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第9話

Aвтор: ナシ天ぷら
飛鳥の目がかすかに動き、瞳の奥に嘲りの色が浮かんだ。

次の瞬間、一粒の涙が頬を伝って流れ落ちた。

反射的にその涙を拭おうとしたが、彼の指先がそれより早く、震える指腹でそっとその雫を拭い取った。

「飛鳥、一体どうしたんだ。お願いだからもうやめてくれ。辛いことがあるなら我慢せず言ってくれないと」

そう言いながら彼女を抱きしめようとしたが、彼女はそっと身体をひねって避けた。

ようやく彼女は視線を彼に向けたものの、その口調はとても冷たく、距離を置いたものだった。

「景、私を海に連れて行ってくれない?」

差し伸べていた彼の手がわずかに止まり、驚いた表情で彼女を見つめた。

「君は水が怖くて、昔から海が嫌いだったじゃないか」

「でも今は、なんだか見に行きたくなったの」

自分の死を偽装する方法として、海への投身自殺を選ぶつもりなのだから。

それを聞いた景は何も言わず、すぐに執事に車の準備を命じた。

車中で彼は片手でハンドルを握り、もう片方の手でずっと彼女の手を握っていた。だが、彼女は以前のようにそれを振り払おうとはしなかった。

景は、彼女が少しだけ従順になったのを感じ、瞳に微かな安堵と笑みが滲んだ。

昔の幸せだった記憶を懐かしむように語り始めた。

幼い頃、彼女が笑顔でレモンキャンディーを差し出してくれたこと。

高校時代、彼女が彼の手を取り、初めて一緒にダンスを踊ったこと。

遠距離恋愛の時、彼女が夜通し飛行機に乗って自分に会いに来たこと。

「俺が大切にしてた女の子が、会いに来るためだけにあんなに長い距離を飛んできてくれた。あの時誓ったんだ。二度と君に苦しい思いはさせないって」

「飛鳥……」

景は車を海辺に停め、優しい目で彼女を見つめた。

「俺は一生、君を愛し続けるよ」

飛鳥も微笑んだが、その笑みの中にはかすかな皮肉が滲んでいた。

嘘を繰り返せば、いずれ自分自身まで騙せるものなのね。

二人は肩を寄せて静かに砂浜に立ち、目の前に広がる静かな海を見つめ、束の間の穏やかさを味わっていた。

その時、景のスマホが突然激しく振動した。

彼は画面を見ることもなく通話を切った。

だが、相手は諦めず何度も何度も電話をかけ続けた。

最後に彼は仕方なく発信者名を確認し、少し離れた場所に行って通話を繋いだ。

相手が何を言ったのか、景の表情が一瞬で変わり、目の奥に欲望の色が浮かんだ。

同時に、飛鳥のスマホに杏からメッセージが届いた。

【秋山さん、明日結婚するんだって?私が一本電話すれば、彼はすぐに私の元に駆けつけてくれるの。その意味、分かる?角田奥様の席は私がもらうべきものよ。だから早く譲りなさい】

