最初、誰もが銀司のことを「クールで近寄りがたい」と思っていたから、こんな過激なゲームを嫌がるんじゃないかと心配していた。でも、長年彼のマネージャーを務めてきた美鈴までが盛り上げているのを見て、みんなは安心したように、天井を揺るがすほどの大声で囃し立て始めた。「キス、キス」その喚声の中、銀司が驚いた表情で自分を見つめているのを、美鈴は涼しい顔で無視した。むしろ、さりげなく杏の背中を軽く押してやった。「あっ」次の瞬間、杏は真っ赤な顔で銀司に飛び込み、正確に彼の唇を捉えた。唇が触れた瞬間、銀司の表情が一気に険しくなり、激しい動作で杏を押しのけて立ち上がった。彼は顔は青ざめ、美鈴を鋭い視線で睨みつけたまま、何も言わなかった。杏はただ恥ずかしがっているだけで、異様な空気に気づいていない。美鈴は薄く笑うと、何事もなかったように言った。「キスも終わったことだし、次に移りましょうか」銀司の険しい表情を見て、誰も罰ゲームの成否について口に出せなかった。しかし運悪く、次のラウンドでも銀司と杏が負けてしまった。今度の罰ゲームは、銀司が杏をお姫様抱っこするというもの。杏は彼の前に立ち、もじもじとスカートの裾を握りしめている。美鈴はまたしても率先して囃し立てた。「お姫様抱っこ、お姫様抱っこ」銀司は彼女を睨みつけ、何か言いたげに唇を動かしたが、やはり言葉を飲み込んだ。周りの声援が大きくなる中、彼はなかなか動こうとしない。「あの……やめておきましょうか……」杏が言いかけたところで、銀司は彼女をさっと横抱きにした。周囲から大きな歓声が上がった。ゲームが終わるまで、美鈴は銀司の視線がずっと自分に向けられているのを感じた。何かを必死にこらえているような、熱い視線。彼女はわざと視線をそらし、他の人たちと楽しそうに話しながら、まるで気に留めないふりをした。打ち上げが終わり、二人が家に戻ると、美鈴が寝ようとした瞬間、銀司は突然彼女の手首を掴み、ついに堪忍袋の緒が切れた。「今日のは一体どういうつもりだ?なんで俺を他人に押し付けるんだ?」他人?彼女は軽く笑った。「ただのゲームじゃない?ルールに従っただけよ」「だがそれでも……」「大したことじゃないのに、余計なことを考えなくていいわ。疲れ
銀司は胸のざわめきを抑え、ドアを開けた。そこには雨に濡れた杏が立っていた。「銀司さん、鍵を忘れてしまいまして……こんな時間では鍵屋もやってませんから、泊めてくれませんか?」彼女は小刻みに震え、うるんだ瞳で訴えかけた。銀司はため息をつくと、「まず入って。今美鈴に聞く」美鈴の寝室をノックし、事情を説明した。扉を開けた彼女は、銀司の背後に立つ杏を見て、かすかに笑った。「どうぞ、ご自由に」許可を得た杏はにっこり笑い、銀司にお礼を言った。美鈴はもう二人に関心がないように、静かに扉を閉めた。翌朝、美鈴は部屋に銀司に関わる品々を段ボールに詰め、捨てようとしていた。その途中、銀司が杏を抱き上げる姿を目にした。「素足で歩くな。冷えるだろう」 杏は恥ずかしそうに銀司の胸に顔を埋め、美鈴に気づくと慌てた。「あ、橋本さん!誤解しないで!生理でお腹が痛くて……急いでたら靴下を履き忘れてしまいまして……銀司さんが助けてくれただけですから……」美鈴はテーブルの上の生理用品と黒砂糖に目をやった。家のストックはもうなくなった。明らかに、銀司が朝早く買いに出かけたものだった。私が生理痛で苦しんでいた時は、作曲に夢中で、一度も気にかけてくれなかったくせに……心の中で嘲笑しながら、彼女は平静を装って言った。「誤解なんてしてないわ。生理痛なら抱っこされて当然よ。一緒に寝たっておかしくない」銀司はすぐに杏をソファに下ろし、美鈴を見つめた。その目には信じられないという色が浮かんでいた。杏も驚いた表情をしていた。気まずい沈黙が流れる中、杏が段ボール箱に気づいた。「わあ!橋本さん、こんなに銀司さんのグッズを持ってるですか?これ全部、絶版になりました。ファンの間では高値で取引されてるレア物ばかりです。どのように集めましたか?」欲しそうな眼差しで見つめる杏に、美鈴は軽く肩をすくめた。「欲しいの?じゃあ、送ってあげるよ」箱を差し出すと、杏は目を丸くした。「え、本当に?」「どうしてダメなの?吉岡さんが好きでしょ」杏は嬉しそうに箱の中を漁り始めた。「これってデビュー作のレコードでしょうか?こんなにきれいに保存されていたんですね……このライブ映像、銀司さんが本当にお輝いになっていらっしゃいます……
