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第15話

Author: 如子
修は、とても長くて長い夢を見た。

夢の中で、彼は4歳の頃に戻っていた。隣に新しい家族が引っ越してきて、彼は自分より三ヶ月年下の妹のような女の子と出会った。

彼は、ポニーテールを結び、見た目はおとなしそうなのに、実際はせっかちで元気いっぱいなその子のことがとても気に入っていた。

彼女は彼の手を引いて、いつも一緒に下の公園へブランコを漕ぎに行った。

彼が力いっぱい漕いでも、彼女は「もっと強く、空まで飛んで行きたいの」と言って譲らなかった。

彼女はこっそりお小遣いでお菓子をたくさん買ってきて、半分を彼に分けて、「これは世界で一番美味しいの」と笑った。

彼女は何かトラブルを起こして大人に見つかっても、勇敢に前に出てすべての責任を引き受けた。たとえ叱られても、決して彼のことは告げ口しなかった。

彼はいつも彼女の後ろをついて歩いた。商店街の端から路地の奥まで、何も分からない幼子から、思春期の少年へと、ずっと一緒だった。ずっと仲良しでいようと約束し、やがては手を取り合って結婚した。

彼女は彼のために、迷いもせず無限の可能性を持つ未来を手放した。

そして彼も、親族や友人たちの前で、生涯ただ一人を愛すると誓った。

修は、それが幸せな結末だと信じていた。

だって、すべてのフィクションでは、幼なじみが困難を乗り越え結ばれると、それで終わりだから。

でも、彼が生きているのは映画でも小説でもなく、現実の世界だった。

彼は万能な主人公じゃないし、チート能力なんて持っていない。

彼の人生は、今もなお前に進んでいる。

花や風船に祝福と愛を込めた教会は、次の瞬間には囲いの中の砦となった。

「結婚」という名の銘板が刻まれた、陽の差さない牢獄のような空間に。

かつては永遠に続くと信じていた愛や優しさは、日々のありふれた暮らしの中で、少しずつすり減っていった。

愛が消えれば、別の何かが生まれる。心の中で交代するように。

彼を責め立てるような、夜も眠れないほどの後悔と苦しみは、恋人のどこか病んだような性格の中で、どんどん膨れ上がり、もう抑えられなくなっていた。

彼は悲劇を止められなかった。

瑠奈の両親が亡くなった時と同じように。

彼は彼女の心を救えなかった。

事故の瞬間に戻って、結末を変えることなんて、できるはずもなかった。

彼の心は、暗く湿った現実の中で少し
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    26枚の紙には、26件分の印刷されたメッセージ記録があった。白黒の写真に、長々とした文章が添えられており、それらが一度に修の目に飛び込んできた。そしてそのまま彼の脳裏に流れ込んで、長らく封じていた過去の記憶を次々と引きずり出していく。彼は一枚ずつ手に取り、まずは白黒の写真に目を通した。どの写真も見覚えのあるものだった。中には、長らく電源も入れていなかった彼のスマホの中に、原本が残っているものもあった。すべての写真を確認し終えたころ、彼はこめかみにじんわりとした痺れを感じ始めた。痛くはなかったが、その感覚が彼の意識を鮮明に戻してくれた。散らばった紙を拾い集め、ふらつきながらもなんとか立ち上がり、寝室に戻って灯りを点けた。そして部屋の隅に放り出されていたスマホを見つけ、充電ケーブルを差し込み、電源を入れた。待ち受け画面は瑠奈の写真だった。パスコードは、彼女の誕生日。ギャラリーに保存されていた瑠奈との写真は、わずか十数枚。しかもどれも9月以前のものばかりで、それ以降は一枚もなかった。なぜなら彼の視線は、別の人物に引き寄せられていたからだ。そしてそのレンズもまた、ただ一人の人物だけを捉えていた。撮った写真は彼自身の手で隠され、パスワードを入力しないと見られないようになっていた。そのパスワードは、陽菜の誕生日。数字を押し込むと、画面が瞬く間に切り替わり、数えきれないほどのサムネイルが次々と現れた。彼は延々とスクロールし続け、ようやく一番下まで辿り着いた。紙の上のぼやけた画像と見比べながら、修は該当する写真を次々と見つけていった。服装、撮影場所、背景の風景、どれも一致していた。これらの写真は陽菜が彼のスマホで撮ったもので、そこから彼女が気に入ったものを自分に送信した。残った分は、彼がそのままロックをかけて隠していたのだった。本来であれば、この写真を第三者が見ることはあり得ないはずだった。修には家庭があり、身体に障がいを抱えた妻もいたからだ。だから、故意であれ無意識であれ、このアルバムにある写真は決して外に漏れてはならなかった。だが彼が気付かぬうちに、それらの写真は、噂の中で「彼が心から愛していた」妻の手に渡っていた。瑠奈はそれらを印刷し、書斎に残した。いつか彼自身の手