杏が迫ってきたのは初めてではなかった。

でも、飛鳥がそれに返信したのは初めてだった。

【いいよ。望み通りにしてあげる】

次の瞬間、電話を切った景が足早に戻ってきて、顔に申し訳なさを浮かべた。

「飛鳥、ごめん。会社で緊急の用事が……」

飛鳥はふと、思い出したように尋ねた。

「景、私がプロポーズに頷くあの日、あなたに言った言葉……まだ覚えてる?」

その問いに、景の心臓がぎゅっと締め付けられた。

「もし、いつか景が心変わりしてしまったら……私に嘘をつかずに言って。私は絶対に景に縋らない。でも、もし景が私を騙したら、私は永遠に景の前から消えるって」

彼女の目には笑みが浮かんでいたが、その笑みは決して目元には届いていなかった。

景はスマホを握りしめ、白くなるほど力を込めた。

長い沈黙の後、かすかに震える手で彼女の頭を撫でた。

「俺は飛鳥をこんなに愛してるんだ。嘘なんかつく必要がないじゃないか」

その瞬間、飛鳥の心に残っていた最後の愛の欠片が、完全に消えてなくなった。

「会社の用事があるんでしょう?早く行けば?」

彼女は淡々とした口調で促した。

景は彼女の静かな様子に、言い知れない不安を感じた。

今離れたら、もう二度と会えない気がした。

だが、さっきの電話を思い出し、彼は迷いを振り切るようにスマホを緩く握り直した。

飛鳥はここにいる。何も起きるはずがない。

それに、明日は結婚式だ。

そう自分に言い聞かせ、安堵のため息をついた。

「海を見終わったら早く帰って休むんだよ。明日、式場で会おう」

そう言い残して、彼は車に乗り込み、走り去っていった。

彼女はその背中を黙って見送った。引き止めず、声もかけず。

10分後、一台の車が浜辺に停まった。

黒いスーツの男が近づいてきた。

「秋山様、国内での秋山様に関する全ての記録は抹消しました。新しい住民票、新しいスマホ、そして航空券もご用意しました。これで、もう誰も秋山様を見つけることはできません」

彼女は黙ってそれを受け取り、自分のスマホを男に手渡した。

「明日、その偽遺体を直接、結婚式場に送って。それと、このスマホは新郎に直接渡してほしいの」

彼に分からせてあげたい。

この数日、杏が何度も私をどれほど嘲り、挑発してきたか。

そして、彼がまた別の女のために嘘をつき、私を置いていった時、私はこの海で命を絶ったことを。

今日が私たちの最後の時間だったということを。

彼の残りの人生に、その後悔が深く刻まれるように。

痛みと絶望に苛まれながら生きていけばいい。

全てを託した後、飛鳥は新しい住民票を胸に抱き、ナンバープレートのない車に乗り込んだ。

「空港まで」

漆黒の夜が過ぎ去れば、遠く地平線に黄金の朝焼けが訪れるだろう……

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    その後数日間、景は雨に打たれたせいで高熱が下がらず、昏々としながら口の中でずっと「飛鳥」の名前を繰り返していた。傍らでは杏が憔悴しきった表情で椅子に座り、ただ無表情で彼を見つめていた。かつて自分が不倫相手として晒され、子供を産むことさえ困難になり、さらに景と揉み合いながら階段から落ちて昏倒し、子供との最後の別れも逃してしまったあの日から、彼への愛情などとうの昔に消え去っていた。今彼女の心に残っているのは恨みと、どうしようもない諦めだけだった。こんな結末を迎えたのは、全て目の前の男のせいだ。けれど同時に、過去に甘やかされ尽くしてきた自分が、既に独り立ちできない存在になっていることも痛いほどわかっていた。彼なしではもう生きていけない。世間に悪評が広まった女を雇ってくれる場所などいるはずがない。だから今、自分ができることは、彼を必死に手放さずにいることだけだった。そう思った瞬間、杏は無意識に手を動かし、横のナースコールを押した。すぐに医師たちが駆けつけ、景に緊急処置を行った。夜も更けた頃、ようやく熱が下がり、景は意識を取り戻した。大病を経て、目の前の杏を見つめる彼の瞳には、もう憎しみはなく、ただ静かな諦念だけが残っていた。自分も杏も、どちらも間違っていた。二人とも、飛鳥に申し訳ないことをした。しばらく沈黙した後、彼はようやく口を開いた。「……離婚しよう」青天の霹靂のような言葉だった。杏の顔は瞬時に血の気を失い、狂ったように首を振った。「いやよ!離婚なんてしない!」彼女は崩れるように彼の前に膝をつき、涙を止められずに訴えた。「景……お願い、離婚なんて言わないで……私のどこがいけなかったの?言ってくれれば直すから……直すからお願い……!」しかし景は、ただ疲れたように目を閉じた。「お互いに間違ってた。これ以上傷つける前に、終わらせた方がいい……」杏はなおも泣きながら首を振り、何としても離婚を拒否した。だが景はそれを無視するように、続けて言った。「離婚後、あの別荘は君の名義にする。それに、1億円の慰謝料も渡す。だから、もうお互い綺麗に終わろう」杏が何か言いかけた瞬間、病室の扉が開き、角田母が飛び込んできた。そして容赦なく彼の頬を叩いた。「離婚なんて絶対許さないわ!」

  • 鳥は自由に   第22話

    結局として、柊也は彼女が選んだ宝石セットだけでなく、残りのいくつかのセットも全て買い取った。澄が彼の手を引っ張り、何か言おうとした瞬間、彼は先に彼女の唇を塞いだ。「澄が笑顔でいてくれるなら、いくら金を使っても惜しくない」澄は顔を上げて彼を見つめた。彼の瞳の中には自分以外、何も映っていなかった。そして二人の関係が安定してきた頃、澄はとうとう頷き、彼と一緒に帰国して彼の家族や友人に会うことを承諾した。飛行機を降りてから引地家の本邸に着くまで、引地家の親族や柊也の友人以外は、彼女が帰国したことを知る者はいなかった。柊也は彼女をとても大切に守っていて、他の誰にも会わせなかったので、彼女もまた知らなかった。引地家の門の外で、景が雨に打たれながら一晩中立ち尽くしていたことを。景が飛鳥が帰国したことを知ったのは、偶然、長明と執事の会話を盗み聞きしてしまったからだった。この数ヶ月間、長明は権力を使って彼を無理やり国内に留め置き、海外に行かせなかった。ようやく彼女が帰国し、帝都に戻ったと知った時、彼はこのチャンスを逃したくなかった。だが夜になり、豪雨に濡れ続けても、待ち人は現れなかった。薄暗い壁灯の下、二階の窓に映し出される二つの影が交差していた。やがて抑えきれない低い呻き声が響き、柊也は毛布で包んだ澄をそっと抱き上げ、浴室へと運んでいった。もう一度激しい愛撫の後、彼女はようやく彼の腕の中で静かに眠りについた。柊也はその額に優しくキスを落とし、服を整えてそっと部屋を出た。階段を降りると、執事がすぐに近づいてきた。「まだ帰っていないのか?」柊也はソファに腰を下ろし、赤ワインを一口飲んだ。「はい、まだ外で雨に打たれています」眉をひそめた柊也は立ち上がり、玄関に向かって歩いていった。漆黒の夜空の下、黒い傘を差した柊也は冷たい視線で景を見下ろした。「角田さん、ずいぶん暇そうだな?」顔面蒼白の景はようやく身体を動かし、目の前の男をぼんやりと見つめた。喉の奥から込み上げてくる苦しさが、ついに口元から零れ落ちた。引地家の扉は最後まで開かれなかった。だが二階の窓に映る二つの影、絡み合う姿。それが飛鳥と柊也であることを、彼は知っていた。彼は彼女の甘い吐息や乱れた声までも脳裏に浮かべてしまい、

