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第7話

Author: ポントウ・ロウ
予想通り。

両親の声が病室の外で聞こえた瞬間、澄香はさっと部屋を飛び出して、母の胸に飛び込んで泣き始めた。

私が入院しているのを見た両親は、最初こそ少し驚いた様子だったが、すぐに冷たい視線を私に向けてきた。

「静乃、ただ献血くらいで、病気だなんて大げさにしないで。さっさと病室を空けて、家に帰って妹にスープでも作ってやりなさい」

私に向かって罵倒を浴びせると、どうやらその気持ちが収まらなかったらしい。

澄香は低くうなだれ、母親の耳元で何かを囁いた。その瞬間、母の顔が一気に険しくなった。

「今すぐ澄香に謝りなさい!何であんなひどいことを言ったの」

私はその言葉を聞いて、思わず笑い出してしまった。

もう、彼らに対しては完全に諦めていた。

「なんで謝らないといけないの?私、何も間違ったことを言った覚えはないけど?澄香がやったことを、どうして私が言ってはいけないの?」

「それに、私が嫌いだってわかってるのに、なんで毎日私の前に現れるの?まだ私の夫は慎也だってこと、忘れないでよ。私たちが離婚していない限り、彼にべったりくっつくのはおかしいでしょ」

「それにね、あなたたちが澄香のことばかり可愛がるのは、もう分かってるの。だったら、私はいなくてもいいよね。私のことが好きじゃないっていうのも、ずっと感じてたし。だから、これからはお互いに関わらない方がいいと思うの」

部屋の中がしんと静まり返り、誰もが私の言葉に驚いて言葉を失った。

父は顔を真っ赤にして、私に向かって怒鳴りながら近づいてきた。

「お前、よくもそんなことを言えたな」

「私に手を出したら、警察に通報して暴力を受けたって証明してもらうよ。今、病院だから、診断書なんてすぐに取れるから」

私の一言で、父はその場に立ちすくんだ。近づいてくることすらできなかった。

母は怒り狂って、口汚く私を罵り始めた。

「どうしてこんな冷酷で自己中心的な娘が生まれてしまったのか!私たちと縁を切りたいのなら、もう勝手にすればいいけど、あなたが今日まで生きてこれたのは、私たちのおかげだって、忘れないでよ」

子どもの頃のことを思い出す。私はいつも、空腹と満腹の間をさまよっていた。

食事一つとっても、両親の機嫌や澄香の嫌がらせ次第だった。

もし近所の人たちの助けがなければ、私は今のように健康に育つことさえできなかった
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    「申し訳ありませんが、手術の内容は患者様のプライバシーに関わるため、お答えできません」看護師の冷静な返答に、慎也の表情がますます険しくなる。「俺は家族なんだ!家族なら、何の手術か知る権利があるはずだろう」「ご家族であれば、なおさら手術内容をご存知なはずです。こちらが説明する必要はありません」その一言に、慎也の胸の奥にあった不安が一気に膨れ上がった。答えを得られないまま、彼は手術室の扉へと駆け寄り、拳で何度もドアを叩いた。「開けろ……!頼む、開けてくれ」気づけば、その目は真っ赤に染まり、額にはうっすらと冷や汗がにじんでいた。脳裏には、先ほど見かけたあの一瞬の光景がまるで焼き付いたように何度も蘇る。ーーけれど、手術はすでに始まっていた。止まることはない。騒ぎが大きくなり、最終的に彼は警備員に両脇を抱えられ、そのまま病棟の外へと連れ出された。一方で私は、手術台の上に横たわり、麻酔にぼんやりと意識が沈んでいく中ーー彼の怒鳴り声が、かすかに耳に届いた。その瞬間、私は口元に、かすかな微笑みを浮かべた。どこか、とても晴れやかな気持ちだった。ーーそして、そのまま深い眠りへと落ちていった。再び目を覚ました時、慎也はすでにベッドのそばにいた。どうやら、長い間ここにいたようだった。目の下にはくっきりとした隈、充血した目がそれを物語っていた。私が目を開けると、彼はすぐさま椅子に腰を下ろし、額に手を伸ばしてこようとした。私はその手を本能的に避けた。弱った体を無理に動かしながら、彼との距離を取った。慎也は一瞬、動きを止めた。その手は宙で止まり、信じられないといった様子で、震える声を漏らした。「……お前、今、俺を避けたのか?どうして?」まさかそんなことを口にするとは。私は、あまりの図々しさに言葉を失った。沈黙する私に、彼の顔が急に強ばる。恐れ、怯えーーそんな色が一瞬、彼の表情を支配した。「……静乃?ねぇ、なんで何も言わないんだよ?」私の喉から、かすれた声がようやく漏れた。「もう……話す意味なんてある?」その言葉に、慎也の唇が固く結ばれる。何かが、彼の手の届かない場所へと離れていく。そんな焦燥が、彼の全身から滲み出ていた。彼は話題を変えるように、無理やり口を開いた。「静乃……お前

