All Chapters of 夫が初恋を守るために私を海に沈めた件: Chapter 1 - Chapter 9

「ドボン……」 大きな水音を立てて、私は豪華客船から海へ突き落とされた。 冷たい水が全身を包み、辺りは静まり返る。 ただ頭の中では、隼人たちの表情が鮮明に浮かんでいた。 彼らは楽しむための旅行中に、紫堂静流（しどうしずる）に渡したネックレスを海に落とした。それだけの理由で、私を海に入らせることを決めたのだ。 口の中の塩辛さが、海水なのか、それとも自分の涙なのかも分からない。 お腹が引き裂かれるように痛む。 「こんなところで死ねるわけない！」と自分に言い聞かせ、なんとか意識を保つ。 この子を守るために、生き延びなければならない。 「隼人！私を上げて！」 か細い声で叫んだが、船の上では誰も取り合ってくれない。 一人の男が私を見下ろして叫ぶ。 「静流のお母さんの形見なんだ、見つけたら上がってこい！」 船の上から、隼人の友人が私に向かって叫んだ。声は大きくなかったが、海の中でもはっきりと聞こえた。 私はその声の主ではなく、目を伏せたまま立っている隼人の顔を見た。 隼人、あなたもそう思ってるの？ 海底に落ちたネックレスを探すことがどれほど無謀なことか、誰よりも隼人はわかっているはずだ。 でも、彼は竹竿をどこからか持ち出してきて、私をさらに海へ追いやった。 「いい子だから、言うことを聞いて」 彼の唇がそう動いたのが見えた。 「ゴボゴボ……」 私はただ漂い続けた。誰も助けてくれない海の中で。 必死に手足を動かし、海草を握りしめる。 海水と涙が混ざり合い、舌先まで広がるのはひたすら苦い味。 それでも、底知れない引力に引きずられそうになる体を何とか持ち上げ、必死で浮上を試みた。 奇跡的に、私は自力で岸までたどり着いた。 砂浜に倒れ込むと、下腹部からは真っ赤な血が広がっていた。 視界の先には、かつて海辺にあったテントももう見当たらない。 私は力なく首を垂れた。 なんて滑稽なんだろう。隼人がこれを見て後悔してくれるなんて、少しでも期待した自分が。 そんなことを考えている間に、意識が遠のいていった。 目を覚ました時、そこは空っぽの病室だった。 「どうしてこんなことに……」 私はベッドの上で呆然と天井を見つめていた。 そこに入ってきた医者が点滴の速度を調整し

私たちが付き合い始めた頃のことを、ふと私は思い出していた。 彼の友人たちとの集まりで、私が川に落ちた時のことだ。 隼人は泳げなかったはずなのに、迷うことなく救命浮き輪を掴み、川へと走り込んだ。 「大丈夫だ、掴まれ！」 そう叫びながら、彼は飛び込んできて私を抱きかかえた。 二人で必死に岸に向かって泳ぎ続けたあの日。 暗闇から一緒に抜け出したような感覚がした。 それが、私が彼を選ぶ決め手だった。 その後、隼人と私は恋に落ち、結婚した。 「小さな集団の中で恋愛するのはやめた方がいい」という言葉を、当時の私は信じなかった。 彼が私を愛していると信じていたからだ。 でも、紫堂の登場がすべてを変えた。 彼女は隼人の初恋で、隼人にとっての愛の概念はすべて彼女に基づいているのだと気づいた。 私は愛に盲目だった。彼が心配しないようにと、泳げなかった私が水泳を学ぶほどに。 潜水ができるようになった後、隼人にその様子を写真で送ったこともある。 その時は褒めてくれたけど、まさかそれが私を苦しめる刃になるとは思いもしなかった。 夢の中で、再び私は海へ突き落とされる感覚に囚われる。 助けを求めても届かない、無力感。 目を覚ますと、現実に引き戻すような医師の言葉が耳に入った。 「もう目が覚めましたね。点滴はこれで終わりです」 ぼんやりした意識の中で、私はうなずいた。 「橘さん、あなたの体はもうこれ以上無理をさせられません。気をつけてください」 そう言いながら医師は水の入ったグラスを手渡してくれた。 私はぼんやりと状況を整理する。 「ありがとうございます」 見知らぬ土地の病院の医師ですら、優しさを見せてくれる。 けれど、私の夫は…… 「……」 ポケットの中でスマホが震える。着信画面には隼人の名前。 私は意を決して電話を取った。 「どうしてもっと早く出ないんだ？」 開口一番、彼の声は怒りに満ちていた。 「病院にいるの……」 その言葉に彼の声が一瞬止まる。沈黙の後、少しかすれた声で聞いてきた。 「子どもに何かあったのか？」 その一言で胸が締め付けられる。鼻の奥がツンとし、涙がこみ上げそうになる。 間を置いて、私は震える声で答えた。 「私が怪我をしたの」

