紗雪はドアを閉めたので、緒莉の罵声など当然耳に入ってこなかった。たとえ聞こえていたとしても、別に何とも思わない。どうせ母が家にいないから、あんなに偉そうにしているんだ。緒莉は返事が返ってこないことで余計に腹が立ち、顔に怒りの赤みが増していた。手を伸ばしてテーブルの上のものを床に叩きつけようとした、その時、ちょうど美月が帰ってきた。「どうしたの、緒莉?顔が赤いけど、体調でも悪いの?」たとえこの娘がビジネスパーティーでどんなことをしでかそうと、やはり彼女は自分の娘だ。幼い頃から愛情を注いできた大切な宝物である。本気で緒莉に腹を立てようとしても、美月にはやはりそれができなかった。緒莉は少し驚き、急いで感情を整えて、母の問いに答えた。「ううん、なんでもないの」「紗雪がさっき帰ってきたの。それで、外で誰かにいじめられたりしてないかって心配になっちゃって......それでちょっと取り乱しただけ」それを聞いて、美月の眉がぴくりと動いた。「紗雪が帰ってきたの?」「うん」緒莉は迷いもせずに頷いた。「今、二階にいるの。さっき帰ってきたとき、私が声をかけたのに全然返事してくれなくて、表情も何か変だったわ」その言葉を聞いた美月の胸に、嫌な予感が走った。すぐさま階段に向かって駆け上がる。緒莉も後ろからついていき、心配そうな声で呼びかけた。「お母さん、そんなに急がなくても......」今の美月には、かつての冷静な母親の姿はなかった。ただ一人の、娘の体調を心配する母親にすぎなかった。美月は紗雪の部屋の前に立ち、「ドンドン」とドアをノックした。「紗雪?開けて。帰ってきたんでしょう?」「どうして一言も言わずに帰ってきたの?せっかくだから一緒に帰ってくればよかったのに」美月は焦って本題に入ることなく、まずは優しく紗雪をなだめようとしていた。外の気配を聞き、紗雪はすぐに何が起きたかを悟った。きっと緒莉の告げ口だろう。じゃなきゃ、美月が家に着いたとたんにこんなに慌ててくるわけがない。紗雪はため息をついて、ドアを開けた。「もう寝るところなの。何か用?」美月はまだノックしようとしていたところで、思いがけず紗雪が素直にドアを開けてくれて、少し驚いた。確かに彼女はもうパジャマに着替え
紗雪は美月の言葉を聞いて、こくりと頷いた。「うん、分かってるよ」美月はそんな紗雪の様子を見て、きっと心の中では彼女が自分の言葉を大して重く受け取っていないと分かっていた。それでもつい、もう一言付け加えずにはいられなかった。「この道を選んだのは紗雪だよ。誰にも助けることはできない」「自分で選んだ以上は、最後まで歩きなさい。幸せになるのが一番よ」その言葉を聞いて、紗雪はふと視線を落とした。美月の言葉の裏にある意味、もちろん彼女には分かっていた。そうだ、あの頃の加津也と同じ。全部自分で選んだ道だ。「母さんの言いたいこと、ちゃんと分かってるよ。私はもう大人だし」そう言いながら、紗雪は目の前に垂れた髪を耳の後ろにかけ、母の顔を見て一言一言をしっかりと伝えた。「自分でどうにかできるから、心配しないで」美月はその言葉に、少しだけ安心したようだった。「そう......うちのさっちゃんは、本当に大きくなったのね」「さっちゃん」という言葉を耳にして、紗雪は思わず動きを止めた。そういえば、母さんがその幼い頃の愛称で呼ぶのは久しぶりだった。突然の呼びかけに、少しだけ戸惑ってしまった。美月はそんな紗雪の様子に気づきながらも、特に何かを言うこともなく、「おやすみ」と言って、部屋を出て行った。彼女なりに、娘のことを本気で心配していたのだ。紗雪は開いたドア越しに、外に立っている緒莉の姿を目にして、ふと目を細めた。母が部屋に入ってすぐにこの件を話し出したのは、どう考えても緒莉が何か吹き込んだからに違いない。紗雪の心には、うんざりとした感情が渦巻いた。ほんと、なんでいちいち余計なことをするのか。そんなに暇?一方、緒莉は美月が部屋を出てきたのを見計らって、心配そうな顔で問いかけた。「お母さん、紗雪は大丈夫だった?さっきのあの子の表情、なんだか本当に心配で......」美月は緒莉の顔をちらっと見た。何かを匂わせるような話し方。まるで紗雪が何かおかしなことでもするかのように、わざとその方向へ話を誘導している気がした。誰ももうその話をしていないのに、なぜ緒莉だけがしつこく触れ続けるのか。美月の心の中に、小さな疑念が静かに芽生えた。「紗雪は大丈夫よ。もう休んでる」「あなたも早く寝なさい。い
この点に気づいた緒莉は、もう紗雪を思い通りにさせてはいけないと考えた。彼女は自分の将来のために、しっかり計画を立てるべきだと思ったのだ。緒莉はそばに座り、顔には微笑みを浮かべていた。周囲の人間からすれば、まるで優しくて思いやりのある女性にしか見えなかっただろう。だが紗雪には、むしろ背筋が寒くなる思いだった。この緒莉、どう考えても何か企んでいるに違いない。紗雪は一瞬目を光らせ、心の中の感情を押し殺して、何も言わなかった。食事の後、美月と紗雪は同じ車に乗って帰った。道中の雰囲気は意外にも和やかで、まるで昨晩の出来事なんてなかったかのようだった。紗雪はこういう穏やかな関係が好きだった。だからこそ、せっかくの時間を壊したくなかったのだ。残念なことに、そうこうしているうちに会社へと到着してしまった。二人はそれぞれ自分のオフィスへと戻り、仕事に取り掛かった。こういった業務にはもう慣れている紗雪が次に取り組むべきは、日向のデザイン能力の見極めだった。もし日向との協業が実現できれば、二川グループのデザイン力は鳴り城でもさらに一段階レベルアップできる。紗雪は全身全霊で仕事に打ち込んだ。明日が、日向が提示した期限の最終日だった。......その頃、伊澄はL社の最新オーダーメイドの服をまとい、完璧なメイクを施し、ハイヒールを履いて海ヶ峰社へと足を運んでいた。海ヶ峰建築株式会社(通称・海ヶ峰社)は鳴り城の中でも有数の建築会社である。しかも、紗雪の実家である二川グループとはライバル関係にあたる。これは、伊澄が来る前にわざわざ調べ上げた情報だった。ここ数日、紗雪が戻ってこないというだけで、京弥兄の態度は急激に冷たくなっている。あの女、人前から消えたくせに、まだ人の心を惹きつけているなんて......彼女はどうしても我慢できなかった。彼女の到着に気づいたマネージャーは、その気品から一目で彼女が誰なのかを察した。「八木沢伊澄さんですか?」伊澄は顎を上げ、高慢な態度で言った。「そうよ。あなたは?今日から入社するの」マネージャーはへつらうように笑った。「私は入社手続きを担当するマネージャーです。八木沢さん、どうぞこちらへ」伊澄はサングラスをかけ、マネージャーに付き添われてオフィス
マネージャーは少し戸惑った様子で答えた。「まあ、そうですね。我々と二川グループは、多くのプロジェクトで競合関係にあります。でもご安心ください。我々は二川グループとは......」話の途中で、伊澄が口を挟んだ。「分かってるわ。二川グループと競合するプロジェクトは全部私が担当するってことで」その一言で、マネージャーは完全に固まってしまった。正直言って、二川グループは確かに手強いライバルで、最近では椎名との繋がりもできたことで、鳴り城での地位は急上昇している。「八木沢さんは国内に長くいなかったから、二川グループの実力をあまりご存じないかもしれませんが......彼らはかなりの実力がありますよ」「だから何?実力がないなら、逆につまらないじゃない。私はそのプロジェクトをやるって決めたから、これは決定事項よ」この場でも、伊澄はお嬢様然とした態度を存分に見せつけた。マネージャーは拳を握りしめたが、上層部からの指示を思い出し、結局は不本意ながら頷いた。「は、はい......分かりました。八木沢さんほどの才知があれば、きっとプロジェクトは成功しますよ」そんな持ち上げの言葉に、伊澄は満足そうに口角を上げた。その様子を見て、マネージャーも心の中で安堵した。ただの称賛好きなお嬢様だったか。こうして、伊澄は正式に海ヶ峰社のデザインディレクターとして就任した。......二川グループ。紗雪は一日の仕事を終え、少しの間、帰宅するべきかどうか迷っていた。昨夜家に泊まったとき、美月にすでに疑念を持たれていた。もし今日も帰ったら、今度は何を言われるか分からない。彼女はしばらく葛藤した末に、結局家へ帰ることにした。逃げてばかりでは、何も変わらない。これは彼女らしくない、そう思ったからだ。家に戻ると、家の中は真っ暗で、誰の姿もなかった。なぜか、胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。幼なじみが来ているから、家にいないの?二人きりで外で甘い時間を過ごすつもり?紗雪は冷たく笑った。自分も、自分のこの結婚も、まるで冗談みたいだ。二人がいない間に、彼女は以前使っていた客間に行き、主寝室から数着の服を持ち出そうとした。部屋に入ったとき、誰もいないと思っていた。電気をつけて、衣装部屋の前まで来た
紗雪はクローゼットの前に立ち、どこか気まずそうだった。こんな京弥を見て、彼女自身もどう感じればいいのか分からなかった。普段の彼は、まるで俗世を離れた神のように冷たく澄んでいる。彼女に対しても、感情があらわになるのはベッドの上だけで、それ以外の時は常に穏やかで、冷静で、落ち着いた印象を崩さなかった。こんなふうに無力な姿の京弥を見るのは、紗雪にとって初めてだった。紗雪も思わず声を落とした。「まず手を離して」「嫌だ......」京弥の意識はだんだん朦朧としていたが、今自分が何をしているのかはちゃんと分かっていた。そう思いながら、彼は腕の力をさらに強めた。その時になって、紗雪は彼の様子がどこかおかしいことに気づいた。心の中の複雑な感情にかまっている暇もなく、すぐに体を反転させて、彼の額に手を当てた。「すごい熱......」思わず声を上げた紗雪は慌てて言った。「熱出てるじゃない、薬は飲んだの?」だが京弥はそれどころではないようで、ひたすら答えを求めていた。「もう怒らないで、さっちゃん......君の答えが欲しいだけなんだ。他のことなんてどうでもいい」「どうでもよくないでしょ!」紗雪は思わず声を張った。「自分の体のこと、少しは考えてよ。わがままはほどほどにして」「病院へ行こう」京弥は紗雪の手首をつかんだまま、どうしても離そうとしなかった。「薬飲んだから大丈夫だ」「ほんとに飲んだの?」紗雪の瞳には、あふれそうなほどの心配が宿っていた。その気持ちは、京弥の目にもはっきりと映っていた。彼はコクリと頷いた。彼女が戻ってきた時、電気もつけず、ただベッドに横になっていたのはそのためだった。頷いた彼を見て、紗雪はようやくホッと息をついた。彼を支えてベッドに戻らせ、休ませようとした。しかし彼がベッドに横になった次の瞬間、彼は紗雪をそのまま抱き寄せた。紗雪はバランスを崩し、そのまま京弥の上に倒れこんだ。彼の低いうめき声が聞こえ、彼女は驚いてすぐに体を起こした。「大丈夫?」その声には、明らかに気遣いが込められていた。紗雪自身も気づいていなかった。もうそこまで怒ってはいなかった。今の彼女には怒る余裕なんてなかった。頭の中は、京弥の体調を心配する気持ち
紗雪は視線をそらした。「言ってること、わかってるのくせに」「もうあの人、家に住んでるんだよ?それでも知らないとでも言うの?」やっぱり男なんて、誰でも同じ。ここまできても、まだとぼけるつもりか。京弥はようやく気づいた。紗雪が言っているのは八木沢伊澄のことだった。彼女が悩んでいたのも、このことだったんだ。だから最近、よく喧嘩になったのか。彼のさっちゃんは嫉妬してるみだいだ。そう思った瞬間、京弥の身体に力が戻った。それまでのだるさが嘘のように消えて、目が鋭く光った。「俺の初恋が誰なのか、君はちゃんと知ってるだろ?」その言葉に、紗雪は驚いた表情で京弥を見つめた。だが彼の瞳は笑みを含みながらも、何か計り知れない感情できらめいていた。紗雪はそっと唇を開き、不安そうに問い返した。「私が......知ってる?」彼女のあまりに愛らしい表情に、京弥は腕に力を込めてその身体を抱きしめた。額を彼女の額にそっと寄せて囁いた。「さっちゃんはほんとに......可愛いな」その言葉を聞いた紗雪の頭の中には疑問符が飛び交った。この人、一体何を言ってるんだ?いつもは冷静で理性的な紗雪だったが、この時ばかりは思考が追いつかず、頭がぼんやりしていた。「なんで褒める?話、ズレてない?」思わず問い返すと、京弥は彼女の期待混じりの視線を受け止めながら、優しくその柔らかい髪を撫でた。「もう寝よう、さっちゃん」紗雪はまだ何か言いたげだったが、彼の目に浮かんだ赤い血の筋に気づいて、言葉を呑んだ。彼が話している時の、その疲れきった様子は、見ればわかる。紗雪は唇をきゅっと結んだ。たった一、二日離れていただけなのに、どうして病気になる?この人、本当に自分のことを大事にしないんだから。京弥はすでに目を閉じていた。だからこそ、紗雪の目に浮かぶ怒りも見ることはなかった。最初、紗雪は彼が眠ったら、そっと腕の中から抜け出すつもりだった。二人で抱き合ってるなんて、そんな簡単に許すような女じゃないし。でも、結局眠気に勝てなかった。そのまま京弥に抱かれたまま、眠ってしまった。彼女の身体が力を抜いたことに気づいた京弥は、そっと口元をほころばせる。暗闇の中、二人は静かに寄り添い、夢の中へと沈ん
しかし翌日、部屋から一緒に出てきた二人を見た瞬間、伊澄の顔から笑みが消えってしまった。紗雪は彼女の驚愕した表情を見ると、内心ではおかしくて仕方がなかった。そして、上機嫌で挨拶をした。「おはよう、そんなに口を開けてどうしたの?」その一言に、伊澄は慌てて表情を取り繕った。彼女は焦って京弥の方を見た。案の定、彼は探るような目つきで彼女を見ていた。伊澄は気まずそうに説明した。「別に何でも......ここ数日お姿を見なかったから、てっきり怒って帰ってこないのかと......」この言葉を聞いた途端、京弥の目の奥は一瞬で冷たく凍りついた。せっかく彼が苦労して機嫌を取ったというのに、伊澄は何を言い出すんだ。そして案の定、京弥が彼女に向ける目はまるでナイフのように鋭かった。だが、伊澄は気にしない。彼女と京弥兄との長年の仲がある限り、最終的に退場するのは二川紗雪、この後から来た女に違いない。むしろ今、紗雪が怒って離婚届を叩きつけてくれたらどんなにいいか。京弥も緊張して紗雪の様子をうかがった。何か言おうとしたそのとき、彼女はふっと笑った。「伊澄ちゃん、お義姉さんの気持ちをそんなに気にかけてくれてたの?ありがと。じゃあ、ご飯食べましょう。これから会社に行かなきゃだから」そう言いながら、紗雪は一人で台所に向かった。昨日の出来事を経て、彼女はもう悟った。京弥の初恋が誰であろうと、それはもうどうでもよかった。今、重要なのは、正妻の座にいるのが自分であるという事実だけだ。それさえ分かっていればいい。たとえ相手が障害になろうと、困るのはあっちの方だ。紗雪は少し顎を上げ、伊澄の横を通り過ぎる。そのときの彼女の驚いた顔は、まるでサーカスの道化みたいに可笑しかった。紗雪の意図をすぐに悟った京弥は、すぐに気持ちを切り替え、彼女の後を追って台所へ入った。そこに残されたのは、居心地悪そうに立ち尽くす伊澄一人。台所で忙しそうに動く二人の背中を見て、伊澄は無意識に拳を握り締めた。あの女......なんでいきなり変わったのよ。今ごろ、怒って京弥兄に問い詰めるべきタイミングじゃないの?その時こそ、自分が彼にとって一番理解ある存在として輝くはずだったのに、紗雪の居場所なんて、どこにもないはずなのに。
一度や二度ならまだしも、回数が増えればやはりうんざりしてくる。彼にも彼の生活があるのだから、いつまでも彼女に時間を割いてはいられない。そんな必要はまったくない。朝食を終えると、紗雪は二川グループへ出社した。今回は自分で車を運転して行った。受付のスタッフはいつものように紗雪に挨拶する。「そういえば、会長、応接室に神垣さんがお待ちですよ」紗雪は軽く頷いた。「わかった」心の中では少し不思議に思っていた。デザイン案は三日間の約束だったのに、まだ二日しか経っていない。そんなに早い?それに気づいて、紗雪の期待も自然と高まっていった。応接室に入ると、果たして日向と千桜がそこに待っていた。紗雪は一歩踏み入れ、ヒールの音を聞いた千桜は最初少し怯えていたが、紗雪の姿を見てからは目に見えて安心したようだった。日向も紗雪を見て、顔の笑みが次第に大きくなっていく。「朝早くからお邪魔してすみません」紗雪は笑いながら否定した。「そんな他人行儀なこと言わないで。それに、今はちょうど出勤時間よ」日向はすぐに納得するようにうなずいた。「確かに」紗雪は軽く身をかがめて千桜を見つめ、手を伸ばして彼女の頭を優しく撫でた。今回は千桜も避けることはなかった。「今日の千桜ちゃんは可愛いお姫様のワンピースだね。でも......」紗雪の視線は千桜のぐちゃぐちゃの髪に向けられ、目の奥に浮かぶ笑みがじわじわと広がっていった。日向は気まずそうに咳払いする。もちろん、紗雪の言いたいことは理解していた。「今日は家に誰もいなくて、僕が髪を結ってあげたんだけど......あまり得意じゃなくて、その......」「とっても可愛いよ」紗雪は笑いながら言った。「日向は立派なお兄さんよ。千桜ちゃんもそれが分かってる」千桜は何も言わなかったが、小さな手でしっかりと日向の脚にしがみついていて、それだけで彼女の信頼が伝わってきた。その様子を見て、紗雪の笑顔はさらに深まった。「紗雪、髪......直してくれない?」日向は照れくさそうに鼻をこすった。実際、自分でもどうかと思っていた。でも、妹は文句を言わなかったので、そのまま連れてきたのだった。紗雪はにこやかにうなずき、手際よく数手で千桜の髪を整えた。す
どれくらいその場に立ち尽くしていたのか、自分でも分からないまま、伊澄は呟いた。「信じられない......私は絶対に、あの頃の関係に戻ってみせる。私たちこそが一番だってこと、証明してやるわ」「前はあんなに好きだったのに......どうして?なんで前みたいになれないの?一体何が変わったというの......?」伊澄の顔に浮かぶ表情は徐々に歪み、先ほどまで京弥の前で見せていた従順さは跡形もなく消え失せていた。彼女の全身には陰鬱な雰囲気がまとわりついていた。一方、京弥は部屋へと戻り、ゲストルームの前を通りかかった時、中から微かに物音が聞こえた気がした。彼はふと立ち止まり、何か違和感を覚えた。扉を開けると、案の定、中では紗雪がシャワーを浴びていた。その光景に男の目がすっと細くなり、喉仏が色っぽく上下に動いた。ただ、彼が中へと足を踏み入れようとしたその時、ふと、思い出してしまった。彼女は、昔の態度とはまるで違った。そもそも、どうして急にゲストルームで寝ることにしたんだ?考えれば考えるほど、頭の中には答えが浮かばない。ちょうどその時、シャワーを終えた紗雪が出てきて、リビングに立っている京弥の姿を目にした。彼女はバスローブを羽織ったまま、一瞬何が起きているのか分からずに固まった。「出てって。もう寝るから」その表情には何の感情も読み取れず、声も淡々としていた。京弥は眉をピクリと上げた。やっと分かった。これは間違いなく怒っている。「どうしたんだ、さっちゃん?昨日までは普通だったじゃないか」男は一歩、また一歩と彼女に近づいていく。その大きな体が天井の灯りを遮り、影が紗雪の頭上に落ちる。彼女の身体はより一層、小さく見えた。京弥の困ったような顔を見ても、紗雪はぴくりとも動じなかった。「おかしなことを言うね。私のことなんてもう放っておいて」冷ややかな視線で彼を見上げると、美しい白目をひとつくれてやり、ドライヤーを取ろうとした。もう、彼にかまう気はない。しかし、京弥は気を利かせたつもりで、ドライヤーを手に取ると「俺がやるよ、さっちゃん」と言いながらスイッチに手をかけた。その様子に、紗雪の表情はついに完全に冷えきった。「要らないって言ってるでしょ」「さっさと出てって。こんなことして
男は部屋のドアに背を向けていたため、紗雪が外に立ち、すべてを見ていたことに気づかなかった。伊澄は視界の隅で紗雪の存在に気づいており、目が一瞬光を帯び、褒め言葉のトーンがますます大きくなる。紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、最後まで何も言わずその場を立ち去った。よく見れば、その目には冷たい光が宿っていた。伊澄の視線は常に紗雪の様子を探っており、彼女が去っていくのを確認すると、口元に浮かぶ笑みがゆっくりと広がった。京弥は不機嫌そうに言った。「プロジェクトの話をするなら、それだけにして。近づくな」そう言いながら、体を右にずらす。伊澄は目的を果たしたと感じていた。京弥が距離を取りたがるなら、それで構わない。さっきの様子を紗雪がすでに見ていたのだから。「次から気をつけるよ」伊澄は素直に答える。その従順さを見て、京弥は少し目を細め、逆に違和感を覚えた。だが、どこに違和感があるのか、自分でもはっきりとは言えなかった。「他にわからないところはある?」素直な態度に、京弥もこれ以上は何も言えなかった。伊澄は小さく首を振った。「もう大丈夫。ありがとう、京弥兄。全部わかったよ」京弥は「そう」とだけ返事をし、立ち上がって部屋を出ていこうとした。本来なら、彼は伊澄にこれらを教えるつもりはなかったが、相手がしつこく頼んできたため、仕方なく彼女の部屋に入り、プロジェクトの説明をすることになった。それに、以前に伊吹が頼んできたことも思い出した。なにせ彼女は唯一の妹だ。ここに来てまで冷たくあしらうのも気が引ける。もしこの件を伊吹に報告されたら、自分も説明がつかなくなるし、両方に気を遣わなければならない。そのとき、プロジェクトの内容をざっと見たが、特に難しいところもなく、軽く指導する程度で済んだ。それが、先ほどの出来事の発端だった。伊澄は京弥の背中を見送りながら、今回は特に引き止めなかった。彼女の目的はすでに達成されていたのだから。紗雪があの一幕を目にして、なお京弥との関係を続けようとするはずがない。以前のように仲良くできるなんて、あり得ない。伊澄はその点に大きな自信を持っていた。ここ数日紗雪と接してきたことで、彼女の性格がどんなものかも、ある程度掴めていた。伊澄は笑顔で言った。
神垣父は首をかしげながら言った。「本当に?あいつ、人を好きになることなんてできるのか?」「まあ、見てなさいよ。あの二川さんは、あの子にとってきっと特別な存在よ」二人は一言ずつやり取りしながら、まるで当然のように日向の想い人を紗雪だと決めてしまった。とくに神垣母は、日向のことをよく見ていた。自分の息子なのだ、分からないはずがない。この子は昔からそうだった。何かあるとすぐ逃げたがるし、大人になってからはますます顕著。小さい頃のほうがよほど可愛げがあった。日向は部屋を出たあと、外をぐるっと一周しただけだった。本当は特に用事があるわけではなかったが、あの部屋にいると、母親の視線がなんとなく気になって落ち着かなかったのだ。自然と、母親の言葉が頭をよぎる。好き?そう思った瞬間、日向の脳裏に紗雪の笑った顔、眉をひそめた表情がありありと浮かんだ。まるで映画の一場面のように、彼女の一挙一動が鮮明に脳内に再生される。そのことに気づいたとき、日向はようやく理解した。自分は、無意識のうちに彼女の細かい仕草や表情をずっと気にしていたのだ。彼の頭の中には、すでに紗雪の声や姿が深く刻まれていた。日向は小さく咳払いをして、その考えを追い払おうとした。彼女には家庭がある。軽々しく近づいて、相手の生活を乱すわけにはいかない。日向は目を伏せ、ひとつため息をついて、スタジオへと向かった。頭の中を整理するには、仕事に打ち込むしかないと思った。......紗雪は目の前の仕事を終え、時計を見てようやく気づいた。まだ退勤時間には少し早い。だが、今日の仕事内容はすべて片付けてしまっていた。それなら、少し早めに帰ってもいいだろう。そう思って家に戻った紗雪は、いつもより一時間以上早く帰宅した。家には誰もいないだろうと思っていた。だが、ドアを開けた瞬間、伊澄の部屋から声が聞こえてきた。「わぁ、京弥兄は本当に物知りだね!すごーい!」「ほんとに羨ましいなぁ、尊敬しちゃう!」そのあけすけな賞賛の声は、水のように澄んだまま紗雪の耳に飛び込んできた。もともと彼女の顔には微笑みが浮かんでいたが、声を聞いた瞬間、その笑顔は固まり、胸の奥がざわつく。なぜだか、自分でもわからないまま、思わず足音を忍ばせ、体が
最後に伊澄は苛立ちを抑えきれず、サンドイッチをテーブルの上に叩きつけた。ここまで来ても、彼女と京弥の関係には一切の進展がない。このままじゃ、彼女の計画もまた延期せざるを得なくなる。伊澄は深く息を吸い込み、こんなやり方では駄目だと心の底から感じていた。その目が静かに動く。何か思いついたようで、内心ではすでに新たな算段を巡らせていた。紗雪は会社に着いてすぐ、日向からのメッセージを受け取った。「紗雪、昨日は本当にありがとう。妹が外で他人と口を利くなんて、初めてだったんだ」「君には分からないだろうけど、僕はすぐにそのことを両親に伝えたんだよ。二人ともすごく喜んでた。近いうちに必ず君に直接お礼がしたいって言ってた」メッセージを読むだけで、紗雪には日向の表情が目に浮かぶようだった。淡い金髪はきっと陽の光を浴びて輝いていて、瞳がキラキラと光っている。彼が妹を抱きしめて、驚きと喜びに満ちた表情を浮かべている姿が、まざまざと想像できた。その光景を思い浮かべるだけで、紗雪の胸はぽかぽかと温かくなった。彼女は日向に返信を送った。「いいのよ、そんなの。次の機会があったら、また千桜ちゃんを連れてきて。私もあの子のことが好きよ」「それと、ご両親にはお礼なんていらないから。私が何かをしたわけじゃない。千桜ちゃん自身がよくなってきただけだよ」この返信を見て、日向は「やっぱりな」と思いながら、納得したように笑みを浮かべた。紗雪は、人に恩を着せるのが好きな性格ではない。それはこの数日のやり取りの中でも、彼には十分伝わっていた。日向は柔らかな笑みを浮かべながら、スマホを操作して返信を送った。「両親の感謝を受け取ってくれないなら、せめて僕が、ちゃんとお礼をさせてもらうよ」そのメッセージを読んだ紗雪は、苦笑して、それ以上は返信しなかった。彼の性格を考えれば、何を言っても結局は変わらないのだろうと分かっていた。引き止めようとしたところで、意味がない。それなら、いずれこの恩は別の形で返せばいい。そう考えて、彼女はスマホを置き、仕事に戻った。その頃、日向の両親は彼の顔に浮かぶ笑みを見て、心の底から驚いていた。これが、うちの息子か?千桜の件が起きてからというもの、彼の顔にこんな表情が浮かぶのを見ることなん
「お義姉さん、京弥兄が朝ごはん作ってくれました。少しは食べてください。もう味見してみたけど、本当に美味しいものばかりですよ」味見?じゃあこのテーブルいっぱいの料理は、伊澄の食べ残しってこと?紗雪の視線は、テーブルの上と、夢中で食べている伊澄を上下に見渡した。頭の中が「ブン」と鳴ったように気分が悪くなってきた。しかし、伊澄はまったく気付かず、ひとりで上機嫌にしゃべり続けていた。「ほんと、京弥兄のご飯を食べるのなんて久しぶり!今回鳴り城に来たからには、思いっきり食べないと!」「やめろよ。そこまで飢えていないだろうが」ちょうどそのタイミングで京弥が現れ、呆れたように言った。彼は伊澄の家庭環境を知らないわけではない。実際、彼女の家も十分に裕福だった。ただ、兄に甘やかされすぎたせいで、わがままに育っただけだ。そのことを、京弥はよく理解していた。紗雪はこの騒がしい食卓に嫌気が差していた。この雰囲気の中で、冷静に朝食を食べる気にはなれなかった。だから彼女はバッグを手に取り、外に向かって歩き出した。「外で適当に何か食べるよ。もう遅れそうだから、行ってくるね」京弥はそれを良しとせず、紗雪の前に立ちはだかった。「せっかく時間かけて作ったのに、少しは食べてよ」「それに、外食より、家で俺が作った方が安心できるだろ?」紗雪は京弥の手を頑なに振りほどいた。「いい。どれだけ不安でも、お腹を満たせれば十分。こんなごちゃごちゃした空気の中で食べたくない」その言葉は明らかに誰かを指していた。二人とも賢いので、すぐに彼女の言いたいことを理解した。どれだけ頭が鈍くても、伊澄にも分かった。この「ごちゃごちゃした空気」を作っているのが自分だということくらい。でも、名指しされているわけではない。ここで自分から口を挟んでしまえば、まるで罪を認めるようなものになる。仕方なく、伊澄は悔しさを飲み込んだ。京弥も紗雪を引き止められず、最後は諦めて「朝ごはんはちゃんと食べるんだぞ」と言葉をかけた。紗雪は軽く頷いただけで、すぐに外に出て行った。もうこれ以上、無駄な時間を使いたくなかった。「バンッ」というドアの音が響いたあと、伊澄は渋々口を開いた。「どうしてお義姉さんはあんな態度取るの?せっかく京
本来、京弥兄と先に知り合ったのは伊澄の方なのに、紗雪なんてあとから現れた人間にすぎない。知り合ってからの時間なんて、こっちが長いに決まってる。憤った伊澄が顔を上げたとき、目が合ったのは紗雪の、笑っているようでいて冷ややかな視線だった。その瞬間、彼女の勢いは一気にしぼんだ。商業施設での対峙が脳裏をよぎる。特に紗雪が有紀の手を払いのけたあの鋭さは、思い出すだけでも震えが走るほどだった。彼女じゃ、到底太刀打ちできない。「......わたっかよ、もう」仕方なく、伊澄はしぶしぶ口を開いた。ここは自分の家じゃないし、京弥兄の前であれこれ言うこともできない。余計なことを言えば、彼はすぐにおかしいと気づいてしまうだろうし、それはどちらにとっても良い結果にはならない。京弥は伊澄のことなど気にも留めず、ただ子どものわがままだと受け取っていた。椅子を引いて、紗雪を見ながら朗らかに声をかける。「お腹すいただろ?早く座って食べよう」今回は紗雪も拒まず、素直に席についた。向かい側には伊澄がいて、表情が次々に変わっていくのがはっきりと見える。それが妙に面白く思えて、紗雪は静かに笑った。一方の京弥は、紗雪が食卓についてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。昨日の話し合いが少しは役に立ったのかもしれない、と内心ではほっとしていた。この食事、紗雪と京弥はそれぞれに満足しながら過ごしたが、伊澄だけがまるで味を感じないままだった。顔を上げるたびに、紗雪の視線が自分に向いているのが分かる。しかもまったく逸らしてくれない。だが、それを堂々と指摘することもできず、伊澄はひたすら黙ってご飯を食べるしかなかった。最初は箸を投げて部屋を出ようとも思ったが、京弥兄の手料理だと思うと、それもできない。そんな矛盾だらけの気持ちを抱えながら、彼女はひたすらご飯をかき込んだ。その様子を眺めて、紗雪はなんだかんだで興味深く感じていた。滅多に見られるものではない。やがて、紗雪はふと目を伏せ、隣で自分のためにエビを剥いている京弥に視線を移す。まさか日向がこのことを彼に話していないとは思わなかった。彼女はてっきり、今夜は問い詰められる覚悟で帰ってきたのだ。けれど、用意していた覚悟とは裏腹に、この穏やかな雰囲気。紗雪
千桜との関係があるせいか、紗雪の日向に対する印象はさらに良くなっていた。「そろそろいい時間だし、今日はこれくらいにしておきましょうか」紗雪は日向を見ながらそう言った。すでに午後いっぱいをショッピングに費やしていたし、まだ他の予定も残っている。日向一人にばかり時間を使うわけにもいかない。日向は頷いた。「そうだね。今日は本当にありがとう。また次の機会にでも一緒に出かけよう」「いいのよ、そんなの。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それで十分」紗雪は笑いながら千桜を見つめた。この小さな女の子を、本当に可愛くて仕方がないと思っていた。日向は千桜に目を向け、優しい声で言った。「千桜、お姉さんにバイバイしようね」けれど千桜はじっと紗雪を見つめたまま、何も言わなかった。ぱちぱちと瞬きをする大きな瞳は、まるで精巧な人形のように美しかった。日向は促し続ける。「ちゃんとご挨拶しないとだめだろ。お姉さんには、いっぱいお世話になったんだから」紗雪は「いいのよ」と言って、軽く手を振った。「大丈夫大丈夫。気持ちはちゃんとわかってるから。千桜ちゃんが楽しんでくれたなら、それでいいわ」二人ともすでに諦めかけていた。そろそろ車に戻ろうかというそのとき、千桜がふいに、ぽつりと口を開いた。「......お姉ちゃん、ありがとう」その瞬間、日向と紗雪は目を見合わせ、驚きに目を見開いた。日向にとっても信じられないことだった。というのも、これまでどんなに家族が声をかけても、千桜は口を開こうとしなかったのだ。今回も、紗雪に挨拶させようとは思っていたものの、正直期待はしていなかった。紗雪もまた、驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべ、瞳がぱっと輝いた。「千桜ちゃん、えらいよ」「今度お兄さんと一緒に来たときは、前に好きだって言ってたあのプリン、一緒に食べに行こう?」千桜はもうそれ以上は何も言わず、ただぎゅっと日向の首にしがみついた。でも、二人とも無理にはさせなかった。なにせ今の一言だけでも、十分に驚きだったから。「じゃあ、私はこれで帰るね」紗雪は日向に別れを告げ、軽く手を振ってその場を後にした。日向は頷き、その背中を見送りながら、ふと物思いにふけった。......紗雪が帰宅したとき、家
