日向はちょうどいいタイミングで口を開いた。「これが好きってことなんだ。この子は誰かを好きになると、ついじっと見つめ癖があるんだ」紗雪は口元に笑みを浮かべ、ぱっと手を振って、子供が好きそうなデザートをさらにいくつか追加した。日向は二人の様子を見ながら、心の中であたたかな感情があふれ出しそうになるのを感じていた。午後。三人は市内で最大規模の正大モールにやってきた。目的ははっきりしていた。真っ直ぐ三階の服飾フロアへと向かう。目の前に広がる色とりどりの服の数々に、紗雪は少し目が回る思いだった。日向は千桜を腕に抱えながら、紗雪の隣について歩く。「直接子供服売り場に行くのか?」「うん。このレディースコーナーを抜けたら、その先が子供服よ」「レディース?」その言葉に日向の目が一瞬光り、すかさず言葉を継ぐ。「どうせ午後は時間あるんだし、紗雪も自分の服見てみなよ」「いいのよ。もう十分あるから」紗雪は断ろうとした。今日のメインはあくまで千桜のための買い物だ。だが、日向はそれに納得しなかった。「女性の服は何着あっても足りないだって言葉、聞いたことがある?」その言葉を口にしたときの日向の瞳、そしてまっすぐに見つめてくるその視線に、紗雪はどう断ればいいのか分からなくなった。「でも今日は、千桜ちゃんの服を買いに来たんじゃ......?」日向は千桜を抱き直しながら軽く揺らし、にっこり微笑む。「大丈夫大丈夫。うちの千桜は急いでないよな?」千桜はぱちりと瞬きを一つしたが、特に何も言わなかった。二人は目を合わせるが、千桜からの返事は最初から期待していない。健康で元気にいてくれさえすれば、それでいいのだ。結局、日向の熱心な勧めに押されて、一行は先にレディースコーナーを見ることになった。紗雪は服を見ていたが、特に気が乗るわけでもない。彼女の服はいつも美月がデザイナーに直接オーダーして送ってくるものばかりだ。今回は、もしも目に留まるようなデザインがあれば......という程度の気持ちだった。「もう行きましょうか」「気に入ったのなかったのか?」服を選ばなかった紗雪に、日向は少し不思議そうに尋ねた。紗雪がうなずこうとしたそのとき、不意に隣から驚いたような声が飛んできた。「お義姉さん?
伊澄は目をそらしながら、紗雪の言葉が理解できないふりをした。「お義姉さん、何のことですか?私にはさっぱり......」紗雪は冷たく鼻で笑い、それ以上何も言わず、その女の演技を黙って見つめた。その演技はあまりにも稚拙で、少しでも察しのある人間なら誰だって騙されない。だが、残念ながら、本当に騙される者がいた。有紀は何も考えずに伊澄を庇い、彼女の前に立ちはだかって紗雪に食ってかかった。「伊澄をいじめないでくれる?彼女が何を言おうと、それは彼女の自由でしょ?あんたには関係ないわよ」「伊澄の身代わりにすぎないくせに」その言葉は紗雪の心を鋭く刺した。彼女の手は思わずぎゅっと握りしめられる。日向もそれを見て、黙って紗雪の顔に目をやった。紗雪の表情は酷く沈み、ただ黙って伊澄を睨みつけていた。やはりこの女、外で何を吹聴していたのか......京弥がいなければ、本性を隠そうともしない。これが京弥の妹の本性ってやつか?伊澄は有紀の腕を引き、少し不満げに言った。「もう、有紀、そこまで言わないで」「これは家の事情なんだから......お義姉さんを傷つけるようなこと言っても、意味ないでしょ」だが有紀はまったく引く様子がなく、真っ赤なネイルを光らせながら、紗雪を堂々と指差した。「こんな女がいたから、伊澄が上に立てたんでしょ?後から来たくせに、身代わりそのものじゃない」「有紀!」伊澄が叱るように声を上げたが、それ以上何の行動も起こさなかった。口では止めるようなことを言っても、実際は止める気なんて全くない。その態度が余計に有紀を勢いづかせ、次の言葉はもはや遠慮のかけらもなかった。「私、何か間違ったこと言ってる?身代わりって聞こえはいいけど、要するに泥棒でしょ?他人のものを奪った第三者よ」「それに、その隣の男......既婚者なんでしょ?この男と一緒にショッピングなんて、何が目的なの?この尻軽女!」さすがの日向も、これには聞いていられなくなった。止めに入ろうと一歩前に出ようとしたその時、紗雪が腕で彼を制した。彼は驚いたように紗雪を見た。こんな状況で、なぜ我慢する?彼女の性格からして、こんなの黙って受けるタイプじゃないはずだ。だがその次の瞬間、紗雪の行動が彼の思いを裏切った。彼女は
有紀は紗雪を指差し、信じられないといった表情で叫んだ。「あんた......」紗雪が少し眉を上げると、彼女はすぐに怯えて手を引っ込めた。それを見た伊澄は、心の中で舌打ちする。この役立たず。紗雪は満足そうにうなずいた。「言うことを聞かない人には、これくらいのしつけがちょうどいいのよ」「それにあなた、口が汚いからね。少しは他人のためにも躾けておかないと」そう言いながら、彼女はちらりと伊澄を見た。「次は、ちゃんと人として生きなさい。誰かの腰巾着になんて、ならないことね」こんなに明らかに人に利用されてるのに、それにすら気づかないなんて。こういうタイプには本当に呆れてしまう。大した力もないくせに、わざわざ彼女の前に出てくるなんて。伊澄は紗雪の言外の意味を察し、皮肉っぽく言い返す。「お義姉さん、そんなことして......京弥兄に話したら、どうなるか分かってるの?」すると紗雪は眉をひそめ、冷静に返す。「私のかわいい妹、これは私たち家族の問題よ?」「誰に話すかは、あなた次第。口はあなたのものだから」そう言って、彼女は日向と一緒にその場を離れた。さっきまでの良い気分は、もうどこにもなかった。日向は千桜を抱いたまま、足早に紗雪のあとを追う。すると、ようやく千桜が反応を見せた。日向そっくりの尊敬の眼差しで、パチパチと目を瞬かせながら紗雪を見つめている。後ろからは有紀の悲鳴が響く。「伊澄、手が痛いよ!病院に行かなきゃ......指が折れそうなの!」彼女は紗雪に賠償を求めることすらできなかった。だって、あのときの紗雪の顔、あまりに恐ろしすぎたから。あの一瞬、本当に指をへし折られるかと思った。伊澄は有紀の痛みに歪む顔を見て、内心うんざりしながらも、やはり自分の手下でもあるので、優しく声をかけた。「有紀、大丈夫よ。今すぐ病院に連れていくから」二人はバタバタと病院に向かった。だが診断の結果、有紀の指にはなんの異常もなかった。「そんなはずない!あのとき、すごい力だったのよ!?折れたかと思ったのに......!」有紀が叫ぶと、伊澄もすかさず加勢する。「そうです、先生。もう一度よく診てください。もしかしたら内部に損傷が......」その言葉に、医者は心の中で大きくため
有紀はとても優秀な腰巾着で、体裁を保つためにも、伊澄はしぶしぶ彼女の治療費を払うことにした。大した問題ではなかったとはいえ、この程度の医療費など彼女にとっては痛くもかゆくもない。だが、無駄にした時間と失った面子を思うと、人前に出るのも憚られる気分だった。有紀はずっと「手が痛い」と喚いていた。仕方なく、伊澄はイライラを押し殺してなだめる。けれど内心では、まったく役に立たないね、どうしてもっと思い切り指を折らせなかったのよ。これじゃ証拠も何も残らないじゃない。証拠がなければ、京弥兄のところに持っていくこともできないのに。有紀はただひたすら痛みを訴えるばかりで、伊澄の苛立ちには気づいていない。今は紗雪のことを思い出すだけで震え上がるほどだ。あんなに綺麗な顔をしているのに、手を出す時は本当に容赦がないなんて。結局、二人は不満げに病院を後にした。もうこれ以上ここにいても、意味はなかった。......日向は、まだ真剣に服を選んでいる紗雪を見ながら、千桜を抱く手にぎゅっと力が入った。ついには我慢できずに声をかけた。「なあ、紗雪、本当に大丈夫なのか?」「私が何かあったように見える?」紗雪はきょとんとした顔で首をかしげる。日向の言っている意味がわからない。その顔を見て、日向は少し気まずそうに説明した。「いや、別に......ちょっと心配になって。さっきの件で、気分悪くなってないかって......」紗雪はふっと鼻で笑い、唇を少し吊り上げた。「まさか。あんな人に左右されるなんて、時間の無駄よ」それを聞いた日向は感心したように呟いた。「......君の言うとおりだ」紗雪は軽く微笑み、それ以上何も言わなかった。彼女は千桜を見つめ、頭をやさしく撫でながら微笑んだ。「さ、どうでもいい人の話はやめにして、かわいい千桜のために服を買わなくちゃ」日向は、紗雪が本当に千桜を気に入ってくれていることを感じて、心が温かくなった。これほどまでに根気強く子どもと接する女性を見るのは、彼にとって初めてのことだった。しかもそれが偽りのない、心からの優しさであることが伝わってきた。紗雪が服を選ぶ姿を見つめるうちに、日向の中で何か名もなき感情が芽生えていくのを、彼はぼんやりと感じていた。二
千桜との関係があるせいか、紗雪の日向に対する印象はさらに良くなっていた。「そろそろいい時間だし、今日はこれくらいにしておきましょうか」紗雪は日向を見ながらそう言った。すでに午後いっぱいをショッピングに費やしていたし、まだ他の予定も残っている。日向一人にばかり時間を使うわけにもいかない。日向は頷いた。「そうだね。今日は本当にありがとう。また次の機会にでも一緒に出かけよう」「いいのよ、そんなの。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それで十分」紗雪は笑いながら千桜を見つめた。この小さな女の子を、本当に可愛くて仕方がないと思っていた。日向は千桜に目を向け、優しい声で言った。「千桜、お姉さんにバイバイしようね」けれど千桜はじっと紗雪を見つめたまま、何も言わなかった。ぱちぱちと瞬きをする大きな瞳は、まるで精巧な人形のように美しかった。日向は促し続ける。「ちゃんとご挨拶しないとだめだろ。お姉さんには、いっぱいお世話になったんだから」紗雪は「いいのよ」と言って、軽く手を振った。「大丈夫大丈夫。気持ちはちゃんとわかってるから。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それでいいわ」二人ともすでに諦めかけていた。そろそろ車に戻ろうかというそのとき、千桜がふいに、ぽつりと口を開いた。「......お姉ちゃん、ありがとう」その瞬間、日向と紗雪は目を見合わせ、驚きに目を見開いた。日向にとっても信じられないことだった。というのも、これまでどんなに家族が声をかけても、千桜は口を開こうとしなかったのだ。今回も、紗雪に挨拶させようとは思っていたものの、正直期待はしていなかった。紗雪もまた、驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべ、瞳がぱっと輝いた。「千桜ちゃん、えらいよ」「今度お兄さんと一緒に来たときは、前に好きだって言ってたあのプリン、一緒に食べに行こう?」千桜はもうそれ以上は何も言わず、ただぎゅっと日向の首にしがみついた。でも、二人とも無理にはさせなかった。なにせ今の一言だけでも、十分に驚きだったから。「じゃあ、私はこれで帰るね」紗雪は日向に別れを告げ、軽く手を振ってその場を後にした。日向は頷き、その背中を見送りながら、ふと物思いにふけった。......紗雪が帰宅したとき、家
本来、京弥兄と先に知り合ったのは伊澄の方なのに、紗雪なんてあとから現れた人間にすぎない。知り合ってからの時間なんて、こっちが長いに決まってる。憤った伊澄が顔を上げたとき、目が合ったのは紗雪の、笑っているようでいて冷ややかな視線だった。その瞬間、彼女の勢いは一気にしぼんだ。商業施設での対峙が脳裏をよぎる。特に紗雪が有紀の手を払いのけたあの鋭さは、思い出すだけでも震えが走るほどだった。彼女じゃ、到底太刀打ちできない。「......わたっかよ、もう」仕方なく、伊澄はしぶしぶ口を開いた。ここは自分の家じゃないし、京弥兄の前であれこれ言うこともできない。余計なことを言えば、彼はすぐにおかしいと気づいてしまうだろうし、それはどちらにとっても良い結果にはならない。京弥は伊澄のことなど気にも留めず、ただ子どものわがままだと受け取っていた。椅子を引いて、紗雪を見ながら朗らかに声をかける。「お腹すいただろ?早く座って食べよう」今回は紗雪も拒まず、素直に席についた。向かい側には伊澄がいて、表情が次々に変わっていくのがはっきりと見える。それが妙に面白く思えて、紗雪は静かに笑った。一方の京弥は、紗雪が食卓についてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。昨日の話し合いが少しは役に立ったのかもしれない、と内心ではほっとしていた。この食事、紗雪と京弥はそれぞれに満足しながら過ごしたが、伊澄だけがまるで味を感じないままだった。顔を上げるたびに、紗雪の視線が自分に向いているのが分かる。しかもまったく逸らしてくれない。だが、それを堂々と指摘することもできず、伊澄はひたすら黙ってご飯を食べるしかなかった。最初は箸を投げて部屋を出ようとも思ったが、京弥兄の手料理だと思うと、それもできない。そんな矛盾だらけの気持ちを抱えながら、彼女はひたすらご飯をかき込んだ。その様子を眺めて、紗雪はなんだかんだで興味深く感じていた。滅多に見られるものではない。やがて、紗雪はふと目を伏せ、隣で自分のためにエビを剥いている京弥に視線を移す。まさか日向がこのことを彼に話していないとは思わなかった。彼女はてっきり、今夜は問い詰められる覚悟で帰ってきたのだ。けれど、用意していた覚悟とは裏腹に、この穏やかな雰囲気。紗雪
「お義姉さん、京弥兄が朝ごはん作ってくれました。少しは食べてください。もう味見してみたけど、本当に美味しいものばかりですよ」味見?じゃあこのテーブルいっぱいの料理は、伊澄の食べ残しってこと?紗雪の視線は、テーブルの上と、夢中で食べている伊澄を上下に見渡した。頭の中が「ブン」と鳴ったように気分が悪くなってきた。しかし、伊澄はまったく気付かず、ひとりで上機嫌にしゃべり続けていた。「ほんと、京弥兄のご飯を食べるのなんて久しぶり!今回鳴り城に来たからには、思いっきり食べないと!」「やめろよ。そこまで飢えていないだろうが」ちょうどそのタイミングで京弥が現れ、呆れたように言った。彼は伊澄の家庭環境を知らないわけではない。実際、彼女の家も十分に裕福だった。ただ、兄に甘やかされすぎたせいで、わがままに育っただけだ。そのことを、京弥はよく理解していた。紗雪はこの騒がしい食卓に嫌気が差していた。この雰囲気の中で、冷静に朝食を食べる気にはなれなかった。だから彼女はバッグを手に取り、外に向かって歩き出した。「外で適当に何か食べるよ。もう遅れそうだから、行ってくるね」京弥はそれを良しとせず、紗雪の前に立ちはだかった。「せっかく時間かけて作ったのに、少しは食べてよ」「それに、外食より、家で俺が作った方が安心できるだろ?」紗雪は京弥の手を頑なに振りほどいた。「いい。どれだけ不安でも、お腹を満たせれば十分。こんなごちゃごちゃした空気の中で食べたくない」その言葉は明らかに誰かを指していた。二人とも賢いので、すぐに彼女の言いたいことを理解した。どれだけ頭が鈍くても、伊澄にも分かった。この「ごちゃごちゃした空気」を作っているのが自分だということくらい。でも、名指しされているわけではない。ここで自分から口を挟んでしまえば、まるで罪を認めるようなものになる。仕方なく、伊澄は悔しさを飲み込んだ。京弥も紗雪を引き止められず、最後は諦めて「朝ごはんはちゃんと食べるんだぞ」と言葉をかけた。紗雪は軽く頷いただけで、すぐに外に出て行った。もうこれ以上、無駄な時間を使いたくなかった。「バンッ」というドアの音が響いたあと、伊澄は渋々口を開いた。「どうしてお義姉さんはあんな態度取るの?せっかく京
最後に伊澄は苛立ちを抑えきれず、サンドイッチをテーブルの上に叩きつけた。ここまで来ても、彼女と京弥の関係には一切の進展がない。このままじゃ、彼女の計画もまた延期せざるを得なくなる。伊澄は深く息を吸い込み、こんなやり方では駄目だと心の底から感じていた。その目が静かに動く。何か思いついたようで、内心ではすでに新たな算段を巡らせていた。紗雪は会社に着いてすぐ、日向からのメッセージを受け取った。「紗雪、昨日は本当にありがとう。妹が外で他人と口を利くなんて、初めてだったんだ」「君には分からないだろうけど、僕はすぐにそのことを両親に伝えたんだよ。二人ともすごく喜んでた。近いうちに必ず君に直接お礼がしたいって言ってた」メッセージを読むだけで、紗雪には日向の表情が目に浮かぶようだった。淡い金髪はきっと陽の光を浴びて輝いていて、瞳がキラキラと光っている。彼が妹を抱きしめて、驚きと喜びに満ちた表情を浮かべている姿が、まざまざと想像できた。その光景を思い浮かべるだけで、紗雪の胸はぽかぽかと温かくなった。彼女は日向に返信を送った。「いいのよ、そんなの。次の機会があったら、また千桜ちゃんを連れてきて。私もあの子のことが好きよ」「それと、ご両親にはお礼なんていらないから。私が何かをしたわけじゃない。千桜ちゃん自身がよくなってきただけだよ」この返信を見て、日向は「やっぱりな」と思いながら、納得したように笑みを浮かべた。紗雪は、人に恩を着せるのが好きな性格ではない。それはこの数日のやり取りの中でも、彼には十分伝わっていた。日向は柔らかな笑みを浮かべながら、スマホを操作して返信を送った。「両親の感謝を受け取ってくれないなら、せめて僕が、ちゃんとお礼をさせてもらうよ」そのメッセージを読んだ紗雪は、苦笑して、それ以上は返信しなかった。彼の性格を考えれば、何を言っても結局は変わらないのだろうと分かっていた。引き止めようとしたところで、意味がない。それなら、いずれこの恩は別の形で返せばいい。そう考えて、彼女はスマホを置き、仕事に戻った。その頃、日向の両親は彼の顔に浮かぶ笑みを見て、心の底から驚いていた。これが、うちの息子か?千桜の件が起きてからというもの、彼の顔にこんな表情が浮かぶのを見ることなん
どれくらいその場に立ち尽くしていたのか、自分でも分からないまま、伊澄は呟いた。「信じられない......私は絶対に、あの頃の関係に戻ってみせる。私たちこそが一番だってこと、証明してやるわ」「前はあんなに好きだったのに......どうして?なんで前みたいになれないの?一体何が変わったというの......?」伊澄の顔に浮かぶ表情は徐々に歪み、先ほどまで京弥の前で見せていた従順さは跡形もなく消え失せていた。彼女の全身には陰鬱な雰囲気がまとわりついていた。一方、京弥は部屋へと戻り、ゲストルームの前を通りかかった時、中から微かに物音が聞こえた気がした。彼はふと立ち止まり、何か違和感を覚えた。扉を開けると、案の定、中では紗雪がシャワーを浴びていた。その光景に男の目がすっと細くなり、喉仏が色っぽく上下に動いた。ただ、彼が中へと足を踏み入れようとしたその時、ふと、思い出してしまった。彼女は、昔の態度とはまるで違った。そもそも、どうして急にゲストルームで寝ることにしたんだ?考えれば考えるほど、頭の中には答えが浮かばない。ちょうどその時、シャワーを終えた紗雪が出てきて、リビングに立っている京弥の姿を目にした。彼女はバスローブを羽織ったまま、一瞬何が起きているのか分からずに固まった。「出てって。もう寝るから」その表情には何の感情も読み取れず、声も淡々としていた。京弥は眉をピクリと上げた。やっと分かった。これは間違いなく怒っている。「どうしたんだ、さっちゃん?昨日までは普通だったじゃないか」男は一歩、また一歩と彼女に近づいていく。その大きな体が天井の灯りを遮り、影が紗雪の頭上に落ちる。彼女の身体はより一層、小さく見えた。京弥の困ったような顔を見ても、紗雪はぴくりとも動じなかった。「おかしなことを言うね。私のことなんてもう放っておいて」冷ややかな視線で彼を見上げると、美しい白目をひとつくれてやり、ドライヤーを取ろうとした。もう、彼にかまう気はない。しかし、京弥は気を利かせたつもりで、ドライヤーを手に取ると「俺がやるよ、さっちゃん」と言いながらスイッチに手をかけた。その様子に、紗雪の表情はついに完全に冷えきった。「要らないって言ってるでしょ」「さっさと出てって。こんなことして
男は部屋のドアに背を向けていたため、紗雪が外に立ち、すべてを見ていたことに気づかなかった。伊澄は視界の隅で紗雪の存在に気づいており、目が一瞬光を帯び、褒め言葉のトーンがますます大きくなる。紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、最後まで何も言わずその場を立ち去った。よく見れば、その目には冷たい光が宿っていた。伊澄の視線は常に紗雪の様子を探っており、彼女が去っていくのを確認すると、口元に浮かぶ笑みがゆっくりと広がった。京弥は不機嫌そうに言った。「プロジェクトの話をするなら、それだけにして。近づくな」そう言いながら、体を右にずらす。伊澄は目的を果たしたと感じていた。京弥が距離を取りたがるなら、それで構わない。さっきの様子を紗雪がすでに見ていたのだから。「次から気をつけるよ」伊澄は素直に答える。その従順さを見て、京弥は少し目を細め、逆に違和感を覚えた。だが、どこに違和感があるのか、自分でもはっきりとは言えなかった。「他にわからないところはある?」素直な態度に、京弥もこれ以上は何も言えなかった。伊澄は小さく首を振った。「もう大丈夫。ありがとう、京弥兄。全部わかったよ」京弥は「そう」とだけ返事をし、立ち上がって部屋を出ていこうとした。本来なら、彼は伊澄にこれらを教えるつもりはなかったが、相手がしつこく頼んできたため、仕方なく彼女の部屋に入り、プロジェクトの説明をすることになった。それに、以前に伊吹が頼んできたことも思い出した。なにせ彼女は唯一の妹だ。ここに来てまで冷たくあしらうのも気が引ける。もしこの件を伊吹に報告されたら、自分も説明がつかなくなるし、両方に気を遣わなければならない。そのとき、プロジェクトの内容をざっと見たが、特に難しいところもなく、軽く指導する程度で済んだ。それが、先ほどの出来事の発端だった。伊澄は京弥の背中を見送りながら、今回は特に引き止めなかった。彼女の目的はすでに達成されていたのだから。紗雪があの一幕を目にして、なお京弥との関係を続けようとするはずがない。以前のように仲良くできるなんて、あり得ない。伊澄はその点に大きな自信を持っていた。ここ数日紗雪と接してきたことで、彼女の性格がどんなものかも、ある程度掴めていた。伊澄は笑顔で言った。
神垣父は首をかしげながら言った。「本当に?あいつ、人を好きになることなんてできるのか?」「まあ、見てなさいよ。あの二川さんは、あの子にとってきっと特別な存在よ」二人は一言ずつやり取りしながら、まるで当然のように日向の想い人を紗雪だと決めてしまった。とくに神垣母は、日向のことをよく見ていた。自分の息子なのだ、分からないはずがない。この子は昔からそうだった。何かあるとすぐ逃げたがるし、大人になってからはますます顕著。小さい頃のほうがよほど可愛げがあった。日向は部屋を出たあと、外をぐるっと一周しただけだった。本当は特に用事があるわけではなかったが、あの部屋にいると、母親の視線がなんとなく気になって落ち着かなかったのだ。自然と、母親の言葉が頭をよぎる。好き?そう思った瞬間、日向の脳裏に紗雪の笑った顔、眉をひそめた表情がありありと浮かんだ。まるで映画の一場面のように、彼女の一挙一動が鮮明に脳内に再生される。そのことに気づいたとき、日向はようやく理解した。自分は、無意識のうちに彼女の細かい仕草や表情をずっと気にしていたのだ。彼の頭の中には、すでに紗雪の声や姿が深く刻まれていた。日向は小さく咳払いをして、その考えを追い払おうとした。彼女には家庭がある。軽々しく近づいて、相手の生活を乱すわけにはいかない。日向は目を伏せ、ひとつため息をついて、スタジオへと向かった。頭の中を整理するには、仕事に打ち込むしかないと思った。......