杏は一泊だけして帰っていった。その後、銀司は何日も家に戻ってこなかった。しかし、毎日のように、美鈴のスマホには杏からの銀司に関するメッセージが震えた。【橋本さん、今日は銀司さんがピアノの先生に会わせてくれたんです。先生、とっても優しい方でした】【今、銀司さんと一緒にインスピレーションを得るために来てます。ここからの景色、すごくきれいですから、橋本さんも今度一緒に来てくださいね】【大学時代の銀司さんが見たいって言ったら、キャンパスまで連れてきてくれました。こんなところで勉強してたんですね】……どのメッセージにも、必ず銀司の写真が添付されていた。普段は写真嫌いで知られる彼が、杏にはこんなに素直に撮らせているのか。しかし、杏は美鈴の気持ちを勘違いしていた。美鈴はもう銀司のことを気にすることはないからだ。そのため、全て既読スルーした。銀司の行動をチェックすることも、彼と杏が何をしているか気にかけることも、すっかりやめていた。ある晩、久しぶりに帰宅した銀司は、出かけるところの美鈴とばったり出くわした。「こんな時間にどこへ行くんだ?」外の暗さを見て、彼は眉をひそめた。美鈴は彼の横をすり抜けるようにして、「プライベートな用事だ。いちいち報告する義務はないでしょう」冷たい声でそう言い放ち、振り向きもせずに出ていった。銀司はぽかんと立ち尽くした。その言葉がどこかで聞いたような……ふと気づくと、それはかつて自分がよく使っていた言い回しだった。以前は、彼が出かけるたびに美鈴が「どこへ?」と聞くものだから、「プライベートな用事だ」と適当にあしらっていた。すると彼女は黙って家で待っていた。だが、立場が逆転した。家中が妙にひんやりと感じられた。銀司は長い間玄関に立ち尽くし、何とも言えない気分に苛まれた。一方、美鈴が個室のドアを開けると、親友たちが一斉に駆け寄ってきた。天井に向かってクラッカーが鳴り響いた。「美鈴ちゃん、このお別れ会は私たちの手作りなんだから。今日は飲み倒される覚悟で来てよね」リーダー格の新居日菜(にい ひな)がにっこり笑いながら手を引っ張った。「はいはい、今日だけは皆さんのペースに合わせるよ」美鈴は苦笑いしながらグラスを手にした。場はすぐに盛り上が
親友たちの言葉が、美鈴のこれまでの想いを余すところなく語り尽くしていた。日菜は彼女の表情の変化に気づき、さっと話題を変えた。「そういえば、建部さんって、竹内さんの大親友だったわよね?あの人が美鈴ちゃんと結婚するって知ったら、逆上するんじゃない?」「逆上どころか、絶交確実よ」美鈴は「そんなことない」と言おうとした。愛してもいない相手のために、どうして逆上するだろう?だがその時、突然スマホが鳴り響いた。画面には杏の名前が。「橋本さん、大変です。銀司さんが急に胃痛で……どうすれば……?」杏は完全にパニック状態。背景には銀司の苦しそうな息遣いが聞こえた。「胃痛なら119番すればいいでしょ?今は吉岡さんがマネージャーなんだから」冷静にそう言い放ち、電話を切った。しかし、すぐ、再び着信。今度は泣きじゃくる杏の声だった。「病院へ向かう途中で事故に……銀司さんが私をかばって、大けがを……私は無事だったのに、彼はあの手が……どうして私なんかのために」声は震えていたが、どこか誇らしげな響きも。美鈴はため息をついた。「彼がそこまでするなら、吉岡さんも相応のことをすれば?」そう言い残し、彼女はきっぱりと電話を切った。周りの親友たちは心配そうな表情を浮かべた。日菜が気分転換にショッピングに行こうと提案した。美鈴はそれに同意し、皆で繁華街をぶらぶらと歩きながら、服を試着したり雑談したりして時間を過ごした。夜も更け、人通りが少なくなってきた頃、一人一人に抱きついた。「心配しないで。もう気持ちの整理はついたから。これからは自分を大切にするわ」皆さんと別れ、一人で家に帰ると、ネット上ではすでに銀司の事故のニュースが拡散されていた。帰宅後、スマホを開くとSNSは銀司の事故報道で溢れていた。【人気ピアニスト・竹内銀司、恋人を守り大けが!】【高級車衝突事故 ピアニストの現在は】どの記事もセンセーショナルな見出しばかり。だが美鈴の心はもう揺れなかった。いつも通りにシャワーを浴び、ベッドに入った。しかし深夜、激しい揺さぶりで目を覚ました。暗闇の中、荒い息遣いが聞こえた。ぼんやりとした意識の中で、暗がりに浮かぶ銀司の険しい顔が見えた。まだ夢かと思っていると、怒りを抑えた声が聞こえてきた。
