態となっていた。しかし……「──矢を放て!」 誰かの|一声《いっせい》が場に|轟《とどろ》く。瞬間、|朱《あか》き旗を持つ側から、無数の矢が放たれた。 ひとまわりも小さな船に向かって|疾走《しっそう》する矢は高く上がり、勢いをつけて落下。先頭にいた緑の旗を|携《たず》える船が|沈没《ちんぼつ》していった。 されど、緑の旗の者たちも負けてはいない。弓という飛び道具を使用せずに、剣や槍などで弾いていった。 それでも生身の人間であることにかわりない。|懸命《けんめい》に|応戦《おうせん》するが、次々と弓矢に体を|貫《つらぬ》かれてしまった。 |朱《あか》旗側の圧倒的すぎる力、それがこの場を|収《おさ》めていく。これでは緑の旗を|維持《いじ》すること叶わず。誰もが、絶望色に顔を染めていった── |瞬刻《しゅんこく》、|形勢《けいせい》を|有《ゆう》していた|朱《あか》旗の船に|悲劇《ひげき》が|訪《おとず》れる。 突然、彼らの周囲に波が現れたのだ。|朱《あか》旗の船は波に|拐《さら》われ、ひっくり返ってしまう。何|隻《せき》かは無事だったものの、被害は大きい。 先ほどまで|優勢《ゆうせい
枌洋(へきよう)の村、そして蘇錫市(そしゃくし)。そのどちらにも疑問が残るかたちとなった。 ただひとつ。わかっているのは、どちらも白き服の者たちが関わっていたことだった。 ──|小猫《シャオマオ》のいう事は|尤《もっと》もだ。だけど何もわからない以上、考えてもしかたないんだろうね。 よしと、気を取り直して棒を動かした。「それらについては、情報を集める必要があるんだろうね。最終目的地は王都だ。そこに行くまでに、何かしらを得られるかもしれない」 少しばかり跳ねた水を浴びながら、|垂直《すいちょく》に舟を進ませる。 「とりあえずはさ、|杭西《こうせい》へ行こう。そこで情報を得られればいいんだけど……」 「そう、だね。あ、見て! 花売りだよ」 たくさんの舟が行き交うなかで、たくさんの花がふたりの元へとやってきた。舟の上に乗っている花たちは|彩《いろとりど》りで、|牡丹《ぼたん》や|薔薇《バラ》などが積まれている。 舟員は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の弾んだ声が耳に入ったようだ。微笑みながら近づいてくる。「おやおや、とっても可愛い子だね。どうだい? お花、買っていくかい?」 花売りは|老婆《ろうば》だった。子供の無邪気な笑顔に気をよくし、いくぶんか割引をしてくれるよう。 |全 思風《チュアン スーファン》が子供にどの花を買うのかと問えば、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は両目をキラキラとさせた。まるで宝石箱でも開けるかのような、期待に満ちた眼差しである。 しばらくすると花売りの老婆が乗った舟は、ふたりから離れていった。 代わりに、彼らの舟は花でいっぱいになっている。 花びら
枸杞(クコ)の村で昼食をすませた後、|爛 春犂《ばく しゅんれい》と一旦別れた。男を見守りながらふたりは|杭西《こうせい》へと向かうため、村の隅にある|京杭《けいこう》大運河へと|訪《おとず》れる。 |京杭《けいこう》大運河の向こう|岸《ぎし》は山になっており、降りれる場所はなかった。 |運河《うんが》自体は深く、大人でも足をつけることが困難なほどである。|汚染《おせん》されていない河は水面が|透明《とうめい》で、泳ぐ魚や底が見えていた。 そんな河には運搬船のみならず、観光客を乗せた船も行き交っている。「ねえ|思《スー》、ここから船で行くの?」 小型で美しい髪を持つ、端麗な少年──|華 閻李《ホゥア イェンリー》──は頭の上に|躑躅《ツツジ》を。両腕で|白虎《びゃっこ》を抱きしめていた。 小首をかしげる様は、その見目も相まって非常に愛らしい。二匹の動物も合わさると、さらに|儚《はかな》く見えて、|全 思風《チュアン スーファン》の中にある|庇護欲《ひごよく》をそそった。「うん、そうなるかな」 抱きしめてしまいたい気持ちをこらえ、肩にかかる三つ編みを|払《はら》う。 木で作られた足場に向かい、小舟を棒で引きよせた。片足を足場に。もう片方を船の上に乗せ、動くのを防ぐ。「あそこに山があるだろ? あの山は、かなり道が細くなっててね。馬車では通れないんだ」 山道は険しいため、馬では進むことが難しい。凸凹道もあり、旅に慣れていない者には|厳《きび》しい道ゆきにしかならなかった。「それに、ほら」 空を指差す。そこには海のように|蒼《あお》い空があった。しかし目を|凝《こ》らしてみれば、何かの集団のようなものが飛んでいる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー