楓の大声に、周囲の来賓が一斉に振り向く。「夕月姉さん!偽の招待状で入場するなんて、藤宮家の恥さらしですよ!」楓が「圭利さん」と呼んだ男性がタブレットを手に近づいてきた。「こちらの方、来賓リストにお名前がございませんが」男性は冷たく言い放つ。「ただちに会場からご退出願います」周囲の来賓たちは、まるでドラマでも見るかのように目を見開いていた。夕月は楓が「圭利さん」と呼んだ男性に穏やかに尋ねた。「失礼ですが、お立場は?」「会場運営責任者です」タブレットを掲げ、断固とした口調で告げる。「来賓リストにあなたのお名前はありません。自主的に退場なさらないのでしたら、警備員を呼ばせていただきます」「申し訳ありませんが」夕月は冷静に返す。「私は一般の来賓ではなく、特別招待者です。企業関係者のリストに名前がないのは当然かと」「リストに名前がない時点で、この会場に居る資格などありません」責任者は嘲るように言い放つ。彼の合図で、二人のスタッフが夕月の背後に立った。「お嬢様、ご退場願います。ご協力いただけない場合は、強制的にお連れ出しさせていただきます」スタッフの警告に続いて、大奥様が口角を上げながら言い放つ。「外にはメディアが溢れているわ。追い出されたら、桜都一の笑い者になるでしょうね」「まあ、このまま残してあげましょうか」大奥様は両手を胸の前で組み、にこやかに続ける。「夕月、トレイを持って端で給仕でもしていれば?」冬真と離婚し、橘家の血を引く子供を連れ去り、しかも孫娘の姓まで変えるという不埒な女。大奥様は今こそ、橘家を出た後の夕月の立場――社会の最下層であることを思い知らせてやろうと目を光らせる。今宵このレセプションでトレイを持つことを許されたのも、大奥様の慈悲あってこそ。でなければ、警備に担ぎ出されるのが関の山。夕月は手首を軽く返し、グラスの中でスパークリングワインが優雅に揺れる。そっと冬真の顔を視線で掠める。冬真の表情が強張る。まさか助けを求めているのか?「ねぇ、圭利さん」楓は意味ありげな微笑みを浮かべながら首を傾げた。「夕月姉さんを追い出すのは止めにしましょう」親切そうな口調で続ける。「ほら、大奥様のご厚意よ。ここのスタッフは皆二十代前半なのに、特別に残れるなんて。天に感謝すべきです
「藤宮さん!」階段から数名の年配紳士たちが駆け降りてくる。その姿に、周囲の来賓たちが慌てて道を開けた。彼らの登場に、会場の視線が一斉に集中する。まるで競争でもするかのように、誰が一番先に夕月の元へ辿り着けるかと急ぐ様子が見て取れた。夏目那岐は面識があったが、他の紳士たちは花橋大学や桜都大学の講演ポスターで見かけた顔ぶれだった。「お迎えが遅れ、申し訳ありません」那岐は夕月に向かって手を差し出した。夕月は謙虚に両手で那岐の手を包み込むように握手を交わす。「夏目理事長、お目にかかれて光栄です」他の年配紳士たちは夕月を見るほどに満足げな表情を浮かべる。その中の一人が喜びを抑えきれない様子で声をかけた。「藤宮さん、上階でゆっくりとお話させていただけませんでしょうか」その言葉が響くや否や、会場からどよめきが起こった。二階——それは下階の来賓たちには立ち入りが許されない特別な空間だった。会場に集まった来賓たちは皆、階段の先にある紫金色の大扉を目にしていた。テクノロジーサミットの超大物たちだけが、あの扉の向こう側に足を踏み入れることを許されていた。会場にいる者たちは知っていた。二階に集うことを許される重鎮は二十名にも満たず、一般のビジネスマンや研究者には到底手の届かない存在だということを。そして今、ニュースでしか見たことのない学界の重鎮たちが、一階の宴会場に揃って姿を現していた。彼らは夕月を取り囲み、まるで渇きを癒すかのような眼差しを、夕月にのみ向けていた。「そんな!」楓が足を踏み鳴らさんばかりの勢いで声を張り上げる。「偽の招待状を使って紛れ込んだ人間が、どうして上階へ行けるというの!」サミットの主催者である永川理事長が即座に反論した。「偽の招待状だと?藤宮さんの招待状は私が直筆で書いたものです。偽物なんてあり得ません」楓は慌てて圭利さんの方を振り向く。「でも圭利さんの手元のリストに夕月姉さんの名前はなかったはず!」橘大奥様は顔色を変え、名だたる重鎮たちの一挙手一投足から目を離せない。主催者の永川理事長は桜都商工会議所の副会長でもあり、雲の上の存在とも言われ、橘大奥様ですら数十年の桜都暮らしで面識を得られなかった人物だった。彭川理事長は会場責任者には目もくれず、冷ややかに言い放った。「特別招待客