  • 子どもを失ってから、彼はやっと愛をくれた   第4話

    私は鼻の奥がツンと痛むのを必死に堪えながら、涙がこぼれないように顔を上げた。慎也に問いかける。「……私、妊娠してるの知ってるよね?しかもさっき400mlも献血したのに、今から豚の角煮と鯛のお吸い物作れって?」彼の顔からは、さっきまでのご機嫌取りの表情が一気に消えた。うんざりしたような口調で言い放つ。「いちいち文句ばっかり。料理ひとつ頼んだくらいで大げさなんだよ」「ただ400mlの献血でしょ?医者がこれ以上はダメって言わなかったら、もっと抜いてもらってたよ」私は信じられないという目で彼を見つめた。こらえていた涙が、一気に頬を伝って溢れ出す。「……じゃあ私は、あなたにとってただの道具なの?じゃあなんで結婚なんかしたのよ」慎也の目が一瞬、動揺で揺れた。なにか言おうとした、その瞬間ーー彼のスマホが鳴った。画面の向こうから聞こえてきたのは、澄香の甘ったるく弱々しい声。「ねえ、慎也おにいちゃん……私、すごく具合悪いの。静乃お姉ちゃん、ご飯作ってくれないかな?でもお姉ちゃん、私のこと嫌いだから……きっと私のことなんか死ねばいいって思ってるんだよね」その後すぐに、両親の声が電話越しに聞こえてきた。澄香を慰める声。そして私を罵る声。「澄香、泣かないで。静乃が絶対に作るから。もし作らないなら、明日からあの子にはうちから出て行ってもらう」「そうよ、ただご飯作るだけでしょ、命を取られるわけでもあるまいし」慎也は怒りに我を忘れたように、私の髪を鷲掴みにし、スマホの前に私の顔を引きずった。目を見開いて、怒鳴りつける。「作るのか!?早く澄香に言えよ」髪の毛が頭皮ごと引き剥がされそうで、全身が震えるほどの痛みに襲われた。……目の前にいるこの男は、かつて私にとって救いだった人。それが今では、私を奈落に突き落とす悪魔そのものになっていた。私は、彼に完全に絶望した。「……作る」「作るよ」その三文字を、歯の隙間から絞り出すように吐き出す。慎也はようやく満足したように私を放し、無表情のまま私を一瞥して、スマホを持ってベランダへ出ていった。部屋には、床に崩れ落ちた私だけが、取り残されていた。しばらくして、私はふらつく体を引きずるようにしてキッチンへ向かった。慎也がいつ来たのかも分からなかった。彼は得意げ

  • 子どもを失ってから、彼はやっと愛をくれた   第3話

    彼が吐き捨てるように言ったあの言葉、私はちゃんと、聞いていた。ベッドに横たわりながら、私は深く息を吐いた。いつの間にか、目の奥がじんわりと熱くなる。慎也と出会ったのは、あるミュージカルの舞台だった。私はステージに立つダンサー、彼はその公演を手掛ける音楽家。恩師の紹介で、私たちは出会った。初めて彼を見た瞬間、私は心を奪われた。音楽に向き合うあの真剣な眼差しーーその姿が、どうしようもなく美しく見えた。リハーサルのある日、不注意で舞台から足を滑らせた私を、慎也が咄嗟に受け止めてくれた。彼はその拍子に右足を骨折してしまったのに、私を抱きしめながらこう言った。「……怖がるなよ。別にお前に償えって言ってるわけじゃない。俺の脚なんか折れたところで、演奏にはさして支障はない。でも、お前の脚が折れたらーーお前の人生が変わってしまうだろ?」その言葉に、私は完全に心を預けた。彼の優しさに、深く深く溺れていった。でも今ならわかる。音楽に真摯な人間だからといって、愛に対しても誠実であるとは限らない。彼が踊る私に惹かれたようにーー青春を踊る澄香にも、易々と心を向けたのだ。うとうと眠っていたところ、慎也が部屋のドアを開けて入ってきた。手には、私の大好物だった鮭茶漬け。「ほら、起きて。何も食べずに寝ちゃだめだよ、身体に良くないから」優しく言いながら、私の傍に近づく。けれど私は、微動だにしなかった。珍しく彼は怒ることもなく、逆にそっと私を起こして、穏やかに語りかける。「俺に腹を立ててて食べたくないのはわかるけど……赤ちゃんのことも考えてくれよ。まだ小さいんだから、栄養が必要なんだよ」「この鮭茶漬けを食べてくれたら、それでいい。怒るならそれからいくらでも怒っていいから」そんなにまでして、彼は私を気遣っていた。まるで、別人みたいに丁寧で、優しくてーーでも、私の胸の奥は、かえって冷えていくばかりだった。思わず彼の顔を見た。碗を持つその手が、少しだけ震えている。目には、どこか媚びるような色が滲んでいた。最後に彼がこんな態度を見せたのは、あの時だった。私に、ダンスコンクールの出場枠を譲ってほしいと頼んできた時ーー澄香のために。「どうせ妊娠してるんだし、もう大会には出られないだろ?だったら、その枠を澄香に譲ってあげてもいいじ

