「雲上牧場大冒険、ステージ1:にんじんを守れ!親子三人乗り自転車で、3キロ先のキャンプ場を目指せ。道中にはクレイジーアルパカ部隊が出没。親子チームは一バケツ分のにんじんとキャベツを持って走行中、アルパカに食べられないよう守ること。ゴール時点で、にんじん1本につき3ポイント、キャベツの葉1枚につき1ポイント。獲得ポイントはお昼ごはんの食材と交換可能」瑛優はほとんどの文字が読めたので、カードを読み上げた後「おじちゃん、分かった?分からなかったら、もう一回説明してあげるよ?」——自分の知能を何だと思ってるんだ?天野は頷きながら、むっつりと「分かったよ」と答えた。先生たちは三人の姿を眺めながら、思わずため息をつく。「あの方が瑛優ちゃんのお母さんの兄じゃなかったら、絶対推しちゃうわ!イケメンに美人、体格差もたまらない!片手で瑛優ちゃんを抱き上げちゃうなんて!もう、すっごく似合ってる!」担任は手のミッションカードで顔を隠しながら、同僚に囁いた。「素敵な方だけど、瑛優ちゃんのお母さんと苗字が違うのよね。もしかして血の繋がらない兄妹かも……」同僚の目が輝いた。「擬似兄妹!?それは萌えるわ!」担任は夕月と天野の方を見つめ直し、心から言った。「最優秀ファミリー賞は、もう決まりね!」先生たちがこっそり話し込んでいる中、黒いマイバッハが牧場に滑り込んできた。車のドアが開き、まるで雑誌から抜け出てきたような男性が降りてきた。天野の男らしい魅力的な容姿と逞しい体格に見とれていたスタッフたちは、また違った雰囲気を持つ美しい男性に目を奪われた。「橘社長じゃない?うちのグループの橘社長よ!」雲上牧場エリアは橘グループが開発し、隣接するマンション群も橘グループの投資物件だった。「本当に橘社長だわ!」「かっこいい!噂どおりね!」騒がしい声に気付いた夕月と瑛優だったが、「橘社長」という言葉を耳にした途端、振り返る気も失せた。橘冬真?見る価値なんてないわ。キャップを被った悠斗が胸を張って先頭を歩く。上機嫌な様子だ。楓と冬真は肩を並べて歩いていた。二人とも同じアウトドアジャケットを着て、楓は悠斗と同じデザインのキャップを被っている。車から降りた楓は、ガムを口の中で転がしながら、時折ピンク色の風船を作っては割っていた
先生とスタッフが二人の前に歩み寄ってきた。「まあ、悠斗くんのお父様ですね?珍しいわ。悠斗くんの親子活動に参加されるのは初めてですものね」冬真はいつもの冷淡な表情のまま、無言で軽く頷いただけだった。その近寄りがたい、人を寄せ付けない態度に、先生は思わず身震いした。楓は得意げに口元を歪め、冬真の顔を指差しながら先生に言った。「この人ね、全然来る気なかったのよ。私が朝一で橘家に乗り込んで、ベッドから引きずり出してきたの」大げさな物言いだった。確かに早朝に橘家を訪れ、冬真の部屋に直行したものの、なんとドアにカギがかかっていた。楓が外で執拗にドアを叩き続け、しばらくして完璧に身支度を整えた冬真が姿を現した。悠斗は小さな胸を誇らしげに張った。パパを親子活動に連れてこれるのは、楓兄貴だけなんだ。楓兄貴がいなかったら、毎年の親子活動にパパは顔も出さなかっただろう。あの面倒くさい母さんが自分と瑛優の面倒を見てくれるだけで、いつも競技で母さんが一位を取れるか心配で心配で仕方なかった。「藤宮さんは橘社長のご友人としてご参加なんですか?」担任は当然楓のことを知っていた。学校で数々の問題を起こしてきた楓のことを、快く思っていなかった。楓の姿を見た瞬間、担任は直感的に悟った。今日の親子活動でも、また何か厄介なことを起こすに違いない。担任は厳かな表情で説明を始めた。「親子活動には明確な規定がございまして、実の親でない場合でも、必ずお子様の親族であることが条件となっています。それは子供たちに帰属意識を持たせるためです。親の存在は誰にも代替できません。もし誰でも親の代わりが務まるとなれば、活動中に子供たちが違和感を覚え、マイナスな感情を抱くかもしれません。それは子供の心身の発達に良くない影響を及ぼす恐れがあります」楓の表情が一変した。「私は悠斗くんのパパよ!!」担任を睨みつける楓の目には、明らかな警告の色が浮かんでいた。楓の剣幕に一瞬たじろぎながらも、担任は深く息を吸うと冬真の方に向き直った。「橘様、いつもなかなかご連絡が取れませんので、本日お会いできたついでに少しお話させていただきたいことが……」「あんた、ただの先生でしょ。保護者に余計な関心持たないでよ!」楓が嘲るように吐き捨てた。楓の言葉を無視し、担任は真剣な面