大奧様の顔色が真っ白から朱に変わる。周りの来賓たちの顔には、面白そうな笑みが浮かんでいた。先ほど大奧様が夕月をどれほど追い詰めようとしたか、皆の目に焼き付いていた。永川理事長が意図的だったのか偶然だったのか、大奧様に夕月への給仕を命じたのは。大奧様は給仕に必死で目配せをした。誰か気の利いた者が出てきて、このトレイを受け取ってくれないものかと。夕月の目上である自分が、どうして彼女に給仕などできようか。その場の気まずい空気の中、冬真は母親の持つトレイから二つのグラスを手に取った。そのうちの一つを夕月に差し出す。「母上は君の義理の母親なんだ。こういう場では礼儀を弁えて、恥を晒すのは避けたほうがいい」自ら酒を差し出しながらも、その態度は相変わらず傲慢だった。夕月にとって初めての高級パーティーだが、その振る舞いは冬真の期待には程遠かった。夕月はその男を見つめ、クリスタルシャンデリアの光を受けて輝く黒い瞳に星のような光を宿しながら、綺麗な笑みを浮かべた。「冬真さん、笑い者はあなたの方よ」冬真の表情が一瞬にして凍りついた。「夕月!冬真が自ら酒を差し出してくれているのに、何様のつもりなの?」大奥様は怒鳴った。かつて橘家にいた頃、冬真が水一杯くれただけでも感謝感激していたではないか。「彼が笑い者なら、あなたは笑い者を産んだ母親ってことね」夕月は容赦なく言い放った。「夕月姉さん!」楓は大奥様の味方をしようと、彼女の前で好印象を得ようと必死だった。しかし口を開いた途端、夕月に遮られた。「いつも『私が冬真のパパになってやる』なんて大口叩いてたわよね?だったらあなたは笑い者の父親役ってことね。あなたたち親子そろって見せてる醜態といったら!まるで上流階級の仮面をかぶったピエロみたいじゃない?自分の立場も周りの目も考えず、恥知らずな真似を続けるなんて!」大奥様の顔が青ざめては紅潮を繰り返す。手の中のトレイを叩きつけたい衝動に駆られていた。その時、永川理事長が手を伸ばし、大奧様の持つトレイからシャンパンを取った。大奧様の表情が一変し、恭しい態度を装う。そして彼女の目の前で、理事長がそのシャンパンを直々に夕月へと差し出した。大奧様の口元が一瞬にして歪んだ。心中では憤りを覚えながらも、理事長の前では表立って何も言え
三秒後も、夕月の表情には心配の色も、緊張の色も微塵も浮かばなかった。かつては些細な体調不良でさえ、影のように寄り添い、細やかな気遣いを見せていた彼女が。今や彼の血を流す手すら、まるで目に入らないかのように。他人以下の存在として、一瞥すら与えようとしない。永川理事長と夏目那岐は夕月を二階へと招き、立ち去る前に圭利さんに冷たく言い放った。「特別招待客への無礼、このまま済ますとは思わないことです」支配人の顔から血の気が引いた。楓を恨めしく睨みつける。全て彼女のせいで職を失うことになるとばかりに。夕月はグラスを手に、優雅に階段へと向かった。「理事長!」楓は耐えきれずに叫んだ。「姉は無職なのに二階に行けて、冬真はなぜ駄目なんですか!」永川理事長は冷ややかな微笑みを浮かべたまま、足を止めることなく答えた。「橘グループの社長とやらには、まだその資格がありませんね」屈辱の暗い影が冬真の全身を覆い尽くした。「黙れ!」冬真は怒鳴りつけた。楓は初めて見る冬真の激しい怒りに戸惑った。「冬真、私はただ助けようと……」「こんな場所に連れて来るべきじゃなかった」冬真は噛みつくように言い放った。楓は恥ずかしさのあまり、その場に沈み込みそうになった。冬真は階段の先にある紫金の扉を見上げた。ビジネスの世界で生きる者たちにとって、この国際サミットで紫金の扉の向こう側に立つことこそが、最高の栄誉だった。冬真もその目標に向かって邁進してきた。あと五年、いや、三年もあれば十分だ。橘グループを時価総額ナンバーワンに押し上げれば、必ずや主催者から招待状が届くはずだった。なのに夕月は、こんなにも簡単に——理解を超えていた。まさか元妻の彼女に、こんな力があるとは。紫金の扉が、夕月を迎えるかのように、ゆっくりと開いていく。「藤宮夕月、お前が三十年必死に努力したところで、私と肩を並べることなどできやしない」かつて冬真が放った言葉が、突如として夕月の脳裏に蘇った。階段の中程で、夕月は足を止めた。下のホールを見下ろす。今この高さに立って初めて、全てを見下ろすことができた。ホールで立ち尽くす冬真も、今や彼女を見上げている。夕月は明るく微笑んだ。冬真さん、これからもあなたは私をこうして見上げることになるわ。今宵は、