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    このところ、堀尾母はずっと瑠奈のために墓地を探していた。遺骨すら残っていないとはいえ、彼女を孤独なままにしておくのは忍びなく、やはり土に還してあげるべきだと考えていた。何度も見て回り、ようやく南山の方にある陽当たりのいい区画を見つけ、購入した。瑠奈は旅立つ前に自分の物をすべて処分していたが、幸いにも結婚の際に義母へ贈ったブレスレットだけは残っていた。堀尾母は、そのブレスレットを墓地に納め、供養するつもりだった。今回修の家に来たのは、遺影のコピーを取って墓碑に貼るためだった。年中行事のたびに彼女を弔いに来られるようにするためだ。だが、そこで思いがけず瑠奈の死の真相を知ることになった。心の中は混乱し、どう向き合っていいのかわからなかった。もはやこの息子の顔を見たくもない。少し冷静さを取り戻した頃、彼女は床に崩れ落ちている修を一瞥もせず、まっすぐ部屋へと入っていった。数日空いただけで、部屋の中はまたしても乱雑になっていた。彼のために片付けようとも思わず、彼女は真っすぐ寝室へと向かい、遺影を探し始めた。だが、隅々まで探しても見つからず、今度は書斎へと足を運んだ。修は母が何を探しているのか分からないまま、黙ってその後をついていった。堀尾母がプリンター横の引き出しを開けたとき、中に整然と並べられていたものを目にし、母子ふたりは同時に息を呑んだ。厚みのある紙の束が、整然と並べられていた。一番上の一枚には、びっしりと文字が書き込まれていて、「遺願リスト」の五文字が彼の目に飛び込んできた。彼の脳裏には、スイス行きのチケットを手配した翌日、瑠奈が机に向かい、一字一句丁寧にこの文字たちを書き記していた姿が浮かんできた。彼女はその日、妙なことを口にして、彼の心をざわつかせたのだった。「こんなに楽しそうに笑うの、久しぶりに見たわ」彼女が何かに気づいたのかと焦った彼は、その言葉には触れず、話題を変えるしかなかった。だが今思えば、それは単なる過去を懐かしんだときの、何気ない一言だったのかもしれない。けれどその何気ない一言が、幸せそうに見えた二人の結婚生活の表層を剥ぎ取り、中に潜んでいた腐敗を露わにしたのだった。すべてを失ってから過去を振り返って初めて、修は気づかされた。自分の無理な笑顔を、瑠奈はち

  • 初雪の日にあう君   第21話

    この平手打ちで、修は目の前に星がちらつき、体が壁にぶつかった。母親の怒りと嗚咽が混じった声を聞きながら、彼は固まったまま、もう一度も顔を上げて彼女を見ることができなかった。この沈黙は、すなわち認めたも同然だった。堀尾母は瑠奈の自殺に何かおかしなところがあるとは感じていた。だが、まさかその元凶が、自分の息子だったとは夢にも思わなかった。何も言い訳をしようとしない修を呆然と見つめ、彼女の目に燃えていた怒りは徐々に消えていき、代わりに言葉にできないほどの失望と信じがたい感が心に満ちていった。全身を震わせながら、彼女は鋭く叫んだ。「どうして……どうしてあんな馬鹿なことをしたの!?あの子があんたの命を救ったこと、もう忘れたの!?あんたが処分されることになっても一緒にいたいって言ってたじゃない!あの子を最後まで大事にすると私に誓ったよね!?こんなことして、江崎家の人たちに何て顔向けすればいいのよ……!」肉親からの痛烈な叱責に、修はもう耐えられなかった。体からすべての力が抜けて、彼はそのまま壁にもたれかかって崩れ落ちた。もし、瑠奈の死を知ったあの日に彼の魂が死んだとすれば、今日、自分の暗い心の奥を他人に暴かれたこの瞬間は、彼の心が腐り始めた日だ。そしてその「身体の死」は、もっと前に訪れていた。初めて陽菜の誘いに応じた、あの日から、華やかな衣装の裏に隠された、死斑だらけの体。それがようやく、太陽の光に晒されたのだ。これがすべて、自分が受けるべき報いだった。堀尾家と江崎家は、18年間の隣人だった。堀尾母はずっと娘を望んでいたが、その願いは叶わなかった。だから堀尾家が引っ越してきて初めて、あの幼い元気な瑠奈を見たとき、彼女はひと目で気に入った。瑠奈と修がどんどん仲良くなっていくのを見ても、大人の目を盗んで交際しているのを察しても、彼女は何も言わずに黙認してきた。だが、修が校則違反で処分されたとき、二人の関係はついに公になった。両家の親が集まり、この件をどうするかを話し合った。その時の大人たちはみな真剣な顔をしていたので、修はてっきり自分たちを引き離そうとしていると思い、突然その場でひざまずいて誓った。瑠奈とは一緒に育ってきて、お互いしかいない。絶対に変なことはしない。二人で勉強して、同じ大学