冬真の眉間に深い皺が刻まれた。「執事からそのような報告は一切受けていない」担任は諦めたような目で冬真を見つめた。以前なら、悠斗と瑛優に何か問題があれば、夕月に電話一本で即座に対応してもらえたものだ。だが今や悠斗は問題児と化し、何度も橘家の執事に連絡を入れても、いつも適当な返事で済まされるばかり。「そんな些細なことで大げさね!」楓が声を張り上げた。担任は怒りを抑えきれない様子で楓に向き直った。「あなたが悠斗くんのパパを名乗るのを見て、全て分かりました。悠斗くんのジェンダー認識の歪みは、誰が引き起こしているのかって」「なに言ってんだ!このやろう、ぶっ飛ばすぞ!」楓の表情が一変し、まるで鬼のような形相になった。今にも袖をまくり上げて担任に殴りかかりそうな勢いだ。楓の剣幕に担任が思わず後ずさると、悠斗が跳び上がって手を叩いた。「そうだ!ぶっ飛ばしちゃえ!」まさに大人の真似をしたがる年頃の悠斗は、悪態をつくことで自分が強くなったような気分になる。他の子供たちを怖がらせることができれば、自分も一人前の大人になれたような気がするのだ。「楓!」冬真の叱責の声が鋭く響いた。そして担任に向き直り「悠斗が学校で問題を起こしたことは、しっかりと指導いたします」担任は唇を引き結んでから切り出した。「子供の教育には環境が何より大切だと古くから言われています。良い環境で育てば良い子供に育つ。悠斗くんの健やかな成長のために、周りにいる大人の方々の影響というものを、もう一度じっくりとお考えいただければと……」「へぇ?女の争いを売ってきたわけ?」楓が挑発的な声を上げた。担任は呆気にとられた表情を浮かべる。なんという突飛な発想なのだろう。「藤宮さん、あなたは……」教養ある者としての矜持から、担任は楓から視線を外し、冬真にミッションカードを差し出した。「ステージ1のミッションカードです。悠斗くんと素敵な親子の時間を過ごしていただければ」楓の両手が拳を作る。担任を見つめる目には軽蔑と敵意が満ちていた。——このアマ、カードを渡す時にお尻フリフリして。こんな媚び媚びした態度!絶対に冬真のこと狙ってるわ!——待ってなさい。ただの保育士のくせに、私が悠斗を悪い方向に導いてるなんて匂わせて。こんな露骨な嫌がらせ、きっちり痛い目に遭わせてや
「ママは真ん中に座って!私が後ろでアルパカから守ってあげる!絶対に野菜泥棒なんかにママの近くに来させないよ!」瑛優が張り切って言った。三人で三人乗り自転車に乗り込んだ。一方、楓も役割分担を済ませていた。「冬真は前で、思いっきり漕いでね。悠斗くんは人参を守って。私がアルパカの追い払い係をするわ」楓は内心で計算していた。きっとアルパカは人参を狙ってくる。その時、人参を守っている人に唾を吐きかけたり、服を噛みちぎったりするはず。自分も冬真も唾をかけられるのは御免。だったら、それは悠斗に任せるしかない。もし悠斗が人参を守り抜けたら、きっと自分のことを頼もしく思ってくれるはず——楓はそう考えていた。冬真は息子に野菜の入ったバケツを抱えさせることに不安を覚えた。悠斗がこれを守り切れるとは思えなかったのだ。だが楓が言い終わるや否や、悠斗は人参とキャベツの詰まったバケツを抱えて飛び出していた。「絶対に野菜を守ってみせるよ!」小さな戦士のように目を輝かせる悠斗。大人である楓の方がアルパカの追い払いには適任だろうと考え、冬真もこの役割分担を了承した。三人乗り自転車の最前列に冬真、真ん中に悠斗、後部には楓が座った。出発の態勢が整った頃、天野たちのチームも動き出していた。「パパ、頑張って!追い抜くんだ!」悠斗が前のチームを見て叫んだ。冬真は夕月と瑛優の後ろ姿を見つめた。その前に座る天野は頭一つ分高く、まるで大きな盾のように二人を守っているように見えた。夕月が天野を呼んだのは、自分に見せつけるためか——冬真は内心で考えた。天野昭太に勝てると夕月は思っているのだろうか?冬真は軽蔑するように笑った。天野の身体能力は確かに優れている。だが親子遠足の勝負は単なる体力だけでは決まらない。園内を五、六百メートル進むと、アルパカの群れと遭遇した。まるでデリバリーを見つけたかのように、アルパカたちが一斉に駆け寄ってきた。夕月は素早く身を屈め、上半身でバケツの口を完全に覆い隠した。鮮やかな色のバケツを見つけたアルパカたちは、中に餌があると察したのか、一斉に夕月に噛みつこうと寄ってきた。「こらっ、離れなさい!」アルパカたちが夕月に近づこうとした瞬間、瑛優が小さな手でアルパカの頭を必死に押しのけた。「ママ、大丈夫!私が