  • 鳥は自由に   第21話

    柊也に説得された後、澄ももう景のことに心を煩わせるのはやめた。今の彼女には、もっと厄介な問題があった。柊也が酔った勢いで、ついに二人の間の微妙な関係を壊し、酔ったまま彼女にキスをしたのだ。そして彼女も酔っていたせいで、特に抵抗もしなかった。そのまま二人は流れるように一夜を共にしてしまった。事後、澄は「何もなかったことにしよう」と思っていた。大人同士なのだから、割り切ればいいと。だが柊也は子供のように、責任を取れと言ってきた。じっと不満そうな目で見つめてくる柊也を前に、彼女はつい心が揺らぎ、頷いてしまった。キスマークだらけの腕を伸ばして自分の頬を軽く叩きながら、澄は思った。なんであんな勢いで頷いちゃったんだろう……その気配を感じ取ったのか、背後の男は手を伸ばして彼女を腕の中に引き寄せ、低くかすれた声で耳元に囁いた。「いい子にして、もう少し寝よう」それから数日間、澄の足は地面に着くことがなかった。どこに行こうとしても、柊也は必ず彼女をしっかりと抱き上げて運んだ。その数日間の甘い時間の中で、澄は今まで知らなかった柊也の一面を知ることになった。一昨日、冷たい水を飲みすぎたせいで生理痛がひどくなり、倒れ込んでしまったとき。丸一日、柊也は彼女をずっと抱きしめ、お湯を飲ませ、優しくお腹を撫でてくれた。仕事を処理しているときでさえ、大きな手は彼女のお腹の上でそっと動いていた。うとうとと眠り、またぼんやりと目覚めたとき。澄は彼の手を引き寄せ、かすれ声で言った。「もうだいぶ良くなったよ……会社は……?」引地家の国内事業は少しずつニュージーランドに移転し始めていた。本来なら柊也はこの時期、会社で忙しくしているはずだった。それなのに、彼はずっと家で彼女に付き添っていた。柊也は軽く笑い、頭を低くして彼女の額にキスを落とし、柔らかく言った。「大丈夫。俺がいなくて回らないような会社なら、とっくに終わってるよ」「今一番大切なのは、君と過ごすことだ」やがて澄の体調が完全に回復すると、柊也は車を出して、彼女を連れてキャンプへ向かった。今回のキャンプ地はホークスベイのクリフトン高級グランピング施設。山頂に設置されたハンモックに揺られながら、地元産のワインを飲みつつ、遠く海に沈む夕日を眺

  • 鳥は自由に   第20話

    残りの言葉を柊也は口にせず、ただ彼女の背中を優しく撫でながら、「俺がいるから大丈夫だ。あいつには絶対君を見つけさせない」とだけ告げた。澄は視線を落とした。彼女と景の間で言うべきことは、あの日、自殺を図った時にすでに全て終わっている。もう二度と彼を見たくなかったし、彼のどんな言い訳も聞きたくなかった。浮気は浮気だ。言い訳などいらない。二人はただ静かにソファに並んで寄り添い、時がゆっくりと過ぎていった。この場所は穏やかな時間が流れていたが、一方で国内のとある病院では修羅場となっていた。景は回復したばかりの脚を顧みず、ボディーガードの拘束を無理やり振り解こうと必死だった。彼は今すぐニュージーランドへ行き、飛鳥に会いたかった。彼女が死んでからというもの、どうしてもその死を受け入れられなかった。たとえ自分の目で遺体を確認し、彼女の遺灰を自分の手で海に撒いたとしても、心の中にはいつまでも「彼女はまだ生きている」という執念が残っていた。それをごまかすために酒に溺れ、最後には彼女に酷似した女性を見つけて、偽りの物語を作り上げ、自分を騙し続けてきた。だが、茜から送られてきた動画を見た時、彼はついに現実の飛鳥を目の当たりにした。その瞬間、死んでいた心が蘇り、幻想から現実に引き戻された。彼女がどうやって死を装い逃げ出したのか、どうやってニュージーランドまで行ったのか、それは知らない。ただひとつわかるのは、彼女はまだ生きている、ということだ。胸の奥から抑えきれない歓喜が湧き上がり、脚の痛みも忘れて病室を飛び出そうとした。彼女に伝えたい。今でも君を愛しているって。ずっと忘れてなんかいなかったって。もう一度プロポーズするんだ!しかし、ボディーガードたちは鉄壁のように立ちはだかり、彼がどれだけもがいても微動だにしなかった。その時、廊下の奥から大きな影が足早に近づいてくる。ボディーガードたちは長明が来たのを見て、すぐに拘束を解いた。次の瞬間、長明の拳が容赦なく景の顔面を殴りつけた。「いつまで騒ぐつもりだ!」「姉がわざわざお前に知らせたのは、妄想から目を覚ませってことだ!探しに行けって意味じゃないんだぞ。自分がやったこと思い出してみろ、どの面下げて会いに行くつもりだ。許されるとでも思ってんのか?」