紗雪は目の前の仕事を終え、時計を見てようやく気づいた。まだ退勤時間には少し早い。だが、今日の仕事内容はすべて片付けてしまっていた。それなら、少し早めに帰ってもいいだろう。そう思って家に戻った紗雪は、いつもより一時間以上早く帰宅した。家には誰もいないだろうと思っていた。だが、ドアを開けた瞬間、伊澄の部屋から声が聞こえてきた。「わぁ、京弥兄は本当に物知りだね!すごーい!」「ほんとに羨ましいなぁ、尊敬しちゃう!」そのあけすけな賞賛の声は、水のように澄んだまま紗雪の耳に飛び込んできた。もともと彼女の顔には微笑みが浮かんでいたが、声を聞いた瞬間、その笑顔は固まり、胸の奥がざわつく。なぜだか、自分でもわからないまま、思わず足音を忍ばせ、体が
最後に伊澄は苛立ちを抑えきれず、サンドイッチをテーブルの上に叩きつけた。ここまで来ても、彼女と京弥の関係には一切の進展がない。このままじゃ、彼女の計画もまた延期せざるを得なくなる。伊澄は深く息を吸い込み、こんなやり方では駄目だと心の底から感じていた。その目が静かに動く。何か思いついたようで、内心ではすでに新たな算段を巡らせていた。紗雪は会社に着いてすぐ、日向からのメッセージを受け取った。「紗雪、昨日は本当にありがとう。妹が外で他人と口を利くなんて、初めてだったんだ」「君には分からないだろうけど、僕はすぐにそのことを両親に伝えたんだよ。二人ともすごく喜んでた。近いうちに必ず君に直接お礼がしたいって言ってた」メッセージを読むだけで、紗雪には日向の表情が目に浮かぶようだった。淡い金髪はきっと陽の光を浴びて輝いていて、瞳がキラキラと光っている。彼が妹を抱きしめて、驚きと喜びに満ちた表情を浮かべている姿が、まざまざと想像できた。その光景を思い浮かべるだけで、紗雪の胸はぽかぽかと温かくなった。彼女は日向に返信を送った。「いいのよ、そんなの。次の機会があったら、また千桜ちゃんを連れてきて。私もあの子のことが好きよ」「それと、ご両親にはお礼なんていらないから。私が何かをしたわけじゃない。千桜ちゃん自身がよくなってきただけだよ」この返信を見て、日向は「やっぱりな」と思いながら、納得したように笑みを浮かべた。紗雪は、人に恩を着せるのが好きな性格ではない。それはこの数日のやり取りの中でも、彼には十分伝わっていた。日向は柔らかな笑みを浮かべながら、スマホを操作して返信を送った。「両親の感謝を受け取ってくれないなら、せめて僕が、ちゃんとお礼をさせてもらうよ」そのメッセージを読んだ紗雪は、苦笑して、それ以上は返信しなかった。彼の性格を考えれば、何を言っても結局は変わらないのだろうと分かっていた。引き止めようとしたところで、意味がない。それなら、いずれこの恩は別の形で返せばいい。そう考えて、彼女はスマホを置き、仕事に戻った。その頃、日向の両親は彼の顔に浮かぶ笑みを見て、心の底から驚いていた。これが、うちの息子か?千桜の件が起きてからというもの、彼の顔にこんな表情が浮かぶのを見ることなん
「お義姉さん、京弥兄が朝ごはん作ってくれました。少しは食べてください。もう味見してみたけど、本当に美味しいものばかりですよ」味見?じゃあこのテーブルいっぱいの料理は、伊澄の食べ残しってこと?紗雪の視線は、テーブルの上と、夢中で食べている伊澄を上下に見渡した。頭の中が「ブン」と鳴ったように気分が悪くなってきた。しかし、伊澄はまったく気付かず、ひとりで上機嫌にしゃべり続けていた。「ほんと、京弥兄のご飯を食べるのなんて久しぶり!今回鳴り城に来たからには、思いっきり食べないと!」「やめろよ。そこまで飢えていないだろうが」ちょうどそのタイミングで京弥が現れ、呆れたように言った。彼は伊澄の家庭環境を知らないわけではない。実際、彼女の家も十分に裕福だった。ただ、兄に甘やかされすぎたせいで、わがままに育っただけだ。そのことを、京弥はよく理解していた。紗雪はこの騒がしい食卓に嫌気が差していた。この雰囲気の中で、冷静に朝食を食べる気にはなれなかった。だから彼女はバッグを手に取り、外に向かって歩き出した。「外で適当に何か食べるよ。もう遅れそうだから、行ってくるね」京弥はそれを良しとせず、紗雪の前に立ちはだかった。「せっかく時間かけて作ったのに、少しは食べてよ」「それに、外食より、家で俺が作った方が安心できるだろ?」紗雪は京弥の手を頑なに振りほどいた。「いい。どれだけ不安でも、お腹を満たせれば十分。こんなごちゃごちゃした空気の中で食べたくない」その言葉は明らかに誰かを指していた。二人とも賢いので、すぐに彼女の言いたいことを理解した。どれだけ頭が鈍くても、伊澄にも分かった。この「ごちゃごちゃした空気」を作っているのが自分だということくらい。でも、名指しされているわけではない。ここで自分から口を挟んでしまえば、まるで罪を認めるようなものになる。仕方なく、伊澄は悔しさを飲み込んだ。京弥も紗雪を引き止められず、最後は諦めて「朝ごはんはちゃんと食べるんだぞ」と言葉をかけた。紗雪は軽く頷いただけで、すぐに外に出て行った。もうこれ以上、無駄な時間を使いたくなかった。「バンッ」というドアの音が響いたあと、伊澄は渋々口を開いた。「どうしてお義姉さんはあんな態度取るの?せっかく京