美鈴はぼんやりとした意識から覚め、ゆっくりと上半身を起こした。窓から差し込む月明かりの中、銀司が病院の青白い患者衣を着ているのが見えた。額と手首には分厚い包帯が巻かれている。病院を抜け出してきたのか?それもただ……私に会うために?彼女は目をこすり、冷淡に答えた。「知ってたわ」その言葉で、銀司の目がさらに充血し、声が震えた。「知ってて……どうして見舞いに来なかったんだ」彼女の平静な表情を見て、ついに感情が爆発した。「お前、いったいどうしたんだ?昔は俺がちょっとでも怪我すると、誰よりも慌てていたくせに……」美鈴の声は相変わらず冷たいかった。「吉岡さんが面倒見てるんでしょ?」その瞬間、扉が勢いよく開き、杏が飛び込んできた。「銀司さん、こんなに重症なのに、どうして病院を抜け出したんですか?」涙をぽろぽろこぼしながら、彼の手を握りしめた。「お願いですから、戻りましょう……橋本さんとの話は、退院してからでも……」杏の泣き腫らした顔を見て、銀司は眉間を押さえ、徐々に落ち着きを取り戻した。まず杏をなだめ、それから美鈴を一瞥した。「退院したら……ちゃんと話そう」そう言うと、杏に支えられて去っていった。美鈴はその背中を見送り、かすかに笑った。もう待たないわ。二度と待ち続けたりしない。翌朝、美鈴のスマホに航空会社からの搭乗案内が届いた。ちょうどその時、建部藤正(たてべ ふじまさ)から電話がかかってきた。「式の準備はほぼ整ったよ。ドレスも指輪も新居も、君のSNSや親友から好みをリサーチして選んだんだ。気に入らなかったら、来てから一緒に選び直そう」その言葉に、美鈴の胸がふっと温かくなった。「心を込めて選んでくれたのなら、何でも好きよ」「今日着くよね?」「ええ」「了解。時間通りに迎えに行くから……奥さん」「奥さん」と呼ばれて、美鈴は思わず頬が熱くなった。電話を切り、出かけようとしたその時、またも銀司から着信があった。切ろうとしたが、執拗に鳴り続けるので、仕方なく電話に出た。「今まで誰と話してた?ずっと話し中だった」「何か用?」彼女の冷淡な態度に、銀司の呼吸が荒くなった。「今日……見舞いに来てくれるか?」「時間があればね」銀司の声に冷たさ
飛行機が離陸する直前、美鈴はスマホから銀司と杏の連絡先をすべて削除した。電源を切り、窓の外を見やった。一方、病室のベッドで銀司は一日中待ち続けていた。ドアの向こうに期待した足音は聞こえてこない。ラインの画面には冷たい「送信エラー」の表示が繰り返され、電話は何度かけても出なかった。彼の表情はますます険しくなり、周囲の空気も重くなっていった。まさか、これは美鈴のプレゼントだか?そう自分に言い聞かせようとしたその時、軽やかなヒールの音が廊下に響いた。「美鈴、やっと……」言葉が喉につかえた。ドアを開けて入ってきたのは杏だった。「杏か……美鈴は?」杏の笑顔が一瞬こわばり、すぐに作り笑いに戻った。「あ、橋本さんは見かけませんでした……私じゃダメですか?せっかく作ってきたスープなんですけど……」保温ジャーからはチキンスープの香りが漂ってきた。銀司は思わず顔をしかめた。「いや……来ないならそれでいい。ただ、言っておくが、俺は鶏肉もそのスープも食べない」その冷たい声に、杏の顔が青ざめた。「えっ……ごめんなさい。知りませんでした」慌ててジャーを廊下に置き、澄んだ瞳で謝った。銀司は彼女の顔をじっと見つめた。鼻先にまとわりつく鶏の臭いが気になった。「君は鶏肉が好きなのか?」急に距離を感じる質問。杏は戸惑った。「は、はい……?」そして、その日記にそんなこと書いてあっただろうかと思った。銀司の目から光が消えていった。「違う……お前じゃない」彼は小声でつぶやいた。杏は内心焦った。日記のどこにも竹内葵(たけうち あおい)が鶏肉嫌いだなんて書いてなかったはず!それでも、必死に涙を浮かべ、写真で見た葵の表情を真似て、涙をこらえるように聞いた。「銀司さん、どういう意味ですか?私、誰かの代わりなんですか?」「違う」即答したが、失望は深まるばかり。頭を振り、目を閉じた。「帰ってくれ。疲れた」杏はまだ何か言おうとしたが、その冷たい視線に言葉を飲み込んだ。「じゃ、じゃあ……お休みなさい」時計の針は深夜を指していた。美鈴は結局現れなかった。銀司はなぜか、今すぐ彼女に会いたいと思った。その温もりに触れたい、慰めを得たいという衝動に駆られた。医者のアド