有紀はとても優秀な腰巾着で、体裁を保つためにも、伊澄はしぶしぶ彼女の治療費を払うことにした。大した問題ではなかったとはいえ、この程度の医療費など彼女にとっては痛くもかゆくもない。だが、無駄にした時間と失った面子を思うと、人前に出るのも憚られる気分だった。有紀はずっと「手が痛い」と喚いていた。仕方なく、伊澄はイライラを押し殺してなだめる。けれど内心では、まったく役に立たないね、どうしてもっと思い切り指を折らせなかったのよ。これじゃ証拠も何も残らないじゃない。証拠がなければ、京弥兄のところに持っていくこともできないのに。有紀はただひたすら痛みを訴えるばかりで、伊澄の苛立ちには気づいていない。今は紗雪のことを思い出すだけで震え上がるほどだ。あんなに綺麗な顔をしているのに、手を出す時は本当に容赦がないなんて。結局、二人は不満げに病院を後にした。もうこれ以上ここにいても、意味はなかった。......日向は、まだ真剣に服を選んでいる紗雪を見ながら、千桜を抱く手にぎゅっと力が入った。ついには我慢できずに声をかけた。「なあ、紗雪、本当に大丈夫なのか?」「私が何かあったように見える?」紗雪はきょとんとした顔で首をかしげる。日向の言っている意味がわからない。その顔を見て、日向は少し気まずそうに説明した。「いや、別に......ちょっと心配になって。さっきの件で、気分悪くなってないかって......」紗雪はふっと鼻で笑い、唇を少し吊り上げた。「まさか。あんな人に左右されるなんて、時間の無駄よ」それを聞いた日向は感心したように呟いた。「......君の言うとおりだ」紗雪は軽く微笑み、それ以上何も言わなかった。彼女は千桜を見つめ、頭をやさしく撫でながら微笑んだ。「さ、どうでもいい人の話はやめにして、かわいい千桜のために服を買わなくちゃ」日向は、紗雪が本当に千桜を気に入ってくれていることを感じて、心が温かくなった。これほどまでに根気強く子どもと接する女性を見るのは、彼にとって初めてのことだった。しかもそれが偽りのない、心からの優しさであることが伝わってきた。紗雪が服を選ぶ姿を見つめるうちに、日向の中で何か名もなき感情が芽生えていくのを、彼はぼんやりと感じていた。二
有紀は紗雪を指差し、信じられないといった表情で叫んだ。「あんた......」紗雪が少し眉を上げると、彼女はすぐに怯えて手を引っ込めた。それを見た伊澄は、心の中で舌打ちする。この役立たず。紗雪は満足そうにうなずいた。「言うことを聞かない人には、これくらいのしつけがちょうどいいのよ」「それにあなた、口が汚いからね。少しは他人のためにも躾けておかないと」そう言いながら、彼女はちらりと伊澄を見た。「次は、ちゃんと人として生きなさい。誰かの腰巾着になんて、ならないことね」こんなに明らかに人に利用されてるのに、それにすら気づかないなんて。こういうタイプには本当に呆れてしまう。大した力もないくせに、わざわざ彼女の前に出てくるなんて。伊澄は紗雪の言外の意味を察し、皮肉っぽく言い返す。「お義姉さん、そんなことして......京弥兄に話したら、どうなるか分かってるの?」すると紗雪は眉をひそめ、冷静に返す。「私のかわいい妹、これは私たち家族の問題よ?」「誰に話すかは、あなた次第。口はあなたのものだから」そう言って、彼女は日向と一緒にその場を離れた。さっきまでの良い気分は、もうどこにもなかった。日向は千桜を抱いたまま、足早に紗雪のあとを追う。すると、ようやく千桜が反応を見せた。日向そっくりの尊敬の眼差しで、パチパチと目を瞬かせながら紗雪を見つめている。後ろからは有紀の悲鳴が響く。「伊澄、手が痛いよ!病院に行かなきゃ......指が折れそうなの!」彼女は紗雪に賠償を求めることすらできなかった。だって、あのときの紗雪の顔、あまりに恐ろしすぎたから。あの一瞬、本当に指をへし折られるかと思った。伊澄は有紀の痛みに歪む顔を見て、内心うんざりしながらも、やはり自分の手下でもあるので、優しく声をかけた。「有紀、大丈夫よ。今すぐ病院に連れていくから」二人はバタバタと病院に向かった。だが診断の結果、有紀の指にはなんの異常もなかった。「そんなはずない!あのとき、すごい力だったのよ!?折れたかと思ったのに......!」有紀が叫ぶと、伊澄もすかさず加勢する。「そうです、先生。もう一度よく診てください。もしかしたら内部に損傷が......」その言葉に、医者は心の中で大きくため