本来、京弥兄と先に知り合ったのは伊澄の方なのに、紗雪なんてあとから現れた人間にすぎない。知り合ってからの時間なんて、こっちが長いに決まってる。憤った伊澄が顔を上げたとき、目が合ったのは紗雪の、笑っているようでいて冷ややかな視線だった。その瞬間、彼女の勢いは一気にしぼんだ。商業施設での対峙が脳裏をよぎる。特に紗雪が有紀の手を払いのけたあの鋭さは、思い出すだけでも震えが走るほどだった。彼女じゃ、到底太刀打ちできない。「......わたっかよ、もう」仕方なく、伊澄はしぶしぶ口を開いた。ここは自分の家じゃないし、京弥兄の前であれこれ言うこともできない。余計なことを言えば、彼はすぐにおかしいと気づいてしまうだろうし、それはどちらにとっても良い結果にはならない。京弥は伊澄のことなど気にも留めず、ただ子どものわがままだと受け取っていた。椅子を引いて、紗雪を見ながら朗らかに声をかける。「お腹すいただろ?早く座って食べよう」今回は紗雪も拒まず、素直に席についた。向かい側には伊澄がいて、表情が次々に変わっていくのがはっきりと見える。それが妙に面白く思えて、紗雪は静かに笑った。一方の京弥は、紗雪が食卓についてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。昨日の話し合いが少しは役に立ったのかもしれない、と内心ではほっとしていた。この食事、紗雪と京弥はそれぞれに満足しながら過ごしたが、伊澄だけがまるで味を感じないままだった。顔を上げるたびに、紗雪の視線が自分に向いているのが分かる。しかもまったく逸らしてくれない。だが、それを堂々と指摘することもできず、伊澄はひたすら黙ってご飯を食べるしかなかった。最初は箸を投げて部屋を出ようとも思ったが、京弥兄の手料理だと思うと、それもできない。そんな矛盾だらけの気持ちを抱えながら、彼女はひたすらご飯をかき込んだ。その様子を眺めて、紗雪はなんだかんだで興味深く感じていた。滅多に見られるものではない。やがて、紗雪はふと目を伏せ、隣で自分のためにエビを剥いている京弥に視線を移す。まさか日向がこのことを彼に話していないとは思わなかった。彼女はてっきり、今夜は問い詰められる覚悟で帰ってきたのだ。けれど、用意していた覚悟とは裏腹に、この穏やかな雰囲気。紗雪
千桜との関係があるせいか、紗雪の日向に対する印象はさらに良くなっていた。「そろそろいい時間だし、今日はこれくらいにしておきましょうか」紗雪は日向を見ながらそう言った。すでに午後いっぱいをショッピングに費やしていたし、まだ他の予定も残っている。日向一人にばかり時間を使うわけにもいかない。日向は頷いた。「そうだね。今日は本当にありがとう。また次の機会にでも一緒に出かけよう」「いいのよ、そんなの。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それで十分」紗雪は笑いながら千桜を見つめた。この小さな女の子を、本当に可愛くて仕方がないと思っていた。日向は千桜に目を向け、優しい声で言った。「千桜、お姉さんにバイバイしようね」けれど千桜はじっと紗雪を見つめたまま、何も言わなかった。ぱちぱちと瞬きをする大きな瞳は、まるで精巧な人形のように美しかった。日向は促し続ける。「ちゃんとご挨拶しないとだめだろ。お姉さんには、いっぱいお世話になったんだから」紗雪は「いいのよ」と言って、軽く手を振った。「大丈夫大丈夫。気持ちはちゃんとわかってるから。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それでいいわ」二人ともすでに諦めかけていた。そろそろ車に戻ろうかというそのとき、千桜がふいに、ぽつりと口を開いた。「......お姉ちゃん、ありがとう」その瞬間、日向と紗雪は目を見合わせ、驚きに目を見開いた。日向にとっても信じられないことだった。というのも、これまでどんなに家族が声をかけても、千桜は口を開こうとしなかったのだ。今回も、紗雪に挨拶させようとは思っていたものの、正直期待はしていなかった。紗雪もまた、驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべ、瞳がぱっと輝いた。「千桜ちゃん、えらいよ」「今度お兄さんと一緒に来たときは、前に好きだって言ってたあのプリン、一緒に食べに行こう?」千桜はもうそれ以上は何も言わず、ただぎゅっと日向の首にしがみついた。でも、二人とも無理にはさせなかった。なにせ今の一言だけでも、十分に驚きだったから。「じゃあ、私はこれで帰るね」紗雪は日向に別れを告げ、軽く手を振ってその場を後にした。日向は頷き、その背中を見送りながら、ふと物思いにふけった。......紗雪が帰宅したとき、家