  • 初雪の日にあう君   第20話

    修は、陽菜がここまで取り乱し、傷つけるような言葉を吐く姿を、初めて見た。彼の記憶の中では、初めて出会った時から彼女は常に明るく、礼儀正しく、卒業したての学生だけが持つエネルギーを全身にまとっていた。彼女の身振り手振り、語りかける口調、そして見つめてくるあの澄んだ目の奥に、彼はいつもかつての輝きを垣間見ていた。誰もが瑠奈の無惨に壊された将来を惜しんでいた。そしてその矛先は皆、修に向けられた。彼に全ての責任を負わせようとする非難が、道徳という名の鎖となって重くのしかかっていた。彼が背負っていたのは、自分と瑠奈の未来だけではなかった。世間の非難、そして己に対する嫌悪と後悔、それらすべてだった。あの事故の後、彼は一度も安眠を得たことがない。果てしない悪夢に苦しめられるか、もしくは朝まで眠れぬまま天井を見つめていた。瑠奈と離れるつもりはなかったし、自分の責任からも逃げるつもりはなかった。事故の前も、事故の後も、その気持ちは変わらない。けれど、人生は残酷だ。瑠奈は次々と襲い来る不幸に心を折られ、修もまた、変わり果てた現実の中で崩れていった。ただただ、沈むしかなかった。死んだような結婚生活の中、繰り返される無意味な日々の中で、彼は輝いていた日々を、18歳以前の瑠奈を、そしてもう戻らない過去を恋しく思っていた。彼が惹かれていたのは、陽菜という「人間」ではなく、彼女がもたらした、この腐りきった日常とはまったく異なる、生きた「空気」だった。彼女と一緒に過ごすその一瞬一瞬が、修にとって唯一の逃げ場だった。問題が発覚した時、どれほどの波紋を呼ぶかも、瑠奈がどう思うかも、彼は想像できていた。それでも、恐れや罪悪感に苛まれながら、ほんのひとときの安らぎを、つい求めてしまった。毎回「これが最後」と自分に言い聞かせながら、何度も通い詰めるうちに、感覚は鈍くなり、もはや依存するようになっていた。そして、すべてが取り返しのつかない段階になって、ようやく目が覚めた。過去に浸る修のまわりには、空気すらも止まったかのような沈黙が満ちていた。そんな彼の、魂の抜けたような姿、何も語らぬ冷たい態度を目の当たりにして、陽菜の怒りは頂点に達した。「死んだ人のために、このまま堕落続ける......」言い終える前に、ずっと黙っていた修が突然顔を上

  • 初雪の日にあう君   第19話

    この日を境に、修は自らを家に閉じ込め、二度と外に出なかった。時折訪ねてくる母親以外、誰とも会わず、誰からの連絡にも返事をしなかった。部屋のあちこちには空になった酒ビンが散乱していた。酒で神経を麻痺させることで、終わりの見えない苦しみに満ちた命をなんとか引き延ばしていた。1月21日。長らく静まり返っていた玄関の扉が、突然叩かれた。宿酔いの中で目を覚ました修は、虚ろな瞳で壁に映る光と影をじっと見つめたまま、ぼんやりしていた。外の人物は根気強く何度もノックを繰り返し、しばらく止む気配もなかった。音は聞こえていたが、彼はまるで聞いていないかのように微動だにしなかった。正午過ぎ、ようやく骨ばった身体を引きずりながら玄関に向かった。三時間もドアを叩き続けた陽菜は、すでに我慢の限界を迎えており、苛立ちをぶつけるように力任せにドアを叩いていた。不意に扉が開いたその瞬間、勢いを止めきれずに彼女は前のめりに倒れ込んだ。修は反射的に腕を上げて身を守り、彼女との距離を保った。その目に浮かんでいたのは、ただ冷ややかな光だけだった。「……何の用だ」久しぶりの再会だったのに、まさかここまで冷たくされるとは思ってもみなかった陽菜は、一瞬悔しげな表情を浮かべた。だがすぐに顔を整え、心配そうな優しげな表情に切り替える。「修……連絡が取れなくてすごく心配してたの。大丈夫なの?」修は視線を逸らし、彼女と目を合わせず、淡々とした声で言った。まるで初対面のような、距離を感じさせる丁寧さだった。「……大丈夫だ。帰って。もう二度と連絡しないでくれ」その言葉を聞いた陽菜は、すぐさま焦りの色を見せ、彼の手を強く掴んだ。「今の修がどれだけつらいか、わかってるから来たの。傍にいてあげたいの。お願い、私を拒まないで……」その手が触れた瞬間、修は電気に打たれたかのようにさっと引き下がった。数歩後ろに下がると、険しい表情のまま彼女を見据え、低く冷たい声を吐き出した。「君の気遣いなんか、要らない」「どうしちゃったの……?私たち、一緒に旅行に行く約束までしてたのに。もう忘れたの?」その言葉に、修の中で封じ込めていた記憶が一気に溢れ出した。あの窒息するような感覚が、またも胸を締めつける。彼の呼吸は乱れ、怒りを押さえきれ

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