「美鈴、ただいま……プレゼントはどこ?」電気をつけた瞬間、銀司の胸にはまだ小さな期待が残っていた。次の瞬間、美鈴が笑顔で飛び出してくるんじゃないかと。まぶしい光に目を細め、見渡すと、いつもよりがらんとしたリビング。テーブルの上には地味な包装のケースと、何の変哲もないメモが一枚。それを見たくない。なぜか足が重い。でも結局、ゆっくりと近づいた。【美鈴から別れましょう。銀司への最後の贈り物】美鈴の名前がくっきり。文字を追うごとに、呼吸が荒くなっていく。手が震えてきた。別れる?どうして……?家の中から消えたものたちが、彼女の決意を物語っていた。「嘘だろ……どうして……」声がかすれた。冷静さを装った顔が崩れていく。急いで箱を開けると、そこには擦れたシンプルな指輪がひとつ。彼がちょっと有名になった頃、美鈴は「周りに私たちのことを知らせて」と願った。でも彼は断った。代わりに買ったのがこのペアリングだ。「この指輪をはめたら、一生一緒よ」無理やり彼の指にはめたあの日。その言葉を言った本人が、今度は自ら指輪を外した。「約束を……破るなんて……」握りしめた指輪が掌に食い込んだ。小指にはめようとするが、もちろん入らない。ピアニストの指が赤くなっても構わず、力任せに押し込んだ。落としたら困ると思うから、結局、赤い紐を通して首から下げた。肌に密着させるように。「美鈴……」がらんとした部屋を見回すと、彼女の匂いも、ぬくもりもなかった。ドアを拳で殴りつけるた。傷口から血がにじんでも、痛みを感じない。普段は無表情な目に、初めて涙が浮かんだ。全部……前兆だったんだ。コレクションを杏に譲ったこと。彼を何度も杏に譲り渡したこと。あの冷たい態度……全ては決別の兆しだった。ただ、彼だけが分からなかったのだ。
物が少し減っただけなのに、どうしてこんなに空っぽに感じるんだろう?昔は平気で一人で過ごせたのに、どうしてこんなに落ち着かない?クローゼットには半分だけ空間が空いて、銀司の服だけが残っている。部屋の空気にかすかに残る美鈴の香水の香りだけが、唯一の安らぎだった。美鈴は去った。でも家の至る所に、彼女がいた証が残っていた。棚の花瓶には彼女の大好きだった百合があるが。ずっと水を替えられず、すっかり枯れていた。キッチンの小物や食器類は、全て彼女が選んだものばかり。あの日、彼女がこれらを選んでいる時の笑顔まで、今でも鮮明に思い出せた。「これからは私たちの家なんだから、一つ一つ大切に選びたいの」彼にもう一度家が持てるだろうか?帝都の実家はとっくに冷え切っていて、帰る場所ではなかった。まさか、また家を失うことになるなんて。今、銀司はソファに座った。美鈴がいつも座っていた場所だ。眠くてうつらうつらしながらも、必死に彼を待っていたあの日の姿を思い出した。あの時感じた温もり……久しぶりに感じた心安らぐ瞬間だった。葵がいなくなってから、実家は崩れていった。両親は喧嘩ばかりで、冷たい視線を交わすだけ。あれはもう家とは呼べなかった。玄関を見つめながら、彼は静かに奇跡を待った。もしかしたら次の瞬間、美鈴がドアを開けて「全部嘘だったの」と言うんじゃないか?でも今日は四月バカの日じゃない。彼は一晩中目を開けたまま、玄関を見つめ続けた。突然、けたたましいインターホンの音。銀司は鈍い動きで立ち上がる。目は真っ赤に充血していたが、杏を見ると、表情は冷静さを取り戻していた。「何の用だ?」杏は彼の憔悴した姿に驚き、ゆっくりと言った。「銀司さん……まだ怪我が治ってないのに、どうして病院を出たんですか?もしかして橋本さんが……?体のことが一番大事ですよ。お願いですから、まずは治療に専念してください」彼女は銀司の袖を掴んで懇願した。しかし銀司は、その指を一本一本ほどいていった。「杏、美鈴がいなくなった。彼女を探さなきゃ。彼女は今、きっと……俺を待ってる」
銀司は空港へ向かう車の窓に、ぼんやりと景色を眺めていた。色鮮やかに見えた街並みも、今はまるでモノクロ写真のようだ。葵が逝ってからずっと、彼の世界はこんな色をしていた。美鈴だけがその灰色に彩りを与えてくれたのに、今また以前のままになってしまった。飛行機が離陸する際、小さくなっていく街の灯りを見ながら、「さよなら、美鈴……俺も、手放すよ」かすれた声で、最後の別れを告げた。空港に着くと厳重な身体検査を受け、そのまま実家へ送還された。広大な屋敷は相変わらず冷たく、人の気配すら感じられない。両親がたまに帰宅しても、重苦しい沈黙が支配するだけだ。そんな家で、彼自身もまた生きている心地がしなかった。ある日、ふと美鈴の残り香がする湖畔にある別荘が恋しくなった。そこにあるもの全てが美鈴の選んだもの。彼女がいなくなっても、至る所にその痕跡が残っている。「おかえりなさい、銀司」ふとソファでくつろぐ美鈴の声が聞こえたような気がした。「お腹空いてるでしょ?ご飯できてるわよ。一緒に食べましょう」優しい笑顔で彼の手を引かれ、キッチンへ。湯気の立つ料理を運び、食卓で談笑しながらゆっくりと食事をする――しかし、その幸せな光景は、一瞬で消え去った。「そうか。美鈴はもう、別の人の妻なんだ」銀司は唇を歪ませた。そして、リビングには大きな段ボール箱を見た。美鈴が杏にあげようとした品々を、彼が取り戻した。箱の中の一つ一つが、彼女の愛を物語っていた。今では、それが彼女を想う唯一の手段となっていた。