「冬真君、藤宮さんとの関係修復は、まだうまくいっていないのかな?」先ほどの大奧様の夕月への当たり方、そして夕月の冬真への態度を、株主たちは全て目撃していた。すでに何人かの株主は、大奧様に直接説得を試みていた。「永川理事長も夏目博士も直々に出迎えに来られたというのに、あんな態度を取るなんて何を考えているんですか!」株主たちには大奧様の行動が理解できず、先ほどは自分が代わりに夕月の義母になってやりたいとさえ思ったほどだった。「あの子が私を見下すような目で見てきたのよ!」大奧様は先ほどの夕月の眼差しを思い出し、まだ腹立たしげだった。自分の態度に何の問題もないと思い込み、むしろ自分が不当な扱いを受けたと信じているようだった。「私は所詮、あの子の姑なのよ!」「元姑です!」株主が即座に訂正した。「あの子は七年間も私の嫁だったのよ。一日の師は一生の父というでしょう?七年も姑をしてきたんだから、もう少し孝行してもいいはずよ。そもそも離婚を騒ぎ立てて迫ってきたのは、あの子の方でしょう」大奧様は唾を吐くような仕草で続けた。「田舎育ちの娘なんて、七年教え込んでも、礼儀作法の何もわかっちゃいない」株主たちは一様に不快そうな表情を浮かべた。「藤宮さんは今やサミットの上客なんですよ。社長まで追い出される羽目になりたいんですか?」「永川理事長だって、ただの脅しでしょう……」大奧様は聞く耳を持たなかった。株主たちは諦めて、傍らに立つ楓に視線を向けた。「藤宮さんの妹さん」ある株主が冷ややかに警告した。「冬真君に余計な面倒を引き起こすのは、おやめになった方が」別の株主が嫌悪感を露わにして尋ねた。「そもそもビジネス界とは無縁の方が、なぜここにいるんです?誰が連れてきたんですか?」「冬真さんが連れてきてくださいました!」楓は胸を張って答えた。株主たちは再び冬真を詰め寄った。「CTOのオファーはどうなった?先週の食事で和解できたのか?」「和解なんてできてないでしょう。今日の藤宮さんの態度を見れば明らかじゃないですか」株主たちの声が飛び交う中、冬真の険しい表情は闇を帯びていった。「彼女にCTOが務まるとは思えない」冬真は依然として自分の判断を曲げなかった。グループの将来を考えての決断だと信じ込んでいた。「CTOってどんな役職
二階の豪華絢爛な会議室で:夕月は出席している学界の重鎮や高官一人一人に丁重な挨拶を交わした。席に着くと、大物たちが次々と誘いの言葉を投げかけてきた。夕月は凌一に視線を向け、長い睫毛の下から輝く瞳で見つめながら、「私の志望は日興研究センターです」と言い切った。一瞬、場が凍りついた。夕月の狙いは明確だった。しかし、いきなり最難関に挑むとは。重鎮たちは息を潜めて見守った。凌一が夕月の日興研究センター入りを認めるのかどうか。夕月はバッグから一冊の資料を取り出し、凌一の元へと歩み寄った。「これが、私からの入門試験です」凌一は差し出された資料に目を通し、一瞬だけ驚きの色を見せた。「藤宮テックの株式目論見書?」凌一は夕月が実家の企業の目論見書を持ってきた意図を測りかねていた。「日興の研究には様々なレアメタルが必要で、多くの実験が極秘で行われていると聞いています。そして父の会社は、それらの重要な金属資源を掌握しています」凌一は資料を夕月に返そうとした。「君の父親の会社は信用できない」夕月は受け取ろうとせず、微笑みながら問いかけた。「では、藤宮テックが私の会社になれば、どうでしょう?」凌一が顔を上げる。その澄み切った瞳は、相手の心の奥底まで見通すかのようだった。「藤宮テックの収益は年々下がっています。父は核心技術をオームテックに売却しようとしています。でも、オームが狙っているのは技術だけではないはず」夕月は凌一をまっすぐ見つめ、力強く言い切った。「私は藤宮テックを外資の手に渡すつもりはありません」凌一の表情は微動だにしない。まるで昼食の予定でも訊くかのような淡々とした口調で告げた。「二ヶ月以内に、藤宮テックの支配権を握れ」出席者たちからため息が漏れた。「それは無理難題というものでは」重鎮たちは夕月の経歴を隅々まで調べ上げていた。「藤宮さんは離婚したばかりで、確か十八歳まで藤宮家とは離れて暮らしていた。藤宮テックの株式など持っていないはずです。二ヶ月で支配権を奪取するなど、至難の業でしょう」夏目那岐も口を挟んだ。「それに藤宮盛樹氏がオームへの売却を決めたということは、子供たちに継がせる気などないということでしょう」「二ヶ月では無理です」夕月は首を振った。凌一は資料を茶卓に投げ出し
那岐は涼に何度も目配せを送った。彼女を説得する言葉を期待して。以前から桐嶋幸雄を通じて夕月の桜都大学復帰を働きかけたかったのだ。夕月の才能なら、間違いなく大学の看板となるはずだった。だが幸雄は頑なに高慢を貫き、夕月への説得など一切応じなかった。涼は夕月の隣に座り、端正な横顔に優雅な笑みを浮かべていた。彼女の横顔を見つめる眼差しは熱を帯び、一瞬たりとも逸らすことはなかった。「こほん、こほん!」那岐は咳払いで涼の注意を引こうとした。この類まれな美貌の持ち主は、物憂げな表情で那岐を一瞥した。その眼差しは秋の湖水のように冷たかった。「私は夕月の考えに賛成です」夕月は驚いて振り返り、彼を見つめた。涼は身を乗り出し、頬杖をつきながら夕月を見つめていた。漆黒の瞳には夕月の姿だけが映り込んでいる。