全力でスピードを上げようとした瞬間、楓とのペダルの踏み方が全く合っていないことに気付いた。自転車が蛇行し始める。「楓!ペダル止めてくれ!」冬真が叫ぶ。楓が漕ぐことでかえって邪魔になっている。一人で漕いだ方がましだ。「きゃっ!やめてっ!服が!」楓は冬真の声など耳に入らない。アルパカが袖を引っ張り、髪に噛みつく。一匹の頭を押しのけても、すぐに別のアルパカが寄ってくる。「うぅ……パパぁ!早く行ってよぉ!」背後では悠斗が泣き叫んでいる。冬真はスピードを上げようとするが、楓のペダルのせいで進路が狂う。結局、夕月と瑛優の姿が視界から消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。キャンプ場には、すでに第1ステージをクリアした親子たちが三々五々と集まり、残りの参加者を待ちながら休憩を取っていた。「到着!」天野の呼吸は、激しい運動の後とは思えないほど安定していた。後ろを振り返った天野の表情が凍りつく。額から一筋の冷や汗が伝った。夕月は天野の声で危険地帯を脱したと悟り、野菜の入ったバケツを必死に抱えていた体勢をようやく緩めた。娘の無事を確認しようと後ろを振り返った瞬間、夕月も天野と同様に言葉を失った。自転車が止まったのを感じた瑛優は、不思議そうに左右を見た。「わっ!アルパカがついてきてる!ママ、人参守って!おじちゃん、早く漕いで!」瑛優が悲鳴のような声を上げる。「瑛優……そのアルパカさん、放してあげなさい」夕月が静かに言った。瑛優はその時初めて気付いた。両脇に挟まれたアルパカの頭を、自分の腕で締め付けていたのだ。いつの間にか首を掴まれていたアルパカたちは、舌を垂らし、目を白黒させて明らかに力尽きていた。慌てて腕を緩めると、二匹のアルパカは脱力したように地面にドサリと倒れ込んだ。「はぁ……はぁ……あははっ!自分でびっくりしちゃった!」瑛優は胸をなでおろしながら、照れ笑いを浮かべた。天野は言葉を失ったまま黙り込んだ。ずっと視界の端に映っていた二匹のアルパカは、まさかこんな状態だったとは……夕月は自転車から降りると、バケツを先生に手渡して採点を待った。人参もキャベツも、一枚の葉っぱも失うことなく守り抜いていた。先生はホワイトボードに瑛優の名前が書かれたマグネットを貼り付けた。「
「一匹につき五点加点です!」先生は五本の指を立てて瑛優に告げた。「は?アルパカを捕まえたら加点になるんですって?……早く言ってくれれば……」京花の声がだんだん小さくなっていく。だが、自分たち家族はアルパカを見ただけで逃げ出したのだ。加点を知っていたところで、捕まえられるはずもなかった。結局、京花は望月の名札が二位の位置に移されるのを黙って見つめるしかなかった。先生は瑛優の名前の横のスコアを書き換えた。藤宮瑛優:40点橘望月:30点そして、もう一人の先生が悠斗の点数を発表した。「橘悠斗くん、0点です」さっきまでマイバッハから颯爽と降り立った時の誇らしげな姿が嘘のように、悠斗は惨めな姿になっていた。アルパカに咥え取られたLVの帽子は行方不明、襟元は歪み、アルパカの唾液で服が臭くて思わず息を止めてしまう。楓も散々な有様だった。髪は蓬髪し、アウトドアジャケットのジッパーは半開き、まるでホームレスのような出で立ち。「ちょっと待って!零点ってどういうこと?計算間違ってんじゃない?」楓が我に返って声を荒らげた。先生は目を回したい衝動を抑えながら答えた。「到着した時点で野菜入りのバケツごと消失していたのですが。この状態でどうやって採点すれば?」楓は両手を空っぽにしている悠斗を見つめた。「バケツは?人参は?まさか……キャベツの葉っぱ一枚も残ってないの?」「あのね」悠斗は不機嫌な顔で言い返した。「アルパカが怖すぎたんだよ。一匹がバケツごと持ってっちゃったの」そして急に声を荒げ、楓を責め立てた。「なんで僕を守ってくれなかったの!」「だって私、自転車漕いでたでしょ!そもそも漕ぐのなんて悠斗には無理だし……あなた男の子なんだから、バケツくらい守れるでしょ!」「バケツを失くした分、さらにマイナス3点」先生が告げる。「橘悠斗くん家族の得点は、マイナス3点となります。次の競技では、頑張って挽回してくださいね」先生は悠斗の名札をホワイトボードの最下段に配置した。京花は最下位の悠斗を見て、あまりの珍事に瑛優のアルパカ捕獲による加点のことは忘れてしまった。「まぁ冬真さん!最下位なんて初めてでしょう?貴重な経験になりましたね!」からかうような声を上げる。冬真の表情は完全に曇っていた。夕月が瑛優と天野と一
楓は悠斗を連れて少し離れた場所に座った。幸い着替えは持参していた。アルパカの唾液で汚れた服を脱ぎ、嫌そうな顔で脇に放り投げる。自分の着替えに夢中になっていると、「僕の服も汚れちゃった」と悠斗が小さな声で言った。折りたたみ椅子に座ったまま、楓はあごを少し上げて答えた。「バッグの中に入ってるわよ」悠斗は頬を膨らませて不満気に呟いた。「着替え、自分でするの?」家では使用人が身の回りの世話をしてくれる。だから外でも、親しい楓が着替えを手伝ってくれるはずだと思っていた。楓は髪をウェットティッシュで必死に拭きながら、顔をしかめている。今の彼女の頭の中は、早くシャワーを浴びて髪を洗いたいという思いでいっぱいだった。悠斗の相手をしている余裕などなかった。