そのそばにあるピアノには分厚いほこり。以前は美鈴がよく隣に座り、楽譜を一緒に見ながら笑い合ったものだ。彼女の目はいつも、尊敬と愛情に溢れていた。丁寧にほこりを拭い、銀司はピアノに向かった。傷ついた手で鍵盤に触れると、激痛が走った。それでも構わず、狂ったように弾き始めた。血が鍵盤を染めても、演奏を止めなかった。翌日、その曲『あの顔、遠く』は世に出ると、瞬く間に話題を呼んだ。「世紀の傑作」と称賛される一方、誰もその曲に込められた狂気と絶望を再現できなかった。銀司自身の録音版は粗削りだったが、かえってその空虚な音色と微かな風音が曲を引き立てていた。しかし、二度と再現できない、彼自身ですら。
「マネージャー」という言葉を聞いた時、銀司の胸に灯っていた小さな希望の火が、またひとつ消えた。「君は……俺以外の……」言葉を遮るように、美鈴がきっぱりと言った。「確かに言ったわ。『あなた以外の新人は担当しない』って」その言葉に、彼は思わずうなずいた。目に微かな光が宿った。しかし次の瞬間、彼女の言葉がその最後の望みも打ち砕いた。「でも私たち、もう別れたんでしょ?あの時の約束なんて、今は何の意味もない。元の会社も辞めたんだから、なぜあんただけに縛られなきゃいけないの?これからもたくさんの人材を育てていく。でも、あんたとはもう何の関係もない。わかった?現実を見なさい。もうあんたを愛してないし、これ以上ついていくな。あんたのために何かするつもりもない」そう言い終えると、藤正がドアを開け、美鈴は迷いなく中へ入っていった。ドアが閉まり、外にはぽつんと銀司ひとり。しばらくして、再びドアが開いた。期待に顔を上げたが、そこにいたのは美鈴ではなく藤正だった。「銀司、病院で静養する気がないなら、帰国したらどうだ?そこがお前の居場所だろう。竹内家の立場を考えれば、お前がずっと海外にいることなど許されない。美鈴は今、俺と幸せに暮らしてる。新しい出会いもあり、新しい人生を歩んでる。そしてそれはもう、お前とは何の関わりもない話だ。お前が粗末にした宝石を、俺が大切に磨き上げてみせる」藤正は勝ち誇ったように笑い、満足げにドアを閉めた。ドン!すぐに、黒い服のボディーガードたちが現れ、銀司を取り囲んだ。「竹内さま、お時間です」それに、車は既に待機しており、ドアも開けられている。もはや抵抗の余地はなかった。竹内家は軍部の名家。その母が葵を出産した時、敵の襲撃に遭って早産となった。そのため、葵の体は虚弱になってしまったのだ。銀司は厳格な教育を受け、父の後継者として育てられた。誰もが、彼が世界的なピアニストになるとは思っていなかった。しかしそれでも、竹内家の長男としての立場は変わらない。美鈴を追って海外に行くことを父が許したのは、最大限の譲歩だったのだ。案の定、銀司が拒否する間もなく、父からの電話が入った。「銀司、帰ってこい。もう終わりにせよ」冷たい声は、議論の余
翌日、医者が不機嫌そうに包帯を替えながら、眉をひそめて言った。「傷を安静に、と何度言えばわかるんですか?また無理をして……竹内さんのような有名ピアニストが、このままでは指が動かなくなりますよ。退院は許可できません。看護師が二十四時間ついていますから、完全に治るまで動かないでください」銀司は自分の傷をぼんやりと見つめていた。他人の話を聞いているような、冷静な表情だ。この医者……藤正の差し金に違いない。善意だろうが、どうでもよかった。たかが片手じゃないか。美鈴に会うことに比べれば……病院で数日おとなしく過ごし、看護の目が緩んだ隙を見計らって、また脱走した。何度目かのことだ。難なく看守をかわし、藤正の家へと向かった。一方、美鈴と藤正は外出した。「本当に一人で大丈夫?俺が同行すれば、採用の可能性も上がると思うけど」「大丈夫よ。どうしても行きたいというなら、外で待っててくれる?」美鈴は苦笑いしながら、くっついてくる藤正を軽く押しのけた。彼まで一緒なら、面接どころか即採用されてしまいそうだ。きれいめのスーツにヒールを合わせ、自信を持ってビルに入った。藤正は車中から、ビルの入口をじっと見つめていた。しばらくして、美鈴が満足げな笑顔で戻ってきた。「面接、すごくうまくいったわ。社長も気に入ってくれて、一週間後に新人チームを任せてくれるそう」彼女は元の仕事――芸能マネージャーに戻ることにした。長年やってきた仕事だし、何よりこれが好きなのだ。それは誰のためでもない、自分のためだ。「それはよかった。美鈴が楽しめるなら何よりだ。もし合わなかったら、すぐにでも他の仕事を探そう。俺が全力でサポートするから」藤正は彼女の手を優しく包み込んだ。「うん」家に着き、車から降りた瞬間、ドアの前に見覚えのある人影が立っているのに気づいた。「美鈴、待っていたよ」銀司の視線は美鈴だけを捉え、傍らの藤正には目もくれなかった。「美鈴、離婚してくれ。俺と帰国しよう。やり直せる。結婚式も挙げよう。ずっと俺たちの式を楽しみにしてただろう?もっと盛大な式にする。誰もが羨むように……どうだい?」独りよがりに未来を語り、まだ諦めきれない様子だ。美鈴は眉をひそめ、見知らぬ人を見るような目で彼を見た。