首を少し傾げ、まるで世間知らずの少年のような無邪気さで、夕月の前で無害な表情を浮かべていた。距離を縮めても、夕月が身を引かないよう計算されたその仕草。夕月は彼の吐息を感じ、魅惑的なフェロモンの香りに包まれていた。「君の決断は全て支持する。欲しいものは、何でも手に入れられるはずだ」涼は真摯な眼差しでそう告げた。宴会場では——「ガシャン!」という鋭い音が響き、グラスの破片が大理石の床に散らばった。同業者との会話中だった冬真が振り向くと、足元でウェイトレスが屈み込んでいた。割れたグラスを片付けようとする彼女の手は震え、顔を上げた時の蒼白い表情は、狩人に追われる子鹿のようだった。冬真は眉間に皺を寄せた。不意に脳裏に浮かんだのは、結婚したばかりの夕月がエルメスの食器を割った時の光景。メイドが固定し忘れた食器棚を開けた瞬間、中身が一斉に落下したのだ。夕月は唯一救い出した茶碗を両手で抱え、こう言った。「あなたのお茶碗だけは守れたわ」彼は夕月を抱き上げ、破片から遠ざけた。不意の記憶が心臓を強く打ち、冬真の全身が強張った。その整った顔立ちは、刃物で削り出したかのように冷たい表情を見せていた。足元で屈んでいたウェイトレスは、高級な革靴に飛び散った赤ワインの染みに気づき、反射的に拭おうと手を伸ばした。新進気鋭の実業家たちと親しげに談笑していた楓は、物音に顔を向けた。冬真の足元で、何個ものグラスが割れて
楓は表情を氷のように凍らせ、足早に近づいていった。霧島葵が冬真に何度も頭を下げている場面に出くわした。「申し訳ございません、本当に申し訳ございません。靴を汚してしまって……」葵は膝をつき、タオルを手に冬真の靴を拭おうとした。その瞬間、床に散らばっていたガラスの破片が彼女の膝に突き刺さった。「きゃっ!」悲鳴を上げ、床に崩れ落ちた葵は、血を滴らせる膝を見つめ、うろたえた様子を見せた。冬真は無表情のまま、葵を見下ろしていた。彼女の演技がことごとく見え透いていた。葵は涙を浮かべた瞳を上げ、震える子ウサギのように冬真を見上げた。ある角度から見ると、目の前の女性は18歳の夕月に、どこか似ているところがあった。「まあ、血が出てるじゃない。早く立って」楓は即座に葵の腕を掴んだ。無理やり引き上げようとする楓に気づいた葵は、まるで発作を起こしたかのように、足をばたつかせながら叫び声を上げた。「きゃああっ!離して!近づかないで!」葵は楓に触れられるのを激しく拒絶し、腕をねじり、必死にもがきながら制御を失ったように叫び声を上げた。「触らないで!叩かないで!藤宮さん、お願いです、私を殴らないで!私は誰も誘惑なんてしていません!!」彼女の泣き叫ぶ声に、周囲の注目が集まり始めた。これまでウェイトレスのミスなど気にも留めなかった上流階級の人々が、一斉に視線を向けてきた。数多の目に見つめられ、楓はその場で硬直した。一瞬、思い当たった。この白百合のような女が冬真の前でこんな大騒ぎを起こしたのは、自分を罠に嵌めるためではないのか。本当の狙いは別にある。以前、自分に殴られた仕返しをしようとしているのだろうか。楓は唇の端を歪め、男っぽい仕草で足を開いて屈み込み、両手を太腿に置いた。葵の頬を軽く叩きながら、目を細めて言った。「お姉さん、どうしたの?そんなに大げさに反応して!私はあの臭い男どもと違うわ。傷つけたりしないから」優しく諭すような声で話しながら、突然葵の腰を掴んで締め付けた。葵は体が拘束されるのを感じ、ビクリと体を震わせた。楓は葵の膝に刺さったガラスの破片を見下ろしながら、それらを全て女の脚に押し込める想像を楽しんでいた。「まあ、こんなに血が出てるわ。ほら、手当てに連れて行ってあげる」楓は葵の腰に手を回
楓は一瞬固まった。「……父が?なぜここに?」「私どもから盛樹様に雲上牧場までお越しいただくようご連絡いたしました。悠斗お坊ちゃまも社長も父親から懲らしめを受けました。楓さんも当然、お父様からの指導を受けていただかねばなりません」部下は淡々と答えた。 会話の最中、藤宮盛樹が姿を現した。夕月も驚いていた。凌一の行動力は驚異的だった。事件発生からわずか三十分足らずで、星来の危機を把握し、即座に処罰を下したのだ。盛樹は息を切らして現場に駆けつけ、まさに冬真が竹刀で打たれる場面に遭遇した。竹刀に付着した血を目にした途端、全身が震えた。呼び出しを受けた道中で、凌一の部下から楓が星来を斜面から突き落としたと聞かされていた。その一報で、盛樹の顔から血の気が引いた。凌一の部下が近づいてくると、楓の姿が見当たらない盛樹は震える声で尋ねた。「私の……娘は、まだ生きているのでしょうか」部下は新しい竹刀を盛樹に差し出した。「楓様は夕月様と星来坊ちゃまを斜面から落とした首謀者です。盛樹様、楓様の平手を五十回、お願いいたします」斜面の下で這いつくばっていた楓は、その言葉に青ざめた。