周りを見渡すと、他の園児たちは皆、親に面倒を見てもらっていた。水を飲ませてもらったり、汗を拭いてもらったり、着替えを手伝ってもらったり。夕月は瑛優の髪を優しく整えている。悠斗の胸に複雑な感情が込み上げてきた。去年の親子行事。汗をかいた時は、夕月が優しく着替えを手伝ってくれた。汗取りパッドを背中に当ててくれて、顔も綺麗に拭いてくれた。喉が渇いたと言う前に、水筒を口元まで持ってきてくれた。でも楓は、そんなことは何一つしてくれない。悠斗は首を垂れて、汗と唾液で臭くなった服と、汚れた靴を見つめた。夕月がいた時だけ、自分はいつも清潔な子供でいられた。楓には、自分の面倒の見方さえ分からないんだ。「パパ、着替え手伝って?汗かいちゃった……」悠斗は冬真に声をかけた。「自分でやれ」冷たい一言が返ってきた。父親を怖がっている悠斗は、首を縮めて諦めたように小さなリュックから着替えを取り出した。楓が身なりを整え終わると、だらしなく声を上げた。「ねぇ悠斗、ポテチ開けてくれない?」悠斗は「自分で開けたら?」と言いかけて、ふと思い出した。楓を親子行事に誘った時、あの嫌な母親を怒らせる作戦を立てていたことを。楓の説明によると、夕月を怒らせるには、みんなの前で楓に対して優しく、献身的に振る舞えばいいのだという。楓が何を頼んでも、すぐに応えること。だって、夕月にはそんな態度を見せたことがないから。夕月が、楓に甘えまくる悠斗を見て、楓の言いなりになる悠斗を見たら、きっ
悠斗は心の中での不快感を必死に抑え込んだ。自分は橘家の跡取り息子なのに、大奥様に可愛がられている孫なのに!ふと夕月の方を見ると、この方を見ていた。やった!ちゃんと気付いてくれた!テンションの上がった悠斗は、さっそくイカの袋を開け始める。「あ〜ん、して」楓が手を汚したくないといった素振りで言う。悠斗は顔を曇らせた。夕月の視線が逸れてしまったのが気になる。それでも一切れのイカを取り出し、楓の口元まで運ぶ。でも目は夕月から離せない。こっち向いてよ!悠斗は心の中で叫んでいた。自分が楓にこんなに尽くしているのを見て、夕月はきっと嫉妬しているはず。ママになりたくないって言ったのは夕月の方だ。もう二度と、僕が食べさせるイカは食べられないんだから。「まぁ悠斗くんったら、楓さんにイカをあ〜んって!なんて優しいの!」京花の声が、大げさなほど高く響き渡る。楓は足を組んだまま、退屈そうに答えた。「何をそんなに驚いてるの?望月ちゃんだってお菓子を食べさせてあげることあるでしょ?」「私は望月のママよ。全然違うじゃない」「何が違うのよ」楓は口元を歪めて言い返した。「私は冬真のパパで、悠斗くんの兄貴なんだから」京花は鼻で笑った。何という支離滅裂な言い方。楓が十八の頃から、冬真への想いは見え見えだった。汐だけが、純粋な友情だと信じ込んでいただけ。京花は冬真の方をちらりと見やる。悠斗があれほど楓に尽くすなら、冬真も楓を可愛がっているに違いない。舌なめずりをしながら、京花は冬真と楓の関係がこじれることを望んだ。大奥様は最近、楓のことを特に嫌っている。夕月の妹なのに冬真と付き合いが深いのは、冬真の評判に関わると。たとえ夕月と離婚しても、二人目の藤宮家の娘を嫁に迎えるなんて、橘家では考えられないことだった。姉妹で同じ男性と……そんな話があるものか。でも京花にしてみれば、冬真の評判が落ちることは願ってもないことだった。そうすれば、自分と父親も橘家の事業から何かしら分け前にあずかれるかもしれない——イカを一切れ楓に食べさせるたびに、悠斗は夕月の方をちらちらと見た。おかしいな。あのうるさいママ、もう見てすらくれない?きっと、自分が楓に尽くしてるのを見て、耐えられなくなったに違いない!そうに決
楓は一瞬固まった。「……父が?なぜここに?」「私どもから盛樹様に雲上牧場までお越しいただくようご連絡いたしました。悠斗お坊ちゃまも社長も父親から懲らしめを受けました。楓さんも当然、お父様からの指導を受けていただかねばなりません」部下は淡々と答えた。 会話の最中、藤宮盛樹が姿を現した。夕月も驚いていた。凌一の行動力は驚異的だった。事件発生からわずか三十分足らずで、星来の危機を把握し、即座に処罰を下したのだ。盛樹は息を切らして現場に駆けつけ、まさに冬真が竹刀で打たれる場面に遭遇した。竹刀に付着した血を目にした途端、全身が震えた。呼び出しを受けた道中で、凌一の部下から楓が星来を斜面から突き落としたと聞かされていた。その一報で、盛樹の顔から血の気が引いた。凌一の部下が近づいてくると、楓の姿が見当たらない盛樹は震える声で尋ねた。「私の……娘は、まだ生きているのでしょうか」部下は新しい竹刀を盛樹に差し出した。「楓様は夕月様と星来坊ちゃまを斜面から落とした首謀者です。