  • 子どもを失ってから、彼はやっと愛をくれた   第2話

    慎也が別荘を出て行ってからーー彼からの連絡は一切なかった。朝から夜まで、私はずっと待っていた。それでも彼は、帰ってこなかった。空腹に耐えられなくなって、私はふらつく身体を支えながら、なんとかキッチンへ向かった。ガス台の上に置かれた圧力鍋を見て、ふと手が伸びる。蓋を開けて、中を覗いてみた。案の定、中には鶏スープしか残っていなかった。それも、骨と脂身ばかりのくず肉、首や尻の部分だけ。胸肉やもも肉といった美味しい部分は一切なかった。……慎也が持って行ったのだろう。あの弁当箱の中に、きっと全部詰めて。数秒、私は鍋の中をじっと見つめていた。そして、ふっと小さく笑いが漏れた。……私は、いったい何を期待していたんだろう。どこかで、まだ「夫」としての温情を期待していたのかもしれない。けれどそれは、あまりにも馬鹿げていた。私はそのまま鍋の蓋を閉め、冷蔵庫の隅から乾麺を取り出し、ただの水で、一杯の素うどんを茹でた。出汁も、具も、何もない。けれど、それで充分だった。今の私は、それしか喉を通らない。そのときだった。慎也が帰ってきたのは。私はフラフラとした足取りで、素うどんの入った茶碗を運んでいた。それを見た慎也は、眉をわずかにひそめる。「妊娠してるのに、そんなもん食ってるのか?それで栄養なんて摂れるわけがないだろ」そう言いながら、私の腕を支え、ダイニングの椅子を丁寧に引いてくれた。……珍しく優しい。私は思わず、慎也を一瞥した。椅子に座り、うどんを二口ほど啜って、箸を置いた。「誰かにご飯を作ってもらえるような身分じゃないからね。せめて、麺ぐらいは自分で茹でないと」私の言葉に、慎也の顔に一瞬、ばつの悪そうな表情が浮かんだ。咳払いを一つして、私をチラリと見る。「……今日、お前があんなことばっか言うから、ムカついて全部忘れてたんだよ。それに、鶏肉はちゃんと残しておいただろ?妊婦なんだから、好き嫌いしてる場合じゃない。肉なら何でも栄養になるんだよ」慎也はぶつぶつと文句を言い続けた。私はこめかみを押さえ、頭痛をこらえるように顔をしかめた。顔色はますます青白くなる。「……お願い、黙って。あなた、本当に忘れたの?私が鶏の脂の匂いを嗅ぐだけで吐き気がするって、何度も言ったのに」怒りかけた慎也は、口をつぐんだ。その反応

  • 子どもを失ってから、彼はやっと愛をくれた   第1話

    「綾瀬さん、本当にこの子を堕ろすつもりですか?神城さんの状態はご存知のはずです。この子を失えば、彼がもう一度父親になるのは極めて難しいんですよ。中絶してしまったら、もう取り返しがつきません」病院側のスタッフは信じられないという顔で私を見つめ、神城慎也(かみしろ しんや)の健康診断書を差し出してきた。「綾瀬さんが今回、神城さんの子どもを授かったのは、医療的にも奇跡としか言いようがありません。ですから、よく考えて」「結構です。堕ろしてください」私は静かな口調で医師の言葉を遮った。この子のことを気にかける人間が、誰一人としていないのなら。わざわざ命がけで出産して、この世界で苦しませる必要なんて、どこにもない。私は中絶手術の予約を終えると、そのまま慎也の別荘へ戻った。彼はちょうどキッチンから出てきたところで、手に弁当箱を持っていた。私の疲れ切った姿を目にしても、慎也は一切足を止めなかった。ただ冷淡に言い残しただけだ。「鍋に栄養補給の鶏スープを残しておいた。夜ご飯のとき、ちゃんと飲めよ。さっきあれだけ献血したんだから、しっかり補給しろ」そのまま玄関へ向かおうとする彼を見て、私は思わず口を開いた。「あなたは……どこへ行くの?」その瞬間、慎也の眉がピクリと動いた。あからさまに不機嫌そうな表情で返す。「病院に決まってるだろ。澄香はあんな大事故に遭ったんだ。誰かが付き添わなきゃいけない。お前みたいに他人事みたいな顔して、何も感じない奴じゃないんだよ」そう言いながら、彼は私に向かってまるで見るに堪えないものを見るような目を向けた。「献血一つであれこれ言って……お前、どこまで冷血なんだ?実の妹なのに、助ける気もないなんて」その瞬間ーー心がガラガラと音を立てて崩れ落ちるような気がした。私は唇の内側を噛みしめ、血の味を感じながら、慎也をじっと見つめた。「私が冷血?それって……誰のためにこんな体になったと思ってるの?この子がいなければ、私はとっくに澄香に血をあげてた」子どもという単語を聞いた瞬間、慎也は勢いよく距離を詰め、私の目の前に立ちはだかった。その目には怒気がこもり、睨みつけるように彼女を見下ろす。「まだ子どもを言い訳にする気か?ただ献血だろ、命を取るわけじゃない!お前、自分を何様だと思ってる?ちょっと血を出

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