冬真の手のひらは三十回で血が滲むほどだった。五十回も打たれれば、自分の手は廃人同然になってしまう。「私の手はレースに使うんです!来週のレースに出場するのに……この手に何かあったら困ります!」国際レース大会・桜都ステージのスポンサーの一人である冬真の計らいで、楓はエキシビションマッチの出場枠を得ていたのだった。盛樹は自分の娘が勉強嫌いで、いつも男たちと兄弟のように付き合っていることを分かっていた。それでも、そんな生き方で少しばかりの成果を上げていた。どんな順位であれ、エキシビションマッチに出場すれば、楓は桜都で名が売れる。そう考えていた盛樹は、凌一の部下に向かって苦渋の表情を浮かべた。娘のレース人生を断つわけにはいかなかった。「手の平以外では……ダメでしょうか」「他の部位でも構いません」部下は即答した。盛樹は楓に向かって歩み寄った。「この馬鹿者!どこを打たれるか、自分で選べ!」楓は暫し考え込んだ後、不本意そうに自分の後ろを振り返った。「ズボン、厚いし……お尻なら」厚手のパンツを履いていることを確認しながら言った。凌一が出て
痛い!左手が痺れて感覚がなくなっていた。竹刀を握る冬真の手に力が入った。息子を打った手のひらが、自分も痛みを感じているかのように疼いた。だが凌一の前では、後継者としての威厳を示さねばならない。「星来くんを実の兄弟のように大切にするんだ。わかったか?二度と仲たがいをしているところを見たくない」返ってくるのは、悠斗の嗚咽だけだった。これで凌一の怒りも収まったはずだ——冬真がそう思った矢先。タブレットに目を向けると、凌一の声が響いた。「子を教えざるは親の過ち。冬真、三十発」「私が、ですか?」冬真は声を失った。深く息を吸い込んでから、冬真は部下に竹刀を差し出した。「叔父上、ご指示の通りに」恭しく頭を下げる。「待て。もうすぐ父上が到着する」凌一の声には焦りのかけらもない。冬真の表情が凍りついた。その場にいた全員が、予想だにしない展開に息を呑んだ。しばらくすると、先生の一人が林の向こうで何か光るものに気付いた。まるで誰かが鏡を掲げて歩いているかのような、まばゆい輝きだった。その光る物体が近づくにつれ、先生たちや救護班の面々は、スーツを着こなした坊主頭の男性であることが分かった。小走りでやって来たその中年の男性こそ、橘冬真の父、橘深遠だった。深遠の後ろには秘書、そして斎藤鳴を含む数人の保護者が続いていた。鳴は天野と冬真が戻って来ないことを不審に思い、他の保護者とともに様子を見に来たのだ。途中、林の中をぐるぐると歩き回り、明らかに道に迷っている様子の深遠と出くわした鳴は、何か重大な事態が起きているに違いないと直感した。他の保護者たちと共に、好奇心に駆られるままついて来たのだった。深遠はハンカチを取り出し、ピカピカの頭を拭うと、タブレットの前に立った。兄である立場ながら、弟の凌一に対して並々ならぬ敬意を示す。「凌一、来る途中で星来くんが危険な目に遭ったと聞いた。もし本当に悠斗くんが関わっているというのなら、あの小僧を決して許すわけにはいかん」悠斗は再び体を震わせた。左手を叩かれたばかりなのに、今度は右手まで叩かれるのだろうか。凌一が静かに告げた。「お前の孫は、既に息子が躾けた。今度は、お前が息子を躾ける番だ」凌一が言い終わると同時に、部下が竹刀を深遠の前に差し出した。「平手を三
楓は悲鳴を上げ、足で天野を蹴ろうとした。だが既に捻挫していた足が激痛を走らせる。「助けて!痴漢よ!きゃああ!離して!冬真、助けて!!」「離せ!」冬真が怒鳴った。天野は楓を掴んだまま斜面の端まで来ると、冬真の方を振り向いた。「ああ」と一言。そう言うと、天野は手を放した。楓は再び斜面を転がり落ちていった。「きゃあああ!!」楓は土埃を浴びながら、麻袋のように地面に叩きつけられた。斜面に這いつくばったまま、それほど転がり落ちてはいないものの、立ち上がる力も残っていなかった。天野は次に悠斗へと向かった。「お前が自分で降りるか?それとも私が放り投げるか?」悠斗は恐怖に目を見開き、後ずさりした。冬真の後ろに蹲って、「いやだ!!うわあああん!!」と泣き叫んだ。冬真は我が子を庇いながら、怒鳴った。「私の息子の躾に、お前が口を出すな!」「なら、私が躾をしてもいいかな?」突然響いた凌一の声に、冬真の体が強張った。周囲を見回すが、凌一の姿はどこにもない。私服警備員がタブレットを抱えて冬真の前に現れた。画面に映し出された凌一の端正な顔立ちは、まるで神々しささえ漂わせていた。冬真は息を呑んだ。まさか、警備員がこんなに早く凌一と連絡を取れるとは。タブレットごしであっても、凌一の視線には威圧感が満ちていた。猛虎のように気炎を上げていた冬真も、凌一の前では爪を隠さざるを得なかった。