有紀はとても優秀な腰巾着で、体裁を保つためにも、伊澄はしぶしぶ彼女の治療費を払うことにした。大した問題ではなかったとはいえ、この程度の医療費など彼女にとっては痛くもかゆくもない。だが、無駄にした時間と失った面子を思うと、人前に出るのも憚られる気分だった。有紀はずっと「手が痛い」と喚いていた。仕方なく、伊澄はイライラを押し殺してなだめる。けれど内心では、まったく役に立たないね、どうしてもっと思い切り指を折らせなかったのよ。これじゃ証拠も何も残らないじゃない。証拠がなければ、京弥兄のところに持っていくこともできないのに。有紀はただひたすら痛みを訴えるばかりで、伊澄の苛立ちには気づいていない。今は紗雪のことを思い出すだけで震え上がるほどだ。あんなに綺麗な顔をしているのに、手を出す時は本当に容赦がないなんて。結局、二人は不満げに病院を後にした。もうこれ以上ここにいても、意味はなかった。......日向は、まだ真剣に服を選んでいる紗雪を見ながら、千桜を抱く手にぎゅっと力が入った。ついには我慢できずに声をかけた。「なあ、紗雪、本当に大丈夫なのか?」「私が何かあったように見える?」紗雪はきょとんとした顔で首をかしげる。日向の言っている意味がわからない。その顔を見て、日向は少し気まずそうに説明した。「いや、別に......ちょっと心配になって。さっきの件で、気分悪くなってないかって......」紗雪はふっと鼻で笑い、唇を少し吊り上げた。「まさか。あんな人に左右されるなんて、時間の無駄よ」それを聞いた日向は感心したように呟いた。「......君の言うとおりだ」紗雪は軽く微笑み、それ以上何も言わなかった。彼女は千桜を見つめ、頭をやさしく撫でながら微笑んだ。「さ、どうでもいい人の話はやめにして、かわいい千桜のために服を買わなくちゃ」日向は、紗雪が本当に千桜を気に入ってくれていることを感じて、心が温かくなった。これほどまでに根気強く子どもと接する女性を見るのは、彼にとって初めてのことだった。しかもそれが偽りのない、心からの優しさであることが伝わってきた。紗雪が服を選ぶ姿を見つめるうちに、日向の中で何か名もなき感情が芽生えていくのを、彼はぼんやりと感じていた。二
有紀は紗雪を指差し、信じられないといった表情で叫んだ。「あんた......」紗雪が少し眉を上げると、彼女はすぐに怯えて手を引っ込めた。それを見た伊澄は、心の中で舌打ちする。この役立たず。紗雪は満足そうにうなずいた。「言うことを聞かない人には、これくらいのしつけがちょうどいいのよ」「それにあなた、口が汚いからね。少しは他人のためにも躾けておかないと」そう言いながら、彼女はちらりと伊澄を見た。「次は、ちゃんと人として生きなさい。誰かの腰巾着になんて、ならないことね」こんなに明らかに人に利用されてるのに、それにすら気づかないなんて。こういうタイプには本当に呆れてしまう。大した力もないくせに、わざわざ彼女の前に出てくるなんて。伊澄は紗雪の言外の意味を察し、皮肉っぽく言い返す。「お義姉さん、そんなことして......京弥兄に話したら、どうなるか分かってるの?」すると紗雪は眉をひそめ、冷静に返す。「私のかわいい妹、これは私たち家族の問題よ?」「誰に話すかは、あなた次第。口はあなたのものだから」そう言って、彼女は日向と一緒にその場を離れた。さっきまでの良い気分は、もうどこにもなかった。日向は千桜を抱いたまま、足早に紗雪のあとを追う。すると、ようやく千桜が反応を見せた。日向そっくりの尊敬の眼差しで、パチパチと目を瞬かせながら紗雪を見つめている。後ろからは有紀の悲鳴が響く。「伊澄、手が痛いよ!病院に行かなきゃ......指が折れそうなの!」彼女は紗雪に賠償を求めることすらできなかった。だって、あのときの紗雪の顔、あまりに恐ろしすぎたから。あの一瞬、本当に指をへし折られるかと思った。伊澄は有紀の痛みに歪む顔を見て、内心うんざりしながらも、やはり自分の手下でもあるので、優しく声をかけた。「有紀、大丈夫よ。今すぐ病院に連れていくから」二人はバタバタと病院に向かった。だが診断の結果、有紀の指にはなんの異常もなかった。「そんなはずない!あのとき、すごい力だったのよ!?折れたかと思ったのに......!」有紀が叫ぶと、伊澄もすかさず加勢する。「そうです、先生。もう一度よく診てください。もしかしたら内部に損傷が......」その言葉に、医者は心の中で大きくため