盛樹様、楓様の平手を五十回、お願いいたします」斜面の下で這いつくばっていた楓は、その言葉に青ざめた。冬真の手のひらは三十回で血が滲むほどだった。五十回も打たれれば、自分の手は廃人同然になってしまう。「私の手はレースに使うんです!来週のレースに出場するのに……この手に何かあったら困ります!」国際レース大会・桜都ステージのスポンサーの一人である冬真の計らいで、楓はエキシビションマッチの出場枠を得ていたのだった。盛樹は自分の娘が勉強嫌いで、いつも男たちと兄弟のように付き合っていることを分かっていた。それでも、そんな生き方で少しばかりの成果を上げていた。どんな順位であれ、エキシビションマッチに出場すれば、楓は桜都で名が売れる。そう考えていた盛樹は、凌一の部下に向かって苦渋の表情を浮かべた。娘のレース人生を断つわけにはいかなかった。「手の平以外では……ダメでしょうか」「他の部位でも構いません」部下は即答した。盛樹は楓に向かって歩み寄った。「この馬鹿者!どこを打たれるか、自分で選べ!」楓は暫し考え込んだ後、不本意そうに自分の後ろを振り返った。「ズボン、厚いし……お尻なら」厚手のパンツを履いていることを確認しながら言った。凌一が出て
痛い!左手が痺れて感覚がなくなっていた。竹刀を握る冬真の手に力が入った。息子を打った手のひらが、自分も痛みを感じているかのように疼いた。だが凌一の前では、後継者としての威厳を示さねばならない。「星来くんを実の兄弟のように大切にするんだ。わかったか?二度と仲たがいをしているところを見たくない」返ってくるのは、悠斗の嗚咽だけだった。これで凌一の怒りも収まったはずだ——冬真がそう思った矢先。タブレットに目を向けると、凌一の声が響いた。「子を教えざるは親の過ち。冬真、三十発」「私が、ですか?」冬真は声を失った。深く息を吸い込んでから、冬真は部下に竹刀を差し出した。「叔父上、ご指示の通りに」恭しく頭を下げる。「待て。もうすぐ父上が到着する」凌一の声には焦りのかけらもない。冬真の表情が凍りついた。その場にいた全員が、予想だにしない展開に息を呑んだ。しばらくすると、先生の一人が林の向こうで何か光るものに気付いた。まるで誰かが鏡を掲げて歩いているかのような、まばゆい輝きだった。その光る物体が近づくにつれ、先生たちや救護班の面々は、スーツを着こなした坊主頭の男性であることが分かった。小走りでやって来たその中年の男性こそ、橘冬真の父、橘深遠だった。深遠の後ろには秘書、そして斎藤鳴を含む数人の保護者が続いていた。鳴は天野と冬真が戻って来ないことを不審に思い、他の保護者とともに様子を見に来たのだ。途中、林の中をぐるぐると歩き回り、明らかに道に迷っている様子の深遠と出くわした鳴は、何か重大な事態が起きているに違いないと直感した。他の保護者たちと共に、好奇心に駆られるままついて来たのだった。深遠はハンカチを取り出し、ピカピカの頭を拭うと、タブレットの前に立った。兄である立場ながら、弟の凌一に対して並々ならぬ敬意を示す。「凌一、来る途中で星来くんが危険な目に遭ったと聞いた。もし本当に悠斗くんが関わっているというのなら、あの小僧を決して許すわけにはいかん」悠斗は再び体を震わせた。左手を叩かれたばかりなのに、今度は右手まで叩かれるのだろうか。凌一が静かに告げた。「お前の孫は、既に息子が躾けた。今度は、お前が息子を躾ける番だ」凌一が言い終わると同時に、部下が竹刀を深遠の前に差し出した。「平手を三
楓は悲鳴を上げ、足で天野を蹴ろうとした。だが既に捻挫していた足が激痛を走らせる。「助けて!痴漢よ!きゃああ!離して!冬真、助けて!!」「離せ!」冬真が怒鳴った。天野は楓を掴んだまま斜面の端まで来ると、冬真の方を振り向いた。「ああ」と一言。そう言うと、天野は手を放した。楓は再び斜面を転がり落ちていった。「きゃあああ!!」楓は土埃を浴びながら、麻袋のように地面に叩きつけられた。斜面に這いつくばったまま、それほど転がり落ちてはいないものの、立ち上がる力も残っていなかった。天野は次に悠斗へと向かった。「お前が自分で降りるか?それとも私が放り投げるか?」悠斗は恐怖に目を見開き、後ずさりした。冬真の後ろに蹲って、「いやだ!!うわあああん!!」と泣き叫んだ。冬真は我が子を庇いながら、怒鳴った。「私の息子の躾に、お前が口を出すな!」「なら、私が躾をしてもいいかな?」突然響いた凌一の声に、冬真の体が強張った。周囲を見回すが、凌一の姿はどこにもない。私服警備員がタブレットを抱えて冬真の前に現れた。画面に映し出された凌一の端正な顔立ちは、まるで神々しささえ漂わせていた。冬真は息を呑んだ。まさか、警備員がこんなに早く凌一と連絡を取れるとは。タブレットごしであっても、凌一の視線には威圧感が満ちていた。猛虎のように気炎を上げていた冬真も、凌一の前では爪を隠さざるを得なかった。