「叔父上、星来くんは無事です。ご心配なく」「私が心配なのは、お前の方だ」凌一の優しげな言葉の裏に、冬真は凍てつくような寒気を感じ取った。画面越しに凌一は嘲るように続けた。「わが養子を脅かす最大の危険が、甥の息子と、その親友だとはね」冬真の表情が凍りつくように固まった。「悠斗くん」「悠斗」凌一の声が響き、まるで最後の審判のように冷たく澄んでいた。冬真は息子に目配せし、タブレットの前に立つよう促した。画面越しでさえ、悠斗は凌一の顔を直視できず、俯いたままだった。「跪け」山間から吹き抜ける風のような冷気に、悠斗の両足が震え始めた。悠斗は恐怖に満ちた目で父親を見上げた。冬真の唇は一文字に結ばれ、整った顔立ちの輪郭が一層鋭く浮かび上がる。「跪くんだ!」悠斗の膝から力が抜け、地面に崩れ落ちた。
その後、養父が他界した時、冬真は夕月と共に墓園を訪れた。彼は夕月の手を自分のダウンジャケットのポケットに入れ、大きな手で包み込んだ。顔を上げると、お互いの肩に雪が積もっているのが見えた。あの時の夕月は、今日この雪の下で手を取り合えば、この先ずっと寄り添っていけると信じていた。冬真は確かに彼女の凍えた心を温めてくれた。でも結婚してから気づいたのは、冷徹さと薄情さこそが、この男の本質だということだった。「藤宮楓は何をしたんだ?」天野の声が響いた。彼は夕月に、その場で証言するよう促した。「私と星来くんを突き落としたの!」「そんなことしてない!」楓は即座に否定した。「うぅ!」星来が不満げな声を上げ、眉をひそめながら楓を指差した。手に持ったアンズタケを見せてから、今度は悠斗を指差す。「なんだよ!僕は関係ないでしょ!」悠斗が憤慨して叫んだ。星来は頬を膨らませると、スマートウォッチのボタンを押した。彼の安全のため、スマートウォッチには常に録音・録画機能が作動していたのだ。スマートウォッチから悠斗の声が流れ出した。「このアンズタケ、瑛優が大好きなんだよ。たくさん採ってあげたら、きっと喜ぶと思うな」「危ないわ。早く戻ってきて」夕月の声が響いた直後、二人が斜面を滑り落ちる音が続いた。次の瞬間、楓の悲鳴が録音から漏れ聞こえてきた。スマートウォッチの録音を聞いた楓と悠斗の顔色が一気に変わった。周囲の視線が二人に集中する。悠斗は落ち着かない様子で耳を掻きながら、どうしていいか分からずにいた。「なんでそんな目で見るのよ!たかがこんな録音で、私が突き落としたって証明になるわけ!?」楓が声を荒げた。楓は一転して、優しい声で星来に語りかけた。「私は星来くんと夕月姉さんが危ないのを見て、助けようとしただけ。でも夕月姉さんが突然私のマフラーを掴んで、引っ張り込まれちゃったの。ねえ星来くん、夕月姉さんに何か言われたの?だから私のこと誤解してるの?」私服警備員が周囲を見回している中、楓はその様子を確認すると、得意げに口元を歪めた。バカじゃない、この斜面付近に監視カメラなんてない。だからこそ、立入禁止の看板を外したのだから。星来は喉から軽く「ふん」と声を漏らすと、スマートウォッチの録音を続けて再生し
冬真は夕月の言葉を最後まで聞く気もない。夕月も斜面の下にいたと知った瞬間から、いらだちを覚えていた。楓に冷ややかな視線を投げかけながら、夕月に問う。「楓が、お前と星来を突き落としたと言いたいのか?」「そうよ」夕月は即答した。「お前も星来も怪我はしていない」冬真の声は水面のように平坦だった。怪我もしていないのに、なぜ楓を責める必要がある?怪我もないなら、何もなかったことにすればいい——そう言わんばかりの態度。陽光が眩しく差し込む中、夕月は目の前の男を見つめていた。わずか数歩の距離なのに、まるで深い峡谷が二人を隔てているかのようだった。これだけの人がいる中で、惨めな姿を晒しているのは彼女と楓だけ。天野に教わった護身術のおかげで、斜面を転がり落ちる時も、必死で自分と星来を守ることができた。それなのに、まるで大怪我をしたかのような素振りを見せる楓。冬真は今や、楓が夕月と星来を突き落とした張本人だと分かっているはずなのに、なお楓を庇う姿勢を崩さない。夕月の口元に、苦い笑みが浮かぶ。「ふぅん」その声には、嘲りと諦めが混ざっていた。「夕月さん!橘家があなたの学費を全額援助してくれることになりました。しっかり勉強するのよ!」かつて、石田書記は興奮した様子で駆け寄ってきて、そう告げた。「橘家……ですか?橘博士が援助してくださるんですか?」彼女は首を傾げて尋ねた。「いいえ、援助してくれるのは橘博士じゃなくて、橘家の後継者の橘冬真さん。博士の甥御さんよ」石田書記は息もつかずに続けた。「冬真さんは博士からあなたのことを聞いて、学校側に申し出てくれたの。四年間の学費と、毎月20万円の生活費も出してくれるそうよ。ただし条件が一つあって——」石田書記は笑みを浮かべながら、「全科目で首席を取ることです。まあ、あなたにとっては当たり前のことでしょうけどね。橘博士があなたを高く評価して、その上、後継者までが援助を申し出てくれたんだから、期待を裏切らないようにね!」彼女は石田書記に頼んで、冬真のビジネスメールアドレスを教えてもらった。感謝の気持ちを込めて、夕月は年末年始などの節目に、挨拶のメールを送るようにしていた。時折、冬真から返信があり、近況を尋ねられることもあった。そんな時は丁寧に、橘家の援助のおかげで順調に過