この豪華な結婚式は完璧ではなかったけれど、美鈴の胸には甘い幸せが広がっていた。ああ、もう私は幸せなんだと思っていた。ふと横を見ると、藤正が優しく微笑んでいた。その夜。美鈴はベッドの端に座り、胸の高鳴りが止まらなかった。重たいウェディングドレスから、シルクの肌触りの良い寝間に着替えている。部屋中が和風の装飾で彩られ、寝間にはおしどりの文様が施されていた。その色が、なんだかますます彼女の頬を熱くさせた。シャワーの音が止み、程なくして藤正がバスルームから出てきた。だらしなく着たパジャマからは、鍛えられた体のラインが覗いている。タオルで拭いた髪から滴が落ち、鎖骨を伝って胸元へと消えていく。何てことない日常の光景なのに、美鈴はなぜかドキドキしてしまった。思わず唇を噛み、シーツをぎゅっと握りしめた。その様子に気づいた藤正は、優しい笑みを浮かべた。わざと力を抜いて、彼女が緊張しないように気を遣った。「美鈴、まだ不安だったら遠慮なく言って。君の気持ちが準備できるまで、いくらでも待つから」そう言う時、彼の喉仏がくっきりと動いた。美鈴はつい見入ってしまい、はっと我に返って小さく咳払いした。「藤正、大丈夫……私、覚悟はできてるから」積極的に藤正の胸に手を当てると、彼は嬉しそうにベッドに倒れこんだ。自然と美鈴の体も引き寄せられた。「じゃあ、今夜は存分に愛させてもらうよ」その言葉とともに、熱いキスが降り注いだ。もう逃げる隙など与えないように。夜通し、ベッドは激しく揺れ、二人の息遣いが夜明けまで続いた。一方その頃、病院のベッドで銀司がようやく目を覚ました。ゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと天井を見つめた。窓の外はもう夜が明けかけていた。随分時間が経ったな。その二人は、もうすべてを終わらせただろう。そう思いながら、傷ついた手を強く握りしめ、かさぶたが剥がれてまた血が滲んだ。痛みでますます現実が突きつけられた。美鈴が本当に自分を捨てたのだということが、これほどまでに鮮明に感じられたことはない。いつも彼を追いかけてた美鈴がもういなかった。彼だけを見てた美鈴がいもういなかった。けど、ふと視界に、美鈴の後姿が浮かんだ。「美鈴……美鈴……」彼女の名を繰り返し、虚像
美鈴は目を閉じ、ふと葵のことを思い出していた。償いなんて、本当に意味があるのだろうか?もうこの世にいない少女。その代わりに杏を寵愛しても、何の意味もない。杏は葵ではないのだから。今になってようやく理解した。銀司は確かに愛してくれたのだ。だが、そんなことはもうどうでもよかった。伝わらない愛など、愛とは言えない。胸の奥からは、喜びの感情が一切湧いてこない。七年もの歳月を共に過ごしたのに。彼の無口な性格は十分知っていたはずなのに。それでも、一言の「愛してる」さえ惜しんだ彼の態度に、どんな熱も冷めていく。ましてや、比較する相手が現れてしまった。銀司が杏を優しく扱う姿を見た時、初めて悟った――彼にもこんな風に人を愛することができるんだ。けれど、一度もそんな風に接してくれなかった。今更、彼が杏を愛していたかどうかなんて、どうでもいい。もう、心は傷だらけだった。長い沈黙の後、美鈴は静かに彼を押しのけた。「銀司、もう終わりよ。杏のことじゃないの。あなたは私を愛していたかもしれない。でも、私はそれを感じられなかった。だから手を放したの。二度と戻らない」悟り切ったような声でそう告げると、自然に藤正の手を握り、彼の胸に寄り添った。それだけで、銀司との距離は決定的に遠のいていく。「ずっと同じ場所で待ち続けてくれる人なんていないわ。私だってそう。もう長く待たせすぎた人を、これ以上待たせたくない。新しい人生を始めなさい。私はもう銀司を選ばない」きっぱりと言い切ると、美鈴はしっかりと藤正を見つめた。その温かい眼差しに、不安げだった彼の表情がほぐれていく。そして、ゆっくりと目を閉じ、彼の唇の端に優しいキスを落とした。教会は一瞬、また水を打ったように静まり返り、聞こえるのは二人の鼓動だけだった。トクン、トクン。「藤正の妻になれて……本当に嬉しい」美鈴の微笑みには、偽りのない輝きがあった。藤正の心臓は高鳴りを止められなかった。慌てて言葉を紡ごうとするが、興奮のあまり言葉が続かなかった。「俺……俺こそ……美鈴と結婚できて……」そのわずか数歩先で、銀司は拳を握り締めていた。力任せに握った指輪が掌に食い込み、傷口から血が滴り落ちるていた。高価なダイヤモンドは