私は、隼人が自宅に戻った後、どんな様子で過ごしているのかを知る由もなかった。 ただ一つ言えるのは、母の腕の中に抱かれたその瞬間、それまで心に積もっていた疲れが一気に消えていったことだ。 父がそっと私の額に手を置き、微笑みながら言う。 「よかった、帰ってきてくれて」 その言葉に、私は涙がこみ上げてきそうになったが、何とか堪えた。 結婚当初、父は隼人との結婚に反対していた。 その時の私は聞く耳を持たず、家族と大喧嘩をして家を出たのだ。 今となって思う。 「家族との間には越えられない壁なんてないのに」 私はそう心の中で呟きながら、静かに目を伏せた。 翌朝、目を覚ますと、母の様子がおかしいことに気がついた。 食卓で箸を置き、私は問いかけた。 「お母さん、どうしたの？」 母は目元の赤みが消えきらないまま、首を横に振った。 「大丈夫よ、気にしないで」 それでも不安が消えず、私はさらに問い詰めた。 「お母さんが言わないなら、心配するだけだよ。お父さん、教えてくれない？」 父は険しい表情を崩さないまま、低い声で答えた。 「隼人が外に来ている」 その言葉に驚き、しばらく言葉を失った。 隼人が自ら足を運んでくるとは思いもしなかった。 まだ紫堂と一緒に甘い夢を見ていると思っていたからだ。 隼人からの責めるような電話が来ることを覚悟していたが、それすらもなく、本人が直接来たのだ。 母が見せた悲しげな表情に、私は胸が痛んだ。 こんな思いをさせたのは、自分の選択のせいだ。 深呼吸をして気持ちを落ち着けると、私はドアへ向かい、それを開けた。 隼人は立ち上がろうとしたが、バランスを崩して倒れ込んだ。 私は無言で二歩ほど後退し、彼を見下ろす。 隼人は顔を上げ、まるで光を見つけたかのように喜びを露わにした。 「知華……」 彼の声には、これまで聞いたことのない響きがあったが、私はそれに応えず、苛立ちを隠さない声で言った。 「離婚届は、もう机の上に置いてある。 あなたのために作るはずだった料理はないし、子どもも……」 その言葉を聞いた隼人の目が暗く曇る。 私は続けた。 「もういない。だから、何の用？」 隼人は立ち上がり、これまでとは違う態度で私を見つめた。 伸