声を上げなければよかったものを——楓は絶望的な表情で顔を覆った。この馬鹿!楓は罵声を飲み込んだ……悠斗の慌てた否定は、かえって真相を暴露するようなものだった。まるで泥棒が「盗んでません!」と叫ぶようなもの。天野が悠斗に近づくと、その影が小さな体を覆い尽くした。見上げた悠斗には、まるで巨大な山が迫ってくるように感じられた。「なぜ下に誰もいないと思うんだ?」天野の顔も見られず、悠斗の細い肩が震え始める。光に照らされたエビのように身動きが取れず、頭の中が真っ白で、言葉が出てこない。「何か隠しているのか?」天野は悠斗の様子の違和感を鋭く察知した。「パパぁ!」悠斗は恐怖で泣きじゃくりながら、冬真の後ろに逃げ込んだ。冬真は冷たい表情で、息子の嘘を悟った。その時、警備員たちは既に安全ロープを固定し、天野と共に斜面を降り始めていた。彼らは素早く身を翻し、まるでスパイダーマンのように斜面を自在に動き回る。天野が生い茂った茂みを掻き分けると、物音に気付いた夕月が顔を上げた。天野の姿を認め、安堵の表情を浮かべる。「お兄さん!」さっき携帯の振動を感じたものの、両手で岩場にしがみついていて電話に出られなかった。でも夕月は信じていた。天野の危機管理能力なら、自分と星来が戻らないことにすぐに気付いて動いてくれるはずだと。「お坊ちゃま!」私服警備員たちは星来を見つけるや否や、素早く安全ロープを装着しようとする。星来は夕月の袖を掴み、頑固な眼差しで警備員たちに訴える——先に夕月を助けてほしいと。「星来くん、大丈夫よ。こんなに大勢来てくれたんだもの。一緒に上がれるわ」と夕月は諭すように言った。星来を警備員に託すと、天野は夕月に安全ロープを取り付けた。天野に引き上げられた夕月は、斜面の上で地面に座り込み、大きく息を吐いた。危機的状況でアドレナリンが急上昇し、恐怖を乗り越える力を与えてくれていた。だが、その危機が去った今、夕月は生還の安堵と共に、全身から力が抜けていくのを感じていた。土埃まみれの髪が頬に張り付き、服には草の切れ端や小さな棘がこびりついている。「なぜ下にいたんだ」声をかけたのは冬真だった。夕月は彼を無視し、担架に座る楓に視線を向けた。その瞳は氷のように冷たく澄んでいた。地面
楓が処置室に運ばれた後で、パパにあの面倒くさい母さんが斜面の下にいることを伝えよう——担任は怪我人との口論を避け、淡々と言った。「藤宮さんの転落事故については、園で詳しく調査させていただきます」「私が嘘つきだって言うの?」楓は体を起こすと、突然担任の頬を平手打ちした。担任は楓の傍らに屈んでいたが、その衝撃で頭が真っ白になった。口を開けたまま、信じられない目で楓を見つめる。なんて品性の欠如した女だ。「楓!」冬真の声が低く鋭く響いた。地面に座ったまま楓は顔を上げ、怒鳴り返した。「なんで私を怒るの!?私のこと兄弟だと思ってないの!?」担任は口を開きかけたが、楓の言葉を聞いて閉じた。馬鹿と話しても無駄だ。馬鹿は必ず相手の知能を自分のレベルまで引きずり下ろそうとする。楓は苛立たしげに冬真の太腿を叩いた。「親友が侮辱されてるのに、なんで私の味方してくれないの?」冬真は楓の首筋に残る鮮明な赤い痕に目を留めた。「首の傷は何だ?」自分の首に広がる細かな痛みを感じながら、楓は躊躇った。夕月にマフラーで絞められたと告げ口したい。そうすれば冬真は必ず夕月を罰するはず。でも今は、夕月の存在を皆に隠さなければならない。茂みに落ちた夕月と口の聞けない星来は、もう声一つ聞こえない。多分もう……そう考えると、楓の目の奥に浮かぶ冷笑を隠すように俯いた。星来を消せば、凌一を傷つけ、冬真の橘家での発言力を高められる。そして将来、冬真との子供の競争相手を一人減らせる。夕月を消せば、あの眩い輝きも消える。実の姉があんなに輝かしい存在であることに、もう我慢できなかった。「転がり落ちた時に、マフラーが木の枝に引っかかって首を絞めたの。まだ息苦しくて……」楓は咳き込みながら、惨めな表情を浮かべ、冬真に抱きしめてもらおうと手を伸ばす。冬真は眉間に皺を寄せ、冷たい表情のまま屈みこもうとした瞬間、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。振り返ると、園の制服を着た十数名の男たちが一斉に駆けてくるのが見えた。冬真は細い目を更に細めた。一目で分かる。訓練された動き——明らかに園の職員ではない。私服の警備員だ。ここに私服警備員がいるとすれば、それは一つのことを意味する——星来の野外活動参加に際し、凌一が警備要員を