「叔父上、星来くんは無事です。ご心配なく」「私が心配なのは、お前の方だ」凌一の優しげな言葉の裏に、冬真は凍てつくような寒気を感じ取った。画面越しに凌一は嘲るように続けた。「わが養子を脅かす最大の危険が、甥の息子と、その親友だとはね」冬真の表情が凍りつくように固まった。「悠斗くん」「悠斗」凌一の声が響き、まるで最後の審判のように冷たく澄んでいた。冬真は息子に目配せし、タブレットの前に立つよう促した。画面越しでさえ、悠斗は凌一の顔を直視できず、俯いたままだった。「跪け」山間から吹き抜ける風のような冷気に、悠斗の両足が震え始めた。悠斗は恐怖に満ちた目で父親を見上げた。冬真の唇は一文字に結ばれ、整った顔立ちの輪郭が一層鋭く浮かび上がる。「跪くんだ!」悠斗の膝から力が抜け、地面に崩れ落ちた。
その後、養父が他界した時、冬真は夕月と共に墓園を訪れた。彼は夕月の手を自分のダウンジャケットのポケットに入れ、大きな手で包み込んだ。顔を上げると、お互いの肩に雪が積もっているのが見えた。あの時の夕月は、今日この雪の下で手を取り合えば、この先ずっと寄り添っていけると信じていた。冬真は確かに彼女の凍えた心を温めてくれた。でも結婚してから気づいたのは、冷徹さと薄情さこそが、この男の本質だということだった。「藤宮楓は何をしたんだ?」天野の声が響いた。彼は夕月に、その場で証言するよう促した。「私と星来くんを突き落としたの!」「そんなことしてない!」楓は即座に否定した。「うぅ!」星来が不満げな声を上げ、眉をひそめながら楓を指差した。手に持ったアンズタケを見せてから、今度は悠斗を指差す。「なんだよ!僕は関係ないでしょ!」悠斗が憤慨して叫んだ。星来は頬を膨らませると、スマートウォッチのボタンを押した。彼の安全のため、スマートウォッチには常に録音・録画機能が作動していたのだ。スマートウォッチから悠斗の声が流れ出した。「このアンズタケ、瑛優が大好きなんだよ。たくさん採ってあげたら、きっと喜ぶと思うな」「危ないわ。早く戻ってきて」夕月の声が響いた直後、二人が斜面を滑り落ちる音が続いた。次の瞬間、楓の悲鳴が録音から漏れ聞こえてきた。スマートウォッチの録音を聞いた楓と悠斗の顔色が一気に変わった。周囲の視線が二人に集中する。悠斗は落ち着かない様子で耳を掻きながら、どうしていいか分からずにいた。「なんでそんな目で見るのよ!たかがこんな録音で、私が突き落としたって証明になるわけ!?」楓が声を荒げた。楓は一転して、優しい声で星来に語りかけた。「私は星来くんと夕月姉さんが危ないのを見て、助けようとしただけ。でも夕月姉さんが突然私のマフラーを掴んで、引っ張り込まれちゃったの。ねえ星来くん、夕月姉さんに何か言われたの?だから私のこと誤解してるの?」私服警備員が周囲を見回している中、楓はその様子を確認すると、得意げに口元を歪めた。バカじゃない、この斜面付近に監視カメラなんてない。だからこそ、立入禁止の看板を外したのだから。星来は喉から軽く「ふん」と声を漏らすと、スマートウォッチの録音を続けて再生し
冬真は夕月の言葉を最後まで聞く気もない。夕月も斜面の下にいたと知った瞬間から、いらだちを覚えていた。楓に冷ややかな視線を投げかけながら、夕月に問う。「楓が、お前と星来を突き落としたと言いたいのか?」「そうよ」夕月は即答した。「お前も星来も怪我はしていない」冬真の声は水面のように平坦だった。怪我もしていないのに、なぜ楓を責める必要がある?怪我もないなら、何もなかったことにすればいい——そう言わんばかりの態度。陽光が眩しく差し込む中、夕月は目の前の男を見つめていた。わずか数歩の距離なのに、まるで深い峡谷が二人を隔てているかのようだった。これだけの人がいる中で、惨めな姿を晒しているのは彼女と楓だけ。天野に教わった護身術のおかげで、斜面を転がり落ちる時も、必死で自分と星来を守ることができた。それなのに、まるで大怪我をしたかのような素振りを見せる楓。冬真は今や、楓が夕月と星来を突き落とした張本人だと分かっているはずなのに、なお楓を庇う姿勢を崩さない。夕月の口元に、苦い笑みが浮かぶ。「ふぅん」その声には、嘲りと諦めが混ざっていた。「夕月さん!橘家があなたの学費を全額援助してくれることになりました。しっかり勉強するのよ!」かつて、石田書記は興奮した様子で駆け寄ってきて、そう告げた。「橘家……ですか?橘博士が援助してくださるんですか?」彼女は首を傾げて尋ねた。「いいえ、援助してくれるのは橘博士じゃなくて、橘家の後継者の橘冬真さん。博士の甥御さんよ」石田書記は息もつかずに続けた。「冬真さんは博士からあなたのことを聞いて、学校側に申し出てくれたの。四年間の学費と、毎月20万円の生活費も出してくれるそうよ。ただし条件が一つあって——」石田書記は笑みを浮かべながら、「全科目で首席を取ることです。まあ、あなたにとっては当たり前のことでしょうけどね。橘博士があなたを高く評価して、その上、後継者までが援助を申し出てくれたんだから、期待を裏切らないようにね!」彼女は石田書記に頼んで、冬真のビジネスメールアドレスを教えてもらった。感謝の気持ちを込めて、夕月は年末年始などの節目に、挨拶のメールを送るようにしていた。時折、冬真から返信があり、近況を尋ねられることもあった。そんな時は丁寧に、橘家の援助のおかげで順調に過