  • 鳥は自由に   第19話

    柊也は口元が緩むのを必死に抑え、何口かお茶を飲んでから、何気ない口調で言った。「角田家がまたニュースになってるよ」そもそも杏はVIP病棟に入院しておらず、景と揉めた時は多くの患者が目撃し、中にはその場で生配信した者までいた。長明は疲れた様子で眉間を揉み、ため息をつく。彼が角田家の社長職を引き継いでからというもの、景と杏は頻繁に問題を起こしてばかりだった。「目が覚めたら、すぐにでも家に帰らせようと思っている」最初にこの話を聞いた時、角田母は大騒ぎして反対したが、彼が「まだ騒ぐなら景一家への経済的支援を打ち切る」と脅した途端、角田母もようやく黙った。彼ら一家が家を出て行った後は、どう騒ごうがもう自分には関係ない。「その時には声明を出すつもりだ。角田景一家は今後、角田家本家とは一切関係ないと」もう彼は、彼らの尻拭いをするつもりはなかった。この件について、柊也はそれ以上深く聞かなかった。ただその内容をメッセージで澄に送信すると、ニュージーランドに戻る準備を始めた。こんなに長い間離れていたせいで、もう彼女に会いたくてたまらなかった。三ヶ月ぶりに、澄は柊也と再会した。二人はしっかりと抱き合い、言葉も出なかった。しばらくして、澄はようやく彼の胸から顔を上げ、柔らかく微笑んだ。「久しぶり」彼は目元を優しく緩め、もう一度彼女を抱きしめ返した。「ああ。久しぶり」二人は手を繋いだまま空港の外へと歩き出した。だがその背後、少し離れた場所でスマホを持っていた一人の女性が目を大きく見開いた。景の異母姉、角田 茜だった。彼女は二人の後ろ姿を見つめながら、思わず自分の手首を強くつねった。見間違いじゃない。今、彼女が見たのは、生きている飛鳥だった!だが彼女は確かに覚えている。あの時、飛鳥は自殺して海に飛び込んだ。火葬の場にも自分は立ち会っていたはずだ。死んだ人間が生き返るはずがない。秋山飛鳥は最初から死んでいなかった?茜は数ヶ月前にも飛鳥を一度見かけたことがあった。だが、その時は「世の中には似ている人がいる」と自分に言い聞かせ、深く考えなかった。しかし今、飛鳥があの背の高い男性と会話を交わし、抱き合う姿を見て、疑いは確信へと変わった。彼女は俯いて、震える指でこっそり撮影した動画を繰