銀司は黒いベルベットの指輪ケースを握りしめていた。中には揃いの結婚指輪――鳩の卵ほどの大きさのダイヤがきらめき、目を奪う輝きを放っている。彼は周囲の好奇の視線も神父の困惑も無視するように、美鈴へとまっすぐ歩み寄った。足取りは固く、迷いがなかった。すると、オーケストラが止まった。神父も呆然としてしまった。教会は水を打ったように静まり返った。挙式の最中に、もう一人の新郎が現れるなんて――誰もが息を飲んだ。「銀司?」美鈴は瞬きを忘れた。もう杏に場所を譲ったはずなのに。なのに、なぜ今?それもまさかの結婚式に?反射的に藤正の前に立ちはだかり、眉をひそめて言い放った。「何の用?今日は私たちの結婚式よ。邪魔しないで」「結婚式?」銀司は唇を歪めて笑った。「俺が別れを承知した覚えはない。お前たちの結婚なんて、さらに認めない。杏の件は説明する。だからまず……俺と来てくれ」不敵な笑みを浮かべながら、彼は美鈴の手首を強く掴んだ。その顔には狂気じみた表情が浮かんでいた。「放して!」美鈴は激しく手を振り払い、顔を背けた。「もういいの。あなたを愛してないって、わからないの?もう終わったんだよ。子供みたいなわがままで式を台無しにしないで」「わがまま……?」銀司の目が一瞬、揺れた。必死の思いが、彼女にはただの「わがまま」に見えるのか。「違うんだ」声が震えた。「美鈴、まだ終わってない。俺たちは……」銀司の目は真っ赤になり、冷たい顔に崩れそうな笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼は美鈴の頬を強引に掴み、唇を奪おうとした――ドン!鈍い音が教会に響いた。藤正の拳が銀司の頬骨に直撃した。その一撃で銀司の体はのけぞり、頬はすぐに腫れ上がり、口角から血が滲んだ。「ふざけるな!美鈴がもう入籍した。式も終わりに近いんだ。俺の妻に何をするつもりだ!諦めろ」藤正はそう言い、もう一発殴ろうと追いかけた。しかし銀司はわざと傷ついた腕でその拳を受け止めた。血が腕を伝って流れ、見るも痛々しい赤だった。だが彼は少しも気にせず、むしろ唇をゆがめて笑った。「痛いな、美鈴」わざと傷ついた腕を見せつけるように袖をまくり、赤黒い血を滴らせた。地面に落ちた血のしずくが、教会の床を汚した。
美鈴の心は大きく揺さぶられた。銀司を追いかけていたあの頃、こんなにも密かに想いを寄せてくれていた人がいたなんて。「でも……藤正と銀司って親友じゃなかったの?どうして私なんかを……」まだ不安が消えない様子だった。「ああ、あれはね。昔の話だ。今日からはもう親友じゃない」藤正はあっさりと言い放った。「あいつが君の告白を受け入れた日、実は俺も大がかりな告白の準備をしてたんだ。ただ……ほんの少しだけ遅れた。もしかしたら、あいつは俺の計画を察知して、先回りしたのかもしれないな」その声には、かすかな悔しさが滲んでいた。もっと早く気持ちを伝えていれば。もっと早く出会えていればと。長い沈黙の後、彼はそっと彼女の手を取り、指を絡ませながら続けた。「君たちが付き合い始めてから、俺は海外に飛んだ。この国にいたら、きっと君に告白してしまうと思ったから。三年前の雨の夜、我慢できなくて……君に会いに戻ってきたんだ。実は、あの夜、銀司の電話が繋がってたんだ。俺が会社に引き止めさせて、君に連絡できないようにした。全ては君に会うための計画だった。美鈴、この告白は随分遅くなったけど、どうか聞いてほしい。君を愛してる」一つ一つの言葉が美鈴の胸を強く打ち、彼女は完全に動揺した。信じられないという表情で、思考が停止しそうだった。鼓動は早くなり、頬は火照り、まつげがぱたぱたと震えた。「ふふっ」藤正は優しく笑い、彼女の動揺を温かく見守った。そして、いつものように静かに答えを待った。その時、扉を叩く音がした。「新郎新婦様、入場のお時間です」係の女性が明るく告げた。「美鈴、この扉を開けたら、もう後悔する余地がない。それでも……続ける?」藤正は目尻を下げて笑いながら、大きくて温かい掌を美鈴の前に差し出した。迷いはなかった。美鈴は即座に自分の手をその中に預けた。「後悔なんてしないわ」その温もりは、彼女に無限の勇気を与えている。扉が開くと、目の前には花の絨毯が広がり、教会のステンドグラスから神々しい光が降り注いでいた。白衣を着ている神父が立ち、その合図で白い鳩が舞い上がり、優雅なオーケストラの調べが響き渡った。式が始まった。二人はしっかりと手を繋ぎ、祝福の視線を浴びながら祭壇へと進んだ。