声を上げなければよかったものを——楓は絶望的な表情で顔を覆った。この馬鹿!楓は罵声を飲み込んだ……悠斗の慌てた否定は、かえって真相を暴露するようなものだった。まるで泥棒が「盗んでません!」と叫ぶようなもの。天野が悠斗に近づくと、その影が小さな体を覆い尽くした。見上げた悠斗には、まるで巨大な山が迫ってくるように感じられた。「なぜ下に誰もいないと思うんだ?」天野の顔も見られず、悠斗の細い肩が震え始める。光に照らされたエビのように身動きが取れず、頭の中が真っ白で、言葉が出てこない。「何か隠しているのか?」天野は悠斗の様子の違和感を鋭く察知した。「パパぁ!」悠斗は恐怖で泣きじゃくりながら、冬真の後ろに逃げ込んだ。冬真は冷たい表情で、息子の嘘を悟った。その時、警備員たちは既に安全ロープを固定し、天野と共に斜面を降り始めていた。彼らは素早く身を翻し、まるでスパイダーマンのように斜面を自在に動き回る。天野が生い茂った茂みを掻き分けると、物音に気付いた夕月が顔を上げた。天野の姿を認め、安堵の表情を浮かべる。「お兄さん!」さっき携帯の振動を感じたものの、両手で岩場にしがみついていて電話に出られなかった。でも夕月は信じていた。天野の危機管理能力なら、自分と星来が戻らないことにすぐに気付いて動いてくれるはずだと。「お坊ちゃま!」私服警備員たちは星来を見つけるや否や、素早く安全ロープを装着しようとする。星来は夕月の袖を掴み、頑固な眼差しで警備員たちに訴える——先に夕月を助けてほしいと。「星来くん、大丈夫よ。こんなに大勢来てくれたんだもの。一緒に上がれるわ」と夕月は諭すように言った。星来を警備員に託すと、天野は夕月に安全ロープを取り付けた。天野に引き上げられた夕月は、斜面の上で地面に座り込み、大きく息を吐いた。危機的状況でアドレナリンが急上昇し、恐怖を乗り越える力を与えてくれていた。だが、その危機が去った今、夕月は生還の安堵と共に、全身から力が抜けていくのを感じていた。土埃まみれの髪が頬に張り付き、服には草の切れ端や小さな棘がこびりついている。「なぜ下にいたんだ」声をかけたのは冬真だった。夕月は彼を無視し、担架に座る楓に視線を向けた。その瞳は氷のように冷たく澄んでいた。地面
楓が処置室に運ばれた後で、パパにあの面倒くさい母さんが斜面の下にいることを伝えよう——担任は怪我人との口論を避け、淡々と言った。「藤宮さんの転落事故については、園で詳しく調査させていただきます」「私が嘘つきだって言うの?」楓は体を起こすと、突然担任の頬を平手打ちした。担任は楓の傍らに屈んでいたが、その衝撃で頭が真っ白になった。口を開けたまま、信じられない目で楓を見つめる。なんて品性の欠如した女だ。「楓!」冬真の声が低く鋭く響いた。地面に座ったまま楓は顔を上げ、怒鳴り返した。「なんで私を怒るの!?私のこと兄弟だと思ってないの!?」担任は口を開きかけたが、楓の言葉を聞いて閉じた。馬鹿と話しても無駄だ。馬鹿は必ず相手の知能を自分のレベルまで引きずり下ろそうとする。楓は苛立たしげに冬真の太腿を叩いた。「親友が侮辱されてるのに、なんで私の味方してくれないの?」冬真は楓の首筋に残る鮮明な赤い痕に目を留めた。「首の傷は何だ?」自分の首に広がる細かな痛みを感じながら、楓は躊躇った。夕月にマフラーで絞められたと告げ口したい。そうすれば冬真は必ず夕月を罰するはず。でも今は、夕月の存在を皆に隠さなければならない。茂みに落ちた夕月と口の聞けない星来は、もう声一つ聞こえない。多分もう……そう考えると、楓の目の奥に浮かぶ冷笑を隠すように俯いた。星来を消せば、凌一を傷つけ、冬真の橘家での発言力を高められる。そして将来、冬真との子供の競争相手を一人減らせる。夕月を消せば、あの眩い輝きも消える。実の姉があんなに輝かしい存在であることに、もう我慢できなかった。「転がり落ちた時に、マフラーが木の枝に引っかかって首を絞めたの。まだ息苦しくて……」楓は咳き込みながら、惨めな表情を浮かべ、冬真に抱きしめてもらおうと手を伸ばす。冬真は眉間に皺を寄せ、冷たい表情のまま屈みこもうとした瞬間、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。振り返ると、園の制服を着た十数名の男たちが一斉に駆けてくるのが見えた。冬真は細い目を更に細めた。一目で分かる。訓練された動き——明らかに園の職員ではない。私服の警備員だ。ここに私服警備員がいるとすれば、それは一つのことを意味する——星来の野外活動参加に際し、凌一が警備要員を