私の両親は、この件に激怒し、ネット上で反論しようとした。 だが、ネット上にはすでに膨大な数の批判的なコメントが溢れ、彼らの声は掻き消されてしまった。 友人たちは、私の精神状態を心配してくれていた。 私は毎日店に出るようにしていたが、ある日、店で客に直接罵声を浴びせられたことで、友人たちは私を店に行かせまいと必死に止めるようになった。 「もしかして、客にまで何を食べるべきか指図するんじゃない？」 そんな冷たい言葉を投げかけられた時、私の中の何かが音を立てて壊れていく気がした。 その頃、ネット上で紫堂の動画が流れ始めた。 それは、彼女と隼人が親密に過ごしている様子を映したものだった。 動画の中で、紫堂はとうとう「真実」を明かすとして、こう語っていた。 「私たちが付き合っていた頃、あの人が私の恋人を奪ったんです。 その時私は、無理に留めることなんてしない方がいいと思いました。それに、その後も私は礼儀正しく接してきたのに、彼女は私を追い詰め続けたんです」 コメント欄には、紫堂を慰める声や、私と隼人への侮辱的な言葉が並んだ。 「こういうのがまさにお似合いだね。ずっと一緒にいればいいさ」 私は、まさか隼人がこの状況を放置しているとは思わなかった。 だが、彼が私の前に現れることになるとは予想もしなかった。 その日、私はちょうど階段を下りてゴミを捨てに行こうとしていた。 隼人と最後に会ってから、それほど時間が経っていないはずなのに、彼の顎には無精髭が目立っていた。 「知華」 彼は私の名前を呼んだが、私は冷たい目で彼を見つめ、淡々と言った。 「何の用？」 彼は手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込め、ぎこちなく言葉を続けた。 「……ごめん。あいつがあんなことを言うなんて、知らなかったんだ」 私は体を少しそらし、笑みを浮かべながら彼を見た。 「知らなかった？……そんなはずないでしょう？」 そう言い放つと、背を向けて続けた。 「彼女がそういう人間だって、あなたはずっと知っていたじゃない」 驚いたことに、隼人は何も反論しなかった。 以前なら、私が紫堂のことを悪く言えば、必ず私を叱りつけていたのに。 私は皮肉を込めた声で言った。 「橘さん、何か用があるならさっさと言ってくれない？私も

その後、隼人も紫堂も、私の生活から完全に姿を消した。 紫堂はネット上の誹謗中傷に耐えきれず、この街を離れたらしい。 一方で、私の営むレストランは少しずつ成長していった。 私は小さなスペースと大きな厨房を構え、毎日限られた数だけ料理を作るスタイルを続けた。 「作りたいときに作り、疲れたら休む」 そんな自由な生活が、私の心に平穏をもたらしてくれた。 料理が終わると、両親のために少し持ち帰ることが日課になった。 母は、私の顔を見て微笑んで言った。 「昔の知華が戻ってきたみたい」 父は相変わらず説教じみた口調で言う。 「過去は過去だ。ただ、どんなに厳しい状況でも、考える力があれば、状況をひっくり返すことだってできるんだ」 私は母と顔を見合わせて微笑みながら、父の話に相槌を打った。 もう隼人が私の人生に現れることはないだろうと思っていた。 だが、ある日、母が何気なく口にした言葉が、それを覆した。 「知華、離婚して正解だったわね」 その言葉に驚き、箸を置いて母を見た。 「お母さん、私たちが離婚したのはずっと前じゃない。どうして今その話を？」 母は箸を止め、少し間を置いて言った。 「隼人が……自殺したらしいよ」 一瞬、瞳孔が大きく開き、驚きを飲み込んだ後、私は目を伏せた。 黙って料理を母の器に盛りながら、静かに答えた。 「ご冥福を祈ります」 それ以上の感情は湧かなかった。 ただ生命に対する敬意が残るだけで、愛する人を失った悲しみはもうなかった。 だって、私が青春を捧げた隼人は、もうとっくにいなくなっていたのだから。 隼人は、かつて知華と長年暮らした家を春の風が吹き抜ける中で見つめていた。 そして静かに背を向け、その場を離れた。 手には、知華と共に選んだ結婚指輪がしっかりと握られていた。 彼は一度、知華が経営するレストランを訪れたことがある。 誰かに依頼して料理を注文し、受け取った。 幸運にも、その日は知華自身が厨房に立っていた。 料理の味は、昔と少しも変わらなかった。 それを食べ終えた隼人は、海へ向かった。 青く広がる海、かつて知華が追い詰められたその場所へ。 彼の頭には、知華が海の中で必死に足掻いていた光景が鮮明に蘇っていた。 そしていつの