鏡の前で、美鈴は緊張しながらドレスの裾を整えていた。何層にも重なったスカートには無数の真珠とダイヤモンドが散りばめられ、まるで星空をまとっているようだった。精巧な文様が施されたドレスは、彼女の美しいプロポーションを引き立てていた。鏡に映る彼女の肌は雪のように白く、以前の目の下のクマはすっかり消え、健康的なピンク色に染まっていた。薄化粧なのに、息をのむほどの美しさだった。陽光が降り注ぐと、天女のように輝いて見えた。「このウェディングドレス、私に似合ってる?」美鈴はスカートの裾をそっと持ち上げながら、唇を噛んで尋ねた。藤正は彼女の姿を見つめ、一瞬言葉を失った。手の動きが止まり、息さえも忘れるほどだった。「美しい。世界一美しい花嫁だ」思わず本音がこぼれた。「褒めすぎよ」藤正の熱い視線に頬を染め、美鈴は慌てて鏡の中の自分に目を戻した。銀司と一緒だった七年間、何度も結婚の話をほのめかしたことがあった。だが彼はいつも黙り込むだけだった。一生ウェディングドレスを着ることはないと思っていたのに、まさかこんな日が本当に来てくれたとは。最初は形だけの結婚だと思っていたのに、今はなぜか本気のような気がしてきた。「藤正、もうすぐ式が始まるけど……後悔してない?私の恩着せがましい要求に応じて」なぜか、彼女は答えが怖くなり、目を伏せて軽く笑ってみせた。「やはり式を中止しよう……」「後悔なんてしない!」美鈴の言葉を遮って、藤正はきっぱりと言った。「美鈴に頼まれた時から、これは俺の本心だ。他の人に同じことを求められたら、金で済ませるだけだ。俺はバカじゃないし、無駄に親切でもない。美鈴だけだ。美鈴だからこそ、応じたんだ」深い眼差しで彼女を見つめる藤正の目には、計り知れない愛が宿っていた。美鈴は照れくさそうにうつむいた。たった一度の偶然の救命が、どうしてここまでの愛情を生むのか理解できなかった。藤正は彼女の心の不安を理解していた。ずっと与えるばかりで、銀司から愛を感じられなかった彼女が、自信を持てないのも当然だった。だが、彼は行動で示すつもりだった。銀司とは違うことを。藤正は美鈴の手を取り、自分のスマホにパスコードを入力した。彼女の誕生日だった。その事実に、美鈴の胸が高鳴
その写真は完璧なタイミングで撮られていた。二人の微妙な表情は、初恋のような淡い恋心を思わせるものだった。この一枚が流出した瞬間、銀司の「妹同然」という主張は木っ端微塵に打ち砕かれた。彼は写真を睨みつけ、消し去りたい衝動に駆られた。長い沈黙の後、父親に電話をかけた。「お父さん、竹内家の力を借りたい。厄介者を片付けたい」電話の向こうは無言で、ただ「ああ」と応じるだけだった。一夜明けると、杏のSNSアカウントは永久凍結されていた。彼女に関連するコンテンツは次々と削除され、トレンド入りしていた話題もあっという間に消え去った。新しいニュースが注目を集め、人々の関心はすぐに別の話題へ移っていった。少し静かになったコメント欄を見て、銀司はほっと胸を撫で下ろした。今急ぐべきはA国行きのフライトだ。病院を出たばかりの彼は身なりをさっと整えると、すぐに空港へ向かった。疲労でまぶたが重かったが、無理やり目を見開き、険しい表情で結婚招待状を睨みつけた。空港に着いた時、ようやく藤正が電話に出た。「銀司、俺たちの結婚式に来てくれるんだ?祝福してくれるよな」藤正の声は軽やかで、心底楽しんでいるのが伝わってきた。だが銀司は歯を食いしばって言った。「建部、正気か?俺たち家族みたいだろう。美鈴は俺の女だ!彼女は俺を愛してる。お前との結婚なんて、ただの当てつけに過ぎない。全て説明すれば、きっと許してくれる。七年も一緒にいたんだ。俺は今すぐ誤解は解ける。結婚式を中止しろ。今A国に向かって、彼女を連れ戻すところだ」そう言いながらも、内心では確信が持てなかった。ただ、藤正が自信を失い、諦めてくれることを願っただけだ。しかし藤正は軽く笑っただけだった。「お前少し自信過剰じゃないか?これまで俺たちが親友だったなら、今日でその関係は終わりだ」彼は結婚行進曲を口ずさみながら、あからさまに銀司を嘲笑った。「美鈴はもうお前を愛していない。心から俺と結婚したいんだ。式は予定通りだ。来たければ、俺たちの幸せを見届けてくれ」その軽い一言が銀司の心を貫き、彼を打ちのめした。「美鈴はもうお前を愛していない……」この言葉が頭の中で反響し、狂いそうになった。スマホを握りしめる手に力が入り、今すぐ太平洋を越えて美鈴