  • 鳥は自由に   第18話

    杏が手を伸ばす前に、景は彼女の手を強く掴んで後ろに突き飛ばし、そのまま壁に押し付けて首を締め上げた。「また飛鳥を傷つけたら、お前を殺してやる!」そう言い放つと、彼は顔面蒼白な彼女を一瞥もせず、【飛鳥】を大事そうに支えながら別荘の中へ入っていった。杏はその場で硬直し、しばらくしてからようやく我に返り、崩れ落ちるように地面に座り込み、荒く息を吐き続けた。もう少しで——ほんのもう少しで、彼に本当に殺されるところだった!恐怖が全身を覆い尽くし、逃げ出したいという本能が体を突き動かしたその時、下腹部に激痛が走り、続けて血の臭いが広がってきた。顔面が一瞬で真っ青になり、両手でお腹を必死に庇いながら絶叫する。「赤ちゃん!私の赤ちゃん!」「誰か!助けて!」すぐに別荘の使用人たちが駆け寄り、彼女を車に乗せて病院へ向かった。離れた場所からその一部始終を見ていた招待客たちは皆舌を巻き、口々に噂し合った。柊也もまた、面白そうに眺めながら隣の客と話し始めた。「景の婚約者は自殺したって聞いてたけど……これは一体どういうこと?」あれだけ婚約者を愛していたはずなのに、どうして今さら飛鳥よそっくりの身代わりを連れてきたんだろう。すると隣にいた客は慌てて「しーっ」と人差し指を立て、周囲を見回してから小声で言った。「この話はあくまで内緒だぞ。特に景の前で口にするなよ」「どうして?」柊也は興味深そうに眉を上げた。「婚約者が死んでから、彼は社長の座も追われて……それ以来、精神がどうかしてしまったらしい」「いつも『飛鳥は死んでない』って言ってるんだよ。『ただ怒って家を飛び出して海外に行っただけで、もうすぐ帰ってくる』とか、『俺が説得して帰らせる』とか」「最初はみんな、悲しみから来る妄言だと思ってた。だけどある日突然、本当に彼女そっくりの女を連れて帰ってきて、『これが飛鳥だ』って言い出してさ」「最初は冗談かと思ったんだけど……本気だった。慌てて家族が病院で検査を受けさせたら、やっぱり脳に障害が出ていたらしい」「彼の記憶の中では、飛鳥は浮気がバレて怒って海外に行っただけで、自殺なんてしてないことになってる。長い間なだめて、やっと帰ってきてくれることになった。条件は、杏が子供を産んだら離婚して、自分と改めて結婚式を挙げること

  • 鳥は自由に   第17話

    空港で、澄は自ら柊也を軽く抱きしめて、優しく言った。「気をつけて」柊也も彼女を抱き返し、しばらくそのままでいてからゆっくりと彼女を離し、搭乗ゲートへと向かっていった。角田家の本宅。今や角田家の当主は景ではなく、異母兄の長明だった。家系の後継者の結婚式ということもあり、使用人たちは早朝から別荘を精一杯飾り付けていた。そして、別館のある窓辺の向こう側で、杏は静かに立ち尽くし、羨望の眼差しでその光景を見つめていた。景との不倫が世間に知られてから、二人の立場は地に落ち、特に彼女は何もかもを失った。角田家の両親はその件で彼女を極端に嫌悪し、景も彼女が飛鳥に送ったあの写真のことが原因で、夜遅くまで家に帰らなくなった。もし彼女が今、角田家の長男を身籠っているという理由がなければ、とっくに路頭に迷っていたに違いない。そう思いながら、彼女は自分の腹をそっと撫で、口元に苦々しい笑みを浮かべた。自分の立場をよく理解しているからこそ、角田家に迎え入れられた後は、以前の傲慢な態度を捨てて大人しく従順に振る舞ってきた。角田家が与えるものは素直に受け取り、角田家が口にしないことは決して自分から聞くこともなかった。だから今でも、景とは婚姻届を出しただけで、正式な結婚式は挙げていない。かつて彼女は、飛鳥を追い出した後、自分がどれほど華やかに角田家に嫁ぎ、どれほど贅沢な生活を送るか夢見ていたこともあった。しかし現実は、こんなにも惨めに窓の影に隠れ、他人の結婚式を盗み見ることになるとは思いもしなかった。妊娠しているため、角田母は彼女を客人の前に出さないよう命じていたが、本当の理由はただ恥ずかしいからだ。あれだけ月日が経ったというのに、世間の人々は彼女を見ると平然と過去の醜聞を持ち出し、彼女を、景を、果ては角田家を笑い者にしていた。中には彼女に「一晩いくらなんだ?」と嘲るように聞いてくる者までいた。杏は屈辱と羞恥で顔を真っ赤にし、身を震わせたが、最後は角田母が冷たい顔でその相手を追い出してくれた。その際、「余計なことはするな」ときつく釘を刺されたことも忘れられない。空が次第に明るくなり、招待客たちも次々と席につき始めた。柊也は結婚祝いの贈り物を長明に渡し、少し世間話を交わした。帰ろうとした時、不意に長明が声をかけて

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