夕月は激しく胸を上下させていた。呼吸をする度に鼻腔が刃物で切り裂かれるような痛みが走る。鉄錆のような匂いが鼻と喉に広がる。より広い平らな土手に立ちながら、夕月は唇を固く結んだ。声を出せば、楓に位置を悟られ、また石を投げつけられかねない。ゆっくりと星来を下ろす。抱きかかえていた腕は力が抜け、感覚が失われていた。急な斜面の中に、やっと足場の確保できる場所を見つけた星来は、スマートウォッチの緊急通報ボタンを押した。星来は夕月の手を取り、まるで年老いた幹部のように、その手の甲を優しく叩いた。心配しないで、すぐに誰かが助けに来てくれる——そう伝えるように。五分後、先生が医療スタッフ四名を連れて駆けつけた。担架を一つだけ持っているのを見て、悠斗は自分に言い聞かせた。楓のことだけを伝えて、夕月のことは言わなかった自分は、間違っていない。まず楓を診療所に運び、治療が済んでから、夕月と星来を探してもらえばいい。あの面倒くさい母親への、いい教訓になるはずだ。星来が危険な目に遭った時、夕月は我を忘れて斜面を駆け下りていった。いい気になって!二人とも、あの下でじっとしているがいい!中村先生は斜面に横たわる楓を見て声を上げた。「藤宮さん、ここは立入禁止区域ですよ。どうしてここに?」楓は苛立たしげに返した。「知るわけないでしょ。柵も看板もないのに」中村先生は周囲を見回した。昨日の下見の際、立入禁止の場所には全て警告の看板を立てたはずなのに、ここの看板が消えている。冬真が駆けつけると、楓の背後に赤いマフラーが落ちているのが目に入った。その下の斜面には、明らかな転落の跡が長く残されていた。医療スタッフが楓に手を差し伸べると、彼女は悲鳴を上げた。「冬真!」楓は取り乱したような表情で、冬真に向かって手を伸ばす。担任は蔑むような表情を浮かべた。救急隊員がいるというのに、楓は冬真の前でドラマでもやっているのか。しかも冬真は、この手の演技に引っかかる方だった。冬真は楓の手を握り、一気に引き上げた。救急隊員が担架に移そうとして触れた途端、楓は大袈裟な悲鳴を上げた。「冬真に抱っこしてもらいたい」楓は哀願するような声を出す。担任は目を天に向けんばかりに回した。「橘社長は特別な体質でもあるんですか?社長が触れ
そうして楓は悠斗に星来を誘い寄せるよう仕向けた。自閉症を抱える星来は、ずっと心理療法を受けてきた。今日やっと一歩を踏み出し、野外で他の子供たちや保護者と活動に参加する勇気を見せたのだ。もしここで少しでも事故に遭えば、それだけで星来は二度と外に出ようとはしないだろう。そんな臆病な星来なら、もう悠斗の橘家での立場を脅かすことはない。楓は下を見やった。夕月が星来を抱えて這い上がってくるところだ。手の届く場所に転がっていた石を掴む。「楓兄貴、何するの?」悠斗の声に、夕月が顔を上げる。楓の唇に浮かんだ底意地の悪い笑みが見えた。ここまで転落させたのに、もう一踏みしない手はない。楓は石を振り上げ、夕月の頭めがけて投げつけた。夕月は星来を抱きしめたまま、咄嗟にずれた。斜面の下の茂みの陰に平らな場所を見つけた夕月は、そのまま星来を抱えて茂みの中へ身を投げた。「ザッ」という音と共に茂みが大きく揺れ、すぐに静寂が戻った。「うっ……!」悠斗は思わず身を乗り出し、何かを掴もうとして手を伸ばした。夕月と星来が落ちていくのを、ただ呆然と見つめることしかできない。目の前の光景に悠斗は震え上がった。小さな唇を震わせながら、悠斗は絞り出すような声で言った。「楓兄貴、どうしてそんなことするの?あ、あなた……人殺しちゃったよ!!」悠斗の体が凍りつき、頭の中が真っ白になった。楓は最初、ただのいたずらだと言った。星来を怖がらせて、瑛優や面倒くさい母親の前に二度と現れないようにするだけだと。「悠斗くん、見たでしょう?夕月姉さんが自分から星来を抱えて転がり落ちたのよ!」「でも……」喉に刃物を突き立てられたかのように、悠斗は息も言葉も詰まった。見えない手に引っ張られているような感覚。悠斗の瞳に涙が揺れる。「ねぇ悠斗くん、医者が来たとき、私を見捨てて彼女たちだけを助けたらどうする?」楓の声が追い詰めるように響く。悠斗は固まったまま、どうすればいいのか分からなくなった。楓の声が急に弱々しくなる。「救護所のベッドは一つしかないの。夕月と星来が使っちゃったら、私はどうなるの?」「医者に楓兄貴を放っておかせたりしないよ!」楓は首を振った。「医者は夕月姉さんを見つけたら、真っ先に彼女を助けようとするわ」「だから医者が来る