夕月は激しく胸を上下させていた。呼吸をする度に鼻腔が刃物で切り裂かれるような痛みが走る。鉄錆のような匂いが鼻と喉に広がる。より広い平らな土手に立ちながら、夕月は唇を固く結んだ。声を出せば、楓に位置を悟られ、また石を投げつけられかねない。ゆっくりと星来を下ろす。抱きかかえていた腕は力が抜け、感覚が失われていた。急な斜面の中に、やっと足場の確保できる場所を見つけた星来は、スマートウォッチの緊急通報ボタンを押した。星来は夕月の手を取り、まるで年老いた幹部のように、その手の甲を優しく叩いた。心配しないで、すぐに誰かが助けに来てくれる——そう伝えるように。五分後、先生が医療スタッフ四名を連れて駆けつけた。担架を一つだけ持っているのを見て、悠斗は自分に言い聞かせた。楓のことだけを伝えて、夕月のことは言わなかった自分は、間違っていない。まず楓を診療所に運び、治療が済んでから、夕月と星来を探してもらえばいい。あの面倒くさい母親への、いい教訓になるはずだ。星来が危険な目に遭った時、夕月は我を忘れて斜面を駆け下りていった。いい気になって!二人とも、あの下でじっとしているがいい!中村先生は斜面に横たわる楓を見て声を上げた。「藤宮さん、ここは立入禁止区域ですよ。どうしてここに?」楓は苛立たしげに返した。「知るわけないでしょ。柵も看板もないのに」中村先生は周囲を見回した。昨日の下見の際、立入禁止の場所には全て警告の看板を立てたはずなのに、ここの看板が消えている。冬真が駆けつけると、楓の背後に赤いマフラーが落ちているのが目に入った。その下の斜面には、明らかな転落の跡が長く残されていた。医療スタッフが楓に手を差し伸べると、彼女は悲鳴を上げた。「冬真!」楓は取り乱したような表情で、冬真に向かって手を伸ばす。担任は蔑むような表情を浮かべた。救急隊員がいるというのに、楓は冬真の前でドラマでもやっているのか。しかも冬真は、この手の演技に引っかかる方だった。冬真は楓の手を握り、一気に引き上げた。救急隊員が担架に移そうとして触れた途端、楓は大袈裟な悲鳴を上げた。「冬真に抱っこしてもらいたい」楓は哀願するような声を出す。担任は目を天に向けんばかりに回した。「橘社長は特別な体質でもあるんですか?社長が触れ
そうして楓は悠斗に星来を誘い寄せるよう仕向けた。自閉症を抱える星来は、ずっと心理療法を受けてきた。今日やっと一歩を踏み出し、野外で他の子供たちや保護者と活動に参加する勇気を見せたのだ。もしここで少しでも事故に遭えば、それだけで星来は二度と外に出ようとはしないだろう。そんな臆病な星来なら、もう悠斗の橘家での立場を脅かすことはない。楓は下を見やった。夕月が星来を抱えて這い上がってくるところだ。手の届く場所に転がっていた石を掴む。「楓兄貴、何するの?」悠斗の声に、夕月が顔を上げる。楓の唇に浮かんだ底意地の悪い笑みが見えた。ここまで転落させたのに、もう一踏みしない手はない。楓は石を振り上げ、夕月の頭めがけて投げつけた。夕月は星来を抱きしめたまま、咄嗟にずれた。斜面の下の茂みの陰に平らな場所を見つけた夕月は、そのまま星来を抱えて茂みの中へ身を投げた。「ザッ」という音と共に茂みが大きく揺れ、すぐに静寂が戻った。「うっ……!」悠斗は思わず身を乗り出し、何かを掴もうとして手を伸ばした。夕月と星来が落ちていくのを、ただ呆然と見つめることしかできない。目の前の光景に悠斗は震え上がった。小さな唇を震わせながら、悠斗は絞り出すような声で言った。「楓兄貴、どうしてそんなことするの?あ、あなた……人殺しちゃったよ!!」悠斗の体が凍りつき、頭の中が真っ白になった。楓は最初、ただのいたずらだと言った。星来を怖がらせて、瑛優や面倒くさい母親の前に二度と現れないようにするだけだと。「悠斗くん、見たでしょう?夕月姉さんが自分から星来を抱えて転がり落ちたのよ!」「でも……」喉に刃物を突き立てられたかのように、悠斗は息も言葉も詰まった。見えない手に引っ張られているような感覚。悠斗の瞳に涙が揺れる。「ねぇ悠斗くん、医者が来たとき、私を見捨てて彼女たちだけを助けたらどうする?」楓の声が追い詰めるように響く。悠斗は固まったまま、どうすればいいのか分からなくなった。楓の声が急に弱々しくなる。「救護所のベッドは一つしかないの。夕月と星来が使っちゃったら、私はどうなるの?」「医者に楓兄貴を放っておかせたりしないよ!」楓は首を振った。「医者は夕月姉さんを見つけたら、真っ先に彼女を助けようとするわ」「だから医者が来る